← 1 月と 2 月の1行日記  

12月31日、大荒れの天気になるのではないかと予報されていたけれども、神戸市の海辺は、妙に静かであった。冷え込みも、まだまだという感じ。年が明けてから寒くなって、1月の末か2月の頭に雪が降るほどの寒波がやって来るのが例年だけれども、この冬は、そのようにはならないような予感もある。10 hpa の天気図は、曲渦が楕円形に不安定な回転をしている。昨夏、つまりこの間の南半球の冬に珍しく、南極で突然昇温が起きた記憶が蘇って来る。さて来年の天気はどうなるのだろうか、また強い台風が幾つかやって来るのだろうかと、色々と思案というか杞憂しつつの年越しとなった。

12月30日、電車に乗ると、新人の訓練をやっていた。あれこれと指差して、一つずつ確認するのが鉄則、その有様を指導係が確認して、という古典的な教育が繰り返されていた。ふと思うのは、このようなことは機械任せにしてしまって良いのではないかということ。主に運行・運転に関与する機械、監視に特化した機械、それぞれ複数存在して、最後は人間である運転士が統合的に判断しつつ運行する、これが未来の電車のあり方だろうか。少なくとも、人間が最終的な責任を負うという社会システムが続く限りは。そういう方向へと舵を切る電鉄会社は、どこが最初なのだろうかと、そんな興味がある。

12月29日、写真は、写るものが何であれ、その一瞬を切り取るものだ。同じ写真は、よほど意図的に条件を揃えない限り、二度と撮ることができない。特に、対象が人々である場合には、同じ写真をもう一度と言われても、無理だとしか答えようがない。心の持ちようが姿に現れ、画像として写し撮られる。二度と同じ姿は撮れない。こういう面白さがあって、人物写真を撮り続けて何年になるのだろうか。その中で、撮った時の意図とは全く違った形で写真を見直すことが時々ある。少し踏み込んでいうと「そんなつもりで撮ったのではないのに」という後悔にも似た感情とともに見返すことになる。何もできないとはわかっていても、過去にもう少し何か、手を差し伸べられたのではないか?という自問自答からは逃れられないのだ。それでも、また今日、シャッターを押すのだろう。

12月28日、久しぶりにスケートリンクへ出向く。滑走するならば朝一番の綺麗な氷がいい。へぼく浅いエッジで滑ると、氷の凸凹に影響を受け易いのだけれども、平らな氷ではスーッと滑ってくれる。理想は、どの方向へ滑っても片足でゴリゴリと氷を押しつつ、いつまででも望みの半径で円が描けることだ。また事前の動作にかかわらず、安定したエッジの状態を直ちに作り上げることも大切だ。バックの場合、意外とこれが難しいので、朝一番のリンクでは繰り返し円弧を描くばかりとなる。綺麗な半円にしたいのだけれども、うっかりすると「くの字」になってしまう。その後はターンでエッジの確認。無理矢理エッジを回そうとすると、汚く氷を削ってしまう。スケートは奥が深いものだと、つくづく感じる。

12月27日、今日はいい天気となって、少し寒くなったので、路地の落ち葉が目立つ場所がポツリポツリとできていた。葉が落ちてしまえば、木々の剪定は割と楽である。枝振りがよく見えるし、葉の処理も必要ないから。しかし、セオリー通りにハサミやノコギリを入れて ... と考えて剪定作業に入ると、必ず動けなくなる。木はそれぞれ、与えられた環境の下で伸びるものだから、光ある方向へ、風通しの良い方向へと伸びて、様々な樹形の崩れが生じている。それを無理に矯正しようとすると、翌年早々、同じように樹形が崩れてしまう。少し先のことまで考えて切るつもりで、バッサリ削ることも必要となる。そうこうしている内に、結局は根元だけになってしまった、ということも。キリなど、強い樹の場合には、ここまで切っても、また再生する。松でそれをやったら、二度と芽吹かない。木には個性があるからなー。

12月26日、暖かい日に雨が充分に降ると、球根からどんどん根が伸びる。チューリップの球根は「深植え」するようにと、球根の袋に書いてあるけれども、暖かい地方で花を咲かせるだけなら、そんなに深植えする必要はなくて、極端な場合、土の上に置いておくだけでも良い。それだけでも十分に根が張って、花も咲くし、分球もする。ただ、動物の興味の対象となることがあって、イノシシに掘られたりカラスに遊ばれたりするのを防ぐ場合には、少しは深く植えなければならない。雪の降らない寒冷地では、凍結防止のため、凍らない深さまで掘る必要がある。で、球根を太らせるには、春がゆっくりやって来て夏涼しい、寒冷地が適している。球根は北国のものなのかなーとも思う。

