← 9 月と10月の1行日記
8 月31日、国際会議の invitation mail が届いたので、ちょっと凝った返事をしようとアレコレ考えた末に、深夜に送信ボタンを押したら、すぐに返事が返って来た。が、よく見ると、それは自動返信で「8月末までバカンスに行ってます」とのこと。お国柄なんだ〜と思った。オフの時には仕事メールは見ないというか、見ていてもレスポンスしない、そうだよな〜。さて、そうこうする内に、別の国際会議の invitation mail も届く。が、こちらは何だか妙だ。宛名が first name ではなくて Dr. Nishino になってる。苗字で書くにしても prof. Nishino でないものは、大抵怪しい。別に prof. と呼んでもらいたい訳ではないのだけれども。で、スクロールダウンして行くと、これは明らかに国際会議業者の仕掛けたプロデュースものなのだけれども、ちと悩むのが良く知っている研究者が何名も参加していること。う〜ん、どうなってるんだろうな〜。
8 月30日、気分は9月の月曜日だ。今週は会議の週で、8月はずーっとお休みであった会議が続々と復活して来る。幸い、どれも Zoom なので、会議の間にあちこち動き回るという汗かき仕事はない。もっとも、会議が延びてしまったら、両方の Zoom を異なるデバイスで立ち上げて、聖徳太子するしかないのである。real に顔を出していた頃には、どれか一つという諦めもあったのだけれども、今は何個でも会議に顔を出せてしまうのが、便利なような、問題であるような、ちと不思議な感覚だ。同時に聞いていても、さほど違和感がない .... 形式的であって大切なことは、あまり議論されないということかもしれない。本質的なものは委員会審議というのは、確かに世の常だ。
8 月29日、クスノキはどこからでも生えてくる。クスノキなので大事に育てると、すぐに大木になってしまう。そこで、盆栽よろしく刈り込むのだけれども、そもそも根が大地に伸びまくっているから、すぐに勢いよく新芽が出て来てしまう。また切る。そうこうしている内に、何だか太い幹から細い枝がたくさん伸びているだけの樹形となる。そんなクスノキを街路でよく見かける。とても強い木なので、スパッと根元で切ってもまた伸びて来る。完全に切り株が枯れるには、何年かの間、根気よく追跡しなければならない。これだけ強いクスノキも、キノコには弱いようで、勢いがないなーと感じた翌年にはキノコがたくさん生えて、あっさり枯れてしまうこともある。ただ、その周囲には既に、たくさんの小さな芽が顔を出している。
8 月28日、日差しが戻って来て、さあ大変。あちこちに水をやって、枯れないように。浜辺にちょっとだけ作ったさつまいも畑は、特に管理が大変だ。海風はやって来る水道からは遠い、しかも雑草の勢いは強い。どないしてくれる?という感じ。そこまで歩いて行くのも日焼けしそうだ。ただ、梅雨明けの時期に比べると、もう日差しは弱々しいものだ。風も吹いて、ちょっとは気楽に作業できる時期となった。それでも、浜辺まで水を運ぶのは重労働だ、雨よ降れ降れ、雨乞いをするも、あと数日先まで雨マークなし。浜辺は地面の下が塩っぽいからなー、根を伸ばすにしても浅い場所に限られるので、水の供給は大切なものだ。ぼーっと船を眺めると、あそこは涼しいのだろうか?と思えてくる。そして、また黙々と水を運ぶのである。
8 月27日、夏休み最後の週末 ... と世間的には表現されるのだろうか。大学生の夏休みはまだまだ続く。10 月には、世の中どんな状況になっているのだろうか?選挙となれば、少しは雰囲気も変わって来るのだろうかと、あれこれ思いつつも、今日はカラリとした風が吹く夏の日となった。ただし、もう日差しが弱くて、梅雨明けのジリジリとする暑さはない。昔々というか、少し前までは、これくらいの日照りの中で、飽きもせずに毎日毎日、運動会の予行演習を繰り返すのが小学校の日常であった。あれを異常と言わずして何が異常であったのだろうか、と、振り返ってみて思う。運動量から言うと、ドッジボールの方が遥かに多いし、音楽流して勝手にダンスしてもらう屋外フェスティバル風の時間でもいいんだと思う。そこに、教育とは何かと考え始めると妙なことになる。大学では他人の邪魔にならなければ何をしてもいい。
8 月26日、タマネギの皮、戻せば食べられる?とか、お茶にできるとか、諸説あるけれども普通は捨てるのだろうか。実は、あれはなかなか良い肥料になる。ネギ類は、もらって来てでも畑にすき込めと、よく言われる。これは言い伝えのみならず、実際に園芸の土づくりで実践してみると、なるほど育ちが良くなる ... というか、いじけて育たなくなるトラブルに巻き込まれ難くなる。単に有機物が補給されるだけなのか、それ以外に理由があるのか、それは不明だ。ちなみに、タマネギの皮の部分は、元々は結構ぶ厚い。栄養を外部へと渡しつつ、段々と乾燥して枯れてしまったものが、タマネギの皮だということだ。密着して内部を守る仕組みは素晴らしくうまく出来ていて、ラップフィルムなどで代用できるものではない。自然のものはよく出来ているものだ。さて今日も玉ねぎパワーで頑張ろう。
8 月25日、社会の変革がある時に人口動態も変化して行くものだけれども、数十年くらいは遅れての効果もあるし、ベビーブームのように1次2次と後々まで効果が持続することもある。最近の大学の状況を眺めていると、明治維新の勢いがようやく今頃になって終わって来たのかなーとも感じる。落ち着いた普通の国へという感じだろうか。普通に、とは言っても、実は日本はけっこう、国土が大きな国なのだ。世界地図のあちこちに日本を重ねるという、そんな画像もよく転がっている。なので、人口が数千万人を下回るということは、今の状況ではないのかもしれない。国土が支えられる人口は江戸時代と大差ないとは思うけれども、鎖国状態であの数字なのだ。その定常状態へと向かうのか、更なる変革がやって来るのかは、それは先々の人に任せるのが歴史の常だ。今を何とかつながなければ。
