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6 月30日、社会に教育が必要とされている、必要であるという認識は「おおよそ」共通のものとなっている。お陰様で、昨年、今年と2年続けての大騒動の下でも、教育は継続できていて、教職にある我々も食いつなげている。微妙な変化があるとすれば、学習は映像教材を使って充分にできるという認識が社会的に得られたことだろう。教員はどちらかというと、質問を受けて答える、あるいは積極的に理解度を確かめるという、学習のフォロー役に回るので良いのではないだろうか。予備校的な要素とも言えるだろう。また、いつどこまで学習するべきか?という共通の尺度は捨ててしまうのが、社会全体としての幸せにつながるのではないか?とも思う。読み書きソロバンなど最低線を押さえておけば、後は必要に応じて教育が受けられる、そんな教育を目指したいものだ。というわけで(?)、年の前半は定職につけて働けた。誠にありがたいことである。

6 月29日、植物は水と空気と土と日光が揃えば成長する ... とも言い難い部分がある。種子から生えたばかりの小さな芽は、まだ自ら養分を吸収する術も限られていて、幾ら育て育てと世話をしても、急には伸びない。もし急に伸びたとしたら、それは徒長であって、ちょっとしたことですぐに腐って枯れてしまう。炭酸ガスを加えるなどして、促成栽培する術はあるのだけれども、いわゆる温室育ちになってしまう危険が大きい。定植する時に、うまく環境を引き継がないと、いわゆる「いじけた苗」となってしまう。バランスが崩れた状態を元に戻すには、一度は条件を絞って、環境との折り合いをつけてもらう必要がある。その作業がうまく行くと、見違えるように伸びて行く。

6 月28日、いつも飲んでいる紅茶の生産地を見て、あらあら、ケニアとインドネシア、その他であった。ずーっとインド産だと思い込んでいたので、意外。お茶の木が育つ条件が揃う地は、世界のあちこちにあるのだから、意外に思う方が間違っているだろうか。日本でも紅茶は、作ろうと思えば作れる。少し値段の高いものになると、ようやくインド産になるのか。目隠しテストされて、それらの間の区別がつくか?というと、何とも言えない。違いは分かっても、どちらが「高級とされる」かは、別問題だ。お茶の入れ方や容器、温度などによって、味わいも変わって来るので、同じお茶の葉を使って目隠しテストしても、実は違いが出てくるのかもしれない。今は、いや今も、貧乏生活だから、安いので良いのだ。

6 月27日、朝顔は、原種に近いほど日が短くならなければ花が咲かない。野朝顔はとても印象的な花なのだけれども、下手をすると11月に入るまで花をつけない。そういうわけで、栽培するにしても、今頃からでも充分に楽しめる。ただ、朝顔というと夏の花という印象があって、お盆を過ぎて咲いても何となく季節外れのように思えてしまう。そんな無理難題を草花に吹っかけても仕方ないのだけれども、何事も早め早めを好む民族性とでも言えるのだろうか、朝顔と花火の浴衣はセットなのである。ときに、去年は少なくとも気分的には花火どころではなかった。今年は、もう諦め気分で花火でも楽しもうか、そんな雰囲気だ。あのウィルスで人類が滅亡することは決してない、ということだけは確かだ。さあ朝顔だマンボウだ酒池肉林、いや、酒はもう断とう。

6 月26日、人の手が入っていない薮の窪んだ場所には落ち葉が山のように積もって、フカフカになっているか、あるいはドブのように底無し沼となっている。それらを集めて取り除くならば、さぞかし重たいであろうと想像してしまうのだけれども、意外と軽い。重たいのは水を含んでいるからであって、乾いてしまえば海苔のように軽いのだ。落ち葉で堆肥を作ろうと、袋や容器にたっぷりと詰め込んでおいても、次の夏にはもうペタンコになってしまっている。炭水化物は分解されると再び二酸化炭素と水に戻ってしまうのだ。この変化の主役は菌類で、カビやキノコなどの形で取り付いて、いつの間にかボロボロに崩してしまう。最後は粉が残るだけだ。自然のリサイクルは上手くできているものだ。

6 月25日、リュート組曲第2番は、バッハのリュート曲の中でも比較的ギターの調弦に合った曲で、心折れそうになるほど長いフーガは別として、アマチュア演奏家にも人気の一曲だ。プレリュードの始まりから面白くて、上声が変化しない中で下声だけが静かに下降して行く。何となく自然に聞こえてしまうのだけれども、和声はジワジワっと隠れたまま変化して行って、次への動きを導くようになっている。そんな所もあるかと思えば、和声のアルペジオだけの部分でいつの間にか転調していたり、パッと進行が止まったり。練習していて飽きない曲だ。どの音もどの弦でも粒揃いの音で弾いて、などという神業は到底無理だけれども、手習いは楽しい。

6 月24日、なるべくバラエティーに富んだ食卓を、と思って食材を揃えると、段々と冷蔵庫が半分だけ使ったもので満たされてしまう。そうならないように、同じ食材を違った調理法でと心掛けてはいるのだけれども、気がつくとパッと開けた感じが雑然。やっぱりスープに入れてしまうしかないかー。若かりし頃ならば、全部丼に入れてオリーブオイルでもかけて食べれば、それでよかったのだけれども、流石にカロリーオーバーだ。というわけで、今日も試行錯誤が続く。少し変わった調味料などが、諸悪の根源であるので、なるべく基本的な調味料と香辛料を合わせて使うことにしている。化学調味料を毛嫌いするのではないけれども、結果として、化学調味料は置いていない。但し、惣菜などから、多量に摂取していることは間違いないし、そもそも自然の食材にも同じ成分が含まれている。

