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6 月30日、山芋と長芋、商品としては別物だ。品種はどうなのだろうか、ちょうど中間のようにも見えるものがあって、連続的に変化し得るものかもしれない。さて山芋。少し痛んで半額になった山芋があったので、購入して植木鉢の上へ乗せておいた。ずーっと、根だけ出して土に芋がくっついた状態のままで、ひょっとするとナメクジかカタツムリが、芽を片端から食べているのではないか? と疑っていたのだけれど、梅雨が明けたらニョキニョキとツルが伸びて来た。目指すはムカゴ取り。あれはまあ、ちょっとしたオカズにはなるし、収穫という気分が味わえる。ただ、ヤマイモのツルがどれくらい厄介なものかは、全く知らないので戦々恐々としつつ。海辺の我が家が芋ハウスになってしまうかもしれない。

6 月29日、大気水圏の全球シミュレーションを眺めると、北極に綺麗な渦巻きが見える。この一年ほど、ずーっと継続的に北極海の気流を眺め続けているのだけれども、その中でも屈指の (?) 美しさだ。北極低気圧の何が面白いかというと、目立った前線を持たないことだ。注意深く眺めると、温度の勾配があるスパイラルな構造もあって、エネルギーを得る源があることがわかる。台風のようなバンド雲とは、また趣の異なる構造だ。中層に、やや広がった強い渦があることが特徴の一つで、前線から切り離された寒冷低気圧と似ているようにも見える。ともかくも、地球上に1個だけというレアものを観察するのは面白いものだ。南極低気圧ができたら、もっと珍しいのだけれども、見たことがない。

6 月28日、梅雨明け。夏空となった。この後、しばらくすると熱帯低気圧ができて、中国へと向かうらしい。7月中ずーっと晴れたまま、と言うことはたぶん無くて、再び天気が崩れるような時には、夏の中休みとでも表現するのだろうか。講義をしていても暑くて暑くて、何だか考えがまとまらないまま特異値分解の所に差し掛かったところで、行ベクトルと列ベクトルに行列が作用する所の記法が統一の取れないものになって、しばらく思案。うーん、よく眺めると準備してあった講義資料に、記号の不統一がある。しばらく最小限どの修正で何とかしようと考えたのが間違いの元であった。仕切り直しということで、訂正も含めて次週に回して、早々に引き揚げとなった。

6 月27日、栽培品種になっているブドウは、休眠期がないと花が咲かない。畑に植えてあれば問題ないのだけれども、室内で栽培すると葉をつけたまま冬を迎えて、一向に花を付ける気配がない株や、一度は休眠期に入っても次の夏まで新芽が出てこないヘンテコな株になったりする。こういう作物なので、熱帯とか、低緯度の常春の高原などでは栽培できないものだと思っていた。いや、地図を見ると、それらの場所にもワイナリーがある。水やりを止めて乾燥させると葉が落ちて休眠期に入るのだそうな。そう言えば聖書にもブドウが沢山出てくる、一度カラカラに枯れてしまっても、条件が整うとまた葉が出てくる生命力が、信仰と結びついたのだろう。

6 月26日、ピクルスの液が残ったので舐めてみる。甘酸っぱい中に、かなりの塩気が入っている。油を加えると、そのままドレッシングになるくらいの塩辛さだ。酢が入っているので、保存が効くには効くけれども、限界もある。結構な量があるので、最後までドレッシングというのも飽きが来るだろう。どうしたものかと思案して、野菜スープのベースに使うことにした。ベーコンを放り込んで、野菜を加え、唐辛子を落とし、しばらく加熱。酸辣湯とかトムヤムクンのような、そんな感じの味に仕上がった。海老があったら、もう少しそれっぽい味になっただろうか。キムチが入ると、また別の料理になりそうだ。酸にもクエン酸の味、酢酸の味、乳酸の味がある。酢酸は分子量が小さいので、加熱するとどんどん飛んで行く。クエン酸はほとんど飛ばないので加すぎると調整が効かない。台所の有機化学だ。

6 月25日、ゴーヤの種が充実して来た。早い時期に出回るゴーヤは種が未成熟で、種を取っても芽が出てこない。中のワタが少し赤みを帯びる程度まで熟したものからは、茶色の硬い種が取れる。これはよく発芽するし保存が効いて、乾かしても発芽能力を失わない。ゴーヤの種の保存で気をつけるのがゴキブリ。どうやら、皮が好物らしくて、ガリガリと全部食べられてしまう。他の動物もよく食べるのだろうか、その辺りに直まきしていると、すぐに消えてしまう。ちゃんと粒を土に埋めないと、なかなか芽が出てこない。いちど、ちゃんと生えると後は挿木でいくらでも増えるので、最初の芽は大切に育てる。海辺の潮風は、カリウムを運んでくれるらしくて、青々と育つ。沖縄の産物だというのも、何となく納得できる。

6 月24日、朝の神戸は南西の風。大気のシミュレーションを見ていると、太平洋高気圧を回った気流がそのまま中国大陸に吹き込むという、夏の始まりのような流れとなっている。ジェット気流はどこへ行った? と、これまたシミュレーションの上層をクリックすると、あら日本を山のように避けて遥か北に。前線を対応させるならば、日本海に描くことになる位置だ。何とはなく亜熱帯の朝のような、湿り気のある風、その辺りで育っているイネ科の雑草が次々と実り始めたのも目に入る。そういえば、昨日、神戸中に鳴り響いた汽笛の音は、とある船の汽笛装置が故障していただけなのだそうな。タイタニックを見た世代は、花火が上がりつつ沈没する有様を思い浮かべたことだろう。さて、今日もゆっくり始めよう。