8 月24日、1ページ書いてナンボ、と考え始めると割が合わないのが著述というものだ。1時間ナンボと考え始めると割が合わないのが教育というものだ。と、書くと、ブラック奨励会のような雰囲気になってしまうのだけれども、頑張れば頑張るほど良い結果が出るとは考えていない。頑張っても仕事の効率が落ちるばかりで、更に割が会わなくなる。うまーく進むものが先に手をつけるのが、効率の良い過ごし方だろうか。結果として、手をつけたけれども中途半端な状態のものが、身辺に沢山転がっている状態が生じる。これは仕方がないし、そういうものだ。良いものだけが人々に語り継がれ、意味のないものは忘れ去られる。植物の成長にも似た所があるのだろうか、条件の悪い場所で何かを栽培しようと思ってもうまく行かない。その条件に見合った種や苗を用意すると、割とスクスクと育つ。条件の良い場所に生育の遅い苗を植えると、周囲の植物に覆い隠されてしまい、光が当たらなくなる。ともかくも、今日も1ページ、頑張らずに書ける箇所から書こう。
8 月23日、大学院入試の頃になると、夏も終盤となって、どことなく秋めいてくる。例年であれば気温よりも先に夕暮れが早くなって、地蔵盆だとか手持ち花火、そしてお化け屋敷や肝試しとなるのだけれども、いずれも絶滅してしまっている。今年は気温もなんだか低迷気味である。もう秋雨?といった風情だ。いちどは夏枯れした雑草が、新たに芽吹いて茂り放題となっている。このまま育って、大量に花をつけたら秋の花粉症になるのではないかと、戦々恐々。くしゃみでも出そうものなら、周囲から視線が飛んで来るご時世だ。去年の今頃は with コロナなる掛け声が聞かれたけれども、今年はもうキーワードとして流行遅れになったというか、インフルエンザのように本当に身近な存在になってしまった。人類が滅びる気配は全くない。
8 月22日、一度執筆した内容のことは、再度書けと言われれば何度でもスラスラと書けるか?というと、そんなことはない。毎度の如く、新しい視点が付け加わっていて、話の進め方が変わって来るので、毎度の如く執筆には苦労するのである。今までの説明の方法では誤解されるのではないか、無用のつまづきを招くのではないか、一般性が見えない形になっているのではないか?など考え始めると、既に書いた部分も再度見直すことになる。コンテンツの再配置は毎度のことで、結果として結構な分量の文章が消去されることになる。こういう過程を避けるには、計画をよく立てて ... いや、立てた計画はすぐに覆される。書いてみることで、初めて気づくことも多いのだ。
8 月21日、野菜が届いたので、今日は野菜づくし。モロヘイヤの葉を、今日は軽く炒め物にしてみた。炒め物というか、加熱しただけかもしれない。素麺つゆを垂らして食べると、感触としては暖かいパスタ、そんな感じ。モロヘイヤの茎の硬い部分は食べられないので、試しに挿し木してみることにした。もっと根元の方には硬い繊維があって、これは高校の地理で習うジュートと呼ばれる製品になるのだそうな。栽培して、その場で食べる部分は食べて、商品として国境を超えるものが産品として教科書に掲載されていたわけだ。繊維と言えば、小学校ではヘチマを栽培した。ヘチマ水という「安全な水」の取り方も、密かに教わっていた。ヘチマのタワシ、あれも輸入品が主だろうか。ちゃんと製品となるくらいの硬い繊維を取るのは、案外難しいものだ。
8 月20日、ギターの消音は悩ましい所がある。弦を弾いて出した音は、フレットに乗せている指を軽く浮かすか離すか、左手の空いた指で弦に触れるか、右手の空いた指で弦を押さえるか、あるいは手首で音を消したい弦を覆うか。いずれも、次に出すべき発音の操作に支障がないよう行わなければならないし、消音の操作で雑音を出すのは全くの逆効果となる。消音のタイミングが重要であることは、オルガンなど他の楽器と似ている。次の音を弾く瞬間かその直後か、もう少し後か。何事にも完璧はあり得ないし、同じ和音の中ではピアノのペダルのように音を消さない方が広がりがあって良い、そんな場合もある。バッハのような、対位法で組み立てられた曲であっても、完全に音を切ってしまうと DTM を聞いているかのような気分になる。バッハは単旋律の中に2声あったりするから、ちょっと要注意なのだけれども。プロの演奏家が、どのように弾いているかは良い参考になる。そしてプロはそもそも、心の中に流れる音楽から超人的だなーと感心してしまう。
8 月19日、雷の朝。ゴロゴロ、ゴロゴロと、波間に響く音で目覚めたり寝たり、明るくなったり暗くなったり、突然スコールが降ったり小降りになったり。こういう時には、なるべく出歩かない。静電ポテンシャルが目に見えれば良いのだけれども、残念ながらセンシングも可視化も今の所は無理だ。どうしても出歩く必要に迫られたら雷が落ちそうな場所を避けて通るか、確率の問題だから小走りで通り過ぎる。直撃を浴びたらおしまいだから、タクシーを利用するのも良い選択だ。いやいや、やっぱり出歩かないのが良い。
8 月18日、コンビニに包丁は必ず置いてあるし、デパートやショッピングモールへ行くと刃物売り場が必ずある。刃物は、簡易な髭剃りのように使い捨て前提のものでない限り、とても長持ちする。家庭で使う包丁であれば、恐らく一本で一生使える。いや、代々使えるかもしれない。刃の部分の寿命はとても長い。どうしてそんなに長持ちするものが商品になり得るのか?というと、木製の持ち手(ハンドル)部分が朽ちやすいからだ。持ち手がボロボロになったり、中に水が染み込んで内部からサビてしまったら、そのままではもう使えない。持ち手だけ交換したり、サビた部分を新しく溶接したら再び使えるのだけれども、手間賃よりも新しく買った方が ...。また、全く問題のないものであっても、やはり新品を、というのはどの商品にもあり得ることで、キッチン用品は常に粗大ゴミと化す運命なのである。何だか、学校で使う教科書と共通するものがあるなー。
