← 7 月と 8 月の1行日記
6 月30日、大学のあちこちで、どんどん伸びるのがクズ。くず湯とか、くず粉とか、根からデンプンが採れることは良く知られた通りで、このデンプンを使って勢いよくツルを伸ばす。そして葉を大きく広げて光合成し、秋にはタップリと回収した上に、たくさんの種を作る。大木にもどんどん絡みついて、場合によっては枯らしてしまう。ただ、あの細いツルで運べる水の量には限界があるようで、ある高さから上に登る状況は、あまり見かけない。急な斜面では「斜め」に生えることができる利点を生かして、植生の主役になることも。あたり一面がクズ、見かけは悪くない。そこを通り抜けようとすると地獄をみる。その下には獣道があるらしく、イノシシがガサゴソと動く音が聞こえる。
6 月29日、肉の日。2Q が始まったのが先週末。実質的には、今日が 2Q の始めという感覚だろうか。2Q に「肉食うぉ〜た」と、しょーもない言葉が頭の中を埋め尽くして、お昼ご飯は肉にする。夕ご飯も肉にする。そこで財布が空っぽになるから、翌日は飯をべない。肉食獣は、どうもそんな感じらしい。狩りで、けっこうな体力を使い、狩ったらバリバリ食べてお腹いっぱいになるので、しばらく寝る、ダラダラする。現代人だと、肉を食べて、魚を食べて、芋を食べて。霊長類が雑食で、虫などもよく食べるという食習慣が、そのまま受け継がれているのだろうか。魚か、肉か、考えつつ生協食堂へ。やっぱり肉だ。
6 月28日、今日はあれをやって、これを仕入れて、この仕事を済ませて、と、あれこれと計画を立てた段階で、急にパワーダウン。そのまま横になって、結局は1日を休養に使ってしまった。研究者たるもの、別に平日に休養が取れるのだから、仕事があるならば土日でも深夜でも仕事をこなすのが正しい姿だ ... と自分に鼓舞しても、他人に勧めてはイケナイ。いわゆるハラスメントそのものとなる。正しい姿?というものを念頭に置くから、そこに至れない自分が目について、その解離が心の病を産むことになるのかもしれない。いけない、いけない、正しい、いや、正しくも正しくなくも、エサのない時にはダラダラと過ごすのが生物の基本。いや、これまた何かに囚われた思考の迷路にわけ入っている。考えることを停止しよう。
6 月27日、タンゴ、様々な音楽の中で、その存在は知られていて、普段から何気なくよく耳にするのだけれども、タンゴを楽しむぞ! という意図をもって聞かれることの少ない音楽「のひとつ」ではないだろうか。そういう表現をするならば、邦楽、ええと、古典芸能の方の邦楽、いや邦楽には現代音楽もあったっけ、ともかく邦楽もそうじゃないかと言われそうだし、その通りだ。ともかくもタンゴはタンゴ。現代の日本だと、コアなファンの一般的な層はかなりの高齢者となる。ダンスのラテン音楽から、タンゴに親しみ始める若い方も、チラホラといる。さて、ジャズの生演奏を聴こうと思えば、毎日いつでも聴ける。ふらり、どこかで一杯引っ掛けるだけでいい。毎日クラシックという酒場もある。タンゴとなると ... よほどの大都会でなければ、なかなか出会えない。さて、船にでも乗るか?
6 月26日、大学の食堂の営業が、しばらく前から始まっている。今までと異なるのは、仕切りがあって、いわゆる「ぼっち席」となっていること。食べ終わったら、さっさと離席してその場を去るのが、今の流儀だ。出食カウンターにも仕切りが。あらゆる場所が仕切られていて、それぞれを清潔に保つこと、これは容易ではない。一方で、滞在時間が減るというのは、食堂としては管理が楽になる面もある。これまで、研究室が揃ってテーブルを「占拠」すると、最後の一人が食べ終わるまで長々と滞在することも稀ではなかった。色々と新しいことに毎日、出会う訳だけれども、ともかく食堂が営業しているという雰囲気が、大学らしいなーと感じる。久しぶりに拝見する店員さんも、心なしか活きいきとしている。
6 月25日、夏至の時期は、すぐに夜が白々として来るので、ちょっと夜更かしすると直ちに「徹夜」となる。そのまま「朝食」を食べると、すぐに眠気が襲って来て寝落ちして、次に目が覚めるとお昼過ぎだったりする。要するに生活時間が回転しただけで、徹夜になっていない。未明の生活音はさまざまだ。波の音に混ざって、早々に犬の散歩する人あり、新聞配達あり、早朝出勤の靴音、ゆっくり走る電車の音、そしてトラックの跳ねる振動。神戸は山が海に迫っているので、人々のあらゆる活動が狭い帯の中にあって、朝早くから動き始める。さて、今まで我慢して「日中」の活動してたから、もう寝ようか。
6 月24日、ネットワーク不調により、授業の受講に必要なコンテンツにアクセスできない、授業のオンライン受講の URL がわからない等の現象により、受講できなかった場合や、課題の提出ができなかった場合には、少なくとも受講生には何の非もないのであるから、「申し訳ありません」などの字句を、問合せのメール等に含めてはならない。また、講義を行う教育にも(予めこの程度の混乱は想像できたであろう対策の方法もあったであろうという点を除いて)取り立てて落ち度がある訳ではないので「困ります」との文言も含めるべきではない。ネットワーク管理の「中の人」は、どのみち応対で死んでいるので、突つくだけ無駄だ。正しい行いは、その辺りからササ竹でもとって来て「早くネットワークが直りますように」と願いを込めて飾り、冷たい飲み物でも飲むことだ。昼間からアルコールは、あかんよ。
6 月23日、大学のネットワークが、今日も不調だ。ここで、ちょっと思うのが、ネットワークリソースの無駄遣いのこと。画像でも動画でも何でも流せますよーというネットワークの発展の歴史の中で、黎明期にあった「重い負荷のものは後で流す」という工夫が忘れ去られてしまっているのではないだろうか。ホンの数行のメッセージを読みに行くのに、わざわざ写真やら動画が流れる web page を全てロードする必要は全くない。が、ユーザーが、何かを選択的にアクセスできるわけでもない。SNS もまた総じて重くなってしまっている。パソコンの OS もそうなんだよなー、古いパソコンでは動きませんというのは、もはや OS とは呼べないのではなかろうか? さて、動かない BEEF、どうやら「予備日」の出番だな。
6 月22日、昨日の停電復旧の後で、起きたこと: 最初は調子良く動いていたメールサーバーの応答が、段々と遅くなって、ついには使い物にならなくなった。朝まで治らないだろうなーと思いつつ寝落ちして、朝になったらやっぱり遅かった。今日のお昼に緊急メンテナンスを行うそうだ。だか、ちと、待てよ、メンテナンス終了とともに再び ... ということはないかな?あるいは、クォーター末ということで、BEEF にアクセスが集中したら ... いずれにせよ、何千人ものアクセスに耐えるサーバーの構築は容易ではない。割り込み処理も難儀だけれども、それにも増して主記憶装置の応答が問題となる。キャッシュを大々的に使う場合、イザという場合に備えて、それ自信のバックアップも必要だし。というわけで、焼け太り大作戦となるのだろうか?
