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12月31日、思い立って、年の瀬の海に出ることにした。船を持つような裕福な身分ではないので、讃岐で造船された優美な船に、乗船するだけという貧乏旅だ。レストラン船でも、乗船だけできるのが良い。デッキは寒いけれども、人があまり居ないと色々と撮影もできて楽しい。特に、寒い日には浮島が撮影できる。ずーっと遠くの島や船が浮いて見えるのは、理屈では分かっていても不思議なものだ。明石海峡大橋の向こうに見えるのは小豆島、そこは香川県である。但し、小豆島が讃岐か?と言われると、小豆島・讃岐平野のどちらに住んでいる人も首を傾げるであろう。島には島の風土と文化がある。海の民と陸の民、それくらいの違いがあるようにも思う。また行って確かめてみよう。

12月30日、待った待った、今年中に仕上げるはずの仕事がまだたくさん残っているのだ、お日様よ、今日の1日は長い長いものにしておくれ。これはきっと、新年も毎日そのように心がけて、時間を大切に使いなさいというお告げに違いない。だいたい、いつでもできると思っていることが最後までツケとして残るのである。大切なものはツケ回してはならない、さっさと片端から処理して行くべきものだ。それにしても今日は穏やかで、いい日差しだな〜と、そう思う遊び心が仕事の邪魔をするのである。こういう葛藤があってこそ大切な仕事が大切であると実感できるのかもしれない。ありがたいことだ、さあ仕事。

12月29日、それは過日の氷の上での風景。誰か ... おおよそ爺さんである ... が、スケートの初心者に声がけして、靴紐の正しい結び方について伝えたり、滑り方の基本を教える、そういう「行為」に出たらすかさず館内放送で「兵庫県迷惑防止条例 ...」と注意が流されるのであった。先日の記載と重なるけれども、こういう警告は実に必要なことの一つだと思う。初心者が滑る時間は2時間くらいだろうか、その間は家族や友人と楽しく過ごしたいはずだ。そこへ見ず知らずの年長者がやって来て、あれやこれやと注意するのでは、誰もが何となくその場に居づらくなる。年少者の場合、抗議する術を持たないわけで、心理的な被害は大きい。こういう問題を解決する一つの方法が、館内の指導員を増やして、変な靴の履き方などを見かけたら、指導員の方から声かけすることだ。Authorize された専門家、ヘマをすると職を失うという責任ある立場で、ちゃんと「ワンポイント」アドバイスしてもらえるならば、有難いものだ。繰り返すけれども、見ず知らずの者が声がけするのは良くない。

12月28日、年末年始はプレプリントサーバーの運営も飛び飛びとなる。プレプリントの公開のない日は遊べる ... いやいや、溜まっている仕事にたっぷり向き合えるのだけれども、そのツケは次の公開日に回ってくる。今日は、通常でも公開数の多い火曜日であって、かつ昨日はお休みだったというツケ届もあって、なかなか色々なプレプリントが転がっている。そして、年末に仕事を出してしまえ、というノリで結構な力作揃いでもある。これから先のプレプリントの話題はというと、新年の一番若い番号が誰の論文に付くか?ということ。必ずしも 1 番から始まるとは限らない。仮番号を振った上で、明らかに重複している論文とか、誰が見てもガセネタというものは弾かれるので、少し離れた番号から始まることもある。誰かが、このクリスマス休暇に働いているということだ。偉いな〜。

12月27日、クワイが売り場に並んだ。クワイが出て来るのはこの時期だけで、年末まで同じ仕入れのものを売っている。皮の薄い芋で、すぐに傷んでくるので、売り場で目にしたら躊躇なく購入する。年末になって安売りされているものは、あちこちの傷からいたみ始めていて、ただでさえ面倒な下処理がますます困難になる。皮は六方とか八方に剥きなさい、と本には書かれているけれども、できるだけ捨てたくないので根性で薄く剥いて、下茹で、本煮込み、火を落としての味の含ませ、色々やるけれども最後はパクリと食べておしまい。ああ正月がやって来た、という満足感を一瞬だけ味わって、色々とスタックしている仕事に片端から着手する。やっぱり、サボったもののツケは消えてくれないものだ。

12月26日、果物の中で捨てる割合の多いものは?リンゴやブドウのように、皮の薄い果物はあまり捨てる部分がない。バナナの皮はけっこうな分量がある。ただしバナナの身は乾燥重量が大きく、皮の方は乾くと縮んでしまう。対して柑橘類の皮はとても多い、半分くらいが皮と言って良い。ミカンでは薄皮の占める割合も大きい。そんなに薄皮があるか?と思ったら、試しに注意深く薄皮と身を分けてみると良い。乾燥重量で考えると、柑橘類はほとんど皮と言っても過言ではない。そして、取り分けた身だけを食べると、何となくミカンという感じがしない。柑橘類の香りは、皮から来るものなのである。丸ごと、あるいは半分に切って、ジュースを作ると、皮の成分が香り付けとなる。この文章を書いていて「実」と「身」の使い分けを再認識した。

12月25日、神戸空港にエアバスのベルーガがやって来た。お昼までに知っていたら見に行く所だったのだけれども、もう日が傾く頃に twitter で流れて来た知らせを見て、ようやく気づいたのでそれは無理だった。神戸大学からは神戸空港がよく見えるので、アカデミア館まで行けば駐機していても見えるのではないか?と思って六甲台第2キャンパスへと登ると、端っこがちょっと見えた。夕方に離陸するという噂も流れて来たので待っていると、果たして滑走路の端へと移動して、離陸。まだ紅い夕暮れの空へと、なんだかヘンテコに太い機体が飛んで行く。ベルーガさようなら、また来てね? 今回の飛来でわかったことは、胴体の太さはあまり離陸距離に関係ないということ。特に空荷の離陸は軽かった。後で映像を見ると、着陸もなんだか軽い。あの胴体、揚力を生んでいるのではないだろうか。

