← 1 月と 2 月の1行日記
12月31日、ちょっと足りないものがあったので、近所のスーパーへ買いに出かける。まだ午後の浅い時間だというのに、もう半額品だらけ。賞味期限が短いものは、既に昨日のうちに完売している。今日だけの、年末ならではの商品も。年越しそば、雑煮、お節料理。パーティーセットなども出ている。こんなに沢山の商品があっても、夕方にはすっかり売れてしまうのが大晦日の魔法だ。閉店間際になると、商品よりも人々の方が多いとでも言えそうなほど、買い物客が殺到して大混乱の中で今年の営業終了となる。今日は火曜日なので、arXiv の方は相変わらず盛りだくさんだ。それでも昨日ほどではないか。カレンダーの年末があまり関係ない中華圏からの投稿が、絶対数は増えていないとは思うのだけれども目立つ。
12月30日、年の瀬にお節料理。正月の食材は年内に採れたもの加工されたものばかりなので、保存すればするほど味が落ちて行く。買ったら食べる。カマボコもさっさといただく。カズノコを有難く食べる風習も、そのうち廃れるような気もする。食べたければ年中、松前漬けで食べられるし、その食べ方の方が美味しい。昆布で巻いたものは、うまく調理してあれば美味しいけれども、ハズレというか、本当に巻いただけだと味がバラバラ。昆布は昆布で調理した方が良い。と、色々と難癖は付けるけれども、目の前にあれば何でも食べる。これは帰省した先で出会う讃岐うどんでも同じ。目の前に麺があったら、それは別腹として常に美味しくいただくのが故郷を離れた讃岐人としてのプライドである。虚勢を張ってるだけだけれども。
12月29日、ふと YouTube に、セーラー服と機関銃がお勧めに上がっているのを目にしてしまった。当時、盛大にコマーシャルが流れた映画だ。見ていない。野生の証明など、プロモーションをガンガンかけて流行っているものには、目もくれずにマンガを読んで過ごしていたのだ。さてどんな映画だったのだろうかと、興味がてら少し見ようと思ったのが間違いであった、全編を x1 の速度で見てしまった。昔の映画はカットがそれぞれ長いのだ。フィルムで撮影されている、画面の荒れ具合もなかなか良い。当時の風俗もそのまま?! 撮影されていて、街中の看板などそのまま映っているものも多い。ファッションというか髪型というか、化粧や装いがこれまたド昭和。暴走族は盛んに走ってたよなー、田舎でも。田舎でこそ? 日本中が、そんなエネルギーに溢れていた時代だった。
12月28日、鉄筋コンクリートの建物は、石のようなもので熱を蓄えることができる。ただし、鉄筋が熱を右から左へと素早く伝えてしまうので、年末のように人々が暖房を使わなくなると、けっこう速やかに冷えて行く。こういう時には暖房を普段よりも強めに効かせる必要がある。最も熱の出入りが大きいのは、建物の窓だ。窓サッシは薄いアルミなので、ほとんど熱の素通しと言っても良い。その対策として、研究に使っている部屋はプラスチック製の窓枠を使った二重窓にしてある。おかげで、冬も夏も快適に過ごせる。温暖化だとか CO2 とか騒ぐ前に、窓は二重というのが基本となるべきだと、常々思う。
12月27日、そろそろ新年を迎える準備の頃となって、慌てて辺りの木々を見て回ると、枯れ枝があったり妙な枝葉のままだったり伸びすぎていたり。日々、ちゃんと世話していれば気づいたであろう不備の数々を、この際、一気に修正してしまおうか。とは言っても、枝葉を刈り払った跡が芽に見えてしまうのは良くない。何もしなかったようで、少しスッキリしたという感じが演出できるのが良い。これは人々が協力して何らかの計画を進める時にも言えることで、妙な縛りがあったりすると、進行が滞る。最も効率的なのは、ご意見番なるクレーマーをバッサリと切り払うことだろうけれども、それでは影響が大きすぎる。何だか兵庫県の一年を語ったような気分になりつつ、剪定作業を地道に、進められる範囲で実施した。
12月26日、クリスマスが終わってしまって、世の中は一気にお正月モードに。そのお正月もまた、松の内という考え方が全くスッ飛んでしまって、年明けの講義の初回は早々にやって来る。物理学の世の中には休みがないので、まあそういう現代的な日々の過ごし方も良いのではないだろうか。早速今日も仕事に取り掛かって、まずは arXiv の論文サーチから。ここで、今日は arXiv の更新がないことを思い出した。クリスマス休暇なのだ。ということは、明日は 2 日分の閲覧となる。単に、今日の分が明日にシフトしたのであるから、ヌカ喜びと言って良いのかも知れない。年末年始に、もう一度だけ arXiv の更新が止まる日があって、また旧正月の頃には中華圏からの投稿が激減する。世界は一つになったんだなー。革命だ。
12月25日、移動性高気圧がやって来て、冬ながら平穏な晴れの1日になった。今日はクリスマス、そしてなぜか兵庫県では百条委員会の最終回。X ポストが色々と流れてくる。玉虫色の報告書が年明けに上がって、いつの間にか有耶無耶という、行政ではありがちなことが、立法府である議会の委員会でも再現されそうな雰囲気だなーとは思いつつ、ハッと気づくと時間が流れている。これが SNS の恐ろしい所。そもそも、人々がこんな風に携帯画面にかじりついて過ごすなど、10 年前でもあまり考えられなかった。世の中では、静かに革命が起きていて、誰もそのことに気づいていない、そんな風に後々の世代から指摘される時を過ごしている気がする。ともかくも、爆弾も鉄砲玉もドローンもやって来ないクリスマスはありがたいものだ。授業も、年内はもうおしまい。
12月24日、クリスマスという単語が歌謡曲で歌われる時には、クーリースーマースの夜、みたいに、それぞれの文字に音符が割り当てられる。Christmass と綴ると母音は 2 つしかないので、英語で歌われるならば音符は 2 つだ。ラテン系の言葉だと Natale など 3 音節で、そのままだと 3 つの音符、長母音に 2 つ以上の音符を割り当てることもある。クリスマスの呼び方が、そのまま文化になっているのかなーとも感じる。正教会の文化圏はどうなのだろうかと検索してみると、あれあれ、ユリウス暦なので年明けにクリスマスというか、年明けのお祝いの季節がやって来るのだとか。ウクライナあたりが、クリスマスの習慣がガラリと変わる境目らしい。
