← 5 月と 6 月の1行日記  

4 月30日、今日は、祭日と言っても、特段、何があるというわけでもないので、普通に研究の日とする。研究と言っても、何かウンウン考える訳ではなくて、殆どの時間が仕入れに費やされる。オリジナリティというのは、何かの瞬間に降って来るものだから、それを目当てに活動してはいけない。単純に、誰かの敷いたレールの上を、努力をもって先へと進もうとする活動を避けるだけで良いと思う。レールのある所までは、サラリと頭に入れるにしても、大抵、みんな、楽に到達できる所までは解析しているものなのだ、その先には茨の道しかない ... ことが多い。例外のない法則はないとも言われるけれども。

4 月29日、月曜日ということは、今日もどんどんプレプリントが出てくるという事だ。明日の火曜日は特に要注意で、連休前に滑り込み・駆け込みで投稿されたプレプリントが、山のように積もっているかもしれない。この arXiv リストを見始めた頃は、まだ論文数も少なくて、中身をじっくり読み込む時間もあったのだけれども、最近では題名と Abstract を眺めるのが精一杯になって来た。もちろん、これはと思う論文は読むし、結果的にレフリーに回って来る場合も時々ある。余談ながら、レフリーコメントを、依頼の数時間後に返したこともあって、Editor に不審がられたのではないかと、後になって思った。

4 月28日、神戸の祭り、自治体や外郭団体、消防など様々な公的なブースが出ていて、地味ながら色々と楽しんで回ることができる。防災が中心的なテーマだ。今日、神戸の催しで色々と見て回った中で、特に記憶に残ったのが、廃棄物から作る固形燃料の展示。近畿大学での研究の1つだ。植物性のクズならば、加熱・加圧して、石炭のようなペレットにしてしまえるのだそうな。実物を見たら、確かにプラスチックそのもの。20 Mpa で 200 度 (摂氏) より少し低い温度を保つと、自然に重合するらしい。一番驚いたのは、加圧加工する機械をトラックに積んで、現場に展示してあったこと。工学系は予算の桁が違うなーと、感服した。

4 月27日、新学期に、久しぶりに板書だらけの講義をしたら、肩が凝った。凝りが生じたら、そこを動かせと、よく聞く。というわけで、ちょっと空いた時間に、黒板の掃除を行ってみた。まあまあの天気の土曜日に黒板に向かう、これまた楽しいではないか。最初は、浮いているチョークの粉の、注意深い取り去りから。これはまあ、そんなに苦労しない。テープの類が、ほんの少しずつ、残っている、そんな箇所はまずテープ剥がしから。ちょっと難儀だったのが、黒板の端や、四隅。チョークの粉が貯まり易い場所で、これにはハケかエアか、あるいは水拭きが必要だ。一番難儀だったのが、手の平の油。どういうわけか、ワックスのように黒板をコーティングしてしまっている。結局、最後まで、このテカリは取れなかった。雪辱を期すのみ。

4 月26日、MacBook Pro の、パッドが大型化して、キーボードを打っている間にマウスカーソルが「飛ぶ」現象に遭遇してから、左手首のみを下ろし、右手首は上げて打っていた。これはポジションを悪くする姿勢で、打鍵の正確さが犠牲になってしまう。もちろん、教科書的には両手首とも浮かすのが基本だ。基本は基本として、ずーっと手首を上げていると肩が凝る。さて、最近ふと両手をおろしてみると、マウスカーソルが飛ぶ現象が起きない。あらあら、OS のアップデートで、この辺りの処理も改善されていたのだ。まあ、カナで打つ時には、右手を浮かさないと厳しい面もあるのだけれども、時々は右手も休ませることにしよう。

4 月25日、物理の学習で、離散的なものが、結局は連続となる、という現象の理解には、熟考あるいは体験が必要かもしれない。例えば、傘で強い雨を受ける時に感じる時の、傘の重さ。普通の雨だと、風圧の影響の方が大きくて、また、濡れたら少し重くなる程度だけれども、強い雨になると、雨粒が傘に与える運動量が無視できなくなる。単位時間あたりの力積が、力として傘を上から押し込むことになる。ホッパーからベルトコンベアーに砂を落とすという現象も、これに似ている。ベルトコンベアーが常に仕事をしていて、また、ベルトには力がかかり続けている。これを、エネルギーから考えて行くか、運動量から考えて行くかは、好き好きなのだけれども。物理現象は、幾つかの視点から眺めて、同じ答えに至ることを確認することで、初めて安心できるものなのである。

4 月24日、道端の雑草、いまどきの見頃はタンポポの綿帽子。綺麗に丸く広がる。どうして、あのように丸く広がるのか、まず物理的に不思議。同じように、パッと開く構造物が作れると、宇宙で役に立ちそうな気がする。そして、あの丸く広がる幾何学に潜む数学。フィボナッチが、例のごとく見え隠れしているのだろうか?多面体のようには見えないし、空間群があるようにも見えない。生物学的に、丸く広がることの意味は?動物の注意を引くには、やっぱり丸くないとダメなんだろうか。人類の祖先の子供達が、楽しんで刈る内に、丸いのだけが生存競争に打ち勝ったとか?そんな想像をしつつ、カメラを向けた。

4 月23日、当たり前ながら、ついつい忘れていたことの確認。歩行者として自動車に近づく時には、ドライバーをよく見よ、ということ。遠くから近づいて来る自動車は、力学法則に基づいて避けることが可能だし、十分に余裕がある。が、停車中とか、徐行中の自動車が、どう動くかは予測が付き辛く、ドライバーが的確なサインを事前に出すかどうかも、よくわからない。最近、特に注意しているのが、ハイブリッド車の動き。低速の加速が非常に速い ... いや、半クラッチに特有の「鈍重さ」がない。そもそも、自動車に近づくのが危険行為なのであって、視界のどこにも自動車が居ない場所を、サッサと移動するのが良い。ちなみに、週明けからは、何となく、停車中のバスの運転手も確認するようになってしまった。