6 月23日、夏至が過ぎて、そうそう、スイカとメロンは早い内に食べておかなくては。いつまでも身が入って行くカボチャとは違って、スイカとメロンは太陽の勢いがなくなると甘みが乗らなくなる。お盆の頃には、もう飾り物の域に。桃もまた、今頃から出始めて秋の声を聞かない内に姿を消してしまう。ブルーベリーは、円安で値上がりしてしまったなー、縁のない食べ物のリストに入ったものには手を出さないのが、とある極東の貧乏な民の賢い節約術だ。そもそも、経済発展の名の下に農産物という生活に直結するものまで、大量に海を渡っている状況が壮大な無駄を生んでいるような気もするし、世の中の不安定化の原因でもありそうだ。というわけで、スイカ。JR 東日本の宣伝をしているわけではない。

6 月22日、今日は色々と予定が立て込んでいて、何となく仕事する感のある一日だ。仕事する感があるというだけで、仕事をしているかどうかはわからない。おおよそ、良い仕事というのは遊んでいるような中から生まれて来るものだと思う。大昔の「ソフトハウス」という業態は、それに近いものがあったように記憶している。製品を納めるのだから納期はあって、最後はタコツボのように製品を仕上げるということはあるのだけれども、それは最後の最後であって、良いものは何となく冗談を言い合っているような時に、ふと生まれることが多い。良いものを創るんだ造るんだと意気込んで、仕事している感を演出している限り、それなりのものしか出来上がって来ない、そんな気がする。今日は適当に1日を過ごそう。

6 月21日、さあ今日は火曜日だ、論文(プレプリント)が沢山やって来るぞ来るぞ、と意気込んでいたら、あら月曜日のまま。今日出るべき論文が何もない。arXiv の twitter を見に行くと、schedule change なのだそうな。アメリカの祭日なのかなーと、調べてみるとジューンティーンス、奴隷解放を祝う日なのだそうな。アメリカの歴史を見に行くと、あれやこれやと書いてあって、読む気が失せた。何というか、太陽王とかハプスブルグ家とか、そういう流れで理解して行ける歴史ではなくて、戦国時代のように流動的な歴史が細かく書いてあるのは苦手なのである。それはそうとして、明日は 3 日分くらいのプレプリントが一気に出て来ることになる。先送りのツケは怖いものだ。ときに日銀が引き受けている国債の累計は ...

6 月20日、理論系の研究室で研究室紹介をするとなると、実は見せるものが何もなかったりする。理論で何ができるとか、何が学べるとか、キーワードは並べることは何とかできても、成果をまとめた論文などを来訪者に見せても、あまり意味がない。計算機はというと、実はその辺りのノートパソコンが一番速かったりする。大きなスーパーコンピューターは、全体としては(並列計算可能な仕事には)まあまあ速いのだけれども、個々の CPU がそんなに速いというわけではない。毎年のように進化する新しいパソコンが、すぐに追い抜いてしまうのだ。但し書きがあって、ノートパソコンは放熱が甘くて、ガンガンに使うとすぐに性能をセーブしてしまう。かと言って、あの大きな箱をわざわざ購入するのもなー。

6 月19日、今朝の台所の流しには、何やら小さなお客様が。ツノが生えていて、クルクルと巻いた家を背負っている。ああそうか、昨日、野菜を洗った時に、何個か石が落ちるなーと思っていたのは、カタツムリであったのか。小さなカタツムリなので、逃げ足は知れている。そっと手に取って、湿気のある庭に放つ。潮風は吹いて来る場所だけれども、まあ大丈夫だろう。茹で麺の煮汁などを捨てなかったのが幸いだ。カタツムリの餌は何か? と調べてみると、腐葉土なども食べると書いてある。まあ、その辺で適当に食べてくれるだろう。あるいは、食べられてしまうのだろうか。それも自然の摂理だ。

6 月18日、野菜がたくさん届く。今回は梅雨時らしく、大きく強く育った葉物の野菜がたっぷりだ。ついでに、虫食い跡もたくさんある。お客さんが隠れているならば、それも有機栽培の証だ。さっそく、水菜をよく洗って、ダシで軽く煮る。野菜が届く日に合わせて、イリコダシを取っておいたので、調理は楽なものだ。あっという間になくなって、農家の皆さんありがとうの、ごちそうさま。カブも小松菜もセロリもチンゲンサイもキャベツもタマネギも、まだまだ食べられるのが幸せだ。今日の午後は大学で用事があるので、野菜の受け取りはいつになるのだろうかと気を揉んでいたけれども、出がけにうまく受け取ることができた。

6 月17日、学内のアチコチにサツキやツツジが植えてある。街路樹にも使われるサツキやツツジだけれども、管理は容易ではないし、あっさり枯れる。適度に水があって陽が当たると、中身は枯れ枝だらけの集合体のまま、硬い塊のようになっていても表面は青々としていて、とりあえずの問題は生じない。陽が当たらない、夏場に乾燥するなど条件の悪い所では、枝単位で枯れて茶色い穴が空く。また、ツル植物には弱くて、ヘクソカズラやヒルガオが表面を覆い尽くすと、これまたその部分から枯れ始める。そして最後は、ポツポツと生き残った株を除いて、淘汰されてしまう。庭師が定期的に入る場所はとても綺麗で、サツキはそういう場所に植えて鑑賞するものかなーとも思う。ツツジは、もう少し頑強なのだけれども、大株になるという欠点がある。別に芝生でもいいんだけどなー。

6 月16日、中央銀行の通貨発行に利息がある、と言うことがずーっと不思議に思えていたのだけれども、おおよその理解に至った。物理屋さんは何でも「極限」を取って考えてみるので、例えば公定歩合が 50 % だという極端な事例を考えると、その利息を市中銀行が払うには日銀が継続的に発行高を増やして行く必要があって、結果として通貨発行量が指数関数的に伸びて行くではないか? というのが「不思議さ」の根源であった。よくよく調べて行くと、日銀には幾らでも機動的に金融操作をして損を被れるし、最終的に利益が確定したら国庫に入れることも可能なのであった。もっとも、この所はずーっとマイナス金利なので、そのような利益は出ない。それはそうと、通貨には「ある日を境にデノミできる」という、物理学で言う所のゲージの自由度がある。金本位制など、何かピン留めする復元力があれば「ゲージ固定」が起きるのだけれども、仮想通貨のように「何も基準がない」通貨は、物の見事に乱高下する。さて、日本円には何か、ピン留めする復元力があるのだろうか ...