12月25日、4本足の動物は、筋肉が胴体あるいは胴体に近い場所に固まっている。自由に動かす脚が重たいと、機敏には動かせないから、逃げるにしても獲物を狙うにしても不都合であるからだ。鳥類も同じで、脚は細いし、羽が大きな鳥でも羽毛を取ってしまうと腕は実に細いものであることがわかる。クリスマスの鶏肉を見ると、キジのように歩く鶏は脚の根元の肉が太いものだと実感する。さて人間は?けっこう、ふくらはぎが大きくて、足も大きくて重たい。速く走るよりは、立っているか、ゆっくり歩くことに適した体のつくりになっている。ここまで進化するのに百万年。ずーっと「運動能力が落ちる」方向に進化して来たようにも見える。健康増進は確かに大切なのだけれども、運動能力の増進が必要かどうかは、立ち止まって考えてみる必要がある気もする。

12月24日、物理的な直感は物理に大変重要で、まずこれを身に付けることから物理の学習が始まる。一方で、こうして身についた直感力は、時として思考回路を固定しすぎてしまう。それも、個人個人のみならず、物理学を研究する人々に共通する傾向であったりする。案外、めちゃくちゃなことを次々と述べる人が、思考の堂々巡りから脱出し易いのかもしれない。また、このような事情が、若い人々が大きな発見をする割合が高いということに通じているのだろう。なお、物理学の世界は不思議なもので、特段の根拠のない conjecture を何となく人々が口にしたり引用したりする妙な流行が時々、いや常々生じている。いちいち目くじら立てて指摘するかどうかは別として、明確ではないことからは距離を置くのが良いだろう。

12月23日、年末になると、舞い込むのが年始のこと。昔はテレビ曲のお正月番組の仕込みなど、年末にやっていたのだろうなー。今もやっているかもしれないけれども、そもそもテレビは見ない。いろいろなメディアに接して来た今年、思うところが幾つかある。最も古典的な情報伝達手段であった新聞が、その確固たる情報収集・編集・発信能力を現代に充分に生かしている一方で、テレビは伸びが鈍く、現場の人材確保に苦労していると感じられるのだ。それはそうだよなーと、思う所もあって、普段目にする広告はニュースサイトや SNS で接するものであって、テレビコマーシャルではない。と、いう訳で、ナントカをぶっ壊すとかいう話も、あんまり関心ないのである。あ、遊んでないで、年始の仕込み、仕込み。

12月22日、今日がクリスマス。去年も、このような事を書いたけれども、商売上は昨日がクリスマスイブで今日がクリスマスなのである。火曜日がクリスマスイブと言うのは、何となく味気ないのである。で、今の時期だけのことなのだけれども、街中で子供の視線を感じることがある。大学から海辺の我が家へと向かう道中に、子供たちがトナカイの歌を歌い始めたことも。うーん、プレゼントになりそうなものは何も持っていないのだけれどもなー。こう言う時に、ドラエモンみたいにポケットから何でも出せるといいんだよなー。あ、ドラエモンは有袋類だったのか、と、いま納得。

12月21日、カイガラムシは、日中の太陽光ではあまり目立たないのだけれども、蛍光灯の光で照らすと浮き上がるように白く光る。昼間に見落としていたカイガラムシは、夜に成敗してくれるのだ。濡れた筆で、チョイとなぞるだけで良い。下に落ちたカイガラムシが戻ってくることは難しい。カイガラムシ の分泌物が葉に分厚くベトベトについている場合には、筆だけでは取りきれないこともあるので、雑巾のようなもので拭く。こうやって手間暇かけておくと、やがて新芽が出てくる。この新芽に、カイガラムシが寄ってこないよう監視する必要があって、まあ園芸は楽しいものだと感じる。

12月20日、ポートピアホテルの29階に登って、忘年会。そこからの眺めは、人生初体験なのであった。まず南側。神戸空港がハッキリ見えて、滑走路から飛び立つ飛行機もバッチリ把握できる眺め。北側は更に素晴らしくて、六甲山、三宮、神戸港、橋と、豪華な地上の夜景をいつまででも見て楽しめる。で、会場は南側。トイレに入った時に、その窓から北側の眺めがチラリと見えるのであった。ともかくも、ポートピアホテルの建物の丸さを感じたのは初めてのことなので、貴重な体験となった。普段は地下か、1階2階あたりまで、あるいは南館しか利用しないから、貧乏人には一生で一度の体験となることだろう。

12月19日、サワラは大きな魚で、普通に切り身で売られている大きさの魚を丸一本買ったりすると、味噌漬けにした上で冷凍でもしておかないと、食べきれない。ついでに、大量の中骨が出て、最初の日はアラ炊きから、という本末転倒のようなことになる。という訳で、日頃は切り身を買うのだけれども、時々シッポの辺りの安い身にありつける事がある。脂の乗りは悪いけれども、ダイエットには丁度良い具合だ。ブリを買う時も、お目当ては安いカマから。鯛ならば頭。意外なことに、時々なのだけれども、切り身ではなくて大きな塊で安いものに遭遇することがある。切り身にするには、少しだけ小さいとか、ニガ玉を潰してしまったとか、色々と理由はありそうなのだけれども、これまた手間隙かければ美味しくいただけるので、即買いなのである。貧乏万歳。

