← 9 月と10月の1行日記  

8 月31日、Mac のセキュリティ関係で、user 配下の Library/Keychains の下に、ファイル名が暗号のようなフォルダが「2つ以上ある」と妙なことが起きるという記載を見つけた。確かに、他のサクサクと動く Mac には 1 つしかない。それで、まずテスト用に運営している「問題のある Mac のコピー」で、古い日付のフォルダを削除する。また、末尾が keychain というファイルと、keychain-db というものがあって、前者は古いものらしいので、こちらも削除。/Library/Keychains の下にも、古いものが見つかった。これらの削除の後で、特に困ったことが起きないことは確認できた。システム環境設定の動作は相変わらず遅いまま。さて、どうなることやら。

8 月30日、Mac が超遅い件で、とりあえずの効果があったものが $HOME の下の Library に収められている com.apple.finder.plist を消去するというもの。これは以前も一度お世話になった手法で、今回もそれなりに速くなった。ただ、時間の経過とともに段々と finder の動きがおかしくなるのである。要するに、問題の根本はここにはないということだ。日常業務も色々とあるので、MacOS というオモモチャに無駄な時間を注ぎ込みたくもないのだ、毎朝毎朝(あるいはスクリプトで自動的に) com.apple.finder.plist を消去するという、何とも言えない方法でダマシダマシ使おうかなー。

8 月29日、仕事で使っているデスクトップ Mac が不調で、アプリケーションの起動や file の open に 20 分程度かかる。slow open (save) dialog box problem と称されている問題に近いのかも知れない。不思議なことに、起動直後はこの不調が「軽く」て、1 分くらいで開くことが多い。それでも充分に遅いのだけれども。同じような症状を抱えている人々の解決策を読むと、username/Library の下にあるファイルが不調の原因であることが多いらしい。finder.plist を削除するという粗治療があって、しばらくの間は効くのだけれども、段々と悪化して元の木阿弥となる。システムをクリーンインストールしても、アカウントを引き継ぐと症状が復活する。別のアカウントを発行して、そこにログインすると何の不具合もないので、やっぱり Library の下を地道に見て回るしかないか、ボチボチ付き合おう。

8 月28日、年に一度の健康診断の日を迎える。問診票に、30分程度の運動をしているか? という項目があって、これは阪急六甲から神戸大学まで徒歩で通う人全てに当てはまるものだ。普通に上がって降りるだけで、この条件を満たしてしまう。文学部、理学部、農学部までで普通の登山、経済学部、経営学部、法学部まででそこそこの登山、国際人間発達科学部まで登るのは相当の強者で、流石にあそこになると普通はバスを使う。下宿生の中には、電動アシスト自転車を使う人もいるようだ。さて、今日の受診はお昼前。あまり節制している方ではないので、さてどんな数字が?!

8 月27日、元町商店街を西から東へと歩く。西の入り口付近は、ビルを取り壊したばかりの状態で、空き地となっている。そこからしばらくは、閑散とした感じで、あちこちシャッターが降りている。アーケードができる前に、広々とした道の両側に綺麗な建物を次々と並べて街づくりした痕跡が今も残っていて面白い。東に歩くと、途中からはみ出し営業していて、その辺りから人通りが多くなる。やがて東の端まで歩くと、もう居留地の手前となって、元町商店街という感じではなくなる。そういえば、北側にはモトコーという deep な界隈もあったのだけれども、どんどん改装が進んで風情が無くなってしまった。まあご時世だから仕方ないか。

8 月26日、夕方頃に、またまた雷雨。今日の雷雨は、とても雷が頻繁に光った。レーダーを見ると、雷雲がZ字型に折れ曲がっていて、あちこちから地表の熱気を集めているようだ。海辺の広場では地蔵盆や夏祭りの準備をしていたのだけれども、結構な場所で中止となったようだ。雷雨のような局所的な気象現象はなかなか予測が難しくて、大気が不安定で雷雨になるかも知れないという程度の、ざっくりとした予報しかできない。科学が進歩したとしても限界はあって、例えば何時何分に空のどの場所にどんな雲ができるか? など問えるはずもない。雨が上がった後で散歩に出ると、辺りはヒンヤリしていて秋を感じた。

8 月25日、物性的な物理現象には Anderson Localization という厄介な現象があって、色々と説明はつくのだけれども、シンプルな描像が立て難いことでも有名だ。要するに、まだ本質的な所の理解が今一歩なのだと思う。物性はとても範囲が広くて、同じように familiar ではあるけれども simple ではない、そんな現象が色々と転がっている。こういう課題は、難問だと事前に教えられるとビビって手を出しづらくなるから、「ほら説明してごらん」と言う感じで、なるだけ予備知識のない状態で眺め直すのも必要なことなのだろう。そういう意味で、今頃になって many body localization が盛んなのかも知れない。

8 月24日、一昨日に続いて昨日も夕方からゲリラ雷雨、今日はおやつ時から長く続くしとしと雨。雨量で考えると、今日もかなり降ったと言える。この連続した雨に敏感に反応したのが楠で、あちこちの街路に生えている楠から次々と新芽が伸びている。ツル植物もまた凄い速さで伸びていて、お盆に刈り払われたばかりの大学の斜面を這うように育っている。日差しがなくて気温はそこそこ低く湿度もたっぷり、ようやく肌を焼かなくて済む。ふと、ラジオ体操の歌を思い出した、こういう天候になる頃に、また朝 6:00 のラジオ体操が復活するのが、昭和の夏休みなのであった。ネットなかったし、みんな夜更かししない生活だったからなー。