6 月23日、海の恵みというものは大切らしくて、植物の根本に貝殻をまいておくと、よく育つ。アルカリ性を嫌うと言われる植物でも、貝殻の場合は細かく粉砕しない限り、特に問題は生じない。そこが石灰岩とは少し異なる所だ。有機物が含まれているからだろうか。何年かかけて、貝殻は段々と脆くなり、やがては手でパリパリと割れるようになる。その頃には、もう充分に肥料の役割を果たし終えているようだ。また次の貝殻をまいて、育ってもらう。もちろん、貝殻だけを大量に敷き詰めるわけではなくて、堆肥をあげたり土を耕したり、さまざまな手入れの一環として貝殻を少し置いておくだけだ。それに、現代の都会の世の中では貝塚ができるほど貝を購入したら、破産してしまう。

6 月22日、職に就いたのは20代も終わろうか?という時期だったけれども、かれこれもう◯十年も働いていて、教員業という公務員的な仕事にドップリとつかっている関係からか、縦割りされた仕事の筋というものをまず考えるようになってしまった。普段は、これで業務が効率的に回るのだけれども、どうにもならない場合は「横串」を通す必要がある。こういう時には、ちょっと緊張して、トラブルのないように丁寧に照会を進めて行く。ただし、誰かの生命に関わりかねない事象については、そんな悠長なことは言ってられないので、即座に可能な限りの手を尽くす。だいたいは迷惑に思われるだけで済むのだけれども、それは、それで良いことだと思う。

6 月21日、夏至の日に黄色い表紙の冊子が届く。ありがたき幸せ。執筆機会を頂戴したのみならず、自信喪失して筆がパッタリと止まってしまった1年を辛抱強く待っていただき、執筆再開の折には暖かく後押ししていただいた。これまでの研究から色々なトピックスを盛り込んだので、学部生や大学院生、そしてポスドクの皆様が計算した成果も含まれている。何事も一人だけでは進まないということを、執筆を通じて痛感した。この冊子でまとめた書き方は、次に何かを執筆する際には真似のできないものだ。同じものを二度書きするのではなく、違った角度から取り組んで行く、そのようにして、テンソルネットワークの多彩な素顔を、これからも広く伝えて行きたい。

6 月20日、小松菜、ルッコラ、そして水菜。これら青菜は、塩を加えて油炒めすると風合いを保ったまま、美味しくいただける。中華料理では、素揚げしたような状態で提供される。そのまま茹でて、おひたしにする調理方法も、大量に仕入れた場合にはお勧めだ。まだ歯応えが残る状態でいただくと、とても美味しい。スープにも、刻んで加えるだけで風格が増す。このように利用する青菜は、できるならば畑からの直送のものが良い。流通の途中で貯蔵が入ってしまうと、どうしても根からの吸収のない状態で、育ってしまい、結果として味わいが飛んでしまう。今はどちらかというと端境期だ、青々としたものを見つけたら、即購入。

6 月19日、果肉が赤い色のメロンは、どこまで食べられるかの予測が容易だ。赤い部分は全て食べられる。どこもかしこも緑色だと、この判断がなかなか難しくて、硬さや甘さを確かめながら、包丁を入れることになる。そんなこんなで思い出すのが、大昔に小学校でクラスメートと話題になった、メロンをどこまで食べるか?という話。まず、中央の種を食べるかどうか。種の部分を絞って汁を飲むのは、まあ手間の内かもしれない。加えて、種そのものまで食べるか?という話であった。また、皮を食べるかどうか。皮まで全て食べてしまう、という家庭もあったようだ。昔は何となく、単に好みの問題だと思っていたのだけれども、いま思い返してみると、背景には貧困もあったようだ。ちなみにメロンの皮は、漬け物にして細く切って食べてみると、意外と美味しい。これは確かなこと。元々がウリであるから、それはそうだろうか。

6 月18日、唐辛子を一本、鍋に入れてもあまり辛くならない。辛みの成分は油に溶けるもので、水にはなかなか馴染まないことと、皮の表には比較的厚い皮があって、辛みの溶け出しを邪魔するからだ。唐辛子を半分に切って、先に油で軽く炒めておくと、わずかに一本でも猛烈に辛くなる。これもまあ、唐辛子の種類によりけりではあるけれども。みじん切りにしてしまうと、鍋の中に浮かぶ油分に触れ合って、どんどん辛みが溶け出して行く。あまりにも辛くなり過ぎたら、表面の油をすくい取ってしまうとマイルドになる。こうして辛みと付き合って、さて何をしているんだろうか?と考えてしまう。夏は辛みだ。

6 月17日、室内では、あまり植物がうまく育たない。土が限られている、雨が当たらない、風が吹かない。これらの条件から、ダニやアブラムシなども取りつき易い。ついでに、冬が来ない。休眠期がないと、うまく育たない植物はダメなのである。また、チューリップのように、寒くならないと花芽がつかない、ヘンテコな(?)やつもある。水を絶って強引に休眠させたり、冷蔵庫へ入れたりと、涙ぐましい努力が必要となる。そこまでやるなら、外に出せば良いし、何も室内で育てることはないのだ。そういうわけで、庭や空き地に出て行った植物ばかりのような気もする。割とうまく行くのが単子葉植物で、さすがは後から進化して出現した種だけのことはある。

6 月16日、レターとして論文掲載されることに異様にこだわる著者に、時々遭遇する。まとまった仕事であれば、フルペーパーとして発表することで、充分に評価され引用されて行くし、プレプリントの段階で注目を集める。わざわざ、短く読みづらいレターとして発表する必要はないのだ。典型的なパターンが、レターのはずなのに付録(supplemental matter)の方が何倍も長くて、そちらに本論を編み込んでしまっているようなレター論文だ。これはもう、論文であることを放棄していると言っても良い。最近思うに、前置きばかり長くて、本論を述べるスペースと手間を削っている、そんな論文原稿の比率が上がって来ている気がする。画期的なものだけ掲載する、という世の中の風潮が色濃く影響している。もうプレプリントだけで良いのでは?とすら思ってしまう。