8 月17日、再び雨。それも、神戸大学を狙い撃ちするように淡路島から次々と雨雲がやって来る。気象シミュレーションを見ると、太平洋高気圧の周辺へ吹き出す風の通り道となっている。何度も使ってきた表現だけれども、これはモンスーンの雨だ。大学は?そろそろ大学院入試の勉強も佳境に差し掛かっているのだろうか、普段に比べれば何やらシーンとした雰囲気が漂っている。あちらの大学の過去問、こちらの大学の過去問と、次々と解いて行くのが定番の対策だろう。大学4年にもなれば、そのようにして時間を使うのは勿体ないという気もする。自分の時はどうだったかというと、確かに過去問も解いたのだけれども、どちらかというと物理学の浅い専門書を次々と読んで、全体的に物理を広く見渡そうと工夫していた。今は全く仕事に使っていないのだけれども、レーザーの技術など、面白いものを幾つも仕入れることができた。そういう勉強の方法もあるよ、と、居合せる人々にも伝えたい。
8 月16日、果物の種を蒔いても、同じように美味しい実がなる木が生えて来るとは限らない、大抵は失敗すると言われる。確かに、果物の栽培で生計を立てるならば、正しい助言だろう。種苗法のことは傍に置いておくことにして、植物の反映はその多様さに起因していることを忘れてはならない。あれだけの数の種を実らせるのであるから、中には強いものもあれば、実るという意味で良い形質を持った苗も現れるであろう。そう思えば、アマチュア的には手当たり次第植えてみて、どのような果樹に育つかを観察してみるのも悪くはない。そういう変わり者が世に満ちていれば、そのうち素晴らしい実が得られるはずだ。それが親木の形質を引き継いでいる必要すらないのである。研究にも似たような所があるだろうか、種は蒔かないと芽は出てこないのである。ただ、失敗の数々に身を投じて、それを楽しむことができるならば、の話なのだけれども。
8 月15日、テンソルネットワークという言葉が、どれくらい日本語でツイートされて来たかは、検索してみるとわかるけれども、スクロールして全てたどれる程しかないのである。それくらい、研究に用いて来た人々が、そして関心を持つ人々が少ない現状を物語っている。というわけで、今更ながらなのだけれども「テンソルネットワーク」とツイートしてみよう!キャンペーンでも始めてみようかと思う。少しは認知してもらえる契機になるのではという、僅かな期待を持ってのことだ。認知の有無は、次の世代の研究者の発掘にも少しは役立つだろうと思う。一方で、ぶわ〜っと流行る ... ことはないと思うのだけれども ... のは期待していなくて、やっぱりテンソルネットワークは玄人好みの存在であって欲しいな、という気がしなくもない。そういう状況でノンビリと研究して来たからかも知れない。今はもう戦国時代と言えるだろうか?!
8 月14日、雨が降り始めて何日目だろうか、何年か前の梅雨時にも同じような長雨があった。確か、大学の近辺でも土砂崩れが起きたのであった。今日は霧のように見通しが悪い上に、風もけっこう強かったので、小さな船は欠航が相次いだ。(←書いていて天然ボケに気づく。)普段は神戸港を出る遊覧船も、今日は港の中をグルグルと回るだけの運航となったことが、レーダーの記録からわかる。お盆らしからぬお盆、そういえば米不足となった二十数年前の夏も、お盆時には既に(仙台では)寒かった記憶がある。その年は、トドメに秋台風がやって来て、頼みの綱の西日本の米も不作になったのであった。あの、輸入米をブレンドした米のマズさは何とも言えなかったなー。混ぜずに別々に出してくれれば、それぞれ美味しかったはずだ。昨年のトイレットペーパー騒動に続いて、また何か歴史が繰り返されるのだろうか?
8 月13日、年に一度くらいはやって来る13日の金曜日だ。今日は用心して、占ってから朝の第一歩を右足から出すか左足からかを決めて ... ええと、洋の東西が混ざってしまっている。吉と不吉というのは、いつも身の回りに同居しているものであって、その日だけが吉とか不吉と色付けできるものではない。ちょっと嬉しいことがあっても、その日だけが嬉しいわけではなくて、自分の知らない間に物事が整然と進んで結果が現れたに過ぎないのである。ちょっとマズいことがあっても、その時だけがマズいわけではなくて、自分の知らない間に物事が絡み合って進んだ結果が現れたに過ぎないのである。どちらも、自分独りでなし得ることではなくて、多くの人々が関与しての結果であるし、かつ途中経過である。というわけで、今日は映画のタイトル的には不吉とされる日だけれども、普通に過ごそう。なお、聖書のどこを読んでも、13日の金曜日が不吉だとは書かれていない。
8 月12日、雨だ雨だ雨だ雨だ。雨だ、の2文字で文が完結してしまうのが、名詞の格変化を伴う言語としての日本語の特徴なのだろうか。イタリアのお姉さんが mangiamo のひと声をお昼時に発していたことも思い出される。食べようよ、みたいな感じになるのだろうか。とにもかくにも、久々に雨のお昼時を迎えた。明日からはお盆休みで、生協のお昼ご飯は今日まで。しばらく営業がないという時にも、こんなに沢山のメニューを用意してくれている工夫に頭が下がる。お盆休みは雨続き、さて何をしようか?カンカン照りではないので、あちこち動くには好都合だ。幸い、電車も比較的空いているし。緊急事態が何度も何度も出ると、緊急事態ではなくなる。そういえば、最近は「飛翔体」という言葉も耳にしなくなったなー。あかん、雨の湿気で頭の中が取り止めのない状態になっている ...
