← 5 月と 6 月の1行日記
4 月30日、天気も回復して来たので、近くの海辺の神社へとお参りする。潮風が吹いて心地よさを感じる。もうすぐ例大祭なので、あちこちに旗が立っている。神輿か何かが巡る目印か結界なのだろうか。全国津々浦々、同じように神事の準備が行われているることだろう。地方によって、ちょっと違うのがハッピの色や柄と、鳴り物の音色やリズム。故郷の香川では、ちょうさや獅子舞の登場となり、ちょっと小ぶりの太鼓を長いバチで跳ねるように叩く。昔は、どこでもそんな感じだろうと思い込んでいた。これらのバラエティーに日本の広さを実感する。昔は大名が地方を治めていたのだなぁ。
4 月29日、ロベルト杉浦の歌声に接する。毎度のことながら、素晴らしいのひとことしかない。その強さを支える共演者(伴奏者ではない)もまたまた、素晴らしかった。雨ということもあって、終演後はソソクサと海辺の我が家へと急ぐ。湿度が高いので、雨避けの上着が蒸れて暑さを感じた。季節は進んでいるのだなーと思った。地面など辺りの温度が、段々と上昇していて気温以上に暖かいのかも知れない。その途中で、議員さんに出会った。政治の仕事にも緩急はあるわけで、バッタリと会った時は、どちらかというと OFF っぽい雰囲気で、こういう一面もあったのかと心温まった。
4 月28日、配列変数 B(i) の総和 c = Σ_i B(i) を求めるような数値計算は、そのままでは割と長い時間がかかる。演算ユニットから出てきた足し算の結果に対して、次の数を足すという、依存性のある計算が続くからだ。こういう場合にはパイプライン処理がうまく行かない。解決方法は幾つかあって、まずはコンパイラが自動的に最適化することを期待することだ。あるいは、総和を求めるライブラリを呼び出しても良い。部分和を求める計算は並列化できるので、そのようにループを展開しておくのも古典的な解決方法だ。コアの数が沢山あれば、それぞれに投げるとい解決方法もあるけれども、それでも、それぞれのコアで高速処理されるに越したことはない。計算機との付き合いは、やっぱり専門職の一つなのかなーとも思う。
4 月27日、まずいのである、週に2回の講義と2度のセミナーが入ると、報告書など色々とまとめる今の時期に次々と仕事が積み上がって行くばかりなのである。こういう時に限って、レフリー依頼が立て続けに入ったりする。シワ寄せは週末に。幸い、しばらくするとゴールデンウィークに突入する。土日祭日はもちろん仕事の時間だ。この時期を乗り切れば、定常状態に入って夏休みが訪れる頃には書き物を除いて雑務は消え去り、ようやく研究の日々となるのだろうか。いや、待てよ、予算申請もあった。時間を盗むように仕事を続けて行くしかない。多くは文章を書く仕事だ、日本は文系国家だという事なのだろう。
4 月26日、物理学と数学の教育で大きく違う点の1つが、証明するかどうかだ。物理学では自然観察や実験を通じて得られたデータと矛盾しない理論を組み立て、再び実験を通じて検証する。発見と確認の学問だと言っても良い。数学ももちろん、数の世界がどこまで広がっていて何が潜んでいるのかを探る学問なのだけれども、一つ一つのステップを証明で登って行く。この両方の要素を身につけておく必要があるのが量子情報の分野で、それは情報理論が応用数学の塊であるのも一因だ。さて今日は no cloning theorem の証明がセミナーに登場した。これは背理法で証明するのだけれども、何が仮定で、どこに矛盾を見出すのか? という論理構築は、物理の学部教育を受けた学生には難しい事なのだ。教育の良い題材だとも言える。
4 月25日、焼き菓子の中に、しっとりとした食感のものがある。焼いてあるので水分はかなり飛んでいて、それでも水を含んだように重たいのは水が油脂で置き換えられているからだ。こういう場合、見えている部分の何分の1かの分量の油脂があると認識しておく必要がある。それを忘れてパクパクと食べると、消化が間に合わない可能性が出てくる。腸内では細菌がどんどん増えて行くわけで、余ったものはそのエサとなる。あとはご想像を。サクサクとしたビスケットで既にあれだけの油脂なのだから、シットリとなると砂糖あり油脂あり何とかアリで、楽しむのは少量にしておこう。
4 月24日、我々の世界では大規模な予算 ... とは言っても億単位なのだけれども ... が絡むと、どうしても政治的な要素が入って来る。申請して当たるにしても外れるにしても、それは税金が形を変えて降って来るもので、最初から誰かに振り分けられることは決まっている。民間では、なかなかそうは行かないだろうと思う。水商売という例えがあるけれども、店を構えても誰も前を通らなければ利益が生じるはずもない。流行っている店であっても悪い噂が立ってしまうと大打撃だ。この辺り、評価サイトのコメントで困っている人も多いのではないかと推察する。いま、誰もが注目する量子コンピューターで、ある方がふと tweet したことで、利益が失われる人も居るのなら、どう考えるのかはなかなか難しい。最先端は生き物だと実感した。
