← 7 月と 8 月の1行日記
6 月30日、1年の前半が終わり。夏前の講義もまた、あと 1 カ月で終わりなので、それぞれの受け持ち科目で、あと 4 回くらい講義すれば学期末となる。例年のことなのだけれども、講義を始めた頃は内容が盛り沢山に見えて、ドコドコと詰め込んで講義をやってしまって、この時期になると「あと 2 回」くらいで講義が終わってしまうような進行度合いとなる。残りの 2 回は? そこがまあ、大学講義の良い所なのだと思う。色々な最先端のトピックスへの橋渡しができるような、ちょっとした面白い物理にも少しは講義の中で触れるのもまた、興味を持ってくれるのではないかなーと。そのように予め断っておくと、受講者それぞれの事情に応じて、時間を有効活用してもらえるかも知れない。この辺りの選択肢は、Zoom 接続による受講で広がったようだ。
6 月29日、量子コンピューターを使って初めて、(バカバカしくない実験的リソースの下で)古典的には計算できない問題に対して、実現可能な計算ができる、そういう事例がポツポツと発表されるようになって来た。なんか日本語が崩れている ...。そんな報告がある度に、テンソルネットワークは手強い相手となって、実は古典計算でも十分に実行可能だと言う現実を突きつけるのである。今回は、3つの研究グループがほぼ同時に、そんな指摘を arXiv プレプリントサーバーに上げた。まあ何というか、直ちに役に立つような類いの問題設定ではないものに、よくこれだけの熱意を振り向けられるものだと感嘆するのだけれども、そんな馬力があってこそ最先端の困難にも立ち向かえるのかなーとも感じる。真似する気力はないけれど。
6 月28日、天気図上では梅雨前線の南側に入ったことになっている。とは言っても、地上の風向きを見て前線の位置を推定するのは、なかなか難しい。陸地の影響があって、風向きも気温もマチマチだからだ。上空の風の動きを見て、おおよその前線の位置を推定する。この場合も、高い山がある場所では「上空」として遙かに高い所までを見る必要があって、最終的にはジェット気流を見て、エイヤッと前線を天気図に描くことになる。こうして描かれた地上の前線は、描く人によって 100 km くらいズレていても不思議ではない。そして、雨との対応もまた ... いや、そもそも天気図と雨の対応なんて期待してはイケナイのであった。今日も傘を持ち歩こう。
6 月27日、京都大学から講師をお招きしての集中講義が始まる。お題はランダム行列。色々な論文でランダム行列にはチラチラとお付き合いしつつも、実はまとめて学んだことがなかったので、講義を受けていて、とても新鮮な感覚だ。一見すると灰色の世界のようで、ちゃんとクラス分けがあって、色々な統計法則が隠れている含蓄の深さに、自然の不思議を感じる。聴衆も結構集まって良かった。4 年生には測度の扱いが少し面倒だったかも知れない。そう言う所は何となくの理解で良いのだと思う。実際に、複雑な仮定を経てランダムに見える状況が実現される場面に出会って、解析が必要になった時点で「仮の引き出し」に足らない部分を認識できれば、自ずと自習できる物だから。
6 月26日、そろそろ夏で線香花火など出て来る季節となった。あの松葉の美しい模様はどうなっているのかなーと思って検索すると、なんと 2017 年に Physical Review Letter に論文が出ているではないか。タイトルは Direct Self-Sustained Fragmentation Cascade of Reactive Droplets で、これをそのまま検索にかけると論文に到達できる。そこから先は、APS 会員か、あるいは大学など機関で雑誌を購読していれば読める。この購読料がどんどん高価になりつつあり、しかも円安。いつまで購読継続できるのだろうか?! arXiv ならタダで読めるではないか、という説もあるのだけれども、上の論文は arXiv には上がっていない。研究活動はタダではない、そういうことを思い知らされる日々、まあ昔からそうだと言えばそうだ。
6 月25日、書類が色々と溜まっているので、いま有効なものかどうかを調べつつ廃棄すると、とんでもない量の紙のゴミとなった。何とかも積もれば山となる、そのままである。何気なく、ポイッと置いておくと、それがそのまま積み重なって、自分の使う活動スペースを少しずつ減じて行く。少しのことなので、あまり気にならないのだけれども、ある日気づいてみれば、(大袈裟に書くと)ゴミの中で小さくなって生活しているような状態となる。ゴミハウスと呼ばれる状況を揶揄する報道もあるけれども、誰しもそんな所が少しはあるのだ。今日からは、書類が一つやって来たら、古いものを 2 つは廃棄することにしよう。粗品をもらったら、同じ種類のものの中から最も使い勝手の悪いものを幾つか捨てる。ちょっと気楽に。