6 月15日、地価、正確には路線価の発表の時期が近づいている。さて今年は、どんな動向となるのだろうか。いわゆる雑居ビルの通りに面していない階が空っぽになってしまった今、昔ながらの価値観が保たれているとは思えない。とは言っても、バブル期の株価がそうであったように、物の価値は一気には下がらない。じわじわーっと塩漬けのように放置されて、ようやく景気が復活して来た頃に次の動きが起こる。このタイミングで、お役所から街のにぎわい云々という将来像が出てくると、さてそのような未来がやって来るのだろうか?と思ったり、思わなかったり。通勤の途中で立ち寄る三宮の光景は、確かにだいぶん「にぎわい」が戻って来た。固定資産の価値の行方やいかに。

6 月14日、夜遅くまで明るいなーと思ったら、もう夏至まで一週間になっていた。日の入りが最も遅いのは月末頃で、あと3分くらいは遅くなるようだ。とは言っても、もう誤差の内(?)のようなもので、今が一年でいちばん「明るい夜遊び」ができる頃だと思って間違いない。この日照の長さに、農作物も合わせて大きくなって来た。アンデスメロンはもう、ハンドボールくらいの大きさとなり、片手では上から掴めなくなった。スイカも、もう走りとは言えない甘さになって来た。今年は適度に降雨があって、あちこちの空き地にも草が目立つ。そういえば、空き地が多いと思っていた昨年とは打って変わって、最近は建築工事が復活して来たなー。

6 月13日、ニンジンの見切り品が転がっていたので、数本買った。品質や鮮度には全く問題なし。地上に出た部分が黒くなっているだけとか、所々に黒い点が入っているとか、それくらいのものだ。これで価値が下がるのだから、商品は見かけ次第なのだと、しみじみ思った。そういえば、研究にも似たような所があるかもしれない。学派としてのパッケージングにうまく成功すると、しばらくの間は研究費も潤沢に獲得できて、人々も集まって来る。やがては芽が出るであろう重要なテーマであっても、いや、そうであるからこそ、誰にも理解されずに埋もれたままという事もある。そのようなものは、後々に再発見という形で誰かが掘り起こして、やがて流行るのである。

6 月12日、論文の原稿が正しく書けているか?ということを判断する際に、英語の良し悪しはあまり問題ではなくて、構成や内容の整合性がより重要である。ただし、あまりにも英文法が乱れていて、何を書いてあるのか判別がつきかねる場合は、流石にお手上げとなる。そういう場合に、英語がマズイと突き返すことになる訳だけれども、そもそも当方も non native speaker ... いやスピーカーとすら言えないほど英語が下手だから、突き返す時には google 様のお世話になって、英文法や英語表現のチェックを行う。日本語と英語の間で何往復か翻訳して、意味が変わらなければ大丈夫だ。注意深く書いたつもりでも、中学生レベルの間違いを1行に1回くらい、やらかしてますなー。

6 月11日、シニア研究者が、突如として妙なことを言い始めるのは、よくあることだ。そういう妙なことに限って、何となく(母集団は限られているかもしれないけれども)一般ウケし易いもので、よく科学読み物に記事掲載されたりする。このモードに入ってしまうと、もはや科学者ではなくなるのか?というと、そういう場合もあればそうでない場合もある。啓蒙的な文章ではブッ飛んだものを書いているのに、同時に arXiv にはゴテゴテのロジカルな論文を投稿するというケースもあるのだ。不思議なようで、不思議でないような、不思議な印象を持ってしまう。単に遊んでいるだけとも思えない。人間だれしも、そんな存在なのかもしれないと、教えてくれているような気もする。

6 月10日、一気に真夏の暑さとなった。街行く人々の数もグッと増えたような気がする。自粛に飽きた、そんな所だろうか。若い世代にまで本当に怖い疫病であれば、中世のペストのように身の回りで、次々バタバタと人々が倒れて行き、社会の構造が根本的に変わる、そんな光景が世界のどこかで起きたはずなのだけれども、そういう知らせは全く耳に入らない。こうして暑くなって夏が来て秋が訪れ、次の冬には何が一番怖いかというとインフルエンザであるような予感がある。それも新型ではなくて、今までにやって来た型が微妙に変異したものが。要するに普通のインフルエンザ。何度感染しても、大変な病であることは経験上間違いない。

6 月 9 日、街中で遭遇するウェデングフォトの撮影、立ち合いのスタッフは2名から数名くらいの場合が多い。準備の段階では、もっと関わる人が居るけれども、そんなに大勢で街中に出て来るわけにも行かない。ニュースの撮影になると、いかつい機材を抱えた人々がわんさか集まって、非日常的な光景となる。テレビドラマの撮影になると、これはもう部隊と言っても良いくらいの人数になる。テレビ画面はスッキリしているのに、あんなにカメラやらマイクに囲まれているとは、恐るべし。そして、傍目には何も雰囲気がなさそうな場所で撮影しているのに、動画の画面は魅力的だ。何事にもプロの技はあるんだなー、物理学ではどうなんだろうか?どちらかというと見せる生業じゃないからなー。

6 月 8 日、パッと部屋を見渡して、1年間使わなかったら、それはもう捨てても良いものだ。ええと、その中でも特に大型のものが、スーツケースだ。年に何回かは一緒にあちこちを巡った相棒だけれども、なんだかんだでもう2年近く使っていない。またいつか、元のように旅して ... 旅が目的という旅は、そんなに頻繁ではないんだよなー。大抵が何かの打ち合わせとか会議とか、そんな用務での出張だったから、今の世の中ではもうリモート会議で充分なんだよなー。それに、旅費に多くの費用を注ぎ込むという無駄に、世の中が気づいてしまったのだから、これはもうスーツケースの出番はないない、エイヤッと粗大ゴミに出そう。

6 月 7 日、造波抵抗を避ける方法の一つが半潜水船。浮力を受ける部分が海面よりも下にあって、海面付近は細くくびれている、そんな船だ。走っている時は、フィンなどで安定を保てる。構造上、停泊中の安定性はイマイチだ。双胴の船にすれば、海面が静かであれば特定の速さで造波抵抗が小さくなる。そこを狙って巡航するという手がある。これらの利点は波が高くなって来ると段々と怪しくなるので、荒れた外海には向いていない。何事も一長一短、用途に応じて船の型は色々だ。さて、神戸港の観光船は面白いことに、様々なタイプの船が揃っている。帆船らしき形のものまである。運行している姿を眺めると、同じ船でも挙動がそれぞれ違っていて、見飽きない。

