← 9 月と10月の1行日記  

8 月31日、ようやく夏も終わって ... いない。台風が頑張っていて、太平洋高気圧の周囲の熱風をどんどん運んで来る。時々、スコールらしきものもやって来るので、どこへ出るにも、まずレーダーを見て雨を確かめてとなる。こういう雨は、ちょっとした条件の違いで雲ができたり消えたりするので、わずかに1時間先の予報も難しいような性質のものだ。暖かくて雨水も十分あって、電信柱の根元などにはエノコログサがたわわに実っている。草を刈った斜面も、すでに緑色に覆われ始めている。これだけの炭素が大気の中に存在しているのだと思うと、不思議でもあるし、植物の光合成は巧妙にできているものだと実感する。さて今朝はゴルバチョフ氏のニュースから始まった。現在の戦争当事者たちも、やがては枯れる時が来て、そして人々は懲りずにまた再び ...

8 月30日、大学のメールサーバーが更新された、というか、ついに外部のクラウドに移行したので、メールソフトの設定を行う。作業してみて、なんじゃ? と思った。アカウント番号とパスワードを設定すれば、あとは OS が自動管理してくれるのだ。何だか気味悪い。メールソフトの設定というと、サーバー名だとか、プロトコルだとか、それを受信と送信の双方でしっかりと設定して、ようやく動くという裏側が見えている状態で使うのが当たり前だと思っていたので、最近のメールとか wifi の設定には、何だか馴染めないのだ。そういう裏方に一般人が触れずに済むというのが、誰でも使えるということなのだろう、そんな世の中になったのかと隔世の感がある。そして、きっと、ある時に騒動が起きるのである。壊れたシステムを治すことが、誰もできなくなるという ...

8 月29日、涼しい朝になった。このまま秋が来るのだろうかと、そう願いつつ過ごしているとジワジワと気温が上がって来て、入道雲もモクモクと何だか元の夏の雰囲気。日差しだけが少し斜めになって秋っぽいのが救いだろうか。気分的には、次に講義が始まるまでのしばらくの間は夏休みとなる。休みとは言っても、そういう時に詰めて行う仕事が沢山あって、研究者稼業に実質的な休みというのはあまり無い。色々なことを調べて行くと、昔は理解していたつもりの事でも、実は詰めの甘かった部分が見つかり、ハッとすることが多い。非対称行列にはあまり近付かなかったことが、今頃になって研究の足枷となっているのかもしれない。結局のところ、数学の理解というものは避けて通れないなー。

8 月28日、卵を 10 個、ボールに入れて溶き卵にする。卵の腰を折る所までしっかりと混ぜて、卵焼きを作るのだ。銅製の卵焼き器は、使い始めるともう他の道具に戻れない。以前は、テフロン加工したアルミ製のものや、鉄製のものなど色々と試してみて、どれもイマイチだなーと感じていた。熱伝導率は調理器具にとって大切なものだと実感する。最も使いづらいのがステンレス製のもので、一定の火加減で長時間に渡って調理するような場合にしか、使わないのが無難だ。鉄製のフライパンはオムレツを作るときに重宝する。油馴染みが良くて、卵がくっつく失敗があまりない。卵料理は温度が勝負なので、まあどの道具を選んでも、それなりに経験を積めば良い状態で使えるのだろうから、グダグダと文句を言い続けるのは素人の証明なのだろう。

8 月27日、ご飯を炊く、これは電気釜の出番。もちろん、ご先祖様は釜でご飯を炊いていた。鍋でもフライパンでも、ご飯は炊ける。かなり自由度が高くて、少し硬ければ水を足して蒸らせばいいし、柔らかくなり過ぎたら水を飛ばせば良い。お粥のように溶けてしまったら、お粥で食べるしか無いけれども、それはそれで良い。その時に、食べるだけ調理するというのが現代的には少し面倒なので、電気釜の登場となっただけのことだ。もう少し簡便には、玄米を茹でて、湯を捨てておしまいというのも、パスタだと思えばまあまあイケる。冷やすとワイルドライスと同じような感じになる。大量に食べるのには向かないけれども。さて今日は、どんなふうにご飯を炊こうか。

8 月26日、釉薬をかけた焼き物で、表面に細かい亀の子模様というか、割れ目が入っているもの、どう呼び習わすのか今まで知らなかった。「貫入」と称するのだそうな。それぞれの分野で、独自に磨き上げられた言葉遣いというものがあるのだなーと感じる。さて、その割れ目の美しい白い器を使い始めると、何だか時々、自然にチッという微かな音を立てる。また、少しずつ模様が濃くなって来る。表面から内部へと少しずつ染み込んで、割れ目の部分から色づいて来るとともに、時々は割れ目が増えているらしい。応力が集中する部分があれば、そのうちパッカーんと器そのものが割れてしまうかもしれない。それはそれで、器というものの運命だし、エポキシで継ぐか、それても漆みたいなもので? という楽しみもできる。漆は面倒臭いから、せいぜいカシュー樹脂だろうか。昔はこうやって、器を大切に使っていたのだろう .... それは現代人の勝手な想像で、実は器くらいいつでも作れたのかも知れないけれども。

8 月25日、曲をコピーする時、音が厚いと全てが耳に入らないという問題は誰もが直面するものなのだけれども、最も音の薄い部分が一番危ない。その部分は、どんな和声が裏にあるのだろうか? と考えた時に、よくわからない事がよくある。迷ったら、取りあえず聴こえる範囲で音符を拾っておいて、他の部分で響いているコードを取り終えてから、また戻って来る。同じ曲で複数の演奏があれば、それを聴き比べてみても良いし、編曲によって和声が少しずつ違うということも普通のことなので、どこまでが許容範囲かが薄っすらとわかって来る。また、何回か弾いてみると、その時に追加で拾える音がわかって来る。この作業を自動的にやってくれる AI もある。でも、この試行錯誤が楽しいから、結局は耳と楽器と思案の間を行ったり来たりなのだ。

8 月24日、大学院入試の頃になると、暑さも一段落となることが多くて、日差しも少し和らぐ。そういえば、明日は国際会議で講演するのだった、スライドを確定しなければ。いつも思うのは、Zoom だからスライド、という固定概念は何とかしたい所で、ホワイトボード講演でもいいのではないかと、そんな気もする。参加者を見ていると、学会の発表よりも更にスペクトルが広いので、どちらかというとテンソルネットワークを紹介するような形で良いのかも知れない。古典系のヘリに出てくる状態というか、確率分布というものに対して、あまり関心がないのではないだろうか、そんな所を漫談しようかという計画だけれども、さて ...

