← 7 月と 8 月の1行日記
6 月30日、水はけは、植物にとって大切なものだ。観葉植物など、毎日毎日、そのまま水をやり続けて何年も経つと、バクテリアがベットリと土の粒と粒の間を埋め尽くして、ドブのような水ハケから縁遠い状態となり、更にカルシウム塩が最後の隙間を埋め、結果として段々と葉の色が悪くなって来る。これが危険信号で、それを無視していると、ある時、アッという間に枯れてしまう。いや、それ以前に枯れていたのだけれども、それが目に見えるようになる。新しい土に植え替えするのが良いのだけれども、土に穴を開けて、水の通り道を新たに作ってあげるなどの対策が必要だ。乾燥に耐える植物ならば、しばらく鉢ごと乾かしてしまうという強引な手もある。ともかく、救難信号を見落とさないことだ。これは、人間についても同じ。
6 月29日、夕刻、郵便局へと走る。走れメロス、という訳でもないのだけれども、夕日が長い、日没が遅い。まだまだ明るいのに、商店街のシャッターが落ちているのは、まるでヨーロッパの真夜中のよう。いや、単に、神戸の夕暮れが早いだけだ。下山手通や中山手通まで行くと、日付が変わってもまだまだ賑やかな雰囲気の場所もあるのだけれども。ようやく首脳会議の特別警戒も終わって、ちょっと安らいだ雰囲気の街になった。単に、目にする警察官やパトカーの数が減っただけだけれど、肌感覚が随分と違う。東京はいつも、警備が厳しいからなー、ストリートミュージシャンも、本当の街中で見かけることは稀だし、居てもすぐに追い払われるし。
6 月28日、笹の生えている場所へ行ってみる。写真を、と、思ったけれども、全く見栄えがしない。七夕の笹というのは、笹というよりも、小さな竹なのではないか?と思った。生物屋ではないので、笹と竹の違いについては、よくわからない。茎が高く立ち上がったら竹、地面から草のように生えていたら笹、そんな感じ。さて、願い事に「いやし」と漢字で書き込もうとして、即座に頓挫。い・や・しって、どんな漢字だったっけ?これはバリアが高い。たぶん、生まれてこのかた、一度も書いたことが無い文字だし、覚えた試しもない。いま、覚えよう、「癒し」である。... 目の前にお手本があっても、書き写す自信が出てこない ...
6 月27日、頭上から木の枝が降って来て、普通に考えて人が通るような場所で大事故が起きたら、木の管理責任を問われる。誰に管理責任があるか?ということになると、第一には敷地の所有者、あるいは利用者なのだろう。そういう事情かどうか、よくわからないけれども、大木の伐採が続いている。毎年、台風が通った後に、あちこちで木が倒れ、高い場所の枯れ枝が塊となって降ってくる。そういう落下を見越した上で、次々と切り倒して行くのだろう。作業が終わった場所は、実に広々としていて、木々がスペースを占拠していたことに気づく。市街の土地は有効活用してナンボと思った。
6 月26日、にわかに熱帯の風が吹くのだそうな。これが偏西風波動の予測のつかない所で、冷たい空気がやって来たかと思うと、過酷な暑さの晴れになったりする。地球の空気が波打つと表現する時、何に対して波打っているのか?ということを考えることが必要になる。だいたい、寒い空気は北極と南極にあり、それぞれ東向きの風で取り囲まれている。この風の輪が、南北に波打つのが、地上で見た時の「波」だ。厄介なことに、上空へと行くと、風の帯が上下にも波打つ。これは、気象現象を高度で見るか、それとも等圧面で眺めるか?という根本的な問題にもつながる。自然現象の理解は、進んでいるようで、なかなか進まない、そんな状況が気象学にもあるのだろう、きっと。
6 月25日、英語の文献に in two steps と書いてある箇所があって、訳本の訳が「2段階で」となっていた。これが混乱の原因となって、ただ時間が過ぎ行く事になる。正しくは「2つのステップの内に」あるいは「2つの手続きの内に」である。翻訳という作業には、全体の分量や言葉の調子を全体として同じにするという工夫も必要だから、何でもかんでも正確に訳せば良いというわけではないのだけれども、誤解が生じそうな箇所については、注意深く和語を充てる必要があるものだ ... とまあ、人の翻訳にケチは付けられても、自分で翻訳してみるかい?と振られたら、裸足で逃げるのである。
6 月24日、高校の教科書を開くと、交流回路の基本であるインピーダンスが「暗記するもの」として紹介されている。もう少し善意を込めた表現にすると、交流回路の平均的な性質について、数式を使って予測可能な形式で記述するという点には何の曇りもなくて、サイエンスの基本は踏み外していない。ただ、その直前に習うコンデンサーやコイルの性質と、連続的につながっているか?というと、論理に飛びがあるのだ。これは、微分方程式が使えないという「高校理科的なルール」によるもので、仕方ない事なのだろう。まあ、ここに目くじらを立てる前に、高校の「物理基礎」に置いてある波の物理の記述が、力学と何の接点もないという問題 (?) に激しく突っ込むべきなのだろうけれども。