6 月21日、金環日食の日ということらしい。但し金環日食となるのは台湾の辺り、こちら近畿では、半分くらいに欠ける程度。で、待ち受けていると雲が立ち込めて、全く見える気配なし。もう日食も終わって良い夕暮れ時となると、また雲が薄くなるという「大気にしてやられた」天体イベントであった。SNS を通じて、沖縄の情報などが伝わって来る。肉眼で見ないと意味がない?いやいや、惑星探査機の調査映像などは、肉眼では誰も見たことのない写真であって、とても美しいものである。だいたい、太陽は明るすぎて肉眼での観測には適していない。哺乳類は夜行性の動物なのである。
6 月20日、梅雨の晴れ間、いや曇り間。神戸は山が近いので、湿った南風が吹くと、すぐ山に雲ができる。今日は、研究室の「遠隔見学会」の実施のために、大学にやって来ているので、モロにその山の中の雲に突っ込んだような感じだ。雨が降るわけでもないし、まあまあ涼しいので良しとするか。見学会を遠隔で行うと、けっこう日本のアチコチから参加してくれるので、来年からも遠隔という手段は残しておく必要があるかな?と感じる所がある。用事を済ませたらさて、これからプラプラ散歩 ... いや、仕事が溜まっているのである、あれもこれも。どれから手をつけるかが問題だ。
6 月19日、レポートを回収する。一つだけを見ても何も気づかないのだけれども、多数集まると見えて来る現象もある。比較検討してみて、初めて理解できる「互いの相関」であったり、中身を理解しているかどうか怪しい場合に「のみ」発生するであろう書き間違いとか。目くじらを立てるかどうかは思案のしどころで、そのレポート課題が必須のものであって理解度を測るのに避けて通れないと、確信を持って判断できることが非常に少ないので ... 仮にそう思って出題したとしても、後で見直すと「必須とは必ずしも言えないか」と、考えが変わってしまうのだ ...。取り止めもなくしばし考えて、えい、全員合格、という判断も充分にあり得る。実際にどうであったかは、こんな所では公開できないのだけれども。
6 月18日、受け取ったメールに「Windows 10 から送信」「iPhone から送信」などと付け加わっていると、さてそれが送信者の意図的なものかどうか?と、しばし考える。これはメールソフト・メールアプリのデフォルトの署名やメッセージなので、使い始めてからそのままという事もあれば、日常的なデスクトップ環境ではなくて出先からのメールですと強調するために、わざとデフォルトのまま残しているという場合もある。でも、何となく気になるので、受信したら一応は送信者に問い合わせてみることにしている。統計的?には、何も気にせずデフォルトのままという事が多い。そのような場合には、次に受信した時には書き換わっている。ときに、アクシオンが今頃出てきたのは、予算申請と絡んでないかい?
6 月17日、神戸港にやって来た人々は、遊覧船がたくさん並んでいる光景を、どのように感じるだろうか?コロナ以前は、いつフラリと訪れても「次に出航の船」に直ちに乗り込めた。当然ながら神戸の人々だけで、これだけのキャパシティーを満たせるはずはなく、そして国内の観光客だけでも無理だ。海外からのお客さんまで含めて、ようやく釣り合うくらいだろうか。現在は、大きな観光船が一隻、会社更生中にてずーっと係留中。帆船のような船も岸壁に衝突して、これまた沈黙。屋形舟は近年の台風で沈没。残る1〜2隻が、頑張って営業運行している。頼みの綱の団体利用・宴会も絶えて、この先どうなるのだろうか?今はガラ空きで、運行している船に乗るならば今がまさにチャンス (?!) でもある。
6 月16日、朝顔の双葉はとても立派で、よく目立つ。小学校の教材に使われる訳だ。双子葉植物はサボテンでも何でも、必ず子葉が開いてから本葉が芽吹く ... いや、豆など、双葉が開かないものもあったっけ。サボテンみたいに、双葉かどうかわけのわからない塊の上に、サボテンが出てくるパターンのものもある。そもそも種が滅多にできなくて、双葉をお目にかかる機会が殆どない植物も。なかなか一筋縄には行かないのが生物の面白い所だ。冗談で、梅干しの種を植えると梅干しが生えてくると言う話がある。梅や桃の種は穴がたくさんあいてて、乾燥してしまうと発芽しなくなるし、塩漬けした時の塩の入り具合も速い。今度、生梅を買って来たら、いくつかは植えてみようか。