12月23日、今日もイジング模型。平均場近似から自由エネルギーのランドスケープへと移って、最後はランダウ自由エネルギーへ。この辺りの考え方は経済学が先行していたように思う。平衡状態として実現し得ない範囲まで広く「仮の平衡状態(?)」の存在を仮定しておいて、自由エネルギー極小となる所で物理として目にみえる形で現れるというストーリーになっている。現象論としては良くできていて、異常次元など細かい(?!)話には手が届かなくても、多自由度現象の大切な部分をざっくりと拾ってくれる。そうだ、経済学といえばケインズだ、と、wikipedia に走ると、ケインズの奥さんが我々の知り得る時代までひっそり長生きしてたとか、どうでも良い話ばかりに目が行ってしまい、限界効用の限界についての理解は進まなかった。
12月22日、水挿ししておいたロリエの枝をよく見ると、切り口がカルス状になっている。これは発根の前段階だ。このまま水挿しでも発根しそうなのだけれども、ちょうどキンモクセイの挿し木が全滅したばかりなので、その全滅した場所にロリエの枝を移した。雰囲気的には、そのままスンナリと定着してくれそうだ。キンモクセイは低温下では挿し木できないのだなーと、しみじみ思って、翌春の再挑戦へ。あたりを見回すと、サツキの妙な枝が目に入る。太い枝の断面が表に顔を出していたり、ただ硬いばかりの枝葉が密集していたり。そういう場所はバッサリと、枝分かれポイントから切ってしまう。すると、サツキの挿し穂ができてしまうのだ。植える場所あるかなー。
12月21日、三里塚から野菜が届く。毎年、冬のセットは豪華だ。昆虫が活動しない冬は、まさに野菜の季節だと、五感で感じることができる。今回は里芋も入っていた。和食の本には、里芋を六方に剥くと書いてある。りんごの皮のような剥き方をせずに、頭からお尻へと縦に皮を剥くのだ。その理由はというと、繊維が走っている向きに包丁が入れやすいことと、芋が小さいので持ち替える必要がないことだ。これは、お正月にいただく「くわい」も同じ。どちらも、まず下煮してから、本番の調理に入る。理由は色々と書かれているけれども、少し加熱すると痛んだ部分が色付いて、よくわかるというのが大切なポイントだと思っている。ともかく調理だ。
12月20日、半額の柘榴と目が合う。ザクロは種があって食べにくいものだけれども、まあ種でも取って苗を作ろうかと。まずは剥き方から。その辺りに生えている柘榴は、木に実っているうちに身が割れて中身が見えて来るので、そのまま割れば食べられる。商品になっている丸いままの柘榴は、皮に切れ目を少し入れて、6 つくらいに割ると良いらしい。食べ方を検索していて意外だったのが、種も食べられるということ。種ごとミキサーにかけるとか、そのままガリガリと食べたりもするらしい。まあ、種は種で植えるので、今回いただくのは昔ながらのジュースだけにしておこう。物理屋の視点からザクロの実を眺めると、それぞれの粒がおおよそ何面体なのかが気になる。泡と同じような感じなのかなー。
12月19日、冬の花壇に何を植えようかと思案する時、冬に育つ作物も検討する価値がある。ネギなどは、凍らない温度であれば真冬でも伸びて来る。大根もまた、この時期に種を蒔いても育つ。大根のちょっと面倒なところは、芽が出たら土寄せする必要があること。種を深植えすると芽が出ないのに、浅い所からヒョロリと伸びてから本葉を出す。そのままにしておくと、変に倒れて曲がった大根になったり、細くて硬いまま膨らまなかったりする。そこで、本葉が出ている高さまで周囲から土を集めて囲む。大根は伸びるので、この作業を何度か行うことになる。面倒を避けて通るならば、そんな風にして育てられて、市場に並ぶ大根を買って来て、花壇に刺して飾っておくこともできる。やがて春になると塔が立って可愛い黄色の花が咲く。そこまで待てるか、それとも誰かが引っこ抜いて持って行ってしまうかは、花壇の環境によりけりだ。
12月18日、今日は空気の流れが穏やかで、日差しもそこそこあって暖かく感じる。冬の天気は寒気がどこに降って来るかで決まるので、寒気の中休みといった所だろうか。こういう天気の良い日には遊びに行きたくなるものだけれども、忘年会のシーズンとなると夕方の予定が詰まっている。日没後に仕事ができないということは、昼のうちに諸用を済ませなければならない。そして arXiv プレプリントサーバーも、レフリー依頼もどんどんと降って来る。後者の査読というのは完全にボランティアで、引き受ける必要がないと言えば無いのだけれども、editor やその友達に顔見知りが居たりすることも多いので、結局は引き受けてしまう。一応、線引きはしていて、脈絡のない論文の査読が SPAM 的に見たこともない雑誌から来たら、無視するか断る。ただ、世の中は変化していて、カネカネカネの世知辛い世の中だけに、投稿も閲覧という雑誌には多少の援助はしたいものだ。
12月17日、クローン苗を増やす方法には、接ぎ木の他に挿し木や取り木がある。挿し木は最もシンプルで、挿し穂を取って来たら水を切らさないように挿して、あとはひたすら待つだけ。発根する条件が整っていればやがて根が出て、そうでなければ枯れてしまう。取り木の方は枝に綿などを巻いて、外側からビニールなどで囲って水気を与え続けて発根を待つ。こちらの方は、根が出なくても枝は生きたままなので安全だ。ただし、根が出てから切り離して定植する時に、パッタリと枯れることもある。ついでながら、接ぎ木の場合には台木と相性が合えば一気に伸びるけれども、合わなければ即刻枯れる。また、時として台木が裏切って自分の芽を高々と伸ばしてしまう。目を教育に転じると、いつかは自立した状態になることを目指す場合に、どのように周囲から援助して行くかという工夫にも通じるものがある。裏切りの接ぎ木みたいな光景、よく目にするのではないだろうか?!