6 月23日、美味しい素麺が食べたい、と思って、ダシ作りから始める。瓶詰や、缶詰のダシがマズい訳ではないのだけれども、素材から取ったばかりのダシには、すぐに飛んでしまう香りがあって、他には代え難い魅力がある。分厚めの削り節と昆布を贅沢に使い、少量の水で一番ダシを取る。二番ダシは煮物の調理用に回す。醤油、味醂、砂糖を煮切った返しを加えて、そうめんダシの出来上がり。さて、まだそんなに暑い季節ではないので、ダシは冷やさずに、茹でた麺を泳がせて、薬味をぶっかける。そして、これらの労力はサッサと胃袋に回収する。待っていても、より美味しくなることはない。この「回収」を思い描いて調理するのが楽しいのかな。
6 月22日、エスプレッソは、その名の通り急ぎのコーヒー、ちょっとだけ飲んで、立ち話しする程度で立ち去って、お次の場所へという、バル感覚のコーヒーだ。できれば、スタンドで立ち飲みしたい所なのだけれども、それができるお店は少ない。テーブルでサービスというのが、カフェ営業の基本だからだ。コンビニのコーヒーが良く売れるのも、この隙間を突いたからだろうと思う。でも、コンビニでエスプレッソというのは、普通の紙コップを使う限りは無理だ。と、いう訳で、エスプレッソを頼んだ時には、注文時に清算を済ませておいて、運ばれて来たコーヒーをサッサと飲んで、即立ち去り。飲んだ後、座っていても、何か得することがある訳でもないのだ。
6 月21日、黒潮なんて、珍しくもない海流の1つに過ぎないと思っていた。さて、世界中の海流について、実測データと照らし合わせつつ運用してあるシミュレーションの結果を見に行くと、ありゃ珍しや、目立った暖流というのは大陸の東端にしか現れなくて、数えるほどしかないことを理解した。色々な解説を見るよりも、データそのもの、可能であれば実測値そのものに触れることの重要性は、サイエンスとして当たり前のことなのだけれども、海流について、そういう認識がスポッと抜けていたということだ。地球科学の分野には、けっこう、そういうものが多いのかもしれない。さて、地球温暖化は ...
6 月20日、コンビニ弁当とか、コンビニの麺類とか、買って来てバラして適当な温度にそれぞれ調整して、食器に盛ると、それなりに美味しそうになる。ついでに、飾り付けとかキュウリとか足し始めると、もはやコンビニ弁当ではなくなる。麺類の場合は特に、バラバラに伸ばしておくことが食べた時の食感を良くして、全体的な満足度が増す。器の表面が平らで硬いという事が、案外、食味に関係しているものだと不思議に思う。さて、病院食とか、機内食のことをチラリと思い出すと、運よくビジネスクラスに up grade した時の飯であっても、基本的には、このようにバラしたコンビニ弁当に他ならないのだと納得。じゃあ、日々、自分で作る飯がコンビニ弁当と大差あるのか?というと、それは ...
6 月19日、ねじ花が、もうあちこちで蕾を出しているのだそうな。指摘されて観察してみると、確かに、ツクシのような、アスパラガスのような、小さな花芽が見える。これが咲くと、あの目立たないようで目につく、ねじ花となるのか。以前も書いたけれども、この草は単独で栽培することが難しい。綺麗に咲いている状態で、掘り取って来て、さあ来年も ... と思って成功した試しがない。そのまま、毎年、同じ場所で観察するのが、一番良いという野の花だ。大体、野草を持って来て、うまく庭に似合うものになった試しがない。ノイバラは、野にあれば可憐に見えるけれども、花壇に持って来ると、頑強な雑草にも似た図太さが出てしまって、あまり趣がない。園芸品種と、フィールドで楽しむものは、分けて考えよ、ということらしい。
6 月18日、地球全体の空気の流れが、シミュレーションのデータではあるけれども、誰でも見ることができるようになって、既に何年経っただろうか?毎日、日本付近はよく眺めているので、気流の性質もおおよそ想像できるのだけれども、世界のあちこちを時々見に行くと、想像もつかない気象が待ち受けている。特に、南極の天気、とりわけ冬は激烈だ。南極の内陸は氷点下 50 度、60 度という極低温だ。あともう少しで、ドライアイスの昇華温度 -80 度くらいとなる。氷河時代には、二酸化炭素も凍りついていたのだろうか?そして、この強い寒気が南極の海へと吹き出して、低気圧を次々と産む。これに比べると、北半球は穏やかなものだと思う。時々、台風は来るけれども。
6 月17日、昨日は大学が停電。停電の後、サーバーは自動復旧する設定にしておいた。昔とは違って、停電の際に、前もってサーバーを落としておく必要もなくて、楽になったものだ。ブチッと電源が落ちても、ハードディスクの機械的なダメージが起きる可能性は非常に低くなったし、一時的にキャッシュされていた書き込み項目についても、ジャーナリングから復旧できてしまうし、イザとなったらバックアップから復帰できるし、それすら自動になってしまっている。こういう所に、きっと落とし穴があるのだろう、ミラーサイトを立てて、物理的に離れた場所で、別のバックアップを残しておくことは、怠っていない。全部、クラウドにすれば楽なのだろう、きっと。クラウドを完全には信じていない、旧人類なのである。