4 月23日、寒干しという食品加工の工程は良く考えられている。寒くて、絶対湿度が低い条件下で干すのでカビや細菌などの活動を抑えつつ、安全に完走できる。無風では少し時間がかかることが難点かも知れないけれども、冬の日本は風が強いので大丈夫だ。何となく、温度が上がれば蒸散も増えて速く乾きそうな気がするのだけれども、初夏に差し掛かる今ごろに同じ事をすると、カビが取りついて食べられないものへと分解してしまう。また、カビはその分解の過程で水を生じるらしく、ますます湿ってしまう。こうなると、周囲のあらゆるものがカビカビになって、真っ黒な胞子に覆われる。例外が、塩分を十分に含んだタンパク質からなる食材で、チーズや生ハムは一気には分解しない。不思議なものだ。
4 月22日、研究室見学のような催しで、毎度のように再認識することは何かというと、世間一般に「研究の成果」とか「論文」と呼ばれているものの価値だ。どうやら論文というものは、とても素晴らしいものだと思われているらしくて、ちょっと困惑してしまう。人類が ... 少なくとも現在の学問を支えているコミュニティーにとって未知のものが新たに得られて、既知と未知の境界を少しばかし膨らませたならば、それが成果であって、論文として世に示す価値のあるものだ。価値があるとは言っても地味なものが大半なので、何百本と論文を発表したとしても、人々の名前は砂の如く忘れ去られて、既知の海へと消えて行く。それでいい、ということは見学者には敢えて伝えようとは思わないけれども。
4 月21日、暑い日中となった。坂を登り切ると、もう長袖ではいられない。T シャツ 1 枚でしばらく過ごす。団扇も必須だ。丸亀で作られた団扇だろうか。ようやく汗も引いて、長袖シャツを着直して、のんびり金曜日の午後 .... いや、今日は会議が続く日だ。明日の説明会の準備もある。なかなか気が抜けない。これだけ暑くなると、植物からの水の蒸散量も増えて、よく根を張っているものはますます盛んに伸び、もう種を作って命を繋いだものはしなって枯れて行く。毎日のように道端の眺めが変わって行くのを眺めることが、この時期の楽しみの一つだ。今日はどんな新しいものを目にするだろうか?
4 月20日、量子力学で面倒なことの一つが連続自由度の扱い。離散的であれば、線形代数そのままでいいのだけれども、連続空間ではデルタ関数のお世話になる。また、積分の測度という、計算間違いというか、ともすれば忘れ去ってしまいがちなものが転がっていて油断できない。積分や微分の順番が問題になることもある。状態や演算子が積分で表示されている場合、それらは単に線型結合を表しているに過ぎないので「積分の値」は存在しないし、同じく「原始関数」という考え方もない。この辺りが、普通に習い進んで来た数学と量子力学・場の理論の異なる所で、教える時にはじっくり進めなければならない。
4 月19日、この所、雷が鳴ることが目立って来た。短絡的に表現すると「地球温暖化による云々」なのだろう、それは統計を全く無視した表現であって、社会にはこのような詐欺的表現が満ち溢れている。論理をもって、データに基づいて物事を考えて行くことが必要で、このような考え方が「理系」と表現されている間は、まだまだなのだと思う。暗に、文系であればデータを見なくてもいいよというサインを送っていることになるからだ。誰もが、ちゃんとデータを見て、データの取られ方などにも注意を払うよう少しずつで良いから気にかける。そのようにしていれば、この3年間の騒動は再来しないはずだ。まあ、最後に風邪をひいたのはコロナ初年の晩秋だったなー、あれは何の風邪だったのだろうか?
4 月18日、段々と上着が必要ない気温になって来た。坂を登り降りする時には、上着を脱ぐ人も。まだ T シャツ一枚というのは珍しい。これくらいの気温になると、そろそろ野バラなどが伸びて来る。辺りが黄色い花で満ちて、お花畑のようになる。神戸は暖かい地域なので、北国のように一気に花が咲き乱れるということはないのだけれども、それなりに春っぽくて良い。タンポポはそろそろ、綿帽子の時期だ。あのように綺麗に丸くなる背景には、フィボナッチ数列が関係あるのだろう。
4 月17日、暖かくなって、枯れ木からキノコなどが生えて来た。神戸大学からの帰り道で、阪急六甲駅の南にある八幡神社では木々の植栽管理が行われ、雑木の切り株や薪となるのだろうか、丸太などが置かれている。それぞれ、やがてはキノコやその他の菌類に分解されて朽ち木となる。自然に生えて来たものの内で、キクラゲには毒を持つものが少なく、可食であるものをよく目にするのだそうな。とは言っても、確実に判別できない限り、手は出せない。昔の人々は動物がかじったりするのをよく眺めて、食べられる、食べられないを判断していたのだろうか。
4 月16日、Zoom のブレークアウトルームを作る。この作業は初めてだったので、まずはスケジュールの方法から検索して調べる。検索してみて、一番よくわかったのが、Zoom が提供している文章。Zoom のインターフェースは頻繁に改定されるので、けっこう上位にヒットする「まとめた解説」であっても、既に設定画面の見かけが異なっていたりするのだ。ちょっと戸惑ったのが、ブレークアウトルームの名前の変更の方法。表示されている箇所をクリックしても、何の応答もない。その右上に書き込み欄が出るというのが、ちょっとしたトラップであった。ともかくも、設定はうまく行ったようだ。まあ何かアカンかったら、当日その場で部屋を作ればいいだろう。