8 月23日、いつの間にか陽が傾いて来て、隣の建物からの反射光が北向きのオフィスに差し込むようになった。エジプトのピラミッドの階段に光が差し込むのが年に限られた日数しかない、そんな話を聞いたことがあるけれども、そんな感じで季節の変わり目を告げるサインだ。というわけで、このイベントについての書き込みも、春に一度、秋前に一度、恒例行事となっている。通勤の途中に寄り道すると、三宮の商店街に提灯が並んでいた。そういえば、今日から 3 日程度は確か地蔵盆だった、あちこちのお地蔵さんで、子供向けのささやかな縁日などが催されるのだった、まお地蔵さんなので提灯に卍が描かれていたりもする。卍の書き順を復習しておこうか。

8 月22日、今日は大学院入試の1日目。夏休みにしては珍しく学生がわんさかやって来て、あちこちで今日の出来栄えなど話し合っている。まあ、そのように和気アイアイとしている面々は、手応えがあったのだろう。関東の大学でも続々と大学院入試が行われていて、丁寧に実況ツイートしてくれている。暑い、そして熱い1日の後で、おやつ時になると辺りが暗くなって雨が降り始めた。熱帯低気圧が運んで来た湿気が大地に降り注ぐ、ありがたいことだ。このまま秋が来てほしい所だ。そろそろツルで伸びるタイプの豆も仕入れ時かなー、スイートピーが無難なところだろうか。

8 月21日、アジアで開催されるテンソルネットワークの研究会 TNSAA、今年は今日から上海での開催となる。素晴らしい 4 日間となるだろう。私はというと、色々と抱える仕事もあって神戸で留守番中だ。講演自体はプログラムを見て、後で公開されるであろうスライドを見ればおおよそ見当がつくのだけれども、本当に大切なのは空き時間の discussion だ。昼食や夕食を摂りつつ色々と交流する所に研究会の本質がある。そこを良く体現しているのが今年の TNSAA で、完全に off となる中日を設けている。堂々と off time を設けられるのは、羨ましいことでもある。予算を使って研究会を開催する場合、国内ではなかなか「週日の off 日」は設定できないものだ。ともかくも、参加の皆さん、楽しんで下さい。

8 月20日、芦屋や西宮では雷雨が長い時間にわたって降り続いたらしい。海辺の我が家はというと、東の空に立ち上る入道雲を眺めつつ、やって来ない雨をぼーっと眺める時間を長く長く過ごした。すぐそこに涼しい雨がと思いつつ、暑い中で待ちぼうけというのは、なかなか辛いものだ。こういう時には、うっかり外に出ることもできない。行きは良い良い、そして天気が急変して、帰りは怖いということもあるからだ。そんな訳で、冷蔵庫の中から食材を色々と見繕って、野菜スープを仕込む。成田から届いた野菜は、重量感があって味がハッキリしているので、少しのスープを合わせるだけで美味しくいただけるのだ。今日はノンビリ過ごそう。

8 月19日、お盆は明けたけれども、まだ何となくお盆モードで動いていて、でもよくよく考えると予算申請の書類の締め切りも近いので、そろそろ本気で研究計画を立てなければならない。テンソルネットワーク業界で長く (?!) 研究を続けているので、これができればなーという継続案件は沢山あるのだけれども、それを単に並べるだけでは説得力のある申請書にはならないし、自分のリソースをどこに振り向けるかという計画にもならない。一方で、どう整理してみても、やっぱり新しいことは一瞬の発想が大切だという気持ちは持ち続けるべきで、その一瞬のために基礎訓練として継続案件を日々こなすことが大切なのかも知れない。

8 月18日、最近、脱プラスチックということで、木製のものや紙製のものが色々と使われるようになった。よくあるのが配送の紙箱に入っている紙の詰め物。設計が良ければ、少ない紙で効果的にスペースを埋められるのだけれども、ベットリと多量のネバネバ接着剤で貼り付けてある場合もあって、廃品回収に出せるように分解するのにとても難儀する。また、木製の使い捨てフォークやスプーンは使い勝手がイマイチだ。形状もさることながら、あの摩擦の大きな表面は、ケーキなどを食べるのには全く向いていない。スプーンやフォークは金属製のものに限るなーと、今の時点では感じている。そのうち加工技術が増すのかなー。

8 月17日、台風は去ったのだけれども、太平洋高気圧のヘリを回る湿った空気が流れる道筋が、台風の通り道に出来上がってしまったようで、小雨が時々降る曇った天気となった。何となくやれやれ、ホッとできる日になった。大学にやって来ると、辺りは折れた枝や散った葉に満ちていた。台風が来たり、秋冬の風が枝を剪定してくれるのだなーと、自然の摂理を想う。あまり強い風が吹かない赤道付近ではどんな木が生えるんだろうか? それはそうと、雨の降っていないタイミングで移動しなければならないのはちょっと難儀だ、仕事をどう進めて、いつ在宅ワークに切り替えるかが問題だ。

8 月16日、平均寿命という数字がある。0 歳児の平均余命とも表現される。この定義を読むと、生まれたばかりの赤ちゃんの寿命の期待値なのかと思ってしまうのだけれども、微妙なズレがある。平均余命の定義は、あくまでもその年齢の人々に対する平均値だからで、その年齢になったばかりの人の余命とは異なっている。そして、余命の期待値を計算する時に使う死亡率の定義が難儀で、まず日本に住んでいる日本人を対象にするという辺りで、それぞれの要件の定義が必要となる。また、死亡率は誤差を含んだ数字なので、最終的に得られる平均寿命にもまた誤差がある。平均寿命が上がった下がったと騒ぐ時には、この誤差の範囲なのかどうか、ちゃんと議論しなければならない。また、年代ごとの死亡率は時代とともに変化して行くから、戦争など思わぬ要因により大きく触れてしまうこともある。統計学は奥深いなー。

8 月15日、神戸に台風がやって来た。久々の雨で、カラカラの天気も一息ついた。海辺ではとても強い風が吹き、風向きが変わってからは潮風が吹きつけて来た。山に海のミネラルが運ばれるとも言える。ええと、そもそも海の水が塩辛いのは山のミネラルが流れ込んだ結果だから、それが循環しているだけか。山にミネラルがあるのは、実は海の底だったから? 思考もまた循環してしまう。これもまた、グルグルと循環する台風の仕業だろうか。気圧が低いと、何だかふわふわとした気分になるような気もする。雨が少しおさまったら、辺りから飛んで来たゴミでも掃除しよう。