6 月16日、梅に塩を振りかけて、じーっと待つ。じーっと待っても、何も起こらない。最初に、梅の水分が塩に吸われて、潮解し始めるまで、結構な時間がかかるのである。前の年の梅酢を振り掛けると、この時間を短縮できるのだけれども、去年は漬けてない。というわけで、じーっと待つ。幸い、梅はけっこう青いものを使ったので、少しくらい待っても、腐敗することはない。果物のように熟した梅で梅干しを作ると、干したての時に花のような香りがして、最初から美味しい。ただ、塩が荒々しい感覚もあって、やっぱり年を越えたあたりからの、落ち着いた梅干しが本物だろうか。好みの問題だけれども。
6 月15日、今日は大学の紹介をする行事があって、土曜日に登校、いや、出勤。朝の雨が上がって、午前中は清々しい晴天となった。が、レーダーを見ると、強い雨が迫っているのだとか。実際、空を眺めると、淡路島の方から黒いベールが近づいてくる。ついでに、その雨のカーテンの手前に、特徴的な「吊り下がる雲の帯」ができている。あれが生じるということは、そこにダウンバーストがあるということだ。事実、とても強い風が吹き始めて、しばらくしてバケツをひっくり返したような雨となった。空から黒いものが落ちてくるから、何かと思いきや、スズメ。ずっと続いたらエラい事だと感じたけれど、30 分ほどで、止んでやれやれ。
6 月14日、漢字を含む和語でも、カタカナで表記される場合がある。カタカナというのが、その実例そのものである。今日、ハッと気づいたのがキリトリ線。切り取り線と変換しようと思っても、なかなか候補が出てこないのである。世の中では既に、キリトリ線が優勢なのだろうか。キリトリの場合は、KIRITORIでも何でも、誤読する恐れが非常に少なく、音だけで意味がハッキリしているから、カナで書けるのだろう。聞くところによると、ハングルは、そういう世界らしい。また、わざわざ漢字を交えても、文字数が減らないのもミソだ。物理用語の繰り込み理論も、そのうちクリコミ理論になるのだろうか?繰り込み理論の場合、それを口にする人は「くり込む」という言葉の意味を意識すらしないし。
6 月13日、芸名、あるいはペンネーム、ハンドルネーム、これらは使用する活動の場を限定しての、いわゆる偽名なのだけれども、日常的に偽名を使う日が、もう到来しているのかもしれない。特に、レアネームの人は、苗字だけ、あるいは名前だけ、場合によっては漢字1文字だけで検索に引っかかってしまうので、おいそれと名前を転がしておくことができない。佐藤とか、翔太とか、幾らでも存在する姓名の組み合わせを探し、ヒット「しまくり」の名前で日々、活動するのが気楽な気がする。そういう目で、近隣諸国を眺めてみると、同じ名前の人がたくさん居るという意味では、ネット時代に対応済みではないのか?と思えて来る。ヨーロッパも、そんな感じだしなー。
6 月12日、温度とは何なのだろうか?という問いかけに対して、的確に答えることは難しい。十分に大きな平衡系であれば、その温度について、評価を与えることはできる。では温度分布の場合は?これは、分布しているのであるから、大抵は非平衡系である。統計力学の桃源郷の外側にあるということだ。もっと怪しい言葉遣いもあって、「温度には空間的・時間的に揺らぎがある」なんて書いてあることもある。エネルギー密度に空間的・時間的揺らぎがあるのであれば、まだ理解可能なのだけれども、それが温度になると、何を意味するのであろうか?と、疑問符だらけとなるのである。いや、それとも、考え方が逆で、「温度」という物理量が先にあって、それが観測の結果として、確率的に見えるのだと、世の中を把握するべきなのであろうか ....
6 月11日、コミニュケーションは難しいものだ。メールやメッセージで、より原始的には討論や文通で、意思の疎通を図ろうとする時、発信する文章量・情報量に大きな隔たりがあれば、それは意思の疎通を拒否しているに等しい。どっちか一方が、喋りまくり、そういう状況では、当事者がどうあれ、周囲から見て発言封じにも映りかねない。そういう客観性も意識しつつ、コミニュケーションを図ることの重要さについて、少しずつ学んで行って欲しいなーと思う。この点は、教科書の執筆やら、試験問題の作成でも同じことが言える。じっくり考えてもらおうと、膨大な量の問題説明を期末試験で読まされる状況を想像してみれば良いだろう。一方通行のメッセージであっても、いや、そうであるほど、「受け手の頭の中を想像する」ということが、重要なのだ。
6 月10日、今朝は腰痛とともに起床する。腰痛というよりも、右足の後ろの筋肉の、腰骨に付いている部分の炎症と言った方がいいかもしれない。原因はおそらく、穴守稲荷駅の改札を出たところで「階段4段飛ばし」を不用意にやってしまったからだ。最初から4段飛ばしのつもりなら、何の問題もなかったのだろうけれども、2段飛ばし2歩で降りる動作の途中から4段飛ばしにして着地した時、肩にかけていた荷物からの衝撃を受けて、ちょっと負荷が大きかった。その日の内は特に自覚症状がなかったのだけれども、じわじわーっと疲れ易くなって行ったかな?という覚えはある。今度、あそこを通る時には、十分に用心して4段飛ばして、両足着地しよう。