4 月15日、毎月恒例の産直野菜が届く。今回は、ウドが入っていた。自分でウドを扱うのは初めてのことなので、さっそく色々と検索する。ちょっと面倒な所もありそうなので、下処理を先送りする。まずは、カブや大根の葉を炒めていただく所から。葉物野菜はどんどん食べないと、勝手に栄養を消費して甘味をセルロースに変えてしまう。また、根菜の場合には根の部分が繊維っぽくなってしまう。産直の野菜はサッサと食べるのが肝要だ。産直でなくても同様、野菜は鮮度が命。中にはニンジンのように、ちょっとノンビリした野菜もあるのだけれども。段ボール箱にはエシャロットというか、ラッキョウの小さいものも入っていた。そしてヤーコンも。色々と珍しいものが入っているのが、面白い。
4 月14日、昨日は神戸大学から神戸大学附属中等学校への散歩を楽しんだ。冬ならば 30 分以内、夏でも 40 分あれば到達できる距離にある。いつも、近道しようと余計なことを考えて袋小路に分け入ったりして、少しずつタイムロスしているので、本当は 20 分程度なのかもしれない。事前に地図でよく調べてから歩き始めれば良いのだけれども、大雑把な性格の私、携帯の地図を見ながら歩くのは趣味ではなくて、迷い道も含めてその地域の地形と道筋を頭の中に入れつつ散歩するのが好きだ。これは昔からの習性で、大学に学生として通っている時にも、毎日いろいろな道を通るのが趣味となっていた。意外な発見があって楽しい。さて、今日はどんな道を歩もうか。
4 月13日、美味しそうなイタドリの生えている場所がないかなーと探していたら、大学のグラウンド周囲に幾らでも生えていることがわかった。グラウンドという所がミソで、そうでない斜面の部分はクズなどが占拠してしまっていて、イタドリは目立たないか、生えていても断崖絶壁で手が届かない場所だったりする。グラウンドは、草が生えていては使えないから、毎年ちゃんと草を刈り込んであって、そこに春一番に生えて来るイタドリが優勢なままになるのだ。そして、ワンちゃんの散歩コースでもある。なるべく、散歩のお土産がなさそうな場所を狙おう。今の時期にちゃんと収穫しておかないと、すぐに固くなって食べられなくなる。
4 月12日、アジサイの木が大学のアチコチに植わっている。低木なので、下から出た芽が一番強くて、高い場所にある枝先には、弱い芽しかつかない。また、大きな立派な芽であっても、枝先にあるものは膨らまないことがある。そういう芽がある場合、枝を 15 cm ほど切り取って水挿ししておくと、芽が開いて来る。最初は枝が水に浮いて、ほとんど水が運ばれていない状態だったのが、日に日に沈んで行くことが観察できる。このように、枝ごとに水を振り分ける機能がアジサイに備わっているのも興味深い。水挿しした芽から葉が何枚か出た段階で、花芽が見えて来る。根がないか、充実していない状態なので、花は申し訳ない程度に小さく開いておしまいとなる。売り物になっている鉢植えのアジサイは、恐らく前の年に取り木してあるのだろう。
4 月11日、物理数学の講義の第一回目。フーリエ級数から入る。担当する度に、1/2πという係数を1/√2πに「その場で書き換えて」講義する。その方が、直交関数系という背景に見通しが効くからだ。どうして1/2πが広く定着しているのか、思案してみて、一応のところ「活字が組み易い」という理由を見つけて納得した。活字で今号を組んだり、その中に色々と式を詰め込むのは確かに大変だ。なるべくシンプルになるよう、昔は1/2πとしたのだろう。級数まで行った所で、さて次はフーリエ変換 ... いや、時間が半端だ。今日はここまで。
4 月10日、新学期になった。今から月末までが、食堂の昼食時間帯の大混雑の時期。13 時を過ぎると、混雑も少しは落ち着くのだけれども、真面目な (?) 新入生たちに、少しくらい授業に遅れても ... と良からぬささやきを吹き込んでも無駄なのである。魔のピーク時間帯をどのようにさばくのか? は悩める所で、そこに照準を合わせて設備を準備して人を雇うと、今度は金曜日午後とか夏休みとか、閑散とした時に過剰な投資となって経営にハネ返って来る。すると、安価な食事の提供が難しくなる。この辺りに、何が最適であるか? という正解はなくて、毎年のように模索して行くしかないのである。
4 月 9 日、刺身用のサク取りした魚を買って来る。少し塩を振りかけて、しばらく待って水洗いして、よく水を拭いて、再び冷蔵 ... という所で、これだけの身の量があったら加熱調理も十分に楽しめるではないかと、そんな気もしてくる。そこで、少し大きめに切り分けて、塩を軽く振って、粉をまぶして、サラダオイルをたっぷり引いたフライパンに放り込む。ムニエルとなった。魚は焼くと特徴が際立って、生にはない美味しさが味わえるなー、時間が贅沢に使える午後はノンビリ。いや、ノンビリしていると積み上がった仕事が後から後からやって来るぞ。メールの返信など色々と仕事する日曜日となった。
4 月 8 日、よもぎを摘む。昔の人々は、薬にしたり香料にしたり、いろいろな目的でよもぎを摘んだのだろう。しばらく作業すると、指先がヨモギ汁で真っ黒になる。今の時期は、まだそんなにアブラムシが付いていないので、その後の処理は楽だ。けれども、それなりに虫はいるので、まずは水に浸けてよく洗う。ありゃ、出てきました、テントウムシの幼虫が。これは適当な場所に逃がして、茎から葉を分離して、塩を加えた湯でゆでて、再び水に放ってアク抜き。そのあとは保存用に冷凍。草餅を作る時に、少しずつ解凍して楽しむことにする。ジェノベーゼソースも楽しみたいな。100 % ヨモギという所には拘らず、少しヨモギの香を付ける程度でも良い。