6 月15日、ミュー粒子を簡単に観測する方法がないかなーと思って検索していると、携帯電話のカメラで観測するアプリがヒットした。撮像素子で待ち受けていると、1分間に一度くらいは、そこを通り抜けるのだそうな。垂直に近い角度では、ポツンとノイズが乗るだけだけれども、水平に近い角度で通り過ぎると、ちゃんと線が描かれるらしい。携帯電話を幾つか用意して積み重ねると、うまくすると軌跡を追跡できそうだ。もっとも、そのように携帯電話を積み重ねるくらいならば、スパークチェンバーを作った方が安くつく。このスパークチェンバー、宮本重徳先生が開発したものだ。大学院で授業を受けた時には、X 線天文衛星の話ばっかりするから、宮本先生は天体屋さんだと、ずーっと思っていた。実にマルチな開拓者なのだと知って、改めてびっくりした。
6 月14日、ちょっと良い天気になったから、海辺を散歩しようと歩き出したら、いきなりの強い日光。夏至の時期の直射日光は、真夏よりもずっと強いのである、早々に退避。しばらくすると日が陰ったので、またまた海辺に出ると今度はパラパラと雨。またバケツをひっくり返したような雨に遭遇するのかと用心して、早々に帰宅した。すると、期待した?雨はパラパラのまま。強い雨は日本海側を通過して、こちらは素通りしてしまったようだ。梅雨の時期の雨は本当に予測がつかないものだ。さて何を食べようか?と、冷蔵庫を開けてガサゴソ、漬けてあったピクルスも、早く食べないと「ただの酢」になってしまうな。
6 月13日、伝統的な卵焼き器は銅でできている。これは熱伝導が素晴らしく良くて、火にかけると早々に全面が百度を超える。水滴を垂らす?いやいや、手を近づけると輻射熱で温度が大体わかる。ここで、ちょっと思い当たるのが「遠赤外線による調理」という怪しい広告文句。よくフライパンなどで、遠赤外線をキーワードにした売り文句を見かけるのだけれども、黒体輻射である限り、どのようなスペクトルが生じるかは光学的な表面(skin depth 程度まで)での温度で決まる。遠赤外線と言っても、ミリ波のように波長が何ミリもあるわけではない。マイクロ波と遠赤外線は波長が重複しているので、この辺りは用語の使い分けが少々厄介なのだけれども。まあ何でもいいか、サッサと調理しよう。
6 月12日、梅が並ぶようになった。農産物の中でも、果実は生産調整が効きにくいものだ。木は植えたら長持ちするし、調整しようとしてもその年に実をつけるかどうかは、天候次第。その梅、並ぶとどんどん売れて行く。どうも、Stay Home の延長で、自宅で梅でも漬けてみるか?というのが流行っているようだ。果実酒も合法化されて、色々と漬け込んだ様子が SNS を賑わしている。梅干は言うまでもなく。どのような梅で梅干しを作ると美味しいのか?と、よく議論されるけれども、それは漬け終わって一年間くらいの議論で、何年も保管すると、梅そのものよりも塩の選択の違いが浮き出てくる。保存してある間に香りが飛んでしまうのだろう。
6 月11日、シャボン玉などの、石鹸膜に出来る「穴のような部分」、通称ブラックフィルムを撮影するという課題に取り組んでもらって、色々と画像が集まって来た。まず、石鹸膜を作る時に使う界面活性剤の選択、濃度、水への混ぜ物、玉の大きさなどの境界条件、周囲の温度や湿度、風などの物理的な条件が工夫のし所だ。また、背景、照明、カメラの選択、撮影距離・画角、絞り値など撮影条件も重要で、せっかくうまく「穴」ができても、写らなければ努力が「写真」として現れない。最後に画像を処理して「盛る」のも良い。ただ、全体として露出を調整する、彩度をいじるなどの処理までで、レタッチをすると「捏造」になる。この辺りのサジ加減が難しい。シャボン玉にも、色々とあるものだ。
6 月10日、梅雨入りして雨ザーザー、ひとまず記録に残す意味で、ここに転がしておく。雨が降る時に、なぜか降る前の空が一番暗く、降り始めると何だか明るくなる。これはなぜだろうか?そもそも、照度が本当に上下しているのだろうか?という疑問もある。雨が降り出すとすりガラスのように、あちこちから等方的に光が入るので暗さを感じないという説も。この辺りは、心象心理学と物理学の間に横たわる問題なので、注意深く取り扱う必要がある。で、暗くなると照明が必要となる。カメラは正直だ、遠隔講義のオンデマンド映像を撮る際の、再生画面は周囲の照度に敏感に反応してくれる。やっぱり雨の降る前は暗い。
6 月 9 日、そろそろ水泳の時期なのだけれども、辺りの学校のプールは空か、ため池のようになっているか、忘れ去られているか。公営のプールやら、ホテルのプールもまた同じ。スケート場は、そろそろ再開なのだけれども、本気で滑る人向けにまず細々と営業を始めていて、一般営業はまだだ。始まったら滑りに行くぞー。ええと、大声で長々と話さないというエチケットが、スケート場に持ち込まれると、より一般利用し易くなるかな。どこのリンクにも、そこを「社交場」としているような利用者(多くはオッチャン)が必ず居て、目立った人から順に注意されて、そのリンクを去って行く。誰にとっても不幸なことなので、最初から「だらだら話さずに練習せい」と看板でも立てておくと良いのだけれども ....