8 月23日、研究題材は色々とあって、世の中は研究者に満ち溢れている。その中で、先人を継いで何かを進めようとすると、あまりうまく行かない可能性が高い。簡単に見つかる美味しい部分が既に刈り取られていて、落穂拾いのような状況が待ち受けているからだ。それよりも、少し違う方向へと歩み進めて、何も手のついていない新天地を探す方が楽しい。往々にしてそれは荒野であるのだけれども、荒野だとわかったら、また別の道を歩むのが良い。ジタバタしている内に、様々な可能性が見えて来るはずだ。そして、研究よりも楽しいことが見つかったならば、それもまた良い収穫と言えるだろう。

8 月22日、大学が妙に活気付いている。おおよそいつも、大学院入試の季節はこんな感じだ。終わってしまうと一気に閑散として、受験者層にとっては本当の夏休みが始まる。我々もまた、学会などで遅い夏休み (?) を楽しむのが通例であった。この 2-3 年間の変化は大きいものだ。研究者が互いに交流する機会が減って、学問の進展が遅くなったのか? というと、何とも言えない。今は arXiv があって、毎日のように新しい成果に触れることができる。arXiv へと論文投稿する人口は、まだまだこれから増えて行くはずだ。そんな中で、テンソルネットワーク関連の論文もどんどん増えていて、「コロナ減り」したということは全くない。アフリカから、南米から、インドからの投稿が普通になった暁には、どんな世の中になるのだろうかと想像したい所だ。

8 月21日、休日だ遊びたい遊びたいとは思うけれども、遊べば今日の何ページかの執筆が飛ぶ。それは後から後から追いかけて来て、心休まる日もないということになる。大昔に、高校の歴史の授業で、先生がストア派について語った時、決して遊ぶことを否定するのではなくて、実は大切にするからこそ楽しく遊べるように日々ストイックに過ごすのだと教わった。資料的な裏付けはともかくとして、こうして思い出すのは先生自身が日々そのように思っていた、心の声だったからに違いない。さて、では裏付け資料を ... と検索してみると、伝聞についての資料がたくさんあるらしい一方で、論文のような形で残っているものは数少ないらしい。何千年もの間、文章を伝えようと思ったら、石に刻むか、陶板にでも焼き付けておくしかないのかもしれない。

8 月20日、箱いっぱいの野菜が届く。まずはエンサイからいただくことにした。中華料理でよく見かける食材だ。まずはよく水洗いして、適当に切って、油で炒めるだけ。風味のある野菜なので、塩味だけでも美味しい。本場のように、油通しした状態で食べたいところだけれども、少量の調理では油を用意する気にならない。パクパクと食べて、お次はオクラ。おおよそ、ネバネバ系のものは長く加熱してはならない。昆布にせよオクラにせよモロヘイヤにせよ、高温の状態が長時間続くと、分解してサラサラになってしまう。加えてオクラは、ネバネバが抜けると何もない抜け殻の繊維になってしまって、もはや食べ物ではなくなる。というわけで、サッサと加熱してパクパクいただく。

8 月19日、いちじくが出回る季節、当たり外れがあって楽しい。ハズレは、大きさによらず甘味も香りもなくて、何となく水気がないもの。栄養が行き渡らなかった感じのものだ。こういう場合は、加熱してコンポートにするのが良い。アタリは皮まで甘味があって、丸ごと食べても美味しい。皮の表面には酵母菌が沢山いて、日本の夏の常温で放置するとどんどん発酵してしまう。乾燥地だと、表面から乾いて糖度が上がるので、そのまま干しイチジクとなる。気候風土によってイチジクの食べ方も様々、色々な味わい方があって面白い。ハムなどと合わせたり、肉のソースに加えたり、サラダにも登場する多彩さは、ベリーなどに似ているかも知れない。分類を調べてみると、クワ科イチジク属、ああクワの実の親戚なのかと、ちょっと納得した。

8 月18日、朝がひんやりしている。秋が来た ... と、一瞬でも感じられるのが有難い。地面に打ち水の効果がある内は、多少は涼しいままだろう。このまま秋に、というわけでは無さそうだけれども。お盆休みも明けて、大学もまた賑わって来た。大学院入試のシーズンは、なぜか (?) 4 年生をよく見かける。あちこちの大学院を転戦する、そんな強者も珍しくはない時代となったので、しばらくこの雰囲気が続くだろうか。9月になると、ようやく夏休み本番の感じとなる。その間に研究会に学会に海外出張に、と、働いたフリが出来ていたのが何年か前まで。一昨年は本当に暇だったなー、ああ懐かしい。今を生きるのが肝要だ、今年もハイブリッドが多い。まずは来週に遠隔で参加する国際会議を何とかしないと。

8 月17日、雨の1日。よく降る。梅雨が戻って来たというよりも、パワーアップしたスコールの塊が次々とやって来る感覚だ。雷もゴロゴロと。待てよ、どうして積乱雲の中で電荷分布を生じるのだろうか? 一度、電荷ができてしまうと、気流によって離されることにより、速やかに電圧差が大きくなる、その源となる電荷がどこから来るかだ。基本的には空気と水しかなくて、電離するならば水が先のような気がする。... と検索してみると、有力な説はあるものの、まだ決定版がないのだそうな。定量的に予測できるモデルがないのだろう。それを言い始めると、そもそも積乱雲のモデルというのも研究され続けているもので、非線形現象は難しいものだなーと思う。