8 月11日、ジェット気流が戻ってきて、秋雨前線が形成され始めた今日は、お昼前から曇り。やれやれ暑さも一段落といった感じ。曇ると、遊び気分が抜けて仕事しようと思うから不思議。晴れていると、特に空が青くて陰影の濃い日には、あちこち散歩して写真撮影したくなるのである。撮ったら撮ったで写真の整理もあるし、結局は一日が潰れてしまう。生産性ゼロ、写真を生業にしているわけではないからなー。1ページでも執筆、1分でも収録、そういう積み重ねはちゃんと形になって残る。今日で前期は終わり、学生さん達も、少々の宿題は抱えているだろうけれども、夏休みに入る。休みとは言っても、寝て過ごすわけでもなく、彼らは常に何らかの活動をしている。SNS 閲覧も充分に活動だ。我々、年老いた者が真似しようとしても、彼らの情報収集には到底追いつけない。
8 月10日、統計的に取得されたデータは貴重なものだ。注意深くサンプル抽出すると、統計法則に基づいて母集団の様子を緻密に推定することができる。... 注意深くサンプル抽出すれば。風邪をひいた場合の死亡率を調べたいとなると、これがなかなか上手く行かない。そもそも風邪の定義が曖昧で、ウィルス感染症のあるグループを風邪と称する他ない。風邪をひいた人がどれくらい居るか?も、全国から無作為抽出して徹底的に調べれば意義あるデータが取れるのだろうけれども、これは無理で、病院を訪れた人の数から逆に推定する他ない。そして死亡率の推定となると、その意義付けは更に難しい。例えば、誰でも一生の内に 100 回くらいは風邪にかかるだろう。そして、最後の感染で亡くなる可能性は非常に高い。どんなに少なく見積もっても、単純計算した死亡率は 0.1 % を上回っている。集めたデータを、どのように分析して提示するか、その反響がどのように現れるかは、統計学の枠を超えて、もう社会学と言っても良いのだろう。さて、オリンピックも終わって、ようやく社会のベクトルが変化しつつあるだろうか。
8 月 9 日、台風がやって来た。夜半に風雨が突然強くなって、気圧の割には風が強い。まあ強いとは言っても、かの電柱倒しの猛烈台風を思えば、そよ風のようなものだ。神戸港の観光船は運休か、あるいは停泊営業か。レストラン船であれば、確かに停泊したままという選択肢はアリだし、港によっては「出港しないレストラン船」というものさえ存在する。その場所に浮いたビルがあるようなものだ。厳密には、全く出港しない訳ではなくて、嵐を避けて沖合で停泊したり、定期点検でドックに入ったりはするらしい。神戸港がそれくらい魅力のある場所になれば良いなーと思う。大学は、今日は休日の授業日であったけれども、暴風雨警報が出て、文字通り吹き飛んでしまった。
8 月 8 日、とある大学で、学生団体の活動の中で起きたトラブルが表沙汰になってしまっている。まず祈ることは、大きな被害を被る人が出ないこと、出さないことだ。去年今年と、どの団体も新入部員の獲得に苦労していて、人材不足の渦中にある。また、何か活動しようにも広告収入が集まるわけでもなく、定番のひとつであった接客業のアルバイトも激減してしまって、あらゆる金欠が生じている。一方、自粛の嵐で溜まったストレスが渦を巻いて、あらゆる「外野」の無駄口が集中し易い状況も生じている。万が一、トラブルに遭遇した時には、弁護士などの専門家に短い時間でも相談しておくと、後々の苦労を大きく軽減する。行政による無料の相談窓口もあるし、色々な保険や、加入している組合などのサービスの一環として法律相談できる場合もある。
8 月 7 日、酷暑である。昼になると海風が吹いては来るけれども、大地は乾いたまま、それも塩気を含んだ風で塩っぽく乾いてしまっている。こういう場所に水を少しくらい撒いても、表層が湿るだけで、すぐ再び乾いてしまう。不思議なことに、植物が地面を覆っていれば、水の乾きが遅くなる。草が生えている分だけ蒸発が速くなるような気もするのだけれども、そこはうまく調整されているらしく、ガッチリと水気を取り囲んで、蒸散を防いでくれる。そう言うわけで、地面を覆うものであれば何でも拾って来て移植する。芝は最も簡便な選択肢で、かつ有効性が高い。夏であれば、スベリヒユのようなものでも、無いよりはマシだ。イケそうだと思って拾って来ても、あっさりと枯れてしまう場合もある。自然は不思議なものだ。
8 月 6 日、大きなサツマイモがゴロリ。さて、と、思案して、蒸すことにした。じっくり加熱が甘さへの道とも言われる、どれくらいの温度上昇率が良いのだろうか?というわけで実験。蒸しプレートに乗せ、トロ火で水から加熱。蒸気が上がるまでに軽く1時間はかかる算段だ。それから中心に火が通って、そして中心まで透明になるのにもう1時間くらいだろうか。石焼き芋から推察するに、加熱時間が長すぎということはないのだろう。蒸し上がったものを軽く焼いてみるのも良いかもしれない。蒸し上がってみると、植物らしく(?)個性アリアリなのか、一本ずつ味わいが異なる。一気に食べられなかったものは、一度冷やして、和食の付け合わせっぽく食べてみよう。冷えると「いも感」が減って、別の食材になる、これまた不思議。
8 月 5 日、小手先の改変を繰り返すと、いつの間にか制度設計がおかしくなる、そういうことがよくある。とりあえず、今うまく運用されていることなのだから、ともすれば危険も伴う抜本的な見直しをなるべく避けて、今の運用の良い所はそのままに、不都合な所は修正して ... という正論もあって、何が小手先かは一概に言える物ではない。小さな変更であっても、一応はシステムの根幹に関わらないか、よーく用心して検討しておくことが大切だ。これは結構な労力を使う作業で、うっかりすると穴ができてしまう。穴は穴なので、誰もが避けて通れば問題ないのだけれども、穴の存在はそこに落ちる実例が生じて初めて露見するのである。さて、どのように穴を塞いだものか。
8 月 4 日、再び日照り。光合成がよく進む、そういう意味ではとても有り難く、東アジアで米が収穫できる環境としての夏は重要なものだ。だが、やっぱり、人間にとっては過酷である。こういう時期に、あまりお目にかからないのが道路工事。地面の温度がヤケドしそうに高くて、アスファルト舗装してもなかなか地面が固まらなくて、コンクリートを打っても乾燥を防ぐ養生が大変、その辺りが理由の一つだろうか。それでも、必要があれば工事しない訳にも行かず、警備員が立っての工事風景がチラホラと目に入る。警備員にしろ工員にしろ、大変を通り越している暑さだろうなーと思う。一応、服の中に風を通す扇風機をつけているには、つけているけれども。さて、今日も海辺を発って、登山してひと仕事だ。