8 月14日、フランスから来日中のイタリア人物理学者を新神戸でお迎えする。そこでしばし、物理について長い話を。場所は、とあるホテルのろビーにあるカフェ。その場所は、以前は素晴らしくゆったりとしていて、飲み物もケーキも美味しかったのだけれども ... コロナの 3 年間は全てを奪ってしまった。サービス業の今は再起動の時なのだろう。ついでに、時給がどんどん高くなっているので、ちょっとしたフロア係も安易には雇用できない。難しい世の中になったものだと思う。3 年前でも既に大昔のことのように感じるのだから、世の中は以前にも増してどんどん変化しつつあるのかも知れない。

8 月13日、ミニトマトを半分に割って鉢の上に置いておくと、過日に記したように、芽がたくさん出てくる。同じ場所からたくさんの芽が生えるので、やがて植え替える必要がある。株が大きくなり過ぎると、根が互いに絡まって抜けなくなるので、茎がそこそこ丈夫になった時点でサッサと引き抜いて、別の場所に移動させる。時々、根元でスッパーンと切れてしまう事もあって、そういう場合には挿し木にする。トマトは強い植物なので、すぐに発根してまた伸び始める。ちょっと不思議なのは、ミニトマトを丸のまま鉢の上に置くと発芽しないこと。皮や身の発芽抑制成分が分解されるまで、発芽しないらしい。カラカラに乾いたミニトマトをバラしてあげると、ようやく発芽する。

8 月12日、音楽家の貴重な1時間と少しを頂戴して、音楽、作曲、音楽活動、それを支える生活など、色々と聞かせてもらえた。学問の研究によく似た所があるなーと、改めて思った。独りで行う活動もあれば、何人かで共同して行う活動もある、その中で新しいものが生み出されて行くプロセスは、伺っていて楽しいものだ。ちょっと違う所は、その activity が直接的に身銭に関わって来ること。科学の研究も、収入を得るには頑張る必要があるものの、スランプに陥って論文出なくなっても、教員業をこなしている限り、直ちに収入ゼロになることはない。その点、音楽の世界は厳しいなーと思った。

8 月11日、爪を伸ばしてギターを弾いていると、弦に指を激しく叩きつけたりした時や、ふとした日常の衝撃で爪が割れることがある。こういう場合には瞬間接着剤が役に立つ。すぐに補修できて、直ちに演奏し始められる。ところが最近、何だか補修しても補修してもすぐに割れてしまうなーと思って、接着剤をよーく調べてみると粘度が増している。湿気を吸い込んで、重合が始まってしまっているのだ。この状態のものは、固化が遅い上に硬化した後も脆くて使い物にならない。というわけで、百円ショップへ。爪に使うのはごく少量なので、百円で購入できるものでも多すぎるくらいだ。古い接着剤をヤスリで丁寧に取り除いて、新しいもので接着し直すと、綺麗に仕上がった。これでしばらくの間は安泰だ。

8 月10'日、あれ? 日記の日付が1日ずれている。仕方ないので、今日は8月10'日とする。さてさて、台風が過ぎ去って、乾いた風が吹いている。昨日の雨はもう乾いてしまって、再び夏枯れ。もう一つ台風が近づいて来ているけれども、あれが秋風を呼び込んでくれるかは不確実だ。しばらくの間は、カラカラの夏を楽しむしかないか、海岸を訪れてみようか。海水浴場のない海岸が静かでいい。その前に、もう一仕事。referee という無給の生業を結構こなしているのだけれども、何だか搾取されているだけのような気もして来た。referee はタダで雑誌が読めるとか、そういうクーポンでも付いてないとなー。弱小誌では、そういうこともあるのだけれども、天下のナントカという雑誌の場合 ....

8 月10日、雨あめ降れ降れと念じていたら、ようやく雨が少しだけ降った。大学の中庭の樹木も、雨に濡れて一息ついたように輝いている。キャンパス間を歩いて移動している最中に降って来たので、雨宿りの場所に駆け込むまでにも濡れてしまった。今日は工学部の方? でオープンキャンパスらしく、高校生もたくさん歩いていて、少ない雨宿り場所に密集していた。そのまま降り続いて涼しくなるのか? と思いきや、ぱたっと降り止んで、辺りは蒸し蒸しとしたまま。まだ秋は遠いのかなーとも。小学校などの夏休みは、既に後半に入った感じ。大学の夏休みはこれから。新学期までに、まだ色々と残務があるのだけれども。

8 月 9 日、高校生がたくさんやって来て、オープンキャンパスが催されている。自由見学の学部の展示物を見て回るのも楽しい。生物学科には電子顕微鏡やらアレやらこれやらと、見たこともないような生き物など盛り沢山で、同じ理学部の一員として眺める立場からでも、とても面白い。惑星学科の展示は応用物理からフィールドワークまで多彩で、鉱物の資料など興味が尽きないものだらけだ。物理学科の出し物は ... これもなかなか面白いはずだ。ただ、毎日のように接しているものなので自分なりの新鮮さがあまりない。隣の芝生は青く見えるというのは、こういうことなのだろう。かといって、隣に一歩進む気力は、もう残っていない。若さが羨ましいなー。