12月16日、今日もイジング模型。2つの異なる値を取るものが並べば何でもイジング模型という万能さ、普遍性についても、結構な時間を取って解説した。合金の模型というのが、統計力学では最も典型的だろうか。目にする金属では、合金ではないものの方が珍しいのではないかと思う。普通の鉄でさえ、混ざり物 (?) だらけだ。アルミ合金は言うまでもなく。鉛合金としてのハンダは、鉛の有害さもあって、あまり見かけなくなった。水銀や純金、そしてフォイルに使うアルミニウムは結構ピュアだろうか。この辺りは、昔は冶金工学の分野であった。今ではマテリアルサイエンスの本筋に位置しているのだろう、知らんけど。
12月15日、スーパーマーケットにテリーヌなどが並び始めた。いよいよ、家庭でもクリスマスを楽しむ時期となったようだ。これから先、年が明けるまで、じわじわっと半額品が多く出る季節だ。ただし、半額とは言っても高価なものが多いので、パッと飛びつくという風情でもない。そんな中で、チキン唐揚げのファミリーセットなどはお買い得。冷凍して問題ないし、スープにも使える。時々、このような半額品をカートに山盛りにして運び去ってしまう方もいらっしゃる。きっと大きな冷凍庫を持っているのだろう。いや、あんなに大量に買うと数万円は軽く飛び去っている、きっと裕福な方なのだ。
12月14日、魚の切り身がやって来た。結構大きな白身魚の身だ。まずは塩を軽く振って、キッチンペーパーで包んでおく。その後で、昆布を乗せて、ラップでくるんで冷蔵庫へ。夕方には、いい感じの昆布締めになった。昆布の方は良いダシが取れるのだけれども、他にも色々と食材が冷蔵庫に詰まっているので、ダシ取りは先延ばしにして昆布は冷凍庫へ。こんな風に昆布を使うようになったのは、いつ頃のことなのだろうか。食材も料理も色々と変遷があるものだと感じる。そういえば、最初に振った塩でさえ、幼少の頃はまだ専売だったし、流下式の天日蒸発の上に釜炊きしていた。隔世の感がある。
12月13日、アルプス乙女という小さなリンゴがある。リンゴ飴にしたり、形を保ったままコンポートにしたり、そのまま飾り付けにしたり、色々と活躍しそうな小さな小さなリンゴだ。おなじく小粒のヒメリンゴとフジが自然に交配して偶然にできた品種らしい。果物に姫とか乙女とか付けるのは昭和らしい命名で、今の世の中では新たに名づけ辛いものだ。このリンゴ、どうやら暖地でも普通に栽培できるらしい。色々な人が種を取って苗を作っている。今度見かけたら買って帰ろうかな。そういう気分でスーパーの果物棚を眺めていると、ザクロと目が合った。あれは完全に放置しても実がなる強い木だけれども、枝がトゲトゲの嫌われ者でもある。種採りも栽培も簡単だけれども、さて手を出したものかどうか。
12月12日、大昔の国公立大学は、入学金も授業料も、ゼロではないという名目だけの微々たる額だった。だんだんと大学生が増えて、そして税収が頭打ちとなるという社会の変化もあって、ジリジリと授業料が上昇して現在の状況に至る。年間で数十万、月割りで数万円という額は、自分で学費を工面しなければならない境遇の学生には重い負担となる。奨学金という名の有利子教育ローンが普及してみると、今度は借りたものを返却できるか? という問題が生じる。戦後の急激な社会変化が生んだ負の遺産を、これから先の世代にそのまま渡すことがないよう、解決の糸口を見つけたいものだと、常々感じる。
12月11日、あちこちで流れる音楽、そのまま聴き流せば良いのだけれども、ついつい聴き入ってしまうことがある。特に、クラシック音楽の場合。当然、クリスマスの時期はその頻度が増す。新年の邦楽も楽しい。軽音もだんだんと守備範囲に入って来て、ジャズっぽく演奏されるクリスマスソングも、色々な趣向を披露してくれる。時として、音質が気にになることも。アンプに使われるコンデンサーなどは、条件によっては経年変化が早まる場合もあって、定期的に音質を調整してあげないと、段々と妙な音質でスピーカーに音を送るようになる。スピーカーもまた、振動板に使われる材質が劣化すると音が変化してしまう。長い年月をかけてゆっくりと変化するので、毎日聴いている人は気づかない。同じ音楽を流しているチェーン店を巡って聴き比べてみると、その違いがよくわかる。そんな馬鹿げた比較は暇人でないと無理だけれど。
12月10日、もやし (?) として売られていたブロッコリーの芽の栽培は、本葉が 2 枚ほど出る程度となった。ここまでに半分以上が枯れただろうか。それでも、まだまだ沢山、パッと見て数百本は伸びている。容器のサイズから、最終的に残せるのは 2 本か 3 本。ブロッコリーを収穫するなら 1 本が望ましい。となると、残った苗は? 間引き菜として食べるか、それとも移植するか。まだ根が弱くて、引っこ抜くと枝根が出ていないので、もう少し淘汰が進んで数十本程度になったところで、移植を試みることにしよう。まあ、それまでの間にも、間引きで抜いたものから適当に移植してみようか。挿し木のようなもので、うまく根付けば良し、枯れたら鉢の肥やしに。アブラムシの付く季節になったら、畑に植えてあげよう。
12月 9 日、今日の統計力学は1次元イジング模型。端から配列和を取って分配関数を求める方法や、転送行列の扱いを解説した。この辺りは自分の研究分野の基礎となる部分なので、講義ノートは必要ない。ただし、完全にアドリブでやってしまうと、例えば添え字が 0 から N-1 なのか、1 から N なのかなど、思わぬ不統一に直面しかねない。昔に準備したノートをチラチラと眺めてチェックしつつ、なるべく自分で考えるように講義を進めた。それにしてもイジングと、その指導教員のレンツは偉いなーと思う。イジング模型という世界観が、どれだけ今の世に根付いていることか。AI の基礎。まあ、いずれは論理的モデルとして「自然発生」しただろうけれども。