6 月15日、選挙が近くなって、あちこちで朝から演説会となっている。だいたい、どこでも 5 分くらい聞くと、主張が一巡するようだ。歳出削減、構造改革、場合によっては増税、これらを訴える候補が居るかというと、うーん、あまり聞いたことがない。一方で、これこれこういう事例にも光を当てたとか、何とかにどれだけの支出を行ったとか、そういう「増える方」の提案は次々と耳にする。そういう方向でずーっと平成の世の中を過ごして来たツケを誰が背負うのか? という所に選挙のマジックがあって、ツケを残す世代が多数派、背負う側がマイノリティー、選ばれるのは誰なのか、自明な事なのかもしれない。でもまあ、経済原則はあるから、無理をしたら積み立ても貯金も全部消えてしまいますなー、それでもいけれど。

6 月14日、今日はルジャンドルの陪多項式を取り扱った。この陪という見慣れない漢字の意味を調べると、家来とか、付き従うものという意味があるのだそうな。新聞では、陪審員の組み合わせで使われるくらいだろうか。あるいは陪席の来賓とか。ひな壇の中央に立つ人を目立たせる、そんな人形のような存在とも言えるだろう。英語では Associated で、これには准教授の准の字があてられることも多い。陪を左右ひっくり返すと部で、こちらはよく使われる漢字だ。ルジャンドルの陪多項式は球面調和関数に使われることが最も多く、それで尽きていると言っても過言ではない。そして、球面調和関数は文字通り九面上の調和関数で、数式そのものよりも、閉じた多様体の上での調和関数を考えるという方向へと拡張を考えたい、そんな存在だ。物理数学ではそこまで扱わないけれど。

6 月13日、野菜の種をプランターに撒く時には、ナメクジに注意が必要だ。綺麗に芽が出たと思っていたら、いつの間にか本数が減って、最後には土だけになってしまうことがある。どうしたことかと、夜中に様子を見るとナメクジのご登場。そんなの、ポイとつまんで駆除すれば良いではないか、と、思われるかもしれないけれども、どこかに卵が潜んでいて復活する。また、地面にプランターを置く限りは何処かから「歩いて」やって来る。解決策は、乾かしてよく振るった土をポットに詰めて、室内で苗づくりすることだ。ただ、この時期の室内栽培はハダニに取りつかれ易いので、霧吹きは欠かせない。少し大きくなって、ナメクジの好物の双葉も落ちた頃にプランターに定食すると、ゴーヤやピーマンは何とかなる。このように注意しても、葉物野菜はやっぱりナメクジにやられる。あれが貝みたいに美味しい生き物だったらなー。日本でエスカルゴを食べないのも、海の貝の美味しさを誰もが良く知っているからだろう。

6 月12日、物理学にも活きた分野と枯れた分野がある。枯れたというのは悪いことばかりではなくて、色々なことが手堅く調べられる良い面もある。さてテンソルネットワークはというと、こは間違いなく活きた分野だ。少し前に素晴らしいと思われていた計算手法も、新しい工夫によってどんどん過去のものになって行く。そういう状況の下で、何かをまとめて話すのは、なかなか難しい。従って、「まとめる」という考え方は放棄しなければならない。いま関心のあることから話を組み立てる他ない。そして中心となるのは、直近に何ができるのか、計算機が湯水の如く使えれば何を計算するのか、難儀なプログラミングの開発環境のあるべき姿はどんなものだろうか、など、書き捨てるような感じの集合体となる。活きているし、油断すると先を越えられてしまう。

6 月11日、海辺の我が家付近には、野菜畑はときどき見かけるのだけれども、水田は結構歩いて見に行かない限り、目にすることはない。そういう風景に慣れ切ってしまっている、そもそも毎日食べているご飯は何処でつくられているのか、全く意識していないことが恐ろしい気もする。帰省して瀬戸大橋を渡る道中では、右を見ても左を見ても、田んぼ。東南アジアの原風景が広がっていて、ちょっと安心感がある。カエルはうるさい、ヘビは出る、巻き貝には素手で触れるな、ヤブ蚊は出てきて当然、何回かは農薬に囲まれて息苦しくなる、それは現在では仕方のないこと。そして田舎道にはガードレールなど無い。自転車で走る時も油断すると、ちょっとした段差に車輪を取られて、田んぼに落ちる。久々に田舎へと戻る時には気をつけなければならない。

6 月10日、セロリが安い。何となく安い。さっそく買って来て刻んで食べると、野菜という感じたっぷり、というか苦い。... 暖かい時期のセロリは苦いのだそうな。こういう香味野菜らしいセロリは、ブーケガルニに使うのが良いだろうか。それだけで使い切るのは無理だから、スープの具にもしよう。煮て終えば苦さも和らぐ。加熱すると苦味成分が分解するのだろうか? ゴーヤの苦さは加熱するとドンドン消えて行くから、似たようなものなのかも知れない。さて、スープにするなら他の具は何にしようか。野菜炒めであればセロリと塩だけでも良いような気もする、ええと、何にしようかなー。

6 月 9 日、一度くらいは楕円関数を物理数学で取り扱いたいなーと思いつつ、なかなか実行できていない。理由の一つは、議論を始めると森に分け入ってしまって、戻ってこれなくなること。それだけで講義が完結してしまって、美しいには美しいのだけれども、物理になっているのか? とか、そもそも講義を受ける側の人々がそれを使う機会に恵まれるのか? など、色々とブレーキがかかってしまって、今なお計画倒れの状態だ。Baxter の巻末にチョロリと書いてある分量くらいが、授業で実際に取り扱える限界なのかも知れない。楕円関数との出会いは、故郷の本屋さんで戸田盛和著「楕円関数」を購入した高校の頃に遡る。へー、積分のまま定義される関数もあるんだ、と、ちょっとは新鮮な空気を感じたものだ。そして結局、自分の研究にはまだ使ったことがない。一方で、同時期に購入した「One Point テンソル」の内容は、とても役立っている。著作は難しいものだ。