12月24日、今日は健康診断の日。1ヶ月くらい前が本当の検診日だったのだけれども、ちょうど集中講義に出動となって、今の時期に延期となっていたのだ。とても寒い日だったらどうしよう、と心配していた。ところが今朝はポカポカ陽気、この後にやって来る寒気との寒暖の差は大きいらしい。ともかくも、健康診断はササッと終わって一段落。今年は、健康診断前の節制なきままの診断となったので、何か引っかかるかもしれない。いや、いや、いつでも何か引っかかるのである。統計的に、ここからここまでの範囲に何パーセントの人が入る「正常値」というものがあるならば、そこから外れる確率は小さくても有限値であり、スコアがいくつもあれば、必ず一つや二つは引っ掛かるのである。と、強がっていないで、今日だけは節制しよう。

12月23日、バッハの楽曲の中で、リュート組曲第2番はギターを弾かない人にはあまり知られていないかもしれない。第1番、第3番、第4番が他の楽曲の焼き直し版であるのに対して、第2番だけはリュート向けのオリジナルなのだ。ひょっとすると第2番も2番煎じで、元々の曲が失われただけかもしれない。全体的にゆったりとした影のある響きで通してあり、リュートらしい音楽と言われれば、そのように聞こえる。途中のフーガは、弦楽器で楽譜通りに音を保つのは困難かもしれない。このような点が、リュートと題した鍵盤楽器の曲ではないか?とも言われる理由だ。ただ、チェンバロで演奏されると退屈で仕方ない。ピアノだと、ちょっと楽しめる。ギターだと、生き生きと楽しめるけれども、ときどき低音弦が足りなくなる。色々と楽しめるのがバッハらしい所だなーと感じる。

12月22日、スーパーマーケットに黒い小粒のブドウが並んでいた。スチューベンという品種だそうで、青森県で集中的に栽培されているとのこと。食べてみると、濃い、のひとこと。醸造用のブドウに近い味わいがあって、糖度がとても高い上に酸味も皮の味も乗っていて、全体としては生のワインのような食味だ。なにぶん小粒で種もあるので、絞ってジュースにするのが良いのだろうか。絞る時も、最後の一滴までギューッと、いやジワジワと絞ると味わいが深くなる。種がたくさん取れるので、そのあたりにばら撒いておこう。芽が出てきたら、実がつくだろうか?青森県のような寒い場所でないと、酸味が乗らないのだろうか?と、色々と想像してしまう。葡萄は強い植物なので、生やすだけなら採光さえあればどこでも良くて、そこそこ育てられる。

12月21日、農学部南側の斜面、だいぶん整備が進んで来た。どうやら、六甲台第一キャンパスと同じように、コンクリートで押さえて行くようだ。自然科学総合研究棟のあたりは、ワイヤーで固定していたので、工法が異なるわけだ。どこも、いずれはコンクリートになるのかもしれない。大学の南側斜面で、自然のまま残っているのは工学部の南側。そのうち、東半分くらいはかなり前にコンクリートで覆われている。どこまでが神戸大学の敷地なのかは知らないのだけれども、やがてあそこも改良されるのだろう。こうして、人工物で固めた場合には定期的な点検が必要となる。これは高速道路などと同じ。工事してあっても自然の力は侮れなくて、段々と朽ちて来て、油断すると崩れ落ちるのだ。

12月20日、冬のエアコンの吹き出し、とても湿度が低い。そもそも暖房している室内は湿度が低いのだけれども、それを更に加温しているわけで、絶対湿度は言うまでもなく、相対湿度でも 50 % を切っている。暖房の吹き出す風に洗濯物を干すと、すぐに乾く。切り干し大根のようなものも、あっという間にできてしまう。梅干しも、実は冬に暖房を使うようになってから干すと、すぐに乾く。問題もあって、乾き具合を調整する時間的余裕に乏しいので、梅干しがカラカラに干からびてしまうこともある。こうなると、いわゆる干し梅となってしまい、砕いて使うか、水で戻して使うしか無くなる。パンを乾かしてラスクにするような用途にも使える。寒干しとは少し違うけれども、これも冬の風物だろうか?

12月19日、野菜を分類すると、根菜と菜葉と ... いや、まずは単子葉植物と双子葉植物に大別できる。単子葉植物はネギに玉ネギ、エシャロット、ニンニク、ニラ、百合根、ちょっと意外な里芋や海老芋。野菜かどうかは別として米や小麦などの穀物もそうだ。双子葉植物は、ナス、トマト、じゃがいも、白菜、さつまいも ... いやいや、数え上げるとキリがないほど種類がある。レンコンは見分け辛いけれども双子葉植物、お正月のおめでたいクワイは単子葉植物。水辺に生える植物は茎がスッと立っているので、外見では見分け辛い。単子葉植物も、チューリップやランのように立派な花をつけるし、花の構造は双子葉植物と本質的には違わないようにも見える。スーパーマーケットで生物学を復習するのも楽しいものだ。

12月18日、スケートリンクでよく目にするのが、突然スケートを教え始める人。リンクで毎日のように研鑽している人、特に現役の競技者は、自分の練習を黙々としているだけなので、他人に教えることは滅多にない。教え始めるのは、よくリンクにやって来る人の一部、暇そうにしている?方であることが多い。ほとんどの方は良く心得ていて、ワンポイントアドバイス程度で終わりとなる。スケートリンクを利用する方も様々で、非日常な氷の感触をちょっと楽しめれば、それで良いという場合もある。そういう場合に、頼られもしないのに熱心に教えられると、困惑の表情が浮かんで当然だろう。が、しかし、今はマスクのご時世なのである。コミニュケーションが成立していない状況の下では、ハラスメント絡みのトラブルとなり易いのである。何人か、このパターンでいざこざとなり、警告を受けてリンクを去って行ったので、自分はまあ、氷の上に立ったら周囲に気をつけながら、自分で楽しむだけにしておこうと思っている。

12月17日、柑橘類が出回る季節となった。果物としての柑橘類の特徴は、意外と可食部分が少ないこと。みかんを食べたときに、捨てる部分と食べる部分の比を計量して調べてみるとよくわかる。レモンなど、汁の量は全体の半分どころか 1/3 にも満たないことさえある。皮がぶ厚い晩柑も、似たようなものだ。この厚い皮で、昆虫やら鳥やらを遠ざけているわけだ。皮は捨てるか、あるいはマーマレードにでもするしかない。食べられるとは言っても、苦い成分を抜かないといけないし、有用な栄養成分がたっぷり入っているわけでもない。堆肥として考えた場合は、けっこう量のある堆肥であるとも言える。ただし、柑橘類の皮は風化するのに結構な時間がかかる。うーん、どう処理したものかと考えるうちに、皮だけどんどん溜まりこむ。