12月 8 日、たらこを仕入れる。凍っているものを仕入れたので、キッチンペーパーを敷いて、解凍のドリップを吸い込みつつの手入れをしつつ、片端から賞味する。たらこの調味液は結構濃いので、そのまま食べるならば少し塩抜きしても良いくらいだ。そんな調理をしていると「タラコでタンゴ」なる珍曲が頭に思い浮かぶ。言うまでもなく元ネタは「タナゴでタンゴ」という、しまじろうチャンネルの楽曲。このような、言葉の short cut が頭の中に出来上がってしまうと、タラコを見た瞬間に「タラコでタンゴー」と口ずさむようになる。スーパーでは毎日のように売っている。突然「タンゴー」と叫ばないよう、しばらく売り場を避けておこう。
12月 7 日、夕方の三宮駅では、下りの普通電車がただちに折り返して西宮北口へと向かうという運用がある。ちょっと珍しいのが、車掌と運転手が「そのまま」業務にあたること。車両の端から端まで、車掌と運転手がダッシュして入れ替わる光景は、そこそこ田舎の三宮ならではのもの。東京や大阪ほど人がたくさんいると、さすがに駅のホームでダッシュは無理だ。田舎では (?) 運行要員もたくさんは雇えないのだなーと感じる。そんな場面を横目にしつつ、駅を一度出てクリスマスマーケットへと向かい、適当に買い物が済んだら再び電車でトコトコと、海辺まで戻って来る。寒い季節になった。
12月 6 日、葉物の野菜は、収穫してからの時間でかなり味が変化する。今の時期だとキャベツにしても白菜にしても、刈り取ったばかりの時は甘いのだけれども、時間が経つと外側からス抜けた味に変わって行く。最後まで甘いのが芯の方の黄色い葉で、これを先に食べてしまうと外側の劣化を少しだけ遅くすることができる。あくまでも少しだけ。葉物野菜は、さっさと食べてしまうに限る。いも類も意外と油断できなくて、寒い時に土に埋めておけば良いのだけれども、掘り出して洗ったが最後、置いておくだけでどんどん劣化してしまう。野菜も植物という生物なのだと考えれば当たり前のことか。美味しくいただこう。
12月 5 日、大学のそばにパイ屋さんという珍しいものを売っているお菓子屋さんがあって、大学への行きがけなどに時々チョコレートパイなどを買い求める。おやつ時に、色々と持ち寄ったお菓子を食べ比べる機会もたまにあって、チョコレート味のものが並ぶことも。それぞれ、単体で (?) 食べると普通にチョコレート味なのだけれども、種類の異なるものを続けて食べると、普通にチョコレート味であっても、こんなにも違いがあるのかと驚く。大抵のチョコレートは、これでもかと思うほどに甘味が強いのだ。美味しいものに行き当たるには、探索の幅を広げることが大切なのだと感じる例の一つだろうか。そういえば、最近できたケーキ屋さんで、まだ訪れていない所も大学の近くに何箇所かある。さて探索? いやいや仕事?!
12月 4 日、韓国で戒厳令発令、というニュースが突然舞い込んで、SNS から流れてくるリポートをあれこれと読んでいる内に日付が変わって、眠気で沈没。さて朝早くに起きて続報を、と思いきや既に事態が収拾していて、やれやれ。こういう事があると、やがて軍部が ... という昭和初期の風景とは随分と景色が違う。今の東アジアで軍事政権が立っても、得るところがあまり無いのだ。どこの地域も、ひとまずは電気水道が通って教育が行き届き、工業生産も順調という世の中では、大昔のようにインフラ整備をしつつ統治も拡大するというモデルは成立しない。昼頃にお腹も減ったと感じて、カレーの大盛りを食べたら、眠気がやって来て午後がすっ飛んでしまった。夜行性動物になり始めたのかもしれない。
12月 3 日、神戸大学の農場 (?!) で採れた大根を買い求める。販売までの一連のサイクルを実習するという感じなのだろうか。とても割安で、いくらでも欲しいところだ。保管場所がないのだけれども。今回は、白菜とキャベツも丸のまま購入した。さて問題は、全部合わせると大汗をかくほど重たいこと。野菜は水をたっぷり含んでいるので、ともかく重量がある。収穫する時も、重たかったんだろうなーと想像する。ふと、未来の農作業風景はどうなるのだろうかなーとも感じた。人型かどうかは別として、ロボットがたくさんゾロゾロと動き回っている、そんな農場だろうか。手塚治虫が、そんなマンガを描いていたっけ。
12月 2 日、統計力学の講義は今日からイジング模型に入る。相転移については、色々と解説すべきことがあって、そのどれを伝えるべきか? という取捨選択に迷うところだ。特に、AI 関係の話をどこまで詳しく話すかが昨今の懸案でもある。ホップフィールドの名前は持ち出すべきなんだろうなぁ。ボルツマンマシンと言う名称は、物理屋的にはちょっと不思議に感じるところもある。なにぶん、ボルツマンが提唱したモデルではないので。また、テンソルネットワークの扱いも。いやいや、そういうより以前にウィルソンの繰り込み群があるではないか。スケーリング関係式は、微視的な世界から宇宙までに広がる物理の階層構造の統一的な理解に必須なものだ。ダメだ、既に爆発しているではないか。
12月 1 日、久しぶりにハンバーグをサッサと焼いて食べる。美味しい。肉を食べている感覚がある。そしてハイカロリーだ。肉汁も油も閉じ込められた状態で焼き上がるので、材料に対して無駄がない。経済的でかつ美味しいのだから文句を言ったらバチが当たる。ただ、普段はじっくりと加熱して油は油で分離して取り置いて、肉汁はスープに使い、残ったタンパク質の塊を精進料理 (?!) のように食しているので、どれだけの油脂を胃袋に入れたか、容易に想像がつく。結果として、食後しばらくしてから、随分と眠たくなった。血糖値ピークというものだろうか。こういう時に無理すると、関節を痛めたり色々とマズ意ことになるので、逆らわずに昼寝するのが良い。栽培中のブロッコリー苗は、半分くらいの本数になった。まだまだ競争はこれからだ。