8 月 3 日、雨だ!! ながらく待った雨だ。それも、タップリと降ってくれた。湿度も充分にある。熱帯低気圧さんありがとう。草は一発で反応して、萎れていた部分が「枯れてしまった所」と「元に戻った所」にハッキリと分かれる。枯れたように見えた樹木も、落ちるべき葉は雨の重さで落ち、芽の部分がわずかにふくらんでいる。樹木の種類によっては、既に芽が伸び始めているものもある。それも大量に。ここで、ちょっと思案。そのまま伸ばしてしまうか、妙な方向へと芽吹いたものは芽欠きしてしまうか。剪定は常々行っておくと後が楽なのだけれども、あまり強くやり過ぎると樹勢をそいで、あっという間に枯れ込んでしまうこともある。さて、これからまだ夏の日も続く今、どのように対処したものか。
8 月 2 日、もう夏休みだー、という頃にはなっているのだけれども、新学期がゆっくりと始まった分だけ、学期末も遅くなる。というわけで、夏爛漫?な時期にもまだまだ学業が続く。今頃は採点とか集計とか、そういう作業がメインとなるのだけれども、そもそもレポートが提出されていない場合には、仏心(という教育者としてのデフォルト)をもって、暖かく催促、いやご案内申し上げなければならない。提出しないと落ちます、というのはアウトで、頑張れば成果が目に見える形で現れますよと、やさしくやさしくご案内するのである。それでも音沙汰なければ、まあ諦めずにもう一度。前期の内はまだまだ、まだまだ。そういうつもりで気長に付き合いつつ、個性を生かした大学生活を送ってもらうのである。
8 月 1 日、もう何日、雨が降っていないのだろうか。いや、チラリと土曜日に降ったと言えば降ったような気もするけれども、神戸大学のあたりでは地面が軽く湿った程度だった。その後はギラギラと日照り。雑草でさえ夏枯れしてしまっている。こういう時に青々としているのは、沢水のようなラッキーな場所に生えた植物だ。水と空気と光と土、順番はどうだったっけ、ともかく条件が揃えば真夏こそ青々としているものだ。砂漠に水を引けばオアシスとなるが如く。なお、本物の砂漠に水を引いても、塩害でどうにもならない場合もあるらしい。そんな場所でさえ、何らかの植物が何年かに一度の雨を狙って隠れているとも聞く。生物はしぶといものだ。
7 月31日、麺に揚げ物、これ讃岐の定番の昼食のパターンである。麺を食べて、汁に揚げ物を漬けて食べて、最後に汁も飲んでしまう。誠に体に悪い美味しさなのである。もちろん量の問題であって、少量を軽く楽しめば問題ないのだけれども、讃岐の人間とあらば麺2玉は当たり前、ザルうどんとキツネという2杯のパターンもある。少しだけ注釈すると、汁がタップリなのは恐らく他県の文化であって、讃岐では麺を主役として、麺を食べられる分量くらいのダシ汁がかかっているか、用意されるのが普通だ。そのようにすることで、少量のダシを充分な具材から抽出できるのである。タップリ用意されて、ずーっと高い温度で温め続けられているダシでは、あの美味しい味にはならない。暖かい麺に冷たいダシというのも、今の季節ではいいなー。
7 月30日、タンゴのピアノは不思議な力強さがある。低音がガンガンと追って来るような感覚が特徴的で、どうやったらあんな風に響くのだろうか?と不思議にも思う。タンゴは、強い立ち上がりの後でサッと音を引く演奏法がどの楽器にも共通していて、だから比較的長く響くベースが目立つのだろうか?いや、そのベースの音でさえ軽さがある。そしてガンガン追って来るのである。タンゴが流行ったのは随分と昔のことなので、演奏会となるとご年配の方々がたくさんいらっしゃる、そんな光景となる。我々でも若手のファンになってしまう。これから先、特定の分野の音楽がガッと流行るということは、もうないのだろうな〜。黒猫のタンゴやダンゴ三兄弟のような形では、再びやって来るかもしれない。
7 月29日、今日は上海の国際会議にお邪魔している。時差1時間、ほとんど時差がない場所での研究会は貴重だ。ヨーロッパで研究会という場合は、おやつ時から始まって深夜までになってしまうし、アメリカだと最悪の夜通しとなる。なるほど、時差ボケしつつも現地に集まって、強制的にあらゆる発表を耳にせざるを得ない体験というのは、睡眠学習効果が絶大であったわけだ。さて、上海の話題はテンソルネットワーク。この用語、日本語ではあまり飛び交わない状況がずーっと続いている。英語では、けっこう使われていることから、一種の「乗り遅れ」現象が起きているのではないかと思う。そして、ぱーっと日本語で「テンソルネットワーク」と流れる頃には旬を過ぎていて ... ということはないか、玄人技に近いもので、何人かで秘技を守れば良いような世界でもあるから。
7 月28日、今日は少しだけ涼しい気がする。昨日も触れた上空の寒冷渦は、ちょっと変わった二重構造になっていて、外側の渦が大きく日本を囲んでいる。その気流に対応して、太平洋には前線のような下層の収束が現れている。南側はモンスーンのような北へと向かう流れで、北側は無風。秋雨前線が現れる頃にも少し似ているだろうか、梅雨明け 10 日の晴れ間がひと休みしている感覚だ。ちなみに、南半球と北半球の間のどこに収束が現れるか?というのは陸地の配置によりけりで、太平洋の東側では綺麗に赤道よりも少し北で収束するけれども、インド洋では北向きの風しか吹いていない。太平洋を見慣れた我々の視点で大西洋を眺めると、何と狭い海なのだろうかと感じてしまう。南氷洋は常に低気圧だらけで、寒気の強さにびっくりする。世界は広いなー。
7 月27日、さあ仕事、と思った時にやって来るのが OS の update だ。ちょっとした update のはずが、何ギガバイトもあるではないか、次の OS のバージョンのサポートでもしているのだろうか。さて、関東に近づいている低気圧はというと、あちこちで話題になっているけれども、亜熱帯低気圧だ。中心付近には地上の雲しかないのが特徴で、その直上には寒冷渦が対応している。下層から上層まで同じ向きの渦というのは、熱帯低気圧では有り得ないことなので、熱帯低気圧っぽい低気圧、subtropical low と呼ばれている。低気圧のことを眺めながら、OS の update をこなし、別のデバイスからは集中講義、なになに、国際会議も同時に 3 つくらい走っているって?この時期にはありがちなことかもしれない。
7 月26日、本日から、講師をお招きしての集中講義が始まった。昨年に引き続き、今年も遠隔での実施となった。リモート講義にも様々なスタイルがあるので、このような機会に実施方法について色々と学ばせていただけるのは貴重な体験だ。また、広報などのスタイルについても例年踏襲に安住して来た落とし穴に気づいたこともあって、情報開示を進める時には折々に考えるステップが必要なものだと痛感した。世の中の変化に合わせて、準備の方法も改めて行くということ。オリンピックの準備を見ていても、そういう改善の大切さがよくわかる今日この頃だなーと考えながら、夕方から日常の業務も再開する。幸いなことに、重要かつ急ぎの案件は何も入っていなかった。明日も頑張ろうか。