4 月 7 日、昨日も今日も、雨が降り続いている。おかげで花粉の飛散量がほぼゼロになり、快適に過ごせる。よーく思い出してみると、高校入試に作文があって、そこに花粉の飛ばない雨の日が好きと書いたような覚えがある。国語の先生は、作文の所の得点は数文字残す程度の長さと、正書法・禁足を守った書き方、漢字の間違いのないこと、出題に沿った内容で無難に書けば満点が取れると指導されていたかな。文章を点数化するならば、その辺りが妥当な線だろうと、今になってよく理解できる。これを、何十万人もが受験する共通テストに導入しようとした試みもあったけれども、流石にそれには無理があった。人が採点すると点数の揺れが出るし、コストが合わないのである。そのうち Ai が採点してくれる世の中になるのだろうか、それでも理系のテストには採用し辛いだろうなー。
4 月 6 日、大学の教育現場では、個人情報の扱いについて細心の注意が払われている。もちろん、抜けがあったり、今という時代の考え方や対策が後々にはユルユルであると指摘される場面も多々あると思う。今の時点で、名前と学籍番号がセットになった掲示物や、学籍番号と履修科目の成績が直結した掲示物は存在しないはずだ。掲示物という考え方が、そもそも良くないのかも知れない。学生にはメールアカウントやデータベースアクセスなどの便宜が図られているので、掲示などしなくても直接的に連絡がつくからだ。官報のように、どうしても連絡がつかない場合にのみ掲示を行うべきなのかも知れない。時代は移ろうものだ。
4 月 5 日、テンソルネットワークの単行本が今月中に出版される運びとなった。和書でテンソルネットワークに focus した単行本がある、そういう状況が実現できて、有り難いことだと考えている。洋書では、既に幾つか出版されていて、これから先もポツポツと時代に合わせた書物が出てくるだろう。そもそもテンソルネットワークは輸入学問ではない、という経緯もあって、和書も複数の著者がそれぞれ特色を出した形で、幾つかの選択肢があるのが良い。量子コンピューターでは、ようやく品揃えが充実して来た。テンソルネットワークも続け、という感じで業界全体が盛り上がるのが良い。まあ、私は旗振り役には向いていないんだけれども。
4 月 4 日、今日は入学式の日。それよりも前から既に健康診断が始まっていて、新入生の姿も見かけるようになった。専門を習い始める頃が、いちばんワクワク感が高いかもしれない。段々と習い進む内に、まだ自然の記述方法が定まっていなくて、最先端へと赴くと泥臭いものばかりが転がっている、そんな状況に直面する。そこへ分け入って行く探検に近い作業に楽しさを見出せるかどうかが、その先の分かれ目になるのだろう。というわけで、お勧めはじっくり広く学習すること。物理を専門とする場合にも、特に素粒子や宇宙を志すとしても、化学、生物、惑星と視野を広げておいて損はない。数学は? あ、それは物理学には必須の素養なので、敢えて言うまでもない。
4 月 3 日、新学期になったので、色々と切り替え作業に。卒業生は卒業生として在学者リストからは消えて、入学生が新しく加わる。全学の学生や大学院生について、この作業を週末の間に仕上げてくれた「中の人」には尊敬と感謝しかない。こうして更新されたリストを元に、教務上のことや就職のお世話など、あれやこれやと。研究室のセミナーの準備もしておかないと。今年は何がいいかなー、量子情報についてニールセン一択の時代はもう終わっているはずなのだけれども、あれだけ色々と含んだ本もなかなか無いのは確かだ。実験についての記述は、もう古いものとなってしまったけれども。ともかく、参加者の希望を聞いてみよう。
4 月 2 日、阪急三宮駅、改装されたのは知っていても、探検したことはなかった。阪急オアシスというお店があるのだそうなので、行ってみると ... ありゃ、地下鉄の駅構内と繋がっている。野菜や魚は結構色々と置いてあって、買い物が楽しい。珍しいメーカーのラーメンも並んでいたりする。一つ上のフロアはイートインになっていて、寿司や惣菜が色々と売られている。もう一階上がると地上、その上が改札フロアだ、まだ三次元構造が頭の中に入っていなくて、迷路のような感じのままだ。今度は位置を把握しながら店内を回ってみよう。たっぷりと葉のついたカブを仕入れて来たので、夕食は野菜炒めにした。
4 月 1 日、けっこう放置されたサツキの株から、枯れた枝を取り除く。こういう作業は、一気に終わらせようと思ってはならない。まずは表面まで枯れ込んでしまったような、目立つ場所から枯れ枝を除く。大抵は、根元まで枯れた株に遭遇する。こういう荒い作業の後には、手を入れたり覗き込む隙間ができるので、枝を分けてみると ... ありゃりゃ、表面は緑色に見えるけれども、中は半分以上が枯れ枝だ。自然のサツキツツジは伸びたいように伸びるので、風が吹いた時に枯れ枝も落ちてしまうのだけれど、毎年刈り込むサツキの場合は、枯れ枝がギチギチに詰まってしまうのだ。そうかと思うと、勢いよく根本から伸びた部分もある。まあ、かける労力と得られる成果のバランスもあるので、適当にやって、撤収した。