8 月 8 日、気の抜けた月曜日を迎える。今週は授業がない。わーい、と喜ばしくもない。この時期には、この時期なりの仕事が詰まっているものだ。そして、その仕事があることに感謝しなければならない。一応はシニアという区分けに属してしまっているので、シニアなりの仕事が舞い込んで来るのだけれども、心は若者たちと戦う老兵、とてもシニアっぽく振る舞えない。むしろ、退行によって幼児化していると言っても良い。思い込みが修正し辛いのがその証拠で、買い物した時の支払いがどうも妙だとレシートを眺めて、結局は自らの確認ミスだと理解する、そんなことが多々ある。購入したものの価格を、一桁も誤解していたことも稀ではない。そう言えば、海外での支払いには、そんな事も度々あったなー。気がついたら 10 倍払っていたというケースだ。とても親切な人々なのだと感謝していたし、まあそれで良かったかな。

8 月 7 日、海を渡る。島国に生まれて、島国に守られて育った者は、遠くに暮らしていても折々に島国に帰る。そこは故郷の地であって思い出深いものだ。ただ、大人になってから暮らしている場所ではないので、成人の島国暮らしというものの実態は全く把握していない。まず、殆どの人が一戸建て暮らしで、マンション生活をしている人は珍しい。「団地」はマンションではない、という点には注意が必要だけれども。地域のニュースで聞いたことがある地名でも、あまり状況を理解していないことも多い。ふと、「たま・たけもと地区」というキーワードも浮かんだけれども、行ったこともない。その頃、直島の産業廃棄物問題が密かに進行していたのは、随分と後になって知ったことだ。

8 月 6 日、暑さ極まって、大地カラカラ。このままではマズいと、バケツを抱えて海辺の畑へと向かう。小川などない海辺なので、水を汲むのは自宅の水道から。バケツを満杯にして、あぜ道をひた走り、畑で水を撒く。ちょっと気になる雑草など少し抜いて、また自宅へと駆け戻り、水を汲む。何度繰り返したことだろうか。気がついたら陽が西に傾いていた。地中深く根を張った植物は、少々のことでは枯れないのだけれども、根が浅い苗の内はアッサリと萎れて枯れてしまう。枯れないまでも、一度萎れた苗は水やりしても、なかなか復活しない。この点は教育に似ているなーと思う。勢いの良い「新芽」は、幾らでも伸びることができるよう水なり土なり空気を用意してあげて、陽当たりを遮るものを取り除くのがよく、下手に「指導」などしてはならない。

8 月 5 日、卒業研究発表が行われる。この時期に? と思われるかも知れない。9 月卒業の場合には、必然的に学期末での発表となる。入学が 9 月である留学生の場合には、自然と 9 月卒業となるし、その他色々な事情により半年(に何年か足した年)だけ卒業の時期が延びる場合がある。語学留学とか、ボランティアとか、資格のための単位取得だとか、理由は様々だ。確かなことは、無駄に時間を過ごした結果ではないということで、それぞれ充実した研究発表が行われた。研究発表は初めてのことなのだけれども、それでもしっかりと受け答えができたと思う。揃って立派な発表だったと言えるだろう。聴衆の理解を得る発表への工夫は、きっと何処かで役立つだろう。どうぞ出会に満ちた将来へと飛び立って下さい。

8 月 4 日、大昔は附属高松中学校に通っていて ... などと書くと、すかさず「わたくし、同窓生のナントカと申します。ぺけぺけ先生の傘寿お祝いの ...」と、聞いたこともない寄付の電話が次々と舞い込むような時期もあったのだけれども、最近ではコールセンターという業務もメジャーではなくなったようで、営業電話もめっきり減った。いや、さっきの例では営業というよりも、寄付詐欺なのではないかと思うのだけれども、どれだけ不義理を重ねても自分に実害があるわけではないので、あっさりと断るのが常だ。同窓会からは今の時期に「梅友会だより」が直接的に届く。そこにある近況で、遠い (?) 故郷が思い浮かべば、十分だ。鹿角のバス停までの通学は、長かったなー。

8 月 3 日、今日で夏休み前の授業担当も全て終わり。やったー、夏休みだー ... とはならないのだけれども。そういう時期を狙い撃ちするような雑務も結構あって、いやいや大学やら研究業界の運営業務のことを雑務などと言うと怒られてしまう、ともかく仕事は尽きない。雑務 ... の間に、ふと外を見ると、旗が結構強い西風にたなびいている。真夏にしては珍しい風向だ。どこか近くに入道雲でもあるのだろうか?この所、雨らしい雨が降っていないので、地面はカラカラ。雷や大風は来なくていいから、ともかく適量の雨だけ降ってくれという、勝手な望みを抱きつつ、さて、雑務に戻ろう。

8 月 2 日、今日で前期の 4 年生セミナーが終わり。これから先、4 年生の多くは大学院入試を迎える時期となる。大学院入試に特化した勉強というものは恐らく無いので、なるべく広い分野で興味の赴くままに様々な専門書を読むのが良いとは思うのだけれども、イザ受験となると、そうも言ってられないかも知れない。傾向と対策を知っておけば、まあ当日になって慌てることもないだろう。実の所、「他所の大学院」の入試問題を眺めるのはなかなか楽しい。こういう出題形式があったのかと驚いたり、その分野の専門家が居るからこういう出題になったのだろうなど、色々と見えて来るからだ。そういう SNS への書き込みなんかすると、先方からもステルス (?!) 攻撃がやって来るのだろうなー。

8 月 1 日、カレンダー通りの 8月がやって来た。期末試験を実施する光景もよく見かける。先生方が、大きな紙袋などを持って講義室を出入りしていると、そうなんだろうなーと察する。一時間くらいで終わる試験もあれば、エンドレスで延々と回答できるような試験もある。後者の場合には、完答したか、限界を自覚したか、あるいは後の用事の都合で切り上げるか、いずれかの判断で受験を終えることになる。入学試験なども、こういうスタイルで実施する選択肢があるとは思うのだけれども、一部の芸術系の実技試験以外では見聞きしたことがない。時間がかかり過ぎるというのが主な理由なのだろう。さて、この期末はどんなスタイルで試験に臨もうか?!

