←11月と12月の1行日記  

10月31日、今日はハロウィン、カボチャのスープを食べる。SNS では、蓮根の穴を使った骸骨マークのような煮物などの写真が流れて来る。学生さん達も、少しばかし普段とは違った服装の人々がチラホラと。授業が終わったら、ハロウィンパーティーに行くのだろうか。平和な日本ではあるけれども、治安の確認が取れない場所や時間帯もあるので、そこそこ気をつけて過ごしてもらえればと、密かに思う。週末に三宮駅の北側の広場へ行くと、体力を使い果たしたかのような若者も時折見かける。通り過ぎつつではあるけれども、その間だけでも見守るべきなのかな、とも思いつつ、その場を離れるのが常だけれども。あの場所については、巡回している警察に任す。

10月30日、スーパーマーケットで半額品を拾うと、料理のバリエーションを失ってしまう。結構な数が出ることを見越せる商品しか、最後の端数が出ないからだ。惣菜や弁当の類に半額シールが貼ってある場合、まずは昨日一昨日に同じものを食べたかどうかをよく思い出してみる。食べていたら、今日もまた食べたいか自問してみる。結構、微妙な所がある。そしてまた、自宅にストックしてある食材をよく考えてみる。夏場は乾麺を茹でれば幾らでもツルツルと食べられたけれども、今は無理。そういう理由で、購入してからひと月以上も積んである乾麺が結構ある。考え始めると冷凍庫も気になる。ここまでの思考過程で数秒間フリーズして、ハッとして次の行動に移る。やっぱり半額品を買うのであった。

10月29日、その昔、大阪大学で学んでいた頃は、秋の新学期の頃に掲示板の辺りがキンモクセイの香りに満ちていた。あの花の香りを抽出できないかと、花を無水エタノールに漬けて保存してみたこともある。結果は大失敗。花はさまざまな有機物から構成されているので、色々な香りが混ざってしまうし、その上で時間が経って分解すると、結局は草のような香りになってしまうのだ。ふとその事を思い出して、香水などはどうやって作っているのだろうか? と検索してみると、あれこれと複雑なプロセスが書かれている。とても真似できない。長い間に蓄積されたノウハウなのだろう。さて、そのキンモクセイ、今年は今頃になって香っている。秋の訪れは少しばかし、遅くなったのだろうか。少なくとも今年はそうだ。

10月28日、一夜明けると保革伯仲の世の中になっていた。これはどこかで見た光景、そう、日本新党が突然やって来た頃に少し似ている。その後には最大与党が割れるという出来事もあって、今日に至っている。その割れ方が保守とリベラルと称されることも多いのだけれども、どちらかというと慣習を大切にする人々と、新しいことをやってみたい人々に割れたのだと感じている。例えば選挙にモチ代を配るかどうか? という辺りだ。どちらが絶対的にマズいということは無いとは思うのだけれども、当選した人々が行政をどちらに持って行くよう立法を行うかは、モチの扱い方がよく反映されるような気がしている。教育現場から見える風景では、これまでどんどん多様化するばかりであった入試は少しシンプルにした方が良いのではないか? ということ。

10月27日、木の剪定をどうやるのか、本を読んでもあまりよくわからない。セオリーとしては、変な枝ぶりにならないよう、立った枝や交差した枝、平行に伸びる枝とか、十字になったカンヌキ枝を取り除くと言われている。でも、実際に木の前に立つと、書物で見るのとは全く違った光景が広がっている。困ったなーと、一旦は撤収して、YouTube で剪定の解説映像を眺める。植木屋さんが剪定の方法を解説すると仕事が来なくなるのではないか? とも思うのだけれども、ともかく実際の木を切りつつ解説してくれるので、超わかり易い。方法が頭に入ったところで、再び剪定する木と対峙する。今度は、作業を始めることができた。但し、YouTube で眺めたようには効率よく作業できない。やはり年季は大切なものだ。毎年の剪定で段々とスキルを身につけよう。

10月26日、関西在住の、故郷の高校を卒業した同窓生が年に一度集まる会に出席する。今回は弁天町。この駅に降り立つのは人生初のことだ。いつもは天王寺や関西空港へと向かう途中駅に過ぎない。駅のすぐ隣にあるビルはタワーで目立つのだけれども、その他は大阪らしい低層のビルが連なる街。時間があれば歩いてみたいような気もする所なので、機会があれば再訪しよう。同窓会では、毎度お馴染みの応援団と校歌。若い頃に演舞で鍛えた人々は体の使い方が違う、⚪︎十才になっても軽々と応援のポーズを決めて行く。今回は、お菓子屋さん (?) として起業された方も登壇された。とても細かい模様をクッキーに書き込むという、恐るべき根気と集中力の持ち主だ。加えて絵心というか美術的な才覚もあって、できる人は何でもできるんだなーと再確認した。自分は物理だけに不確かな技量は持ち合わせているけれども、その程度でも良いかなー。

10月25日、いよいよ選挙も終盤となって、各候補の選挙カーも大学近くまで続々とやって来るようになった。大学に勤めている人々は選挙区に住んでいる可能性が高い。大学に通っている学生さん達はどうだろうか、低学年だとまだ住民票を田舎に置いたままかもしれない。最近は不動産や銀行口座などを利用する時に住民票を確認されることも多いので、段々と神戸市民の学生さんの割合も増えて来たのかもしれない。若い人々の選択やいかに。今の政治の選択肢の一つが、労働賃金の国際的な比較だろう。労賃を上げるのか、それとも円の価値を高めて行くのか? 相反する要請にも見えれば、同時に実現すべきものとも思える。マクロ経済は難しいものだ。投票まであと 2 日。

10月24日、朝一番にお茶をいれる。最初の茶は香り。まだ茶葉が水を含まない内に、表面から草のような香りと、蒸して干した乾物の香りが茶に移る。次の一杯では旨みが目立ち、湯を注ぐごとに段々と甘みへと移る。最後は茶葉を鍋へ移して水を加えて火にかける。ここまで来ると番茶と同じだけれども、番茶よりも美味しい、渋めの茶になる。これはどこかで飲んだ味、そうそう、ペットボトルに入っているお茶の味だ。きっと、大きな容器で温度管理しつつ煮出すんだろうなーと想像しつつ、茶葉に残る渋みを味わう。最後の最後は、生ゴミ行きか、あるいは堆肥に。そのまま放置しておくと綺麗にカビが生える。元々が若葉なので分解も速いのだろう。さて論文を読もうか。