12月18日、香川県のお土産をまとめ買いするならば? ... 出身県のことは、実は何も知らない私なのである。18年しか住んでいないので、関西の、海辺の我が家の近くの地理の方がずっと詳しいのである。そういう訳で、歩いてみると、ええと、高松空港には一応、セットで揃っていることがわかった。しかし、空港は滅多に利用しない。JR 高松駅は?以前はホームに KIOSK があって、大体揃っていたのだけれど、今は全て撤去。駅横のスーパーも撤退してしまったし、ええと。どこへ? 答えは意外なところにあった。緑の窓口の向かいに、コンビニがあって、その横にお土産コーナーができていたのだ。それも、随分、随分と前に。品揃えが凄くて、ナマモノ以外であれば、たいていの土産物や特産物が揃っている。あれもこれもと買い揃えると、直ちに持てない量になってしまう。今度から、時々のぞいて、品定めして購入することにしよう。

12月17日、大学の周囲では、毎日のように落ち葉拾いが行われている。相当な量の落ち葉が発生するものだ。これは光合成の結果として作られたセルロースの一部だ。作られた糖分の半分くらいは幹を太くするために使われるのだろうか、植物も微妙なバランスの上で成長しているものだと感じる。さて、拾われた落ち葉は袋に詰められて、廃棄物として焼却炉へと運ばれて行く。そこで燃やして、CO2 を大気に還元すると、またまた光合成の材料となるわけだ。燃やさなくても、風のままにどこかへと飛んで行き、最終的には分解されて CO2 と水などに戻る。このダイナミクスに比べると、化石燃料を燃やすという人間の活動は小さなものかもしれない。

12月16日、初秋に舞い戻ったかのような暖かさで、冬らしさが吹き飛んでしまった。こういう日は遊びに行くのが一番だ、と、思うのだけれども、月曜日なのであった。暖かいから散歩しようと思ったのが良くなかった、この所、あちこち痛めている右足の、足の裏が突如として痛み始めて、一歩も動けなくなった。が、これまたいつもの通り「歩いて治せ」を実践している内にあら不思議、痛みがなくなった。冬の内は、ずーっとこんな感じで一進一退なのだろう。いつも、ランニングシューズで歩いているので、冬は足が冷えているのかもしれない。対策を考えてみよう。

12月15日、スケートリンクで目立ってはいけない。地道に黙々と練習しているのが良い。目立とうとすると、得意なものを披露するだけになってしまうからだ。フィギュアスケートには、一見簡単そうに見えることが難しい、という不思議な面がある。前進・バック・インエッジ・アウトエッジのどこかに「苦手なエッジ」があると、その苦手を経由する動作が全て「乗せるだけ」になって、うまく行かない。エッジは、意図的に軽くしない限り、常に氷を捉えて押していなければならない。という訳で、バックインとバックアウトのセミサークルを黙々と描くのであった。できるようになったら、次はロッカー(ターン)かな。

12月14日、実に久しぶりに綿あめを目にする。色々と美味しいものがある今日、綿あめをわざわざ食べようと思わないものだけれども、料理の一部として組み合わせるというアイデアに、砂糖の使い方の多様さを思い知った。ときに、綿あめの飴の状態はアモルファスなのだろうか?実に細いものだから、すぐに水を吸って粘性の高い液体となってしまうような気もするし、液体の場合にはサッサと崩れてしまうような気もする。と、思案している内に、綿あめの上からソースが注がれて、夢のように消えてしまったのであった。綿あめの魅力は、記憶に残る所にあるらしい。

12月13日、健康診断、段々と遺伝子診断が入って来ることになるのだろうか、生まれ落ちたその日に「貴方はナントカの病で 50 才くらいで死ぬ確率が何パーセント」などと予想される、そういう日が近いような気もするし、そのように予言され始めてから随分と経ったけれども、まだまだ先のような気もする。それに似た現象ならば、総合病院で起きつつある現実を実感する。風邪でも何でもいいから、ともかく、ある病の検診でたまたま大きな病院を訪れると、とりあえず検査しときましょうか?と。勧められて調べてみると、芋づる式に病変が見つかって ... という話、周囲からよく聞くのである。これを過剰診療と呼ぶか、必然の流れと見るかは、意見の別れる所だろう。

12月12日、季節外れな暖かさが続いていて、まだイチョウの葉も黄色いままだ。今日明日は少しだけ気温が低くなるけれども、またしばらく暖かい日が続くという予報になっている。穏やかな日々が穏やかなまま続く、そういう世の中を実現させて行くために、余計なことをしないのが私たちの世代に課せられた宿題なのだろうかと思う。農耕社会や狩猟社会は、そういう仕組みだったのだろう。そこに戻るわけではないけれども、今日の経済社会に農耕社会のような連続的な人生変化を持ち込めないものだろうかと、ふと感じる時がある。いつの間にか社会に貢献していて、いつの間にか老齢を迎える、そんな柔和な社会を目指して。