7 月31日、研究発表では、色々と機器トラブルに遭遇するものだ。パソコンをプロジェクターに接続するコネクターが合わない、接続したけれども認識してくれない、画面は出たけれどもスライドが映っていない、スライドは映ったけれどもサイズがおかしくて画面が切れている、スライドのページが切り替わらない、ページが勝手に切り替わる、突然パソコンがスリープして画面設定がおかしくなる、パソコンのバッテリーが切れた、外から大きな雑音が流れて来た、レーザーポインターが光らなくなった、etc. もっと怖いのが、定刻に会場に行ったら誰も居なかったという怪現象。大きな規模の国際会議では、割と起きやすい現象だ。政治家のようにマイク一本で研究発表できる準備も必要なのかなー、そんな学会発表もしてみたいものだ。

7 月30日、夏の暑さで実感するのが、落ち葉などの分解の速さだ。秋に葉が落ちて、木々の下に積もっていた、あるいは吹き溜まっていた枯葉の山が、梅雨を経て夏になると見る見る内に何もない少量の腐葉土になってしまう。ミミズや昆虫などが食べ、菌類も取り付いてどんどん分解されて行くのだ。光合成されたものが分解されると、ほとんどは元の水と二酸化炭素に戻って行き、一部だけが腐葉土として残る。その間に、太陽エネルギーは生物の生きる糧となってリサイクル (?) される。都会では、落ち葉を回収してゴミに出すことになるのだけれども、あれは何となく無駄なことだなーと、いつも思う。

7 月29日、黒板にひまわりの絵を描いて?! と言われたら、さて、どんな絵を描くだろうか? まず、地面から生えているか植木鉢なのか? という違いがあるだろう。背丈がどれくらいか? というのもポイントだ。また、花が一輪だけなのか、それともキク科らしく枝分かれして沢山の花が付いているかの違いもある。それぞれ、描く人が触れたことのある「ひまわり」が描かれるのだ。ひょっとすると、記憶の中にある「ひまわり」は巨大なのではないだろうか。背丈の何倍もの高さで覚えているならば、それは幼少時の記憶だ。映画「ひまわり」を見ると、あれ、こんな高さだったっけ? と思うかも知れない。来年には海辺の畑で、巨大なひまわりを育ててみようか?!

7 月28日、今日も真夏で、カラカラの暑さが続いている。和歌山県の辺りでは、毎日のように入道雲が活発に成長する。雪解け水もない南国で、日照りの夏に水が尽きないのも、こうやって山に雨が降るからなのだと思うと、日本という海に囲まれた水蒸気だけは豊富にある環境に感謝するばかりだ。時として、台風や集中豪雨もやって来るけれども。暑い夏には、登山して大学にやって来る意欲も減退するので、熱心にクラブ活動を続ける学生を除いては、あまり学生の姿を見かけなくなる。さあ研究の時期だー、と思うには思うのだけれども、こちらももう年齢的にはご隠居さん、昭和の大学であれば定年退職も目前、無理を重ねてはいけないので、日照りを避けてコソコソと夜行性の活動へとシフト中。

7 月27日、量子力学には色々な記述方法があって、これが初学者にとって無用のバリアとなりがちだ。ランダウ教程は割とその点に注意を払っていて、最初から最後まで波動関数で記述を通している。式の形が、場の理論にそのまま移行できるように書かれているのも面白いものだ。Dirac は Dirac で、ブラとケットしか出てこない。Dirac の教科書で波動関数っぽく見えるものの多くは、standard ket に演算子ψが作用したものだ。Feynman Lecture は Dirac っぽい導入から入るのだけれども、notation よりも何よりも、まず物理現象ありきという書き方を通していて、これもまた哲学のある書き方となっている。Sakurai は、青写真は良いのだけれども編者が結構色々と哲学を曲げている気がするのだ ...

7 月26日、大学卒業とは何か? ということを、ふと考えた。大学のルーツは色々とあるのだけれども、そもそもは修道院のように来るものは拒まず、去る者は追わずで、卒業という概念がなかった。イタリアの大学制度が何となくその古い伝統を保っていて、卒業しない学生も多いし、在学年限というのもあまりハッキリしていない。博士取得が 30 才を過ぎるというケースも結構あって、経歴を見てびっくりすることもある。その分、専門分野にオタク的に集中することができるのだろうか、結構バラエティーのある研究に出くわすのもイタリア出身者の特徴だと感じる。古くは、エンリコ・フェルミが良く知られているだろうか。

7 月25日、量子力学系の波動関数を特異値分解すると、量子状態のシュミット分解を導くことができる。この変換で得られる規格直交なシュミット基底を使うと、いろいろな式変形が見易くなる。その一方で、シュミット基底は「予めわかるものではない」ので、任意の量子状態をポンと手渡された (?) 時に、実験的に利用できるものではない ... 少なくとも直接的には。こういう区別は量子コンピューターの世界では常々気にしておくべき事柄で、さて続きもどんどん語って ... 行くのは専門家に任せて、にわか量子物理家さんの私は敵前逃亡する。統計力学の世界に逃げても、そこはまた量子力学と一体となった場所だ。

7 月24日、あと 2 週で夏休み ... と思った瞬間、その前に期末試験というタスクが待ち受けていることを思い出す。試験を受ける側の勝負は、試験が終わった時点で終了している。出題する側は? もちろん準備が必要だし、答案を回収してからは採点業務となる。なかなか細かい業務で、公平平等という前提をキッチリと守る必要もあるので、気が抜けないのである。抜かりのないように、準備しておこう。実力がうまく答案に表れるような出題が必要であり、かつ奇問難問に走らずに誰でも取り組めるような平易な入り口から始めなければならない。と、色々と理想はあるのだけれども、地道にバランスを取って行こう。