6 月 8 日、素粒子実験で長い期間にわたって使われた、ウィルソンの霧箱という装置がある。過飽和になった気体中を荷電粒子が通過すると、その飛跡が霧として浮かび上がるという仕組みだ。ずーっと、ウィルソンは素粒子分野の実験物理学者だと思っていた。ふと調べてみて、あらびっくり、霧などの核形成の実験を長く行っていて、実験と理論の両面で活躍した人だったのだ。80歳を超えてから、上層大気の電離現象の予言などにも足跡を残している。教科書をめくると「誰それの何々」というキーワードが転がっているだけの事項も、調べると様々な経緯があるものだと思った。今の世の中も、行く行くは一語、一行で総括されるようになるのだろうな。
6 月 7 日、インド洋の風の流れを見ていると季節を感じることができる。南半球から赤道をまたいで北へと吹き抜ける強い季節風があって、太平洋とは全く様子が異なるのだ。大西洋の風の流れもまた特徴的で、低気圧や高気圧が1個ずつくらいしか入る隙間がない。これに比べると太平洋を含む「水半球」の天候は多彩で、幾つもの低気圧が常にウヨウヨしていて、比較的赤道に近い位置に熱帯の収束帯がある。高度をずーっと上げて上空 30 km 付近に行くと、ちょうど赤道で西風と東風が交代する状況になっている。面白いのは、これが「季節に関係のない状況」であることだ。2 年足らずの間隔で、東になったり西になったり。流体って学ぶべきことに満ちているものだなー。
6 月 6 日、分子の動きをシミュレーションするのが分子動力学。さて分子一個の熱運動は?量子化学では、ボルン・オッペンハイマー近似を行うと、原子核の動きに関しては古典的に取り扱い、電子は量子化学計算するという半古典的な取り扱いが、よく行われる。では、その近似を取り外してしまったら?ええと、そのようにすると、非常に細かなエネルギー準位が密に並んだ量子系が出現するはずだ。でも、エネルギーは離散的なので、pure state のまま等エネルギー面を飛び移るということは、あまり考えられない。恐らく重ね合わせか、あるいは mixed state を最初から仮定する必要がある。この辺り、現代的な視点から真面目に取り扱うとどうなるんだろうか?
6 月 5 日、オクラの調理に迷う所あり。もぎたてのオクラが、そのまま手に入れば問題ない。少し時間が経って水分が抜けた感じのオクラの場合、さて、そのまま調理するか、それともしばらく水に浸けておいて調理するか。植物は植物なので、水につけるとパリッとして来る。水を吸うからパリッとするわけで、その状態で茹でるとヌメヌメが大量に出て来る。オクラの調理は、どの道、表面を少し柔らかくするだけが目的だから、購入した時の状態がどうであれ、茹で過ぎは問題外だ。で、予め水に浸けたものと、そのままのもの、どちらが仕上がりが良いか?というと、何とも言えないのである。使う目的によりけり、と、言えるかもしれない。水を含ませない方が味が濃くて美味しいような気もする。ともかくも、朝イチで購入してサッサと茹でるに越したことはない。
6 月 4 日、感覚的には、もうコロナどっか飛んで行った、と思わせる暑さと湿気だ。この暑さの中で異様に映るのが、さして人通りのない神戸大学周辺の坂道を行き来する人の、まだ半分以上がマスク姿だということ。確率的に評価するならば、電車に乗ったり、街の往来をしたり、病院やデパートや役所に行ったり、そういう場合に人々がマスクを着用するのは理解できるのだけれども、閑散とした「山道」でマスクというのは、熱中症などを招いて逆効果なのではないか?と、私なりには思えるのだ。携帯基地が、人々の混雑具合を判定して「そろそろマスク着用ですよ」と教えてくれる、そういうアプリはないのかなー。ともかくも、自宅近くの海辺の散歩の時はマスク着用しないぞ!
6 月 3 日、前期、1Q, 2Q に講義が集中する形で、ここ数年の間は講義担当を引き受けている。そしてやって来たのが遠隔講義。全てをオンデマンドで開催することにした。というのも、受け持っている科目のうち二つが、2コマ続けての講義。これを遠隔で、オンタイムに行うことは、受講者に大きな負担を背負わせる ... 可能性がある ... からだ。収録のために、土日も使って、というモードで働いていると、いつしか曜日感覚が消えてしまい、さて今日は何曜日だったっけ?ということになる。月月火水木金金、これは研究者の日常ではあるのだけれども、講義準備でこのようになるとは予想だにしなかった。さあ今日も収録だ、どんな話の組み立てにしようかな?
6 月 2 日、学校の建物は、とても丈夫に作ってある。地震がやって来て、学校の建物が崩れ落ちたという話は、皆無というわけではないけれども、滅多に聞かない。マンションなど普通の建物の場合、部屋にいっぱい人が集まって宴会でも催そうものなら、床がたわんでしまい、最悪の場合、床が抜ける。上の階で抜けた床の重量が加わって、次々と床が抜ける連鎖反応が起きる場合もある。学校はというと、100 人くらい教室に入れてもまだまだ余裕があって、隣のクラスから人が集まっても、もうひとクラス分くらい人を詰めても大丈夫だ。これだけ頑丈に作ってあるので、解体新築するよりも、リノベーションの方が理にかなっている場合も多い。いまオフィスのある場所も、昭和の建築をリノベしたビルの中だ。天井が低いと揶揄されることもあるけれども、要するに、空調の費用が安い。建物は、大きいばかりが良いわけではない。
6 月 1 日、5月病、6月病というキーワードを、今年はあまり目にしない。在宅で色々とこなすとか、アフターファイブの付き合いがないなど、何でも徒党を組んで集団で行うという類の同調圧力が、例年に比べて減ったのではないだろうか。家に篭りなさいとか、野原を一人で歩く時でもマスクしなさいとか、バカバカしい(くらいの)スローガンが無いでは無いけれども、それは特定の個人から発せられる類のものではなくて、オフィスで発生する、あるいは教室で発生する類のメンタル破壊機構に比べれば、問題にならないのでは無いか?と思う。ここで考えるに、自粛解禁となった折にも、誰にでも、逃げ道を確保しておくことは重要だ。いつでも、在宅勤務・自宅学習に戻れるし、それで問題ないよという社会が来たら、と、感じた月の頭であった。
5 月31日、大学で、サツキやツツジが綺麗に咲いている。今が花の盛りに見えるけれども、実はもう終わりかけている。特に、サツキの花は咲いた端から、花びらが枝を離れてしまって、宙に浮いた状態となる。そのまま短期間で枯れてしまって、枝葉の上にベットリと貼り付いて、見栄えが悪くなる。この枯れ込んだ状態になると、次に雨風が来るまでそのまま。当然ながら、光を遮ってしまい、成長にも良くない。というわけで、日本庭園などでは花が咲いて満開の庭の頃に、庭師さんが竹ぼうきを持って集合して、片端から花を落として行く。この時期に落とすのが作業として簡単で、後の季節に向けた剪定の仕上がりも美しいからだ。では、公共の場所でその管理が可能か?というと、それは難しい。道端や中央分離帯などに、管理が面倒で枯れ込みやすいサツキ・ツツジは植えない方が良いだろう。