10月23日、暖かいので、ついつい忘れていたのだけれども、そろそろ秋の剪定の時期だ。春夏で伸びた枝葉を刈り込まないと、冬を迎えられない。真冬になってから思い立って作業しようとしても、寒すぎて長続きしない。というわけで、この辺りから切るべきか、あの辺りかと考えながら、ぼちぼちハサミを入れる。カボチャなどはもう収穫だ。秋ナスもこれが最後だろうか。トマトは、まだ少しの間は収穫できるし、イザとなったら引っこ抜いて丸洗いして、室内へと取り込んで水耕栽培に移すことも可能だ。グラウンドカバーの草なども平らに短く管理するのが理想。理想は理想なので実現するのは易しくない。

10月22日、フェルミエネルギーとは何かを考え始めると、何が真っ当な定義なのかよくわからなくなる。自由フェルミ系ならば、あまり迷うところがない。が、相互作用が入ってくると、さてどう考えたものか? ということになる。結局は接触電位のような形で、実験的に観測できるものから定義するしか選択肢がない気がする。平均場描像に移ると良いではないかと言われそうだけれども、ではどういう時に、どのような補正の下でそういう一体描像に移れるのか、誰もクリアに説明できない。そういう厄介さはあっても、物質は目の前にあるから、ともかく説明しなさいというのが物理学なのだから、可能な範囲でまずはサラリと最も粗い近似から入るのが常道だ。そうするか。

10月21日、ワンクリック詐欺という言葉遣いがある。クリックして詐欺に引っかかるのはパソコンユーザーだ。ということは、ある程度以上の年代になるのだろう。最近はモバイルデバイスを使って SNS やゲームしている時間の方が圧倒的に長いから、引っかかるとしたらタップして何かを選択してしまうか、スワイプか何かしているうちに意図しないものへと誘い込まれてしまうことが多いのではないだろうか。オレオレ詐欺もそうだけれども、どんどん新しいパターンが出て来るから詐欺が絶えないわけで、そろそろ新しい言葉での注意喚起が必要だろう。そういえば、ノートパソコン必携というのも何だか、もう既に感覚として古びている。デバイスは大きなものほど進化が遅いので、今やパソコンの機能はスマホを後から追いかける有様なのだ。黒板のノート取りも、スマホをかざすだけで十分だし、テキストの書き起こしもしてくれる。AI の進化は速いものだ。さて今日はフェルミ統計から始めようか。

10月20日、BWV530 Guitar というキーワードで検索をかけると、ギター合奏の動画がいくつかヒットする。バッハのトリオソナタの中でも、ギターとか管楽器を弾く人の中では比較的人気ある曲なのではないだろうか。何度か、いや何度も触れているように、ヴィラロボスのブラジル風バッハの中で、よく演奏されるアリアの元ネタなのではないか? と思わせる部分が BWV530 に含まれていて、そういう耳で聴いてしまうとモダンに聞こえて来るのだ。まあ、楽曲が古典的なのか現代的なのか? というのは語るだけ無駄なことかも知れない。その有名な部分だけをギター独奏で拾えないだろうか? と楽譜をめくってみる。バスとコードを拾うだけなら何とかなるだろうか。原調で弾けるには弾けるけれど、どの調がいちばんギター演奏に適しているのかは、研究の余地がある。そこまでするか? という点は別として。

10月19日、そろそろ次の新学期の教科書販売のことを考える時期となって来た。時折、生協が「積極的に」教科書を販売しているかのような印象を持たれることがある。正しくは、というか理想は、需要に応じて準備しておき、要望に応じて販売することだ。例えば教科書のごく一部分だけが講義で使われるなどの場合、その本がなくても学習に差し支えのない場合もある。また、図書館などで閲覧可能な書籍も多い。実質的に必要のないものが売れるというのは、組合員の付託を受けての営業としては望ましいことではない。教科書販売が芳しくないと、営業上の財務が悪くなって、結果として食堂のご飯が割高となるのではないか? という議論を耳にすることもある。これは実に妙な話で、例えるならば、1万円分の書籍を購入すると毎日のご飯が半年間1円安くなります、という感じの議論なのだ。教科書もパソコンもそうなのだけれども、クリックすると、いや、タップすると、翌日には宅配で届くものを生協で扱うことは段々と減るはずで、これから先々に生協が提供すべきものは、食事を含む学内サービスなのではないかとも感じる。急激に舵を切れるものではないけれども、進めるべきことは進めて行かなければならない。

10月18日、今日は最後の夏の日になるらしい。これから前線が夜半に通過して、そのあとは木枯らしが吹くそうな。とは言っても、まだ木々は青々としていて、枯れ葉は全く見当たらない。今年は夏が長かったなーと思う。今日は、その夏の最後を楽しむような服装の人がけっこう目立っている。金曜日だから、これから遊ぶぞーという感じなのだろうか。時折、雨がパラパラと降っているのは、寒気に押されて暖気が圧縮されている結果だろうか。暖域内での収束などと言われたりもする現象だ。それはそうとして、来週の月曜日には何を講義しようか、ええと、フェルミとボーズの続きからだな。

10月17日、神大にスタバがやって来て、もう 10 日は過ぎただろうか。当初に比べると客足も落ち着いて、店員の作業もこなれて来た感じがある。まだ時折、オーダーが通っていなかったりすることはあるようで、廃棄となるのだろうか、誰も手をつけない抽出済みの飲み物が傍に置いてあったりする。こういう場所は若い方々が働いているのが普通というか、学生さんの中からアルバイトを雇っていて、卒業とともに引退というパターンも良くあるのだろう。うまく人事が回る好条件にある気がする。大学教員のように、何十年も同じような顔ぶれで運営すると、まあ色々と不都合なことも出て来るものだ。小学校から高校までは、地域で人事の異動があるものだ。そう考えると、総選挙というのは、まあまあ良いシステムだと感じる。悪いこと (?!) をしたら退場となるのである。ホントかな???