11月30日、今日も畑に球根を植えて行く。食べられないようなチューリップの球根であっても、野生動物が掘り返すかもしれないので、少し段差のある所の花壇だとか、網で囲ってある場所に植えて行く。さもないと、ある日突然、全てが無に還ってしまうことがあるのだ。数が結構あるので、作業は段々と雑になって行く。最初は球根が植わるだけ丁寧に掘っていたのが、途中からは半分くらい土に接していればよくなって来て、最後は根の出るお尻の部分だけが湿った土に乗っているような状態で良いように思えて来るし、実際そのような雑な植え込みとなった。例年、これでまあまあ咲いてくれるので良しとしよう。球根を何年も咲かすという高い望みは持っていないし、次の季節の作物の植え込みと重なって厄介なことにもなる。チューリップは咲いたら抜く、くらいで良いのだ。
11月29日、スロバキアからのお客さんと物理の議論をする。テンソルネットワークには、色々と課題があって、まだまだ発展途上である。当然、話題も沢山あって、話し始めると色々と論議が枝分かれして行く。下手をすると戻って来れなくなるので、元々は何から議論し始めたのかは常に頭の中に置いておく。2 次元の統計モデルでは、背景の空間がフラットであるか双曲的であるかの違いは重要だ。うっかり、前提を確認し忘れていると話が食い違ってくる。また、2 次元か 3 次元か 4 次元か? という点は、計算をどのように進めて行くかのアルゴリズムに決定的な差を生む。この点はテンソルネットワークが、まだまだ職人芸である証明でもあると思う。ちゃんとした計算手法は、人間が何かを決めなくても自然に計算が進むものだ。研究すべき点はまだまだ尽きない。
11月28日、オリヅルランを抜き去ったと思っていた鉢から、またまたオリヅルランの芽が出てきた。よしよし、芽が出たら駆除は容易だ、根の伸び方を確認した後で、大根のように太くなった根を一本ずつ引き抜いて行けば良いのだ。が、しかし ... 地上に顔を出したのは小さな芽なのに、根は数本以上あって、引き抜いてみると長さが 10 cm 以上にもなる。また、それぞれの根に付いている細根もまた、全部取り除いてみると結構な量になった。いつ雨が降るかよくわからない場所が原産地だけあって、しぶとさはピカイチだ。草の根とよく言われるけれども、これくらいシッカリしていないと、安定して繁れないのだろう。ここ何日かテレビでは何か報道されているらしいけれども、我々は兵庫県の草の根として支えるべきものは支えるまでである。
11月27日、昨日に仕入れたブロッコリーの芽の、プラスチックパックの底に穴をあけて土を入れて、上からブロッコリーの芽を置いて、さらに周囲に土を少しだけ増して、水やり。これだけ密にモヤシが生えているので、すでに枯れ始めているものもある。そんな感じで、これから強い芽だけが残って行くのだろう。光の当たる場所に置いて、しばらく放置してから眺めると、すでに芽が光の方向へと傾いている。自然の仕組みは奥深いものだなーと感じた。それだけではなくて、既に伸びている芽もあって、他から少しだけ背が高くて光を多く受けている。こういう強い芽だけを残して行くのが間引きだ。畑に大根などを撒くと、どんどん間引き菜が採れて、それなりに美味しかったなーという、昔々の経験を思い出した。
11月26日、スーパーマーケットで「ブロッコリーの芽」と目が合った。ブロッコリーのもやしだ。かいわれ大根に近いものだろうか。ブロッコリーに育ってくれるのだろうか? という疑問が頭をよぎる頃には、すでにパッケージを買い物カゴに放り込んでいた。明日には、容器の底に土を敷いて、栽培を始めてみよう。きっと、ヒョロリと伸びて、そのままでは作物の採れない状態になるのだろう。どんどん間引いては食べて行くことにしよう。そして最後まで残ったものが葉を大きく広げて、ブロッコリーらしい花を付けて、あわよくば種も採れて。どんどん妄想だけは広がって行く。貝割れ大根とは違って、食べる部分が地上部だと言うのがミソなのかも知れない。貝割れ大根は、そのまま育てても大きな大根にはならない。当たり前のことながら。
11月25日、高松でいつも思うのが、讃岐うどんは本場が一番美味しいのか? ということ。もちろん普通に美味しい。どこへ行っても、うどん屋には事欠かないし、普通の飲食店でも昼食時にはうどんがメニューに並ぶことが多い。ついでに、地代の安い田舎なので安い。チェーン店と言えども品質や味にはこだわりの店が多い。では全国的に提供されている大学生協の食堂のうどんは? これが侮れない。生協のメニューの中では決して安価ではないのだけれども、味は確かだ。最近はどんな食材もすぐに全国区になってしまうので、どこでも何でも良い品質で食べられるものなのだ。... と書いてて、ハッとしたのが、自分は年中、冷たいうどんしか頼まないので、それが原因でこういう感想を持ってしまうのではないかと。たまには素うどんも食べてみよう。
11月24日、オーケストラ楽曲に接する。オーケストラを聴く度に当たり前の如く感じるのだけれども、オーケストラの音はオーケストラでしか聴くことができない。電子楽器でそれっぽい音にはなるのだけれども、違いは歴然としている。まあ、電子楽器に演奏者をそれぞれ付けて合奏すれば、音楽的にはオーケストラと言って良いわけで、演奏者を付ける代わりに DTM で音を創り上げて行くことも可能だ。では何がオーケストラをそれらしくしているのか? と思案する。恐らくは、演奏している姿がそのまま見えるという所に、オーケストラの人間的な要素があるのだと思う。美しい音を聴いた後に、乗り物に飛び乗って海を渡る。讃岐の地を訪れる、いやいや、帰ると、いつも穏やかな心持ちになる。故郷は不思議なものだ。