8 月16日、お盆明けて (?) 今日は平日の火曜日、この頃になると太平洋高気圧も一服という感じでジェット気流が時々は戻り始める。結果として高気圧の周辺部となり、南からどんどん暖かい風が吹いて夜の気温が 28 度などという、熱帯そのものの状態となる。海水温も上がっているということだ。このエネルギーは、前線に吸い込まれることもあるし、時には台風として熱帯で解放される。幸い今日の日中は曇りで、やれやれという感じだ。このまま雨が降ればと思ってレーダーを見ると、雨の気配なし。中層で曇っているだけのようだ。盆踊りは雨乞いの踊りでもあるのだろうか、これから実が充実して行く時期なので、そこそこの雨があって、そこそこ晴れて、台風が来ないのが一番良い。米作は昔ながらの営みで、都会でも感じていたいものの一つだ。

8 月15日、お盆休みで、さてそろそろ成績の集計を終えて ... と、いう頃に色々と気づくもので、未提出のものがあれば今一度確認だけは取ってみて、単位が取得できる機会は大切に考えるべきですよと思いつつも、そんな言葉を添えても上から目線と思われてしまうと逆効果に過ぎないから、淡々と作業を進める。それでもやっぱり、気になるものは気になるので、催促の形にはならないように、一応は最終的な確認を取って今学期の作業を終える。でもまあ、9月になって成績が通知されると、きっとまた何か追加の作業は発生するのだろう、それはそれで良いことだと思う。昔は面倒なことだと感じていたけれども、履修者それぞれに事情はあるもので、特にこの夏に賭ける活動がある人々は、それを尊重したいとも思う。一昨年、去年と、ひっそりとした夏だったからなー。

8 月14日、焼きナスを作ってみる。割り箸で串打ちして直火で焼くと楽しいのだけれども手間がかかるし皮むきする必要も出てくる。ここは手抜きでオーブンレンジへ。15分程度で表面が程よく焼け、まあまあの感じに。最後に 40 秒だけ電子レンジで内部も加熱、これで仕上がり。その間は、他の作業をあれこれと。ここで味付けをドタバやタと。薬味を切って乗せて、ダシをかけて醤油で味を整えて、酢を少量だけ加えて出来上がり。焼きナスにすると、油を使わないので少しアクっぽい味が残る。ナスらしい味が戻って来る、そんな料理だろうか。最後にオリーブオイルを垂らすという禁断の技もふと浮かんだのだけれども、それは封印。他にも、マヨネーズとかケチャップとか、国境を越えるではないかという禁じ手が幾つか存在する。素材があるとイメージは幾らでも広がる。

8 月13日、台風がやって来る、いや来なかった。南の海の暖かさが足りなかったのか、上空の条件が整わなかったのか、日本に近づくまで全く渦巻く気配のなかった今度の台風も、ようやく上陸する前になってそれらしい構造を取り始めた。アメダスを見ていると、いちばん低い気圧で 992 hpa 程度まで下がっている箇所もチラホラ。測定場所の高度を差し引いても、995 hpa にはなっているんじゃないだろうか? と思って最新の台風情報を見ると、1000 hpa のままだ。まあ中心気圧よりも雨量やら風速の方が大切な情報なので、5 hpa くらい食い違っていても構わないような気もする。関東では雨が降ったようで、その少しだけでもこちらに分けてもらえればと思いつつ、生暖かい海風とともに寝入った。

8 月12日、大学の周辺には急な傾斜地が幾つかあって、そこは階段状に宅地が並んでいる。それぞれの宅地まで階段があって、少し横道があってという感じなので、全て私道なのだろう。マンホールがあったら、そこは恐らく公道なので、おおよその区別がつく。というわけで、立ち入ったことのない場所がけっこうある。そのような場所がどうなっているのかは、map で空から眺めると、何となくわかる。大昔はゼンリンの地図しかなかったのだから、世の中変わったと思うし、泥棒さん (?) が下見できてしまう怖さもある。よくよく見ると立派な洋館だったりする、不思議な建物もあると思えば、打ち捨てられ崩れかかっているような所もある。工学部のすぐ南側は実に面白い。

8 月11日、夏休みになって、だんだんと arXiv プレプリントサーバーへの投稿量が減って来ている。昨日は、格子ゲージの分野に投稿がなかった。余談ながら、arXiv のカテゴリーには投稿量の多い少ないがあって、格子ゲージとか原子核理論などは常に投稿量が少ない。どんどん増えているのが物性物理であったり物理一般であったり。量子物理学も昔は少なかったのだけれども、量子情報・量子コンピューターの隆盛とともに、どんどん増えて来た。arXiv 投稿人口がどんどん増えても、あまり投稿量に変化がないのが高エネルギー理論の分野。ここは昔から世界的に人気の高い領域なので、既に人類的に頭脳が飽和状態であるという事かも知れない。南米からの投稿もだいぶん増えたけれども、まだまだアフリカからの投稿が少ない。投稿量総数は、やがて数倍まで膨れ上がるだろう。そんな頃には、どんな世の中になっているのだろうか?

8 月10日、土はなかなかできない。落ち葉とか剪定した枝葉など、どんどんマルチングして根元へと置いていても、すぐになくなってしまう。有機物は燃える。燃えるということは、エネルギー的に高いわけで、そこに生物が取り憑かない理由はない。あっという間に細菌、そして節足動物に軟体動物あるいは環形動物が取り付いて、あっという間に二酸化炭素と水に分解してしまう。炭水化物という名前の通り、元に戻ってしまうのだ。すると、あとに残るのはホンの少しのミネラルだけ。それは、もともと地面から吸い上げたものだから、土を増やすというわけではない。結局、土として残るのは頑固に分解されない繊維質とか、どこかから飛んできた砂ホコリだけだ。土は貴重なものだ。

8 月 9 日、毎日野菜スープでは芸がないと思い、野菜炒めを思い立つ。野菜炒めは中華鍋だ、中華鍋の復活 ... と思案して、うーん、ANA のビデオで見た荒はり汁に落ち着いた。まず、野菜を鍋で炒めておいて、少しだけ下味を加え、ダシを加えた後で調味するだけ。ダシの塩加減を事前によく確かめておかないと失敗するし、ダシを加えて加熱してはならない。むしろ、ダシで温度を下げて野菜の新鮮な香りを保つ方が良い。さて、野菜を炒める時には順番がややこしい。先に火が通る野菜もあれば、硬いままのものも。順番を考えるのが面倒臭くなったので、同じくらいの時間で火が通るようにカットして、全部一気に炒めて、ダシを加えて、調味、ああ美味しい。すぐになくなってしまった。