10月16日、辺りの神社が色々とお祭りをしている。祭りといっても、縁日が並んだりお祭りステージが立ったりという派手なものではなくて、秋に採れたものをお供えして、粛々と神事が行われる、そもそもの祭事だ。まだ辺りには熱気が残っていて、お祭りの日時は旧暦の方が自然なのではとも感じる。これは正月と旧正月でも同じだろうか。この暑さが去る時に、急激に気温が下がるという天気予報が出ている。大昔にフランス語を習っていた頃、先生が言うには、フランスの秋はある日突然やって来ると。フランスも広いので地方によって様子が異なるらしいけれども、地球の大気のシミュレーション画像を眺めていると、確かにある日突然、ピレネー山脈から寒い風が吹き降りて来る。そうか、この週末は「六甲おろし」なのか、長袖の服など備えておこう。

10月15日、辛い青唐辛子を買って来る。少しスライスしてみると、ともかく辛い。特に種が信じられないくらい辛い。そこで、ヘタを取って縦に二つに割って、タネを取る。色々と調べてみて、辛味醤油というキーワードに到達する。鍋に醤油や砂糖など調味料を入れ、ひと煮立ちさせたところへ、粗く刻んだ辛味唐辛子を投入する。思いついて、油を注ぐと沸騰が始まった。液面に油の皮膜ができて、自然のフタになるので気化が抑えられ、下層の煮汁が沸点まで加熱されるのだ。こういう調理法はあるなーと思いつつ、適当なところで火を落として、醤油を容器に入れて冷蔵庫へ。作業が終わってしばらくすると、左手が暖かい。霜焼け防止に唐辛子を塗るというのは、こういう効果のことなのだと実感。これで目に触れたりすると大変なので、オリーブオイルを手に注ぎ、一度よく辛味を油に移してから手を洗った。それでもまだ、何だか唐辛子っぽいなー。

10月15日、プリンターがぶっ壊れた。講義資料の PDF を紙に出力しようとした所で、紙詰まり。しばらく前に、部品が一つコロリと落ちて、そのまま騙し騙し使っていたのだけれども、一枚二枚の出力なら何とかなっても、連続して出力するとドラムが加熱されて、紙が流れなくなるのだ。これでは使い物にならないし、そもそも有線 LAN しかインターフェースがないのは時代遅れだ。ついでに、ドラムも怪しくて、いつも印字が白くかすれている。ドラムを買い直す気にもならない。ここで、脱紙媒体に舵を切れたら良いのだけれど、今はプリンターが激安だという落とし穴が。小型の安いものを仕入れることにしよう。

10月14日、今日は祭日だー。と思ってメールを開くと、zoom に接続しているユーザーがいるとの知らせが入っている。あちゃー、zoom のスケジュールを、明日の火曜日にズラしておくのを失念していた。今日は振替休日だったよなーと思いつつ、zoom の予約を消去して、明日の朝に新たに zoom を組み直す。そして、受講者向けのデータベースも修正して、一件落着のはず。こういう作業には、得てして抜けがあるもので、明日になってミーティングを立ち上げようとすると、1 カ月先に予約しているだとか、ログインできないだとか、色々と妙なことが発生するかもしれない。明日は何を講義すべきなのだろうか。量子統計力学に入る前に、多粒子の量子力学を説明しなければならない。下手なことを言うよりも、場の理論から入った方が良いかなー。共変性まで立ち入ると、ゼロ点エネルギーの扱いが面倒なので、非相対論的な話にしておこう。場とは何なのだろうか、誰もその答えを知らない。

10月13日、色々な楽器の中でも管楽器奏者は凄いなーと常々思う。金管でも木管でもオカリナでもサンポーニャでも、ともかく笛かラッパを携えてフラリと一人で現れて、時には伴奏なしで 1 ステージの演奏をまとめてしまう。音楽は聞こえて来た頭の中で成立するので、物理的に重音が鳴る必要はないよ、と教えてくれるのだ。息を使う楽器というのも、音に飽きが来ない要因なのだろうか。ピアノとかオルガンで「歌いなさい」と言われても、どうやったら歌えるのかピンと来ない所がある。ギターはその中間くらいに位置しているのだろう。少なくとも「泣きなさい」とか「喜びなさい」はギターで表現し易い感情だと思う。でも、ギターで「歌いなさい」と言われたら、まずは同じ楽曲で管楽器の演奏を見に行く。ヴォーカルの映像は直接的すぎて参考にはなってもテクニカルな部分を拾いにくいのだ。管楽器は運指などビジュアルにわかり易いので、技を盗むとっかかりがある。

10月12日、うまく回らない仕組みが撤回されるというのは、よく批判されるものだけれども、撤回しないよりはずっと良い。このように世の中が移ろって行くからこそ、無駄なことは無駄なこととして語り継がれるのである。「教職専門科目」というキーワードで検索をかけると、ここ 20 年ほどの間に、紆余曲折があったことがわかる。行政は一般に、ガンダムの操縦席みたいなもので、レバーの本数はそんなに多くない。勢いでガガッとレバーを引くと、色々な副作用が出るものだ。そういう時に、レバーを戻すのか、数少ない他のレバーを調整するのか、そこには選択の余地がある。令和の世の中になってから、まあまあ上手くレバーを引き戻したものだと思う。こういう流れが、この選挙の結果としても出てくることを期待している。

10月11日、MacOS (というか Darwin というか?!) がどうも Unix としては妙なものになりつつある。アプリケーションフォルダをファインダーから開くと、そこにアプリケーションの数々が並んでいるのだけれども、Terminal からディレクトリを見にゆくと、何も入っていない。リンク情報がそこにあるのか? というと、それも普通の形では入っていない。あれこれと検索すると firm link という見えない形でリンクが貼られているとのこと。見えないものなので、リンクが壊れてしまったら戻すのには苦労する。また、path の設定もホームディレクトリのシェル設定ではない。どうも MacOS は普通の (?!) Unix であることを辞め始めたのではないかと。いや、そんなことは OS の名称が地名から取られる頃から聞こえて来てはいたなー。

10月10日、体育の日。この日に運動会するというのが大昔のしきたりで、少し後になると体育の日に近い日に運動会するというのがちょっと昔の慣習で、最近では平日に適当に体育館とかで運動会するというのが働き方改革の流れで、もうしばらくすると体育祭にわざわざ一日を使うくらいなら休みにしてしまうのではないだろうかと思う。これは入学式とか卒業式もまた同じなのかも知れない。その1日を行事で潰しますか? ということ。そうそう、大昔の大学には入学ガイダンスなんか無かった。資料を受け取っておしまい。必要なことは、学生便覧に書いてあるから読めということ。進学率が低いうちは、それで何とかなったのだろう。大学で学ぶものは何なのだろうか、社会実験としてここ100年ほど続いている学級・講義室での集団教育とは、と、色々と考えてしまう体育の日だ。そして今日は祭日ではない。散歩に出かけようか。