7 月25日、学期末でございまする。だいたい毎年のように、前期の終わり頃になると忙しくなる。新学期の始まりの頃には避けて、ゴールデンウィークとは被らないように、などと色々な条件を勘案すると、7月に諸行事が詰まってしまうのである。今年は、去年ほどではないにせよ新学期が少し遅れて始まったので、8月の第1週も授業期間だ。そこに単発の講義も入っている、さあ準備だ準備だ。いや、それに手をつける前に済ませておくことがある。というわけで、連休何日目となるのだろうか、日曜日に仕事場にノソノソとやって来て、閑散とした中でゴソゴソと作業しているのである。気配から察するに、同類の者が何人か居るらしい。
7 月24日、音楽は人々を巡り合わせる。演奏家のネットワークは、物理学者の我々に比較しての感覚なのだけれども、恐ろしく広い。音楽というものの懐の広さなのだろうか、垣根の無さなのだろうか、裾野の広がりなのだろうか、ともかく人前で演奏して生活を営む人々は専業であれ兼業であれ星の数ほど ... は流石に居ないけれども ... ともかく音楽家はどこにでも居て、様々に協力しつつ演奏活動するので、演奏家の A さんが無作為抽出した演奏家の C さんを知っている可能性はかなり高い。という縁は観客にも及ぶもので、演奏の場に出向くとあら知り合いとバッタリ、ということもよくある。不思議な巡り合わせのようで、実はよくあること、そういう実例のひとつだろうか。
7 月23日、物理学には数学的なロジカルさ、積み上げが大切だ ... とよく言われる。これは正しい。加えて大切なこと、より大切なことは物理現象について次々と触れ、その仕組みについて考察することだ。ありがちな学習方法が、一直線に専門へと突き進むもので、その道の専門的な知識を受け継ぐことは可能だろうけれども、その完成された論理の先に何かが見つかるか?というと、なかなか確率の低い戦いを挑むことになると思う。多角経営と呼ぶまでもなく、あらゆる自然現象に興味関心を示して、スキあらばそこに物理がないか、まだ知られていない物理現象はないか、物理的なセンスでは当たり前のことでも、その当該の学問分野ではコモンではない概念なのではないか、色々と考察する余地がある。そして往々にして、そういう楽しみの中から、新しい発見が生まれる。
7 月22日、真上から照る真夏の日光の力は凄いもので、あらゆるものを乾かし風化させて行く。インドを訪れた時、道端にゴミが散乱していて最初はびっくりしたものだけれども、やがて土にまみれて何処かへと消えてしまう。日本でも、夏の間の晴れた日には、新聞紙の上に野菜クズなど置いておくと、一発でカラカラになってしまい、ゴミ袋に入れても臭くならない。あるいは、少量を土と混ぜて堆肥化させることもできる。冬や春だと、こうは行かずにカビが生えてしまうので、ゴミ回収というのは寒い地方の慣わしなのではないか?と感じることもある。文明はゴミとともにある、ということだろうか。ときに、学問の世界はゴミだらけで、毎日のようにどうでも良いような論文が世界からプレプリントサーバーに集まる。貴重な蓄積には違いないのだけれども、大抵は積もって堆肥と化す。語り継がれるのはホンの少しで、この割合が学問を「学習可能なもの」として保っているのである。ゴミと化すのは有難いことだ。
7 月21日、パーティーの幹事は、準備をするのが楽しいもので、パーティーの本番は受付やら裏方やらで地味に過ごすものだ。準備のうちが楽しいという意味では、オリンピックも終わったような気分だろうか、世の中に炎上のネタを数多く提供し続けて、ほとんどの作業が結局はどうでも良かったという、祭り事にはありがちなパターンで開催(?)の日を迎えつつある。そんな数年間の騒ぎのミニ版とでも言えるのが、大学入試の民間試験利用と記述式の導入の試みだったのだろうか。無理のあるものを何とか実現しようとしても、現場に溜まった矛盾の圧力をいつまでも抑圧できるものではなく、結局は強者どもが夢の跡と化してしまうものだ。次にやって来るドタバタは、さて何だろうか?そういえば教員免許の話もあったなー。
7 月20日、コンピューターを使って計算することを教える、という目的がある時に、特定の計算機、特定の計算機言語を指定して課題の実習を行うという方式は、段々と維持が難しいものになっているし、どのような計算機が普遍的に存在するのか?という実態とも合っていない。開発環境がブラウザーから使い放題という、そんな仕組みも広く使われているので、それに乗るという手もある。あるいは、好き好きに選んでもらうという手もあるか。どのような方法が、大多数の学生にとってうまく fit するものであるか、これは色々と試してみて経験を蓄積する他ない。教育に定まったメソッドがあり得ないことは、よく語られるのだけれども、特にこの分野は変遷が激しくて、例年通りということは、まずない。
7 月19日、量子力学の学習に近道となるものは、なかなか存在しない。量子力学のエッセンスだけならば、線形代数も含めて簡単に習うことができるのだけれども、イザ実際の物理系に適用しようとすると、相互作用の取り扱いあり、連続空間あり、設定可能な初期状態あり、観測可能な終状態ありと、次から次へと習得すべきことが湧き出てくる。古典物理学やら統計物理学やら電磁気学やら、それぞれ知っていれば知っているほど、既存の知識との糊付けやら決別やらが必要となって、整理された形で量子力学を語ることは非常に難しい。これが、物理はひとつと呼ばれる所以だろう。テンソルネットワークの学習や研究にも、なかなか近道は存在しない。
7 月18日、厚紙には、適当に糊でくっつけて色々と加工できる利点がある。プラスチックはくっつけるのが難しく、布は耐久性はあるものの、布として加工しようとすると針と糸、あるいはミシンの登場となる。その点、紙は気楽でいい。加工に失敗しても、サッサと切り取ってパッチを当ててしまえば良いからだ。また、意外と耐久性がある。壊れても、また糊を持って来てくっつければ良い。どこにでも素材が転がっているし、普通のコピー用紙でも貼り合わせると凄く強い紙になる。材料力学からは当たり前のようなことだ、厚さが 2 倍になった時に、曲げには ... ええと、何倍強くなるのだったっけ、不用意なことは言わない方がいいか。