6 月24日、冷凍のカニを調達して来る。そのまま調理しようか? と、検索してみると、必ず半解凍してから使えと書いてある。いきなり加熱すると、中まで火が通る間に、外側がゴムのように縮んでしまうのだそうな。というわけで、電子レンジに入れて 170 W でしばらく加熱。部分的に「ぬるい」かなーというところで OK にして、調理に取り掛かる。半分は、茹でガニに。もう半分は焼きガニに。うまい。素材そのもの、縄文の時代から(もっと前から?)変わらぬ味だ ... あんな深海のカニが当時に取れたのかは知らない ...。調理中にはカニのエキスが流れるので、それは取っておいて、少し煮詰めて冷やしておく。後で豆腐にかけていただくと、とても美味であった。カラは、堆肥にして木々に施すか。
6 月23日、クーロンポテンシャルでは、もう一つ罠が潜んでいて、電磁気学で習う「電磁ポテンシャル」と、量子力学に出て来るクーロンポテンシャルでは、考える電荷の大きさだけ定義がズレている。前者は空間に単位電荷を置いた時のもので、後者は電荷も込み (?) で全体のエネルギーを表すものだ。実は、力学で習う重力ポテンシャルの与え方がそもそも電磁気学とは異なっていて、何とも言えない所がある。電磁気学だけ他と違うのは、電圧という実用上とても重要な概念と結び付いているからで、これは変更できるはずもない。物理概念の定義には色々と厄介ごとがあるものだ。特に物質中の電磁気には色々と危ない橋がアチコチに転がっている。
6 月22日、量子力学の講義で水素原子を扱っている時に、原子の世界にクーロンポテンシャルをそのままの形で適用して良いのか? という質問を受けた。これは、なかなか良い質問であって、そういう点に疑問を持ったという事そのものに、すごいなーと思った。回答はというと「だいたいはそれで良いけれども、クーロンポテンシャルと量子力学だけでは説明のつかない現象も起きる」だ。水素原子ではラムシフトが有名な所だろう。電荷と電磁場の相互作用がそこそこ弱いというか、電気素量が小さいというか、自然はうまく出来ているものだと、改めてつくづく感じた瞬間だった。なんでそうなの? という類いの疑問は、何歳になっても持たなければならないなー。
6 月21日、そして今日は夏至。まだまだ夏本番はこれからなのだけれども、もう1年分くらいの講義をこなしたような気がする。思うに、講義する速さも年々落ちて来ているようだ。すこーしずつ無駄というか、あまり重要ではないことは講義からそぎ落として行って、必要最低限度を目指して基礎的なものを教える、そういう方向へと、段々と舵を切っている。そういう目で眺めて、Feynman Lecture はなかなか驚異的で、よくもまああれだけの内容を詰め込めたものだと、何度見てもびっくりする。そういえば J.J. Sakurai の Modern Quantum Mechanics も、コンパクトながら中身は満載だなー。Dirac とは違った方向性があって、これまたビックリなのである。
6 月20日、メロンが豊富に出回っている。夏至の頃の、たっぷり陽の当たる頃のメロンはとても美味しい。ウリの系統は日当たりだとしみじみ感じる。季節が進んで、最近では大ぶりの、真桑瓜のような色のメロンが売り場に並んでいる。これは当たり外れが結構あって、ハズレの場合は本当に瓜のような味になる。こういう場合には瓜だと思って、塩味や酢味でサッパリといただくのも面白い。アタリの場合は、言うまでもなく美味しい。最近では出荷前に光センサーを使って選果しているとも聞く。そういえば、完璧なハズレというのは、あまりなくなったような気がする。明日は夏至、そこから先はモモなどが出て来るのかな。
6 月19日、昨日が停電だったので、研究室にやって来て、まず電話の時計合わせをする。もう長く使っている昔の製品なので、時計内蔵とか、適当にネットや電波から拾ってという機能は付いていない。その後パソコンに向かうと、あらあら、ネットが切れている。壁際のルーターを見ると「黄信号」になっていた。リセットしても青信号にならないので、まずは電源コードをブチっと引き抜く。しばらく待って、再び電源を接続すると、やがて点滅の黄信号になってから青信号に。このルーターと連動している、もう一つのルーターもしばらく後に青信号になった。やれやれ。そういえば、これも昔の製品だなー、最近のはもっと起動が速い。
6 月18日、炭焼きのうなぎを買い求める。思い出してみると昔はウナギが安かったなー。スーパーで、1000 円少しくらいで売られていた覚えがある。安いものほど、色々と味付けがベタベタとしていて、少し高級なものになると、つけ焼きした状態のものにタレが別添えで付いている、これは昔そのままなのだけれども。今回は、とても良い状態だったので、少し温めただけの状態でご飯に乗せて、タレを上からかけていただいた。まあ、貧乏だから小さなウナギをご飯に添えて、タレで食べるような感じになってしまったけれども、それでも十分に美味しかった。ちょっとはビタミン摂取できただろうか?