6 月 9 日、機内から外の写真を撮影する時、今までは(換算で)85 mm という、中望遠を使っていた。しかし、飛行機の窓の光学精度はイマイチで、この焦点距離を全く活かせない。そこで、今回は(換算で)24 mm にした。これくらいで、だいたい窓から見渡した風景そのままが写る。やっぱり、広い場所は、広いまま写さないと、広さが画像に落ちないなーと、当たり前のことに気づく。このくらいの広角レンズになると、撮影している時の距離感がおかしくなる。被写体が、実際の距離よりもずいぶん遠く感じるのだ。ファインダーに写る世界は、高度 20 km くらいの感じ。地球が丸い?いや、それはレンズによる画像の歪み。
6 月 8 日、本郷キャンパスへ JR からアプローチする。どこの駅で降りようかなーと思案して、御徒町駅で降りる。後で知ったけれども、全くマズい選択であった。ともかく、そこから一路西へ行き、本郷三丁目で北に曲がる。頭の中に入っている地図的には、わかりやすい行き方だ。上野で降りなかったのは、公園を横切るコースが、まっすぐではないから。周囲に高層ビルがあって、方向を見失う危険が全くないことを事前に知っていれば、上野で降りていただろう。この辺りは、モバイル端末の地図に聞くのが、今日的には当たり前のことなのだろう。敢えて、それに頼らない歩き方を頑に続けるのは、もう意地でしかない。
6 月 7 日、稀にしか起きない事象は、観測されることがない。この、稀という言葉に含められた「稀さ」は、途方もなく稀で、宝くじに当たる確率など「全く稀ではない」くらいの稀さだ。量子力学でも、稀にしか起きない事象は観測されることがない。例えば、原子炉の制御棒を抜いた時に、原子核反応が始まらない確率がそれ。全く起こり得ないくらい稀なことは、要するに、起こらない。さてここで、何を観測したら量子観測で、何ならば古典観測か?という点に、なかなか区分を持ち込めないことに気づく。量子観測の定義は、まあまあクリアにできるのだけれども、古典観測が、混沌としているのだ。うーん。
6 月 6 日、スペックルという現象がある。レーザー光を使って実験していると、ガラスの表面などで反射して何処かに飛んで行ったビームの一部が、壁などに当たって更に反射して、思わぬ所にツブツブの淡いパターンを描く模様が見えたりする。(こういう状況は実験の安全性とか、精度の観点からは良くないのだと思うけれども、細かいことは抜きにしよう。)ええと、これもコヒーレントな現象なので、何らかの意味でテンソルネットワークが噛めそうな気がするのである。似たような話で、ビームをすりガラスに当てることによって、その向こう側の画像を再現しよう、なんて技法にも通じる。機械学習で経験的に描画しようとする試みはあるのだけれども、もうちと、古典的・正攻法で考えてみたい。旧人類なので。
6 月 5 日、古いデジカメに、F 値の大きな古いレンズを取り付ける。当然、感度が良くないので、曇った日には、建物の廊下でも、すでに撮影に困難が付きまとう。光を探したり、逆にブレを楽しんでみたり、白黒でノイジーな仕上がりを期待してみたり。同じことは、新しいカメラに F 値の小さなレンズを取り付けた上で、フィルターを使うか、マニュアルでシャッター速度を早くすれば再現できるのだけれども、わざとらしく面倒なことをしているわけで、あまり面白くない。この辺りは、釣りという行為に似ているのかもしれない。エサが動けば幾らでも食いつく所を、ひたすら疑似餌を工夫して何とかする、そんな話をよく聞くからだ。
6 月 4 日、またまたブヨに刺される。今回は、発見が早かったので、絞り出しを試みてみる。ちょうど、血が盛り上がって来る頃に、よく絞れるらしい。ひとしきり絞り終えると、あら不思議、浮腫が去って、その後、痒くもならない。一旦、毒が皮膚に回ってしまうと絞り出しの効果が薄いとも聞くけれども、念のため、この前刺された部分も、潰さないように絞ってみると、出る出る、こちらは炎症を起こしているので、幾らでも絞れる。で、しばらく様子を見てみると、あらあら、こちらも炎症が治まって来た。要するに、いつでもいいから絞れということか。もっと早く知っていれば、我慢することも少なかったろうに。
6 月 3 日、Always とか Sometimes とか、単に副詞だと思っていたら、元々は属格なのだと知って、品詞というものが孤立語へと向かうに連れて、個別に、明確になって行くものだという一般法則を再認識した。日本語は、ええと、この辺りが未分化というか、どういう風にでも言い表せるというか、「いつも食べるけどね」と「いつもは食べるけどね」の「いつも」が同じ品詞かどうか、問い始めると長い議論になってしまうのである。そもそも「いつも」が「いつ + も」か。助詞の働きが広すぎて、統一感のあるスッキリした文法が、なかなか作れない。長い年月を経て、日本語も、段々と孤立語へと移ろうのか、その前に他言語に収斂してしまうのか、さて?