5 月30日、とあるデパートの屋上にあった園芸店が撤退。植物の苗は生鮮食料品のようなもので、仕入れたら一定の期間内に売らないと商品価値がなくなってしまう。1ヶ月も続いた閉店の間、水やりなどの管理と店賃ばかりがかさんで行く状況を、先が見通せない状況で耐え続けることは無理だったのだろう。また、色々と検索している内に、その園芸店の運営会社が、一度倒産しているという情報にたどり着いた。その際も、直接的には会計が危うくなる短期的な環境変化が起きている。ただ思うに、デパートなど都心という賃料ばかり高い場所で、園芸というノンビリした商売を続ける時代ではなくなったのだろう。ホームセンターや、更には通販という強敵がゾロゾロと控えている今日この頃だ。特に通販の苗木は、送料の方が高価であることが珍しくない。大学生生協もまた、学生環境の変化に追随できなければ、体力のない組織から順番に解散の日を迎えることになる。
5 月29日、サツキやツツジが満開、花後には新芽も「枝先からひと皮だけ」伸びる。また、この時期に根元から勢いよく、新しい枝が伸びて来る。放置すると、光を奪い合って、団子になって枯れ込みの原因となる。ここが考え所。どちらの枝を残すか?新しい枝は、生えるべくして生えて来たものだから、可能であれば残したい。一方で、古くからある枝は、それなりに樹形を保つように剪定されて来たものだから、バサッと切ってしまうと「しばらくの間」は株の見栄えが悪くなってしまう。経験的には、短期的なことを抜きにして、新しい枝へと更新して行く方が、後々の為になる。というのも、古枝だけになってしまうと、ある年に、一気に株が枯れることがあるからだ。まあ、やぶ蚊も飛んでいる事だし、気長に考えよう。
5 月28日、その昔、大学生になったなーと感じた機会というものが何度か、いや何度もあった。その中の一つの経験が、授業に出ないこと。面白くない講義で、必修でもなければ捨てる、つまり履修を放棄することが可能だ。また、出席が必須でない講義であれば、一度や二度くらい講義に出なくても単位は取れるし、専門科目のうちで先に内容を理解してしまっているものであれば、試験のその日まで、特に講義に出る必要もない。そういうわけで、真面目に講義している先生の講義よりも、教科書と全く関係のない雑談を色々として、学問の雰囲気を楽しませてもらえる講義に、よく出席した記憶がある。まあこれは、その昔の昔話であり、個人的な体験談であると断っておくのが無難かな。誰にでも勧められるという訳ではない。また、現在の大学のシステムが昔と同じか?というと、ええと、それは ...
5 月27日、MacOS の update があった。日本語変換が、更に「マシ」になっていた。というか、ライブ変換を導入する過程で、パソコンとスマホの予測変換の利用方法の差異を、全く意識しないかのようなカオスが生じていた「悪夢」から、ようやくキーボード入力ならではの特徴を活かした変換に戻って来た。ワードプロセッサー時代の我々の感覚では、文節変換の精度が上がればそれで充分なので、一度変換候補として確定したものが、続く助詞の入力や句読点の書き加えで、入力の意図と関係なく書き換わってしまうのは非常にマズイ反応であったのだ。iOS と MacOS を下手に融合する流れが少し変わって来たようにも感じる。さて今日も、遠隔講義の準備だ。
5 月26日、交差点で息が上がっている自転車の女性、uber eats の配達員であった。自転車に見覚えがあるなーと思って見直すと、レンタル自転車であった。レンタル料金を支払ってまで行うほど利益が出るのだろうか?と思って検索してみると、初期投資が不要なので今の状況のように、利用の需要が急増した場合には好都合なバッファーになっている事実と、行政の支援もあってか、特別料金が設定されていることを知った。電動アシスト自転車はなかなか強力で、神戸の急坂でもスイスイと登れる。荷物の少ない状況であれば。タップリと背負った配達員は、信号が青になると、意を決してペダルを踏み込んで行くのであった。... 最初、ちょっと左右によろめいたようにも見えたが ... がんばれ!
5 月25日、換気扇フィルターの油、あれは重曹か何かで化学的に分解するのが良いとされている。で、手元にそれらに類するものなし。物理的には、温度を上げると油脂の粘性が下がって除去し易くなる。が、手で触れる範囲の温度では、多少粘り気が出てくる程度で、これもあまり効果なし。ようやくわかってきた事は、歯ブラシが良いという事実。適当に歯ブラシで溝をブラッシングすると、油が毛の間にべっとりと充填される。それを「しごいて」捨てる、その繰り返し。最終的に、薄い一層の油が残るまでとなったら、お湯と洗剤で最終的なブラッシングをして、一件落着。この方法を発見するまでに、大変な時間を消費してしまった。一度やり方がわかってしまえば、こちらの勝ちだ。
5 月24日、ディーゼルカーは楽しい乗り物だ。電車で行ける場所まで、わざわざディーゼルカーに乗って訪れるのも悪くはない。重量感と、エンジンが回っているという加速感。そして圧倒的な慣行の長さ。ON と OFF がハッキリしているとも表現できるだろう。最初の半クラッチ?の滑らかな加速は、少なくとも昔の電車には乏しいものであった。減速に入る前に、再びアクセルを踏むあの感覚もまたメカっぽくて良い。要するに、何もかも、今となっては珍しい存在なのだ。山間を走るディーゼルカーの場合、これに振り子電車の性質も加わって、カーブする時にジェットコースターのような曲がり方を楽しめる。まあ、そんな事があるからと言って、大阪駅から姫路まで、わざわざディーゼル特急に乗るのは、単なるオタクだよなーとは自覚している。
5 月23日、入道雲を見た。真冬でも、出る時には出る入道雲だけれども、暖かくなって大気が空高くなる季節の入道雲の方が、見ていて美しい。赤道付近を飛行する時に、行先に立ちはだかるように林立する入道雲は見ていて恐怖の対象でもあるのだけれども、地上から眺めると素晴らしく雄大だ。(どんな航空機も積乱雲に突っ込むと大変なことになる。)今日の入道雲は、可愛いくまとまっていて、特にどこかに雷雨を降らせた訳ではなさそうだ。不思議なことに、近くで巨大な入道雲ができる時には、雲が見えない。何となく空の境界が見えなくなって、知らず知らずの内に不穏な雰囲気が漂い、やがて雷鳴や突風とともに降雨が始まるのだ。そんな季節も先に控えているのかな?