8 月 8 日、ギターの弦は 6 本しかない ... と言うと三味線は 3 本しかない、と言われてしまうだろうか。最近、よく三味線の曲を聞くようになった。弾く弦楽器の中で、最強の楽器と言っても良い。1本の弦で2オクターブを受け持つのはバイオリンやコントラバスと同じで、エレキギターもそう言えばそうなのだけれども、3弦がおおよそ解放弦で使われるので、1弦の果たす役割がとても大きくて、ギター弾きの視点から見ると「真似できない」ような目にも止まらないポジション移動を常々行って曲を組み立てている。そして、あのバチ。打楽器としての効果も大きくて、スチールギターのピックよりもずっと力強い。さて、あれこれ聞いている内に気づいたのは、伝統的な邦楽の流れの良さ。昔は、つまらないなーと思っていた謡曲なども、あれこれ聴き比べると話声が浮かんで来て、意外な面白さがある。ミイラ取りになってしまったかもしれない。

8 月 7 日、暑いと、全ての思考回路が冷たい麺へと向かう。冷たい麺には冷たいダシだ。冷や熱というパターンもあるにはあるのだけれども、冷や冷やこそ麺類の王様である。故郷の香川県では、真冬にザルうどんを食べる人も結構いる。粉の香りが麺の内側に押し込められていて、噛んだ時に表に出てくる、あの感覚がつけ麺の美味しい所だ。讃岐人は噛まずに飲むという話もあるけれども、美味しい麺は噛む。一応は飲めるのだけれども、味あわないのは実に勿体無い。美味しくない時は、仕方ないから噛まずに飲む。こういう事を日常的にやっているので、麺が口から胃袋まで繋がったままでも、吐き気を催さない人も多い。たぶん、胃カメラも同じように飲めるだろう。

8 月 6 日、昆布の中でも羅臼昆布は重宝する。まず平たくて、乾燥具合が絶妙で切りやすくて、ダシも美味しく、そしてダシを取った後のダシガラも少しだけ味を含ませれば嫌味なく食べられる。このクセのない所が、羅臼昆布の王様たる所だ。表面に浮いた美味しさだけをサッと湯に浸して取ると、絶妙に美味しいのだけれども、ちょっと価格との相談になる。大抵は、一番ダシ、二番ダシを普通に取って、最後に細かく刻んで前菜用に取っておくことになる。昆布は植物なのでダシ殻も楽しめる。同じダシ素材でも動物性のものは、ダシを取ったらそれまでだ。イリコのダシ殻を乾かしてみると、ほとんど何の味もない塊となる。鰹節でも同じだ。少々勿体無い気持ちを持ちつつ、肥料として頑張ってもらう。

8 月 5 日、大学の昼下がりは、何だか暗い。高い積乱雲が太陽光を遮ると、こんな明るさになるのだ、と体感してから1時間ほどして、土砂降りとなる。大気には、これだけの水分が潜んでいるのだと実感する。ついでに、風に雷。もっと降れ降れどんどん降れと思っている内に、あっさりと小降りになる。レーダーの記録を見ると、北区で本降りになって、六甲山を超えた辺りではもうエネルギーを失っている。低いとは言っても、山という境界条件は上昇気流にとっては無視し得ないものらしい。自然の打ち水によって、エアコンの効きが良くなった気もする。今日の暑さは一段落、さあ仕事。

8 月 4 日、いつも使っているカメラの、ファインダーと液晶ディスプレイの切り替えがどうもおかしい、なかなかディスプレイに切り替わらないと思っていたら、とうとうファインダーしか動かなくなった。これは妙なことだと思いつつ、よくよくカメラを見てみると、ファインダーの隣に細いスリット窓があって、ここで明るさか何かを検知して切り替えていることがわかった。そして、見事に汚れていたのである。綺麗に拭き取ると、完全復活。明るさで切り替え? いや、夜でも切り替わるから active に赤外線でも出しているのだろうか。色々とメカニカルにも電子的にもノウハウの詰まった製品には、それなりの不思議がいくつもあるものだと思った。

8 月 3 日、その辺りで見かけるトタン屋根に、知らず知らずの間に素材の進化があったようで、最近ではボロボロになったトタンをあまり見かけなくなった。昔のトタン板は、亜鉛が溶けてしまうと面状にサビが出て、どんどんサビてボロボロの酸化鉄の塊と化してしまったものだ。使う鉄そのものが良くなった、とか、塗装や表面の仕上げが良くなったという側面もあるにはあるのだろう。メッキ素材にアルミが少し含まれたものを使うと、表面に不動体とやらの膜ができて、ステンレスと同じように錆びが広がりにくいのだそうな。金属の表面の仕上げ加工は大昔から色々と工夫されて来たもので、大仏の金メッキのように高価で効果の薄いものもある。いやいや、今の時代の銅合金で大仏を作ったら、きっと長持ちする物が造れるだろう ... いや盗まれるか ...

8 月 2 日、今日も晴天の1日。台風が去った後の気流も落ち着いて、今日は風が弱いけれども、一応は海風が吹いてあまり気温は上がらなかった。さて先週末からドルは下がり続けて、今日は 130 円を割り込みそうな勢いだ。130 円というのは感覚的にはまだまだ高くて、幾ら日本の国力が落ちて来ているとは言っても、120 円くらいがトントンな所なのではないか? という気がする。驚くのは euro の対ドルのレートで、あれだけ強かった euro が今はドルと同じくらいになっている。人民元の危機とか騒がれていたのもまた嘘のようだ。外貨をどう持っておくか? というのは難しい判断だなーと思う。

