← 11月と12月の1行日記
10月31日、選挙へ行く。比例代表の用紙に、ナントカ党と書くところでミスった。党という漢字の下側は「ル」だ。ところが、手が勝手になぞったのは「ワ」、ちょうど吊るすという文字の下半分のようなものを書いてしまった。ありゃりゃ、ええと、こういう時は ... 消しゴムないし、以前確かめた時は斜線の訂正は有効だったっけ ... と慌てつつも慌てる訳には行かず、少し濃い目に正しい漢字を上書きした。恐らく余分なものの書き添えでも、無駄なものの書き添えでもないので、有効票なはずだ。無効になってたら社会にごめんなさい。だいたい、党なんて書かなくてよかったのだ、ナントカだけで有効票なのだから。今度からそうしよう。
10月30日、週末の出勤、いや勤務日ではないので単に大学へ行っただけのことだけれども、ようやく仕事を終えて海辺の我が家へと帰り着く道中で、立候補者の最後の演説の場面に遭遇した。支援者がそれぞれに取り囲んで、かといって動員があるという風でもなく、個人個人で応援している、そんなマイク置き前の演説だった。午後8時を回って、拡声器を手放した候補者の顔が実に明るく、これはイケると直感した ... いや再確認した。明日は安心して投票に行けるな〜と思いつつ、改札をくぐって帰途についた。日付が変わるまでは記事の書き込みとか、いいねとか、リツイートは良いそうなので、先程の感触を思い出しつつ、公職選挙法に触れないよう、あれこれと。日付が変わると、うかつにいいねもできない、というのは用心用心だ。
10月29日、ちょっと大阪大学へ立ち寄る。銀杏が黄色くなる時期で、ああ大阪大学の秋という感じだ。昔は、銀杏があんなに大きくなかったような気もする。○十年も経過したので、その間に育っているはずだ。そういえば、木々の間隔が狭い。十分に育った時に適正な間隔ではない。長い時間を経過する、その間ずっと綺麗な庭というのは、なかなか設計できないものだと感じた。桜の木が植わっているスロープは、ローラースケートで遊んだ場所でもある。あの頃は4輪のローラースケートを楽しんでいた。今はすっかり、ローラーブレードが全盛だけれども、4輪のものはそれなりに面白い部分もある。エッジを傾ける、その感覚もかなり違っていて、小回りし易い。いま買うとしたら、どっちかなー。
10月28日、落ち葉が吹き溜まった場所は、何だか熱を持っている。雨上がりに湯気が立っていたりもする。幾重にも折り重なる葉が断熱材になっていて、中で分解によって発生する熱を封じ込めているのだ。化学反応は温度が高くなると速くなるので、どんどん正のフィードバックがかかる。ある温度に達すると、生物学的な分解は抑制される。そこに油脂などがあると、その段階でも酸化が進み、炎天下では発火することもあるのだそうな。まあ雨も降る日本で、自然発火というのはあまり聞いたことがない。落ち葉の山をひっくり返すと、本当に中から熱気を感じる。そして、たくさんの生物が慌てて退散する姿を目にする。邪魔をしてしまったかもしれない。こうして、様々なプロセスを経て、堆肥ができて行くのだろう。
10月27日、秋になると、無駄な発芽に遭遇する。春のような環境なので芽は出るのだけれども、やがて冬がやってきて、いつの間にか姿を消してしまう、そんな下草の発芽だ。こういう発芽をしなかったものの中から、次の春に芽が出てくるのだから、自然の成り行きはうまく?できているものだ。ある程度の条件の悪さが必要なのかもしれない。地表に葉を広げてロゼッタを作る下草は、この時期にはまだ目立たない。いつの頃に発芽するのか気づかない内に、ロゼッタになっている。木々の中にも、無駄に芽を伸ばすものがあって、若葉が出てくるのだけれども、すぐに落葉する。それだけ勢いのある木なのかもしれない。最終的に生き残れば良いという、生物進化の奥深さを感じる。
10月26日、パソコンの世代からずーっとコンピューターに接しているので、という前置きが適当なのかどうかは不明だけれども、メールとかメッセージとかは着信したら必ず読んで、必要があればレスポンスする慣習が身に付いている。但し SPAM メールなどは除く。そして、その慣習のままに他人のレスポンスを期待すると、もはや世の中、そのようではないという事実に気づく。スマホを見ている時に、その時に着信したものだけを見て、それ以外は流れ行く水の如く無視する、そういう方も結構いらっしゃるのである。そこへ向けて、何度でも何度でも何度でも、地道にメールを送る。ひょっとすると、そのアカウントに着信したメールは読まれていないかもしれない。でも、繰り返しアチコチのメールアドレスに送っていると、一定のレスポンスがあるので、やっぱり読まれているには読まれているらしい。【重要】など、メールのタイトルを段々とアップグレード?しつつの作業だ。
10月25日、雨だ。雨だ、雨だ。ようやく普通の季節感が出てきて、秋は時雨、段々と木枯らしが吹く。その木枯らしの葉は、最後はどこへ?都会だと、回収されてゴミになる、と理解したいけれども、そんなに沢山のゴミが出たら回収車がパンクする。ほとんどは、どこかの地面に吹き溜まるか、水面に落ちて流され、やがて分解されて行く。もともと CO2 から植物の骨格となったセルロースが、再びカビなどの力によって分解されて CO2 に戻る。この排出量はすごく多くて、人間様が多少の CO2 を加えようと差し引こうと、主要な寄与とはならない。むかーしの地球はどうだった、これからの地球はどうなって行く?今は氷河期と氷河期の合間とも聞く、誰も先々のことは知らない。で、今日の雨は雨として楽しむ。
10月24日、街中はもう普段通り。演説会場は黒山の人だかり。商店街の練り歩きは、もはや秋祭り。都会では、今年も秋祭りが中止された所が多いので、今回の選挙が実質的に秋祭りとなっているわけだ。昔は衆議院選挙になると、事務所で「うどん」が振る舞われたなんていう事もあったっけ、今では冗談のような話だ。田舎で暮らしていると、玄関のピンポンが鳴って、議員秘書さんから議員名入りの洗面器を受け取ったということも。世の中随分と変わったなーと思う。SNS 全盛時代で、議員さんのアカウントもさぞかし賑やかだろう?と、思いきや、案外、静かだったりする。SNS を積極活用して、どれだけの票に繋がるのか?という疑問点は、確かにあるのだと思う。コンテンツはしっかり、交流はほどほどに、そんな感じだろうか。
10月23日、スパゲッティーが半分くらい、一食の半分くらい残っていたらどうする?次の乾燥パスタを買い求めるまで置いておくのも何だし、パスタとして食べるのもちょっと少ない上に面倒くさいし、さて ... と思いつつ、スープに突っ込んで食べることにした。普通に、少し水気を多くして作ったスープに、最後にパスタを加えるだけ。下手をすると、固まってしまうので、互いにくっつかないように、3 分くらい経ったら一度、ほぐす。それでおしまい。これくらいの量ならば、パスタから出てくる塩気も、そのままスープの塩味にして何の問題もない。パスタが伸びようと堅かろうと、全く問題なし。スープの力は偉大だ。このパターンなら、乾燥麺は大体、何でも使えてしまう。さて、新しいパスタを買って来よう。