6 月 8 日、分子軌道計算という考え方は、物理学を学部程度で学んでも、あまり習わない分野のひとつだ。量子力学を習っても、大抵は水素原子でおしまい。水素イオンを近似的に扱うか、あるいはヘリウム原子で変分計算、その辺りまでだろうか。tight binding 近似くらいであれば手でも計算できるから、そこまで演習ができれば面白いのだけれども、まあ今は忙しい時代だから、暇に任せて演習ができるものでもない。アルカリ金属の最外殻電子が、どうして容易に引き剥がせるのか、またハロゲンがどうして電子を余分に引き込めるのか、その辺りもまた少し考えるだけで導出できるものだから、分子軌道はもっと教えても良い気はする。化学や薬学の分野では、もっと早くから分子軌道に親しむのだろう、きっと。

6 月 7 日、円安で Mac が値上がりだという騒ぎとなっている。大昔に輸入代理店が付いて Apple II が国内販売されていた頃を思い出す。あの頃は、ジョニーウォーカーの赤がテーブルに立つと歓声が上がり、先輩がここぞとばかりに黒を持ち出すと下宿のあちこちから自然に人々が集まって来るのであった、どちらも当時の価格で万札が必要なものであった。このように舶来品が高価ではあったけれども、国内には PC-9801 という強力な製品があって、CPU の設計がまあまあ舶来のものであるかライセンス生産である点を除いて、おおよそ国内で何でも組めた。今の時代はというと、どうもその辺りが空洞化してしまっていて、一抹の不安がある所だ。もっとも、こういう国境を基盤に何でも考えること自体が、そもそも古い考え方なのかも知れない。

6 月 6 日、量子コンピューターとは何かという問いかけに対しての答えは、研究者であっても、いや研究者であるからこそ、マチマチなものとなるだろう。テンソルネットワークと量子コンピューターの関わりについても同様で、量子コンピューターのシミュレーションに使える、だから設計に有用なのだとか、雑音耐性を予め調べられるだとか、発想を養えるとか、まあ色々と理由付けはできる。ただ、あれこれと量子コンピューターに擦り寄るのは自身の好みではなくて、テンソルネットワークはテンソルネットワークで面白くて、その一端が量子コンピューターにもつながっていますよ、というのが私なりの解答となるのだろうか。古典コンピューターもまた、まだまだ発展途上であることは自明の理である。

6 月 5 日、曇りの貴重な日曜日となった。海辺の我が家、海辺とはいえわずかな湿り気のある場所から、もうこの時期になるとヤブ蚊が舞うようになる。夕方になると、取り囲まれてしまって家事作業どころではなくなるので、日中の時間にあれこれと行うしかないのだけれども、日中は日中で太陽の照りつけが厳しい時期だ。今の時期の太陽光は真夏よりも強い。というわけで、曇った雨降り前というのは、とても有難いのだ。同じ曇りであっても、雨が降った後は辺りが濡れていて、ついでにヤブ蚊も繁殖して、ロクなことがない。ホウキを持って、あちこち掃いて、さて綺麗になった ... と思ったら落ち葉や花殻ですぐに元の状態に。この時期は仕方ないか。

6 月 4 日、いつもいつもいつもいつも同じように野菜スープでは、スパイスを色々と変えるにしても飽きが来てしまう。今日は野菜を賽の目に切って、炒めた後で水を飛ばして、ラタトゥーユみたいにしよう ... と準備を始める。おおよそ水気が飛んだので、容器に移して冷やす。そのまま食べても美味しいし、サラダにもなる、万能の食材だ。さて、イザ食べる時間になると、少しヒンヤリしたものが欲しくなった。冷蔵庫を開けると、薬味野菜と一番ダシが目に入る。野菜の甘さと合わせると、ちょうどいい味になるはずだ。というわけで、炒めて冷やした野菜にダシを張って、薬味野菜を乗せた冷や汁の出来上がり。梅雨の時期には丁度良い感じかも。

6 月 3 日、科学者が何かを思いつく時、恐らく同じようなことを誰かが既に考えているか、あるいは近い内に思い至る。山でキノコを見つけるようなもので、秋になったらキノコが生えて来て誰の目にも触れるものなのである。研究のネタというものは、抱えているとやがては(現世的なご利益としての)価値がなくなってしまうものだ。こういう事を書くと、科学は先陣争いの場ではないのではないかと揶揄されそうだけれども、飯を食って行くにはスピード勝負も無視し得ないものなのである。もちろん、一つだけのネタで勝負はできないので、常に複数のことを考えていて、優先順位を付けて解決にあたる。その判断をミスった時には「先を越される」ことになるのだ。そんな毎日は、まあ刺激的で楽しいものだ。

6 月 2 日、複素関数のリーマン面を考える時、複素関数が「多価である」と表現するべきかどうかは悩ましい所がある。リーマン面という面の上に関数の値が対応しているので、多様体の各点に関数値が一つずつ貼り付いていると考える方が自然だからだ。でも、幾何学も何も教えていない段階で、知っているのは「複素平面だけ」という状況の下で、いきなりこういう説明も ... ということになる。なるべく何も誤魔化さずに話すのが正しい教え方であるという意味では、やっぱり多価という言葉は持ち出してはいけないだろう。それぞれの関数について、「この関数を自然に定義できる面」というものがある、という導入が良いのだろうなーと。

6 月 1 日、書き物に没頭すると、今が何曜日なのかよくわからなくなって来るのである。同じ内容を盛り込むにしても、順番や記号の設定などで、随分と解りやすさが違ってくる。図解するのが最も安易な道なのだけれども、いちいち図を起こすと言うのもまた難儀なことなのである。漢字というシステムの難儀さと、少し似た所があるかも知れない。密度行列繰り込み群の原論文を読み返してみると、そこにダイアグラムは無い。うまい記法が用いられているからだ。ホップ代数の伝統的な記法もまた洗練されたもので、これをダイアグラムに起こすのは蛇足のような気もする。もちろん、頭の中ではダイアグラムが浮かぶわけなのだけれども。