12月11日、大学に入学する時に故郷を離れたので、出身地の「夜の街」というか、歓楽街の姿を全く知らない。というわけで、機会があるごとに、適当に歩いてみることにしている。風営法ドップリの地域が固まっている場所は、どうせそれしかないから、散歩の対象から外しているし、そもそも駅からも遠くて行く気が起きない。飲み屋街だとか、そこに立っている客引きだとか。そんな雰囲気を見る。やはり地方都市なので、大阪のような派手さはないし、神戸に比べても規模が小さい。そして、明らかに違法だろうという光景もあまり見ない。ただ、あれやこれやで遊ぶと、大学教員など一発でスッカラカンになるであろうことは、想像するまでもないことだ。

12月10日、しばらく前に足を痛めていた。よくあるパターンで、足がアーチになっている部分の、どこかが痛くなって、庇って歩いている内に体全体に無理がかかって、あちこちが妙になるという症状だ。こういう場合には、お遍路さんが言う所の「歩いて治せ」が、自分的には一番合っている。無理のない範囲で、可能な限り普通に歩く。なるべく普通に歩くことが大切で、変に反対側の足を使い過ぎると、元の木阿弥となる。ここ何日かはだいぶん治って来て、最後に「ポキッ」と、指が鳴るような音がした後に完治した ... 少なくとも痛みは全くなくなった。さて痛めたのはどこ?と骨の構造を調べてみると、脚の平の骨と、足首の骨が接している辺りであった。不思議な仕組みになっているものだ。

12月 9 日、長い野菜の皮むき、今まで自己流で何とかやって来た。一番簡単なのは、まな板に一端を置いて、上から包丁を押し切りして皮をむく方法。材料が安定していて、強い力をかけられる。長芋のように、滑って持ちにくい野菜に向いている。今まで苦手だったのが、人参を縦にむくこと。かつらむきは力のコントロールが簡単なのだけれど、縦方向には凸凹があって、料理人のようにスーッとむき切ることができなかった。そこで You Tube など閲覧。あ、刃物はわずかでも引かないと切れないのか、と目からウロコ。で、毎日少しずつ特訓?したら、凸凹があってもむけるようになった。包丁の研ぎも重要という、基本もまた再確認できた。

12月 8 日、クリスマス、その楽しい雰囲気はクリスマスではなくて、今頃がピークなのではないか?という気もする。クリスマスになってしまうと、翌日には歳末・お正月の準備となって、何だか慌ただしい。あちこちのディスプレイや装飾も、飾られた時が目新しくて美しく感じられる。見慣れるという効果は恐ろしいものだ。この時期、クリスマス礼拝に来て下さいという案内もよく頂戴する。街中で布教活動されている方も増える。聖書にはクリスマスの記述がないので、不思議な気もするのである。正教では年明けにクリスマスがやって来るらしいし、森からサンタクロースが出て来るという国も。日本のクリスマスはどこから輸入した習慣なのかな〜?

12月 7 日、飛行機をゲートから離す --- プッシュバックする --- 時に使う、オモチャみたいな自動車、トーイングカー。その重量が何十トンもあると知ってびっくり。大きな飛行機になると 200 t くらいは普通のようで、これを確実に押し引きするには、それだけの重量が必要だということらしい。いや、摩擦係数を考えると、車輪が空転しないためには、それくらい重量がなければならないのは、物理法則から自明なことだ。ただ、物理的に明らかと言われても、やっぱり見かけがオモチャなので、ついつい軽いように感じてしまう。と、いうことは、あのちょっとだけ動いている時にも、物凄い燃料を食っているわけだ。

12月 6 日、冬のジェット気流は時として 300 km/h を超える。しかも、結構幅が広い。旅客機の平均的な対気速度は 800 km/h を少し上回る程度なので、300 km/h の気流に遭遇すると、行きと帰りで対地速度が倍くらい違うことになる。こういう速い気流は、原理的には前線に沿って高度が上がる毎に少しずつ速くなっているわけで、最終的な速度が大きいということは、途中に強烈な加速が存在することになる。乱気流にも遭遇しやすい。というわけで、レーダーを見ていると成層圏へと逃れる術?を使う航空機も多い。また、東西に行き交う航空機の速度差を眺めるのも楽しいものだ。... 傍目には。