10月22日、プレプリントを眺めていたら、3次元イジング模型が厳密に解けたという題目のプレプリントが転がっていた。プレプリントはプレプリントなので、正しい論文かどうかはわからない。話題性のあるネタであることは間違いない。こういうのが、時々、ぽつぽつと出て来るのがプレプリントサーバーの面白いところでもある。やっぱりみんな、未解決問題には敏感なわけだ。解けない、解けないと教わって来ているので、解けないと思い込んでいるだけなのかもしれない。教育効果は、そういう風に抑制的に働いてしまう事もあるので、未解決だ未解決だとか、世紀の大問題だとか、そんな言葉をセミナーで言い含めない方が良い。確かファインマンの Statistical Mechanics に、3次元イジング模型を解いてみよ、という演習問題があった。あれくらいの調子でいいのかな。
10月21日、密度行列繰り込み群が世に出たのは 1992 年、実際に形になったのは 1991 年の後半だろうか。この頃、あちこちの大学祭で、かの有名な宗教団体がイベントを開催した、そんな歴史もある。私は音楽関係の部活動をしていたので、大学祭の時期はいつも合宿で、現役の頃に大学祭というものを経験したことがない。大学では春にもちょっとした祭りのようなものがあって、その時はその時で、毎年のように部費稼ぎのアイスクーム売りに明け暮れ、これまた祭りに参加したという気分ではなかった。演奏会が活動の集大成であって、実質上はそこへ向けた練習が部活動の本質だったような気がする。部活の先輩方の一部は、仕事をリタイアした後に、再びバンドを組んで音楽活動をしている。そういえば、今の時期はどこからともなく音が流れて来ていた、そんな大学の光景がまた戻って来るような、そんな予感がする。
10月20日、論文のプレプリントを眺めていて思うことは、素粒子系の論文は急には増えないということ。対して、物性の論文は増えっぱなしだし、量子物理学も量子情報の流行もあって、グングン増えて来た。素粒子理論は急には進まない、それは素粒子実験の大きな新発見が絶えているということなのかもしれない。どちらかというと、宇宙物理学の観測事実の方が集まる時代となって、様々な物理量の上限値・下限値が見えるようになって来た。ずーっと増えも減りもしないのが原子核物理学で、これは世界的な学会の折にハワイに集結したら尽きてしまうというサイズの小さなコミュニティーによって支えられている。
10月19日、総選挙が「公式に」始まった。辺りはにわかに賑やかとなり、夏の間のひっそりとした雰囲気がガラリと変わった。これから投票日まで、毎日のようにどこでも候補者の姿を目にすることになる。ついでに、参議院や、地方議会の議員なども応援に駆けつけて、華やかな様相を呈する。さて、そういう人々に苦学生が目立つことを、ホンの短い間で伝えることにしている。真摯に聞いてくれる方あり、目が泳いでいるというか、関心なさそうにしている方あり。耳を傾けるかどうか?というのは、党派には関係しないというのが経験から学んだことだ。どちらかというと、現職議員の方が聞き耳を立てる余裕がある。有権者が議員と触れ合えるのもドブ板選挙の一環なのだから、何でも訴えかけてみるのである。
10月18日、選挙になって、放射線の言葉も時々スピーカーから流れて来るようになった。放射線と放射能は一部重なりながらも区別する言葉なのだけれども、細かいことは抜きにしよう。放射線もウィルスに似た所があって、「ゼロ放射線」は「ゼロウィルス」と同じくらい無意味である。自然に存在するものだから、ゼロにはできない。では許容するのか?というと、それは種類によりけりだ。α線を出す放射性物質が、固体に封じ込められた形で砂のように微細な粒子で飛んで来るものは、どんなに少量であっても吸い込みたくない。まあ、吸い込んで発病するリスクも確率的なもので、普通の砂にも混ざってるから、これもゼロは難しいか。他方、カリウムのように生体にとって必要なもので、一定の時間で排出されるものは、それほど気にする必要はない。もちろん沢山はダメだ。結局の所、数字の出てこない議論は不毛な印象操作かと、思ってしまうのだ。確かなことは、1シーベルトは絶対に浴びたくないこと。
10月17日、日曜日だけれども、あれやこれやとサーバーの作業にやって来る。遠隔で出来れば良いのだけれども、当のサーバーは遠隔で入れるプライベートネットワークの外側に置いてあって、かつ遠隔では入れない大きなプライベートネットワークの中にある。何のこっちゃ?と、思われて当然の書き方だけれども、要はサーバーの近くにやって来ないとファイルにアクセスできないわけで、セキュリティーとしては比較的堅い。あくまで比較的ではあるけれども。ブツブツとつぶやきながら、登録をしたり登録抹消したり、あれや、これや。時折、北風が強く吹き付ける。今日の海は波が高いんだろうなーと、心は海辺の自宅に、指はサーバー端末に。
10月16日、野菜が届く。毎度の如く、まず葉物野菜から頂戴する。今回は、珍しく葉付きの生姜が入っていた。これはどうやって食べるのだ?と、色々と調べて、甘酢に漬け込むことにした。里芋も入っていて、これは芋の子を洗うように洗って、皮を剥いて軽く下茹で、そのダシと共にじっくりと本茹で。他に入っていたのは玉ねぎ、ジャガイモ、ピーマン、甘唐辛子、ネギなど。どれも野菜の味がシッカリとしていて、歯応えも充分だ。産直の野菜は、畑から収穫したばかりという感じが良い。普通に流通している野菜も収穫したばかりというのは同じなのだろうけれども、製品としての方向が違う。両方ないと困るのは確かだ。
10月15日、潜水艦が新たに進水し、「はくげい」と命名された。白鯨なのだそうな。その進水式の様子が報道されていて、潜水艦らしくない浮かび方をしているのにびっくりした。運用されている潜水艦は、浮上しても、なんとなく沈んでいるような、そんなギリギリの状態で浮かんでいるのだけれども、進水したばかりの潜水艦は、水面にペットボトルが浮かんでいるのではないかと思わせるほど、軽々と浮かんでいる。ということは、これから、あれやこれやと積み込んで行き、段々と実際の運用に近い形まで重くなって行くのだ。整備のために、ドックに上げられている潜水艦も、上がっている間は全てが見えるので、何となく軽いように見える。あ、スクリューは外してあるか、見えないようになっている。ひょっとして付いてないのかも?