4 月22日、脱酸素材、素晴らしい発明である。ええと、酸素を吸う化学物質は、ずーっと昔から知られているし、それを使って無酸素環境を作るという事も、ずーっと行われていたのだけれども、それを小さなパッケージに入れて、食品の保存に使おうという考え方が素晴らしい発明だ。これは、穴の (あまり) 空いていない樹脂製のパッケージの発達にも追う所が大きい。紙袋に脱酸素剤を入れても、何の役にも立たないのである。さて、この脱酸素剤、数多くの食品の賞味期限を劇的に伸ばした。その結果、賞味期限切から後、実際に食味が落ちる、あるいは有毒となってしまうまでの時間も伸びたのである。廃棄されるべき食品 (?) も、まだまだ美味しく。貧乏根性こそ科学の礎。

4 月21日、ヘクソカズラ、という不名誉な和名がついたツル植物がある。厄介な雑草で、ツルがどんどん伸びて、どこまでも広がって行き、根を要所要所で下ろして、球形のコブを作って、乾燥や寒さに耐える。このコブが頑強で、手で引っ張っても抜けないことがある。プライヤーやペンチで挟んで、よっこらしょ、と、抜くことになる。ようやく駆除したと思っていたら、また、その辺りに潜んでいたコブから生えて来るのである。完全に抜き去るには、地道に抜いて、ネットワークを根絶する以外に手がない .... ということは、生えている場所の全てに、立ち入れるような隙間を作る必要がある。これが、ヘクソカズラを抜く以上に大変な作業かもしれない。

4 月20日、新大阪はどんな所?新大阪駅を何度利用しても、それは JR 東海道線への乗り換えの為であった。降りたらどんな場所なのだろうか?と、降りてみても、あまり何もない。というのも、伊丹空港への進入路の真下にあって、あまり高層の建物が建てられないし、梅田とは淀川を挟んだ離れの位置になっているからだろう。商業設備はあまりないのだけれども、貸し会議室などは、結構たくさんある。また、淀川の河川敷まで行くと、そこは球場だらけ。都会に流れる一級河川だけあって、河岸や土手の管理は行き届いている。税金の使い道は、こうだよなーと思うのは、昭和の土建屋的発想なのだろうけれども、率直に、そう感じた。

4 月19日、トイレットペーパーを斜面の上に置いて、転がす ... という問題。斜面が短ければ、単純に転がる問題なのだけれども、斜面が長くなると、ロールが細くなって行く影響が無視できなくなる。加速度が、ロールの太さによって変わって来るのである。これは、ロールの中心が中空であることから生じる難儀さで、ド真ん中まで紙で詰まっていれば、このような面倒は起きない。斜面が垂直に近かったり、そもそも斜面がなくて垂直に落ちる場合は、そもそも、紙がロールのどの位置で離れるか?という、更に微妙な問題が生じる。こういうのは、解析計算が追いつかない問題だから、シミュレーションしてみるのが近道なのかなー。研究テーマにしようか?!

4 月18日、野菜や果物では、産地直送がけっこう広まって来た。お菓子も、生産者と消費者の距離が、そんなには離れていない。色々と、カスタマイズ可能であったり、普段は目にしないようなものも入手できる。安価であるか?と言うと、そうでもない。個別に応対する手間とか、売れるか売れないかわからないという、確率的な揺らぎの大きさも、影響しているのだろう。パソコンも、大きなデスクトップであれば、零細業者の産地直送がある。いや、デキる人なら、材料を拾ってきて組み上げてしまう。これは、それなりに安いには安いのだけれども、そうやってパソコン支出が節約できているか?というと、さにあらず。ドンドン、パソコンに財力労力を注ぎ込んでしまうのである。結局、経済原則というものは、この「欲しい、創りたい」というものから生じているのだろうな、と、感じる日々である。

4 月17日、仮想現実で学び易い物理と、学びづらい物理がある。力学は、仮想現実が大いに役立つ物理分野だろう。我々が、台の上に置いた物体にかかる力を学ぶ時には、作用点だとか、力の向きなどをベクトル量として習った。が、台にかかる圧力とか、台そのものにかかる力の分布だとか、変形だとか、そういう所は「問わない約束」であるにせよ、見てみよう、調べてみようと思っても容易には手が出ないから、結果として何も学ばなかった。そこが見えると、とても有り難い。仮想現実でシッカリと見ると、理解が比較的難しい「摩擦力」にも、理解を促進して行くだけでなく、専門家の目から見ても、新しい発見があると思う。電磁気学なら、もっと効果があるだろう。方程式はわからないけれども、効率の良いアンテナを作る職人とか、現れそうだ。

4 月16日、桜の大木に近寄ると、根元から生える沢山の芽に気づく。大木にもなると、そろそろ枯れるのが桜の宿命、こうして根元から次の幹になる部分を作って行くのだろう。山にわけ入ると、このような過程を経て、何本もの幹が群生した桜に出会うことがある。樹形から見ると、決して見栄えの良いものではないし、根が偏っていることもあって、台風などで倒れ易い、あるいは倒れた跡があることも。ただ、ともかく、単純に枯れてしまうのではなく、しぶとく生き残る所に桜の木の本性があるような気がする。決して、弱々しい植物ではない。ただ、移植しようとすると、一発でダメになる。この辺りは、まだまだ研究し甲斐があるかも。

4 月15日、松の新芽が一気に伸び始めた。職場の脇に生えている、というか、生えてきた松も、続々と芽が出ていて、そのまま放置すると悪しき (?) 徒長へとまっしぐらとなる。教科書的には、一番強い芽をまず折れ、上に伸びる芽は取れ、一箇所から2本くらいしか残すな、マズい方向に伸ばすな、という作業となる。そのまま実践して、うまく行った試しがない。そもそも、植物は伸びたい方向に伸びるのであって、どう新芽を追っても、最終的にはその方向へと育って行く。しつこく矯正し続けると、枝ごと枯れてしまい、ますます不恰好な樹形となる。庭師は、きっと、このバランスを上手く取って、そこそこ伸びたい方向に、伸ばしてあげるんだろうなー。