8 月 1 日、8月になると、昔は夏休みという感覚だった。今はお盆前まで色々と詰まっている。疫病 (?) 対策で、新学期をゆっくり始めてみたら、案外それくらいゆっくりスタートするのが良いではないか、ということで今の日程となったらしい。この辺りは変遷があるのが常で、一時期は一気に9月入学などというトンデモ案まで登場した。あれは麦やジャガイモを植える民族にうまく合致したシステムで、稲作の農耕文化にはあまり似合わないものだ。ともかく、うまく行かないものは発案されても消えて行くのが世の常で、第三者機関による認証だとか、国際的なランキング評価だとか、ともかくその辺りの議論が出てきたら「またか」と思って、そこそこに付き合うのが良い。

7 月31日、一日中、英文とニラメッコする。生まれて始めて接した言語は日本語、英語は後から入れたものだから、どれだけ付き合ってもやっぱり「外国人の言葉」的にしか書けない。昔はヨーロッパの共通語としてラテン語で論文を書いていたと聞く。みんな、きっとそんな感覚だったのだろうと思う。当時は既に俗ラテン語ではなくて各国の言葉になってしまっていたので、特に格変化が抜けてしまった西欧の人々にとっては、ラテン語は古文を通り越して漢文のように見えたのではないだろうか。あ、漢文の場合は格変化のある日本語から見て格変化しない文言か。ともかくも、あちこちに細かい、時に重大なミスが散りばめられているのだけれども、臆せず世にサイエンスを問うのが仕事だ。

7 月30日、針葉樹と紅葉樹の違いは、例外はあるものの、古い幹から芽を吹くかどうかだと感じる。桜の木は、古木になるとどんどん根本から芽が出てきて、知らない間にそちらが主な幹になる。桐の樹は、根本から切り倒してもまた芽吹いて、元のような大木に成長する、いや、成長してしまう。松や杉を根本から切ったら、切り株としてキノコが生えるのを待つばかりだ。銀杏は中間的な性質を持っているらしく、大木が倒れると芽がたくさん出てくる。一方で杉などでは幹が倒れた場合に、そこで生きている枝が挿木のようになって根付くことがある。植物には色々な生き残り戦略があるものだと思う。

7 月29日、人類 100 万年 (?) の歴史の中で、人口の何割かが疫病によって亡くなったという出来事が何度もあったことだろう。それでも絶えることなく人類は生き延びて来た。近世に入ってから、別種の危機が色々と降りかかって来ているのは近代史の示す通りで、おおよそ「当時は健康に良いと思われていた」ものが最も危ない。いわゆる薬害と呼ばれるものがその代表格で、疲労回復という名目で広く使われたエフェドリンの誘導体であるとか、害のないはずの睡眠薬であるとか、エンテロ何とかという胃腸薬など並べ始めるとキリがない。こういう貧乏くじを引かない為には、当座の必要がないような合成品には手を出さないことだ。そういえば、かれこれ数年は注射したことないなー。

7 月28日、部屋の隅など、手の届かない場所にはホコリが積もる。何もしなくてもそれくらいのホコリは頭の上から身体の上に降りかかっているのだ。陸に上がった脊椎動物は肺呼吸しているから、さらに多くのホコリを吸い込んでいることになる。どれくらいの量を1日に吸い込んでいるか、目の前に積まれるとビックリすることだろう。ホコリに乗って、あるいはもっと小さな粒となって空気中を漂うものは、緩くマスクをかけた程度では何割か低減できる程度で、どれくらい効果があるのかなーと日々思う。夏本番で、ジリジリと暑い中、汗だくでマスクして講義するのは今年で最後にしたいものだ。

7 月27日、冷蔵庫を開けるとナスビなど野菜とダシ。まず鍋に油を入れて、茄子を炒める。その間に、他の野菜と香味野菜を切っておいて、ナスに火が通った頃合いで投入する。同時に味醂と醤油を入れて鍋の蓋をして、熱が回って火が通った頃合いでダシを投入、ガス火を落とす。器に付け分けたものを冷蔵庫に入れて冷やす。梅雨明け本番の今の時期は暑さにも慣れていないので、冷えたものが食べたいものだ。冷えた麺も食べたいなー、ネギを買っておかないと。和南京も少し火を通して冷やしておくと美味しいのだ、そしてあれは高価な食材なのだ。いま一番安いのは、曲がったキュウリなんだよなー。

7 月26日、料理の基本はダシ。フランス料理だとフォンとかなんとかだったっけ。和食のダシは引き算で、素材の下処理も良い所だけを選んで使う。昆布は、採れたばかりの時は海藻そのもので、生わかめのように磯臭いものだ。それを干して、平らにして出荷する間に大変身して、短時間だけ湯に潜らせて表面に浮き出た旨味をすくって使う。鰹節は、元のカツオから油が落ちた所がスタートで、長い工程を経た後に乾燥したものを削り出して使う。イリコは頭と腹を取って苦味・臭みを出さないようにする。こうして取った一番ダシは、何に使っても美味しい。二番ダシもまた、味は十分に残っているので、煮物などのベースに使う。この時期は、やっぱり煮切った味醂と醤油のカエシに混ぜ、素麺など食すのが一番だ。冷えたものが食べたくなる、夏の暑さも良いものなのだ。

7 月25日、夕刻になるとセミが次々と地面からはい出して来る。土の中は土の中で危険たっぷり、どうやって何年も土の中で育つことができるのだろうかと、不思議に思うのだけれども、夏になると大合唱となる。黄金虫の幼虫は浅い所に住んでいるので、土を掘ると出て来るのだけれども、セミの幼虫と対面したことは一度もない。用心深く木の根の裏側にでも潜んでいるのだろうか。ほとんど目を使わない生活から、半日程度で空中を飛び回る状態に変態するのもまた、昆虫の不思議。どうプログラムされているのか、あの複眼でどのように見えているのか、まだまだサイエンスの及ばない領域は広大に残っているものだと思う。セミのように硬くて軽い素材が自在に作れる日はいつのことか。

7 月24日、暑いので紅茶を水出しで飲もうか、と、7 月の初めに思い立ってしばらく水出しで飲んでいた。どうもあまり体調良くない気がして、再びパスチャライズできる程度の温度で出すことにした。抗菌作用があるとはいえ、茶葉も単に乾燥した植物の葉で、紅茶や烏龍茶の場合は発酵と称されている酵素による分解や、場合によってはカビによる分解の過程も入っている。最終的には乾燥されて、細かく裁断された上でパック詰めの上、製品として出荷される。その過程を自分の目で見る訳にも行かないわけで、まあ気休め程度には湯で殺菌して飲もうか、ということになる。日常、その何桁も上の菌を食っている事は、それはそれで生きているのだから仕方なし。