10月14日、「神戸大学 商標登録」で検索すると、うりぼーとロゴマークはヒットするのだけれども、大学の名称自体の登録番号は出てこない。「東京大学 商標登録」で検索すると、こちらはバッチリとヒットする。神戸大学の略称として使われている神大は、神奈川大学の名称として登録されている。もちろん、以前から神戸大学の名称としても使われているので、そのまま使用する分には何の問題もない。神戸大学という名称がついていて、大学組織でないものは?例えば神戸大学生協がある。また、神戸大学ナントカ部という、学生団体の名称として使われている。これらの使用方法は全国共通だ。では、神戸大学に所属する人が、学外の方も含めて立ち上げた団体は?この辺りからがグレーゾーンとなって来る。検索してみると、アッと驚く業態のものまで、色々と存在するのだ。読み方として、神戸 + 大学ナントカ団体、という切り方の名称だと言い張られたら、なかなか抗弁し辛いものもあるだろうか。今の世の中、大学名は登録しておくのが無難かなーと思う。
10月13日、最近見かけなくなった白熱電球、あれのエネルギー密度はなかなか想像できないのではないだろうか?フィラメントは、サングラスをかければ見ることはできるけれども、ガラスで囲まれているので近寄れない。ガラスの表面あたりでも、充分に暖かさを感じるので、そのままフィラメント表面まで近づくと、どれくらい熱いかが理解はできると思う。そばに紙など近づけたら、間違いなく炭化するか、酸素があれば発火する。あ、酸素があったらフィラメント自身が酸化してしまうか。そのエネルギー放射を支えているのが、あの細い領域に流れる電流だ。導線自体が暖かくなるほどの電流を、あの細いフィラメントに流すのである。熱放射なので、交流電力を接続しても、チラチラしないのが良い所でもある。裸電球、クリア球、今年のクリスマスは、あれで楽しもう。
10月12日、大学とは何だろうか?と思うに、塀がないのが教育機関としての大学の特徴なのだと、そんな気がしている。一応は、関係者以外は立ち入らないようにと書かれていても、実質的には誰でもキャンパスに立ち入れる大学が多いし、立ち入りを制限せずに積極的に公開している所もある。教員は、もちろん教育者なのだけれども、研究を進めることも大切な柱であって、これは大学の中で閉じた活動ではあり得ない。両者の接点である大学院教育もまた、外部の研究者との交流の中で、院生も教員も鍛えられて ... いや、磨かれて行く。言葉遣いは難しいものだ。部活動やサークルもまた、対外的な接触の機会が多いものとなる。ただ、外部から操られるモードになってしまわないように、気を付けなければならない。境界条件によって、独自性が失われるようなことがあるならば、そういう接触は見直した方が良い場合もある。意義ある交流は促進しつつという、微妙なバランスの下で。
10月11日、ようやく曇り。工学部から鶴甲キャンパスへと向かう道の脇には、柿の木が何本か植っていて、毎年のように実をつける。当たり年と、裏の年で実の数が全然違う。今年は、まあまあの実りのようだ。渋柿らしくて、少し色づいたくらいでは誰も手を伸ばさない。いや、伸ばしたらその下の崖に転落する。秋も深まると、透明に熟して汁が落ちる状態となり、カラスのおやつとなる。カラスの空けた穴から、他の鳥もおこぼれを頂戴するようだ。よし、今日は柿を食べよう。そう思い立って、平種無しガキを買い求め、皮を剥いて口に含むと ... 渋い。渋が抜け切っていない。干し柿にすれば食べられるけれども、これはもう肥やしにしよう。袋に入っていた他の柿には、ウィスキーを振りかけて、しばらく渋抜きだ。
10月10日、今頃の朝顔は、根が枯れてしまっていても、先の方で花が咲いていたりする。ツルだけになっても種だけは実らせるぞという、生命力がそこにある。植物は、種を取ろうと思えば幾らでも取れてしまうもので、朝顔もまた例外なく沢山の種が取れる。翌年、とても撒けないほどの数となる。そして、次の年にどんな花が咲くだろうか?と楽しみにしていると、小さな目立たない花でガッカリすることが多い。固定品種ではないのだろう。そうやって、惰性の如く毎年のように朝顔を育てる義務もないのだけれども、ついつい種を撒いてしまうのが朝顔の魅力でもある。初夏にグングン伸びる、あの力強さの方が、花よりも楽しいのかもしれない。
10月 9 日、非常に暑い1日であった。気温は 30 度くらいで、真夏から比べれば大したことは無さそうなのだけれども、空に全く雲がなく ... いや、雲は出ていたのだけれども、海辺から眺める空は太陽の辺りがポッカリと空いていて、夏とは異なる薄い秋の大気を強い光が照りつけ、逃げる場所がないのだ。秋晴れだ! と、散歩に出たのがそもそもの間違いであった、帰り着く頃には汗だく、いや汗は出てもカラカラに乾いてしまっていて、熱中症の一歩手前であった。夕暮れ時になっても、山風が吹かない。海から山へと、夜の間も熱気が吹き上げるのだろうか。雨は?というと、まだ何日か先のようだ。ヨーロッパの秋のように、一気に冬になることはないだろう、海に囲まれた日本では。
10月 8 日、晴れの日が続いて何日目だろうか。今年の天候の特徴は、同じ天気が何日も続くという傾向だ。雨なら 10 日間ずっと雨、晴れたらカンカン照りが来る日も来る日も。どうしてこんな風になっているのだろうか?というと、上層の空気の流れが、そのようになっているからだという答えが、一応は可能だ。でも、どうして上層がそうなってしまったのか?というと、もう少し上まで見るか、あるいは境界条件としての海洋から考えるなど、必要なことは沢山ある。ず〜っと上の方、成層圏の中間くらいでは、今年は流れの東西が逆転するタイミングに該当するのだろうか、少し複雑で弱い流れとなっている。この影響もあるのかなー、ないのかなーと、思案しつつ、流体シミュレーションの結果を眺めるのである。表示されるのは結果だけで、ダイナミクスまではわからないのだけれども。
10月 7 日、大金持ちは寄付をする、という文化は世界に共通するものらしい。巨大な収益があがった場合には、どう足掻いても個人では消費し切れないということだ。高価なものを次々と買い揃えればとは言っても品物には限りがある。大体の場合、高価なものほど対比用効果が小さいものだし、価値観にもよるけれども馬鹿馬鹿しい買い物となる。伸びて来つつある才覚ある人々を支えるタニマチとなった方が楽しい、そんな感覚だろうか。同じように働いて、収入が違うという状況は、自由経済の下では必ず生じる。そういう中で、大昔から自然と営まれて来たのが寄進という考え方なのだろう。経済政策として、累進課税というシステムも存在するのだけれども、税率の高い国と低い国の競争では勝負にならない側面もある。どういう社会へと落ち着いて行くのか、それとも未来永劫落ち着くことはないのか、そんな時代を生きているのが我々なのだろう。