6 月 6 日、サツキを強剪定する時は、ちょっと頭を使う。どうしても穴が空いたようになってしまうので、そこだけが目立たないように周囲もスカスカにしてみたり、光がよく当たって新芽が伸びて来るように掃除してあげたり。肥料や水をタイミングよく与えて、どんどん伸びて来てもらうことも大切だ。そして、強剪定した周囲が枯れないように見守ること。枯れそうな古い枝は、最初から切り払っておく方が無難かもしれない。フサフサとした緑色の新しい枝はなかなか枯れないのでアテにする。固くなった枝葉の場所は、やがて枯れる。ハサミを手にする前に、まず手で撫でてみて感触を確かめておいて、しばらく思案して、エイヤッと。なんか研究のネタ探しによく似てる。

6 月 5 日、research map に本腰を入れて手入れすることにした。今まで、色々と入力してもらっていたデータが ... まあ仕方ないのである、科学論文のタイトルを過ちなく入力するには、本人あるいは同じ業界の人でないと無理なものがある。というわけで、既に記入されているデータも doi からの自動入力で上書きして、入力されなかった項目を補って、チェックして。そして、自分以外の修正は自動的には反映しない設定に。これから先、ORCID にもテコ入れしないとダメなのかなー。色々とやってみては、次々と新しい枠組みが出てきて、乗り換えが必要だ。この手のデータベースも SNS アカウントと大差ない気がするのである、その混沌ぶりにおいて。サイエンスに滅私奉公できれば、それで良いのだから、まあ程々に付き合うことにしよう。

6 月 4 日、梅雨の天気、今まではずーっと梅雨前線に目を向けるばかりだった。気象衛星を見ると、梅雨の時期には太平洋の西側、フィリピンから台湾の辺りに、北へと向かう比較的強い風が吹いていることがわかる。全球シミュレーションの画像では、更にハッキリと写し出されるこの流れは、モンスーンとも(広義には)総称される季節風だ。梅雨の正体は、梅雨前線そのものよりも、この季節風の中にある。たっぷり水を吸い込んだ温かい空気が、幾らでも次々と日本付近へと押し寄せて、雨を降らせていることが感覚的にわかると、何となく楽しい。この雨水は「太平洋の蒸留水」なのである。降り始めの雨を除けば、けっこう pure な水なのだろう。

6 月 3 日、大規模な私立大学は国公立大学に比べると、一般的に教員数に対する学生数の割合が大きい。また、大学院生の割合が少ないという傾向がある。緊急事態宣言によって、キャンパスに居る人々の数が大きく減るのも、大規模な私立大学では致し方ない現象だ。結果として、生協が受ける影響も相対的に大きなものとなる。疫病(???)の流行が終わったら(???)また元のようなキャンパス風景に戻るか?というと、どうもそれはない気がする。リモートで講義でも会議でもできてしまうことが、これだけ証明されてしまった今、わざわざ大きな建物を建てて広大なキャンパスを維持するモチベーションが、以前ほどではなくなったのではないだろうか。将来的に、大学生協がどれくらいの規模の経営で続いて行くのか、模索は続く。

6 月 2 日、ルネッサンスの曲の楽譜を見ると、往々にしてものすごく音符が薄い。こんなに少ない音符で曲になるの?と不思議に思いつつ、弾いていると段々と音楽が浮かんで来る。調は固定されているように見えて、短調とも長調ともつかない辺りを行き来するし、時々モードを変えたのかと思わせる臨時記号が入って来るし、何とも面白い音楽だ。演奏家が弾いた曲を聴くと、楽譜に落とされているのは設計図だけであって、後は延々と変奏曲を臨機応変に披露するのがルネッサンスというものらしい。いつ終わるともつかない長い長い曲が、わずか一ページの楽譜から生まれるのだ。昔はリュートや8弦ギターにも興味があったけれども、今は6弦なら6弦で弾いてみるよう工夫するのが楽しいと思っている。

6 月 1 日、骨付き肉はスープで楽しめ、というわけで野菜と肉を放り込んで煮込み。しかし、なんだかもう暑いのである。鍋を弱火で調理するのに必要な発熱量は、人間がそこに一人居るくらいのはずなのに。ええと、調べてみると弱火で 200 W くらいか、白熱電球 2 個分の発熱量だと思うと、だいたい直感に合っている。人間の発熱は 100 W くらいだと言われるので、弱火でも二人分くらいの酸素消費はあるわけか。案外多いなー、調理中は換気に気をつけるようにと指導されるはずだ。まあ、これには不完全燃焼で出てくる一酸化炭素に対する注意が含まれているので、酸素消費量自体はそんなに問題ないわけだ。などと考えていても、調理場ではじわじわと汗が出てくる。換気だ換気だ。

5 月31日、去年は確か、このあたりから新学期が始まったのだったっけ、お盆過ぎまでの長いような短いような前期であったなーと、しみじみ思い出す。キャンパスから学生の姿が消えて、シーンとした大学が印象的であった。梅雨になって、どんどん感染者数が減って、夏の間は流行らない感染症なのではないか?と思っていら、忘れた頃に?再び増えるという、何ともしぶとい動きを示したウィルスであることが判明。いや待てよ、そもそもインフルエンザは、夏の間はどこに隠れているのだろうか?南半球?いや、そんなことはない、夏の間にも目立たない感染が続いているのだ。今もなお。こうしてインフルエンザが遠くなった何年かが過ぎ去った後に、実は怖いインフルエンザが戻って来て、人々は何を理解するだろうか?