12月16日、暖かな朝を迎えて、秋が戻って来たかなーと思っていたら、昼過ぎから急に曇って来た。この後、フツーに寒波が来るそうな。気温からすると、まだまだ1月末までに、もう何度か下がる余地があるので、時期的には少し寒いのかもしれないけれども、フツーの寒波だ。寒い寒いとアオっておくと、冬物の売れ行きが良くなるのだろうか。寒い日には鍋料理という仕入れの都合もあるのだろうか、と、裏読みしたくなって来る。神戸の海沿いで気温が0度の時には、神戸大学辺りは氷点下となる。概数で標高 100 m くらいの場所なので、空気も少しは薄い。こういう場所で運動部が活動すると、高地トレーニングのようになるのかもしれない。現在は活動制限も少し緩んで、クラブ活動に通って来る学生もよく見かけるようになった。今日は雨だから屋外は無理かな。

12月15日、... と喜んだのも束の間、やっぱり色々とレインボーカーソルに悩まされる。M1 のノートブックでは出てこないので、やっぱり intel ということなのかなー、別に intel がトロいわけではなくて、OS の問題 (?) であることは確かなのだけれども。大昔の Mac は爆弾がよく出ていたから、先祖返りしただけだと思えば良いし、そもそもパソコンに信頼を置く方が間違っているというのは確かだ。いや、大型コンピューター(?)というか、今で言うならばクラウドに信頼が置けるかというと、そうでもない。メインフレームの頃は、ファイルが1週間前まで突然戻ってしまうという悲劇も覚悟しなければならなかったし、クラウドに預けていたファイルが復帰できなかったという、そんな話も耳にする。蒸発したら蒸発したで、それは断捨離の一つとして受け入れるのが仏の道なのだろう。ともかく M1 をもっと仕入れよう。

12月14日、MacOS が update されて「沈黙する最新の Intel Mac」の問題がようやく解決された。どんな症状だったかというと、コントロールパネルを開くのに何分もかかるとか、ソフトを起動するのに、特にサードパーティーのものがトロくて、30 分近く待たされることもあった。どこかで引っ掛かっていることは自明で、どうしたものかとジタバタして、これはもう諦めて M1 のハードへ移行しようかと思い始めていた所であった。で、update というには随分と長い時間のインストールの後で、再びデスクトップが姿を現すと、おお?驚きの速さ。いや、これで普通の速さだ。ハードウェアのポテンシャルは、まだまだ高い所にある。まあ、高望みしても仕方ないか、まずは溜まった仕事をクリアしないと。

12月13日、YouTube はギターの練習方法を劇的に変えたかもしれない。昔は、録音にかじりついて、どんな風に弾いているのか必死に探りながら耳コピーするという原始的な方法で新曲をマスターしたものだけれども、今はプロも含めて上手な人が、どのポジションでどんな風に弾いているか動画に上げていて、見て理解できる。もちろん達人になったら、一度耳にしたらパッと音と動作がリンクして一発でコピー再生できるのだろうけれども、素人が真似できるものではない。物理学にも似たような所があるかもしれない。けっこうな分量の講演が転がっているので、本気で勉強を始める前に、おおよその枠組みを講演内容から把握できてしまう。論文を片端から読んで行くよりは、随分と楽なものだ。どうせ同じように理解が進むならば、合理的に学び進められるに越したことはない。

12月12日、菊の花。キク科の植物の花は、小さな花の集まりだ。中心の小さな花も、外を縁取る大き目の花も、それぞれの役割を果たしている。キクを栽培すると、脇芽がたくさん出て、そちらにもどんどん花がつく。ひと株から、結構なボリュームの花が咲くものだ。人の一生にも似ているかもしれない。目が出て葉がついて、四方へと枝葉を巡らせて折々に光を照らす。寒くなる時期を選んで花をつけるので、今の時期にも色とりどりの花が、野山にも花屋にも満ちている。もうしばらくすれば日没が遅くなり始め、また太陽が戻って来る。その頃には、春菊の仲間が白い花をつける。そんな花を目にすると、何かを語りかけて来るようにも感じる。

12月11日、風がなくて暖かい日中となった。空き地に生えた雑草などは、まだ晩秋のままの風情だ。緑色のままで、枯れる気配のない草も多い。ただ、緑色には見えても葉として機能しているかは別の話だ。成長は止まってしまって、やがてグッと寒くなると本格的に?枯れてしまう。そのままにしておくと、しぶとく残る草だけが生い茂る荒れ地に戻って行く。手入れされていない空き地は、まずススキに占有されてしまうようだ。そうなると、イノシシの寝床にもなってしまって、常にガサゴソと音のする獣道のネットワークが出来上がる。うっかり立ち入ると、突き上げられて大変なことになる。そんなこともあって、大学のそばでは下草刈りが定期的に行われる。刈り取った後の広々とした場所は、鳥のエサ場となる。さて、タマネギでも植えようか。

12月10日、近所のうどん屋さんへ、超ひさしぶりに行ってみたら、改装されていた。以前は、いかにもうどん屋さんという感じだったのだけれども、今はどちらかというとカフェ風の明るい内装。うどんは、昔のまま。この雰囲気は、どこかで経験したことがある。そうそう、高松の喫茶店だ。喫茶店であっても、昼にはうどんが注文できる、そんな所が珍しくない。というわけで、ますます讃岐っぽくなった所で、定食にした。専門店だけあって、寒い時期であっても冷たいうどんを選べる。真冬の寒い寒い時でも、やっぱり冷たいコシのあるうどんを食べたい、というのも先天的?後天的?讃岐病なのだろうか。冷たくても、薬味はショウガ。絶対にワサビではない。(←実はワサビも好きなんだけど、我慢してる。)

12月 9 日、今日はあちこちからお客さんがやって来て、なんだかニギやかな研究室になっている。物理には discussion が大切だ、何となくこうやって情報が掴めるのは楽しい。自分が噛んでも仕方ない部分も多いので、場所を用意して邪魔しないように、カメラのレンズだけを磨いてコソコソと活動しよう。それぞれの大学で、異なる事情があって、まだ遠隔講義中心の所もあれば、対面講義に戻してしまったような所もある。どんな風にレポート提出して、どのように評価するのか?そんな知恵も交換できるのが雑談の面白さだろうか。物理の語りは物理の語りで、それはそれで意義のある事だけれども。