7 月23日、海辺のわが家から三宮に遊びに行くと日差しがキツくて、街中はヒートアイランド。誘われるように街の海辺へと散歩。わざわざ海に行くものでもないとは思いつつも、海はやっぱり涼しい。そして、観光船に乗って海の上へ。一応は観光客が相手の遊覧船商売、周遊する先は大体決まっている。でも、海の上は毎日のように光景が移り変わって、飽きることがない。今日は風が強くて、船が揺れる楽しさがあった。港の外は一段と波が高くて、白波となっていたので、今日は港内の周遊コースに変更、堤防の普段は見ない所を色々と目にして楽しかった。かすみ高校の実習船も神戸港に停泊していた。束の間の休日なのだろうか。

7 月22日、イワシが沢山並んでいたので、千円分ほど購入する。ちょっと大ぶりのイワシだったけれども、手で頭と内臓と身に分ける。いつものように頭の部分は、エラを取り除いて身と合わせて煮るというか炊く。そういえば梅酢があった、ちょうど良い取り合わせなので、味付けに使う。良い塩梅と言われるだけのことはあって、煮上がりがさっぱりとする。骨を柔らかくするには酢酸も効果的なので、補助的に追加する。ショウガとネギ、酒・みりん・醤油を加えて、後は煮汁が減るまでじっくりと待つ。煮上がったら冷やして、あとはパクパクと食べる。これだけ美味しい魚で、とても安いのだから有難いものだ。

7 月21日、久しぶりに、辺りから煙が立ち上っている。バーベキューの光景だ。この 3 年間ほどの、まあ一種の集団催眠によりバーベキュー自粛なるおまじないが続いて来たのだけれども、ようやくその縛りが解けたのである。まだまだ辺りには消毒アルコールもたっぷりあるので、消毒したばかりの手で炭火に近づくことのないように、というのが要注意なポイントなのかも知れない。そんなバカバカしいミスを誰がするのか? と思うかも知れないけれども、あらゆる事故はそのバカバカしさから生じる。どこかの専門学校で、炭火に直接アルコールを振りかけたとか、鉄板焼きの店でアルコール噴射したとか、とかく可燃物には気が抜けない。さて、今日はバーベキュー風の夕食にしようか。

7 月20日、スピン角運動量の説明に入る。今年の量子力学はノンビリと進めたので、学期末ギリギリでの登場となった。昔は、今の頃にはやる事がなくなって、経路積分などに手を出したものだけれども、まあその分だけ入門編に時間を割いたということだろう。単純にヨタ話・雑談が増えただけなのかも知れないし、ちょっと休みの時間が長すぎるのかも知れない。確認しながらの板書のスピードはどうしても落ちるので、昔の分量のままを今の講義に詰め込むことはできないし、それは誰にとっても有益ではない。かといって、内容を厳選しているとは到底言えない。量子力学はソフトに理解を深めて行く必要があって、なかなか直線的に納得の行く学習方法はないものだ。Dirac 的に進めない限りは。いやいや、Dirac も苦労しているフシがある。

7 月19日、気がつくと、もう夏至から 1 カ月も経っている。日の入りは 6 月末くらいが一番遅くて、それから既に 6 分ほど短くなっている。今から種を蒔いて夏野菜を収穫するには遅すぎる時期となったので、夏休みに何か栽培するなら苗を買って来なければならない。ホームセンターのホームページ (?!) を閲覧すると、そういう商品が色々と販売されていて、既に実のついたナスビとかトマトの苗 (???) もある。ナス科の植物は取り木し放題なので、長く伸びた枝を隣の鉢の土に触れさせておくだけで、次々と実のなる苗というか、鉢花となる。積算温度はまだまだ期待できるから、これからが収穫の本番だー、と意気込んで、さて何を買おうか? 海辺でも育つものがいいな。

7 月18日、学問が、それまで知られていたことの「上に」発展的に何か新しいものが見つかって、その知らせを受けてまた次の進展が ... というパターンで発展しないことは無いのだけれども、こういうのは大抵が小さな発展だ。大抵は、時期もバラバラに、本質的には同じものが何度も発見される。情報理論とか量子力学とか熱・統計力学などの進展を眺めると、そういう経緯が見て取れる。古典力学になると、もう時代が古いので個人の貢献は名前としては忘れ去られつつあり、今日では整理した形で学習できる。この「集約と教育メソッドの確立」もまた、学問体系のまとまりには大切なもので、今では wiki などの道具により、整理が加速されている。テンソルネットワークでポコポコと相次いだ発見もまた、こういう経緯の後に誰の名前も残らないものになるのだろう。それで良いのだ。

7 月17日、平地で水害が起きた時に、水がなかなか引かないという話をよく聞く。物理的に考えると、真っ平らな場所に広がった水は、とても流れにくいことは明らかだ。普段は、川や排水路を通じて水が流れているのだけれども、一度これらが水で埋まってしまうと、残ったのは平らな水面で、ついでに普段の排水量では全く追いつかなくなる。大学受験するまでの間に住んでいた家は、周囲がよく水の出る所で、ちょっと長雨になったり台風が来たりすると、家の前の道路が浅い水路と化したものだ。どこの家も「汲み取り式」のトイレまで浸水しないよう、注意深く水を眺めて必要があれば土嚢を積んだものだ。しかしながら、ある年に床上浸水してしまって、結局その家は更地となってしまった。形あるものを大切にしても仕方ないのかなーと思うに至ったのは、こういう経験からかもしれない。

7 月16日、加西市で収穫されたタマネギでスープを作る。神戸大学食資源教育研究センターの農場で栽培されたものだ。丁寧に取り扱われていて、綺麗に乾燥された大ぶりのタマネギだ。ざっくりと切って、鍋に放り込む。ソーセージとゴーヤとニンニクも放り込んで、加熱開始。過日頂戴した黒ニンニクも追加しよう。途中でふと気が変わって、小粒のジャガイモを剥いて投入する。そして、そうだ、トマトだ、と思い立って、トマトも入れる。こうして待つこと 90 分、節操の無いスープが出来上がった。まず、ジャガイモを取り出して、黙々と食す。けっこう美味しい。続いてスープへ。ちょっとソーセージの安い感じが出てしまったけれども、野菜に移った味を楽しんだ。食事を終えた後で、そうだ、ナスの揚げ浸しがあったっけと思い出すも既に遅し。明日のご飯に出そう。