5 月22日、日々の変化に気づきあり、だんだんとソラマメの実の入りが良くなって来た。スーパーに並ぶソラマメ、最初の頃はサヤばかりで、豆粒が小さい。段々とサヤが大きく硬くなって来て、豆粒も大きくなる。そして最後は、黄色いサヤの中に、そろそろ色が変わって来そうな豆が入っている状態となる。そこから先は生豆での流通ではなくて、完熟した乾燥豆でのご対面となる。さて、ソラマメはサヤばかりで歩留まりが悪いなーと思っていたら、状態によってはサヤも食べられるのだと知ってびっくり。ただ、流通しているものでは、そのようにサヤまで食べるように栽培されているようにも思えず、やっぱり捨ててしまうのであった。堆肥にしてもいいかな。
5 月21日、その昔、下宿はいつも深夜早朝になると「あ゛ァあ〜」という叫びが発せられて、直後に「ガラガラガラゴロゴロゴロ」と、パイをかき回す音とともに静けさが戻って来る、そんな風情であった。特に金曜日の夜から土曜日の早朝にかけて、複数の部屋で麻雀大会となっていた。そんな雰囲気を横目に、いや遠くに感じつつ、ひたすら朝が来るまでマンガを読んでいたのは私。その4年間の下宿生活で、だいぶんタフになったかも。大学院生になってからは下宿を離れ、大学近くのアパートで暮らし始めた。暮らしには遮音が大切だということに気づけた事が、その後の住まい探しの役に立ったと思う。麻雀大会の現場には足を踏み入れなかったので、彼らが賭けていたかどうかは知らない。
5 月20日、目で物が見える仕組みや光学系としての構造、この辺りを詳しくとは言わないまでも、まあ誤解の生じないように描いた図を探していて、ほとんど無いことに気づいた。大抵の図が水晶体「のみ」をレンズとして捉え、角膜による屈折を無視した図となっている。少し良心的(?)な作図では、角膜と水晶体を一体のレンズとして描き、そのレンズによる屈折を取り扱っている。世の中にないのであれば、ちゃんと描いて世に広めるのも科学者の勤めではないか?と思う所がある。ちゃんと描いて .... と思うと、ついついハマるもので、目のそれぞれの部分の屈折率を掘ってみたり、光学系としての構造のデータに当たったり。時間がかかるな、これは。
5 月19日、昨日の雨はどれだけ降ったのだろうか、流れ下った濁流(という程でもないか?)で海の色が少し変わっていた。そんな朝の眺めから、電車に乗って三宮を通過すると、普通の日々。街もまた、何となく復活の機運が満ちて来ている。まだ「機運」であって、完全復活するのか?というと、恐らく元に戻ることはない。歴史が進んでしまった、とも表現できるだろうか。遠隔でカタがついてしまうものは、遠隔で済ませてしまう、そんな慣習が定着してしまって、わざわざ会議のために各地から集まることも無くなって行くのだろう。今朝、ビデオ講演の案内が届いた。何でも、日本時間で朝5時から。欧米には都合がいいんだろうなー。
5 月18日、気の緩み、という言葉を耳にする毎日だ。いやいや、気はいくらでも緩められるだけ緩めておくのが良い。常々、キツキツの気持ちで周囲に睨みを利かせている状態は、自分にも良からぬ影響を与えるし、もちろん周囲からも疎まれる。空気はだいぶん、緩い感じになって来た。前々から、待ち望んでいた田植え時期の風だ。高い湿度、サツマイモの仲間がどんどんツルを伸ばす、この空気だ。周囲が海に囲まれていて、西からは乾燥した空気が、南からは湿った空気が入り易いこの東岸の気候に、ずっと昔から日本は守られて来たのだろうか。夏が熱帯を「超えて」暑いのは、まあ致し方ないけれども。
5 月17日、椅子の中で、藤張りのものや、ペーパーコードのものを眺める時、いつも「どれくらいの応力がかかっているのだろうか?」と不思議に感じる。座面を叩いてみると、その振動数からおおよその張力を見積もることができる。あるいは、上から 100 kg の人が座った時に、どれくらい「たわむ」かで、張力を概算することも可能だ。あまり大きく「たわむ」と、椅子として使い物にならない。ということは、人の体重を遥かに超える力を、座面の枠が受け持っていることになる。道理で、あのように太い木を使っているはずだ。応力を受け続けた木は、だんだんと曲がる。そんな先々まで、誰かが使ってくれる、そんな椅子が好きだ。
5 月16日、大学のすぐ脇の道で、スズメが歩道に降りて来た。重そうな芋虫を、口にくわえている。どうやって食べようか?と思案しているかのようだ。食べ物を前にした動物の振る舞いというのは、脊椎動物であれば種によらず、あまり変わらないものだと再認識した。写真に撮ろうかと、カメラを手にしたら、気配に気づいて、芋虫とともに飛び去って行った。今の時期の草花が芋虫を支えていて、その芋虫が小鳥を支える。元はと言えば、太陽エネルギーと大地のダイナミクス、それらは星屑から生まれたのであった、宇宙は広大なのだなー。カメラを元に戻して、またトボトボと坂道を登って行く休日?であった。
5 月15日、遠隔授業が、まあまあ何とか成立しているので、これから先は「出席」の概念が変わるかもしれない。授業で出席を取るということは、少しくらい体調が悪くても、ともかく講義室へと出向いて授業に参加しようという、良くない努力を生んでしまう。本人に良くないばかりか、病原体を周囲に拡散してしまう悪さもある。体調が良い人は普通に授業に参加して、体調が悪い人は無理せず自宅から遠隔で参加。そういう世の中になって行くのではないだろうか。まず、教育現場でこれを実現することが大切だ。そのように育った人々は、社会でも同じように実践してくれるだろう。何が何でも出て来い、という時代はもう終わるのである。