10月 9 日、Hopfield は、言わずもがな、ニューラルネットワークの元祖(の一人)としてよく知られた方だ。ニューラルネットワーク的なものは大昔から色々と提唱されて来ては、処理能力の限界もあってか、物理学の「多数派」からはオモチャというかキワモノ扱いされることが多かった。一方で、学会の中でも領域11という基礎に特化した人々からは、逆に面白がられて来た。世の中の情報処理がニューラルネットに向けて大きく舵を切ったこの10年と少しの間に、学会としての認識も変わったのではないだろうか。今回のノーベル物理学賞では、そんなことも感じた。なお、Parisi が受賞した時に Virasoro の名前も思い出したものだけれども、今回もまた Virasoro が思い浮かんだ。私たちが知る Virasoro は、ビラソロ代数のビラソロではなくて、少し、いや結構テンション高めにスピングラスを語る人だった。きっと高笑いしていることだろう。

10月 8 日、古いパソコンを廃棄する時に、ハードディスクを取り出すことになっている。昔は消去すれば良かったのだけれども、消去してもデータが残っている場合があることから、取り出して物理的に破壊することになったのだ。組み上げたようなパソコンだと、ドライバーだけでバラすことができる。が、製品だと六角レンチや特殊なドライバーが必要だったり、吸盤でパネルを取り除くなど難儀な作業が待ち受けている。どうしたものか? と、悩んでいたら目に入ったのが鋼製のナタ。これは超強力。アルミフレームは熱処理してある合金でも竹を切るようにぶった切れる。まさか電子部品を相手にナタを振るうとは想像もしなかった。

10月 7 日、統計物理学の後半の授業を久々に受け持つ。前半がどちらかというとメインで、後半は応用編だ。量子統計力学という冗談のような名前が付いた分野も扱う。統計力学が量子論と不可分なのは自然なことであるから、わざわざ量子統計力学と言う必要はないはずなのだけれども、フェルミ系やボーズ系の特徴が現れやすい低温の現象を扱うときに、この名称が歴史的に使われている。そのうち、きっとより良い用語へと収斂して行くことだろう。まだまだ統計力学は歴史が浅い科目だ。最後がイジング模型と繰り込み群。この辺りになると何を取り扱っても良い。数学との接点という意味では、素粒子理論よりも多彩なのではないかと思う。何といっても、取り扱う現象が多岐にわたる。さあ、ボチボチ講義を始めよう。1番目の粒子と2番目の粒子、こういう言葉遣いは、本当は避けたいものだなー。

10月 6 日、グラウンドカバーは庭づくりの脇役のような主役のようなポジションにある。土がむき出しであると雑草がどんどん生えてくるので、それを阻止するように芝やタマリュウなどを予め植えておくと、何も植えなくてもそれなりに綺麗に見える。但し、草は草なので、放置するとどんどん積み重なるように伸びて、やっぱり荒れてしまう。所々が枯れ込んでしまうことすらある。それでは元も子もないので、年に一度くらいは刈り込む必要がある。刈ってみて、意外な手応えにびっくりすることもある。伸びすぎて脇役が主役になってしまっているというか、周囲の木々の成長を妨げるかのように水を吸ってしまっていたのかも知れない。

10月 5 日、刃物屋ではない場所で、どんな包丁が購入できるのか、実はちょっと興味がある。結構良いものが置いてあるのがデパートで、ハイス鋼だとか粉末ステンレスだとか、なかなかオタクなものが並んでいる。刃物はどれも、その場で本当の使い勝手はわからないので、買うときは博打のようなものだ。どんな鋼材を使っていても、熱処理が悪いと全然切れないというか、研いで刃を付けてもすぐに切れなくなる。安価に何でも売ってるようなお店に並んでいるのは、付け焼き刃の商品が多い。使い捨てのヒゲソリの刃と同じようなもので、最初に付いている刃はそれなりに切れる。研ぎ直すと、あれっ? ということになる。カッターの刃は意外と良くて、ハンドルをちゃんと付けて研ぐとその辺の包丁よりも切れ味が鋭い。炭素が多くて欠けやすいのが特徴だ。百円で買える包丁の中に、時々、これは! というものも混ざっているから世の中、よくわからないものだ。そうそう、包丁向けの特殊鋼を供給していた有名な会社が、外資の経営となったのも、歴史の流れなのかなー。

10月 4 日、インド料理屋さんのカレーを真似て作ってみると、カレーをミキサーにかける所で難儀する。油や水分のような液体成分が少ないと、すぐにミキサーが空回りしてしまうのだ。また、野菜が十分に柔らかくなっていれば全体をミキサーにかける意味もあまりない。この経験で学んだことは、ホールスパイスの塊とか、生姜などだけを鍋から拾い出して、それだけをミキサーにかけて裏漉しして鍋に戻せば良いということ。特にカルダモンの中身が大切で、あの柑橘っぽい「食後の酸味」がないと、何となくカレーを食べた気がしない。この週末に、もう少し研究しよう。

10月 3 日、待望の雨の日になった。これだけのまとまった雨量がじっくりと降り続いてくれるのは久々のこと。これでようやく、秋冬の植栽をどのように持って行くかが考えられるようになる。球根の定植はまだ少し先のこと。まずは朝顔のような夏のものをエイヤッと撤去することから始めよう。種が取れればそれで良いし、ツルの挿し木で残った花芽は充分に咲く。寒くなって来たら、春菊のようなものも植えられる。久々にパンジーやノースポールに手を出そうか。カモミールのタネも仕込んでおくと、やがて忘れた頃に、考えもしなかった場所から芽吹いて来る。研究のネタもそろそろ仕込んでおかないと。最近は摘み取るような研究ばかりやっている、そんな感覚もあるので、もっと basic な所から素朴なサイエンスを探したいものだ。その前にスタバで一服。エスプレッソのリストレットの店内飲みが、あの中では自分的に唯一の選択肢だ。素朴な陶器の容器が機能的で美しい。