3 月31日、研究というものを長年眺めて来て思うことは、流行ると研究の質が落ちるらしいこと。これは当たり前で、誰も注目していない頃に黙々と細々と行われた研究は、その分野の美味しいところ、本質的なところをサラリとすくっていて、まとまりが良いし研究としての質も高いし引用も多い。それに我こそはと群がると、玉石混交ならまだ良い方で、残ったカスを拾うばかりとなる。まあ、そういう状況でも賑わえばそれなりに次の時代の研究の芽をつかむ人が現れるし、「あんなのでも論文になるんだ」というのが理解できれば学問を生業としようと思う人が沢山出て来るのだから、石だらけというのも悪くはないのかも知れない。
3 月30日、昨年の 4 月に 1 年生と読み始めた Feynman Lecture の vol. III も、Chapter 16 までおおよそ読み終わった。Feynman でここまで(セミナーとして)読み進めたのは初めての経験で、読破は時間の問題だ。というか、Feynman Lecture は前半に高いバリアがあることに、いま頃になってようやく気づいたのだ。最初は勉強している気にならない、というのが、問題なのかも知れない。この辺りは、同じ時期に書かれたバークレーのコースの方が、着実に実力 up が自己認識できて良いのかも知れない。でも、Feynman の良さは気付かぬ間に色々と身につくことで、自然と吸収したものは後から役に立つのかも知れない。勉強や研究は、役に立つ必要はないのだけれども。
3 月29日、所用あって大阪大学へ行く。むかし阪大に通っていた頃は、十三から先の路線はおおよそ地面そのままに走っていて、盛り土区間も珍しいくらいだった。段々と高架になって行き、今では十三のあたり、蛍池から石橋あたりが昔のまま残る区間となった。阪大坂は綺麗に整備されて、昔の雑然とした感じが無くなったようにも思う。石橋の辺りを散歩すると ... これはもう昭和のまま。レトロ感たっぷりの町並みだ。むかーし、下宿の友達が、その辺りの細い道というか、建物と建物の間に続く狭い空間に興味を持って進んで行くと、段々とヤバい雰囲気を感じて逃げ帰ってきた、そんな話をしてくれたことも思い出した。石橋のどこだったのか、今となっては知る由もない。
3 月28日、ラッシュアワーの電車に乗るとギュウギュウで、というのは昔話となったようだ。働く人が減って、学校に通う未成年者が減って、ついでに今は春休みか。電車が比較的空いていて、人々は端末で SNS を見たりゲームをしていたり。さて今日は、モーターのトルクとエネルギー変換効率の関係について、電車での移動中にまたまた思索を巡らせていた。おおよその所、大きなトルクを生もうとすると効率が落ちて行くのだと納得。効率優先で動かすと、大きな仕事ができないという難儀な性質がある。DC モーターの事は大体理解できたのだけれども、問題は VVVF の AC モーター。あれはなかなか直感が湧かない。電磁気学の演習問題にしたいのだけれどもなー。
3 月27日、今日は休暇。電車の長くない旅の途中で、ふと顔料とは何だろうかと思い始めた。赤い絵の具は、波長が長い赤い光を反射する ... でいいのだろうかと。まず、ガラスでも結晶でも良いのだけれども、固体表面で選択的に特定の波長範囲だけを反射させることは無理だ。短波長を吸い込んでしまうような物質を粉にして、糊のようなもので濡れ色が出た状態にすると、少しずつ光を吸収して残った赤い光が散乱されて周囲に放たれる、そういう仕組みなんだろうという所で、一応の納得を得た。結局の所は減算混合なので、セロファンを重ねる時のように色が調合されるわけか。
3 月26日、モーターに円盤を接続して電流を流すと、円盤が回り始める。電流を流し始めた瞬間の円盤は静止していて、モーターに電流が流れているだけの状態になる。その時点でモーターに高い電圧をかけると、大電流が流れて大きな衝撃が生じるので、低い電圧から流し始める。それでも、初期に流れる電流は回路の中で熱に化けてしまう。高いエネルギー変換効率を得るには、モーターに投入したエネルギーが、スンナリと仕事に変換される回転数を保たなければならない。動力というものは、内燃機関だろうと何だろうと、それぞれ特性があって ... という辺りのことに、工学屋さんは鋭いのだろうなーと、ボンヤリした理学屋さんは思うのである。
3 月25日、土の上に動物性油脂を置いておくと、どうなるのだろうかと思って、冬の間に豚油をプランターの上に乗せた。あれあれ、次々と鳥が突ついて、段々と減って行くではないか。これでは実験にならないので上から皿を乗せて、実験再開。冬の間は特に何も起きなかった。だんだんと気温が上がって来て、日によっては日光も当たって油が溶け始めると、あらあら土に接した部分が石鹸のような塊になって来た。これはどこかで見かけたことが ... そうそう、家庭排水をドブ (!) に流していた頃によく見かけた固形物だ。建物の中の排水管を詰まらせる元凶はこれか、と、再認識した。実験はこのまま続行、夏になったら油粕のような感じで肥料になってくれるのか、それとも土の状態を悪くしてしまうのか ....