5 月14日、文旦の皮の剥き方を会得した。まず、上と下の皮を、少し白い部分を残したままか、あるいは実を少し切る程度に切断する。その後で、白い部分を残しつつ、包丁で皮をむいて行く。黄色い皮が全部取れたら、房の境目を探して、そこに並行に中央まで包丁を入れ、あとは手で二つに分ける。ここから先は言葉で表しづらいのだけれども、二つになったそれぞれの、中央上下をVの字に切り欠く。いよいよ手の出番で、房から実を取り出して行く。皮の白い部分が適当に残っていることが大切で、うまく実が剥がれてくれる。この方法は、八朔など実の硬い柑橘類に共通して使える。甘夏柑やグレープフルーツの場合には、皮の部分を完全に包丁で取り除いてしまう方が実を潰さず、かえって歩留まりが高くなる。防カビ剤を使っている場合でも、先に皮を薄く剥いてしまえば、食べる部分に付着してしまう危険(?)を減らすことができる。
5 月13日、Zoom などを使ったオンライン授業、どこかで見た光景だなーと思って、よく思い出してみると、私立大学の大きな教室で行われた学会公演だった。登壇者は遠くで、前のスクリーンも小さくて良く見えない。その代わり、天井のあちこちにモニターがあって、スピーカーから流れる音声を聞きながら画像を見る。スライドと音声の公演、それをそのまま、オンラインに乗せて遠隔講義となった訳か。よくよく考えてみると、我々研究者は様々な場所で「そこにあるものを使って講演すること」に慣れていたのだ。遠隔講義が比較的スムーズに導入されたのは、(教育機関の中では)大学ならではの事だったかもしれない。
5 月12日、イノシシは何を食べているのだろうか?現場を見たことがない人は、豚の餌の延長だろうと考えるだろうし、それでまあまあ当たっている。何でも食べる。都会だと、間違いなくゴミあさりをする。野山では?というと、ドングリが転がっていればドングリを食べる。地上に何もなければ、ともかく土を掘って、生き物が出てこようと芋が出て来ようと、ともかく食べてしまう。結果として、地面は掘り返した跡だらけとなってしまう。花壇に食べられるものを植えたら、一巻のおしまい。芋類は、動物避けしないと絶対に栽培できない。昔も今も、作物は動物から守って育てるのだ。人の気配の消えた大学は、かくして毎晩毎晩、掘り返しが続く。
5 月11日、気象学の本をマトモに読んだことがないので、天気図と雲の関係は「何となく」適当にフィーリングで眺めていた。天気図は、地上での気象現象を簡単な図に押し込めたものなので、それが雲や風や降雨と厳密に結びついている訳ではない。ただ、なるべく多くの情報を大きく外れることなく図示するという役割は重要だ。で、少しばかし検索して調べてみた。天気図上で前線として描かれる線の「どちら側で」降雨があるのか?は、場合によりけりであることを知った。知ったというか、既に何度も経験している暖域内部での降雨が、どのように起きるのか、その仕組みも少しは理解できた。いずれにしても、前線の解析というのは、天気図を描く上の鬼門であることに違いはない。
5 月10日、稲が育つ湿った風が吹いて来た。アジアの季節風というか、いよいよ梅雨目前である。例年、この季節となるとインフルエンザはどこかへと退散してしまう。(秋冬になると戻って来る訳だけれども。)稲作が春に始まり、秋に収穫、この農作業のサイクルが、4月を年度の始まりとする習慣の自然な所なのだろう。もう少し早めて3月でも良いかとは思うけれども、北国はまだ雪が残っている。欧米での9月入学というのは、麦かジャガイモの秋植えから来る習慣なのではないだろうか。ついでながら我々の感覚で言うならば、7月に大学入試を行うのは、とても厳しいのである。まあ、ひょっとすると遠い未来には、いつでも入学しなさい、いつでも卒業しなさい、そんな時代がやって来るかもしれないのだけれども。
5 月 9 日、高校の同窓生の中で、物理分野へと進学した人々とは、大学・大学院と時折は連絡を続けていた。研究者となってからは、専門分野が違うと交流する機会もなく、きっと元気でそれぞれ活躍しているんだろうなーと、想像するばかりであった。研究職についた人の場合、フルネームが所属機関などを含め、必ずどこかに掲載されるので、その追跡は容易といえば容易だ。同窓会を前に、学会の参加者リストを眺め直して、名前を見つけたこともあった。まあいつか、この研究教育の場を卒業したら、しょーもない物理の話でも語り合おうか、そんな風に思う日々だ。昨日、ふとした機会から、その中の一人が2年前に他界していたことを知った。
5 月 8 日、リアルタイムで講義を行った場合、ログインできない等の事象が多少は(?)生じたらしい。要因は様々で、そもそも機器や OS が対応していないとか、使っているソフトに参加者数の制限があるとか、時々しかログイン許可をしなかったので、結構待たされただけだけれども、諦めてしまったとか。こうしてオンラインで配信できることがわかってしまうと、来年からの講義にも大きな影響を与えそうだ。以前から、講義の最中に写真やビデオを撮影している受講生も居るには居る。欠席者に見せていたのだろう。こういう「補講」を、オフィシャルに行うのが普通になって行そうだと感じる。少なくとも、もう従来の方法には「そのままでは」戻れない。目覚めてしまったのだ。