5 月30日、ギターは平均律の楽器だ ... というのは冗談。バッハを弾く時には転調しまくるから、平均律っぽく調弦することもあると思うけれども、あまり転調しない曲の場合には、5弦や6弦は、その曲に合った高さで調弦していることの方が多いような気もする。そして、平均律っぽく調弦したとしても、押さえ方によって微妙に音の高さが異なるので、特に旋律を主に弾くような場面では、それぞれの調で鳴るように音を出しているはずだ。ついでに、弦楽器にはビブラートの自由度もあるので、その中で、どこに音の中心を持って行くかも幾分かは加減できる。... と、色々書いたけれども、まずはマトモに音が、マトモなタイミングで出て来てくれれば、満足しよう。理想と自分の技量のギャップは大きい。

5 月29日、ギターの弦は、元々はガット弦だったのだろうか、ナイロン弦に変わったのは大きな変化で、楽器自体の大きさや演奏方法、ギターで演奏される曲や弾き方も大きく変わった。下から3本か4本が巻き弦で、やや金属的な音がでて、上の2本か3本はナイロンだけという形式が定着して今に至る。現代的にはカーボンファイバーなどもアリなのだろうけれども、急激な音の変化や、見た目に弦が黒いことへの違和感もあるのだろうか、あのネットリとしたナイロン弦からは、変わる余地が少ないのかもしれない。一方で、金属弦を使うフォークギターやエレキギターは次々と材質の変遷があって、今もなお進化の途上にある。奏でる音楽も次々と変わって行くし、どんな音でも楽しめる余地が広いという軽音の特徴もあるのだろう。まあ、何百年も後の時代のギターは、今の形から随分と違ったものになるのだろう。

5 月28日、梅雨の中休みに入って、朝夕がひんやりとした日が続いている。それでも、ゴールデンウィークの頃に比べると、気温は随分と高くなっていて、そろそろ朝顔やヒマワリの苗を植える季節だ。種からでも、まだ間に合うには間に合うのだけれども、早い時期に花を楽しむならば、苗を買った方が手っ取り早い。苗はポットに土付きで売られているので、毎年のように庭や花壇に植えていると、段々と土が高くなって行く。そのままにしておくと山が出来上がるので、晩秋に抜き去る時に土も少し削って、裏庭などの目立たなく低い場所に移して、なるべく凸凹がないように作業する。きっと、こんな営みを同じ場所で代々続けると、家の立つ場所だけ小高くなるのだろう。そんな田舎風景も見たことがあるような、ないような。

5 月27日、浜辺の散歩が気持ちよくできる季節になったけれども、今日は雨で朝は散歩せず。夕方には上がるらしいので、日が暮れてからボソボソと散歩するか。この雨の水はどこからやって来るのか?と、気流を全球シミュレーションで眺めてみると、見事に太平洋から流れ込んで来る風であった。冬の雨が、どちらかというと寒気の吹き出しによって誘発されるのに比べると、今時の雨はいくらでも「水源」から湿り気が供給されるので雨量が多い多い。シミュレーションの画面を開いて、段々と高度を上げて行くと、この暖かい気流が上空へと昇って行く有様が見える。どんな雲になって行くのか、夕暮れ散歩の時に観察してみよう。

5 月26日、千葉県から箱入りの野菜が届く。産地直送ということで、事前の想像では新聞紙に包まれた泥付き野菜がゴロンと詰め込まれているのだと思い込んでいたのだけれども、届いてみてあれあれびっくり、モダンにお洒落な詰め合わせになっていた。まずは痛み易い野菜からさっそく下調理。菊菜をよく洗って、茹でてお浸しの準備を終えて冷蔵庫へ。大根の葉とセロリも、自然に育った感たっぷりで、これまたじっくり水洗いして下処理の後、刻んで鍋へ。漂う香りが強くて、しっかり育っている。絞って食べるか、それともこのままスープにするか、思案しつつの調理は楽しい。結局スープで頂戴した。しばらく食卓が豊かになりそうだ。

5 月25日、梅雨の中休み。例年であれば、梅雨入り前の初夏の頃だ。この時期に日照りが続いて、枯れる草木も出てくるのが例年のこと。今年は早々に梅雨入りしたので、あらゆる植物が水をたっぷり吸って、素晴らしく成長している。伸びすぎのものも多い。街路樹が暴走しているというか、歩道へ向けて伸びすぎているような箇所も目立つ。歩道を塞ぐのであれば本末転倒なので、切ってしまいたい所だけれども、他人のものや公共物には手を入れられない。斜面の木々が茂って重くなると倒壊の危険もある。何となく、頭上に目配りしながら歩くとか、雨の日には近づかない場所もいくつかある。新緑を有り難く思うのも、うっとうしく思うのも人間から見てのことで、自然は自然だろうか。

5 月24日、長年のクセはなかなか抜けないものだ。ギターで何とかしたいと思うのが、右手の安定と左手の指のバタバタ感を減らすこと。最初から、キッチリと習っていれば ... と思うならば、いまでも矯正可能なはずだ。スケート場で鍛錬する人々を見ていると、滑れている限り何歳でも、氷の上に乗っている限りは日々、技術の向上がある。楽器も同じで、何か目標を持って練習すれば、それなりに改善されて行くはずだと、まずは信じることから始めたい。そして物理。物理で悪いクセがついたのは、何となく picture を持っていたら楽しいというアマチュア的な感覚だろうか、それを論理が乗るまでの小さなステップに分割して、ロジカルに再構成することを、いま初めても良いはずだ。スポーツ選手のフォーム改造と同じことかも知れない。成功もあれば失敗もある。失敗を恐れずに挑戦すること自体を目標にするのは、意識が高いだけなので、まあ気楽に始めよう。

5 月23日、コミュニティーは一気には形成されない。長い年月をかけて、少しずつ、あちらこちらで様々な出来事が少しずつ発生して、そしていつの間にか緩い繋がりが網の目のように広がっていることに気づく、そんな感じだろうか。加わる人あり去る人あり、それでも保たれている何かがあって、それがコミュニティーなのだろう。学問の世界も似た所があると感じる。何となく、ある方向へと関心が向いている時に、そこへ人々が集まって来て、色々なアプローチを見せてくれて、そうこうする内に意外な発見も出てくる。学派は時として瓦解するようなこともある。発展的解消と称した方が良いだろうか、そして人々は次の目標へ向かって、再び茨の道を歩むのである。