10月 6 日、扁平動物という不思議な動きをする動物が、水辺に居る。理科の教科書に出てくる?プラナリアが、よく知られた例だ。スーッと、何事もなく岩の上を動いて行くのが、何とも珍妙なのだ。単に平たいだけに見える、あの体のどこに、あんな動きを可能とする力学構造があるのだろうか?小さい動物に共通することだけれども、呼吸器官とか循環器が特になくても、フツーに活動できてしまう、そんな例としても面白いものだ。細胞レベルで見ると、実はこれらの小動物の方が我々よりも酸素分圧が高いのだとか。言われてみると、なるほどと思う。いくら肺の面積が広いとは言っても、体の体積との比を取ると、(拡散現象の速さもあって)体が小さいほど酸素のとり込みには有利となる。人間は、ちょっと大きくなり過ぎたのかもしれない。
10月 5 日、統計力学の初学者を悩ますのが等重率という迷信や、ミクロカノニカルアンサンブルという非物理的な設定である。カノニカルアンサンブルやグランドカノニカルアンサンブルに出てくる熱浴というものも、一種の迷信と言って良いだろう。ここで言う迷信とは、さしたる基礎付けなく論理の出発点として、公理のように扱うものを指している。ひとまず信じた上でいろいろと計算してみると、実験的事実とよく合う結果を得る、そんな場合に、これらの迷信は物理的にひとまず信頼しても良いものとなる。その上で、どうしてこんな迷信が使えるのか?ということを考える段階へと入って行く。こんな、ややこしいプロセスが必要なのは、まだ物理に理解が深まっていない証拠かもしれない。遠い未来には、もっとサラっとした学習方法が確立すると信じて、その日まで学問の世界を次の世代へと引き継いで行くのが、我々の仕事なのである。... と、仕事をしているフリをするのが物理屋の日々だ。
10月 4 日、週明けで実質的な新学期。春の新学期に比べても、秋の新学期は危うい季節なのではないかと、用心している。1年の後半くらいから段々と専門科目も入って来て、思い描いていた大学像とのズレが目立って来る時期でもある。大学は入れ物に過ぎないので、自分でいくらでも勉強する自由があるのだと気づくと、気楽に行けるはずだ。大学で教えられることは限られていて、そんなに人生の方向を決めてしまうものではない。まあ、それでも、選択肢は色々とあるので、思うところがあれば身近な人々によく相談することも大切だろう。何事も一人で考え込まない方が良い。但し、意見を聞く場合にも複数の意見を求めることが大切だ。その中から、自分で判断できるようになること。まず自分を守らなければならない。
10月 3 日、海の恵みは有難いもので、海辺では水鳥がたくさん育っている。あんなに沢山の鳥がいても、まだまだ魚が尽きないのだから、どれほどの魚がウヨウヨとしているのだろうかと思う。水鳥も安泰という訳ではなくて、うっかり海に浮かんでいると、鳥の方が魚に食べられてしまうということもあるらしい。そんな水鳥を狙う猛禽も上空を舞っていたり、高い所で周囲を見張っている。波止場には釣り人もギッシリ。港ではお祭りも。イベントも戻って来て、街に音楽が溢れている。鳥のように自由に街を歩く、それでいいではないか。センター街の入り口では、なんだか拡声器で話し続ける人々も。そういえば、もう総選挙が近いのであった。
10月 2 日、何事にも新しい感覚というのは大切なものだと思う。長年、続けて来た事は様式が出来上がっていて、伝統というわけではなくても、ついつい「このようにあるべきだ」と考えがちだ。そういう自らの垣根を取り払ってしまい、今何ができるのか?という本質的なことを考えて行くのは容易ではない。一人でそう信じて行動しても、周囲の理解は得られないのではないか?そう思うと、先例踏襲の無難な道、いや危うい道を選んでしまう。実は、それは硬直化した緩慢な滅びの道筋である。学問も同じ、というか学問こそ、そんな視点が大切で、何かが重要だと言われ続けても、それは変化がなかった証拠なので、自分で不思議に感じたことは周囲には耳を傾けず、自分で追い求めて行かなければならない。
10月 1 日、台風がやって来た ... いや、台風は随分と南側を通って、神戸の辺りは高気圧のヘリに位置するようになって、結構な風が吹いた。そして、やっぱり台風の周りを動く低層の大気のムラッ気というか、風の息が結構あって、瞬間最大風速がこの時期にしては大きな値となった。あちこちに、草木の枯葉やら枯れ枝が落ちている。緑いっぱいに見えても、枯れる部分は既に枯れていたのだ。風が吹くと、自然の剪定のような働きになって、落ちるべき部分は落ちて、風通しや採光が良くなる。植物の世界もよくできたものだ。ドングリも結構あちこちの溝に溜まっている。銀杏も一面に落ちて、これはもう秋の香りとしか表現のしようがない。イノシシにとっても、味覚の秋なのだろう。
9 月30日、ギックリ腰は、おおよそ治って、今は運動範囲を広げるリハビリ中のような感じ。用心深い運動を1週間も続けると、体の柔軟性がすぐに失われてしまう。靴紐を結ぼうとしても、足が近づいて来ないので、柔軟運動よろしく時間をかけて引き寄せる。後ろを振り向こうとしても無意識には横までしか捻れない。これが寝たきりになる原因かと、実感してしまった。大学を登るのも良い運動になる。坂道を降りる方がより難しくて、何となくリズムの悪い歩き方になってしまう。こういう感じで、動きが悪いとひったくりのターゲットになるんだろうなーと用心に用心を重ねつつ。後ろから近づく音は全て怪しむべし、これは普段からそうでなければならないか。坂道を降りる大量の大学生を久しぶりに目にした。
9 月29日、長持ちする野菜、カボチャと冬瓜には共通点がある。皮が厚くて硬い。種の周りはとても水っぽくて絞れば汁が落ちる。なるほど、これだけの備えがあって、あんなに長く野菜として保存できるのだ。どちらも、どんな風にして種が運ばれるのだろうか、原種はもっと小さくて可愛く、動物がパクリと食べて種だけ残すか、そのまま食べてしまって他の地に運ばれて行くのだろう。栽培品種の場合は、種を植えてもあまりうまく育たない。F1 の種だから、という理由もあるのだろうけれども、そもそも栽培品種は環境を整えるのが大変だ。ちょっと間違った方法で水をやったりしたら、あっという間に消えてしまうし、季節を間違えるとナメクジに食い尽くされてしまう。過保護くらいでちょうど良い。