4 月14日、コンデンサーの端から「はみ出る」電場は、コンデンサーの極板が十分に広ければ、無視して良い --- と、教わることが多い。とりあえず、コンデンサーの容量には、あまり関係しないからだ。ところで、コンデンサーの極板を、板と平行方向にズラすには力を加える必要がある。教科書的には、板がずれると容量が変化して、電場のエネルギーが増加するか、接続されている回路に仕事をすることになるから、という理由で答えることになる。この力は、もちろん、電場のマクスウェル応力から説明できる。ということは、極板の端っこ付近の事情が絡んでいるということだ。似たような物理過程で、コンデンサーの中に誘電体や導体の板を挿入して行くというものがある。これも、板の端っこで、電場がグニャリと曲がっているわけだ。この辺りの学習は、仮想現実で電磁気学を学ぶ時代になれば、当たり前のように「直感的理解」が育って行くのだろう。

4 月13日、夏みかんをむくと、種ばかり集まる。乾燥重量の半分くらいは種なのではないだろうか、と、思えるほど種がある。いや、種と実の分量の比を考えると、柑橘類で一番大きいのは、キンカンとかスダチだろうか。何にせよ、オレンジなど丸ごと食べる類の柑橘類以外は、種だらけなのである。種なので、捨てると勿体ない、その辺りの空き地にバラまいておく。すると、芽が出てきて、やがて、正体不明の実がつく、正体不明の成木となる。自然の状態で、実がボテッと落ちると、そこで腐って、うまく割れれば芽が出てくる。硬く乾いてしまうと、芽吹くことはなくなる。発芽は運次第なのだと、自然に学ぶところが大きい。

4 月12日、関数 cos x を、-π/2 から π/2 まで定積分すると 2 になる。では、n が偶数の時、(cos x)^n つまり cos x の n 乗を同じ区間で積分したら?こういう計算の速さは、たぶん、大学入試をくぐり抜けた直後の新入生が、一番速いだろう。大学でノンビリ過ごす内に段々と「解法」を忘れてしまって、何年か経つと、取りつく島もなくなってしまう。理工系の一部で、複素関数論を習った人は、その、習った時からしばらくの間は、特異点まわりの積分経路をうまく取る術を駆使できるけれども、やがてこれも忘れてしまう。次に思い出すとしたら、実際に何か、計算する必要ができた時か、あるいは人に教える必要にかられた時だ。今日は、(cos x)^n にどんな係数を掛ければ、デルタ関数へと移り変わるかを、行き当たりばったり考えてみた。こんな単純な関数からデルタ関数が出て来るのだから、二項展開は侮れない。

4 月11日、ブラウザーのブックマーク、よくよく見ると、リンク切れのガラクタばかり溜まっていて、しかも、ほとんど全てについて、一年間、いや、ここ十年間、全くアクセスしていない。それは当たり前のことで、検索がここまで進化してしまえば、個人のブックマークなど、無意味なのである。というわけで、バッサバッサと、ブックマークを消して行って、とてもスリムなものにした。必要であれば、また検索して加えるまでのこと。パソコンの中身のファイルも、同じような状況に陥っている。ほとんどがガラクタで、全く利用価値がない。パソコンに何かを溜め込むという事自体が、記憶容量が貧しい頃の「記録は資産」という、どうしようもない誤認識に基づく行為であったのだろう。かくして、考古学的発掘が全くない暗黒時代へと、自分の生活もシフトすることにした。

4 月10日、統計力学の講義、とても早い段階では、量子力学の片棒を担ぐ必要がある。古典統計力学から話を始めると、別に量子力学は必要ないではないか?という意見もあるだろうけれども、その場合には、位相空間の体積を何か「ある量」で割って、場合の数を勘定しなければならない。その「ある量」が何であるか?という点に意識を向けると、結局は量子力学が登場してしまうのだ。これは理想気体でも、調和振動子でも同じ事である。というわけで、アレコレと量子力学を語ろうとして、ハタと。ブラケットを使うか、シュレディンガー方程式で行くか。量子力学の講義ならば、迷わずブラケットなんだけどなー。

4 月 9 日、小学校の給食、スープに入っている野菜の味が大嫌いであった。野菜が嫌いという訳ではなくて、給食の野菜スープの味が、イケてなかったのである。どうやったら、あの何とも言えない風味になるのだろうかと、工夫(?)を重ねてみて「再現」に成功した。いや、実は、偶然にそうなってしまったのだ。野菜スープを強火で比較的長い時間炊くと、野菜の持っている青い香りや花のようなアロマが全部飛んでしまって、最後に焦げた糖分のようなカラメル臭が立ち始める。まさに、その臭いだったのである。そうか、給食室の大釜で煮る時に、撹拌が不十分で、焦げていたのだ。昔だったら、遠ざけていたその焦げ臭、まあ何となく食べられるようになったのだから、要するに味覚・嗅覚が鈍感になってしまったのだろう。

4 月 8 日、満開となった大学構内は、お昼休みのお弁当会やら、講義が終わった後の SNS 撮影会 (?!) だとか、なかなか賑やかな光景となった。この桜も、ほとんどが今日まで。明日には、葉が目立って来て、桜のシーズンはおしまい。ちょっと遅れてやって来る、八重桜を除いて。そして、今日から本格的になるのが、クラブ活動。まだまだ勧誘中のシーズンだけれども、勧誘中の活動が最も入念であるという不思議なサークルなどもあって、この時期の昼休みや放課後は賑やかだ。twitter などで見る限り、大学の部活動は、週に2回程度という所が多い。下宿生も居るし、生活基盤を築く必要もあるだろうから、毎日というのは無理。この辺りが、中学・高校の部活動とは、ちと違う所だろう。