5 月31日、授業していて、リーマン面の話を振ると、何となく反応が浅かったので、急遽予定変更して簡単な関数のリーマン面について板書。準備していなくても臨機応変に進められるのが黒板の良い所ではある。一方で、解析接続みたいなガチャガチャした計算になると、流石に書いて行くのが面倒になる。具体的に、美しい形で解析接続を書き進めるには道具立てが必要で、そうでなければ力技で級数の和を求め直すことになる。どっちにしても、板書で済ませてしまうのは難儀なことだ。とか何とか、ゴタクを並べている内にお昼の時間になってしまって、講義終了。来週は試験だけれども、ちょっと時間を取って取り組んでもらうことにする。今回は内容をよく勉強してもらうのが目的だし。

5 月30日、卵が何だか品薄だ。値上げが近いとは言っても、そんなに備蓄できるものでもないし、駆け込みで買い占めしても 1 カ月くらいのものだ。それに、いくら高くなるとは言っても、元々がとても安い商品だったから、上がっても肉を食べるよりは十分に安い食材だ。見渡した所では、これらの値上げを機会に、この 2 年間に被ったダメージから立ち上がるべく、適正な価格へとシフトして行く過程に映る。そのように、今を生きる経済でなければならなくて、経済的な価値観も段々と移ろい、結局のところ我々の世代に完全なリタイアはあり得ない気がする。というわけで、品薄ながら卵を買って来て、卵焼きを作る。実は、値段だけを考えると業務用の溶き卵が一番安かったりする。卵を割れないように流通させるコストが、いかに高くつくかが良くわかる。

5 月29日、うまい素麺が食べたい、うまい素麺が食べたい、うまい素麺が食べたい。そこでまず、いりこと昆布でダシを取る。いりこは頭と腹を除いておく事が大切だ。時々、丸ごとダシを取ると深みが出るなど書いてあるけれども、頭腹付きのままと取り除いたものでダシを取って比較すると、誰の舌にも答えは明らかだろう。一番ダシを冷やして、素麺にそなえる。二番ダシは別容器に取って、野菜スープなどのベースに使うために保存。小さな鍋に味醂と醤油を入れて煮切り、カップに注ぐ。薬味も準備、今日は太ネギを細かく刻んだもの。いよいよ素麺の出番だ、沸騰した湯に麺を入れて、次に沸騰したらもう火を落としてしばし待って、流水で冷やす。「かえし」を入れておいたカップに、冷えた一番ダシを注ぎ、薬味を落としたら準備完了。あ、気がついたら、麺もダシも、すっかり胃袋に。香川県民なのだから、(注: だったのだから)生姜くらいは常備しておくべきだったかなー。

5 月28日、何度も何度も書いている事なのだけれども、サツキは花の盛りに見える頃が、もう終わりだ。近づいて見ると、先に咲いた花は落ちたり溶けたりしていて、既に見苦しくなり始めている。いま咲いているように見える花も、実は少し浮いていて、軽く手で触れるとあっさり落ちてしまう。咲いているのだからと大事にしているつもりで放置すると、あっという間に茶色い幕となって、頑固に葉や枝に貼り付いてしまう。そうなる前に枝葉を揺らして、落ちる花は落としてしまうと、今は蕾の花がポツポツと綺麗に咲いてくれる。気温が高くなると、もう蕾のまま枯れてしまう花も出てくる。そうこうしている内に、実が大きくなり始めて、無駄なエネルギーを使うのだ。庭木としての緑を大切にしたい場合、春先に花ごと剪定してしまうと、ふわっと出てきた緑の新芽をそのまま残せる。そういう管理もしてみたいものだけれども、おおよそ「花芽を落とすバカ」と揶揄されるのがオチなので、実行できないものだ。

5 月27日、文章をまとめる時に、いわゆるミスプリとかタイポと呼ばれるものは避けられないものだ。実は、文章はまだマシな方で、口語として伝えられる言葉は、文字に書き起こしてみれば自明なことなのだけれども「ミス発言」「うっかり」の連続である。このように滅茶苦茶な文字を通して口語のコミニュケーションは何とか成立しているわけで、伝わらないことがあっても不思議ではない。特に外国語で話す場合は、文法エラーだらけとなってしまって、書き起こし文が成立しないような状況もあり得る。逆の不思議というか、それでも意図する所は十分に伝わったりする。結局、我々は言葉という道具をどのように使っているのか、あまり理解していないのだと思う。そして、文章のタイポを指摘された時には「ありがとうございます」と伝えるのが、まあ穏便だろうか。

5 月26日、亜熱帯の風が吹き始め、いよいよ田植えの時期となった。大昔は、田んぼに四角い枠を放り込んで、農家が一家総出で田植えをやっていたらしく、田植え機が一般化した頃でも、まだ所々で手植えしていた。田植え機が入れないような場所は、今も手植えだし、農家の人々の作業を眺めていると、折々に補植しているらしい。最低気温が 20 度を超える辺りから、トマトやナスなどの生育もぐっと加速する。今から種まきしても、まだまだ秋の収穫には間に合う。トマトの種は、単純に食べるトマトから入手できる(家庭菜園は種苗法には引っかからない)のだけれども、ナスはそういう訳には行かない。完熟した茄子など、売ってないからだ。有毒な実ができるバカナスビなら、その辺に生えているんだけどなー。

5 月25日、いつの間にか、前期の半分くらいが終わっている。ここまでが、花粉が飛ぶなどの問題があるにはあるけれども気候的にはまあまあの時期で、これから先の対面講義ではヤブ蚊との戦い、そして暑さとの戦いが始まる。最後の方になって来ると、もうバテバテ、大学にやって来た時点で疲れ果ててしまっていて、しばらく休んでからでないと汗だくの講義になってしまうのだ。それも、今年はまだ講義室の中でのマスクが取れそうにない。今日は暑いから休講、というわけにも行かないし、さて、どのように対策を立てようか。氷柱を立てるというのも、まあ何だか涼し気で良いのかも知れない。