12月 5 日、集合写真の撮影はなかなか難しい。人々を揃えて写真を撮れば良いというのではなくて、背景も含めて意味のある写真になっていなければならない。特段の意図がない限り、どこで撮ったのかがハッキリとわかるのが一般的だ。ところが、人々を揃えることに意識を向けてしまうと、この背景のことが頭の中から飛んでしまいがちなのだ。冷静に見なければならないけれども、冷静になれない、これが難しい所。結果として、足が切れたままの集合写真とか、背景が妙なコントラストになっているとか、後ろに人が映り込んでいるとか。こういう事があると「後の仕事」が増えてしまう。面倒なものだ。

12月 4 日、研究会の最中の食事は、朝食から気をつける必要がある。朝食でカロリー補給しておいて、という観光客向けの内容となっているので、日中あちこち動き回るのに充分なだけの、様々な食材を盛り付けてある。一方で、研究会はというと、日中はずーっと座って話を聞いているだけだし、合間合間にお茶の時間もある。夕食はというと、ツルんでどこかで宴会。これではダイエットにならない。動かない時には食べない、これ基本。但し、水分とビタミン、そして最低限度の塩分は別。これらも抜かすと、断食に近いものとなる。というわけで、後の食事も想像しながら、適当にパクつく朝であった。

12月 3 日、昨日の首都圏は荒れ模様、一夜明けて今日はとても穏やかに晴れた空になった。さて仕事。今日は火曜日で、arXiv プレプリントサーバーに沢山の論文がスタックしている。まずは、これをクリアしてから。出張中に気をつけることは、太らないこと。ついつい、日頃と違う場所で違う食べ物を前にすると、食べ過ぎてしまうのだ。特に要注意なのが、会議の合間のお茶の時間のお菓子。これに手をつけてはならない、眺めて食べた気分で過ごすのである。我慢我慢、そういえばインドからのお客さんには間食を全くしない人も居た、ああいう具合に日常の一環として、ストイックに食べないで居たいものだ。

12月 2 日、マイナンバーカードは、顔写真が入っているから、一応は身分証明証として使える。... ということになっている。将来的には、保険証だとか、その他の証明書とまとめるという話も聞くことがある。この、カードという形態で認証を発酵するという方法は、それほど長続きするとは思えないのだけれども、まあ免許証もカードだし、クレジットカードもカードだし、とりあえず発行しておこうか。ではその先、未来はどのようにして個人認証されるのか?という興味が出て来る。見たらわかるでしょ、という顔パスか、あるいは手相と組み合わせたものになるか。案外、犬のように匂いで判断するというのも正確かもしれない。そしてその先は?どのようにしても認証されない人が検出された時点で「ご用」となる、そんな時代かな?

12月 1 日、いい日和なので散歩したい所なのだけれども、師走というのは行事が立て込んでいて、平日に平日の業務を行えない。となると、休日にそれらを行って、本番に備えることになる。働き方改革とは完全に逆行か?というと、そうではなくて、平日に時間が空けばフラリと散歩に出る自由くらいは確保しておきたい訳だ。というわけで、ともかく今日の散歩はお預け。カレンダーを眺めると、年末までモザイクのように予定が入っている。モザイクのように、と書きはしたけれども、実に空白の多いモザイクで、隙間風が吹き込み放題。時間に追われることはない。あ、その時間には執筆、執筆。

11月30日、魚売り場で、コウイカと目が合う。あれは骨のような浮きが入ってるし、内臓も結構あるから、調理すると結構小さくなってしまうのだけれども、美味しいイカなんだよなー、でも、皮むきとか慣れない作業もあるし ... としばし思案して、エイヤッと購入。今回は、内臓は使わずに煮て小さくしてから廃棄。刺身でもいける鮮度だったけれども、塩もみしてから煮付けを作った。調理すれば、しばらくは楽しめるからだ。それにしても、目が大きい。全身に対して、あの大きさの目を持つ陸上生物は居るんだろうか?と、思案するほどに大きな目で、日頃は魚を探し歩いているのだろう。ともかくも、さあ、食べよう。

11月29日、さあ今日もプレプリントサーバーを見に行くぞ、と意気込んでアクセスしてみると、昨日のまま。ええと、今日は何の日だったっけ?とアメリカの祭日を調べに行くと「感謝祭」という祭日であるらしい。どういう日なのか、wikipedia を見に行っても、あまりハッキリとしない所がある。祭日には、こういうパターンのものも少なくないので、まあ不思議なことではないか。で、今日はプレプリントサーバーから解放された訳だけれども、今日使わなかった労力は、確実に月曜日に先延ばしされている。月曜、火曜と、またまたプレプリントサーバーを見て、皆さんの新しい仕事を読ませていただくことになるだろう。

11月28日、朝は木枯らしが吹き荒れて、またまたアチコチが吹き溜まりとなってしまった。ただ、落ちるべき葉はだいぶん落ちた後なので、前回の木枯らしほど目立つ量ではない。木々を見上げると、段々と枝が見えるようになって来た。やがては、最後の葉が落ちて、枯木のような風景となり、雪が降って「枯木残らず花が咲く」と ... なるほどは寒くない神戸なのである。例年の今頃は、渡り廊下の植え込みの雑草を抜く作業に苦労していたのだけれども、植え込みが完全撤去された今年は楽なこと楽なこと。蓄えた体力は、もう一箇所の世話に振り向けよう。植栽を見て思うことは、針葉樹は気難しく、紅葉樹はしぶとい。桐の木は、根元から倒す年になるだろうか???