5 月22日、人間の耳、いや動物の聴覚に備わる恒常性はすごいものだと思う。雑音があろうと帯域が狭められていようと、切れ切れになっていようと、通話は可能だし音楽も音楽として楽しめる。聴き始めはびっくりしても、段々とその低い音質の世界に慣れてしまって、頭の中で再現される音楽は高い音質に自動変換されてしまっている。思い出して頭の中で再生される音楽になった頃には、どんな音質で聴いていても勝手に HiFi になってしまっている。年齢を重ねて、既にその音域の音は聴こえないはずなのに、再生されるのだ。昔に聴いたシンバルの音はとても鋭かったなーという記憶があるので、今もシンバルを見てしまうと、その音に聞こえる。人々の声もそのように記憶されているのかも知れない。

5 月21日、花はパッと咲いて当然という感覚は日常のもので、普段は気にも止めないのだけれども、どうしてあんなにパッと咲くの?と疑問に思い始めると、何だか気になって仕方がないのである。小さな蕾の状態から、わずかに数日で?大きくなり、最後にパッと開く。水をどんどん吸い込んで細胞が大きくなって行くのだろうか。例外はあるにしても、花びらは柔らかくて水っぽく、そして開花し終わるとサッサと萎れてしまう。朝顔の花は、あんなに大きいのに、乾いてしまうと実に軽いものだ。梅雨に入って咲くアジサイは例外ではないか?と、調べてみると、あれは花びらではないのだそうな。生物屋さんの観察眼には尊敬あるのみだ。物理よりも役に立つよな〜、とつぶやいても仕方ないけれども。

5 月20日、量子情報の本を開くと、量子測定は測定演算子の組で記述できる、と書いてある。測定後の状態は、いずれかの測定演算子が作用したものになる、というのが定番の説明だ。じゃあ実際に測定してみましょう ... となると、一筋縄では行かない。計数管などで状態を測定すると、測定後の状態というものが崩れ去ってしまう。ベル状態のようなものを作っておいて、その片割れを測定したら、もう片方の状態も決定されてしまう、そんなタイプの間接測定を持ち込むなど、いくつか工夫する必要がある。さて、計数管に粒子が入射すると、その後がどのようなプロセスを経て我々の知る所となるのか、そのそれぞれの段階について、我々はまだ確たる情報を得ていない。量子力学はまだまだ新しい学問で、理解を進める余地は充分に残っている。

5 月19日、ギターの音を大きくしたければ、弦に大きなエネルギーを与えれば良い。強く弾くということで、この目的は達成される。しかし、振幅が大きくなりすぎると弦がネックに接触して、いわゆるビビリ音になる。軽音だと、打楽器風にこの効果をわざと使うこともある。振幅を抑えて音を大きくするには、弦の張力を上げると良い。ハイテンションの、質量密度の大きな弦を使うことになる。そうすると、左手を鍛える必要が出てくる。あるいは倍音を増やすという方法もあって、プロの演奏を聴いていると、ステージでは案外硬い音、鋭い音を使っている。YouTube に上がっている最近の演奏を聴くと、静かな部屋で綺麗なギターらしい音で収録するのが流行りのようだ。楽器にバリエーションがあって色々な音が出るのが、ギターの面白い所だと思う。

5 月18日、音符の薄い楽譜は要注意だ。こんなに音が少なくて楽しめる音楽になるんだろうか?などとうっかり口にすると怒られる。作品として世に出されて、今日まで残っているのだから、面白くないはずがないのである。落ち着いてフレーズを拾って、音の切り方や強弱について考えて、音符に息を入れて行くと、段々と楽しくなって来る。これでどうだろうか?と思って、プロの演奏を聞くと、エベレストを眺めるような技量の塊をさりげなく見せてくれていて、はは〜と平伏すのみである。量子コンピューターも同じようなものかもしれない。ひと通り、そこに書いてある動作は理解したよ、というのと、ではどのように応用して行けるだろうか?と考え始める段階には違いがあるものだ。

5 月17日、土地の平均的な高さとは何だろうか?という素朴な疑問を持って検索してみて、地盤面という用語に遭遇した。なるほど、自然にそこにある地形から、建物を建てる事情に適して「高さ」を定義して行くわけか。あまり曖昧さを残していないように見えて、柔軟な解釈の余地も残してある所が、なかなか面白いものだ。理学ではなくて、人々の活動が絡んだ工学や建築ならではの判断だ。何となく、我々、理学屋が世の中から「センセーのおっしゃることは」と毛嫌いされる理由の一端がわかったような気がする。ともかくも、地盤はどんどん変化して行くもので、特に都会においては歴史とともにドンドン盛る事になる。掘れば遺跡が出て来るのだから、昔の風景はどんなものだったろうか?と不思議にも感じる。

5 月16日、一面に花の咲いたサツキやツツジ、とても綺麗だ。しかし、幾重にも花が重なった下には、緑の葉があって、当然ながら光は遮られている。花が咲いたままにしておくということは、枝葉を紙で包んでいるようなもので、生育には悪影響しかない。そこで、サツキやツツジの花は、咲いたらすぐに花びらを枝から離してしまう。自然の状態だと、風で吹き飛んで行くのだろうけれども、密に咲くように管理した庭では、そうも行かない。大きな庭園では、今が花の盛りという頃に、竹ぼうきで花をガサガサと落としてしまう。そして枝ぶりを確認して、剪定作業に入る。少しでも躊躇すると花後の伸びの期間が短くなって、樹形を保つのが難しくなるからだ。7月に入ると花芽がつくので、もう切れない。そうそう、日常生活でもキレないのが良い。