5 月24日、うっかりしていて、予定のダブルブッキングをしてしまっていた。すこーしずつ時間をずらしてもらって、多少のオーバーラップを残しつつ、複式授業のような感じで、騙し騙し時間を過ごして、その間に内職をゴソゴソ、いやー予定の確認を怠っているとマズイことが起きるものだ。なぜダブルブッキングになってしまったのか? というと、本来は午後に入るべき予定が、ずれた場所、午前に書き込まれていたからだ。そこには授業があるのだけれども、授業に出て行くのは当たり前なので、うっかり空白のまま残していたのが、ミスの生じた素地である。事故というのは起こるべくして起こるものだ。

5 月23日、統計物理学は出発点がハッキリとしない「学問」である。一応は微視的な出発点があるかのように見えるのだけれども、クリーンにそのような状況を作らなくても同じ結論へと至るという、とても柔軟な枠組みとなっている。幾つかの出発点が互いに等しい結論を導くこともまた確かなのだけれども、それぞれ微妙に違う側面もある。量子統計力学というものに至っては、何が量子なのかすらよくわからない。ハミルトニアンを対角化してボルツマン重率を与えらたおしまいじゃん、というのがお手軽にして極めて古典統計力学的な取り扱いであって、本質がそこにあるのかなーと、常々疑問に感じる所だ。こういう所の理解はゆっくりと進んで行くものなのだろう。

5 月22日、最近の私、「感染状況に応じて」という文言を耳にしたら、即座に「本当にそのようにお考えですか?」と聞き返すことにしている。統計学を学んだはずの人々でさえ、さまざまな生データにアクセスすることなく「専門家の意見」というものに身を任せよう任せようという、事なかれ主義が横行していて、結果として数少ない集団の出した勧告を鵜呑みにする世の中となっているからだ。感染症がさまざまある中で、特定の感染症だけをトレースする技術が確立された時、世の中に何が起きるのか?という新しい歴史が始まっているだけのことで、複数のデータを比較して眺めることが必要である。ひとつ確かなことは、コストのかけ過ぎは借金として後から追いかけてくる、ということだ。

5 月21日、野菜がどっさり届く。さっそく、カブと大根の葉をよく洗って、刻んで鍋へ。水を飛ばすように油炒めすると、美味しい常備野菜となる。ちょっと失敗したのが、鍋を選んだこと。フライパンにしておけば、もう少し速く作業できたはずだ。カラカラに水を飛ばすと振りかけとなるのだけれども、さすがにそれは大変なので、水が飛んだ程度で作業終了。暖かい内も美味しく、冷えたらサラダのようにも食べられるし、あるいはチリメンなどを加えて一品にもできる。使い回しが色々と効くので、あっという間に消費してしまった。次はカブのスープ、その次は何にしようかなー、楽しみだ。

5 月20日、虹色に光るもの、身の回りに結構ある。今はあまり見なくなった? CD や、絶滅してしまったレーザーディスクは虹色が浮かび上がる鏡のようだ。真珠や貝の螺鈿も銀色のような虹色のような輝きだ。刺身も、特に不透明な刺身の場合に切り口が虹色に光っている。精肉の切り口にも虹色が現れる。黄金虫やタマムシもまた、虹色の背中を持っていて、眺めていて飽きない。シャンプーの中には、乳白色の表面が虹色に光るように工夫してあるものもある。これらは共通して、大きさの揃った細かなものが集まって、ほぼ規則的な構造を創り上げている。それぞれから反射した光が干渉することによって、特定の波長のものが強められる結果として、虹色に見える ... と、長い長い説明を始めるのが物理屋さんで、そんな講釈は世間の期待するものではない。

5 月19日、最近思案するのが、学習というものの「ユニット」をどれくらいの長さ、分量に置くか? ということ。1講義分だと、控え目に言っても少し多いのではないか、そういう風にも感じるのだ。補足すると、現在はネットに接続された状態が当たり前なので、調べればすぐに得られる程度の情報は記憶する必要がない。「その程度のこと」を延々と黒板に書き連ねても、時間の割には効果が薄い。一方で、新しい概念などは質疑応答しつつの進行が重要で、亀のようにゆっくりと入れる必要も出てくる。この「亀のタイミング」が人によって異なるので、結局は平等悪? で、すごーくスローに物事が進んで行く。10 分くらいの短い映像資料をオンデマンドで次々と見て行く、それも個人の力量に沿って。そんな世の中が待っているのだろうか、既にそうなっているのだろうか ...

5 月18日、1年生に向けて、物理学と情報というネタで 40 分ほど話した。毎度のことながら、資料を作るのが面倒なので、参考書を並べておいて、板書での説明。量子測定とエンタングルメント辺りまでを、情報量とかエントロピーなどを交えて紹介して行く感じ。笑いを取るネタを仕込んでおけばよかったかなーと、実施してみた後の感想もある。講義の間に、MacOS を update した。おお、今度の OS は素晴らしい、システムの負荷がものすごく小さくなっている。今まで引っかかっていた finder.plist 問題も、OS の update が終わった時点では、かなりの改善がある。もっとも、いつもだんだんと状態が悪くなって行くので、油断はできない。

5 月17日、授業を始める時に、黒板のあたりが粉まみれの場合、まず掃除を行う。そのまま続けると、ちょっと黒板消しを取り上げただけで、粉の塊が宙を舞い、目に入ったりする。あれはアルカリ性のものなので、そのままにしておくと目が充血して大変なことになる。そんな状況の場合、黒板そのものも粉で満ちているので、こちらも丁寧に上から下まで拭いて、キレイになってから板書を始める。ちょっと時間がかかる作業だから、小さい掃除機でも仕入れて、講義に出向く時に持って行こうかなー。そう言うものは、得手してカードのポイントで買えたりする。便利グッズは便利に見えて使い道のないような物が多いのだけれども、講義室には携帯できる掃除機がいい。電子黒板になりそうな気運ないなー。高価だし耐久性に問題あるし、すぐに陳腐化するし。