4 月 7 日、紙の上でコインを滑らせる実験を考える。摩擦力が物体に対して行う仕事、これは計算できる。では、物体は何に仕事をしたの?と、問われると、一瞬、?マークが頭を通り過ぎる。初等的な物理学で納得できそうなモデルを考えるならば、接触面に小さなバネかピストンが並んでいて、それらを縮める仕事をしながら、物体が通り過ぎて行くという描像が、もっともらしいものだろう。そして、それらに蓄えられたエネルギーは、熱として解放されるわけだ。このあたりの面倒な所が、摩擦力について、様々な、そして不毛な議論を引き起こしてしまうのだろう。「された仕事、した仕事」という差し引きゼロの勘定で考え始めると、直ちに沈没する。

4 月 6 日、空に向かって、飛び去って行く様々な形の泡を、公園で開催されたイベントの出し物で見かけた。どうなってるんだろう?と、仕組みを見てみると、界面活性剤にヘリウムを吹き込んで泡を作って、盛り上がって来た所で型を通して、サッと棒でスライスして出来上がり。そのまま、浮力で空中へと飛び去って行く。ヘリウムボンベが数本、転がっていた。ヘリウムの「正しい使い方」の、ひとつなのだろう。潜水のボンベに使ったり、物理学や工学の実験に使ったり、アレコレと引き合いの多いヘリウム、なかなか貴重。空中に飛び去ったヘリウムは、(採算を考えると)もう回収できないよなー。

4 月 5 日、動物の大きさと質量の関係はどうなっているか?という問題を、ちょっと考えてみた。エビとか、甲虫などは、きっと「身長」の3乗で質量が増えるのだろう。エビの身が、その大きさの3乗で増えて行くかどうかは怪しい。外骨格の場合、円筒的な部分、平板な部分、球的な部分で、必要な機械的強度が異なって来て、いちばん危ない平らな部分の補強が必要なことから、だんだんと殻ばっかしの体になって行く気がする。ほかにも、循環器系とか呼吸とか排熱とか、色々と考えるべきことがある。人間の場合、2 m の人が 100 kg だったら、1 m の子供が 12.5 kg かというと、いや、もっと重い。生き物は難しいものだ。

4 月 4 日、今日は入学式、スーツ姿の新入生さん達が目立つ。山の上の、立派な校舎が並ぶキャンパスでは、門前での撮影会に行列ができていた。確かに、あそこくらいしか、神戸大学にやって来ましたという事実を、誰にでもわかってもらえる場所は、ない ... いやまあ、あるにはあるのだけれども、あまり知られていない。ガイダンスも一段落して、今日はめでたく祝って、明日から授業開始、だけど、早速週末がやって来る。まあまあ、ノンビリとしたスタートで良いのだと思う。今年は特に、連休が長いので、何となく、今からもう、連休に向けてノラリクラリと仕事をするような気分に陥ってしまう。イケナイ、イケナイ、サボったツケは、必ず後か自分に降りかかって来るのである、今できることは、今しておこうと思った。

4 月 3 日、励むという漢字、奨励などの熟語では「れい」と読む。その「励」の字の、左半分をよく見ると、元号にも使われている「令」の字を45度回した形に、よく似ている。これは偶然の一致にしては、出来すぎていると「気がついて」、漢字の成り立ちを仕入れに行く。検索してみると、その左半分は崖を表す象形と、サソリを表す象形に由来する萬の字であって、ひざまづく人を表す令とは関係ないことが判明した。というわけで、本日の「発見」は、幻となってしまった。個人的には、漢字のことを何も知らないなーというのが発見であった、とも言える。山を超えた遠くからは、大発見のニュースも飛び込んで来て、世の中、色々と動いているなーと感じた。

4 月 2 日、寒気が流れ込んで、にわか雨が降る。出歩くには難儀だ。が、水やりの手間が省けるとか、桜が長く咲くとか、とりあえず様々な草花・木々の花粉飛散が抑えられるとか、まあまあ悪くはない効用もある。西日本、それも瀬戸内海側では、寒いと言っても氷が降ってくる訳ではない。北日本へ行くと、モロに降雪となる。昔、仙台で何度も春の雪に遭遇して、慣れるまでは「北国」と感じたことを思い出した。その、北国の新学期では、「物理学実験」という科目を受け持った。週に2回、昼休みの後から6時くらいまで、一年生または二年生の基本的な実験の進行に付き添う。物理は実験してみてナンボのモン、というのは、その通りだと思う。

4 月 1 日、旧年度のうちは秘密だけれども、新年度になったら守秘義務が解けるから、どこに書いてもいいよ、という類の案件は良くある。今日は、その大きいのが、解禁日を迎えた。こういう風に、大っぴらにできる案件は稀で、大抵の場合は、秘密ではなくなったけれども、しかしながらズケズケと公言して良いと言うものでもない、そんな感じだろう。だいたい、おおよその生業では継続が重要であるから、去年まではこんな具合だったとか、あれこれ公言するのは無用にして労力の無駄遣いなのである。誰も興味を持つものではないことが多いものだ。このように書くと、何か秘密を抱えていたのかと、問われるだろうけれども、残念ながら、そんな要職は、ヒラ研究者には巡ってこない。

3 月31日、日曜日、スケートの動画など、ボーッと見て過ごす。大きな大会で活躍している選手は、もちろん普段から地道に練習を重ねている。それも、練習の最初や折々に、初心者が最初に習うサークル (円形の滑り) などを、教科書から切って出したように美しく、そして速く正確に回る練習を繰り返している。華麗な演技を支えているのも、あの深くロスのない、いや常に氷を押しているエッジワークなのだと、しみじみ感じるのであった。ときに、昨日チラリと触れたスケート場の転倒事故、そう言う場面で一番に駆けつけてくれるのが、リンクで練習している選手であることが、とても普通の光景だ。オリンピック選手とご対面、と言うことがあるかも。但し、地味な格好でマスクをしていると、有名な方だと気づかないかもしれない。