5 月15日、ギター弦を久しぶりに張り替える。最近は、ほとんど弦に触れることもなかったので、低音弦が切れていたら端を麻ひもで延長して何とか使ってみたり、古弦のストックで間に合わせたり、エエ加減な対処で誤魔化していた。ずーっと使っている弦は、オーガスチンの青弦。アタリの弦だと、とてもいい音がする。昔は時々ハズレがあって、音程がどうやっても取れなかったり、巻き弦の巻きが緩んでいて音が濁ったりということがあったのだけれども、ライバルも多い世の中となって、改善されて来ているようだ。弦の張り替えで怖いのが、テンションを上げて行く時にプッツンと突然切れること。新品でも、いや、新品だからこそ、突然切れるのだ。あ、何か思いついた。弦はキレても、人にはキレたらあかん。

5 月14日、ここしばらく、生ゴミをなるべく減らすことを試みている。生であるというのは、水分を含んでいるということに、おおよそ等しい。脱水すれば良いのだ。紅茶のパックは、絞って1日も放置すればカラカラに乾いてしまう。野菜クズは、段ボールに並べて放置すれば、数日でカラカラになる。そのまま次の野菜クズを並べると、カビが生えて失敗する。段ボール自体を乾燥させる必要があって、その間は別の段ボールを用意する。ローテーションで対応するのである。茶殻の細かい粉は水に流し、大きな茎や葉は絞って段ボールへ。これを屋外でやると、海からカモメがやって来て遊び始めるから、屋内の窓際で干すことになる。なお、鳥のご飯になるようなものは、すでに人間様がありがたく頂戴している。なるべく何でも食べてしまうのも、ひとつの方法だ。

5 月13日、海の向こうの学位論文審査にお邪魔する機会を得て、どんな風なのかという流れを垣間見た。旧帝大の、少し昔の審査の方法と良く似ていて、今回の審査は特に大阪大学と似ていたと感じた。ちょっと雰囲気が違うのは、最終審査が public に行われるということ。単に公開で、というのを超えて「誰が来てもいいよ」という感じで、実際にご親族の方、要するに物理に詳しくない方もいらっしゃるので、ガチガチに研究内容に立ち入るのではなくて、背景から始まって研究の紹介や、その意義を語るという感じであった。ガチガチの部分は、その少し前に行われる予備審査で戦わせる。但し、そこまで行ったらもう、博士号を得たようなものだという実情ではある。全体的に、社会の中に学問を受け入れる雰囲気があるのが、いいなーと思った。

5 月12日、幼少の頃に大ヒットしたのが黒猫のタンゴ。検索するとあらびっくり、元々はイタリアで作曲された童謡で、発表のすぐ後に日本語版が作られたことを知った。どことなくコンチネンタルな感じがするのは、そういう流れもあったのかと、今頃になって腑に落ちたのであった。だんご三兄弟も、何となく同じイメージで作曲されているなー、これはまた 20 年くらいすると、タンゴの童謡が出てくるなーと、誰もが思うことだろう。さて現代のタンゴは?これは、現代のロックは何だ?ジャズは何だ?と問うのと同じくらいナンセンスな問いかけで、バラエティーに富んでいる。ジャズの影響はどんな音楽にも無視し得ないものだろう。音楽は自由でいいな、といつも感じる。

5 月11日、ぶんしょうをひらがなでかくとよみにくいものだ。その理由は、日本語を読む時に単語の認識に漢字が重要な働きをしているからだ。平仮名だけで書いてあると、まず「抑揚のない読みの列」が頭に入り、その列の中から単語を探して文章を構築して行く必要がある。話し言葉には、声の調子など平仮名よりも多くの情報が入っているから、自然と文章を把握できるのであって、平仮名の読みには、もう一段の困難がある。日本語能力を測る手段として「平仮名文章の読みのスコア」というものがあっても良い気がする。GHQ が日本語のローマ字化を検討したという話も聞いたことがあるけれども、それは無理というものだ。むしろ、現代においては印欧語に象形文字が復活しても良いのではないか?とも思う。SNS では絵文字として既に復活しているとも言えるけれど。

5 月10日、幼少の頃から慣れ親しんだ伊達巻は、蒲鉾のシートと、若干の甘みが付いた卵入り・すり身入りの厚焼きを重ねて、クルリと巻いたものだ。これが伊達巻だと信じて育ったので、関西の「どこまでも黄色くて甘い伊達巻」を見てびっくりした。あれは伊達巻ではない、卵焼きだ?! と思ったものだ。ついでに、大変に高価である。また、関西では全体的に蒲鉾がソフトで甘い。讃岐のかまぼこは、すり身を多く使って硬いものが多い。どちらがどう、ということではなくて、好みや調理方法の違いに応じた差異だ。讃岐うどんに乗っているのは、超薄いかまぼこか、トッピングで購入するエビ天など。この「てんぷら」という用語もまた、関東で使うと誤解されてしまうものだ。食べ物は厄介なものだ。

5 月 9 日、香川県の風景は、南の讃岐山脈の方は別として、ただ平たい平地のあちこちに、小さな丸い山がぽこぽこと見えるものだ。ずっと、これが普通のことだと思っていた。他県を色々と旅行して回って、どちらかというと珍しい光景の部類に入ることを、段々と理解した。山がどちらかに固まって存在するとか、見渡す限りの平野だとか、山々に囲まれた地とか、そういう場所の方が多いのだ。瀬戸内海に面した県に、ありがちな光景かもしれない。広島や岡山でも似たような光景が広がっている。さて神戸から高松にやって来ると、海を経て、少し気候が温暖であることに気づく。高松駅に降り立つと、もう暑いくらいだ。吹き抜ける風が、記憶を呼び覚ますものだ。みんな今はどう過ごしているのだろうか?