11月23日、今日も? 土と向き合う。ひたすら球根を植える作業を黙々と続けること何時間か、随分と作業が進んだと思って球根が入っている箱を眺めると、あと 2/3 は軽く残っていて絶望感的幸福感が漂う。まだまだ作業できる。どうしてこんなに時間がかかるのかというと、ついつい余計なことに手を出してしまうからだ。カタバミやヘクソカズラなど、生えて欲しくないものがあれば引っこ抜き、石が土に混ざっていれば取り除き、その辺りの植木に妙な部分を見つけたら、球根から意識が枝葉に集中してしまって、しばらくは剪定作業に没頭してしまう。これは研究にも通じる、私の悪いクセかも知れない。サッサと進めるべきことがあっても、ついつい目先の何かに気を奪われてしまうのだ。そんな日々がこの先も続くのだろう。
11月22日、土は柔らかいものだ。畑にシャベルを入れた時に抵抗があれば、それは根が絡まり合っているか、石ころでも混ざっているか、あるいは粘土の層ができているか、そんな所だ。根が絡まっている場合は、ハサミなどで切り払ってしまうと、まあまあ楽に作業できるようになる。太い根に遭遇した場合には、切っても良いものかどうかは慎重に検討する。普通は、枝葉の茂っている直下くらいまでの根を残せば、あまり背の高くない木の根は、根本から離れた場所なら切って問題ないはずだ。サツキのように、地下茎のような枝を地中に這わす植物も、ちょっと注意が必要かも知れない。場合によっては、根を掘り上げて株分けするのも良い。サツキばっかり植えても、管理が大変なだけなのだけれども。
11月21日、スロバキアからのお客さんは、今ヘルシンキで足止め。低気圧がやって来て、雪がどんどん降っている。今年初めての、しっかりとした (?) 積雪らしい。map でヘルシンキ空港を眺めると、飛行機が束になって待機していて、折々に地上の車両が除雪を行っている。除雪をしたら離着陸、しばらくすると全ての運行がストップして、除雪が完了したら再び離着陸の繰り返し。もちろん、普通の運用は無理で、どのフライトもかなり遅れているし、打ち切りとなった便もある。ようやくヘルシンキを離陸した日本行きの便は、夏なら北極へと向かうのだけれども、今は偏西風が強いので一路南へ。ロシアの上空を飛行できないのは、難儀なことだと実感する。
11月20日、集中講義は今日でおしまい。昨日までの、主に構造についての説明から、今日はいよいよ物性へ。ここで、物性物理学の基礎知識が必要となって来る。そもそも物性物理学というのは雑学で、こまごまと色々なことを知った上で、ああでもない、こうでもないと論じる世界だ。ただし、それぞれのパーツには暗黙の前提があるのが普通で、今回のテーマである準結晶ではうっかりすると、その前提に当てはまらないことまで「直感的」に論じてしまうという罠が色々と待ち受けている。この辺りが研究として面白い部分なのだけれども、まあ、そういう世界があるというのを垣間見れるのが集中講義を終える良いポイントなのだろう。3日間の講義、ありがとうございました。
11月19日、昨日から明日までの間、外部講師にお願いした集中講義が行われる。その世話人として、そして講義受講者として、珍しく (?) 朝から大学へ。今回は、準結晶の話題から色々と伺えていて興味深いというか、自身の専門であるテンソルネットワークとの接点も色々と見えて来て面白い。様々な切り口から、割と直感的に講義していただけて、学生さんたちの反応も割と良い。物理学の裾野は広いものだと思う。今日は急に寒くなって、講義室にも暖房を入れた。入れたけれども、なんか寒いなーと思っていたら、冷房モードのままだったことが途中で発覚、慌てて暖房に切り替えるというドタバタも。
11月18日、兵庫県知事の選挙では元知事が再選となった。私がつながっている人々、その中には学生さん達もたくさん居るのだけれど、その中では圧倒的に元知事の支持があって、新聞メディアから流れてくる情報とのズレがかなりあった。実際の開票結果では、意外なほどの僅差 (?) で、SNS だけが世の中ではないのだなーとも感じた。直接民主制というか、為政者と民衆が直接的に、少なくとも集約的には意見交換が可能であることが、選挙の成果として得られたのではないかとも感じる。静かに、ある種の革命が始まっているのだと思う。フランス革命の経緯を読んで行くと、革命の当事者が革命だと感じるずいぶん前に革命は始まっていたことがわかる。今は、どういうタイプの革命がやって来るのか、まだ判然としない。よくよく世の中を眺め続けることにしよう。革命の肥やしや捨て石にならないように。
11月17日、JR の長距離利用もそろそろアプリにしようかなーと思い始める。近距離は交通系 IC で全く問題ないから、今ままで長距離だけは自動販売機などで現金決済していたのだけれども、海外からの観光客がめちゃくちゃ増えて、みどりの窓口は言うまでもなく、自動販売機ですら長い行列ができるようになったのが、その主な理由。アプリへの誘導も兼ねて、行列ができる程度の状態を意図的に作っているのかも知れない。今日は金沢から神戸への移動で、券売機の順番が回って来た時には発車 5 分前。席を指定している時間はないので、自由席を購入の後で、ともかく北陸新幹線に飛び乗る。気分的にはギリギリだったけれども、実際にドアが閉まったのはその 3 分後であった。そんなものかな。その後は順調に神戸まで戻りついて、兵庫県知事選挙に出向いた。世の中、良い方向へと向かいそうだ。
11月16日、お日柄が良いようで、研究会の会場までやって来る道中の神社でも、七五三のお参りにやって来た親子がたくさん詰めかけて撮影をしていた。研究会が行われている迎賓館では結婚式の準備が朝から行われていた。ちょうど昼休みになった頃に、人前結婚式が始まって、道行く人々も立ち止まる中での式次第となった。研究会の参加者も何名か、遠巻きに見守る聴衆、いや証人 (?) となって眺めていた。花嫁さんが自然に幸せそうにしていたのが印象的で、末永い幸せを祈った。後ろからは、誓いの言葉では、あまり何でもかんでも誓わなくていいという声も、通行人から上がったような、気のせいのような。