12月 8 日、さつまいもを作ると、大きな芋も採れるには採れるのだけれども、小さい芋がたくさん出てくる。体積や重量で考えると、小さな芋の占める割合は少ない。でもまあ、採れたものは有り難く食べよう。小さいと、皮をむいていては何もなくなるので、土をよく落として洗い、輪切りにしてスープに加えるか、あるいは蒸して丸ごと食べる。さつまいもは、皮の付近にたくさんの「食物繊維」があるから、大きさによらず皮ごとが良いだろうか。焼き芋にすると皮が食べられなくなるので、蒸す方が好きだ。葉柄も食べられる、には食べられる。ちょっと手間がかかるので、時間があればの話だけれども。神戸あたりでは、さつまいもは秋冬で枯れてしまう。暖かい地方では真冬も枯れずに花が咲くらしい。ともかくも、さあ食べよう。

12月 7 日、久々に仕事場の模様替えを行なって、あちこちからゴミが出て来たのでまとめて処分している。大切に思っていたものであっても、時とともに風化してしまうものだ。義理があって置いておいたようなものも、土に戻してあげるのもまた義理というものだろう。自分で描いたようなものは、どのみち役立たないのでバッサリと。いつか講義するときに役に立つかなーと思っておいておいた、講義を受けて書き取ったノートもまたガサガサと捨て。何の役にも立たない、というか、講義はダイジェストのようなもので、黒板を書き写して何かそのまま、役に立つものではないのである。まだまだゴミばかりなので、あと数年かけて文字通り伽藍堂に戻したいものだ。

12月 6 日、円安の影響は輸入品の高騰となって現れる。関税の撤廃や軽減により、多くの輸入品が安く買えるようになったので、あまり目立たないことなのだけれども、ジリジリと輸入品が高価になって来ている。今の時期に気になるのが、輸入パソコンの高騰だ。半導体の不足という原因もあるのだけれども、高いスペックのマシンは大昔に舞い戻ったような価格となっている。海の向こうでは、感覚的にはこれほど高価ではないのだろう。購入する原資によっては、とある価格を超えると調達の手続きが煩雑となることもある。そういう限度に近づくと、今は円が安いんだったと再認識するのである。状況の改善は、さてどう進めたものだろうか。新しい価値観を生産現場から発信できること、そうして長い目で見て将来の生産力を確保することが、いま求められている事なのだろうか。

12月 5 日、パエリアは、まずスープを作っておいて、香味野菜をオリーブオイルで炒めて米を加え、そこへスープを注いだ後に具材を乗せ、蒸らせて仕上げる。どう急いでも 20 分はかかるだろうか。フルコースでゆっくりと食べて行く場合には十分に間に合うのだけれども、普通の飯屋では許容できない時間だ。そこで、とりあえず米だけを香り付けしたスープで硬めに炊いておいて、注文が来たらパエリアパンに広げて具材を乗せ、お焦げを作って仕上げるという、そんな方法が普通に使われる。これは、ザルうどんとキツネうどんと、どちらが美味しいかという区別にも似ていて、食べればどちらも美味しい。ご飯ものであれば何にでも使える手で、炊き込みご飯だろうと牛飯だろうと、ともかくパエリアパンに広げればパエリアなのである。

12月 4 日、子供にスケート靴を履かせると、不思議なことに、みんなトコトコと走り始める。真似をしてみれば、その凄さに驚く事だろう、超絶のバランス感覚だ。そして、しばらく放っておくと見事に滑る感覚を会得して、周囲のどんな大人よりも上手くなる。下手に指導しない方が良い、そんな実例だろう。但し、靴とエッジは良いものである方が上達が速い。ある程度の所まで会得したら、そこで初めて基礎のやり直しとなる。これは学問にも共通する所で、最初の最初からゴリゴリと定義やら公理やらと強制するとロクなことがない。まず楽しんで学問しなければならない。そして、少しはわかるようになって来た所で、より先へと学び進む基礎を教えるのである。基礎へと立ち戻るのは、最前線で矢折れた専門家も同じことだ。

12月 3 日、阪急六甲駅の辺りからも少しは見えている六甲台第2キャンパスの南面の坂、今までは木々が生い茂る林だった場所が、どんどん開墾されている。開けてみると、元々はちゃんと整地してあった場所で、それなりに正しく盛り土されていたことがよくわかる。木々が成長したのは、ここ何十年かのことなのだろう。石垣があるというのも、なかなか新鮮な発見であった。赤松城のもの、というわけではないのだろうけれども、御影石を使っているらしいことは確かだ。ああいう自然の丸い石は、最近の石積みではあまり使われない。さて、開けてみるとなかなか広い土地であることもよくわかる。将来的に何か建てることも可能かな。

12月 2 日、学会とか研究会とかナントカ委員会とか、感染症対策が出来れば対面の開催へ、というのは歴史のネジを後ろ向きに巻き戻すだけの効果しかないように思う。オンラインだけのものも存在して良いし、ハイブリッドのものがあっても良い、もちろん限られた人々が山奥に籠る形の合宿があっても良い。それぞれの良さを見極めて、適切に配分することにより、より効率的な研究の進め方が見えて来るのではないだろうか。例えば子育て中とか介護中とか、色々と事情があるのが日常であるから、何でもかんでも出張だというのは、それは無理であって、今まではそういう方々への配慮が皆無であったと言えるだろう。

12月 1 日、広場の芝生が見事に一面、掘り返されている。これは、間違いなくイノシシの仕業だ。イノシシが穴を掘っている、いや食べ物を探している様子を見ていると、あの一見すると柔らかそうな鼻先が、実はとんでもなく頑丈であることがわかる。スコップを持って来ても掘れないような場所でも、平気で土を砕いて行く。その下の何を食べているのだろうか。球根や根っこか、カナブンやセミの幼虫か、時には冬眠中のカエルやトカゲなんかも居るかもしれない。ブタやイノシシは枯れ葉などで穴というか、自分が隠れるだけの家を作る。昼間はどこかで、ゆっくり眠っているのだろう。そして夜になるとまた、あちこちで食事。そんな生活もいいものかもしれない。