10月 2 日、週明けから arXiv プレプリントサーバーの状態が妙で更新が遅れていた。火曜日の更新は、普段ならばお昼頃なのだけれども、何と本日水曜日の早朝に更新された。仕方ないので、その時点で眠たい目を何とかしつつ論文検索する。3件くらい引っかかった。火曜日のような投稿数の多い日には、テンソルネットワークのようなマイナーな話題の投稿は避けられる傾向があるのだ。ひと仕事終わって、仮眠。次に起きて遅い朝食を摂った後、arXiv を開くともう Wednesday の更新が済んでいた。再び論文の検索。日に2度も検索したのは久しぶりのことだ。無料で利用できるシステムなので不平は言ってはならない。

10月 1 日、新学期が始まった。大学では灘区初のスタバが神戸大学で営業を始めた。どんな店舗なのかなーと見学に行くと、意外と店内は狭くて、そのスペースだけで利益を確保するのは困難に見えた。お店の前の、建物の内廊下にもデスクがあって、ここがフードコートみたいに利用できれば便利だろうなーと思ったのだけれども、意外にも飲食禁止の注意書きが置いてある。これはもう、100史記念館のフリースペースに畳でも持ち込んで、お茶席ならぬ和コーヒー席でも設けるしかない。よくよく考えてみると、生協もまたそのように積極的にテラス席を増やして行くべきであった。切磋琢磨しないといけないなー。

9 月30日、古いもの整理で出てきたのがエアメールの封筒。昔はよく使ったなーと感慨深く思う。あのフランス国旗色に、当時の外交の中心がフランスだったというヨーロッパの歴史があるのだろう。今はメールも SNS もあるし、何かを送るにしても FEDEX とか EMS とか、そういう手段もあるので、わざわざ airmail を指定することもない。そもそも今、あの封筒はまだ使えるのだろうか? と「あやしがりて」、検索してみると現役ではあった。電報みたいにやがて廃止されるものだとは思うのだけれども。ともかく断捨離、封筒は紙ごみに出した。断捨離というほどの抵抗感もなかったか。

9 月29日、新幹線ではいまだに切符を購入している。自由席ならばアプリを起動するよりも速い、というのもその理由の一つだ。運営側から見ると、ああいう設置管理コストのかかるものは早く廃止したいのだろうけれども、航空券みたいに全部をアプリに押し付けられるのも「鉄」の風情が無くなって面白くないものだと思う。さて今日は、往復切符を買おうとしたのだけれども、なぜか復路が購入できない。アセって往路だけ発券して改札へと急ぐと、自動改札が受付拒否。あれれ? と駅員さんに確認してもらうと、何と日付が異なっている。あれれれれ、自販機で「本日」を押したはずなのに ... きっと平手でバンとタッチした時に「翌日」が選択されていたのだ。うーん。一度、払い戻しして購入し直し。少なくとも数分間はみどりの窓口の駅員さんを経たので、原価 (?) で百円くらいの人件費は使ってしまったなー。なるほど航空券がアプリになってしまったわけだ。

9 月28日、インド料理屋さんでカレー作りを見学する。ミキサーにかけることが前提で調理を始めるので、スパイスも具材も火が通る程度の大きさに切れば良い。また、時間はちゃんと計算して作業に取り掛かっていて、玉ねぎを炒めるにしてもオニオンスープを作るほどには炒めなくて良い。具材に火が通ったら火からおろして氷水で冷却したあとで、ミキサーで細かくする。大切なことは、網でこしとること。生姜や野菜の長い繊維が、けっこう沢山あるものだ。カルダモンやシナモンをホールのまま茹でて、取り出さずにミキサーにかけるのも新鮮だった。なるほど、これがあの濃い柑橘のようなスパイスの香りの秘訣だったのか。カレーは野菜だけで作っておいて、最後に肉と合わせるのは、色々な人々が暮らすインドらしい所だと思った。

9 月27日、前日にネットワークの不調の知らせが舞い込む。これは難儀なことで、空気や水と同じような存在となってしまった電波が途切れると、研究活動はもちろんのこと、日常生活というか、その瞬間瞬間の人間的な活動 (?!) まで阻害されてしまう。これは革命と言い表すと良いのだろうか、人類がそのように変化してしまったのだ。となると、他のことは差し置いてでも、現場に駆けつけて復旧しなければならない。そして、大抵は色々と厄介なことが待ち受けている。原因となっているものを取り除くか更新すれば良いだけのことであっても、その機器を使い続ける必要がある、そんな場合も稀ではない。元凶をファイヤーウォールで囲ってしまうというのが解決策の一つだ。ただ、それにはルーターの調達が必要となる。浮いたルーターはどこにでも転がっているはずなのに、探すとなると出てこない。面倒なことだ。

9 月26日、デスクを整理していると、今までに受け取った辞令が色々と出てきた。後生大事に取っておいたのだろうけれども、今となっては何の意味もない紙の束なので、まとめてシュレッダーに放り込んだ。大学に在籍している限り、その記録は人事データとして残っているし、退職した後は、適時データ消去されルはずだ。その奥の棚からはアニメの opening を集めて収録したベータ規格のビデオテープが出てきた。贅沢にβ1sで撮っているではないか。とは言っても、それを再生するマシンはお払い箱にしたし、そもそもビデオ出力を表示できる機器すらない。オタクには幾らでも格上の人々がいて、すでに YouTube などに up されている映像ばかりなので、エイヤッとゴミ箱に放り込む。少なくとも、そのビデオを再生しようとする労力と、時間をかけてまで視聴しなければならないという自己自縛状態からは解放された。昔の人々が出家するというのは、こういう感覚だったのだろうか?

9 月25日、今日は少し涼しくなった、と思っていたら、ジリジリと暖かくなって来た。暖かく? というよりは夏の風が戻った感じなのだろうか。南の空を眺めると、ぐるぐると雲が渦を巻いている。いつの間にか、小さな台風ができたようだ。まだ海水が暖かいのだろう。秋を楽しむには、まだ少しばかし用心しなければならない。野山にはヤブ蚊を始めとして、さまざまな害虫や動物が潜んでいる。ヘビも居るのかな。もっと怖いのがダニと、究極のツツガムシ。ブヨとかアブとか、今の時期だとハチも怖い。いやいや、大王様はイノシシ。あの可愛いうりボーが、こんなに大きくなるのだと学内で気づくという経験もまた、得難いものだ。

9 月24日、職場へと向かう登山の途中で、スーパーマーケットが新装 Open していた。見たことのないほど店員さんが集結して、あれこれと案内している。一番大きく異なるのが、入り口にバリアフリーなスロープができたことと、レジが通過型から対面型に変わったこと。そして、入店してからの動線が向かって右から左へと変化したこと。今は色々と実験的な要素が大きいようで、絞られた品もあれば、拡充されたコーナーもある。段々と売り上げに応じた売り場へと変化して行くのだろう。空輸の白カビチーズは消えてしまっていた。きっとそのうち、復活するだろう。一方で、売れないものから、どんどん見切り品になるはずだ。