7 月17日、会議の後に会議、その後で資料づくり。ちょっと待てよ、そろそろ国際会議も近いのであった。但し、今回の国際会議「も」遠隔である。幸い、アジアの time zone での会議なので、一日中ずーっと付き合える ... と思う。遠隔だとついつい、画面だけ接続しておいて後は適当になってしまいがちなのだけれども、今回は興味深い話題ばかりなので、そういう事はないだろう。で、自分の発表は ... まあ 3 日くらいで何とか組み上げるしかないか。大切なことは、聴いている方に何かを伝えることであって、綺麗に研究をまとめることではない。その入り口だけでも示せば、その先は自然と理解できるはずのものだ。入り口で宙に浮いてしまったら、後は聞いてもらえない。このあたりのバランスが難しいものだ。
7 月16日、大学の講義の仕組みで、なぜか演習、実習、実験の単位は、時間あたりに対して半分くらいに設定されている。これは大昔に、半年くらいかけてひとつのテーマに取り組むような、ノンビリとした雰囲気の実習に向けて設定された仕組みなのではないだろうか?現在はというと、毎回のように実習テーマを用意して、場合によっては複数の課題について時間内にこなしてもらう忙しい実験となっていて、実習の密度としては講義とあまり変わらないものとなっている。加えてレポートの取りまとめも大変だ。実験・実習に対する単位を相応に引き上げて行かないと、それらの割り当て時間を減らそうという圧力が人手・人材確保の問題から生じかねない。実際に、タップリと実験時間を確保できている大学を見渡すと ... あるいは実験に乏しい大学を探すと ... という経済原則が見えてくる。伏せ字の所は想像してほしい。
7 月15日、高校生の研究発表を聞かせていただく機会に恵まめた。個人研究の発表なので、最初から最後まで、ひとりで質疑応答しなければならない、そんな発表形態だった。驚くべきことに ... いや当然というべきだろうか、既に研究者としての才能が垣間見える、そんな発表が幾つもあった。環境は大切なもので、身近にサイエンスに接している、文学に接している、工学に接している、そんな経験が発表にも生きて来るようだ。発表したままの分野へ進むのかどうかは、それは誰にも、本人にもわからないことだろう。大切なことは、何かを自分で掴み取りに行ける行動力だ。これさえあれば、何歳からでも、その時その時の最先端に、いきなり躍り出ることが可能なのだ。
7 月14日、カメラの面白くて難儀な所が、センサーのサイズとマウントだ。レンズを持って来て、カメラを持って来て、合体 (!) とうまく接続できないのが、不自由であり楽しみでもある。原理的には光軸とバックフォーカスさえ合っていれば良いわけで、適当にガムテープで固定しても写るには写る。そういう機材を、実験など手造り機器を扱う現場で目にすることもある。もう一つ、マトモに画像が結ばれる範囲を決めるイメージサークルも大切だ。ビー玉のような球体もレンズとして使えるのだけれども、綺麗に焦点が合うのはごくごく中央だけで、その外側は激しく流れた画像になってしまう。それを効果的に使う場合もある。わざわざホコリの入ったレンズを持って来たり、太陽光が斜めに差す効果を使ってみたり、何でもアリなのだけれども、レンズを拾いに行く時には、やっぱり綺麗に写るレンズを探す。気がつくと、辺りにレンズがゴロゴロと転がった状態となる。これは沼と呼ばれる状態だ。
7 月13日、マスクがファッションとして定着してしまって、何が変わった?かというと、ボディーサインを使ったコミニュケーションが以前にも増して使われるようになった、ということ。イタリア人化したと言っても良いのではないだろうか。アイサインも大袈裟になった気がする。少し誇張して表現しないと、何も伝わらないのである。微妙な微笑みをもって和を尊しとする美徳なるものは、消し飛んでしまったとも言えるだろうか。声の使い方もまた、ボソボソとした声ではマスクに遮られて伝わらないので、大きくクリアに発声する慣習が根付いたように感じる。さて、マスクが消し飛んでしまったら、どのような風俗となるか、興味のある所だ。元に戻るとは、どうも思えないのである。
7 月12日、理学部の Z 棟はコンクリート打放しの建物なので、コンクリートを流し込んだ跡がよくわかる。特に、継ぎ目に注目すると、鉄筋コンクリートの建物はこうやって造るんだ、という手順が浮かんで来て興味深い。大昔に建てた A 棟や B 棟は、所々でコンクリートの地肌を見ることができて、こちらは型枠の板の木目が残っている。鉄筋コンクリートとはいえ、木工の大工仕事の上に成り立っているという事実を思い起こしてくれる貴重な遺産だ。これら古い建物は新しい耐震基準を満たすよう改修工事が行われて、現在は外側に新しく耐震枠が組まれている。この枠は工場でコンクリート打ちしたもので、現場で接合して組み上げたものだ。工場から出て来ただけあって、タイルに寸分の狂いもない。新旧、色々なものが渾然一体と並んでいる理学部、眺めているだけでも面白いものだ。
7 月11日、ジェット気流が北に去って、夏晴れとなった。シミュレーションを眺めると、少なくとも 10 日間くらいはジェット気流が戻って来ないし、そのまま梅雨明けとなりそうな雰囲気でもある。日差しは既に盛りを過ぎて、夕暮れがはやくなって来た。今日は夕方まで晴れていたので、月頭よりも日没が早いことを実感できた。知事選真っ只中ということで、今日はアチコチから、街頭演説の知らせが SNS を通じて飛び込んで来る。何だかよくわからない選挙戦で、どちらかというと世代間の認識の違いが表に出ているのではないかと感じられる。大学で働いているからか、私の感覚はどちらかというと学生寄りかもしれない。団塊の世代を救うために何かを進めようとすると、やがてはブーメランのように「副反応」が戻ってきて後悔する事になる、そんな気がするのだ。
7 月10日、量子力学は美しい公理系を作っていて、それ自身は物理学の中では珍しく(?)閉じた学問体系となっている。一般的にはあまり認識されていないことなのだけれども、我々が日常的に接している古典力学の世界、つまり古典的描像の成立する巨視的な世界を量子力学的に記述することには、誰も成功していない。プランク定数があまりにも小さ過ぎて、巨視的な世界との階層が物理的にというか、論理的にというか、直感的にも接続されていないのだ。小さい方から何とか機械を組み上げて、この世界観を構築して行こうとする試みの一端がナノ物理学と呼ばれる一群の実験やシミュレーションだ。工学的には古典物理学の側から、理学的には量子力学の側からアプローチしているのが興味深い。量子力学に現れる「観測者」のモデルを工学的に造り上げることができれば、物理学そして工学は大きく前進するだろう。