5 月16日、貧乏の続き。野菜サラダは、これまた最強の貧乏食だと思う。大根とキャベツを比べた時、サラダとしてはどちらが安いか? は、重量で行くと大根に軍配が上がる。容積で行くならば、隙間の多いキャベツだ。どちらも、細かく刻んでしまって、酢と塩をかけて適当に混ぜ合わせて、しばらく置いてから盛り付けて、適当に油と醤油を注ぐだけで美味しいサラダとなる。一度この安さに慣れてしまうと、とても市販のサラダに手を出す気になれない。また、サラダにできる野菜の元の姿がちゃんと見えているのも有難いことだ。ハクサイとか水菜とか、少し混ぜてもいいし、ニンジンも案外よく目立ってくれる。貧乏を脱するには、しっかり研究するしかない .... いや、研究「しているフリ」をアピールする方が脱貧乏には効果的という気がしなくもない ...

5 月15日、強力粉を練って、うどんにする。だいたい、給料日前は貧乏になるものだ、そういう時は小麦に限る。いくら値上がりしたとは言っても、やっぱり小麦は最強の貧乏食だ。水で練って加熱するだけで良いのであるから。米より随分と安い、というのは何度も書いて来たけれども、何度でも強調するべきことだ。まあ、そこには通貨マジックというか貿易のマジックもあって、我々は後の世から振り返ってみると、不当に安い価格で食料を買い叩いているのかもしれない。ゴタクを並べている間に「うどん」が茹で上がったので、早速、化学調味料を振って、醤油を垂らして、ネギを乗せていただく。最強のうまさ、そしてチープさ。ところで、Twitter に「貧乏」の 2 文字を書き込むと、さっそく投資関係の方々からフォローされた。常々、サーチされているらしい。

5 月14日、正方行列の場合、特異値分解と対角化を使った行列の相似変換、似ていると言えば似ているのだけれども、じゃあ一致するのはどういう場合か? と考え始めると、なかなか難儀だ。固有値が非負で縮退がないエルミート行列ならば、相似変換が特異値分解と一致しているので、変換行列の列ベクトルの符号の選択という自明な自由度を除いて、たぶん抜けはないだろう。縮退がある場合には、その空間の中で特異値分解の方がより広いものになっている。エルミート性がなくなると両者はかなり違うものとなって、この辺りになると自らの線形代数の理解の浅さに辟易とする。もう一度、ちゃんと線形代数を学習し直そうかなーとも思う。数の世界には色々な構造が隠れているものだ。

5 月13日、暑くなって来ると、昼食に素麺が食べたくなる。冷やしうどんでも冷や麦でも良いのだけれども、何と言っても調理時間の短さが秀逸だ。さて、ソバや素麺のように「すする」つけ麺にダシが絡むのは、物理的にはどういう現象なのだろうか。一本だけ漬けて引き上げると、表面が薄くダシで濡れた状態になる。炭水化物は親水性があって、表面にはダシの粘性でとどまり、塩分のような分子量の小さいものでは拡散も起きて染み込む、そんな感じだろうか。多数一度に漬けると、麺の間の毛管現象も重要な働きをするのだろう。漬け麺の全体に対して、うまく特徴を抽出するパラメターが物理的に設定できたら、けっこう社会的にインパクトのある研究になりそうだ。研究材料の仕入れも研究費でできるし?!

5 月12日、ふと「最後端物理学」という言葉が浮かんできた。検索してみると、ヒットなし。最後端という言葉は、船や乗り物のように大きさのある人工物に使う言葉らしくて、必ずしも「最先端」とペアとなっている用語ではないようだ。また、最先端は莫大なヒット数があるのに、最後端は数えるくらいしかない。同じように「さきがけ」と「しんがり」では、前者ばかりがヒットする。実戦で、後ろを固めなかったら何が起きるかは自明なことなのだけれども、先駆けて何かを発掘して、そこに埋まるのを本望とするのを良しとする風潮があるらしい。世の中の majority とは縁を切りたい私、これからは最後端物理学の専門家と自称することにしよう。最後端は最後端で危ないし面白いんだ、ゲリラが潜んでいるから。s

5 月11日、雨の朝はゆっくり始まった。お昼前にはもう雨が上がって、青い空がのぞいていたので、イソイソと坂道を駆け上がる ... くらいのつもりで歩いて上がる。随分と学生の姿が戻って来て、ああ大学だなー、学生の街になったなーという感じがする。前と少し違うのは、それぞれ、お召し物が普段着っぽくなった感じだ。3年前くらいはまだバブル景気のような感じで、着飾ってアイテム沢山という、そんなファッションショー状態であったのが、オリンピック延期を経て、すっかり熱気が取れてフツーの街の風景に戻って来た。これから先、さて、この2年間で社会が無い袖を更に振った影響がどう出てくるのだろうか、より貧しいものへと世の中の指向もシフトして行くのかもしれない。

5 月10日、ベッセル関数はまあ、物理数学の定番の一つだろうか、ある一点で起きた現象が広がって行く時に、球面調和関数とともによく使われるものの一つだ。ただまあ、物理学的には「そういう広がり方」をするだけ、あるいは直交関数系が境界条件に応じて決まるだけ、それ以外の深い情報が含まれているわけではない。そういう意味で、物理数学のこの辺りに、どういう意味というか、興味関心を見出すかは難しい所がある。ちょっと掘ると数学としての面白さはタップリ含まれていて、特にゼータ関数が現れる辺りが有名だ。けれども、それを物理数学で始めると、ほとんど(ブロックを積んで測るような)物理とは関係ないものとなる。そのバランスとモチベーションの維持が、なかなか大変なのである。うーん ...