9 月23日、JR 西宮駅に降り立つ。けっこう何度も降りる駅なのだけれども、土地勘が全く働かない。神戸とは違って、目立った傾斜がないので、曇ってしまうと東西南北の区別も怪しくなる。まあどちらかというと、東西に太い道が走っているのは阪神間あるあるなので、当てずっぽうに歩けばそのうち何とかなる。昔、カーナビのない頃には、迷ったら太い道太い道へと進めと言われたものだ。今では歩行者もマップを眺めながら歩くようになった。それも、最短距離の表示付きで。行き先は、一昨日とはまた違ったコンクリート芸術の建物である教会。会堂とはこうあるべし、という感じの建物だった。

9 月22日、  思い立ってパエリアを作る。絶対に必要なものがダシ。海産物のダシでも肉汁でも味噌汁でも何でも良い。今日はカニの殻でダシを取った。甲殻類の殻は焼いてからとか、炒めてから水を加えるという手順があるのだけれども、今日はあっさり味にしたかったので、そのまま水を加えて沸騰させて、しばらく後にスープだけをこし取って準備完了。後はニンニク、玉ねぎと炒めて行き、ときどきは具材に合わせたスパイスを振る。色付けにサフランは高価なので、ターメリックで代用。トマトを加えて水気が飛んで来たら米を加えて混ぜ、馴染んだ時点でスープを七割方投入。フタをして 20 分ほど待つ。ここで好みのシーフードなど具材を乗せて、仕上がり具合を眺めつつ、熱いスープを振りかけて硬さを調整するだけ。芯のある状態も美味しいし、柔らかくしてもやっぱり美味しい。山のパエリアでは肉で作ってあったり、カタツムリが乗ってたりもする。今日はホタテとほぐしたカニ。作るのは準備も含めて 1 時間、食べるのはあっという間。

9 月21日、芦屋川駅で降りる。人生初体験かもしれない。阪急で降りたことのない駅は、けっこう色々とある。京都線は全滅に近いし、中津のように JR で行く方が便利な場所も、わざわざ阪急を使ったりしない。さて芦屋川駅を降りたら、そのまま少し東へ徒歩で移動。ほどなくコンクリート打ち放しの小さなビルがあり、そこが今日のコンサート会場。竹久夢二の歌曲を、その生涯の語りとともに楽しむという、けっこうコアな企画。ピアノとソプラノで 2 時間、たっぷり楽しめて満足して帰宅。YouTube でも改めて聴いてみる。歌い方もピアノ伴奏も千差万別で、比べてみる楽しみもあるのだなーと気づく。「予習」しておけば、もっと面白かったのかな。夕食では三里塚から届いた野菜をあれこれいただく。空芯菜の油炒めは定番の美味しさ。小松菜も有機栽培ならではの葉の厚さと青い香り。

9 月20日、昨日、神戸空港に降り立った瞬間から、熱帯に戻ってしまった。あの感覚は、ヨーロッパ旅行から帰って来た時のものだ。今朝は朝早くから活動開始。少しでも涼しいうちに動き始めて、段々と暑さに慣れなければ。まずは近場のスーパーへ、と足を運んでみると、開店 30 分前。そこで 30 分も立っている訳にも行かず、辺りを散歩する。カフェからは良い香りが漂って来る。誘い込まれそうになるのを我慢して、パン屋さんの前を通り過ぎると、これまた焼き上がった? それとも焼いている最中? のパンの香りが漂っていて、これは買い求めなければと思って立ち止まると、こちらも開店はまだまだ先。そうこうする内にスーパーの開店時間が迫って来たので、元に戻って買い物完了。今日はちょっと遅い出勤になった。

9 月19日、学会最終日に発表 1 件、その後で座長をこなす。学会はパラレルセッションなので、講演の開始時間はけっこう厳格に守る必要がある。5 分も食い違うと、渡り歩く人々が発表を聞き逃したりする。講演時間は 15 分、うち 10 分が発表で、残りが質疑応答の時間だ。実は、切り替えの時間を少なくとも 30 秒は見ておかなければならない。というわけで「私は」他の無駄時間をなるべく省く主義だ。学会講演に拍手は必要ない。登壇者と講演題目の読み上げも必要ないはずだ。ほっといても講演者が明確に述べ伝える。質疑応答も時間が来れば「ありがとうございました」とブッタ切る。それでも時間が押すこともあるので、場合によっては質問が尽きた時点で質疑応答を打ち切る。人々には、違和感を持って映ったかもしれない。

9 月18日、旅先だけれども、MacOS を update する。ダウンロードに時間がかかるかなーと思いつつ作業に取り掛かると、意外と速く完了した。ダウンリンクは速くないと、ホテル業は成り立たない時代になったのかな。今日も夕食は惣菜で済ませる。サラダを二種類と、焼きそばと、唐揚げを買って来る。関西とは焼きそばの味付けが微妙に違うような気がする。唐揚げは、値段の割に鶏肉が大きい気がする。札幌は都会なので、需給バランスから考えると、そんなに食が贅沢とは言えない気がするのだけれども、それでも何となく少しだけ贅沢だ。そんな気がすると思い込んでいるだけかも知れない気がする。そろそろ気を休めよう。

9 月17日、北海道に来たのだからと、カニ弁当を購入して食べてみる。美味しくない、というか、関西で食べるカニ弁当と同じ味だ。仕方ないと言えば仕方なくて、丸一日くらい保つように作ると、どんな食材でも味と香りが抜けてしまうものだ。最もマズいのが冷えて固まったご飯で、これを温めてほぐすだけでも味が結構出て来る。また、具材も抜けた味を少し立てるように醤油や酢などで作った調味液を少しだけ振り撒いてから、ご飯と一緒に温めると更に良い。旅先では無理があるので、よくよく混ぜて室温に戻すだけなのだけれど、それでもまあまあの味にはなった。それ以上を望むと、あの値段では無理である。小さなカニ缶だけでも、全部が脚の身だと何千円もする。生鮮食料品コーナーを眺めると、それはやっぱり北海道という感じだ。ただ、札幌は既に大都会なので、小樽のような凄さを期待すると肩透かしをくらう。