6 月17日、大学にフラリとやって来ると、土曜日なのに何だか華やいだ雰囲気だ。「神戸みらい博士育成道場」という、小中学生向けの体験コース (?) の開校式が行われていたのだ。神戸大学グッズを販売する生協のコーナーも設営されていた。その目玉というか、最も目立つのは、うりボーのマスコット。大中小と 3 つある。元々、中サイズのものが最初に売り出されて、続いてカバンにぶら下げられる小サイズが出て、去年になって大になった。この大サイズくらいが、その辺りを歩く本物のウリボーの大きさだ。可愛いのはその頃だけで、すぐに巨大化してしまうのは、自然の定め。ともかくも、イベントは賑わっていたようだ。
6 月16日、昨日はプレプリントサーバー arXiv がメンテナンスでお休み。更新が1日滞ると、当然のごとくプレプリントが積み上がる。幸いなのが、その積み上がった山を読むのが週末だということ。金曜日の今日に出たものは月曜日までにゆっくりと目を通せば良い。まあ、arXiv の巡回に 1 時間もかけるのは勿体無い、サッサと済ませてしまおう。うまい filter が作れないかなーとは長年思っているけれども、ちょっとしたタイトルの文字列からチラッと思い当たることがあって、関係なさそうな論文も読むことがあるから、なかなか目視から離れられないでいる。こういう不毛なことを毎日繰り返す最後の世代になるのかもしれない。非効率なことも楽し。
6 月15日、演算子 A と B が可換な場合 [A,B] = AB - BA = 0 には、A と B は同時固有状態を持つ。証明はまず、固有方程式 A|ψ〉= λ|ψ〉を仮定しておいて、 [A,B] |ψ〉= AB |ψ〉- BA |ψ〉= A(B |ψ〉) - λ(B |ψ〉) = 0 から B |ψ〉が A の固有状態となっていることから示す。A の固有状態が縮退しない場合は、これでカタがついていて B |ψ〉は |ψ〉のスカラー倍になる。面倒なのが縮退のある場合で、この時には適当に基底 |ψ〉を選んだら、 B |ψ〉が |ψ〉のスカラー倍となるようにできる ... という論法を追加しなければならない。ふと、この事を忘れていて、思案することになってしまった。量子力学で習うことは色々とあるので、ついつい、ふと思い出して語り出すと、沈没するのである。
6 月14日、野生のランタナが綺麗に咲いている。梅雨の時期からよく目立って、冬枯れするまでずーっと咲いている変わり種だ。そのうち、粒々の種というか果実ができて、鳥が食べて、その種がまたどこかで生えて。一度根付くと、なかなかしぶとく残るので、草刈りをするような場所では段々と増えて行く。狩られても根っこの方からまた芽が出て、さっさと花をつける。栽培品種になったものも、安易に植え付けると遠慮なく伸びて、そのあたりをランタナだけにしてしまう。なかなか要注意だなーと思いつつも、ランタナの花を見かけると綺麗だと感じる。綺麗なものは綺麗で良いのだ。
6 月13日、数学の式変形は信念を持ってやり通すことが大切だ。確定特異点型の微分方程式の多項式解は、係数を比較するだけだから、各項のベキを揃えて、一般形には乗らない最低次とその次の次数に気をつけつつ、次数別に係数を比較して行けばそれで良い。それだけのことなのだけれども、一般項に k(k-1) などという係数がかかっていたら、k = 2 から始まる級数であっても k = 0 や k = 1 を強引に付け加えても構わない。0 はいくら足しても 0 という論法だ。これを使うと、例外処理が簡素になる。そして、こういうトリックに接する時には用心も必要で、それが見抜けないと立ち往生してしまう。結果として、立ち往生したので補足資料を作成して upload した。信念が足らなかったなー。
6 月12日、サツキの花は、割とダラダラと開花する。同じ時期に一斉に開花するのではなくて、早く咲くものもあれば、他の花が咲き終わった頃にようやく蕾が膨らんで来るものもある。早い方はあまり問題ないのだけれども、遅い方が厄介だ。剪定も終わって涼し気になったなーと思っていた株に、後から後から花が付いてすぐにベトベトに溶けてしまう。他の部分がすっきりとしているだけに、目立つのである。待てば雨に流されて、そのうち新芽が伸びて来て気にならなくなるのだけれども、せっかちな私はついつい、手間をかけて花ガラと実を取り除いてしまうのだ。丁寧にやればやるほど、翌年もまた花が付いて ... というエンドレスループが待ち受けている。
6 月11日、日曜日だというのに、いや日曜日だからこそだろうか、講義には「教える専門家」がよく練った講義映像を使うのが良いとか、いや一線で研究をしている者が教えるからこそ云々という議論が SNS で乱れ飛んだ。こと講義という話題になると、皆さんなかなか一家言あるようだ。講義という単語を、例えばピアノに置き換えてみると、そこはシッカリと習い事としての業界的な体系が出来上がっていて、とても上手く弾ける人が直接的に教えるという点に違和感ないのではないかと思う。この辺りで思い出すのは、昔の教養部と各学部の間で、互いに色々と批評する部分があったかなーということ。結局は一家言ある、に尽きるか。