9 月28日、秋になって、どんどん落ち葉が増えている。紅葉の前に、まず条件の悪い場所にある葉が次々と落ちてくるのだ。こうして夏の間に育った草木がどんどん積もると、どんどん堆積して石炭にでもなるのではないかと感じるのだけれども、どこの野山も表土は薄い。さっさと腐ってしまって、分解されるのだ。太古の昔にカビが進化して取り付くようになって、よほど低温の環境でない限り、あっという間に落ち葉は消えてしまうのだとか。また、今の時期はダンゴムシやワラジムシ、ヤスデが目立つ。落ち葉に食いついて、どんどん黒い糞にして行く。あれもまた三葉虫みたいな古い存在なのだよなー、確か。生物とその進化は体系的に学んだことはないから、何を言っても素人の浅知恵なのだけれども。
9 月27日、テンソルネットワークの講義、スライドだけでは不十分だなーと思い、ホワイトボードも併用することにして、さてボード前のパソコンに触ってみると、あらあら Zoom がインストールされていない。講義時間も迫っていて、慌てて Zoom をインストール。さあスライドを共有して、という所で、セキュリティーにハマってしまった。しばらく調べれば何とかなるはずなのだけれども、今の時間を失うのも申し訳ないし、うーんと一瞬考えて、用意したスライドを全て放棄することにした。要点の半分くらいは頭の中に入っているので、それを中心に話を組み立てることにした。スライドを作成した意義はあったわけで、努力が無駄となったわけではないだろう。
9 月26日、夏の思い出編、ではないのだけれども秋にはクモの巣が目立つ。昆虫の成虫には事欠かない季節だし、クモにとってもかき入れ時なのだろう。ここで沢山食べて、卵を産んで。それとも越冬して?昔からクモは大切にと、そういう風に育って来たので、大きなクモが部屋の角に居ても、友達のような感覚だ。平然としていると、都会の人(?)には驚かれることも、ままある。昔の家屋であれば、隙間からクモは来るゴキブリは入るヘビも来る、そんな日常だったけれども、今は流石にそこまでのものは出現しない。シマヘビは可愛かったんだけどなー、あのスッとした姿が実にスマート。側溝が整備されて、海辺の我が家からは段々とカエルも居なくなってしまった。
9 月25日、腰痛もだいぶん引いて、痛めた箇所がわかって来た。右側の中臀筋の辺りが怪しい。左手でバケツを持った時に痛めた履歴にも符合する。日常のしょ〜もない運動で痛めたというのも何となく老人臭くて、いや老人なんだけれども、腰痛になった理由を後付けの武勇伝として語るのもアリかと思い始めた。歓楽街で豪遊した後に、夜の街をもうひと遊びした時に腰を使い過ぎたとか、ディスコで飛び跳ねてたとか ... いや、このような風俗がそもそもバブルの頃そのもので、年齢を物語っている。こんな遊び方も惰性でもう少し続くかと思っていたけれども、疫病騒ぎで消し飛んでしまった。ひとつ確かなことは、引きこもろうと自粛しようと、音楽の需要は消えることがない。YouTube もあって、供給過剰となっているかもしれないけれども。
9 月24日、論文投稿した。最近は長い文章書きばっかりやってて、あまり論文に縁がなかったのだけれども、皆無というわけにも行かないし、思い付きはふと浮かんでくるものだから、機を逃さずに計算して結果を公開して行く一連の流れに終わりはない。サイエンスが向かう先は、この世の記述可能な論理を物理的な制約の中で描き尽くしたという終末なのだろうとは思うけれども、そんな状態がやって来るのかどうかさえ想像がつかない。うじゃうじゃと宇宙へ向けて情報ゴキブリを放つというのが、まずは人類の目標になるのであろうか、火の鳥とか神様とか高望みしてはならない、ゴキブリのようなドローンで良いのだ。あ、進化の最前線に位置するゴキブリ様が低い存在というわけではない、あれは生態系の貴重な一員で、大成功をおさめた繁殖者だ。
9 月23日、学会の座長なるものを担当する。ええと、チャットに公演番号を書き込まないといけないのか、プログラムが手放せないな。2画面で行くか。タイムキープは手動。そもそも、講演時間には目安しかないので、質疑応答時間と勘案しつつ進めて行くしかない。質問が続くとまあ座長の仕事は楽なのだけれども、時と場合によっては質問が全くない場合もある。そういう時は、時間を繋がなければならない ... いやそれはもう古い習慣なのだろうか。質問ないのだから、ないで良いのではないだろうか?と思わなくもない。学会、年に2回もやる必要あるんだろうか?という密かなる疑問もなきにしもあらず、なのである。まあ、学会が楽しいことは間違いない。
9 月22日、一晩明けて、さて回復しているか?というと、さにあらず、安定した調子の悪さに辟易とする。症状としては変わらないけれども、とある痛みのある動きを避けて運動するあまり、マトモな動き方を次々と忘れてしまって、段々とロボットのような感じになってしまった。膝に負担を寄せると、古傷の半月板が怪しくなって来る。こういうことを、ツラツラと書き連ねると、きっと物売りに取り囲まれるのだろう。葛根湯が効くとか、あれやらこれやら。大抵は、ひと飲みで何千円もする。総合感冒薬はとても効果があるのだけれども --- どの成分だ? --- あれを続けて飲むと胃痛が起きるかもしれないしな〜。そういえば、昨年はイブプロフェンが理由なく槍玉に上がって、数百円の感冒薬を買い求める人々に数千円の葛根湯を勧めたなんて、そんな記事も目にしたなー。今から思えば笑い話でしかない。
9 月21日、たまに朝早く起きる時は用心用心、ギックリ腰が待ち構えている。大きなギックリ腰には、一度しか出会ったことがない。あの時は、片方の背筋が全体的につって、一瞬動けなくなった。それから用心して来たので、小規模な腰回りの筋肉が少し肉離れするような感じのものに、何度か出会うに収まっている。で、今日は週明けということで、比較的朝早くから動き始めて、バケツを持った時にやってしまった。負担のかかる方を痛めるのは世の常で、バケツを持つ手とは反対側だ。というわけで、真っ直ぐ歩くには問題なくても、目上の方がやって来てもお辞儀できない。科学者なる自由人なので、あまり目上・目下という関係がないのは不幸中の幸いだろうか?