7 月23日、このところ適度に陽が照って、適度に雨が降る日が続いているので、雑草の勢いがとても凄いことになっている。ツル植物は、面倒は面倒なのだけれども根本を攻撃すればおしまいという、簡単さもある。ヒルガオとかクズなどが、このパターンのものだ。少し厄介さが増すのがツユクサ。名前の通り、梅雨によく育つし、枝分かれして一面に根を降ろすので、うっかり放置するとシート状に広がってしまう。しかも、少しは立ち上がるので庭木から日光を奪ってしまう。青い花が可愛いのではあるけれども、見つけ次第、引っこ抜いて堆肥の山へ。すると、そこで根付く。海風の吹く堆肥庭で、幾らでも茂ってもらおう。

7 月22日、夏前の会議の一日。大体の事は決まってしまっている時期なので、フツーに進んで行く。時折、少しばかし考える事案に遭遇するけれども、考えても仕方ないというか、手の届かない場所でのことなので眺めるだけだ。人々がそれぞれ、その場その場で判断して動いて行くのが組織だから、まつりごとはそれが得意な方々にお任せするのが良いのだろう。ひとつだけ気にしているのは、いつまでも感染状況という文言に惑わされる現状だ。客観的な統計データを見て判断するというサインエスの基本が、身についているはずの人々であっても、専門家と呼ばれる方々そのものを信じるという、人を信じるモードになっているのではないか? そういうスタンスで良いのだろうか? これらの意見は、機会があれば述べることにしている。

7 月21日、業務の合間にワンポイントで京都大学へ行く。駅を降りたら、雰囲気は祇園祭り。なんだか、普段の京都とは違う感じだ。祭りには見向きもせずに ... 見たいけれど時間ないし ... 京大へ歩いて向かう。これが、ちょっと失敗だった。昔は体力が有り余っていたから、ガンガン歩いて行けたものだけれども、やっぱり年相応に力は温存しておかなければならない。さて研究会での講演は、スライドを作って持ってはいたのだけれども、スライドを見せました話しましたモードになるのが、どうも腑に落ちなくて、最終的に現地で black board talk にすることにした。interactive に進めることができたかなーとは思う。反面、データをあまり提示できなかったのは、これは板書の限界かとも感じた。所要あって、現地を早く離れたのが、とても心残りであった。

7 月20日、乱数を作る、というのは物理的な過程を通さない場合には、ある意味で冗談になる。計算機で疑似乱数と呼ばれるものは生成できるけれども、これは長周期の割り算の余りを延々と書かせているだけだ。できるだけ長周期になって、パッと見の予測がつかないものが、疑似乱数として良いものと考えられている。というわけで、疑似乱数を暗号か何かに使う時には、どうやって作った擬似乱数なのかを隠さなければならない。これはなかなか面倒なことで、生成方法を隠す手法がバレてしまうと、結局は暗号にならない。いや、それを言い始めると、そもそも人が何かを設定する段階で暗号にならないのだけれども。さて、その原理をちょっと味わってもらおうか?

7 月19日、夏の雨はやっぱり雨量が違う。傘があっても守れるのは腰まで、そこから下はずぶ濡れになる。雨量が充分にある時は側溝の水も綺麗だ、いつもの濁っている感がない。側溝だけでは流量が足りない箇所に差し掛かると、車道や歩道に湧き出して来る。そういう場所は、どのように歩いても靴に水が入って来て、じゃぶじゃぶになる。こういう時には、濡れない靴ではなくて、ともかく速く乾く靴を履いておくに限る。ランニングシューズはよくできていて、履いて走れば自然と乾くようになっている。晴れた日があるならばの話だけれども。濡れた靴をそのまま放置すると、それまでの汚れから細菌が増えてエラい事になるので、サッサと洗濯してしまうのが常だ。

7 月18日、連休らしいのだけれども、連休の雰囲気なし。明日は朝から授業だし、明日に締め切りを迎えるものもあれやらこれやら、海外は平日で論文は降って来る。神戸港ではお祭りをしているらしい。去年までは、この港祭りで神戸大学の学生がステージに立っていたのだけれども、とある経緯により今年はなし。伝統というものは、折々に考えて見直すことが大切で、やめるという判断も尊いものだと思う。学生が学外での活動に参加することは、基本的には良いことだ。ただ、色々と搾取され易いので気をつける必要もある。最も良くあるパターンが、よくよく見て行くと労働奉仕が何処かの収益になっているけれども、働いている人々は好きで参加している「ボランティア」なので無給というパターン。働いているならば最低賃金ということになるわけだ。この辺りは決まりごとの谷間なのかもしれない。さあ仕事。

7 月17日、タイム・トラベラー、続タイム・トラベラー、それぞれのテーマ曲を聴くと、ちゃんと元祖と続編という繋がりを彷彿とさせる音型になっている。どっちも単純に繰り返しているような曲に聞こえて、小技が色々と仕掛けてあって何度聴いても飽きない。和声もパーっと解決する形にはなっていなくて、いつまでも続くような感じだ。どちらも未来をイメージした音楽でもあり、過去も描くという、色々な要素が詰め込まれているような気がする。音楽単独で、というよりも、映像と組み合わさって色々と後から意味付けして記憶している、そんなことが印象を深めているのだろう。さて、狙われた学園のテーマ曲を聴くと、最初から半音の降下、主題の音階が妙だ。昔はサラーっと聴いていた曲も、人が創り演奏したものだけあって、色々と暇つぶしできる。