6 月10日、量子エンタングルメントを古典的に可視化できないだろうか、と、ボンヤリと考えていて、あまり本質的ではないヘンテコなモデルに分け入ってしまった。格子の上で、縦線と横線が交わる部分に「線の上下」の違いを含む交差を許す vertex model を考えると、結び目や絡み目を表すことができる。これはまあ従来からよく知られていたことだ。こういうものの重ね合わせを許す統計的、あるいは量子的なモデルを考えて、測定や観測をした時に「どれくらい絡んでいるか?」を定量化するという研究でもすれば、それは量子エンタングルメントによる古典エンタングルメントの研究になって、タイトルがダジャレっぽくなるかなーと。休日にはロクでもないことしか思いつかないものだ。
6 月 9 日、花木で面倒なのが花の処理と、種になる部分の切り取り。ツバキがその代表例で、種子ができると油を作るのに栄養を注ぎ込んで、新芽が育たなくなる。街路樹などで昔はよく使われたサツキもまた、種ができてしまうと株が弱る。まあ街路樹の場合は、あまり伸びてもらうと困るので、それぐらいで良いのかも知れない。こういう管理の面倒な木は街路樹から段々と消え去りつつあって、最近では黄色い花が咲くツルっぽい植物をよく見かける。毎年伸びては、低く真四角にチェーンソーかバリカンで切り揃えるだけ。こういうのが真に持続可能な取り組みなんだろうな。
6 月 8 日、研究は、色々な可能性のある中から選んで行うものなので、最初にどの道へと分け入るかには直感力が必要なことも多い。ところが、この直感力には信仰のような危うさも潜んでいて、宝の山へと通じる道を敬遠して、森へと迷い込んでしまう道を選ぶこともある。そういう意味では、この先は何も潜んでいないかなーと判断する撤退力もまた必要となって来る。こういう話には常に逆説があって、そこで撤退したから宝の山に到達しなかったのだという風な揶揄もまた可能だ。宗教の教本などには必ず「色々な選択」が書かれていて、行けと書いてあれば行くなとも書かれていて、うまく引用できるようになっているのだそうな。研究指導する時もまた、色々な言葉を連ねた方が良いのかも知れない。
6 月 7 日、パソコンの調子が悪いので調べてみるとディスクがソフトウェア的に(??)壊れていた。壊れていても動く? というのは何ともヘンテコなことで、壊れているかどうかをチェックする何かが壊れているのかも知れない。ともかく、一度フォーマットして、再インストールした上でアカウント移行してみた。やはり動作には不審な所があるのだけれども、とりあえず以前よりはマトモに動いているように見える。MacOS も、何だか今日このごろは作動が怪しい。Steve Jobs が見守っている間だけが、MacOS の安定期であるという伝説が出来上がりそうな雰囲気だ。本当にそうなのかも知れない。
6 月 6 日、研究は、色々な可能性のある中から選んで行うものなので、最初にどの道へと分け入るかには直感力が必要なことも多い。ところが、この直感力には信仰のような危うさも潜んでいて、宝の山へと通じる道を敬遠して、森へと迷い込んでしまう道を選ぶこともある。そういう意味では、この先は何も潜んでいないかなーと判断する撤退力もまた必要となって来る。こういう話には常に逆説があって、そこで撤退したから宝の山に到達しなかったのだという風な揶揄もまた可能だ。深い信仰を持った人から昔聞いたことがあって、宗教の教本などには必ず「色々な選択」が書かれていて、行けと書いてあれば行くなとも書かれていて、うまく引用できるようになっているのだそうな。研究指導する時もまた、色々な言葉を連ねた方が良いのかも知れない。
6 月 5 日、条里制で検索すると高松市や讃岐平野がヒットする。なにぶん平和な田舎なので、大昔のものが色々とそのまま残っているのだ。条里制の頃の道をそのまま残しているのも、その証だ。道が碁盤の目のように縦横に通っていて、航空写真を見ると一目瞭然。昔のままで残った理由の一つが、南北に流れる川の存在だろう。大昔に川の付け替え工事を行なって以来、あまり蛇行することもなく今日に至っている。また、あまり努力して真っ直ぐに碁盤の目を作らずに、元からある地形を生かして道路を設計した古代の人々の努力が、そのまま今日に受け継がれているのかも知れない。すこーし道が曲がっているのも、讃岐らしい風情だ。ときどきは帰ろう。
6 月 4 日、庭木を見渡すと、勢いの良い場所もあれば、伸びの悪いところもある。どうしてそんな差が出たのだろうか? と思案して、ハタと思い当たる事がひとつ。そういえば、伸びている場所にはダシガラを冬の間に撒いておいたのだった。昆布とかイリコとか、そのままでは塩分があって肥料にはイマイチなものでも、美味しいダシを取った後は塩が抜けて、良い肥料となる。取り除いておいた頭や腹が一番養分が高いので、これはそのまま撒くのが良い。ちょっと要注意なのが野良猫で、頭などはミキサーで粉末にしてから撒く必要がある。園芸は土づくりから。また次の冬に、ちゃんと肥料をあげよう。
6 月 3 日、梅の季節となった。今は青梅が並んでいる。梅酒や、カリカリとした青い梅漬けを作るのに適している。もうしばらくすると黄色い梅が出回って、さあ梅干しづくりとなる。今年は漬けたものかどうか。梅干しの使い方を見て回っていて、道場六三郎がダシで 1 時間煮ると言う動画に遭遇した。なるほど、そのままの塩分で梅干しを食べるという固定概念にとらわれなければ、いろいろな料理に通じるわけだ。梅の味が足されたダシを料理に使い、塩の抜けた梅を楽しむ、一挙両得の調理法だ、すごいなー。ちょうど、取っておいたイリコ出汁があるので、早速試してみよう。作って冷やして、味が落ち着く頃が美味しいそうだ。さて、どの梅干しを使おうか。