9 月20日、祭日の月曜日。祭日の月曜日。でも arXiv プレプリントサーバーは容赦してくれない。今日も数百はあるだろう論文タイトルに目を泳がせて、何かないかと目視検索する。もちろん、真面目に追っている訳ではない。いくつかのキーワードで先に当たりをつけておいて、最終的に何か漏れがないか、ざっと目で追っているだけだ。こういう原始的なことをやっているので、半分くらいは注目論文を見落としていると思う。大切なことは、完璧を期さないことだ。効率良い AI 検索の方法も、導入しようかと常々思っているのだけれども、実際的には twitter とか SNS で流れてくる情報で、おおよそ事足りている。ありがたいことに、漏れていると教えてくれる方も何人か居る。こうして Tensor Network 関係の論文をリストする作業、後を継ぐ人は居ないだろうし、必要もないことだろう。今までのストックを AI 検索して特徴を掴めば、後は自動検索がほぼ可能となるからだ。で、午後は少し、学会の公演に耳を傾けようと思う。
9 月19日、御影はお屋敷の町。今でも、時々大きな造成地が出現する。戦前は信じられない程の大きさの「家」があったそうで、豪邸というよりは遊園地のようであったとか。流石にそこまでの大きさの土地は少なくなってしまったけれども、いまだにお屋敷がゴロゴロしている。並ぶ家屋も凝った造りのものが多く、プロバンス風だったりイギリス風だったり、純和風建築だったり。昔そのままの姿を活かして、結婚式場・宴会場となった敷地建物もある。阪急御影駅は山際に近く、そこから上がると普通の概念では山道となるのだけれども、まだまだお屋敷町が続く。そこに住む人々は、坂道の登り降りが速い。普段から身体能力が鍛えられていることが、よくわかる。行き交う自動車が、よく歩行者に配慮してくれるのも、地域の風情なのだろう。
9 月18日、成田から野菜が届く。箱を開けて、まずは葉物野菜を水洗いして茹でて頂戴する。生の落花生は、なかなかお目にかかることのない野菜だ。塩茹でして食べると、ピーナツのようでもあり、ソーセージのような香りもあり、やっぱり豆なんだなーと再確認する。夏野菜は、ほぼ終了なのだそうな。もう秋分の日も近いということを実感する。太陽もだいぶん傾いたし、月は逆に高くなって来た。道を歩けば熱気も ... 日中の熱気だけは残っている。夕暮れ時に少し散歩に出る。土曜日の夕暮れ時というと、昔は遊び始める時間帯で結構混み合っていたものだけれども、今はガラガラ。夜遊びする場所が、そもそも無いのだ。しばし、ピアノ・ユーフォニアム・ドラムの共演を楽しんで帰途についた。街から酒臭さが消えてしまった。
9 月17日、カビの香り、これだけを抜き出すと、そんなに酷いものではない。生ゴミなどが酷く臭うのは、腐敗が進んで色々なガスが出てくるからで、その腐敗に一役買っているのがカビによる脱水の効果だという、そんな側面がある。カビは細胞壁を壊して水を出すのだ。というわけで、チーズや餅のように水が出ないものに取り付いたカビは、そんなに臭わないというか、特に熟成の進んだ中国茶のような香りとなる。どちらかというと、粉臭いというか、泥のような感じというか、何とも言い難いのだけれども。また、そういう状況で出てくるのは必ず黒いカビで、青いのとか赤いのは出てこない。このカビの胞子を吸い続けると云々という話もあるのだけれども、アレルギーや日和見感染の素地がなければ、特段気にするものでもない。カビはともかく身近にあるものだ。台風が近づいて湿度が上がったので、辺りがカビっぽくなって来たかも。
9 月16日、地球の大気のシミュレーションを眺めていると、普段目にしている天気図は、ごくごく限られた日本付近の天候なのだということが、イヤというほどよくわかる。赤道のあたりで面白いのが、突然上空から大気が落ちてくるような空気の流れがあることだ。インド洋の夏には、赤道の辺りに高気圧とも低気圧ともつかない曲がった風がある。大陸の地表には目立った風がなくて、少し上空の流れを見て、初めて気象現象が把握できるようになる。南極環流の内側の海は冷たくて、その辺りの大気も寒気、常に温帯低気圧が発達している。ヒマラヤは地表が上層の流れだ。さて台風はどう動くのか?を見ていると、意外としぶとく中心の構造を保ったままであるらしい。まだ海が暖かいのだ。
9 月15日、果物の乾物の中でも、干しリンゴは、まあまあよく見かける方だ。リンゴをむいた皮や芯を干しておけば、雨の日でもない限り、自然に乾燥してカラカラになる。干しナシは見たことがない。あれは、普通に干すと柔らかく溶けてしまって、原型を留めないからだ。もっとも、検索すると商品がない訳ではない。乾燥機を使っているのだろうか。梨の、あの水っぽさから考えるに、どっちかというとフリーズドライが向いているような気もする。軽くフリーズドライになった梨をガリガリと食べる、いやいや何とも想像したくないものだ。フリーズドライのイチゴは、色や香りのインパクトが多少はあって、よくチョコレートと一緒に用いられるけれども、ナシには何の特徴もなさそうだ。日本で暮らすヨーロッパの方が、日本で流通している梨を「リンゴみたいな形の梨みたいな果物」と言ってたことを思い出した。そうなんだろうな〜、洋梨とはだいぶん違うもんな〜。
9 月14日、そういえば学会が近づいている。昔は学会に向けて準備をして、旅の予定も立てて、さあイザ出陣という雰囲気で文化祭の如く楽しみにしていたものだけれども、発表というものが日常の仕事になってしまっては、さしてワクワクすることもなく ... もちろん物理の話が色々と聞けることはとても楽しみなのだけれども、どんな新しい知識を仕入れることができるのだろうか?という期待感は幾分下がったかもしれない。むしろ arXiv などプレプリントサーバーを通じて、世の中でいま起きている進歩の方が楽しい。これは単に、そこへ加わる人々の母数の桁が違うからなのだけれども。余談ながら、母数の違いということから語り始めると、中国の科学アカデミーがどれくらい凄い存在であるかは、言うまでもない。arXiv にアクセスする人の数は、そのうちもう一桁くらいまでは増えるだろうか。世の隅々まで科学研究の意義が伝わる日に、さて科学はもっと速く進むようになるのだろうか?