5 月 7 日、今日から新学期。遠隔講義が始まった。学生たちの tweet を眺めていると、いろいろな形態で実施されているようだ。Zoom のような道具を使ってみたり、動画配信であってみたり。そして素晴らしいのが、単に、文章が転がっているだけと言うもの。自習は学習の基本だ。一人で読んでいて、詰まった部分については質問が出来る準備がしてあれば、の、話だけれども。自分は動画配信派で、課題の回収などがメール添付という形式。受講者が多くなると、メールのレスポンスを返すだけで疲れてしまうのだけれども、そんなに多くはならないはず。一応、メールだと様々な痕跡が残るので、後から確認するのも楽だ ... ろう、きっと。
5 月 6 日、大学が提供しているメールサービスに、学生がアクセスできているかどうか?を調べている。今は gmail など、幾らでも簡単に使えるメールがあるので、メールクライアントに自分で設定を書き込むことは稀になって来ている。結果として、メールサーバーとクライアントソフトを分けて認識することも難しくなっているようだ。インターネットのブラックボックス化は日々進んでいると言って過言ではない。さて、大学のメールサーバーにこだわる理由は、もう一つあって、それは現代的な視点から十分な設定が行われている機器を使っているか?と言う点だ。市販のパソコン + 市販の OS だと、古い機器は条件を満たさなくなる。気骨があれば、unix 系の OS を自分で入れて設定するのだろうけれども、今日ではもう流行らないんだろうな ...
5 月 5 日、オンデマンド授業の撮影は毎日続く。だいたい、やり方がわかって来たには来た。ただ、どうもワンパターンに陥りがちだ。きっと、これまで、自分の講義を自分で見直すことなく、ワンパターンに黒板の前でダラダラと喋り続けていたのだろう。反省。ではどうするか?まあ、書きながら話すと言うのはやめようかな。先に板書しておいて、それに基づいて 10 分くらい話して、一度カメラを切る。そこまでが一区切り。そう言う風に授業の内容を切って行かなければ。また、話す内容についても、あまり込み入った所の導出は適当にパスする必要があるかと思う。どうせ試験には出せないし、必要なのは基礎的な理解であって、こまごまとした断片的な応用ではない。切り捨てるべきは切り捨てよう。
5 月 4 日、統計力学を学習する時に、ミクロカノニカルアンサンブルから学び始めることが多い。そこで設定されるのが、悪名高き「孤立系」である。巨視系を孤立系として実現することは、ほぼ不可能で、ある意味で思考実験であると言っても良い。また、実のところ、孤立させる必要もない。例えばバケツの中の水について、任意の 1 ml の領域を考えて、それを「孤立系」と考えても全く問題ない。そこから出入りする粒子やエネルギーの「割合」は、巨視系の場合には無視できるほど小さいので、粒子数・エネルギーが一定のアンサンブルとして捉えて良いのだ。もちょっと言うと、そのアンサンブルでさえ、全部用意する必要は全くない。単純に、可能な状態を全部考えた平均値に、現実の巨視系が良い一致を示すと言うだけのことだ。なお、外部への応答を考える時には、粒子の出入りの有無、つまり拘束条件が問題になって来る。この点については、ミクロカノニカルアンサンブル、カノニカルアンサンブル、グランドカノニカルアンサンブルの差異に注意しなければならない。と、今日も講義の準備をするのであった。
5 月 3 日、自宅で講義映像を収録するのは難しい。マイクに向かって大声で話す、そんな場所がないのだ。ユニットバスの中に籠もってしまうか、それとも納戸の中か。海辺に出れば、気持ちは良いのだけれども、機材を潮風にさらすのは良くないし、あとの掃除も大変だ。と言うわけで、やはり収録場所はどこかの建物の中で、という事になる。時々、大学にやって来て作業するしかないかなー。機材も何もかも揃っている場所だし。いよいよ7日から講義開始 ... いや、そう思って始めると、初日に全てのネットワークリソースが落ちてしまう。もう、閲覧できるものは閲覧してもらおう。
5 月 2 日、講義ノートを映す形で、どこまで講義映像が作れるかを試してみている。わかったことは、簡単な数式や図であれば、まあまあどうにかなるのだけれども、少し込み入った説明は、やはり一度、板書しないといけない。これはどう言うことかと言うと、講義ノートをどのように美しく作っておいたとしても、それを見て即座に説明することは困難であるという、私なりの事実だ。ノートを板書する時に、少し頭の中で予行演習をしていたわけだ。板書が完了したら、説明もできる、そんな現象らしい。もっと理想を述べると、やはり講義ノート無しで板書説明できるくらいに、初等的な学問を体系的に頭の中に入れておきたいものだ。
5 月 1 日、ノイバラの花が咲く季節となった。このバラはとても丈夫で、簡単に挿木で増やせるし、放置すると憎たらしいほど増えて行く。ついでに、トゲが多くて、初夏に花が咲いたら後は茂るだけ。まさに野生のバラだ。花は一重で、たくさんの花が一斉に咲く。バラ科の植物の花は、花弁が5枚で、その中に雄しべや雌しべが見える。イチゴの花も同じ形で、あれほど見かけが違う植物なのに、同じバラ科なのだということが、感覚的に理解できる。ノイバラが茂る場所へは足を踏み入れない方が良い。トゲトゲの枯れ枝が待ち受けていて、トゲが刺さった端から折れて、痛いこと限りなし。オリエンテーリングやクロスカントリー競技の人々からも嫌われていることだろう。
3 月と 4 月の1行日記