11月27日、大学は面白い所で、と、明示的に書くまでもないか。誰もが大学の自由をよく知っている。人に迷惑をかけなければ、と、明示的に書くまでもないか。誰にも迷惑をかけない自由の一つに、授業をサボるというものがある。授業に出席するのをサボるという意味であって、教員が講義をサボって休講にするというわけではない。さて面白いと書いたのは、このサボりには幾つかのパターンがあることだ。既に自習してるからサボる、面白くなくて単位取得の気が失せたから出席もしない、サボっても適当に情報を集めれば単位が取れる、出席したいけど何らかの理由により無理、仮面なんとか。というわけで、普段姿を見せない学生が、実は超キレ者ということがあったりする。大学は面白いのー。

11月26日、朝の大学は落ち葉だらけ。掃除をしている人々の抱えている袋が大きいこと。枯れ葉も、あれだけ集まると重いようだ。袋に詰めるということは、事業ゴミとして回収されるわけで、行先は焼却炉だろうか?これは都会では仕方のないことだ。野山だと、そのまま積もって腐植となり、土となり、ゆっくりと分解される。どちらにしても、最終的に分解されるという点は変わらない。太古の昔に、セルロースを分解する菌類が進化して枯葉枯木を分解するようになったので、今では大々的に石炭ができるような植物の堆積は起きないとも聞く。二酸化炭素となって空に放たれた炭素は、またそのうち光合成で糖やセルロースとなる。元素の循環を感じる朝であった。

11月25日、雨が降らないまま寒冷前線が通過して、いよいよ木枯らしが吹き始めた。桜の紅葉は今週でおしまいだろう。街路樹のカエデも色づき始めた。大学の横の道はドングリだらけ。アスファルトの上にドングリが転がり、踏まれて潰れたものは鳥か何かのエサとなる。大きな鳥はドングリでも丸呑みできるようで、木も何も生えていない街中の花壇に、ドングリを成らす木が芽吹いて来ることも珍しくない。草刈機などで切られてしまうので、その場所でそのまま大木となるのは難しい。まあ街中に生えている木は、どれも似たように刈り込まれてしまっていて、本来のおおらかな姿をしていることは、あまり無いか。

11月24日、浜辺にはテングサが落ちているものだと思い込んでいた。沖合の人工島に作られた浜辺で、さあテングサを探そうと見て歩くも、打ち寄せられているのはアオサばっかり。アオサも、まあ、海のものとして食べられなくもないけれども、テングサに比べると有り難みが少ない。また今度、別の浜辺を散歩した時に探そう。確か、須磨とか垂水の海岸には打ち寄せられていた。と、こんな場所で書いていいんだろうか?という一抹の疑問もある。一応、そのまま放置されるようなものであっても、漁業権の対象ではあるはずだから。まあ売り物にならないような物は、少量拾っても訴えられることは「まずない」のが普通だ。(断言はしないけれども。)じゃあ、浜辺の貝殻は?商品価値のあるような貝殻を大量に持ち去るのは明示的にダメなんだろうな、たぶん。

11月23日、夕暮れ時に桜の葉を撮影してみた。肉眼ではもう暗くて、色があまりハッキリとしないような状態だったけれども、カメラを通すととても鮮やかな赤色に写った。これは、どちらかというと偽の色。カメラはどうも、赤い方へ赤い方へと写る特性がある。私の姿を撮影した写真はいつも、肉眼で見える以上に赤い。また、どちらかというと朱色が入っていない暗めの赤色を身につけているのだけれども、写真はまっ赤。人間の視覚での色の識別がそもそも、とても微妙なサジ加減で成り立っているので、それを三原色のカメラに追い求めても仕方ないかな。桜の紅葉については、赤く写っているのだから、何の不都合もない。

11月22日、最近、どうもタイピングが崩れてしまって、ミスタッチが増えて来た。その理由は明らかで、ホームポジションを正しく取っていないから。キーストロークが小さくなったので、何となく手首を机やノートパソコンのパッドの横に置いてしまい、指の動きだけで何とかしようと、ダラけたタイピングを続けている内に、キーボードの感覚がおかしくなってしまったのだ。治す方法は自明で、要するに、正しい姿勢でホームポジションをキープすること。カナ入力で「ホームポジション」を何百回でも間違いなく連続入力できるようになったら合格。いや、この「ホームポジション」というタイピングが難しいのは、そもそも JIS 配列に問題があるからなのだけれども、今さらどうしようもないのである。