6 月 2 日、雨の1日。神戸大学は既に雲の中にあって、すぐ近くの建物も霧っぽくてよく見えない。海辺で春先によく遭遇する濃霧によく似ている ... いやあれは激烈で、数歩先がもう見えない、しばらく立っていると霧粒で濡れてしまう難儀な霧だ。海の方はマシらしいけれども、それでも沖は見通せないので、止まっている船も多い。都会では電車が止まる必要はないのだけれども、通勤時の乗客はとても少なかった。リモートワークが定着したので、わざわざ条件の悪い雨の日に通勤する意味がなくなったのかも知れない。自然条件に打ち勝つ必要はなくて、単に悪条件は避ければ良いだけなのだ。
6 月 1 日、写経という学習の方法がある。最初は意味がよくわからないけれども、ともかく何回も書いて、とりあえず書き方を身につけてしまうのだ。無意味に見える文字の列の中から、意味のあるかたまりを見つけ始めることが、その次のステップとなる。所々で意味がわかってくると、その間を結ぶ言葉も段々と立体的に見えて来る。そこに誤解があっても別に構わなくて、つながらない部分が出てくると自然と考えて、やがて誤解は修正される。量子力学の学習にも、そんな所がある。あの世界は、最初はあまりアレコレと考えるべきものではなくて、まずは多読するのが良い。暇があれば書いてみるのが良い。シュレディンガー方程式を書かせてみると、何となくどれくらい勉強したかが浮かぶものだ。
5 月30日、今週後半からは、クォータの最後の週となる。ようやく前期の講義も半分までやって来たか、やれやれ。この前期は、90 分講義を週に 5 つ持つという、大学にしては過密スケジュールとなっている。学生とのセミナーの時間も確保しなければならないので、講義もセミナーも自然体で行うことが例年にも増して大切だ。あれもこれもと詰め込み教育してはならない、それは誰の利益にもならない。もうちょっと知りたい、それくらいの所で、その先を自ら探し歩くような講義が本当は良いものだ。 ... と、サボりの口実にも見える文句を吹聴しながら、さあ今日もセミナーだ。学生の発表は個性に満ちていて、飽きることがない。
5 月29日、片手でぶら下げることが可能な、カメラのストラップを作った。愛用していた革製品のストラップがボロボロになってしまったので、もう使わなくなった古いカメラの、樹脂製の首にかけるストラップを適当に切って、金属製のリングを通して、端をハサミで整形した後に、エポキシ樹脂で強化・接着して仕上がり。念の為、ホッチキスで止めた後でペンチで金具を圧縮して、その部分を瞬間接着剤で固めた。これだけの簡単なものでも、買えば何千円かにはなる。なお、この手の身につけるワイヤーものは、あまり頑丈に作り過ぎてはならない。何かに引っかかった時に、切れてしまうくらいでないと、怪我の原因になる。これはショルダーバッグなどでも同じだ。
5 月28日、神戸まつり、現地に行かなくてもサンテレビが中継してくれていた。東京ディズニーランドのフロートがやって来て、可愛い動きを披露。その間に俳優のように立つお姉さんは? 遊園地で演劇やってる方なのだろうか? と不思議に思って検索すると、アンバサダーなのだそうな。対外的な広報の面に立つ人、元々はホテル勤務、意外というか、さもありなんというか、人材はこうやって育てて行くものなのだなーと感じた。そんな検索の間にも着ぐるみを身につけて激しく動くキャラクターたち、中の人は熱中症にならないのだろうか? と、排熱の仕組みにも興味を覚えた。下手に何かを加えると、ますます重くなってしまうからだ。さて ...?!
5 月27日、目の前にはカップ焼きそばの大サイズがゴロリ。さて、どうやって食べたものか? と思案して、まず野菜を刻んで炒めた。麺は充分に塩辛いのだけれども、それでも少しは下味を付けないと、麺と絡めた時に味がうまく混ざらない。塩を振って、少しダシを加えて。これを先に器に入れておく。そして、カップ焼きそばに湯を注いで ... おっと、かやくを入れ忘れていた、ササッと湯に浮かべて蓋をする。そして待つこと 3 分、湯切り口から湯を捨てて、ソースと絡める。そして器の野菜の上に盛って出来上がり。けっこう美味い。美味く味付けしてあるのだから当たり前と言えばその通りだ。フライ麺ならではの質感もあって、まあこういうチープな食事も昭和の人間には似合っているなーと、しみじみ感じた。
5 月26日、Pitapa で阪急の改札を通過したら、あら運行停止。こういう事故が毎日のように起きるのは、明治時代からの鉄道のシステムを「あまり何も変えずに」使い続けて来たからでもあるし、社会の歪みの現れとも言える。新交通システムは、この辺りに充分に気を配って設計されていて、今ようやく一般の鉄道にフィードバックされ始めている。人々の背丈よりもずっと高い所まで壁のあるホームドアとか、完全に立体交差か地下を走っていて、線路に侵入できないようになっているなど、ほんの少しずつ、ゆっくりと改善が進んでいる。今日新たに気づいたのが、運行不能時には Pitapa をタッチするだけで、同一駅から出場できるということ。そんな仕組みになっていたのかーと、感心した。