9 月13日、何事も大きければ大きいほど良いというものでもない。思い出してみると、昔は個人商店がアーケードの下で商売をしていたものだ。大きな儲けが出る店もあれば、店主がギリギリの所で営業を続けているような店もあった。その玉石混交・渾然一体とした姿に、様々な歴史の波と環境の変化にも耐えた姿があった。今は、けっこう屋台骨の大きな商店が多い。大きな資本の下にぶら下がっているような、あるいはそこからの仕入れで成り立っているような商売も多い。小回りが効かないと、イザという時に対応が遅くなってしまう。気がついたら、小亀から順番にコケて、いつの間にか親亀が姿を消した、そんなことにもなりかねない。基本的な単位として、まず個人で商売ができるのかどうか、その気概を学びたいものだと思う。
9 月12日、サツキは条件さえ整えば、どんどん広がって行く性質のある低木だ。根本から枝が伸びて、地面に接した場所で再び根付く。従って、論理上は(?)一本のサツキがあれば、毎年 10 cm づつくらい広がって行き、辺りがサツキだらけとなるはずだ。実際には、花が咲いた後で剪定することが多いので、こんなには広がらないのだけれども、放置されたサツキが広がり放題になっている場所もある。一方で、光と水がなければアッサリと枯れてしまうのもサツキの特性だ。もともと、条件の良い場所へ伸びて生き抜く作戦から獲得した形質なのだろうけれども、株ごと枯れてしまっては役に立たない。まあ、枯れるような場所にサツキを植える方が間違っているのだろう。山に自生しているツツジには、薮の中で生存競争を勝ち抜いた美しさがある。
9 月11日、楽器を弾こうと思って飛びついたのがクラシックギターという経歴の私、楽器屋さんで買ってもらったのが数万円の杉板のギター。今も狂ってないし、いい音が出る。杉板なので、どちらかというと音が大きくて、減衰が速い。全体的にギターの響きというか、Em っぽい残響が残り易いギターだ。大学でギター部に入った時も、ずーっとそのまま。部員の多くは、少し高価な松のギターを購入していた覚えがある。松か杉か、そんな事を問題にしていても始まらないか、弾かない楽器は無いに等しい。働き始めて、ギターの練習を止めてしまう方も多いし、忘れた頃に再び弾き始めることもあるだろう。その時に、再び昔の音で出迎えてくれるのは、良い楽器の証拠だ。最近のギターは、よく研究されていて、楽にいい音が出ると思う。ついつい欲しくなる事もあるのだけれども、今握っているギターを今後も弾き続けよう。
9 月10日、晴れた秋の日になると、海外へと出張していたような日々を思い出す。ボンヤリと、出発ゲートの前で時間を過ごす時間が優雅であったような、無駄であったような、そんな追憶だ。その後は 10 時間ほど空で過ごし、現地についたらまだ夕方、少し寒かったり、空気の香りが違ったり。これは海外旅行だから感じる違いなのだと昔は思っていたのだけれども、実は過ごす時間の違いも大きいのであった。朝からホテルで過ごすことなど普段はないし、大学まで電車で通うような日常とは違って、研究会の会場まで田舎町のカフェの前を歩いて行く、長い長い昼食を飯屋でワイワイといただく、そんな雰囲気が違うのだ。秋の平日に休暇を取って街中を歩くと、あら外国、そんな気もする。神戸の街だからという要因もあるのだろう。
9 月 9 日、今日は成績の発表ということで、あちこちから喜びの?落胆のツイートが流れて来る。春から神戸大など呟いた方は、片端からその年号のリストに入れてあるので、学年ごとに色々と違う反応があって興味深い。... もともと、大学用のアカウントを作ってある方が多いので、こういう風に良からぬ閲覧(?)をされていると発覚すると、アカウントを捨ててしまう方もいるだろうか?SNS のアカウントへの考え方は人それぞれで、SNS はそういう文化だからこそ広まったとも言える。このリストによる追跡は、おおよそ卒業の年次をもって終了する。それ以上、眺めていても何の役にも立たないからだ。お困り事があれば見つけてサポートするのが、この閲覧の目的なので、社会人になってしまえば、そこから後は自身と社会に任せるのだ。
9 月 8 日、大学院入試の合格発表が、あちこちの大学で行われたようだ、「院試 合格」で検索すると、次々と吉報がツイートされている。こういうのを、じーっと眺めて、アカウント毎の個人情報を集めるようなロボットもあるんだろうな〜と思ってしまう。いや、パイプの使い方をちょっと知っていれば、自分ですぐに作れてしまう。ある程度貯まると、どこの誰かがわかってしまう場合も多いし、もともと隠すつもりでないアカウントも多い。物理学者は、表に出て議論する哲学者でもあるので、匿名にしておくメリットが特になく、実名アカウントであることが多い。少なくとも表は。さて大学院で何をするのかというと、その時間のほとんどは勉強なのだと思う。研究者になった後でも、研究をアレコレ考える時間よりも、他人の文献を読む時間の方が多い。もっとも、これを勉強と称するかどうかは微妙だ、入って来るのは、教科書に書かれてあるような整然とした情報ではないので。