6 月 2 日、ハサミにも、右手用と左手用がある。単に、グリップの形状が違うだけでなく、刃を重ねる向きが違う。これが不思議なところで、右手用のハサミを左手で持って使おうとすると、刃の間に隙間ができてしまい、切ろうとする物が、この隙間に入り込んでしまって、切れない。正しい方の手で握った時に、うまく、刃と刃を捻って密着させる力がかかるのだ。この仕組みは、大昔から知られていたことなのだろう。そして、使う人は、全く気にしない。これぞテクノロジーの鏡と思うし、こういう基本的な仕組みを見つけた人は無名でかつ、複数人居ると思うのだけれども、それぞれに偉いものだ。
6 月 1 日、「あのー」と呼び止められる。来た、勧誘だ、と、身構えて振り向くと、そんな風でもなさそうな学生さんらしき方がポツンと。「神戸大学の先生ですか?」と、質問というよりは確信をもっての問いかけを受ける。伺うに、理学部をはじめとして、六甲台辺りの多くの学生から、とりあえず、あの赤いのは神戸大の教員であるという認識を持たれているのだそうな。こういう事が結構あちこちであって、その昔、鹿児島で呼び止められたこともあった。首都圏では、逆に、昔の卒業生を見かけることも稀ではない。みんな、頑張っているんだよね、いや、大学にいた頃よりも楽しんでいることだろう、きっと。
5 月31日、統計力学に、Typicality という概念がある。モンテカルロ法を使って研究している人にとっては「当たり前のように使っていること」なので、それ、わざわざ言う必要あるかい?と思うこともあるのだけれども、まあ、量子系の場合には「それ相応の議論」を尽くす必要はあるだろう。さて、モンテカルロ法は、数々の判断を行って状態を生成して行くマルコフ過程の結果、ある一連の状態列、シーケンスを得るものだ。その生成された列は、典型的なものになっている。人々の人生も、そんなものなのかなーと思うのである。日々、損した得した、悲喜こもごも、それが典型的であって、長時間平均すれば平凡な人生となる。稀に外れる方が出て来て、そのうち、不幸に弾かれた人に救いがないことが、話題になっている。
5 月30日、ジュール定数という、歴史的に有名な定数がある。歴史的に有名と表現するのはなぜかというと、まず、基本定数と呼ばれるものではないからだ。また、今日では熱量をジュールで表すことになっている。慣用的に用いられて来たカロリーという熱量の単位と、仕事あるいはエネルギーを橋渡しする時にのみ、使われる換算定数なので、一度は誰でも習うのだけれども、その後、お目にかからないという、何とも言えない立ち位置の定数なのである。もっとも、このように不用意な発言をすると、温度の定義はどうなってるんだとか、熱量に確たる定義があるのかとか、実験的に求められるのかとか、様々な突っ込みを受けるのは必至なので、あまり突き詰めないでおこう。さて、ペットボトルで、ジュール定数を求めてみましょか。
5 月29日、デバイモデルに足を踏み込む。これ、微視的な方から論じるか、巨視的な方から説明を始めるか、そこがチト問題なのである。弾性体から考え始めると、分散関係が波長の長い時しか、うまく導出できない。とは言っても、微視的な方から入ると、いきなりゴチャゴチャしたバネと質点だらけの式が出て来て、見通しが良くない。どちらから始めても、結局の所は「デバイのカットオフ」として丸めてしまって、まあそんな荒い近所で「だいたいの所」は実験的な測定事実を説明してしまうので、あまり何も気にしないという、気楽な考え方もあるだろう。というわけで、今年も弾性体のラメ係数から入ったのでした。
5 月28日、梅雨のはしりの時期となる。雨が降るごとに、イネ科の植物が数センチメートルも伸びるので、気が抜けない時期だ。特にススキが厄介で、切っても切っても、あの硬い葉を次々と出して来る。ついでに、雨が降ると数日後にヤブ蚊の登場、いよいよ草原に近づけなくなる。ススキだけは切り倒すのだ、と、意を決して、なるべく晴れた暑い日中に狙いを定めて草原へと向かう。涼しさを優先して、夕方に立ち入ろうものならば、数分でヤブ蚊の餌食となるからだ。スプレーを使えば良いのだけれども、何となく、薬剤を体にふりかけるのは気が引けるのである。こうして、今年もまた戦いが始まった。なお、風邪で痛んだ呼吸器周りには、とても優しい雨で、すごーく助かった。
5 月27日、海外送金は、どんどん監視が厳しくなっている。以前は、身分証明書があれば、どこの銀行からでも海外送金できたのだけれども、今は口座を開設してある銀行からしか送金できない。マイナンバーカードも必須である。手間がかかる窓口からの手続きは、窓口を持つ支店がそもそも減っていて、また、手数料も「実態を反映したもの」となっている。今の世の中、人件費ほど高いものは無いのだ。というわけで、ネットバンキングでホイホイホイっと、海外送金の手続きを取るよう、誘導されて来ている。ついでに、ネットの方がレートが良い。これは、決済までのタイムラグが小さいからだろうか。こういう条件に満たない送金需要があれば、それは「別のルート」に流れるのであろう。
5 月26日、色々と決算を目にする時期だ。だいたい、年中行事が決まっているような団体であれば、さしてイレギュラーなこともなく、予算の通りに決算が収まる。お客さんが来るかどうか、それは天気次第という団体は、その年々、悲喜こもごもの決算となる。いや、喜ぶ方はあまりなくて、大抵は悲しい方だ。だいたい、黒字になるだろうという時には気も緩んで、ついつい赤字スレスレの所をウロウロとするものだ。こういう状態だと、ずーっと金欠になって行くはずなのだけれども、いよいよ最期か?という時に、突如としてマイナスを埋める特需が湧いたりするから不思議なものだ。