11月30日、先週末は感謝祭の休暇で、論文のプレプリント更新が止まっていた。その分だけ、週明けには多めに公開されることになる。当然、目を通す時間も余分に必要となる。こういう日には、論文タイトルや著者などは流し読みとなる。何となく目を画面に泳がせて、パッと引っかかるキーワードがなければスクロールダウン、その繰り返しだ。何となく気になるものは、何気なく気になるもので、スクロールダウンした後で「?」と思い返して、スクロールアップすることもある。結構、そのパターンで重要なプレプリントに遭遇する。光るオーラが違う、という感覚だろうか。オーラって何やねん?と、書いてから思った。さて、今日もゴロゴロと文献が引っかかった、大漁だ。

11月29日、日々の出来事は、ときどき日をズラして書き込むことがある。大学教員は論文で名前も所属も公開しているし、教員紹介などで顔写真もデカデカと出ているので、プライバシーも何も存在しない ... 存在し辛いものなのだけれども、どこどこで誰と会ったとか、そのまま書いてしまうとマズい場合もあるのだ。あるいは、毎週の決まった時間にどこかへ出向くことがバレてしまうと、日頃からの悪行がたたって、隕石が落ちて来るかもしれない。さて、今日ここで書くのは久々に氷に乗ったということ。もっと早い時期に乗りたかったのだけれども、ギックリ腰になったり、突然の来訪者があったりと、色々あって延び延びになっていたのだ。今年の内は休暇(週末への仕事ツケ回し日)もたくさん残っているから、たびたび乗ることにしようか。

11月28日、平日に休暇を取って遊ぶと、ツケは必ず週末に回って来る。結局の所、それは週末の人混みを避けて、平日の閑散を楽しめるということに過ぎない。というわけで、今日はツケ潰し、溜まったものに取り組む。1年は長いようで、実はもう年明けまで間もないのである。若さというのは素晴らしくて、高校生はこれから追い込みに入って、どんどん受験へと向けて力を蓄えて行く。そして試験会場でその全てを ... いや、一部を余裕で吐き出すくらいの力配分でちょうど良い。だいたい、良い記録というものは余裕がなければ出ないものだ。などと、あれこれ考えつつ仕事を終えて、さあ帰宅。道中、電車が駅前で非常停止する。なんだ?と思ったて運転手の無線に聞き耳を立てていると、どうやら良からぬ振る舞いをした乗客が居たらしい。密閉空間は気が抜けないものだ。

11月27日、レーザーハープという楽器?がある。目の前にレーザー光線の柱が立って、それを遮ると音が出るという、一種の鍵盤のようなものだ。レーザー光線が弦のように見えるから、ハープという名前を付けてあるけれども、演奏のスタイルとしてはオルガンの脚鍵盤の使い方によく似ている。「幻想惑星」で有名なシンセ作曲家の大御所が使っている動画が YouTube に上がっている。これを最初に見た時には、レーザーそれぞれに受光素子を割り当ててあるのだと思ったけれども、実は手で遮った光をカメラで受けて、そのタイミングで弦の場所を特定するという、とても巧妙かつ簡便な仕組みになっていた。楽器として何か良い特性があるかというと怪しいのだけれども、ビジュアルにはとても楽しめるものだ。

11月26日、野菜や果物の皮は、捨てる部分。以前、インドに行った時には、こういうものも道路にどんどん捨ててあった。見た時には、衛生上どうなのだろうかと思ったのだけれども、強烈な太陽と温暖な気候の下で、見る間に分解されて土埃となり、どこかへと姿を消すのであった。ブラジルの農村でも似たようなものを目にして、そうか、これこそ炭素循環なのだと理解するに至った。というわけで、このような植物由来のクズは、干した後で堆肥 box へと放り込むことにしている。(干さないと腐敗が酷くて大変なことになる。)夏の間は、どんどん熟成?して土となる。冬は、乾燥したまま ... でもない、発熱していて、落ち葉が朽ちるように変化して行く。細菌の働きが、自然を支えているのだと気付かされる。

11月25日、海の幸のシーズンとなって、貝が色々と並んでいる。貝殻もいろいろ、硬い殻、巻いている殻、平たい殻。これらは、いつ頃から身につけているのだろうか、何億年も前の海に既に捕食者がいて、身を守るために硬い殻を背負ったのだろうか。さて、この殻、叩き割ろうとしても、そんなに簡単には割れない。焼くとカリカリに割れてしまうので、有機物が絡んでいることは確かだ。雨ざらしにしておいても、何年かで風化して割れやすくなる。ただし、放置すると何年でももつ。貝塚など千年以上そのままだ。こういう、風化しかかった殻はすぐに割れる。手で持ってもボロボロと崩れる。こうしてまた、水に溶けて海に戻るのだろう。そしてまた貝殻になって?それとも堆積する方が多い???

11月24日、集中講義、とびとびの3日間の日程を終了した。Zoom での実施ということで、孤独な戦いとなるのか?と思っていたけれども、色々と質問してもらえて、実施する方からは楽しい集中講義となった。途中、準備に穴のある所があって、しどろもどろした箇所も幾つかあって、蛇足というものには十分に気をつけてから発言しようと、意識を新たにする得難い経験でもあった。いつものことなのだけれども、日頃から発声がいい加減な状態で話しているので、半日の講義で声が荒れて来る。この辺りは、今更鍛えても仕方ないかなーという所で、まあ余分に喋らないことが大切なのかもしれない。

11月23日、祭日なのだけれども、いや祭日だからなのだけれども、大学は学生の楽園と化している。どのように楽園かというと、好きなように文献を読み漁るという楽園だ。おおよそ学問の最先端?には、お手本がない。既知と未知の境界を広げて行く作業が研究なので、手本などあるはずが無いわけだ。そういう中で、とりあえず辻褄の合っているのかどうかわからないような、断片的な情報をつなぎ合わせて行く作業に取り組むことになる。ピースが多いほど、パズルは解き易くなるものだ。常勤の研究者も、そのように楽園を楽しむことが理想ではあるのだけれども、一定の時間は別のことに費やす必要が出て来る。そうなる前に、どうぞ思う存分、楽しんで下さいな。

11月22日、大学の周囲は、至る所に急斜面がある。断層がそのまま崖のようになっている場所や、斜面を開発した結果として、平らな部分を作った分だけ急な斜面を石垣やコンクリートで何とか支えるというケースなど、さまざまな状況となっている。よく見て回ると面白いもので、誰も立ち入れないような場所に見えて、実は立ち入る道があったり、道はあるのだけれども途中で封鎖されていたりする。昔は通れたのかな?とも思う。斜面の下がすぐ道路になっている場所では、最近になって工事が始まった。木が生えていた場所を、次々と切り払っている。これまで、何も見えなかった場所が開けてみると、ああ、こんな位置関係になっていたのだと、ハッとさせられる。この後、どんな風に仕上げるのかな?