5 月25日、鳥取大学の入試問題で出題ミスがあった件、よく見抜いたなーと感心した。最初に問題案を作成した人が勘違いしていることを、周囲の誰かが気付けるか? というと、かなり困難な事例だからだ。催眠術のようなもので、間違いを含んだ説明を「思い込んだまま自信満々に語られる」と、すーっとそのまま受け取ってしまうものだ。これは物理学の最先端でもよくあることで、誰もが誤解したまま自然を語っていて誰も気づかないからこそ、なかなか真理に辿り着けないままとなってしまうのだ。そして追加合格を何十人と出したのもまた凄い判断であった、学生定員の管理も大変だろうなと推察する ... まあ仕方ないことなのだけれども。
5 月24日、ギターの中で、エレキギターはちょっと変わった存在だ。ピックアップやエフェクターの使い方にもよるのだけれども、普通に「あ、エレキだ」という音で演奏する時には、どんなに強く弦を弾いても大きな音は出ない。また、一度弾いた弦は消音しない限り、ずーっと伸び続ける。こういう性質があるので、演奏方法もどちらかというとオルガンに近いものがある。音楽表現は音の切り方、タイミング、長さを組み合わせて何とかすることになる。そしてチョーキングはオルガンのフットペダルっぽい使い方になる。エフェクターを全部切ってしまうと、アコースティックのようにも使える節操のない所もまた、エレキギターらしい...。
5 月23日、今日は気温が下がって、この所の暑さと湿気も一段落。朝からベッセル関数あれこれ。この関数は極座標と仲が良いので、出てきた題材が太鼓。ドラムの振動モードを拾って行くと、全く調和的ではないことがわかる。弦とは違って、幕状のものはどのように貼っても、なかなか調和的にならないものだ。というわけで、講義室にあるいろいろなものを叩いてみる。黒板は Q 値が低いのか、あまり明確にモードを拾えなかった。良かったのが教卓。四角い枠に合板を貼り付けた構造になっていて、ポンポンと良く鳴る。叩く場所によって音色が変わって面白い。そして、教室の机は金属的な音であった。樹脂で固めた合板は石のように硬いのかも知れない。
5 月22日、野菜クズなど、細胞が生きている状態のものは干してもなかなか乾燥しない。サッと湯に通して、細胞としての活動を止めてしまうと一発で乾いてしまう。生命活動は細胞によって支えられているのだと実感する、そんな実例なのだと思う。食べ物の消化も似ているのだろうか、肉や魚にしろ野菜にしろ、火をよく通したものは消化が良いような気がする。土曜日に産直の野菜がたっぷりと届いたので、毎食が野菜なのだけれども、今朝はレタスのスープをいただいた。薄い苦味があるのがレタスの良い所で、今の時期に水分を補充するのにも向いている。
5 月21日、多面体の形を持った格子の研究をボチボチやっていて、多面体をうまく描くには? という秘訣を探ってみると、どうやら立方体をうまく描くことから始めなければならないようだ。正多面体は全て、うまく立方体の中に押し込めることができるからだ。立方体には立方体なりの難しさがあるようで、正しく平面に投影して描いても、時には厚みが薄いように見えてしまうのだそうな。また、建築のように消失点を設定して描くと、とがり過ぎになってしまうことも。この辺りが投影法の限界で、魚眼レンズで写したような曲がった絵の方が自然に見える場合もある。描くって難しいものなんだなー。
5 月20日、ギターは弦の張力を表板の上に置いたブリッジで受ける構造になっていて、構造上このあたりから壊れることも多い。このような構造は琵琶やリュートなどの共通先祖から受け継がれたものらしい。バイオリンや三味線のように弦の張力をフレームで受け持つ方が力学的には安定しているのだけれども、弦をつま弾く演奏法から、どんな方向に弦が力を受けてもズレたり外れたりしないことが必要で、今の形に落ち着いたのだろう。木は力を受け続けるとジワジワと曲がるので、古い楽器になると表板が微妙に浮いて来て、弦高の調整が必要になる。メンテナンスもまた楽器の楽しみなのかも知れない。
5 月19日、雨がおやつ時には上がるくらいの予報だったのだけれども、もう少し長く降り続いている。前線が閉塞してだらだらーっと雨が降るパターンで、こういう時は一日中何となく湿っぽい感じとなる。その分、空気は随分と綺麗で、色々飛んで目がかゆいということはない。但し、カビが出るものが身の回りにあると、間違いなくカビる。もっとも厄介なのが果物の皮。特に、スイカとメロンの皮は要注意だ。どちらかというと、メロンの皮の方が端まで糖分が乗っていて、カビが出やすい。スイカの皮の方は、野菜として食べてしまえるので、案外何も残らないものだ。さて、今日はどんな果物を頂戴しようか。
5 月18日、量子測定は量子力学を教える中でも、なかなか正しく伝えられないものの 1 つで、うっかりすると「|0〉を得る測定」などの、突っ込み所を残した表現を発してしまう。「測定の結果として |0〉を得た」とか、もう少し丁寧に「測定の結果として 0 が読み取れたので、終状態が |0〉であることがわかった」と述べるのが、まあまあ妥当な所だろう。また、状態を直接測定できるのは稀なことで、おおよその実験が間接測定となっている ... というか、その方が自然だ。Feynman Lecture で登場する実験もまた「思考実験である」との断り書きがある。量子測定の実際について講義で延々と話すのは、他のコンテンツとのバランス上難しいので、色々と圧縮に思案する。どれをトピックスにしようかなー ...