11月21日、ハンドクリームが沢山ある。何となく使っていないのは、ハンドクリームの石鹸感がイマイチだから。水で完全に洗い落ちるということは、ハンドクリームの中に沢山の界面活性剤が入っているということだ。そこで一計を案じて、オリーブオイルと手の上で混ぜて使うことにした。すると?オリーブ石鹸の香りが出てくる。これが少し不思議で、オリーブを界面活性剤で乳化しても、石鹸にはならない。鹸化されて、あの香りが出てくるはずなのだ。少し余剰に、アルカリ成分がハンドクリームに入っているのだろうか?まあ、皮膚にはたっぷり油脂が存在するから、少しくらいのアルカリは問題ないのだろう。完全にオリーブだけにすれば?と思われるかもしれない。それはそれで、脂っぽくて、イマイチなのだ。ブレンドの比率を研究してみよう。

11月20日、量子コンピューターが話題を呼んでいる。Google の宣伝が上手いという事もあるけれども、ベンチャービジネスという形で商業的にも関心を持たれているのだろう。話題性があるならば、誰でも参入できるか?というと、そこに少しバリアがある。量子力学を「本質的に」理解しておく必要があるのだ。量子力学なら使えるよ、という人々は数多く居て、量子化学から固体物理、果ては生物学まで幅広く応用されているのだけれども、量子測定の辺りをシッカリと押さえておかなければ、量子計算の入り口に立てないのである。幸いなことに、大学一年生でも読める量子力学の良い教科書がある。ファインマンレクチャーの vol. III だ。測定から学び始めるという構成になっている。図書館かどこかへ推薦しまくろうかな。

11月19日、スパコンが高性能な計算機だと思われているフシがある。あれは特殊な計算機だ。スパコンでゲームができるか?というと、工夫したら無理ではないだろうけれども、普通にゲーム機を買って来た方がずっと楽しめる。スパコンで SNS ができるか?というと、うーん、その必要を感じる人は居ないだろう。自動車に例えると、トレーラーとかクレーン車とか装甲車や戦車の類を思い浮かべると良いだろうか。街中を走るなら、軽自動車で十分だ。じゃあ「スパコンを遥かに超える量子コンピューター」は? ... いや、両者を比べるのがナンセンスです、そもそも用途が違うのだから。

11月18日、「記述式」の試験がアレコレと騒がれているけれども、まあ、マス目の中に書き込むのは記述式の中では「穴埋めに次いで」記述の自由度が低くて、二次試験で広く行われている「白い紙に勝手に書いてもらう」方式の記述式とは、比較にならないものだ。さて、入試の話は離れるとして --- と免罪符的に書いて --- 普段の期末試験でも、同じように白い紙に自由記述というスタイルは同じで、このスタイルの答案用紙の採点には難儀な作業が発生するのである。文字の判読は言うに及ばず、何かが書かれているか、それとも消した物なのか?という、心理戦に近い判断が必要となる。この判断にハッキリした境界はなくて、最終的には「エイヤッ」と判定を下す必要がある。1つの設問に対して、2通りのアプローチを書いてあって、どちらも途中で頓挫しているような場合も、どっちの点数を?といった判断が難儀なんだよなー。これがホントの記述式。障子に書写するだけの「記述式」と比べないでくれ。

11月17日、海を眺めていると、トロトロと浮かんで進む鳥が見えた。海鵜らしい。その辺りに、どんな魚が居るのだろうか。時折、水面から飛び上がる魚が見える。ボラだろうか。そうこうしているうちに、海面にさざ波が幾つも立ち、それに群がるカモメが乱舞する大騒動になった。海鳥は、こうやって1日を食べて過ごすのだろう。海辺の我が家から、歩いて少しの岸壁、いつも眺めているにもかかわらず、何も見ていなかったのだということを、理解した午後であった。日がかげって肌寒くなって来たのでイソイソと帰り、さて今日は魚を食べようかな。煮付けていただこう。カモメのご飯?とでも表現しとこうか。

11月16日、神戸マラソンの前日、街中が何とも慌ただしい。沢山のランナーが神戸入りして、走っていたり、街を散策していたり。どことなく、お遍路さんと似ている佇まいがある。自己完結しているというか、荷物を背負って歩く姿や、それを接待する人々の光景が、お遍路さんなのである。ランナーは、各地のマラソンを転々とするから、自然とお参りのような雰囲気になって来るのかもしれない。明日はいよいよ本番。明日の神戸の街に出てはいけない、それこそ見物人、家族などが大挙してやって来るので、大混乱となる。普段ならば、わずか3分で駅から到着する場所が通行止めになって、15分以上迂回するようなことすらあるのだ。