5 月25日、高校の物理の教科書、化学の教科書、安価に手に入るし、取るに足らない記述しか書いていない ... なんて思われているかもしれない。そんな薄い教科書も、そのまま 17 世紀に持って行ったら、それはそれは、宝の書として尊ばれるであろう。科学の諸法則が並んでいる、というだけではない。挿絵イラストや写真に登場する人々の風俗であるとか、単位であるとか、カラー印刷であるとか。またまた、飛行機の写真など、チラリと見るだけで「あんな物が空を飛ぶんだ」という大きな知識を与えることになる。高校の科学の教科書は宝の書物なのだぞー、という事、世間にもっと広く知られて良いハズなのである。
5 月24日、梅がたくさん出回る時期となった。今年は ... 梅酒も梅干しも作らない予定。最近、あまりご飯を食べなくなった事もあって、梅干しを登場させてまで、ご飯を「もうひと盛り」食べる、そんなことがなくなったのだ。梅酒は ... 甘いし、甘くなく作るのも時間がかかって面倒だし、長く置いておくと半分くらい梅に吸われてしまうし、そもそもアルコールはそんなに飲まないし、ええと、ともかくも、梅を眺めるだけで、通り過ぎてしまうのである。それでも何となく、季節の物を見逃してしまうような気がして、やっぱり梅エキスでも作ろうかなーと、思案中。
5 月23日、働く人々の中で、ネームプレートを着けている職種の方々がいる。本名かどうかは、わからない。SNS で本名を明かしている人は、特にレアネームであれば、苗字だけで本人を同定できてしまう。大学教員は、本名を使って活動している人が多いので、フルネーム検索でほぼヒットする。論文は、別に、ペンネームを使って書いて構わないのだけれども、業績評価とか色々あって、本名を書く人が多い。そういう、誰にでも検索されてしまうことの問題点も、良く知っているつもりだ。なので、人々のネームプレートを見るたびに、職業上の「仮の名前」であることを祈るような気持ちなのである。
5 月22日、電線の上を電流なり電気信号が流れる時、エネルギー流がどこにあるか?というと、電磁気学によれば、電線の外側の空間を飛んでいるということになる。一方で、導波管の中を信号が伝わる時には、その内側にエネルギー流がある。光ファイバーの時も同じだ。こう考えると、導体とかガラスは、境界条件を作っているに過ぎない存在であると言えそうだ。言えそうだ、と、言葉を濁しているのは、マトモに考えたことがないから。古典的にはどうなのか、電子や原子までマトモに考えた時、量子力学的にはどうなのか、など、よーく考えないと、恐ろしい誤解に至りかねないのが、物理学の怖い所だ。
5 月21日、風邪薬は使わない、と、頑張ってみたものの、やっぱり使う羽目に。というのも、油切れ状態となって、普通に買い物するのでさえ、体力の限界との勝負となってしまったからだ。不思議なことに、風邪薬を飲むと、この潤滑がうまく行くようになる。空元気が出るのであれば、後からしっぺ返しがやって来るのだけれども、そうでもない。ここが、アルコールとは少し違う所。うーん、何か入ってるよなー、風邪薬。なるべく早く離脱したいと思う気持ちに、変わりはない。風邪薬を飲むと五感がおかしくなるので、料理などは、経験と勘で作って、何となく食べているような感じとなる。仕方なし。
5 月20日、完全に風邪モードの月曜日を迎える。一昨年に、風邪薬が原因となる胃痛に苦しんだので、今回は風邪薬抜き。苦しくても飲まない、を実践中。興味があるのは、風邪薬が免疫の立ち上がりを抑えるのではないか?という俗説らしきものの、自分なりの確認。もちろん、日常生活や仕事に重大な支障が出るようならば、その時点で風邪薬のお世話になる。今は、比較的気温が高くて、湿度も十分にあるので、あまり呼吸器症状を強く感じない。暑さも相まって、この「油断」が、気づかない内に段々と体力を奪って行く、というのが今頃の風邪の要注意点。治ったよー、と、ここに書けるのは、何日先か?
5 月19日、南米、日本からは遠い世界だ。その雰囲気が、少しだけ味わえるのが、神戸まつり。サンバ・ストリートは、見物人だらけ。神戸の街中が、全て (?) 歩行者天国となるという、日曜日でなければ不可能な催しだ。サテライト会場もたくさんあって、メリケンパークでもサンバ。渡って、ハーバーランドでも音楽の催し。他にも、アチコチで歌って踊っていたらしい。夕方になると、次は打ち上げ。参加型の祭りなので、踊り終わった人々など、次々と神戸の夜の街に繰り出すのである。あ、久々に使った、繰り出すという単語。逆が「繰り込む」で、これは日常的には使わないけれども、なぜか、日本語の物理用語として定着しているのである。
5 月18日、フランホーファー回折という現象がある。モロにフーリエ変換である。一番よく遭遇するのが、望遠鏡で星を見た時に、星像の周囲にまとわりつく回折リングである。これが見えた時には、光学系が「口径に応じて」正しく研磨されている。カメラレンズになると、この辺りが怪しくなって来る。もちろん、カメラレンズは色々な収差を満遍なく抑えて、マトモな写真を撮ることが目的だから、視野の中央だけ綺麗に写れば、まずそれで満足という望遠鏡とは設計コンセプトが異なるので、揶揄しても仕方ない。で、口径の小さいオモチャレンズに、時々、綺麗な回折リングが見えるのが傑作なのだ。口径が小さいという所がミソ。
5 月17日、ラップトップコンピューター、あるいはノートブック型、どういう使い方が一番使いやすいか?というと、文字通りラップトップで使う時に、一番効率よくタイプできるようになっている。床と壁が作る直角にもたれて、足は投げ出す。そこにパソコンを置いて、作業すると、自然と手が浮かんで、ホームポジションが確保できる。机の上だと、どうしても手のひらがべったりと本体に落ちて、とても汚いフォームでのタイピングとなる。人に見せられないだけでなく、指への負担も大きく、効率も悪い。この姿勢の唯一の欠点はお尻。時々、立ち上がらないと、血行が悪くなり、床擦れしそうな感覚になってしまう。ともかくも、作業、作業 .....