3 月24日、卒業式の写真撮影は、無事に終えることができた。曇り空だったので、少し色が悪い写真になったかもしれない。後で、色味の調整を行うことになるだろう。撮影する時には結構足腰を使う。また、撮影の間はあまり水分を取らないので、脱水しないように事前にお茶など飲んでおいた。カメラは、フルサイズが 1 つ、マイクロフォーサーズが 2 つ、この 3 台を順番に使って、まさかの失敗に備える。また、それぞれ色写りが微妙に違うので、どれが良いかは後で画面を見て決める。集合写真の難儀なところは、全員がうまく写っていることはなかなか無いということ。適当に合成する必要があることもある。このあたりは AI がやってくれるようになるのかな。
3 月23日、今日は暖かい雨。低気圧が日本海側で少し発達して、湿った南風が吹き込んでいる。午後は一時的に雨が止んで、見通しが良くなった。やがて北西の風に変わる時に、もう一度雨が降るらしい。この暖かさで、図書館前の桜がだいぶん開花した。明日の卒業写真の撮影にも、その花咲く姿を背景に写せそうだ。天気予報によると撮影時間帯は一時的な晴れ。晴れるなら晴れ、曇るなら曇りだと楽なのだけれども、晴れたり曇ったりするとカメラ側の調整が厄介だ。ともかくも、足元が悪くなくて良かった。さてカメラの充電。あ、そういえば今日は学会発表だったっけ、さて zoom 接続。
3 月22日、六甲駅前でマンションが建設中だ。この辺りは、昔に比べてだいぶん盛り土されているようで、御影石で作ってある古い水路の壁の上側に、更にコンクリートで壁を継ぎ足していたりする。建設現場でも、けっこう深い部分から人工物が掘り出されたりしているのが、掘った土を盛ってある様子から見て取れる。もっと深い部分からは大きな石がゴロゴロと出てくる。これもどこかから運んで来た人工物なのか、あるいは扇状地が出来上がった時に運ばれて来た石なのかは知らない。あんな大きな石が転がって来るのであれば、凄い洪水が起きたに違いない。そういう地域を毎日歩んで大学へと散歩する、そう考えるのもまた楽しい。
3 月21日、とても暖かくなって、昼間は上着を脱いで行動。それでも日向では汗ばむ陽気だ。昨日の雨をたっぷり吸い込んだ下草が、驚くほど伸びている。特に、カラスノエンドウの伸びが目立っていて、もう花もしっかり咲いている。やがて小さな豆ができて、さやが黒くなった後にタネが散らばって、また翌年までしばらくの眠りに入る。よくできているもので、真夏や秋に生えて来たりはしない。寒さが来ないと発芽のスイッチが入らないのだろうか。さて、今日から物理学会だ。とは言っても、年に 2 回の学会のうち 1 回は遠隔で行うことになった。さて明日の発表のスライドを作らないと。
3 月20日、大学でも桜が咲き始めた。満開の眺めや花吹雪も悪くはないのだけれど、ポツポツと咲き始めた時の嬉しさにはかえられないものがある。花が咲くものは何でもそうなのだろうか、つぼみが膨らんで行く姿が一番美しいように感じる。このひと時を写真に撮って SNS に up して ... というのは誰もがやる事なので、なるべく回避している。しみじみ眺めて、心の風景にしまい込んで、おしまい。また来年、同じように平和の中で花を愛でられますようにと。そういえば、夏に咲く花には、こういう感覚は持たないなー、やっぱり春は特別なのだろう。坂道を手を繋いで登るお二人さんを見かけて、こちらもまた春。
3 月19日、3 年間大騒ぎをして、ようやく落ち着いた世の中へ。何度も書いて来た事だけれども、遺伝子の切れ端をサッサと増殖させる技術が進歩したことから、特定のウィルス疾患を後追いできるようになった、そういうテクノロジーの上で、それが商売になるべく情報が世界を駆け巡って、壮大な社会実験が行われた、そういう事に尽きると思う。そのバカバカしさに誰もが気づくのに 3 年、あーあ。さて今日は、教員の親睦会で御影の某所へ。久々に大勢集まって、ワイワイと会食。会場が潰れなかったことに感謝したい。きっと、厳しい日々が続いたに違いない。大学の食堂も、これから盛り返して行きたい。
3 月18日、野菜が届く。成田の三里塚から、無農薬の有機野菜が産直でやって来たのだ。三里塚で産直をやっている法人は幾つかあるのだけれども、ビニール袋に包んで配送してくれる所に毎月お願いしている。ずいぶん前から産地直送を行なっていて、今では全国に広がっている産直のモデルにもなっているらしい。今回も菜花、葉付き大根など盛りだくさんで、さっそく水洗いして、茹でていただく。特にホウレンソウが、葉が分厚くて味わいたっぷり。こういう野菜だったのかと、認識が改まった。ニンジンも沢山入っていて、これもまた切ると青い香りが漂って、生でも充分に甘い。届いた瞬間にはもう、翌月が楽しみになる。
3 月17日、昨夜、パラパラと雨が降ったらしくて、地面が湿って、コケが活き活きとしている。モッコクなどから、新芽が出て来て、モクレンはもう満開。次は桜の順番だ。卒業式の 24 日には、かなり咲いてくれそうな雰囲気になって来た。心配なのは 24 日の天候。雨が降ると室内での撮影となり、桜は画面に入らなくなる。中層の天気図をよく眺めて、対策を立てよう。どこか学内に、雨宿りしつつ逆光でない場所、ついでに桜も入るという贅沢な条件を満たせる場所がないかなー。室内になったら被写体とカメラの距離も限られるので、レンズの選択も変えないといけない。撮影は 1 グループ 10 分の枠だ、充電もしておかなくては。
3 月16日、美味しそうな豚肉が転がっていたので、仕入れて来る。まずフライパンで表面を焼いて、煮込み鍋へ。どんな香り付けで行こうかと一瞬思案したけれども、オーソドックスに (?) 味醂醤油味とした。放り込んだ香味野菜はニンニク、ネギ、生姜。スープなどを同時に調理したら、野菜くずも出てきたのだろう、それはお預け。鍋の噴き上げが落ち着いた頃に弱火にして、後は煮込むだけ。途中、2 時間の火無し調理タイムを挟んで再加熱。さて、どんな仕上がりになるだろうか。けっこう脂のサシが入っていたようにも見えたけれども、単なる気のせいだろう。