3 月30日、今期、神戸での滑り納め。今年も、氷上では様々なことがあった。毎週末によく起きたのが、転倒による怪我。決まって、手摺りのそばで起きるか、手をつないでいる2人のどちらかが犠牲となる。バランスを崩して、氷に体が投げ出される時、受け身の姿勢が取れなければ、最後に自分を守るのが、手を突くこと。手首や肘を骨折したとしても、頭を強打するよりはマシだ。が、2本ある手のうち、片方を手摺りや、他人に預けていると、それを使えない状態で氷に激突する。手をつないでいると、巻き込まれて転倒した他方が不意を突かれたり、下に敷かれたりと、危険な状況にもなり易い。スケートは、まず正しく靴をはき、ゴムの上で歩けるようになってから、注意深く氷に降り、手摺りを握らずにトコトコと感触に慣れる。そんな所から始めるよう、一応の掲示でもできないものかと思ってしまう。もっとも、滑れない状況が楽しい、というグループも良く見かけるので、何とも言い難いのだけれども。

3 月29日、甘いものには、甘くなるだけの「分量」というものがある、普通は。砂糖がどれくらい甘いかを知っていれば、甘い砂糖水を作る時に、水に加える砂糖の量が感覚的にわかる ... と言いたいけれども、意外と砂糖水は甘くない。特に冷たい砂糖水はクセ者で、さらさらっと飲めてしまう。不思議に、けっこう甘さが目立つのがハチミツ。酵素の働きで分解しかかっているのだろうか?そして、激烈に甘いのが、某国産の紅茶ティーパックのお茶。そんな小さなティーパックから、甘い水溶液ができるハズがないのだけれども、飲んでみると甘い。その正体は、プロテインもどきの甘味料であった。よくよく思い出してみると、その手の甘さには、けっこう接している覚えがある。様々な食品に、既に幅広く使われているのだろう。

3 月28日、よく、論文に虚偽があったとか、剽窃があったとか、ニュースになる。実の所、多人数で論文を仕上げる作業には、この手の危険が散りばめられているのだ。メンバーの誰かが「うっかり」あるいは「確信を持って」おかしなデータや図表を作成してしまうと、周囲から見破ることは、そんなに簡単ではない。だから、論文を仕上げるにあたっては、ものすごく注意を払って全文を読むのである。何かおかしな所はないか、わざとらしい所はないか、客観性を失っていないか。だいたい、読みづらい構成になっている所に、そのようなものが潜んでいる場合が多い。論文が「論」なのは、そういう薄氷を歩む作業に基づいているからかもしれない。大多数が認める所になれば「説」となるわけだ。

3 月27日、リンゴが今の時期にも、まあまあ美味しく頂戴できるのは、貯蔵技術の進歩なのだろうか。もっとも、ハズレに当たることも既に多く、切ったら芯が腐っていた、ということも。こういう場合、腐った部分だけでなく、全体がマズくなっている場合が多い。なぜ、一部部分の腐れが、全体から風味を損なってしまうのかは謎だ。あるいは考え方が逆で、全体がそのような状態だから、芯から腐ってしまうのかもしれない。経験則で、重たいリンゴは痛んでいない場合が多いから、軽いという前兆現象が既に、マズいという状態と高い相関を持っているのだろう。と、あれこれ思案しつつリンゴを剥いていると、大学生に AI 教育というニュースが耳に飛び込んで来た。それなら、高校数学で確率と統計に、もっと重点を置かないと ....

3 月26日、今日は卒業式。この日に思うことは、最近では毎年、同じなのである。これまでの学業成績やら、経験によらず、等く新しい道への挑戦が始まるということ。まだ教員としての経験が浅い頃には、研究を素晴らしく仕上げた学生の前途は悠々で、研究が遅々として進まないようであれば前途多難だと感じたものだけれども、何年か経って羽振り良く研究室訪問する OB の面々に接するにつれ、こういう「偏見」がサッパリと消えてしまった。ハッキリ言って、我々、教員は学生のホンの一面しか知り得ないのである。皆、いい所は多々あって、日頃は隠しているだけ、あるいは自分でも気づいていないのである。と、いうわけで、今日は楽しく過ごして、またそれぞれ頑張ってください。

3 月25日、死力を尽くす、と言う表現がある。駅の階段を駆け上がって、ようやく改札をくぐった所で発車ベルが聞こえて、足がもう攣りそうなのに、更にホームへと駆け上がるような時である。少しは余裕を残しておかないと、転倒して怪我をしたり、更には他人に危害を加えかねない。まあ、自分が物事を天秤にかけての「死力」であれば、それは尽くす。けれども、1人しか立てない幅のエスカレーターで、後ろから死力を尽くすランナーが駆け上がって来た時には、不意打ちながら、ともに死力を尽くさなければ、後で、いや、後ろから恨まれる。こう言う感じの気力体力の消費は、何らかの形で毎日やっている気がするけれども、できれば避けたいものだと思う。

3 月24日、海辺の我が家から、潮風散歩に出かける。海辺には海辺なりの、変わったものが色々とあって楽しい。但し、道の選択を誤ると、川を渡れなくなって、ずーっと山側に登って行くことになる。家を出る時に、予め、何処まで道が通っているか、確認しておく必要がある。こうして、地図を頭に入れてから出かけるというのは、昭和の人間の慣習なのだろう。今は携帯があれば OK だから。しかし、携帯の電池が切れた時の、人々の慌てようを見ていると、何となく笑ってしまうのだ。これもまた、昭和の人間の特権 ... と勝手に思い込んでいる。そして、地図を過信していると海に突き落とされるというのが、ここ数日の「地図騒ぎ」なのである。そういう自分もまた、正しくない地図を記憶するという間違いに、見事にハマってしまった。