11月21日、ギター弦で知ってびっくり、ずーっとオーガスチンの青ばかり使っていたのだけれども、上の3弦は黒だろうと赤だろうと青だろうと、同じ弦なのだそうな。大昔にギターを買った時に、その時に張ってあったのが伸び伸びの黒弦で、それは酷い音だったので直ちに青弦に張り替えて、以来ずーっと青ひと筋。いや、途中でギターに触らない時代(?)が 20 年はある。それはともかく、黒弦はローテンションだと思い込んでいたのが何とも言えない。さて、ナイロン弦の上3本は、どの会社のものでも憎たらしいほど強靭で、まず切れることはない。ギターのフレットの仕上げがマズいと、段々とフレットの所から摩耗して切れることはあるのだけれども、それはギターが悪い。よく、ギター弦は伸びる間が良い音で、伸び切ったら音が死ぬという話も聞く。伸びることによって線密度が微妙に変化することは確かだ。でも、音が死ぬ?かというと、そんなことはないと思う。色々と物理的に検証したい所だけれども、こういう噂話が飛び交うのも、音楽の楽しみの一つだろう。

11月20日、乾物が発掘される。ラウス昆布だ、いい具合に粉を吹いている。カツオのパッケージも出てきた。ダシを取るしかないではないか。というわけで、一番ダシ、二番ダシ、それらを混ぜて合わせダシ。ダシだけでは味付けにならないので、味醂と醤油を煮切って、ダシと合わせる。これがあれば、どんな料理でも不味く仕上がることはあり得ない。今日は、半生うどんを茹でて、熱い麺にぬるいダシをかけて食す。半生うどんは、何度も書いて来たことだけれども、事前にほぐしてはいけない。麺が折れる。熱湯に放り込んで、しばらくすると浮いて来る、その時に優しく触れて、自然にほぐれるのを待つ。いちばん外側に熱が通ると、もう折れないので少しは力を加えても大丈夫だ。うどんの打ち粉は、湯にとけてしまって、最後は流し捨てることになる。あまり強い火で茹でると、湯が飛び散って辺りを汚してしまう。麺類は、総じて静かに沸騰するくらいが、ロスも少なくて香りも良く仕上がる。

11月19日、今年は就職のお世話をする係を受け持っていることから、企業の方と連絡を取ることもポツポツとある。就職する世代の人口が段々と減っているという実情もあってか、いやそうでなくても、これからを担う人材というのは社会の宝でもあるわけで ... なんて言い始めると、そろそろ視点がマズいのかも知れない。まず考えるべきは、職を手にしてこれから働くそれぞれの人々の幸せであって、それが職場とうまく整合が取れて、周囲の人々も関連する人々も、プロダクツを手にする人々にも幸せが及んで ... いやいや、それもまた一種の信仰のようなものなのだろうか、経済には見えざる手というものがあって、自然な選択を通じて最適化されるもので ... う〜ん、どうにもならない。やっぱり、文章にまとめるという作業は、視点をひとつ、しっかり固定しないと難しいものだと実感したのが、今日の日記を書いていての成果であるだろうか。

11月18日、ギターの左手、小指は他の指に比べて細いので、弦を外さずに押さえることが、けっこう難しい。少し斜めに傾けると、弦との接触面積が増えるので、外すことは減るのだけれども、隣の弦に指が触れてしまう。触れないように指を起こす時と、寝かせる時が混在すると、その分だけ無駄な動きが増えてしまって、左手がバタバタする。若い内は、このバタバタを体力でカバーする余地もあるのだけれども、歳と共に段々と動作が緩慢になって来るので、そんな体力に頼り切った演奏はできなくなる。というわけで、フォーム改造、気力で小指を弦の真上に一発で着地させる。他の指が弦を押さえている時でも、いつでもそのように理想的に押さえることは難しいけれども、諦めずに弦と付き合うことにする。あ、弦が切れた。バカ力で弦を押さえ続けていたのかも知れない。

11月17日、集中講義第1日目。集中講義なのだけれども、今日の午前午後の後は来週となる。遠隔にて実施。さて、どのように実施しようかなーと思って、スライドを作成し始めて、ふと思うことあり。ぱぱぱっと、スライドをめくって見せて、果たしてテンソルネットワークについて何か理解してもらえるのだろうか?と。テンソルネットワークは、一度それを身につけると様々に応用が効くものだから、身につけること、その入り口に集中した方が良いのではないかと感じる。あるいは「あんな阿呆な研究でも、研究者として身が立つのだ」という、そんな情けない状況をそのまま見せて、それならオレでもできるじゃんか?と意欲を持っていただく、そういう講義があっても良いではないか、と。この文章、受講者に読まれても構わないし、むしろ読んでほしいものでもある。テンソルネットワークは、まだ始まったばかりだ。

11月16日、アメリカが冬時間になって、プレプリントの更新が1時間遅い、そんな11月。この更新作業には人手が噛んでいるので、毎日少しずつ公開時間に変動がある。今日は、少し遅い目だっただろうか。火曜日には週末に届いた論文もドッサリと出てくるので、他の曜日よりも論文数が多い。そういう場所では注目度が落ちかねないので、テンソルネットワークの人々は他の曜日を狙ってくることが多い。密度行列繰り込み群、DMRG は既に汎用の道具としてツール化されているので、中身について詳しくなくても使える状況にある。そういうわけで、火曜日には比率としては DMRG が目立つことになる。今日は特に DMRG が多くて、ちょっとびっくり、な感じもある。最近、Numerically Exact DMRG という言葉遣いも時々目にする。ちょっと違和感のある言葉にも思える。