7 月15日、今月も無事に (?!) 成田の三里塚から野菜が届く。空港の東側の方の農業法人からの出荷だ。今回は、じゃがいも、ナス、空芯菜、モロヘイヤ、きゅうり、ネギ、枝豆、ゴーヤ、トウモロコシで、片端から調理して胃袋へ。有機野菜は美味いなーと、毎度のごとく感心する。調理にバリエーションを、という訳でイリコを世話して、昆布と合わせてダシを取る。さっと煮たモロヘイヤに、ダシをかけて食べると、とても美味しい。料理を形容するのに美味しいしか言えないのでは、グルメのライターにはなれないのだけれども、ともかく美味しい。そう言えば、学生に「同じ用語が連続して何回も出て来る時には文書構成がマズいことが多い」と指南したばかりであった。やっぱり堆肥がしっかり入った農地で採れた野菜は美味しい。

7 月14日、乾麺を茹でる時間、これと麺の直径の関係は、ええと、どうなっているのだろうか。基本的には、水分が十分に浸透した上で、澱粉がα化されれば食用となる。乾いた麺は水を吸う素材なので、単純に拡散方程式で考えるよりも速く水が浸透して行き、それに伴って熱も中心へと伝わるような気がする。普通に扱う麺の中で一番太いのが干しうどんで、中には 20 分程度かかるものもある。素麺は沸騰すれば終わりで、場合によっては 1 分もかからない。平たい断面の麺も同じように早い。実験するならば、どういう設定になるのかなー、麺を作るのは割とスンナリと行きそうなのだけれども、最後に官能検査が入るのが厄介な所だ。機械が食えるというデータを出して来ても、実際に食用になるかは別の話だからだ。さあ、今日も麺を食べよう。

7 月13日、朝から六甲台講堂で、神戸大学附属中等学校の生徒の研究発表を聴く。最終学年の中から 8 人だけを選んだ、代表者の研究発表ということで、どれもよく練られた発表だった。特に、聴衆の関心をまずグイっと引き寄せる術に長けている方が多くて、将来どのような分野で活躍するにしても、人々を率いて行く人材になるのだろうなーと感じた。データをゆっくりと見せて解説するという点に、若干の弱さが見えたのだけれども、それはやがて、自ら気づいて改善されて行くことだろう。大切なことは様々な現場で経験を重ねることで、周囲が育てる視点で接すれば画期的な発見・発明をしてくれるはずだ。

7 月12日、応用が絡んで来るような「触れ込みの」最新技術には色々と誤解やデマが生じ易いものだ。いま、ちょっと思い出すのが高温超伝導フィーバーの頃に作成された、一般向けの短いアニメーション。超伝導について説明された後で、超伝導技術を使ったら色々とできる、そんな夢が描かれていた。携帯電話に話しかけると、自動翻訳されるというものも。それは ... 皆様ご存じの通り、いま普通に実現されていて超伝導のチョの字も使っていない。現在、同じように量子コンピューターが宣伝されているのだけれども、量子コンピューターが実現されれば今のパソコンなどはお払い箱になる .... というのは話の持って行き方が妙だ。「今のパソコンがお払い箱になる」は正しいのだけれども「未来のパソコン」は相変わらず古典コンピューターであり続けるだろう。パソコンと呼ばれるデバイスであるかどうかは別として。

7 月11日、梅雨が明けた ... ような天気となった。天気予報をみると、もう一度だけ雨が来るようだ。高層天気図を眺めると、ちょうどジェット気流が蛇行している真下に入るようで、下層の暖気と相まって雷雨となりそうだ。その後は、ちょっと前にも触れた通りの夏本番。海が近い神戸、海だ、船だ、夜遊びだ。いや待て、ここで今こそ、密度行列が非対称となる場合の繰り込み群について、決定打を得るのである。え、なんか、全然脈絡がない?! 物理の研究なんて、おおよそはそんな所だ。街に居ても飯を食べても映画を見ても、いつも物理が頭の片隅に引っかかっているのだ。

7 月10日、高層の天気図によると、今週末くらいからジェット気流がだいぶん北上して、西日本には夏がやって来るらしい。夏は 7 月が本番、天気の良い日には遊びに行こう ... と言いたいところだけれども、今季は色々と用事があって、ストイックに過ごすのだろう。天気が良いということは色々な植物の栽培も、水さえあれば順調に進むので、そろそろコスモスでも仕込んでおこうか? いやまだ朝顔だろうか? と、色々と思い巡らせる。そうだ、まずは、ひまわり。映画「ひまわり」は、ウクライナのひまわり畑で撮影されたんだったっけ、あの広い国のどこなのだろうか? 調べておこう。あ、また遊ぶことばかり考えている。

7 月 9 日、六甲台第一キャンパスで七夕祭りが開催される。去年は限定的な開催で参加者が限られていたのだけれども、今年は入場制限なし。子供達もたくさん遊びに来ていた。神戸大学って素敵な場所なんだと、子供心に覚えていてくれるだろうか。舞台の演出が、これまた毎年のようになかなか素晴らしくて、湿度たっぷりの熱帯の夜にも関わらず、熱気あるダンスパフォーマンスが続々と披露されていた。特に、長袖の重い衣装を身につけて踊るというのが、なかなか信じられない芸当なのであった。やがて夜もふけると、ステンドグラスの点灯。カウントダウンとともに、パッと色とりどりの窓が輝く。周囲を見渡して、若いっていいなーと思った。