5 月17日、とても暑い日になって、もう長袖シャツは着ていられないので T シャツ 1 枚で坂道を登る。それでも暑い。まだ体が暑さというものに慣れていないのだ。真夏だったら、もう 10 度は気温が高い。加えて今日は青空が広がって、日光がとても強い。夏至まであと 40 日くらいなのだろうか、夏至の 40 日後の、8 月頭と同じくらいの日照なのである。暑くて当然だ。こういう炎天下でソフトボールなど行うと、日焼けだらけとなる。昔はあまり日焼けを用心することがなかったというか、日焼けを推奨するような雰囲気すらあった。後から思うとヤバいことは、世の中に普通に存在するし、今も何かしらそういう奇妙な慣習を妙だと思わず毎日のように繰り返しているのかも知れない。
5 月16日、ガーベラの切り花を日陰で水挿ししていたら、いつの間にか種ができた。キク科の植物の繁殖力を見た気がした。さてガーベラ、まだ種まきが間に合う季節らしいのだけれども、どういう風に植えたものか。というのも、ピーマンの種やらゴーヤの種やら、あちこちにばら撒いて芽が出ていて、既に光の奪い合いになっているからだ。職場の窓際にはもう場所がないから、持って帰って海辺の畑にでも撒いておこう。トマトやナスビの横でガーベラが咲くのも良いのではないだろうか。カボチャの芽も出て来るのだけれども、栽培品種は大切に育てないとダメらしくて、いつの間にか姿を消す。
5 月15日、ギターでオーケストラ曲をコピーして演奏する、というパターンの映像がいくつも転がっている。それっぽく演奏できる部分をうまく拾って来て、うまく編曲してあるものだと感心する。真似てみたいのは山々だけれども、そのまま演奏できる技量はないので、更に簡素化して自分で音出しできるレベル、速さまで妥協する。元の曲の速さを保つ必要はなくて、場合によっては極端にゆっくりというのもアリな気がして来た。1分間くらい、ゆっくりワンフレーズ弾いておしまい。忙しい今の時代には、そういう時間を使わない演奏の方がウケが良いのかも知れない。
5 月14日、鉢植えの植物、そのまま何年も楽しめる強い (?) 種類の木もあるけれども、大抵はすぐに勢いがなくなって、場合によっては枯れてしまう。芽や葉が毎年出るように、新しい根が伸び続けることが必要らしい。植えかえというか、土を入れかえる目的で鉢をひっくり返すと、びっしりと根が詰まっていて、土なのか根なのか訳がわからない状態になっているのを目の当たりにすると、ああ窮屈だったのだろうとも思えてくる。ありがちなのが、春先に種から生えて来た雑草の根が伸びまくっていること。ナス科の雑草は特に強くて、あっという間に「鉢の主役」を奪ってしまう。栽培する草木は、野生のものに負けてしまう。学問もそうだったりして。
5 月13日、この週末は色々とイベントがあるので、あちこち遊びにゆこうかとアレコレ考えていたものの、午後から雨。一気に出不精となる。雨なら屋内ということで、海辺の駅からトコトコと電車に乗って浜を眺めつつ三宮へ。お目当ては北海道物産展のベーコンなど。肉の感覚たっぷりの豚肉製品は北海道らしい豪快さがあって、毎度楽しみにしている。ついつい多めに買ってしまうので、一部は冷凍へ。スライスされていたハムも購入。目的の品が手に入ったら、さっつと帰宅。ハムを食べてみてびっくり、スライサーではなくて包丁で切られていた。1 cm くらいずつ、細かい段差が切り口にあって、丁寧に手作業で切られたことがわかる。そう言えば売り場の裏で包丁を研いでいたっけ。
5 月12日、クズのツルが伸びて来た。あの厄介な植物は、根にたっぷりと澱粉を蓄えているので、初夏になると勢いよくツルを伸ばす。朝に眺めて、夕方に同じ場所を通ると、もう目に見えて伸びている。下にも横にも上にもどんどん伸びて行くので、あっという間に辺りがクズの山と化す。この藪の中は獣にとって居心地が良いらしくて、夏頃にはガサガサゴソゴソとイノシシが動く音が聞こえて来るようになる。これが立ち木に絡みつくと光を奪って、部分的な枝枯れならまだしも、株全体が枯れてしまうこともある。根は澱粉を取ったり、薬として使ったりと、まあ使える草木ではあるものの、根というか地下茎を掘るのもまた大変だ。昔の人は根気があったのだろう。
5 月11日、木曜日の朝は量子力学の講義だ。これは、「真面目な初学者」にバリアの高い学問でもある。そういう層にはまずリー環を与えておいて、そこから表現を幾つか与えて、互いの関係を説明するのがスッキリしているとは思うのだけれども、そういう組み立て方をしたら大多数の受講者にとっては理解不能なものになってしまう。そこでまずは色々とコンテンツを並べておいて、段々と量子力学的な考え方に慣れてもらうことになる。しかしながら、それもまた何が出発点になっているか、気持ち悪く感じさせることにも繋がる。うーん、ターゲットを絞るのは難しいなー。
5 月10日、ベルーガが神戸空港にやって来たようだ。便利な世の中になったもので、写真を撮って上げてくれるので現地に行かなくても楽しめる。あんな大きなものでわざわざ運んで来るくらい、ヘリコプターは高価なものなのだ。船便の普通のコンテナには、バラバラにした部品でないと入らないのかな。ゴールデンウィークも明けると、そろそろクォーター末となるので、試験の予告をしなければならない。昔は中間テストと呼ばれていたものだ。どんな問題で実力を試してもらおうかなー、どっちかというと学習効果が上がるような問題を設定しなければならない。評価するだけが試験の目的ではないからだ。
5 月 9 日、だいぶん日照が長くなって来て、いよいよメロンに甘味が乗って来た。瓜の系統のものは気温も日照時間も大切で、どちらかが欠けると実はできても本当に瓜のように味気なくなる。また、ツルが伸びて陽が充分に当たるだけの面積も必要になる。こういうものはプロに任せておいて、より簡単なキュウリでも作って、時々曲がったのをもいで食べるのが気楽だ。そんなことをボンヤリと思いながら、今時にキャベツが出てくる不思議さにも慣れてしまったことを、ふと感じる。イチゴは放置しておいても実ができてしまう時期に差し掛かり、昔は安くて不揃いなものが出回っていたような記憶もあるのだけれども、最近ではなかなか見かけない。流通も変わったのかも知れない。