11月15日、今日はお昼から東京大学のセミナー、遠隔で1時間。ここで、ちと不思議に思うのは、こういう時には出張申請も兼業申請も出す必要がないということだ。いや、そういうことは昔からもあって、ちょっと向かいの棟とか、徒歩で行ける市内の別の大学で1時間くらいセミナーをやる時には、別に出張と言うまでもない、そんな感覚だったな〜とも。思うに、社会の変化にシステムが追いついていない事例の一つなのではないかと、そんな気もする。じゃあ、教育研究に充てられる時間をちゃんとカウントできるのか?というと、そういう方向へと突き詰めて行くと恐ろしい未来が待っていることは自明なので、やっぱり昔ながらの曖昧なシステムのままでいいやんか、というところに落ち着いた。

11月14日、ここ2年ほどの閑散とした大学の風景は、いろいろと昔の情景を映すスクリーンのようなものかも知れない。誰も座っていない座席を眺めると、背中が浮かぶ、そこでノートを取っていた姿が見える。何も描かれていない黒板には、演習問題を解いて解説してくれた、その様子が記憶されているかのようだ。バーベキューをしていた場所は、今はだだっ広いまま。何人がその場所を囲んでいたことだろうか。その中で控えめながら、しっかりと存在感があったことなど、思い起こすことは尽きない。近年になって、少し広い視点から考え直すこともある。より楽しめる形で研究室というものを考えておけば、より充実した感覚を得てもらえたのだろうか。時は進むばかりなので、教えは今に活かすことが大切なのだと、そうも感じる。答えのない道を、今後も歩むことになるだろう。

11月13日、もう世の中、コロナ騒動は終わった感じで、新幹線もまあまあ人が乗っている。でも、田舎の在来線特急はそれほどでもない。東京へと行くようなビジネス需要はもう復活済みなのだろうか、まだ観光じゃんじゃんという感じではない。いや、復活してはいるのだけれども、外国からの訪問客が耐えているだけなのかも知れない。観光名所は外国と化していたわけだ、ちょっと前までは。空港がちょっと止まるだけで大騒動していた世の中が、実におかしいものだ。今は、空港閉鎖があってもニュースにするほどでもない、そんな感じだろうか。で、田舎の列車は生活の足でもある。土曜日も高校へ通う生徒は、結構いるようだ。あちこちの制服を見かけるのが興味深い。だいたい、歴史のある高校ほど田舎っぽい服のままだ。

11月12日、いつも飲んでいる黄色いラベルの紅茶、どういう製品なのだろうかと調べてみて、まず茶葉が主にケニアやインドネシア製であることに気づいた。茶の木は暖かい場所であればどこでも育つから、ケニアもなるほど、インドネシアはますますなるほど。さて販売は外国の会社なのだろうかと調べてみると、多国籍企業の日本法人の製造であった。それはそうか、パッケージは完全に日本語だし、どこかに工場があって包装した製品が出荷されるのか。ではその法人は?リプトンの創業者を検索して、戦前に現在の法人に買収されたという経緯に行き着いた。こういう話は、昔であればアフターファイブの酒席で延々と交わされる口コミ情報だったのだろうけれども、現在は検索すれば出てくるわけで、世の中だいぶん変わったなーと思う。

11月11日、弦楽器には厄介な所がある。弦が複数あって、音を出したい弦には振動が続く条件をちゃんと整え、音を出したくない弦は放置するか、それとも指を意図的に触れて振動しないようにする。放置した弦、特に解放弦は外部の音を拾い易いので、自分ひとりで演奏するときはもちろんのこと、合奏の場合にはなおさら、余計な振動が誘発されないよう気を配る必要がある。そうかと思えば、解放弦が拾う音を残響のように音楽的に利用することもあって、特に弦が多い10弦ギターではこの機能・現象を意図的に利用したりもする。むかーし昔の、リュートの頃の弦楽器は響きっぱなしで演奏していたのかも知れない。あまり転調することもなかったし、最初から最後まで同じ響きという音楽は、それはそれで楽しい。で、バッハの頃になるともう、消音抜きには演奏が立ち行かなくなる。うーん、完璧な消音は無理だけれども旋律はどの声部も拾いたい、この悩みは最前線が尽きない科学とも、似ているものかも。

11月10日、MacOS がアップデートされる毎に、メールのファイル構造がややこしくなって来ている。文化が変わりつつあるというか、メールというものは着信して見たら過ぎ去って行くものであって、溜め込んでおいて後から履歴をチェックするような、そういう使い方はしない、そういう世の中なのだと実感する。このように管理するのは、ひとつはセキュリティーの強化なのだろうか、誰でもパッと掘れるような形でさらしておくと、外部からでも容易に全部持って行けるということなのかもしれない。何かシステムトラブルに遭遇して、昔のメールが全部消えたら悲しいなーと、一瞬思って、その後ろ向きな発想に恥じた。自分で全部消してしまって、今日を生きる、明日を生きる、そういう日々を過ごしたい。

11月 9 日、鉄板の上で何かを焼く時には、鉄板という固体と食材の間で、どのように熱をやり取りさせるか?が問題となる。最も扱い易いのが油だ。分子量が大きくて肉が焼ける温度では沸騰しないので、鉄板と食材の隙間に浸透して熱を運ぶ。また、食材から発生した水蒸気を油のバリアで閉じ込める働きもある。水も同じように使えるのだけれども、蒸発が速いという難儀さがある。塩を振っておくと、多少の沸点上昇があるけれども、油ほどの高い効果は期待できない。油をうまく呼び込むには、食材の表面に粉を振っておくと良い。粉の味になってしまうのが難点かもしれない。スパイスの粉でも構わない。唐辛子の粉を使うと、激辛との戦いとなる。自宅に鉄板のカウンターを設けてみたいものだと、常々思うのだけれども、あれは難しいよなー。

11月 8 日、人出が多くなって来て、買い物のスキルを思い出す必要が出てきた。コロナ騒動の折には、売り場が閑散としていて、ゆっくり買い物できたのだけれども、人が多くなって来ると、一撃離脱型の素早い買い物が必要となって来る。誰の迷惑も考えずに、図々しく買い物すれば良いのだろうけれども、前後左右からの無言の圧力を感じるだけで、そこから脱出したくなってしまうのである。それに、1分そこに居るだけで、目の前の人数に 100 をかけたくらいの数の経費がかかってしまうのだから、サッサとできるものはサッサとして、経済を、家計を回さなければならない。このあたりの煩わしさがあって、クリックするだけで売買が完了してしまう通販が伸びて来たのだろう。その中間はあるのだろうか、店舗の前でクリックして、用意ができたら通知が来て商品を受け取るとともに自動決済という、そんな世の中が来るのだろうか ....