11月15日、研究会の会場の「しいのき迎賓館」は、文字通りシイノキが見事に仕立てられた門前に建っている、恐らくは明治時代の石造りの建物だ。リノベーションされていて、北側は立派なガラス張りの鉄筋コンクリートで、南側の古い構造物を周囲から支えている。こういう建物はヨーロッパではよく見かける。あちらから技術移転してきたのだろうか、それとも見学して来て技を盗んだのだろうか。贅を尽くした大理石の装飾などは、今では真似ができないというか、昔のセンスそのままには再現できないものだ。そういえば、梅田に建っていた阪急デパートも、南側の一角には大理石の立派な階段があったなー。神戸では、旧居留地の大丸と、三宮の阪急デパートに、そのような大理石の階段が残っている。あ、建物に目を奪われないで、研究会に集中しよう。
11月14日、田んぼが続く農地の中に、点々と盛り上がる里山は小さい頃から見慣れた原風景だ。山際のあぜ道を歩くと、秋になって積もった落ち葉や枯れ枝が、優しく地面を包んでいる。大きな葉、小さな葉、赤くなった葉もあれば、風に吹かれて緑のまま降った短い枝もある。やがて冬にかけて全てが土の色に紛れて行くようだけれども、よくよく眺めると地面にはもう新芽がたくさん生えている。次の季節を生きる芽を支えている大地は、これまでの蓄積なのだと感じる。山際では大雨で土が流れて来たりもする。有機質に無機質、両方が混ざり合って自然なものが出来上がるのだろうか。そこから心というものが生まれる不思議は、いつまでも解明されないで欲しいとすら思う。
11月13日、快晴で風もあまりない初秋のような日中、交通機関を使って移動していると、集団で旅行中の小学生と、その引率の先生方に遭遇した。カメラマンさんも来ていたので、修学旅行なのだろうか。この年齢の小学生は、まだ個人差が非常に大きくて、もう高校生のように見える女の子もいれば、まだまだ小さな子供たちも目立つ。個人差というよりも、男女差なのかもしれない。今日が最終日のようで、疲れ切って座り込んでいる子供も。先生方は元気そのもの、疲れを知らない。日頃から鍛えられているのだろうか、それとも要所要所で休みを取る天才なのだろうか。大学の教員では、このようにキビキビとは動けない。初等教育というものにも、首を突っ込んでみたいものだと、ちょっとだけ思って、いやいやそれは天職ではないと悟った。
11月12日、そろそろ球根を植える時期になった。植える場所はどこだろうと、畑のあちこちを見て回ると、すでに何かが顔を出している。スイセンだ。あれは最強の雑草、夏の間は全く姿を見せないのに、今頃から少しずつ伸びて、春先に花を咲かせた後に葉を伸ばして、梅雨時に枯れてしまうとまた地中での待機モードとなる。枯れる頃に掘り上げれば好きな場所に移植できるのだけれども、根を張って葉先が出た状態ではもう動かせない。仕方がないので、これから購入する球根は、少し離れた場所に植えることにしよう。場所は作るもので、空くのを待っていてはダメというのは、研究にも通じるものがある。
11月11日、場の理論で常々思う所は、どれくらいローカルに物事が決まっているのかということ。交換関係はデルタ関数で表されるのだけれども、実験的には大抵の場合、波数空間を眺めていて、同じ場所とか近い場所という実空間での距離を直接的に把握できているわけではない。じゃあフーリエ変換して波数空間で全てを記述すればという事になるのだろうけれども、そもそも全宇宙にわたって波数空間を張るのは狂気の沙汰だ。実際的には、その中間の波束を基底とする量子場が見えているはずで、どういう実験的な設定の下で何がどこまで分解できるのか、そこをハッキリと思考実験する必要があるのだろうと、薄々考えている。
11月10日、サツキの世話をしようと、刈り込み剪定を繰り返したサツキの枝を分けて眺めて、一筋縄では行かないことを認識する。いくつもの株の間で枝が交差するように入り組んでいて、しかも仕立て上げた生垣の表面は平面的なので、どこかの枝を抜くと穴が空いてしまう。抜く枝を決めておいて、目立たないように段々と葉を刈って行くのが現実的な剪定の方法なのだけれども、何年間も継続的に眺める必要がある。うーんと考え込んで、簡単な場所から手をつける事にした。面倒なことは先送りというわけではなくて、まずはスキルを身につけることから始めれば、段々と解決策が見つかるだろうという、楽観的な考え方だ。研究もそんな風に進めようか。
11月 9 日、干し椎茸を水で戻す。このとき、多量の水を使うと後で煮詰める必要がある。少量で戻そうと思ったら、まずは全体を湿らせてしばらく放置して、すこし柔らかくなったところで軸を切り、隙間がないように積み重ねてから必要な量の水に漬ける。また、時間を置いて上下をひっくり返して積み直す。こうして、充分に戻ったら、ようやく調理。これまた時間がかかるもので、酒味醂醤油など薄味から始めて、火が通ったら砂糖を含ませて、味見をしつつ醤油なども足す。ともかく時間をかけないと、ただのキノコ煮になってしまう。もっと速く調理する方法が編み出されれば画期的なことだ。それも、できるならば常圧の下で。昔から知られている、最初に粉砕するという手段を超えて。
11月 8 日、YouTube に意外と上がっていないのが校歌。曲としてどうなのか? と、あちこちの校歌を聴いてみると、作曲家が作った作品らしく、骨組みがしっかりしていて、幾らでも盛る隙間に溢れている。でも、演奏してみたというのは、そんなに多くない。大抵はピアノで演奏された、伴奏付きの斉唱か合唱だ。これはニッチである気がするのだ、少なくとも千人くらいは曲を知った人々がいるわけで、どんな楽器を手にしてもいいから、演奏を動画収録して公開すると、それなりに聴いてもらえるかも。まあ、でも、千人くらいなものか。中には凄い名曲もあると思うのだけれどもなー、校歌ゆえに流行歌にはなりえないか。