3 月23日、久々に朝一番の氷に乗る。そろそろ、今シーズンの仕上げの時期となって来たので、ひたすらバックで半円を描いて、安定して乗れるかどうかを確認する。半円で妙だと思ったら、一周してみる。この、一周するという動作は危険を伴うので、特にバックは朝一番とか、貸し切りの時にしか、落ち着いて練習することができない。この 10 分から 20 分のために、まずはスケート靴を履いて、開場を待つのである。開いたら、一目散にリンクへ ... いや、荷物はロッカーに置かないといけない。この時に慌てると、バッチーンと静電気攻撃を受ける。カラフルなエッジガードには導電性がないのである。また黒いゴム製のを探しておこう。

3 月22日、ブラシとは何か?... 全くわからない。ブラシを使う時に、その先がどのように動いていて、ブラシを当てる表面にどのような力が加わっているのか、見当もつかないのである。汚れを取る時のブラシの使い方と、表面を磨く時のブラシの使い方は異なっている。また、使い道によって、様々な毛足の長さ、毛の太さ、密度、材質などのバリエーションがある。亀の子タワシもまたブラシの一種である。カーリングに使うブラシ。毎日使うのは歯ブラシ。ブラシを、ちょっとマトモに物理してみるか?生物屋さんは、生物の何処にでも存在するブラシのような構造を、アレコレと既に研究している。生物学ってバラエティーがあるなーと、隣の芝生は青いの感。

3 月21日、草花がだいぶん伸びて来た。下草は、成長がとても速い。冬の間に、大地に溜め込まれた栄養を一気に吸って、葉や茎を伸ばす。この、新芽を野菜や山菜として頂戴できる春の前半は、とても有り難い季節だ。樹木の方は、少し作戦が違っていて、栄養分は幹の表面の薄い層に溜め込んでいるらしい。生きた細胞の存在しない、幹の内部に甘いものがたくさん溜まっていると、雑菌にツケ入られる危険があるのだろうか ... そもそも植物が、どのような免疫を備えているのか、全く知らない物理屋 (←制限用法の修飾) ゆえ、何事も想像するだけなのだけれども。その養分が、芽にどんどん集まって、膨らみ始めた。それにしても、今日は夜半まで高い気温と湿度であった、草木は更に伸びただろう。

3 月20日、テンソルネットワークが上手く動かないという論文が、プレプリントサーバーに上がっていた。見た瞬間、あ、それではアカンと。テンソルネットワークは、物理系の性質に即して、その組み方を変えなければうまく動かない。従って、一様系でうまく行く方法を、そのままランダム系に持ち込んではいけないのだ。ではランダム系はどうやって取り扱うのだ?というと、実はまだよくわかっていない、というのが、答えにならない答え。研究の対象であるという事だ。非常に簡単、単純な系に、物理学の最先端が潜んでいるという、良い例なのではないだろうか。最先端といっても、ドロ臭いばかりで、付き合いたくないものかもしれない。少なくとも、世間的に「カッコいい」とは思われない研究分野だろう。だから面白いんだけどね。

3 月19日、盾と矛が合わさって、矛盾という。盾と矛では、盾の方が防衛的で、矛の方が攻撃的というイメージがあり、盾で身を固めておく方が、矛をたくさん用意しておくよりも徳の高い行いに見える。本当かどうかは、よくわからない。硬い防御は、さらなる攻撃手段の開発を促しているような側面もあるからだ。一方で、攻撃は最大の防御という考え方もある。いつでも攻撃できますよ、という準備を整えておけば、結果的にそれは使わないという論理である。どちらにも一理ある所だ。大切なことは、現場に「装備の使いたがり」が居たとしても、使わないというセフティーネットを構築することで、偶発的に大ごとが生じないことが、誰にとっても幸せなことなのである。それにしても、自然はうまく科学者を騙してくれるなーというのが、日々の感想。

3 月18日、学会のジュニアセッションを、昨日、見て回った。ポスターセッションという形式で行われるものだ。教育的配慮をもって ... という事は、外せない事なのだけれども、なるべく普段のポスターセッションを見て回る時と、同じような「素振り」で会場を巡った。サーっと見て回って、興味があれば質問する、という、そんな感じ。あるいは、他人が「捕まって」説明を聞いている所に、横から聞き耳を立てるなど。正面切って「説明してください」とお願いすると、長い時間を費やすことになって、他を見て回れなくなるのだ。この辺りの感覚を、肌で感じて欲しいなーと思うので、なるべく普段通りに振る舞う。これが、まあ、私なりの教育的配慮だろうか?!

3 月17日、文章の edit は難しいのである。自分の文章でも思うようには推敲できないのである、他人の文章は尚更である。まず、文章を書いた人の気持ちに寄り添って、何が書きたいのかをよくよく理解して、用語を吟味する所から始めて組み立て直すのである。だいたい、初出の言葉がいきなり出てくると、読めないというか、読む方が宙に放り出される ... という事は既に何度も書いてあるのだけれども。こういう欠陥を、日本語だと何となく隠せてしまうような所が無いわけでは無い。けれども、英語で訳してみろと言われると無理なのである。まずは外国語で考えてみるというのも、悪くはないのかもしれない。あるいは、外国語的な日本語で書いてみるとか。

3 月16日、ネットに接続して、さて今日も arXiv だ、と思った瞬間に、今日が土曜日であることを認識した。学会に参加していると、曜日感覚がおかしくなるのである。土曜日でも、大学が賑わっているから、というのが主な理由だろうか。arXiv なければ、まあ学会プログラムでもめくって、さて次はどちらの会場へ移動するか?ということを考えつつ、ボチボチ過ごすことになる。量子コンピューターと機械学習がシンポジウムというのは、順当な所だろう、他に適当なネタが見つからない状況が、かれこれ数年は続いているような気がする。まあ、統計確率というのは、理解と運用に時間がかかる分野なのだ。生態系は、何億年もかけて、確率を手なずけて来たのだ、そう簡単には秘密の扉が開くとは思えないフシもある。