11月 7 日、何年間も鉢に植えっぱなしの木を植え替えしようとして、抜こうと鉢をひっくり返しても何をしても、全くビクともしないことがある。根をハサミで切って小さな根鉢にして抜き去る方法がないわけではない。いちばん簡単なのは、鉢を叩き割ってしまうことだ。割った鉢は、エポキシ樹脂で簡単に修復できるし、接着したからといって機能が悪くなるわけでもない。エポキシ樹脂は耐候性が強くて、ボロボロになったりしない。接着の際に、破片を入れる順番を考えなければ「入らないピース」が出てしまう。このことから、速く固まってしまうタイプのエポキシは良くなくて、作業時間が確保できる接着剤を用意しなければならない。接着剤は、たっぷり使う方が失敗がない。はみ出た部分はそぎ取るだけのことだ。

11月 6 日、LANS Box という名前の食堂が神戸大学生協にある。LANS というのは、近くの学部の英語名の頭文字を寄せ集めたものだ。位置的には文学部がいちばん近くて、次は農学部と理学部。利用者も、おおよそその辺りの学生・教職員と、自然科学総合研究棟や幾つかのセンターで過ごす人々だ。まれに文学部食堂という名称を目にすることがある。これは正式な(?)名称ではないので、見かけたら一応は指摘することを検討する。訂正まで求めるものではない。誰がどのように呼ぼうと、それは個人の勝手であるからだ。この食堂は、ハラールメニューを提供していて、利用者も順調に伸びて行ってたのだけれども、この2年間の利用低迷でハラールも何もかも吹き飛んでしまった。大学は用がなくても来て楽しむ所だ、という価値観も消え去った今、どれだけ利用が復活するかは未知数だ。食堂それ自体が楽しい場所であるよう、何か工夫が必要なのかもしれない。

11月 5 日、夏前から並んでいた「立て看」が撤去されるらしい。いまの時代に、看板がどれほどの効果を持つかは未知数だけれども、まあ無許可無断であるものだけが「立て看」と呼ばれるべきものだろうか、撤去というハク付けをしたものかどうか、一応は考えた上での撤去なのだろう。さて、撤去の通告があってから、設置側が看板の前にコタツを敷いて居座り戦術に出た。公道ではないし、個人の市有地でもないから、いきなり警察の出番というものでもない。どういう顛末になるのか、さて。我々、下々の者には垣間見えないところで、ゴニョゴニョと議論されているのだろう、と邪推しつつ、その場を立ち去った。

11月 4 日、むかーし、鉄筋コンクリートの建物の配筋図を自動設計するコンピュータープログラムの作成を手伝ったことがある。ということは、何度も書いてると思うのだけれども、時々思い出しては、ツラツラと書くのである。四角い建物であれば、法令通りに鉄筋を用意すれば、特に力学的な強度計算しなくても自動的に必要な強度が保たれる。おそらく常に充分過ぎる強度となっているのだけれども、これはどのような工業製品でも同じことだ。大学が終わってから、カフェの2階にある IBM PC が並ぶ部屋へと詰めて、そのまま深夜までプログラムと睨めっこする、そんな仕事を初夏頃から夏まで務めた。そのまま続けると、その仕事に吸い込まれてしまうのではないか?とも思う所があって、秋には辞めてしまった。続けていたら、プログラマーになっていただろう。

11月 3 日、秋祭りの選挙が終わって静かな祭日となった。平日と同じように授業している大学もあるのだろうか。毎度の祭日の如く、海外は関係なく動いているので、今日もプレプリントをチェック。幸い?あまり大きな動きはないようだ。来年に新しい講義を持つから、じっくりと計画でも立てようかな〜と。英語で実施なんて、どうなんだろうか?と思う。もともと理系科目は、何語で講義しても難易度は変わらないのではないかと思う。教科書も洋書にしてしまおうか、なんだかんだで、英語で授業をという、そんなご意向も耳にする今日この頃だ。日本語で講義したとしても、使われる用語の半分くらいは英語になってしまうのだから、何語での講義というものに意味があるのか?というと、ないような気もする。ま、英語で行くか。

11月 2 日、ずーっと Mac の調子が悪くて、どうしたもんだろうか?と思案する日々が続いて、いよいよ意を決して PROM クリア。副作用もないわけではない操作なので躊躇していたのだけれども、取り立て何の悪さもなく作業終了。それからは?まあまあの調子に戻った。どうして PROM の中身くらいで、あれほど OS の調子が悪くなるのか、その原理がよくわからないのできみ悪いのだけれども、ともかく普通に作業できることの方が大切だ。そして、作業マシンが一台というのは、やっぱりまずいのかなーとも思い直して来た。大昔の Mac は不安定極まりなく、作業マシン 3 台で何とか凌いでいた、なんていう時代もあったっけ。そもそもハードディスクの信頼性が地に落ちて低かったなー、あの時代は。→→→ 一瞬、改善したかに見えたけれども、即座に再び沈没。再インストールなのだろうか?

11月 1 日、比例復活の制度、なかなか面白いものを考えたものだと思う。選挙区の有権者数がデコボコしているので、多くの有権者がいる所ほど死票も増える。そこを、うまく比例復活しようという制度でもあって、大票田で頑張ろうというモチベーションの維持にもつながる。惜敗率の計算がちょっと面倒だけれども。立候補者にとっては、どこの選挙区から立候補するかが死活問題にもなるし、思わぬ当選ということも出てくる。まあどうでも良くて ... 良くないんだけど ... ともかくマトモに日常が過ごせるような、そんな行政の執行につながる政策を打ち出して行って欲しい。思うに、政党間の意見の差異よりも、国会と実際の行政窓口の距離の方が大きい。初等中等の学校教育もその一つかも知れない。大学の教育は ... いや大学は研究する所なのだ。背中を見て育ってくれれば、それでいいのかもしれない。

9 月と10月の1行日記