9 月16日、宿泊しているホテルは札幌駅から南へ歩いて、例のニッカウィスキーの看板を通り過ぎた先にある。もともと土地勘がない札幌なので、どんな所なんだろうかと思いきや、どうも北新地みたいな所らしい。いや、ちょっと、だいぶん違うだろうか、普通の街と歓楽街が混ぜこぜになったようなカオスな雰囲気がある。そして、欧米系の外国人が多い。これは何となくわかる。真夏にヨーロッパ旅行すると、昼間は暑いのだけれども夕暮れ時になると寒いくらいの時も多くて、札幌の夏はそんな感じなのかと、短い滞在でも想像がつく。また、地下で移動する通路や交通機関が発達している。真冬にやって来ると、どんな光景になっているのだろうか、不思議にも思う。それはそうと、札幌のお土産をどこで買ったものか、地元の商品らしきものは、神戸や大阪にやって来る北海道物産展で目にするものばかりだ、当たり前と言えば当たり前だけれども。

9 月15日、北海道までやって来る。手荷物の量など色々と考えて、LCC を使うのではなくて、よく耳にする航空会社の便で千歳空港へ。それも、わざわざ関西空港から。この辺りに航空券の価格の不思議があって、フライトによってはリムジンバス代金を支払ってでも近場の空港の便よりも安いのである。商売人だと、このような時間の無駄は儲けを飛ばすことになるのだけれども、もともと学問に儲け話はないのである、道中ゆっくりと色々な思索に没頭して、気がついたら眠っていた。関西空港に到着して、その変化に驚いた。昔は 3F に色々とお店があったのだ、活気があったなー。今は 2F が完全にフードコートと化してて、4F は外国人で大混雑。

9 月14日、某所でギター収録。音楽を生業とする者ではないので、感覚としては「お1人様発表会」だろうか。安いカメラ (?) で適当に収録する。問題はカメラではなくて技術とハート。何かを考えながら弾くような器用な真似はできないので、頭の中から音楽が逃げた瞬間に指が止まる。目の前のパソコンに、ニュースの画面が表示されていたりすると、目の端に引っかかってアウトなので、弾く時にはできるだけ何も目につかないようにする。一曲通して問題なく弾けることが、まず珍しい。途中まで、とりあえずノーミスだと、後半で必ず沈没する。いや、ノーミスを目指すと曲が小さくなってしまって面白くない。どちらかというと、ガーっと弾き続けておいて、後で良いところだけ継ぎはぎに編集する方が、曲をうまく表現できている、ような気がする。精進しよう。

9 月13日、教員業を勤めていると、推薦状を書くという業務も時々は発生する。推薦状は、ほぼ身元保証なので中身に意義があることは稀なのだけれども、まあちゃんと書いておこうと考えている。文章には構成というものがあり、同じ内容を繰り返したりはしない方が良い。読み始めの部分や読み終わりの部分は特に印象に残りやすいので、そこだけ読んでも中身が何となく把握できるような流れを目指す。時々、英文での推薦状ということもあって、こちらは単語の選択が難しい。下手をすると幼稚な言葉遣いを並べてしまうものだ。科学論文のように定型区があるはずなのだけれども、普段は使わない言い回しはアチコチ見て回るしかない。AI は大いに使えるのだけれども、それでも最終的にチェックするのは自分の目だ。こうして創り上げたものは「ひながた」として次回また使いまわそう。

9 月12日、信号待ちをしているとモッコクが目に入る。モチノキとモッコク、容易に見分けがつく木ではあるのだけれど、パッと見ではどちらがどちらと、区別して意識することもあまりない。どちらも常緑で葉が分厚く、木の実がなって鳥が食べにやって来る。似ているから種類も近いのだろうと思っていたら、モチノキはバラ亜綱ニシキギ目モチノキ科、モッコクはツツジ目モッコク科。けっこう遠くて、花を見ると形が全然違う。パッと見が似ていても、ちゃんと見分けるポイントを堅持して見分けなさいという、生物学の着眼点は傍目にもすごいものだと思う。遺伝子までやって来た生物学は、これからどう発展して行くのだろうか。

9 月11日、学会が段々と近くなって来た。今回は北海道は札幌での開催で、寒かったらどうしようかと気にしていたのだけれども、天気予報を見る限りは関西の中秋くらいの気温らしくて、ひと安心だ。本格的に何日も学会や研究会に参加するのは久々のことなので、さてどのセッションに顔を出して、何を見聞きしてこようか? と思案中なのである。物理にも色々と研究分野があるものだけれども、領域 11 と 12 は宝の山というか、玉石混交で外せない。他の領域だと、どちらかというと同じ方向へ向いて研究を進めている感じがあるのだけれども、この 2 つの領域では、いかに誰も興味を示して来なかったものを論じるか? という気概ある発表に接することが、頻繁にある。たまに、気概だけだったりすることもあるのは、ご愛嬌。さて、老骨ならではの技を見てもらおうか。

9 月10日、丘の上の大学から南の空を見渡すと、熱帯の雲が見える。沖縄のあたりにある熱帯低気圧を回るような南風が運んで来た湿暖気が生んだ雲だ。六甲山の方を眺めると、こちらも大きな積雲がモクモクとしている。今日は暑いし、ひと雨来るかも知れない。もう 9 月も中旬に入ろうとしているのだ、小中高と、既に授業が始まっているのは信じ難い所でもある。AI など色々と教育の道具もあるのだから、もっと 1 単位の授業時間を減らして、8 月 9 月は夏休みで良いのではなかろうか。... など書くと、子育て働き盛りの世代の反発を食うのは必至だろうか、でもコロナ騒動の折には、在宅勤務でも社会が回っていたんだよなー、外食産業はともかくとして。

9 月 9 日、そろそろ予算申請の書類を仕上げなければならない。毎年のように、けっこうギリギリになって執筆作業を始める。というのも、なるべく新しい研究ネタを盛り込みたいからだ。そんなものを書いたらアイデアを盗まれるという人も居るのだけれども、読んで盗まれるようなものは盗まれて良い。あ、読んで盗まれないということは、読んでも理解されないから、結果として予算申請が通らないということになる。うーん、今まで通ることもあれば、通らないこともあったから、あまり深く考えずに、自分の信じる所を書き込めば良いのである。それはそうと、今日はもう一件、書類を仕上げなければならない。それも英語で。物理学には国境がないものだ。あ、また書き物の依頼が飛び込んだ、重なる時には重なるなー。