3 月15日、一天にわかに掻き曇り、という言葉、実感があるようで、あまり遭遇しないものだ。今日は、その珍しい事例となった。ついさっきまで晴れていたのに、積雲が次々と湧き出て、遠くから境目のよくわからない暗い雲がどんどん近づいて、あっという間に雨になった。いや、パラパラと降るのはアラレ。雪が降るほど寒くはないし、アラレができるほどには雲が高い、そんな春先の天候となったらしい。さて今日は、眼鏡を某所に忘れるという失態をしでかして、一瞬、新しい眼鏡を作ろうか?と思ったりもしたのだけれども、忘れ物の管理にも気を使う事だろうし、取りに戻った。道中、色々な人々に出会ったので、まあ、終わり良ければすべて良し。

3 月14日、神戸と福岡は、この時期、20分も日没時間が違う。いや、緯度は大して違わないから、どんな季節でも、同じくらいの時間差があるわけだ。毎日がサマータイム、九州っていいなーと思う。沖縄は更に西か。それならば、夜も遅いのか?というと、そうでもないようで、眠らない街を期待するならば首都圏で遊ぶ方が良い。朝は普通に、早朝から始まる。さて福岡の街中はどんな感じ?と歩いてみると、とても外国人が沢山居ることにびっくり、国際空港から 20 分くらいという、アクセスの良い観光地であることを実感した。観光が主目的で福岡を訪れているのではない、と、一応は断っておこう。

3 月13日、ボンバルディアに搭乗する。と、書いて、搭乗って何だ?と思う。乗船とか乗車とか、乗り物を明示する時には搭乗とは書かない。飛行機の場合、乗機はあまり使われずに搭乗となり、降りる時には降機となる。乗り降りで異なるパターンとなる理由は、よくわからない。空港または機内でのアナウンスは「ご搭乗」「お降り」を使うらしい。後ろに「名簿」が続く使い方の場合も、乗船者名簿、搭乗者名簿と、同じ用語となる。ともかくも、搭乗して、瀬戸内海を眺め、空の上から寛永通宝を拝むことができたのだから、ありがたいことだと思う。機内で、思いがけずレターセットも頂戴した。感謝。

3 月12日、杉花粉の落下速度は、おおよそ 1 cm/sec なのだそうな。小麦粉に比べると、随分とゆっくり落ちて来ることがわかる。しかし、風がなければ、そんなに遠くまで飛んで行く訳でもない。神戸辺りだと、南に大阪湾があるので、緩い南風の日は比較的過ごしやすい。この速さだと、空気の粘性抵抗で落下速度が決まっているのだろう。花粉といえばブラウン運動、というのがよくある誤解の一つだそうで、ブラウン運動が顕微鏡で見えるのは、花粉から出て来た小さな粒なのだそうな。従って、落下する花粉を観測しても、ジグザクと運動しているのが見える訳ではない。それはそうと、スギ林に「スギ食い虫」でもバラまいて回ると、スギがバタバタと枯れて行くのだろうか?

3 月11日、真空管アンプに使う、出力用のトランス、細い線がたくさん巻いてある構造上、断線という形で壊れてしまうことがある。断線の手前に、出力が時々途切れるという半断線の状態になることもある。このような時に、どうするか?という対処方法で、最も正しいものはトランスの交換。いわゆる修理である。十分な資金があれば、いまの携帯電話のように、壊れた製品を捨てて新しいものを買うという手があるかもしれない。が、昔々、部品の1つも貴重であった時代の指南書は、ひと味違うのである。「大電流を一瞬流せ」というもの。うまく行ったら、半断線している箇所が溶けて繋がるし、運が悪かったら壊れてしまう。直る可能性があるならば、やってみろ、という荒治療だ。賭けごとも、たまには必要だと教えてくれた本であった。

3 月10日、ゴミはないかと探して回る。努力するまでもなく、ゴミ袋がいっぱいになってしまった。昔は大切だと思っていたものでも、その殆どを時はゴミにしてくれる。そしてまあ、スペースが出来たら、そこに新たなるゴミを積むのが、現代生活を送る者の悪しき慣習なのである。そうならないよう、空いた場所には何も置かずに、自由に寝っ転がれるように死守する、と、誓うだけは誓った。禅寺で修行する人々くらいの就寝スペースがあれば、日常生活も何とかなる、だろう。家電の接続ケーブルも、もう不要になったと思って良いかもしれない、いまどき、赤色と白色のどっちが L で、どちらが R だとか言っても仕方ないのだ。

3 月 9 日、カフェテラスに座って、エスプレッソをいただく。エスプレッソ一杯に、わざわざ座るほどのこともない、とは思うものの、1ユーロでエスプレッソが立ち飲みできるような所は滅多にないので、数百円払ってエスプレッソを座っていただくのである。一瞬だけでも優雅な気持ち。で、飲んでしまうと座っていても花粉を浴びるばかりなので、サッサと立ち去る。屋外のカフェテラスでは、なるべく条件の悪い時に我慢大会のように座るのが趣味だ。めちゃくちゃ暑い日のレモネードはとても美味しい。凍りつきそうな朝に、わざわざ凍った椅子に座るのも一興。単に、お店の人の反応を見たいだけ、と指摘されると、身も蓋もない。

3 月 8 日、うなぎの話。うなぎが高価になった、と、よく言われるのであるけれども、実のところ、うなぎは常に半額で買える対象なので、値上がり分も感覚としては半分なのである。再冷凍可能な商品であるという所が大きい。そんなに何度も冷凍と解凍を繰り返すと味が落ちるのではないか?と指摘されそうだけれども、目隠しテストで冷凍の有無を言い当てる自信は全くない。半額になったものが見つかれば、即刻買っておいて、冷凍する、好きな時に、食べるだけ切断して温める、それだけのことだ。なぜ半額なのか?というと、それは、売り場には商品が並んであるべきであるという哲学のなせる技である。必然的に、売れなくなる前に、サッサと見切ってしまう。こういう「余裕あるいは無駄のある社会」が、いつまで続くのか、見届けたいものだ。