5 月 8 日、ヘクソカズラとの格闘はまだまだ続く。根を引っこ抜けば、あっさりと駆除できる相手ではあるのだけれども、その根が他の木々の太い根の隙間に入り込んでいたら、にわかには打つ手がない。何度ひっこ抜いても、また芽を出してくる。段々と小さくなって行くので、やせ細らせておいて、最後に小さく細くなってしまった根とともに注意深く引っこ抜く。一年以上かかることもある。あんなに立派な根なので、何か使い道はないか?と思うのだけれども、検索しても特に良い効果のあるものではないようだ。ヨモギの根のように薬効のある野草は少ないものだ。薬効とは言っても、毒はなくて飲める程度に風味があるだけなのかもしれないけれど。

5 月 7 日、バナナの皮には不思議な性質がある。繊維に沿って細くさいて放置すると、1日くらいでカラカラに乾燥してしまう。ところが繊維に直角に切り刻んで放置すると、なかなか乾燥しない。バナナの皮の水分は、繊維に沿わない方向に速く動くらしいのだ。どうして、こんな風になっているのかなーと、思案してしまう。あらゆる野菜や果物に、同じような異方性があって、切る方向によって乾きやすかったり、乾きにくかったりする。なかなか乾燥しないのが、ハッサクのような晩柑の皮で、これはとても薄くむかない限り、なかなかカラカラにはならない。大抵はカビが先にやって来てしまう。海風が吹く日は、それでも乾燥が速い。こうして乾いてしまったら、庭に掘った堆肥用の穴に放り込んで、上から土を被せる。今年は何を植えようか?

5 月 6 日、それは大昔に大阪大学ギター部に所属していた頃のこと、今は消滅してしまった(というよりは発展的に自由にアンサンブルが組まれるようになった)クラシックバンドで日頃は練習に励んで ... いやサボっていた。他大学との合同演奏会の折に、2度ほど隣のタンゴバンドに加えてもらう機会があって、今となってはこちらの経験の方が思い出す機会が多いものとなった。タンゴは、社交ダンスなども関係していそうなのだけれども、けっこう演奏されることが多くて、耳にする度に昔のステージが浮かんで来るのだ。多分に美化されている記憶だと思う。ステージに立ったが最後、誰も助けてくれないというのは、良い経験だった。一番怖いのは椅子に向かって歩いて行くその時で、演奏が始まってしまえば、後は流れるものだ ... 練習を積んでいれば。サボっていた私は ...

5 月 5 日、こどもの日。けっこう雨量の多い雨で、子供の姿なし。今年はスーパーマーケットに鯉のぼりが登場しなかった。何となく自粛モードの連休で、仕事以外やることなし。書き物業に没頭する。いや、そうだ、レフリー業もあったっけ。報告書も締め切りが近づいている。何だかんだで、研究者の仕事は何なのだろうか?と、ふと思うことあり。確かなことは、研究という生業を受け継いでいるということだろうか。こういう風に色々と手出ししていると、タマには自然が何かを教えてくれる運にも遭遇する。大きな獲物を最初から狙うのも悪くはないし、小さな獲物も網か釣り糸がなければ捕獲は難しい。我々が指導できることは、せいぜい、魚のいないプールで釣り糸を垂れないように見守ることくらいだろうか。... それでも何か引っかかる事があるのが、学問の怖いところだ。

5 月 4 日、妙なプレプリントに遭遇してしまった。素人目に見ても、とても雑誌掲載には至らないような内容のないプレプリントで、価値もないものなのだけれども、共著者の中に「そこそこ有名な人」が居る。いや、彼がこのような文章を放置するはずがない。というわけで、その怪しいプレプリントの著者の、他のプレプリントも検索してみると、果たしてクロであった。有名人を勝手に共著者に仕立て上げて、論文投稿している常習犯なのであった。いずれも論文掲載には至っていないのが、まあ閲読とか査読という業界のシステムの健全性(?)を示すものだろう。誰でも投稿が可能なのがプレプリントサーバーの存在意義なのだけれども、こういうのに対しては、倫理的なスクリーニングがあってもいいかなーと思う。もちろん、コストのかかることなのだけれども。

5 月 3 日、天気図では気圧傾度が小さいはずなのだけれども、意外と風が強い朝となった。地形的なものがあるのだろうか、瀬戸内海がちょうど風が吹き抜ける道になっていて、神戸を通過した大気は大阪へと流れて行くように見える。下層の雲があまり出ていないので、上空がどのようになっているのかは、判断のしようがない。空気は澄んでいるので、辺りを写真に撮ると五月晴れという感じに写る。体感的には、それよりも寒い。風があると、まだ肌寒く感じるのがゴールデンウィークの頃なのだろう。さて、まずはプレプリントサーバーから。休んでいるのは日本人だけ?という状況かも。

5 月 2 日、街路樹のサツキは、誰も日々の管理をしないので、大抵は無惨な形になってしまっている。低く管理すると雑草に負けてしまうし、大きくすると通行の邪魔になる。そうこうする内に枯れた部分だらけになって、まだら模様に緑と茶色が見えるような状況となる。こうなってしまうと、改善は難しくなる。放置してあると、それなりに自然の姿になるのだけれども、自然なまま順番に枝が枯れて行くので、これまたワイルドな姿となる。つまる所、サツキは街路樹には使えないのである。いや、それは何の木を持って来ても同じようなものか。勝手に生えて来たものを、ともかく四角く刈り取るという街路樹も見かける、それもひとつの手だろうか。

5 月 1 日、天気図では、低気圧が日本海にあって、温暖前線と寒冷前線があることになっている。しかし、雲はいく筋かに分かれて発達していて、前線のようにハッキリとはまとまっていない。どちらかというと、バンド雲のような感じだ。これは、どちらかというと先に低気圧性の循環が始まって、結果として前線が明瞭になって行くパターンの気象現象だ。こういう場合に、杓子定規に前線を解析するのか、それとも系がまとまるまで待つのかは、これはもう「絵画の世界」としか言いようがない。天気図は図なので、最終的にはアートの領域の存在になって来る。ようやく午後になって、東海辺りでジェット気流との対応もよくなって来たようだ。

3 月と 4 月の1行日記