7 月16日、野菜が届く。モロヘイヤはさっさくお浸しに。バジルは? ジェノベーゼソースにするのが良いだろうとは思うものの、パスタなし。チーズもないし、ナッツもない。さて ... まずパスタはナスビで代用。チーズはないからちりめんジャコで代用。オリーブオイルは、瓶の蓋を開けてみるとピュアオイルだった。うーん、バージンオイルの香りはないので、香辛料を少し加えて、塩は粗塩から、ええと、まあ色々と工夫している内に、それらしいものが出来上がった。食べる方は、毎度のごとく一瞬だ。これが料理の良い所。いつまでも目の前に延々と「美味しいもの」が転がっていると、それは美味しいものではなくなる。学問も似たような所があるのかも知れない、サッサと頂戴できるくらいの複雑さ・簡単さのものが、広く使われるものとなる。

7 月15日、延々と文章に向かう。いくつかの書き物を抱えていると、結局は一日中何かの文章に向き合っていることになる。報告書の類のものは、できるだけ簡素に書くことにしている。報告書として書くのではなくて、何らかの使い回しができるというか、微修正したら研究分野や一般の人々向けに意味ある文書として公開できる、そんな意識を持って書くとき「以外」は、ただスペースを埋めているような感じになる。但し、不備があるとそれはそれで厄介なので、当たり障りのないようには気を配る。そういえば、予算申請書類の類は、多少の文章の齟齬があっても、それ自体は大きな問題とはならないことが多い。文章全体としての印象が大切だからだ。後で見直してみると、なぜか一部分が、スッポリと抜け落ちていたことがある。そこだけ文章が飛ぶのだけれども、typo ということで物事が進んだか、誰も気づかなかったのだろう。

7 月14日、それは大阪大学に通っていた頃のこと。同じ学科の一年上の先輩曰く「勧誘されてビデオを見て来た」と。その先輩は、特に感じることもなかったとのことで、それっきり勧誘の団体とは縁がなかったそうだ。あの頃はまだまだベルリンの壁があって、隣国では軍政から民主政治への転換期、日本は右肩上がりを信じられていた、そんな時期だ。ついでながらビデオテープレコーダーも今ではレコードに続くレガシー、現在は密かに (?) テレビ放送がこれに続きつつある。ニュース報道が真っ先に潰れつつあるのが、その象徴だ。SNS から拾ったものを延々とコメントを付けつつ繰り返し放送するだけならば、それは「ビデオを見てきた」のと大差ない。ひょっとすると、我々はテレビ報道に染まった状態から解放されつつあるのかも知れない。

7 月13日、今日は曇りで、やや涼しい。夏の日差しがないのは有り難いもので、しばらくはこのままでも良いのではないか? という気がする。ダムの水が十分に確保できてから、夏晴れになってもらえれば、という感じだろうか。田舎を離れて既に年月も長く、農業がどういうものかよくわかっていないので、何とも言えないけれども。晴れたら夏は海だ ... いやいや、そういえばもう長い間、泳いだことがないなー、いま海にドボンと落ちたら、浮いているのが関の山だろう。と、夏の休みのことが思い浮かびはするけれども、目の前に仕事は山積みになっていて、片端から処理しているのが、この時期の実態だ。

7 月12日、土砂降りの雨の中、阪急六甲から神戸大学へと向かう。雨が強く降っている時は涼しい。下降気流の中に居るのだろう。ここしばらくは、ジェット気流が北から南へと日本の上空を流れる、ちょっと珍しいパターンが続く。蛇行しているというよりも、次々と切離して寒冷渦を生じるような動きだ。結果として、いつまでも寒気が上空に居座ったままとなり、ちょっとしたことで積乱雲が急に発達する。そして降り始めると、バケツの底が抜けたようになる。こういう雨に対する傘の効用はとても限定的だ。大切な持ち物が濡れないようにするのが関の山だろうか。足元はずぶ濡れ、これはもう折り込んでおくしかない。

7 月11日、選挙の結果も出て、いろいろなことがまた動き始めた。まずは一段の円安。パソコンが、またまた高くなるのだろうか。材料の重要な部分を、ほとんど輸入に頼っているので、国内で作るにしても国外で作るにしても、ともかく安くなる材料がない。意外な流れで政教分離についても色々と意見が噴出している。そして貧困。今の福祉は、申請すれば何かが免除されたり、支給があったりするシステムだ。ここに盲点があるのではないかと、ずーっと考えている。役所の文書は、特に稀にしか使われないものはそれなりに複雑なので、申請するだけで疲れてしまう。結果として、福祉の網の目から漏れる人々が出て来る、そんなことが明らかとなったのではないだろうか。

7 月10日、論文を書く、論文を出版するということに、特別な意義を見出す人々が潜在的に居る。これをターゲットにして、様々な誘いが SPAM として降って来る。普通に日々を研究三昧で過ごしている人々からは、直ちに SPAM であるということがわかるのだけれども、100 人に 1 人が引っかからないか? と言われると何とも言えない。このような市場は階層的になっていて、国際会議で「招待公演しないか」という SPAM もよく届くし、雑誌の Editor にならないかというものもまた珍しくない。専門的な雑誌がアカデミーに付随しているべきかどうかは別として、arXiv 以外のフリーアクセスの雑誌を支えるとなると、玉石混交と戦わなくてはならない。もちろん裸足で逃走する。

7 月 9 日、アジアの国々を眺めると、政治のスタイルは様々であることがわかる。世が乱れると軍部が出てきて戒厳令を敷くという状況もまだまだ残っているし、一概にそれが悪いとも言えない。大昔に高校の社会の先生が、社会が変わるには時間がかかると言った言葉が今も耳に残っている。その地域に住む人々の暮らしぶりが安定して、価値観を共有できる人々が出揃って次の段階へと進んで行く、その歩みはとても遅いものだし、時として逆行したりもする。今の時代の民主主義と、ローマ時代の奴隷制に基づく民主主義と、どこが違うのかを問われると何とも言えない。目に見えない所に、経済的なマジックを通じて、非常に低賃金で働いている人々がいる、それが現実でもある。その状況が悪なのか? と問われると、それもまた違うような気がする。色々と考える週末に確かなことは、軍部が政治に出てくる状況にはないということだ。周辺国との微妙な安定が続くことを祈るばかりだ。

7 月 8 日、量子状態の数値的な解析で、よくある状況が「計算はできたけれども、計算結果が何を意味するかよくわからない」というものだ。基底状態を求めて、基底エネルギーは求まった、特定の場所について計算した相関関数はわかった、でも全体としてそれが何を意味するのかがわからない、そんな事態は日常茶飯事だ。そこで登場するのがエンタングルメントだ。あらゆる分割についてエンタングルメントを求めておくと、系の特徴がよくわかるというアプローチが、スペインのグループから提唱されている。Fermi 系の場合には、実は分子軌道の選び方によってエンタングルメントが変化するので、そこをどうするか? という問題設定が残っている。超伝導転移をエンタングルメントから見るとどうなっているのだろうか?