7 月 9 日、ギターのように指板のある弦楽器には、演奏技法として左手のスラーがある。左手の指で弦を弾くか、弦を上から指板に叩きつけるだけ。ただそれだけだ。音楽表現としてスラーとなるかどうかは別のことで、強く弾けば、あるいは強く叩きつければ、当然ながら強い乾いた音が出る。弾く場合には、その直前に動作を開始する必要があって、それよりも早く弦に力を込めると、チョーキングしたように音程が狂ってしまう。スラーの音が思い通りに出るためには、指と弦の角度や押さえる力の加減が重要で、うまくスラーができない場合には左手のフォームがどこかおかしいことが多い。逆に、スラーを拠り所にして練習する手もある。うまく弾けなくても、諦めないことが大切で、訓練すれば薬指のスラーも段々と音が出るようになる。ギターは、いやいや、ギターも、弾いていて、1音すらマトモに音が出ないものだと、楽器演奏の苦労を思い知るものだ。
7 月 8 日、立体の図面を描いた時に、少しややこしいのが、そこが飛び出ているのか、凹んでいるのかの描写だ。正しく描いたつもりでも、見る人によっては両者を取り違えるかもしれない。そこで、なるべく誤解されないように、あれこれと工夫する。面を塗っても良い場合には光が差し込んだように見せるのが確実な手段だ。図面は線画が基本で塗ることができないので、太さを変えてみたり、誤解を生むようなものは省略して描かなかったり、補助線を入れてみたり、点線を組み合わせてみたり。三次元のものを平らな図、図という静止画に落とすのだから、どうやっても仕方ない部分も残るけれども、そこは説明文などを組み合わせつつ、最終的には理解してもらえるよう努力する。とかく、論文執筆は難儀なものだ。
7 月 7 日、七夕に願いをかけるならば、普通に生活が送れることに気づく機運が生まれますように、ということだろうか。何事も全国一律にという考え方に染まってしまっている世の中に、もう飽き飽きとしているのが自粛2年目の近況だ。年齢層についても同じように言えるだろうか、平均寿命の半分以下の年齢層ではインフルエンザの方が恐ろしい病だし、麻疹やおたふく風邪や結核はもっとずっと超怖い。重点を置くべきところに重点的に施策せずに、満遍なくというのは、10万円還元に通じるものがある。いま舵を切るとすれば、社会の仕組みに情報ネットワークをもっと組み入れて、都市部への人口集中を抑制することが先決だろうか。さて、短冊を笹に結んで、幾つかお願い事をしよう。素朴な願いも尽きないものだ。
7 月 6 日、少し書き足りないなーと思った文章に、追加で新しい事例を加えて、上手くかけたと思って読み直すと、蛇足だなーということがある。蛇足は蛇足なのだから、その場所から削らなければならない。でも、せっかく書いたのだから素材として取っておいて、またどこかに使い回そうということになる。よくあるのが例え話の類で、物理を平易に話そうとあれもこれもと盛り込むと、読者とっては読みづらいものとなってしまう。講義もまた、似たような所があると思う。何でもかんでも、最初から事細かに厳密に教えれば良いというものではない。少し、いや、だいぶんボケた感じで、ミニマルなところをサラリと理解してもらって、面倒なことは自習してもらうのだ。但し、ウソをついてはならない。科学を曲げるのは講義でも解説でもないし、あり得ないことだ。
7 月 5 日、木材は、置いておくとゆっくりと変形する。桜のような広葉樹は、育つときにネジれながら大きくなって行くので、材木として切り出して乾燥する内に、曲がってしまう。この変化は乾燥によって引き起こされるというよりは、むしろ経年変化と表現する方が良い。弦楽器のネックは、おおよそ広葉樹で造られていて、大抵は単板の無垢板だ。しかしながら、何年も経つとネジれて来て ... ということはあまりない。弦を張る力で、弦が浮くようにネックとボディーの角度が変化することはあっても、捻ったような曲がりは出てこない。素材の段階で、充分に木のクセを見切った上で、長年ストックしておいたものから加工して行くのだろうか。もう工房も閉じてしまった小さなメーカーの作品、大切に弾いて行こう。
7 月 4 日、一応は専門職に就いていて思うことはというと、与えられた職務には充分に時間を注ぐべきだという、当たり前のこと。仕事を離れての趣味のような同好会的活動は、楽しいには楽しいのだけれども、それが五月雨のように職務の時間に食い込んでしまうと、マトモな仕事ができない。常々、どこかは研究のことが頭の片隅にないと、突然の発想というのは浮かんで来辛いらしい。... このように書くと、誰か邪魔者を揶揄しているかのように感じられるかもしれないけれども、そうではない。敵は自分の中にある。遊ぼうよ、という内なる声が、気楽な方向へと関心を向けてしまうのである。遊ぶならば、誰も気にしないような、そして誰も知らない物理の世界で遊ぼうか、そうでありたいと改めて思う日曜日であった。スケートしたいな。
7 月 3 日、潮風の香りが強くなった。梅雨前線の南側に入った証拠だろうか。前線の南側とは言っても、カラッと晴れているわけではない。まだまだ太平洋高気圧の端にすぎず、少し北の上空にはジェット気流も強く吹いている。日中の暑さよりも先に熱帯夜がやって来る。こういう天候が1週間以上は続くという予報だ。もう梅雨明けして欲しいような気分だけれども、例年ならば梅雨入りしてまだ 2 週間くらいの時期だ。まだまだ雨が降るし、降ってもらわなければ困る。あまり多く集中的に降っても困る。天候は人間の都合に合わせてくれないので、人間の方で調整するしかない。というわけで、雨の合間をぬって浜辺の散歩。
7 月 2 日、地球全体の空気の動きを海面高度で眺めると、陸地が及ぼす影響がいかに大きいか実感できる。大西洋は海としては狭く、イギリスの西側に低気圧が1つ鎮座するのが関の山だ。インド洋はすっかりモンスーンになってしまっていて、南半球からインドやミャンマーへと風が吹き込み、どこにも前線がない。台湾の辺りにも同じように季節風が吹き、日本の南岸辺りで収束して梅雨前線となる。南極の周りはとても印象的で、夏でも冬でも南極から寒気が噴き出して、いつも温帯低気圧だらけとなっている。偏西風の波動が綺麗に見えるとも言えるだろうか。ユーラシア大陸やアフリカ大陸に入ってしまうと、地表の風はとても弱い。日本は、風の国と表現しても良いのではないだろうか。
7 月 1 日、鉢と鉢をガチンとぶつけてしまい、弱い方の鉢が幾つかのカケラに割れてしまった。うーん、これは補修するしかない。いろいろな補修方法があって、針金で固めてしまうとか、エポキシで繋ぐとか、石膏で固めるとか。セメントという手もある。とりあえずは接着剤に頼っておいて、外側からセメントで上塗りしてしまおうか?そのように補修すると、外見はコンクリートのように見えるものとなる。機能的には、元の鉢とあまり変わらないだろうか。よく、博物館で見かける埴輪のような、ああいう丁寧な補修も良いのだけれども、そこまで凝っても仕方ない気もする。鉢の下にはナメクジだらけ。まあ可愛さもあるし、放置しておこう。
5 月と 6 月の1行日記