7 月 8 日、過日にも触れた、トマトの苗がだいぶん大きくなって来た。プチトマトの痛んだものを鉢の上に転がしておいたのは、いつの事だっただろうか? やがて、たくさんの芽が生えて来て、その中から抜きん出て伸び始めた何株かが、指数関数的成長 (?!) をしている。植物は、成長の材料を光合成して自分で作らないといけないので、豆や芋でもない限り、最初の成長はとてもゆっくりなのだ。一度伸び始めたら栽培としては成功で、後は適当に切って挿し木苗をどんどん作れば幾らでも株を増やせる。トマトの株は、うまくすると冬も枯れずに実をつけるので、これからも長く楽しめそうだ。そういえば、そろそろ山芋の栽培を始める季節になった、どうしようかなー。

7 月 7 日、七夕。一昨年までは、農学部の南側斜面に笹原が広がっていたので、この時期はよく採りに行った。斜面の改良工事のため、今年はヨモギだらけとなっていて、残念ながら笹は目立って生えていない。地下茎は残っていて、所々には顔を出しているのだけれども、今年は伸び伸びと育ってもらって、笹原が再び戻って来ることを今日は願おう。さて、笹に願掛けするならば何が良いだろうか? 日常生活が送れますように ... という、ささやかな願いが笹の葉に似合っているような気がする。あまり大きなことを願っても、それを自分で主導して成し遂げることができるかというと、うーん、まあ大志を持っての行いは若い人々に任せよう。

7 月 6 日、量子力学の講義も大詰めとなって、角運動量に入った。ここら辺りで、色々と抜けていることに気づく。ハミルトニアンと交換する量は時間変化しないとか、交換関係の計算だとか、エルミート共役の取り方とか。調和振動子辺りで一度はガチャガチャと計算してみたはずなのだけれども、一度やったからと言って、それが確実に身につくと言うものではない。何度も同じような計算を繰り返して、段々と構造を身につけて行くのが、量子力学の学び方だろう。それくらい、色々と「古典的直感」が学習の邪魔をするのだ。その辺りのバリアをまず崩そうとする教科書がファインマンの講義録で、読むと色々と工夫してある。

7 月 5 日、納豆は大粒か小粒か? というと、小粒の方が美味しく感じる。大粒だと、何となく味のない豆の感覚が残るからなのだろうか。同じ理由で、納豆をご飯にかけて食べるのは全く好みではない。小さい頃からの食習慣で、そのような食べ方に馴染んでいないからだろう。初めて納豆を食べたのは確か、小学生になってからだったと記憶している。四国や関西は納豆消費量がとても (?) 少なくて、季節を問わずに麺をたくさん食べるので、納豆があまり食卓に似合わないのかも知れない。というわけで、納豆を食べる時はだいたい、食事の終わる前にガガっとそれだけを食べる。目の前にあればもちろん、美味しくいただく。

7 月 4 日、物理数学はエルミート多項式まで行って、母関数に漸化式のお決まりのコースを終えて、さて後は何をやろうか? という段になった。このまま特殊関数へと突き進むのもアリなのだけれども、線形代数の要素もどんどん入れて行きたい所だ。テンソルネットワークそのものを授業で取り上げるかどうかは別として、そこへつながる、より一般的な道具立ては学んでおく方が良いようにも思う。極分解や特異値分解はその重要な例で、ここから量子エントロピーやら情報圧縮やら、あれこれと現代物理学の道具が転がり出てくる。この辺りには、新しい数学を生む素地があるのかも知れない。

7 月 3 日、先日の集中講義ではランダム行列について、色々な角度から眺め直す過程の中で、Christoffel-Darboux 公式が紹介された。へー、こんな所にも Christoffel が出て来るんだ、と思ったものだ。その名前をよく聞くのはリーマン幾何学を記述する道具としての 3 脚テンソルで、少し前までは一般相対性理論を学ぶ時に、必ず耳にしたものだ。今は幾何学の記述方法が簡便になって、Christoffel の記号が数式に直接的に現れることは随分と減ったけれども、全く登場しないわけではない。同じ名前がランダム行列の取り扱いで、改めて耳にするとは思いもしなかった。あの時代は色々と物理学に使える道具としての数学が発展したのだなーと、改めて感じた。現代の数学は、いつ頃、物理に降りて来るのだろうか?

7 月 2 日、新開地で展示されていた「地下道」の現場を先日訪れて、さて今日は本物の地下道へ。本物を改めて見ると、そういえばダンボールでここを再現してあったなー、この壁の汚れはそっくりだとか、天井がボコボコに造ってあるなーと、見れば見るほどよく似ていた。先日のモダンアートは「絵画」のようなものだったのだなーと、改めて気づく。そのままそっくり再現すると単なる「大きなミニチュア」になってしまって、何も面白くないのだろう。ポスター展示の場所が秀逸で、これは再現性がとても高いのに、やっぱり細部に冗談が詰まっているのがダンボールアートなのであった。もうこの場所は自分にとっての「聖地」となってしまって、通り過ぎる度にダンボールアートを思い出すことは間違いないだろう。

7 月 1 日、アルゼンチンタンゴを楽しむ。タンゴのいい所は、楽譜に従って演奏を進めて行く所。これはクラシックにも共通する所で、曲としての表現の幅が大きく取れることから、いろいろな音やリズムを楽しむことができる。一瞬の爆発的な情熱を込める音楽でもある。普通は打楽器が出て来ないのもタンゴに特徴的な所で、他の楽器、特にバンドネオンが要となることが多い。そして、ゲストで登場のダンサーの流れるような動きがまた、素晴らしかった。足の運びがスケートによく似ていて、ターンがハッキリとしていてエッジ感覚に似たものもあることが、見ていて何となくわかった。スピンの軸の取り方もほぼ同じ。ヒールが高い靴も、スケート靴に通じるものがある。いや、それはどうでも良くて(良くなくて)ともかく楽しかった。


5 月と 6 月の1行日記