3 月15日、新玉ねぎがたくさん売り場に並んでいる。普通に見かける玉ねぎのように球形に近い形ではなくて、何となく扁平で、上の方は富士山のように撫で肩になっている。これがどうやって玉ねぎになるのだろうか、それとも全く別の作物なのだろうかと思案。検索してみると、若干の品種の違いはあるにせよ、基本的には同じものなのだとか。新玉ねぎを葉付きの状態で干せば、実が締まって自然と丸く小さくなるらしい。その間に、だいぶん外側から乾いて皮になるのだろう。料理に使うとき、新玉ねぎは火を通すと直ちに柔らかくなるので、気楽に鍋に放り込める。生でも、そんなに辛味がないのもいい所だ。
3 月14日、普段、普通に飲んでいる水道水には、いろいろなイオンが入っている。元々は川を流れる水だから、有害な微生物は取り除かれていても、科学的に溶け込んだものは蒸留でもしない限り、どうしようもない。温度を上げると溶解度が低くなる石灰分や揮発性の分子は、鍋で沸かせば少しは減る。湯沸かしポットの底に溜まるガリガリとしたカルシウム、マグネシウム塩を眺めると、けっこう入っていることがわかる。ナトリウム、つまり塩は溶解度が高いので、普通は析出しない。これらの金属塩が問題となるのが、室内の鉢植え栽培。受け皿にどんどん塩分が溜まって行き、段々と生育条件が悪くなる。月に一度くらい塩抜きすれば良いのだけれども、ついつい面倒で放置していると、いつの間にか枯れてしまったりする。園芸はなかなか難儀なものだ。
3 月13日、長い書き物を統一感をもって仕上げるのは、なかなか難しい。途中で語り口が変わっていたり、使う用語が入れ換っていたり、送り仮名や漢字の使い方が場所によってマチマチだったり。まあ、そういうものは検索して手直しできる。より本質的なことは、要素となるものを並べる順番で、これを間違えると同じ内容を2度繰り返してしまったり、そうせざるを得なくなる。また、全くの間違いを書いてある、そんな部分が紛れ込んでしまうことも。文章の推敲で切り貼りした時に位置を間違っているというパターンと、そもそも書く時に頭が大混乱していてミスの積み重ねとして文章に落ちてしまった間違いがあって、後者はより根深い。このようなものを、何度も繰り返し読んで潰す作業、なかなか大変だ。
3 月12日、中学校で習う理科は、高校で習う物理・化学・生物・地学と比べて暗記の度合いが高い。ざっくりと、全ての分野を網羅的に習うことから、深く演繹的に学ぶことが(受講者である生徒「全体」にとっては)不可能であるという背景もある。それはそれで仕方ないことなのだけれども、高校入試問題に、そのような「ざっくり感」が現れてしまうのは、あまり良くないことなのではないかとも思う。教科書に書いてあるから、その通り出題したというパターンで、実は現実的ではない設定であったり、より専門的な観点からは複数の選択肢が解答となり得る設問などが、全国津々浦々の高校入試問題に散見される。最近、ちょっと警戒しているのが、この「ざっくり感」が大学入試にも浸透しつつあることだ。あの米印を塗り潰すテストの、新しくなったものに ...
3 月11日、お天気がいいので、三宮からフラワーロードを南に下ってあちこち散歩した。公園はまだ工事が続いていて、一般開放は4月から。その一角で、多数の蝋燭が灯されて、テレビカメラが集まっている一角があった。何事だろうと近寄って行くと、大学生くらいの若者が蝋燭を囲んでいて、それを見守る人々がいた。中には花束を握り締めて、とても悲しそうにたたずむ方も。そうだ、今日は 3 月 11 日であった。あの日、地震の一報を受けたのは昼間だったし、津波の恐ろしさは仙台に赴任していた頃に何度もテレビで見ていたので、動ける人は誰もがさっさと高台へ避難したのだと思っていた。事情があって一人では動けない人々のことを心配していたのだけれども、後の報道でもっと沢山の方が亡くなったと知ったのだった。
3 月10日、東京大学や京都大学の合格発表日となった。あちこちの大学で仮面浪人していた人々のツイートなども流れて来る。合格の喜びあればその逆もまたしかり、悲喜交々のタイムラインとなっている。ともかくも、久々におおよそ何の制約もなく大学生活が送れる日々が戻って来たのだ、新年度が楽しみだ。何もかもが対面でと言うわけではなくて、リモートでも授業など参加できる仕組みは、今後は恒久的に継続することになるだろう。受講者にしても、教員にしても、いつでも海外からでも講義ができると言うのは大きなメリットで、これまでの代講を立てるなどの苦労が軽減される。さて、どんな感じだろうか、半分くらいはマスク着用のままなのだろうか、それもまた権利ではあるので。
3 月 9 日、前期入試の合格発表の日。春から神戸大学へようこそ。合格したその日から大学生という感じになるのだろうか。ほどなく手続き書類が届いて、あれやこれやと納付やら申し込みやらを済ませることになる。この時期に、twitter に裏アカウントを立てて「#春から神戸大学」など書き込むと、色々と勧誘やら DM やら届くのだそうな。暇があったら、そういう遊びというか、パトロールもしてみたいものだけれども、時間がない ... というか、単位時間あたりの処理能力 18 歳のように高いはずもなくて、情報の渦に漂うのみとなってしまう。在学生を見ていると、今の時期だけアカウントの鍵を外す人も。色々見えて面白い ... いやいや遊んでいる場合ではない、文章のチェックが先だ。
3 月 8 日、テンソルネットワークの解説書の近刊情報が出た。いちど数理科学で、専門家向けに書いた解説とは方向性が被らないように、最初の1文字から白い画面に向かって精進したつもりだ。なにぶん新しい分野なので、例えば量子力学や統計力学などとは違って、導入の方法に定番というものがない。そこは手探りしつつの執筆となった。少し前の機械学習の世界でも同じような状況だったのだろう。AI の解説書がたくさんあるように、テンソルネットワークの解説書も複数あって良いものだと思う。ただ、学問というか分野として発展著しい時期で、執筆に時間を割こうという方は少ないかも知れない。さて、最後の点検。よーく確認したつもりでも、テンソルの脚が違っていたり、記号が落ちていたりする。注意深く進めよう ...