9 月 7 日、使用済みのお茶の葉、あれは水分たっぷりの生ゴミで、どうしたものか?というのが悩みの種であった。まず、絞れば良いという所に辿り着くまで、何年も気づかないまま捨てていた。最近、絞った茶葉を干してみたら、とても速やかに乾燥してカラカラになってしまった。そうか、もともと乾燥させた乾物は、水で戻してもまた直ぐに乾燥してしまうわけだ。これに気づいてから後は、ともかく茶葉は絞って、乾燥させて、捨てるもよし、植木鉢に注ぐも良し、花の土作りに混ぜるも良し。一般的に、未完熟の堆肥は土に入れるなと言われるものだけれども、乾燥茶葉はさして問題とならないようだ。お茶として味わった後はカスのようなものだからなー。ヤスデが少々、増える要因にはなるかもしれない。
9 月 6 日、正多面体は5つある。正4面体、立方体、正8面体、正12面体、正20面体。これらを仲間に分けると、正4面体、立方体と正8面体、正12面体と正20面体という、3つのグループになる。正4面体だけが自己双対、それ自身でグループが閉じている。さて、正12面体や正20面体は充分に丸い形をしているような気もするのだけれども、実際に立体として造ってみると、かなりデコボコしていることがわかる。眺める向きによっては、こんなに「いびつ」な形だったっけ?と感じるくらいだ。これでは丸いものの代用にはならないので、昔のサッカーボールは正20面体の角を削った形の準正多面体で構成されていた。サッカーボールというと、あれ、という図形のイメージがあるのは昭和の世代までだろうか。
9 月 5 日、雨が上がって辺りを見回すと、雑草の背丈が急に伸びて花が付いていた。例年であれば、適当な時期に町内会などが草刈りイベントを催して雑草を引っこ抜くのだろうけれども、そんな機会もないまま伸び放題で、秋を迎えた。なるほど、人が去ったような街はどんどん廃墟と化すはずだ、自然の力は凄い。このまま放置すると、どんな光景になるのだろうか?と、想像してしまう。よくよく見ると、雑草が生えているのは電信柱の根元などで、雨水が集まり易かったり、肥料がやって来たり、種が飛びにくい場所だ。猫じゃらしも良く目にする。自然に生えているものに猫が寄って来ることは無いようだけれども。
9 月 4 日、海辺を歩くと塩の香りがする。不思議なことに、マスクを着用していると、この香りがわからなくなる。海辺なんて、そんなに人が集まるわけでは無いので、マスクしている意味もないのである、サッサと外して潮風を満喫する。... しばらくの間はそれで気持ちいいのだけれども、やっぱり潮風は塩っぽいのである、段々と飽きて来る。海をよーく眺めると、とても沢山の魚が泳いでいて、どこにこれだけの命を支えるだけのエネルギーが潜んでいるのだろうか?と不思議に思う。陸上と海中では、そして地中では、どの部分のバイオマスが一番多いのだろうか?空中でないことは確かだ。空中で繁殖できる生物なんて居るのだろうか?
9 月 3 日、ひんやりとした朝になった。湿度もすごく高くて、カビの出そうな場所からはカビのようなキノコのような、そんな臭いが漂って来るようになった。今年の夏は、間に雨の期間があったから、これから先はキノコが豊作なのではないかと思う。すっかり工場出荷が当たり前になってしまったキノコだけれども、秋になって山で採れるキノコには格別の味わいがある。... と書いて、そうか、まだまだキノコ栽培技術には改良の余地があるのだと思った。物理屋が大挙してキノコ栽培に凝ったら、ヘンテコなものが沢山できるだろうなー、その中からトンデモないものも出てくるのではないだろうか、そんな期待がある。キノコ栽培に限らず、何にでも首を突っ込みなさいというのが物理の教えなのだから。
9 月 2 日、雨が降った降った降った。雨さえ降れば、浜辺の塩っぽさが一段落する。塩は何も海から来るだけのものではなくて、山からも塩がやって来る。そもそも海が塩っぽいのは、山から溶け出した塩がずーっと貯まったからだ。なんて、適当な事を言うと専門家がわんさか出てきて、それだけだったら海は死界のように塩だらけになってしまっているはずだとか、いやいや生物が定着して堆積したとかどうのこうのと、様々なことを教えてくれる。フツーに(?)物理だけしかやっていない人間にとっては、今の現象しかない訳で、こういう長い目で見た科学的な思考には乏しい。ただし、宇宙論の人々は例外だ。あれは再現性のないものを議論するから科学ではない、という冗談のような極論まで存在するけれども、それくらい遠い現象だ。しかしながら、それでも日常の物理に縁があるのが宇宙論の面白い所でもある。昔、ある学生が言ってたな、晴耕雨読だと。雨の日は宇宙論を考えるのだと。今日の雨は彼が降らせているのだろうか。
9 月 1 日、先駆けとしんがり、ともに本隊から離れた場所で活動する。だいたいが、危ない仕事ばかりだ。本隊から離れているので、イザとなったらトカゲの尻尾というか、タコの脚というか、すぐに見切られてしまう。また、戦功あっても、また次の手柄をと果敢に出て行くと危ない目に遭う。そんなこともあって、特にしんがりの方は壊滅しても仕方ないメンバーで事にあたる。さあ来るぞ来るぞ、と潜んでいると、いつまで経っても誰も攻めて来ないこともある。対戦相手(?)が深追いを避けて撤退していたり、別のルートを迂回して本隊を待ち伏せしていたり。そうなると、しんがり部隊はやることがないから、弓矢や槍・薙刀を小刀や、場合によっては鎌や鍬に持ち替えて、ともかく生活の糧を得る行動に戻る。平和なのが一番いい。
7 月と 8 月の1行日記