7 月 7 日、七夕となった。生協では、チョコボールが77円で特価販売、但し「お一人様1個」である。あちこちで値段を調べてみると、今年の春頃には50円台という激安で販売していた所もあったのだけれども、その後どこもかしこも値上げが相次いで、7月の時点で77円で売れるような仕入れは厳しいようだ。さて世の中を見渡してみると、イギリスの内閣がもう倒れそうで、サッチャー政権末期と様子が似て来た。ユーロとドルの為替レートが同じになりつつある。どこの国でもそうだけれども、実際に使われる場面で兵器をどんどん製造すると、それは税金を湯水の如く食い潰して行く。孫子兵法の示す通り、戦わないのが最上で、兵器は持っておくにしても、戦いでは使わないのが経済的だ。

7 月 6 日、量子力学の構築は、なかなか難儀なものだ。もっともスッキリとしているのが、リー環の交換関係をまず決めてしまって、そこから表現を作るというもの。但し、事前に必要な数学を学ぶことになる。そんな暇がないので、いきなり位置の演算子を持ち出して、それがエルミートだから固有状態は互いに直行していて、ええとでも連続空間だからデルタ関数にして、という危うい橋を渡ることになる。そして運動量演算子の固有状態も求めて、よくよく結合定数を見比べて平面波なるものを導出する、そんな所だろうか。平面波の扱いができる程度にはフーリエ変換を事前に習っておくのが普通だろう。この辺り、2 年生くらいからキッチリと時間をかけて学習するのが良いとは思うのだけれども、大学の設置基準もあって、なかなか低学年で専門科目を詰め込むのは難しいものだ。こういうのも規制緩和の項目の一つにして良いのではないだろうか。

7 月 5 日、台風という名前のついた熱帯低気圧のような亜熱帯低気圧のような温帯低気圧のような、それともただの雲の塊のようなものがやって来て、朝から雨。坂を登る内に裾は濡れ気力が湧かない中、講義に入る。前回、u と v がひっくり返って破綻した部分の補足をした後に、特異値分解を使うご利益について幾つか説明する。特に、行列をたくさん掛け合わせる計算 ABCDEFG ..... XYZ で特異値分解が大活躍する。これはフェルミ系の量子モンテカルロではお馴染みのポイントだ。行列を掛け合わせる事に、特異性が大きくなって行くので、毎度のごとく特異値分解をしながら、地道に計算を進めなければならない。

7 月 4 日、大きなナスビを炒めると、盛大に水が出る。あの大きさは水と空気で膨れているのだと実感する。炒めるか、あるいは揚げて十分に水気を飛ばした後に、味付け本番となる。スパゲッティーのソースのように、水気を嫌うものに使う場合には本当に細くなるまで炒めてからトマトなり用意しておいたスープなり加える。こういう面倒があるので、ナスビは少し小ぶりなものを選ぶことにしている。今日の相棒はイリコだし。昨日の内に取っておいたダシを少し加えて、味を整えて出来上がり。そういえば薬味を忘れていた、次に造る時にはミョウガなり、ショウガなり、加えることにしよう。そして、アッサリと食べて消え去ったナスビ、ありがとう。苗を買って来て、秋ナスを収穫しようかなー。

7 月 3 日、英語で文章を書くのは、何とも難儀な作業だ。何となく言い回しのストックが少ないので、議論の余地がないようなものをポツポツと呟くような感じで書き進めることになる。結果として、全体がクリアになっていれば、それで良い。一方、日本語で文章を書くというのも、なかなか面倒な作業で、日本語「の」文章なのか、日本語「で」文章を書くのか、日本語という言葉を書き始めた時にはあまり意識していないので、書き進んだ段階で「の」を「で」に修正するような、そんな作業が頻繁に起きる。達人になると、頭からすーっと書けるそうだ。幼少の頃から、ハッキリとした文章で会話するような家庭だと、そういう才能も身につくのかも知れない。こうして毎日、日記を付けているのも、実は日本語トレーニングの一環だったりする。

7 月 2 日、アコースティックギターの音をクラシックギターで真似ようとすると、幾つか考えることが出てくる。音が違うというのは、これは弦の素材が違うのだから真似ようがないし、真似る必要もない。ネックの幅が違う、弦の間隔が違うので、左手の運指に違いが出てくる。アコギの人々がよく使う、指の関節を逆に曲げて2本の弦を抑える技は、クラシックギターで使えない訳ではないけれども、普通の運指で代用できるならばそうする。最も違うと感じるのが、音の伸びる長さだ。スチール弦は、エレキギターでもそうなのだけれども、振動を始めると結構長い時間、鳴り続ける。ナイロン弦は高域がサッサと減衰してしまうので、適当な所で必要に応じて弦を弾き直す必要がある。まあオルガンとピアノの違いにも少しは似ているのだろうか、色々と違いがあるのは楽しいことだと思う。

7 月 1 日、アジサイの剪定の時期となった。まだ花が付いているので、ついつい切りそびれてしまう紫陽花、この時期にキッチリと剪定することが大切だ。剪定せずに放置していると、いつの間にか人の丈ほどになって収集がつかなくなる。樹形とか生えている場所の都合で、整理した方が良い枝はバッサリと。今年に花が付いていない枝は、来年に花が付くかも知れないので模様眺めのように放置。花が付いている枝は、花の 2 段下あたりで切ると脇芽が出易い。切り取った花の方は、水挿ししておくと一日二日は花が楽しめて、その後は花だけ切り離して発根を待つと、挿木苗となる。あるいは、たくさん花を集めて花手水にして飾るのも楽しい。何となく、丘に咲く睡蓮といった風情が出る。

5 月と 6 月の1行日記