5 月16日、グラフ用紙の上に波を描く。正弦関数か正弦曲線か正弦波か?これは、けっこう難儀な使い分けだと思う。英語の sinusoidal function, curve, wave の使い分けと、一致しているのか、ずれているのか、それもよく考えないと沈没する。正弦波と書いたら、きっと、物理的に何か波があるか、それとも時間的に変動する信号で、やがては音などに変換されて行くものを指すのだろう。正弦曲線は、最もニュートラルな言葉遣いだ。正弦関数と書くと、数学の香りが強くなる。解析学の議論でも始めようか?という気分になるから不思議だ。しばし悩んで、やっぱり、正弦波で行くことにした。物理の講義ならば、やっぱり波だよね。
5 月15日、講義の時に、どんなメガネをかけるか、ここ何年か試行錯誤が続いている。去年までは、手元に持った講義ノートに焦点が合うような、度の強い老眼鏡を使っていた。当然、遠くはボンヤリとした世界になる。孤独な講義になってしまうので、今年からは、無限遠に焦点を合わせられる、度の弱いメガネにした。当然、講義ノートは見辛くなるけれども、大きな文字で書く板書には問題ない。講義ノートは、ボンヤリ見える程度で問題ない、細々とした添字などは頭の中で補って書けば良いからだ。そうやって、ノートを頭の中に転写してから、落ち着いて板書する方が、セカセカせずリズム良く講義できて、気分も良い .... 気がする。受講者がどんな気分かは、わからないけれども。
5 月14日、サツマイモは、蒸す (ふかす) と美味しい、と言われる。安定した温度管理が、経験的に美味しく調理しやすい、ということなのだろう。特に、最初に昇温を急がないことが大切だ。さて、蒸しあがって即刻食べる場合はともかくとして、保存する時に、どう冷やすかが問題となる。少しでも暖かい内にラップに包んでしまうと、内部からどんどん水蒸気が出て来て、表面に水滴として付着する。その水分に、甘みも出て行くし、水っぽくなってしまう。何もせず十分に冷やしてから、冷蔵庫に入れる時もラップをしないのが良い。その状態で、冷や冷やに冷えたら、その時点でようやくラップフィルムの登場となる。まあ、そんなに長時間保存して不味くする前に、食べてしまうのが一番なのだけれど。
5 月13日、MacOS の日本語入力、というかキーボードの仕様が、随分前に変わっていたのだけれども、ずーっとコマンド・スペースで英文とカナ入力を切り替えていた。キーボードをマジマジと眺めてみると、スペースバーの両端に英数とかなの切り替えキーが付いている。そして、OS デフォルトではコマンド・スペースに別のショートカットが割り当てられるようになった。ついでに、タブレット端末のキー入力は原則としてシングルタッチだ。というわけで、超遅ればせながら、コマンド・スペースとはひとまず決別して、親指シングルタッチの切り替えに移行することにした。最初は戸惑ったけれども、一週間くらいで、段々と慣れて来た。
5 月12日、角度を表す弧度法を説明しようとすると、結構いろいろと道具立しなければならない。鋭角と鈍角というか、平角を超える角度についての注釈とか、マイナスの角度を持ち込む必要など。そして、一周したらどないしてくれる?という、角度の冗長性について。これらの、チマチマとした項目について、長い時間をかけて飼いならされて来たことに、ようやく気付いたのである。誰かに説明しようとすると、このチマチマと、1つずつ付き合わなければならない。数学の諸概念には、こういう風に、当たり前でありながら、当たり前に説明し辛いものからたくさん転がっている。ラジアンという単語もまた、よくアラジンと誤読されるのである。これが人間の単語認識の魔法。
5 月11日、五月頃は芋がよく出回る。ジャガイモが、どんどん採れるようになって来る頃だ。暖かい地域では、早々にジャガイモの茎が枯れ始める時期でもある。サツマイモは、秋冬に採れるものだけれども、今は貯蔵のものが最後に出回り始めたのか、それとももう採れる地域があるのか、定かではない。ともかく、両方とも事欠くことがない。一方で、サトイモの類はまだまだ先。ようやく、今頃から芽吹いてくるイメージだ。あれは葉も大きな植物だから、南の方でたっぷりと太陽を浴びないといけないのだろう。と、商品の売り場を眺めながら季節の移ろいを感じる日々である。
5 月10日、昨日は開店休業状態で1日を過ごした。朝に、学生さん達とともに、同じ坂道を登るという健康のありがたさを、しみじみと感じた。さて、今朝の講義で、二次方程式の解の公式を忘れていることに気づいた。「あそこ、2だったっけ、4だったっけ?」という感じ、そういえば、そろそろ認知症になってもおかしくない年齢なのである。で、仕方ないから、その場でサッサと解の公式を導出した。このように、導出方法を覚えているけれども、忘れ去っている公式が結構あって、何かに使おうとする度に、毎度のように計算し直すのである。フーリエ変換の周辺で、「あそこ、2πに根号が付いてたっけ?」ということも、よくある。これは人によって定義が違うので、結構難儀なのである。
5 月 9 日、イエローラベルの紅茶、原産国がどこかを見ると、ケニア、インドネシア、その他と書かれている。昔、地理を習ったはずなのだけれども、ケニアがアフリカのどこにあるのか、綺麗に忘れてしまっていた。その他の国も、アフリカはけっこう全滅に近いのであった。よくよく考えると、世界地図を広げて見るということが、最近あまり無い。google map を見る時は、すぐに必要な所へとズームしてしまうので、国を国と意識して見ないのだ。で、ケニアについて wikipedia をしばし読む。ここでも、じっくり読めばいいのに、ついついリンクを辿ってあれこれと飛んで、アフリカの歴史など見てしまう。図書館に足を運ぶ時代は石器時代だったのだなー。