9 月 8 日、今日は、西宮から大阪の方で長く雷雨が降り続き、こちら神戸の海辺はかんかん照りで、しかも夜になっても気温が全く下がらなくて、畑の作物はどうなるのだろうか? と心配していた。気を揉んでいても仕方ないので、ひとまず夕食に。昨日に仕込んだ野菜煮を冷やしたコールドサラダにドレッシングを振りかけて、いただく。不思議なもので、野菜は冷えている方が甘いし、花のような香りがする。温めると、草のような野菜っぽさが立ち上がって、甘さが消えてしまうのだ。味覚と嗅覚の不思議である。そうこうする内に、夜半に突然雨が降り出して、これまた長い雨となった。気流が緩いので、一度どこかで雨が降り出したら、どんどん周囲から熱気を集めて降り続くのだろう。おかげで、明日の朝は水やりせずに済みそうだ。

9 月 7 日、朝の内に最寄駅の近所のスーパーマーケットにまで出かけて、食品を仕入れる。朝には良い魚が転がっているものだ。魚は往々にして水っぽいもので、そのまま食べても大抵は美味しくない。パックから取り出して軽く水洗いして、水気を拭き取ってから塩をかけて、キッチンペーパーに包んだ上で、ラップで空気と遮断する。こうしてしばらく置いておくと身から水が抜けて、ネットリとした感じになる。寿司ネタなどの多くは、このような下処理を経て提供されているようだ。毎日洗った上で同じように包んでおくと、数日は保つらしい。とは言っても、傷んでしまったら食べられないので、翌日には胃袋に入れてしまう。白身魚は昆布締めにするのが美味しい。昆布は後でダシ取りに使って。こんなことも、休日で時間があるから楽しめるのだ。

9 月 6 日、畑のミカンの木では、たくさんのアゲハ幼虫がいつもご飯を食べている。小さな卵から脱皮を繰り返して、数学で言う所の指数関数的に大きくなって、最後の終齢幼虫で美味しそうな姿となる。小さい内はクモやアリなどの天敵にやられるし、大きくなったら鳥が狙っている。さなぎを経てアゲハになれる割合は、どれくらいなのだろうか。空を舞ってからも油断ならないし、ペアが見つからなければ産卵には至らない。というわけで、幼虫を放し飼いにしているので、ミカンの木は秋になると丸裸の状態になってしまう。そして新芽が出てきて冬越に入るのだから、ミカンの生命力は大したものだと思う。結果として、いつまで待ってもミカンの実がつかない。それで良いのだ。

9 月 5 日、久しぶりにお絵描きをする。量子状態というものを視覚的に描くという、無謀な試みに挑むのである。そもそも重ね合わせ状態を一枚の古典的な絵に描けるはずがない。しかしながら、テンソルネットワークを使ってチョイチョイと網目を組み上げると、何となくではあるけれども量子状態に見えて来るから不思議なものだ。いやいや、これぞ描いた人にはわかるけれども、傍目には何が描かれているのか全くわからないという典型例であろう。ジタバタしている内に陽が傾いて来た。秋は夕暮れが早いものだ。一旦置いて、続きの作業は暗くなってからにしよう。

9 月 4 日、秋風が吹いて朝は涼しかった。昼になると段々と気温が上がって来たけれども、熱帯の湿気がなくてカラリとしていて、木陰が本当に涼しい。一方で、ヤブ蚊の赤外線センサーは効率よく働くようで、日中でも狙われてしまう。目の前をブンブンと飛び回るので気が抜けないし、目に見える範囲でとまったら即刻撃退。すると大抵は時すでに遅く、痒みがやって来る。そういう時は我慢我慢、しばらく待てばスッと痒みが引く。アカイエカは時として日本脳炎ウィルスを媒介すると聞く。お医者さん曰く、シニア世代になると予防接種の免疫はもう切れているのだそうな。都市部では感染している動物があまり居ないので、滅多に罹患するものではないのだとか。ということは、都会を離れて山にわけ入る時には注意が必要なのだろうか。そういえば破傷風も免疫が切れているはずだ。トゲが刺さることなど無いように注意しておこう。

9 月 3 日、100 Mbps の古い HUB を 1 Gbps の新しいスイッチに更新した。が、古い方の撤去はできなかった。LAN ケーブルを古い方から抜いて、新しい方へと接続してみると、リンクしないものがかなりあるのだ。接続先に古い Wifi ルーターがあるか、あるいは古い Hub が転がっているに違いない。仕方ないので、リンクしないもの、全く使われていないと思われるポートは 100 Mbps のまま放置して、Uplink を 1 Gbps のスイッチに接続した。世の中は 10 Gbps へと進みつつある中で、100 Mbps までこうやって落としながら見守らなければならないのでは、管理の手間が増えるばかりだ。やがて基幹ネットワークが更新されるだろうから、それまでに古いものを少しずつ取り除きたいものだ。

9 月 2 日、「たまごっち」というゲームというか、ペットというか、一時期とても流行った製品がある ... と解説するまでもないか、平成の前半までに生まれた方ならば誰でも知っているはずだ。これを眺めていて、ふと、量子コンピューターと良く似ていると思った。小さな論理回路が小さな機械で組まれていて、外界からは数少ない制御を選んで何度も行うのが量子計算だ。その過程で量子状態は移り変わり、計算目的に都合の良い状態へと変化する。そして最後に測定した結果が、十分な確率で正答を与える。言い換えるならば、現在運用されている量子コンピューターは、まさに「量子たまごっち」なのだ。ヘマをするとコヒーレンスが崩れて、何の役にも立たなくなる。計算機はどれもそんな存在だ。

9 月 1 日、台風としての熱気がどんどん北海道よりも北にある低気圧に吸われて、みるみる痩せ細ってしまった台風は、消滅するばかりなのだろうかと思っていたら、下層の渦は健在で周囲に雨を降らしたり雷を落としたりしている。昔は「腐っても台」などと言われたものだけれども、最近では鯛が腐ることも珍しいので、あまり聞かなくなった。この台風のおかげで少しは雲が出て直射日光が減り、畑仕事がやり易くなった。高温障害で元気のなかったトマトも、少しずつ脇目が出て、花が咲いた所から実がつき始めている。トマトなど目立つ作物は鳥がすぐに持って行ってしまうので、網をかけておく必要がある。


7 月と 8 月の1行日記