3 月 7 日、真空パックの食品、どれも同じように見えて、幾つか違うカテゴリーのものがある所が、ちょっと要注意だ。まず、梅干しのように、そもそもパックする必要もなく長持ちするものは、何も考えなくて良い。もっとも、最近の梅干しは塩気と酸味を抜いた後で、調味液に漬けたものもあり、成分を確認して判断するに越したことはない。次に、ナチュラルチーズのパックのように、単純に空気を抜いただけのもの。チーズも保存食といえば保存食だ。そして、中性に近い状態の真空パックは加熱・加圧の有無やその方法、脱酸素剤の有無、フィルムの厚さなど様々。一番怖いのがボツリヌス毒素で、酸性かどうかや、硝酸塩の添加の有無で調理方法が変わって来る。どの場合でも、「放置しておく内に美味しくなる食材は稀である」ということを念頭に置くと、サッサと食べるに越したことはない。

3 月 6 日、去年、雑誌の記事を若干ページだけ執筆したことで、2日間ほど働いた程度の収入があった。給与以外に、ほんのちょっとでも収入があれば、確定申告しなければならない。というわけで、書類を作成して、朝一番で某所の税務署へ。さっさと手続きを済ませてから、大学にやって来る。だいたい毎年、花粉が飛び回る時期の納付となる。2月中に手続きできる年もあれば、支払いの明細が出るのが遅くなって3月となることもある。大昔は、電卓を片手にアレコレと計算して、転写式の大きな用紙に書き込んで行ったけれども、ホームページで申告書が作成できるようになって楽になったものだ。まあ、マイナンバーカードがありながら、どうして申告書を1から作成しなければならないのか?という疑問があるにはあるのだけれども。

3 月 5 日、火曜日にしては、プレプリントサーバーが「静か」である、という印象の火曜日の朝であった。なぜなのか?というと、アメリカの物理学会の会期中で、主だった論文は少し前に公開されていたからだ、と推測できる。中には直前に公開、あるいは講演が終わってからの公開というパターンもあって、チラホラと「ここぞ」という論文が転がっている。この研究者は、こういう論文を出すだろうなーという、予測の立つ論文は面白くないもので、研究には意外性が大切だとも思う。単に、私が、飽きやすい性格だからかもしれない。研究者の組み合わせにも、意外性があって良いのかもしれない。

3 月 4 日、アイスホッケーの達人が昔、色々と語ってくれた。スケートは、アウトエッジをどこまで倒せるかが勝負だとか、片足のアウトエッジで急停止するような小技は意図して練習しなくても、自然とできるようになって行くとか。何よりも、スケーティングの重要性を、具体的に説明してくれていたのだ。その事に気づくのは、何年も後になってからのこと。もっとエッジの真ん中に乗りなさいと、言われても当時は理解できなかった。最近、別の達人から「上手い人は、大抵、エッジの真横を使っている」と言われて、ああそういえばと、昔の経緯を思い出した次第だ。その部分が比較的フラットで、エネルギーのロスが少なく、スピードスケートのように伸びるスケーティングができる、そういう明快なことも、指摘されなければ気づかないものだ。スケートリンクは、少しずつ達人から教えてもらえる、有難い場所だ。学び舎も、そんな風でありたい。

3 月 3 日、昔々のこと、小学校で、白酒が話題になったことがある。どこどこのお家の白酒は甘かったとか、サラサラだったとか。ここで白酒というのは、甘酒のことだったのだろう。(... ということにしておく。)ちょっとだけ眠たくなったとか、体が暖かくなったとか、怪しげな話も飛び交うのであった。なにぶん、女の子のお祭りなので、男の子たちは、聞き耳を立てつつも、それが真実なのか冗談なのかよくわからず、煙に巻かれたような状態であった。そういえば甘酒もまた、昔は酒粕を水で溶いて砂糖を加えたものが普通だったので、加熱が甘いとアルコールが残るのであった。今は、麹の甘酒が幾らでも買えるので、酒粕を使ったものは、かえって珍しいだろうか。

3 月 2 日、船を撮る時、近くから撮るか、遠くから撮るか?という問題がある。まあ、どんな被写体でも、近くから撮ることもあれば遠くから撮ることもある。が、船に特有の問題として「船着場」の構造がある。突堤に接岸している船を真横から撮ろうと思えば、隣の突堤から撮るしかないのだ。そこまで移動する距離を地図で測ると、1 km なんてこともある。アングルを変えようと思ったら、そこまで走って行く必要があるのだ。しかも、光線は刻々と変化するので、チンタラ移動していては、絵柄が変わってしまう。移動しながら、どのように撮るか考えて、さあ撮影という段階で「計画倒れ」を実感することも、よくある。研究と、実に似た行為ではないか?

3 月 1 日、本質を突いたコメントは、実に役に立つものだと感じる。スピードスケートの達人から「エッジの色々な部分を使いなさい」という指摘を頂戴した時には、どこをどう使うのか、ピンと来ない部分もあった。一番安定する乗り方から荷重を外すと、必然的に不安定になる訳で、恐怖感が先に立つ面もある。今まで、怖がって試したことがなかった。では、どこまで外したら転倒するのか?を確かめてみると、実はかなりの余裕があることが体感できて、その手前までは前後左右に体重を乗せることが可能になった。特に、バックスケーティングでカカトに乗ることが、バックからフォアへのターンで重要であることを理解した。よくよくホッケーの人々を観察すると、四六時中、体重のかけ方を変えている。氷の上に乗るという、基本は、ジャンルによらない物なのだな〜。

1 月と 2 月の1行日記