5 月 8 日、記号の違いというのは、初学者の学習に立ちはだかる最初のバリアかもしれない。全く同じ式を書く場合にも、記号が異なれば見たこともないような式に見えてしまうものだ。全く同じ内容の物理を、幾つかの異なった数式で記述できる場合には、もっと難儀なことになる。互いに等価であることを示したら、それで OK かというと、それだけでは足りないことが多い。直感的にどうなのかとか、どうして異なる表記を導入する必要があるのかとか、どんどん説明を追加して行く必要が、後から後から出てくる。かと言って、全ての説明を用心深く先回りして行おうとすると、本筋に話を向ける前に頓挫してしまう。これが、まあ、教育というものの考え所なのだろう。
5 月 7 日、この季節、乾燥が要注意。日照りというと夏を連想するのが普通だけれども、5月の日照りも過酷なものがある。時として 10 日くらい雨が降らない。そして、風がけっこう吹く。これらは、伸び始めた新芽や、葉を出した木々に容赦ないダメージを与える。水やりを十分に行なっていても、水の吸い上げが追いつかないのだ。対策は、夜のうちに十分に水を吸い込んでおいてもらうか、あるいは打ち水でもして、空中湿度を上げるしかない。霧吹きという手もあるにはあるけれども、日中そこまで手をかけられない。あるいは、こうして枯れるものは先に枯らしてしまうのが、夏本番に備えるという事なのかもしれない。
5 月 6 日、ブラックホールを観察する電波望遠鏡の、合成開口という計算技術、あれはなかなか素晴らしい。あれを、音の世界で使えると、楽しいことになる気がする。位相が問題になるので、クリアな条件設定が必要なのだろうけれども、例えばコンサートホールで、マイクを立てずに、多数のスマホから収録した音声データを元に、元の音像を再現するとか。そういう風に考えて行くと、ミキシングという技術もまた、だんだんと AI 化されて行って、職人芸としては消失する運命にあるのだろうか。あるいは、人の技は、その上を目指すことになるのだろうか。
5 月 5 日、摩耶大橋という、一見すると自動車専用に見える橋がある。望遠レンズを構えて、よーく観察していると、ごく稀にランナーが駆け抜けて行く。あんな場所に、歩道があるのだ。眺めの良い場所に橋があれば、渡る人がいて当然なのだけれども、橋のたもとが何とも厳しい。三宮側はまだマシで、比較的交通量のある見通しの良い場所から階段で橋の歩道に登る。摩耶埠頭側が問題で、休日は無人島となって雰囲気が寂しいし、平日はトラックの往来が激しい。要するに、散歩するには厳しいということ。三宮側から登って、中央で写真撮影を楽しんで、また三宮側に戻るのが良いかも。
5 月 4 日、菖蒲湯のショウブ、少し根元が付いた状態で販売されている。あちこち調べてみると、葉を短く切って、そのまま水気たっぷりの土に植えると、根付くようだ。ショウブはショウブなので、育てると、あの長い葉に付き合うことになる。ここが、ちと問題。水気を好むとはいえ、水を張る必要はなくて、適当に湿気のある斜面などにも定着する。大学の、とある空き地にも自生している。誰かが植えたのだろうか。毎年、冬に草刈りされるのがポイントらしい。さっさと春に葉を伸ばして、花がつく。その間だけは、楽しめる。後は、ずーっと雑草。まあ、どの植物もそんな感じだろうか。
5 月 3 日、山へ出かけてみる。そこそこ楽しんで、つつがなく帰還。いや、ツツガムシは来なかったけれども、なんか顔に小さな出血あとがある。妙だ、そこを何かで突いたような記憶はない。やがて、夜半になると痒くなって来た。あーっ、これは、ブヨ、地方によってブユとも呼ぶ、あの小さな悪魔の仕業だ。刺されたのが、顎の下で良かった、瞼だとか、指だとか、足首だったら、それぞれ難儀な浮腫と戦うことになっていた所だ。それでも、全治まで長いのは仕方がない。この類の化学物質の解毒は、医学の進歩が追いついていないものの1つだ。研究テーマとして、掲げるといいのかなー、もう誰かが取り組んでるだろうけれども。
5 月 2 日、カボチャを買うと、大量に種がとれる。種の中身は、食べてもいいけれども、手間ひまかかる割には、食べる部分が少ない。種を食べるために栽培した品種でもなければ、発芽するのに最低限度の栄養があれば良いのだろう。というわけで、例に倣って、種を取って、洗っておいて、乾かして、空き地にでもバラ撒いておく。たまーに発芽して、たっぷりと太陽を浴びて、実ができる。ここから先は、空き地ゆえに、イノシシがやって来るというのが世の常、まあ何がやって来ようと構わないのである、実るという事実があれば、それで良いのだ、元はといえば捨てられるべき種であったのだから。
5 月 1 日、石器時代という言葉遣いがある。概して、技術的レベルの低い時代を指す言葉で、8 bit CPU を使っていた頃のパソコンを揶揄して、石器時代と称したりする。さてその石器、博物館などで拝見すると、冗談のように精密な造りなのである。打製石器は、割るという比較的不確実な技法を使いつつも、最終的に必要な大きさに追い込んで製品にしているし、磨製石器は文字通り石を削っている。鉄でできた刃物を石で研ぐというのは、硬さの違いがあって合理的なのだけれども、石を石で研ぐのは宝石を磨くようなもので、想像がつかない作業だ。その時代の職人を、現代に呼び寄せたいものだと思う。
3 月と 4 月の1行日記