3 月 7 日、最近、芋を料理に使うことが増えた。安い割には量があるというのが主な理由だ。季節のジャガイモはとても安くて、温暖な地域では真冬でも収穫できる。暑い真夏は苦手なようだ。サツマイモは秋冬が自然に芋の季節で、今頃でも充分に美味しい。冬の初めには小さな芋がたくさん安売りされるので、重宝している。山芋は需要も供給も安定していて年中出回っている。基本的には晩秋に収穫の作物らしいけれども。さて今年は、山芋の栽培をするかどうか。安い種芋が手に入ったら、ゴロリと鉢に転がしておこうか、陽が当たればリンゴくらいの大きさにはなる。種芋の方が大きいことも、ままあるけれども。そんな想像も膨らむ、春の陽気が戻って来た。
3 月 6 日、大学から海を眺めると、何だかモヤモヤとしている。春霞といえば春霞なのだけれども、この中に見えるほどの花粉が散っているようにも思える。建物から外へ出ると、アレルギー症状満開となる。加えて、海の面には本当に霧がかかっている時もある。冬のうちに海が冷たくなって、その上に春の暖かな空気が流れ込むと、湿度によっては霧となって地面、海面を漂う。山の上から眺めると、そんなに濃くないようにも見えるのだけれども、実際に海岸へと降りてみると、全く周囲の船が見えなくなる。これは単純な三角関数のマジック。この程度のカラクリでは、数学の試験問題にはならないなー。
3 月 5 日、解説文のような書き物をチェックしていて、(自分的には)重大なミスを発見する。P と Q という 2 つの「もの」があって、常に P と Q の順番で文章や数式に出て来ないといけないのに、途中からフッと Q と P にすり替わっていて、そこから先は全て Q と P になっていたのである。解析力学やマヨネーズなどは Q と P の順番で記述する習慣があって、身についたクセのように Q と P と書いてしまったらしい。そして、それをコピーしつつ書き進めたら、何も違和感なく最後まで書けてしまった ... いやいや、読んだ人は絶対に途中で路頭に迷うはずだ、どうして途中から P と Q ではないのか? と。というわけで、集中的に Q と P を P と Q に書き換える。こういう強引なことをすると、どこかに歪みが生じるはずだ、注意しなければ。
3 月 4 日、小豆島からネーブルと八朔が届く。航空写真やストリートビューで島の南面を眺めると、幾つもみかん畑やオリーブ畑があって、そのどこかで栽培・収穫されたものだ。海風がミネラルを運んで来る ... からなのかどうかは知らないけれども、とても美味しくて毎年の楽しみとなっている。以前は手で丁寧に皮をむいていたのだけれども、今は和食的な引き算の考え方で、身の部分以外は包丁でむき取ってしまうことにしている。わずかに白い部分が残っているだけで、食べた時の味を薄めてしまうからだ。普通のみかんも、そのように食べた方がずっと美味しい。ジュースにする手もあるのだけれども、絞る過程で苦味が入ってしまうので、最近は綺麗にした実だけを食べている。
3 月 3 日、ひな祭りの日、色々と思い出すことがある。まず、昭和というのはアルコールに寛容であったというか、あまり注意を払わなかった時代だということ。その翌日に小学校の教室で耳にする話題は「誰それが白酒を飲んで真っ赤になって寝ていた」という類のもの。ここで言う白酒とは、現代のアルコールフリー甘酒ではなくて、要するに細かく砕いたどぶろく。アルコール度数にして 10% は余裕で超えている。黒歴史はともかくとして、幼稚園では御代理様とお雛様、そんな二人並んだ団扇をクラフトとして作った覚えがある。たのしいひなまつりの歌も、皆で斉唱したはずだ。その時にピアノを弾いていた若い保母さんも、記憶の中では「大きなおばさん」だ。あの大きな教室も、もし今眺めたら小さな場所に過ぎないのだろう。
3 月 2 日、ショッピングモールのフードコートを見ていると、なかなか上手い仕組みになってるなーと感じる。様々なお店があって、それぞれに特徴的な食材を提供していて、個別の経営規模はとても小さい。利用者から見ると、全体としては大きな食堂に見える。ちょっと不便なのは、ラーメンとサラダを食べようか? と思った時で、そういう場合にはお店をハシゴしないといけないし、混雑時間帯には何人かで手分けして集めない限り、無理な組み合わせとなる。これを、カフェテリア営業のようにあれもこれもと同じ店で、大食堂のように提供しようとすると、なかなか道具立てが大きくなってしまう。フードコートの場合は、不採算な店は自然と淘汰される。経済原則はそんな所か ...
3 月 1 日、MacOS 不調の原因の一端が少しずつ見えて来た。どうも、パスワード周りを管理するファイルのアクセス権がおかしいようだ。結果として、OS を update するごとに、「場所が変更された項目」が共有フォルダに生成される。パスワードファイルがそこに入っているので、いろいろなパスワードが常にリセットされていたわけだ。仕方がないので、紙にプリントアウトしたものを某所に置いておくという、とてもアナログな対応をして来たのだけれども、まあ記憶力を鍛えたことにはなるだろうか。bash にしていたのがマズいのかなー、今は terminal が zsh で立ち上がっているし、時間をかけて検討するしかないか。
1 月と 2 月の1行日記