5 月 8 日、連休明け。朝から色々と仕事メールが届く。今すぐ応答するべきもの以外は詰んでおく。このようにしておくと、いつの間にか返答の必要がなくなるか、あるいは段々と締め切りが迫って来るかのいずれかとなる。そのようにして、重要なものから手を付けることを覚えるのかも知れない。政治や行政の仕事となると、流れるものも沢山出てくるとは聞くし、一応は公に奉公する仕事なので、当然の如く本当に必要なのかどうかと思うものまで色々と降って来る。こういう時には、適当に数字や文字を埋めて返すのもまた世のため人のため。埋めないと、催促する人の手間を増やしてしまう。そうして、いつの間にか忘れ去られるファイルの山が積もり、いつしか消え去って行くのである。
5 月 7 日、雨が降ると、商店に行くこと以外あまりやることがない。木工とか包丁研ぎとか、探せば趣味はいくらでもあるのだけれども、まあ当座はそんなに工作の必要もないので封印して久しい。雨の日の商店は、雨だからと言って極端に仕入れを抑えることもできないので、結構な割合で値引き販売となる。半額だと流石に原価割れとなるのだろうけれども、まあ他にも色々とついつい買ってしまうので、半額品を狙いに商店を訪れて得した感覚があるかというと、あまり無い。それでも、ついつい半額だと手を出してしまうのが、インセンティブという名前の魔物なのだと思う。
5 月 6 日、平日に戻る。いろいろな制限もとけて、本当の平日に戻る。でも以前の平日ではない、削るべきことは削り、無駄な慣習は引き継がない。ビニールシートを取り去った商店も多い。事務窓口でも、だいぶんバリアが撤去された。この間、銀行の窓口がだいぶん変わって、可能な限りはモバイルで済ませてしまえるようになった。公共料金が専用端末で処理できるようになって久しい。税金もまた携帯のカードリーダーを使っておおよその手続きが可能になった。でもまあ、税務署を訪れるのも悪くはないと思う。行く度に、窓口に食ってかかっている人が必ずいて、世の中そういう仕組みなんだと感心することもあるので。
5 月 5 日、こどもの日。こどもの特権は未来があること、屈託のないこと、無駄を気にしないこと。人類の存在もそんな感じなのかも知れない。太陽、地球それぞれに長い時の果てがあることがわかっていても、それまでには宇宙に出て行けるという、確証はないけれども何となく無限の未来があるという意識は共有されているのだと思う。物理的に突き詰めて行くと、エントロピーの捨て場が幾らでもあるということが大切であって、そのような宇宙である限り情報を伝達することが可能であり、次の世代へと何かを繋ぐことができる。青空の向こうには、そんな空間が広がっているのだろうなーと思いつつ。やっぱり今日はこどもの日だ。
5 月 4 日、雑草の中でヒルガオが目立つようになって来た。街路樹に巻きついて光を奪うのが得意で、道路ぎわのサツキの上に顔を出して、陽が少し短くなって来る夏の頃に花を咲かせる。栽培品種の朝顔よりも太陽光が必要で、条件が悪いとツルばかりになって花が付かなくなる。そのくせ、翌年には同じ場所からまた生えて来る。鉄柵のようなツルツルな棒にも巻きついて、花咲く生垣となることもある。そういう姿が想像できるにも関わらず、ヒルガオが生えて来る季節は何となく嬉しい。花粉の飛散が収まる季節だからかもしれない。同じようにツルで生えて来ても、ヘクソカズラは嬉しくない。不思議。
5 月 3 日、5月は祭りのシーズン、昔の西日本では今頃から田植えの準備を始めたのだろう。神様が山車や神輿に宿って地域を巡り、神事の中でも参加あるいは拝観して楽しめる要素が豊かで、祭りの日はどの地域も普段にない活気がある。旅先で眺める祭りもそれなりに良いのだけれども、どこか単なるお客さんであるような感覚があって、地元の祭りほどリラックスできない。さて今日は平日、論文が沢山上がっているので、普段のように大学にやって来た来た、まずは arXiv の論文検索から。大学の周囲でも祭りが催されている、職場の近くなので半分くらい地元の祭りみたいな感覚。
5 月 2 日、ゴールデンウィークの平日。昨日は「木曜日の授業日」で、今日は「金曜日の授業日」だ。そういえば昨日、量子力学の講義で「運動量演算子は並進を生成する」という類の話をした。exp( a p ) という演算子を状態ベクトルに作用させるのだ。この場合、a だけ波動関数がズレる(状態としてはその逆向きにズレる)のだけれども、a が複素数だったら? と、ふと思った。波動関数は複素関数で、複素関数は一般的に複素数から複素数への map で、解析接続する際のテイラー展開の微少量 a は複素数で良い。ということは、波動関数が複素平面の上でどんな形をしているかが、a が複素数である場合に顔を出して来るわけだ。なるほど、と、納得して頭の引き出しに入れておいた。リーマンのゼータ関数の零点探しに使えないかなー。
5 月 1 日、今日の量子力学は、ケットベクトルに対する時間発展方程式から、シュレディンガー方程式を導いた。導くと言っても単に橋渡ししただけで、どちらがより基本的ということはなくて、単に同じように物理現象を記述するということを示したに過ぎない。導出の途中で、p 表示の恒等演算子を導入したり、デルタ関数の積分表示を括り出したりと、色々と式変形する必要がある。デルタ関数は便利な道具なのだけれども、前述の通り部分積分には注意が必要だ。ケットベクトルの線型結合など、もともと数ではないものに対して部分積分するわけで、解析学で教わったままではないからだ。まあ、最終的には部分積分できてしまうのだけれども。
3 月と 4 月の1行日記