11月 7 日、大学の通路を歩いていて、背が高いモッコクの生垣に遭遇した。他の場所にも同じようにモッコクが植えてあるのだけれども、その場所だけが 2m 以上の丈になっている。しかも、光が入るべき場所にあって、光を遮ってしまっている。よくよく枝の流れを眺めると、おおよそ人の背丈くらいの場所から幹がグニャリと曲がって、そこから上側は乱れた状態のまま大きくなっている。ということは、誰も気にしない内に伸びてしまったのだ。小さく整理すると、廊下も明るくなって良いではないか。暇をみて、背丈くらいまで整理しよう。外側が枝だけになっているのも、刈り込むだけの剪定を続けた結果だ。まあ誰も気にしないのだろうけれども。
11月 6 日、今日は月曜日の授業日。朝1限から2コマ連続で講義する。今日はフェルミ統計だ。フェルミ・ディラック積分なるものを延々と計算する。フェルミ面がある意味で海面のような役割を果たしていて、そこから上がる向きと潜る向きを可能な限り対称に取り扱うことを考えるわけだ。このように美しい世界となるのは、特別な物理系の限られた温度範囲なのだけれども、解析的に取り扱えるものは解析的に扱うべしという、理論物理学的な観点から延々と近似や展開を行う。ノートを黒板に移していて、受講者に内容が届いているのか気にはなる所だ。本心のままに「あとは積分するだけなので省略します」と言えたらいいのだけれども。
11月 5 日、大根のポット苗も大きくなって来たので移植してみようと思い、移植の方法を検索してみる。すると、大根は移植できませんと書かれている。正確には、移植するような植え方では、マトモな大根ができないのだそうな。よく耕した畑に、何粒かずつ種をまいて、よく育った苗のほかは間引いて食べてしまうのが正解なのだと。これはニンジンも同じ。なるほど、大根の苗もニンジンの苗も売っていないわけだ。妥協案ではあるけれども、ポットで育った大根は根がなるべく真っ直ぐになるように畑へと移して、背が伸びたら増し土できるようにした。そういえばダイビングでもダイコンが使われるのだったっけ。
11月 4 日、教員の労働組合への加入率は低い。そういう自分も所属していない。最初に赴任した大学で、一応の所、勧誘はあったのだけれども、積極的にという雰囲気ではなかった。自動車を持っていれば保険料の割引があって、そこそこ帳尻が合うとは聞いたけれども、ペーパードライバーには需要なし。何よりも、職場の教員組織に加えて、もう一つの組織に加入する煩わしさを想像するだけで、やめておこうとなったのが正直な所だ。これは今日の労働運動あれこれにも共通する所があるのではないだろうかと感じる。今の大学では色々な業務をこなす必要があって、昔のようにノンビリと仕事している訳でもない。課外の時間や休日に組合の会合があって、というのは、想像し難い所がある。一方で、SNS の効果は時として凄いもので、保育所の待機問題などポスト一つで改善が進んだものもある。社会が急速に変わりつつあるのだ。
11月 3 日、長く園芸をやっていて気付いたことの一つが、四角い鉢の壊れやすさ。鉢は割れても、色々と使い勝手があるので溜め込んでおくのだけれども、数少ない四角い鉢の残骸がけっこう積もっている。これはまあ、ヨーグルトやプリンの丸い容器と、牛乳パックを思い浮かべると容易に想像がつく所で、平面は力学的に弱いし、角が立っているとそこから欠けやすい。四角い鉢は隙間なく並べられるので一見すると便利に見えて買ってしまうのだけれども、隙間がないと掃除が困難になるなど、使っていると欠点が目につく。そして壊れてしまうのだけれども、縄を巻いてみたり接着してみたりと、手間をかけるのもまた園芸という妙な付き合いが続いていて、なかなか捨てることができない。園芸とはそんなものかも。
11月 2 日、嵐がやって来る。それも、前触れのないような形で。今はアメダスもあるから、九州の方から嵐がやって来ていると、事前に把握はできるのだけれども、雰囲気としてはただの曇り空。生暖かい湿った陽気、ちょっと季節が足踏みした感じの午前であった。西から突然のように雨のカーテンがやって来て、あとは前も見えない雨と暴風が吹き荒れて、しばらく何もできない状態となる。屋内にいなかったらずぶ濡れになっていただろうし、そんな状況で呆然と歩いている人もいた。少し雨風が落ち着いた頃に、もうちどアメダスを眺めてみると、神戸の観測地点では気圧が 20 hpa は落ちていた。小さな低気圧が前線上を移動したのかも知れない。夕方になって、近所のデパートへと立ち寄ると、半額のオンパレード。ここまで荒れるとは誰も想像できなかった、ということはよく理解できる。三宮で行われていた食フェスは中止となったようだ。
11月 1 日、容易に挿し木で増えるラベンダーは、いくらでも苗が作れる。そういう品種の苗はともかく良く伸びるので、気がついたら一本の茎が徒長して、そこから脇芽がまばらに伸びたような、間延びした苗になってしまっている。こうなってしまうと、切り戻しのタイミングが難しい。そこで、挿し木の後で根付いてしばらくして伸び始めた頃に、もう芯を摘んでしまって積極的に脇芽を育てる。こうすれば小さな内から良く枝分かれした苗になる。よくよく思い出してみると、長年育てているラベンダーの苗を購入した時に、細かく剪定した跡があって不思議に思ったものだ。自分で苗作りしてみると納得が行くものだ。コンピューターのプログラムにも似たような所があるかも知れない。良くできたコードは、うまく分業の枝分かれが仕組んであって、しかも見通しが良い。良くないのはスパゲッティーと呼ばれるゴチャゴチャのコード。芸事には似た側面があるものだ。
9 月と10月の1行日記