5 月 9 日、あーあ終わってしまったゴールデンウィーク、これからしばらく我慢の時期となる。講義で難儀なのは、途中までは先がなかなか見えない気分に陥ること。やるべきことは決まっているので、気楽に取り組めば良いはずなのだけれども、なんだか毎週毎週、途中までで達成感がないような気になりつつ、黒板に黙々と何かを書いて説明したり、時にはスッ飛ばして結論だけを示したり、レポート問題を出題したり、... やがて 7 月となると、先も見えた気分になって、余談というか、オプショナルなものを題材に気楽に講義ができるようになる。同じことを毎年やるのではなくて、毎年何かへ挑戦したいと、そう講義の中で考えるからなのだろうか、やっぱり今の時期は何かに耐える我慢が必要だ。

5 月 8 日、サイエンスの面倒な所は、その構造・仕組みなどを他人と共有する過程に言葉が介在することだ。何かを述べ伝える手段として、図や式が果たす役割は大きいのだけれども、最終的には言葉に落としてしまわないと、なかなか意志の疎通が図れないというか、何をどう考えて行くのかという方向性すら怪しくなって来る。これが理系学問の教育において、結構な労力のかかる部分で、理学部にやって来たのに文章ばっかり書いているという、そんなつぶやきもよく耳にする。数学者には数学の言葉遣いがあって、例えば多様体の説明など、厳格かつ簡潔に書けてしまうものの、その話し方では他の分野の人々にはチンプンカンプンとなる。言葉という道具が、やっぱり人間の最終兵器なのだろうか。

5 月 7 日、道端に雑草として伸びて来たヒルガオをちょっと拝借する。朝顔と同じように栽培できるらしい。そしてどちらかというと、控え目で可愛い。うまく根付いてくれることを祈りつつ、苗床に仮植えした。地植えすると地下茎が残って何年もしぶとく残るらしい。それは面倒なので鉢植えで楽しむ予定にしている。ヒルガオの仲間には色々な種類があって、浜辺に生えるもの、山に生えるもの、芋のできるものなど様々だけれども、花がなかなか咲かない所は共通している。夏の盛りも過ぎ去った頃にようやく花が付く。何年か前に試した野朝顔は寒さがやって来る頃まで咲かなかった。栽培下にあるヒルガオは、いつ咲いてくれるのだろうか?

5 月 6 日、山に行けば幾らでも目に入るヤマイモのツル、里で目にすることはあまりない。ああいう風に生えて自然に定着するには、適度な斜面でないとダメなのだろうか。あるいは、周囲に水田があるような水気を嫌うのだろうか。ムカゴを適当にもらって来て鉢植えにすると、最初は可愛いツルが伸びて来て、やがて本性を顕にする。ツル植物は、そもそもの戦略が最小限度のエネルギーで高さを稼いで、優先的に光を受けることなので、放置すると周囲の植物が弱ってしまう。地上部が巨大化して、さあ芋もできているだろうと鉢をひっくり返してみると、大抵は期待外れとなる。作物を得るには土も肥料も手間暇も、どれも欠かせないのは当たり前らしい。

5 月 5 日、こどもの日。もともとは神社の神事が行われる日。昨日もそうだったけれども、それぞれの地域でこの日に向けて祭りが催されている。人出も戻って来て、様々なレジャーも再起動中。側から眺めていて、いきなり人手不足の現場もある。内側から眺めていて人手不足となる、そんな現場もある。教育現場も、この2年間でかなり省力化が進められている ... と信じたい。少しくらい教育効果があるからといって、労力を投入することを繰り返すと、今の少子化の時代は乗り切れない。各人が、それぞれの持ち場で「積極的にサボる」ことが重要だ。

5 月 4 日、昨夜の SNS では、下宿している学生さん達が次々とお祭りについて up していて興味深かった。この 2 年間、選挙の時以外はずーっと閑散としていた大学の近辺に、だんじりの鐘の音と掛け声が響き渡ったのが、とても新鮮だったようだ。海辺の自宅の隣町でも、近々お祭りがあるらしい。神戸まつりのような大きな祭りではなくて、地域それぞれに祭りがある、そういう良さを再認識できる機会となったのだろう。海外から降って沸いた疫病への恐怖を、神々が払拭してくれたようにも思えて来た。

5 月 3 日、今日は祭日で、あちこち人出がとても多い。渋滞も戻って来たようで、SNS にも自動車で埋め尽くされた道路がレポートされている。のんびりした雰囲気の中で、放置しておいた仕事をこなそうとしていた時、ふと思い出した。今日は平日なので、arXiv プレプリントサーバーには「火曜日恒例の大量投稿」が up されているのだ。いけない、いけない、うっかりスルーする所であった。テンソルネットワーク業界の人々は、火曜日を避けて登校することが多いのだけれども、油断は禁物、さてひと仕事するか。

5 月 2 日、文献講読を午前、午後と進める。Feynman Lecture の英文は講義録なので必然的に口語に近くて、文章が長い上に言葉の出てくる順番が気まぐれだ。入試英語に慣れ親しんだ方々が、この文体に接すると戸惑うかもしれない。冗談の部分とか、何となく揶揄しているような口ぶりの所もあって、真に受けると読み損ねてしまう。英語の文献では、冠詞にかなりの情報が含まれているので、冠詞は冠詞だと適当に流してしまうと意味が浮かばない。そういう、ちょっと注意深く読むことに慣れることから、まず文献講読を始めようというわけで、今日はノンビリ進めた。

5 月 1 日、夕方に雨が降った後、再び強い風が吹き荒れた。そして気温が急落。久しぶりに寒気を感じる気温となった。夜遊びしたい欲も芥子飛んで、いや消し飛んで、色々と溜まっていることを処理して行く。今の時期は、報告書の取りまとめが多い。大御所クラスとなると、予算の申請書と報告書で半年ずつ潰れて、実質的にはマネージメントしかできないという冗談のような噂も耳にする。あるいは明示的に、とある年齢を過ぎれば研究は止めて運営に力を注ぎなさいと、そういう主張を耳にすることもある。何事にも極論は存在するものだから、適当に聞き流すのが良いだろうとは思うけれども、特に報告書は誰もが簡素化の努力をしなければ、やがては行き詰まる予感がある。

3 月と 4 月の1行日記