11月15日、私に対する FAQ は「なぜ赤いのですか?」である。自分もあまり理由がわからないままなのだけれども、何気なく赤い色で居ると落ち着くのである。最近、何となく、その理由がわかって来た気がする。このように赤づくめだと、まず人々は「どこかおかしいのではないか?」と用事をもって接してくれる。そして、思っていた通り「おかしい人」だと理解すると、その事実を自然に納得してくれるのだ。もし私が普通の格好をしていると、「おかしい人」だと気づいた時に白い目となるか、遠慮がち疎遠な感じになるだろう。予め奇妙であることを、色で知らせることにより、無用のトラブルを防ぐのである。そう考えると、赤で落ち着く理由が矛盾なく説明できるのである。納得。

11月14日、学生さんの皆さんが、学問に限らず様々なことを身につけて行く有様を、毎日のように接する中で感じることが出来る、有難い職業が教員職だ。昔は、何かのために学んでもらっているという気持ちが強かったけれども、現在はだいぶん考えが変わって、学生という時間を楽しく過ごしてもらうことが大切なのだと思うようになった。この変化は、学生の皆さんから私が学んだ結果なのだろう。大学生として過ごした日々は身近に接した人々がいつまでも覚えているものだ。同じ時間を過ごした人々と想いを一つに出来る、そのような気がする朝の日差しを浴びた。様々な思い出を、これからも大切にして行きたい。

11月13日、今日は休暇。年休はキッチリと取りなさいというのが、今の社会の常識らしい。物理屋という研究の日々を過ごしている限り、休暇も何もあったものではないのだけれども、仕事場での雑用はしないという意味で、職場を離れて活動する日にした。お忍び、いや、敬語を使うようなものではない、単なる忍びの一日 ... というつもりだったけれども、全身が赤色では誰かに、いや誰にでも容易に見つかってしまうものだ。本当は明日、木曜日の休暇としたかったのだけれども、木曜日には講義があるので、水曜日の今日を休日とした。道の両側は畑、空は広々、空気が美味しい。アメリカのような雰囲気もある、そんなノンビリとした時間を、少しばかし過ごして、トンボ帰りとなった。

11月12日、量子コンピューターへの関心が高まっていることを感じる。Google の論文発表が、世間的な関心を高めたことは間違いない。あの論文、何とも ... なのだ。シミュレーターの使い方が悪いんじゃないか?というのが、代表的な突っ込みだろうけれども、それよりも何よりも、何を目的とするでもない量子計算を題材に取る時点で、関心が遠のいて行くのだ。まあ一発目のジャブとしては、効果があったよなー、投資家に対しては。修士学生くらいになると、この辺りの本質的な感覚について、耳学問であったとしても色々と伝え聞いていて、少なくとも今の段階で企業としては量子コンピューターで利益が出るものではない、ということは理解しているようだ。就職戦線に量子コンピューターが噛んでくるのは、もう少し後の時代かな。

11月11日、バックアップディスクが一杯になってしまった。というのも、もう数年以上は使っているディスクなので、その間にデータも増えれば、システムやアプリケーションのファイル容量も増加する一方で、ついに主記憶のSSDに記憶しているファイルの量が、バックアップ容量を超えてしまったからだ。この間、よくディスクが壊れなかったものだ。2年も動けば御の字、というのが昔々のハードディスク寿命。さて、次はどれくらいの大きさにする?と考えて、5 Gbyte を選んだ。4 G と 5 G では、使える期間が 1 年は違うだろうからだ。ただ、こういう時に限って、珍しい現象ながら、買って早々にディスクが「飛んで」しまうものだ。

11月10日、大学祭2日目。という華やいだ日に、研究室で黙々と作業する。研究する、だったら良いのだろうけれども、作業である。と、書くだけ書いておいて、やっぱり大学祭を見に行く。普段とは違って、顔見知ったる(?)学生さん達が、みんな大学での休日を楽しんでくれている。普段の日曜日は、大学院生などを除いて、ほとんど学生が居ない閑散とした大学だから、何だか遊園地にでも来た気分なのである。何か大きなアトラクションというか設備というか遊具があるわけではないのだけれども、それでも人々が集まって来る所に、大学祭の意味があるんだよなー。これだけの企画をまとめるの、大変なんだろうな。イベント会社を起こせるくらいの力量は持ってるんだろうなー、彼ら。

11月 9 日、大学祭というものに来たことがあまりないので、どんな事をやっているのだろうかと、午後に少し覗きに行く。わざわざ、休日に海辺の我が家から通勤?するのか?と自問自答しつつも、定期券があるから交通費はタダ ... いや、通勤手当でカバーされているではないか、と、しょーもない事を考えている内に阪急六甲へ到着。お、凄い、いつもとは全然違う人手、阪急六甲が週末に、こんなに混雑していて良いのだろうか。そして、キャンパスに登ると、いやこれまた凄い人々の数。夕暮れになってだいぶん減っても、まだまだ。おおよそ17時に展示は終わり、後はバンドだけとなる。それもまた楽しそうだけれども、夕食もあるし、海辺の我が家に戻ることにした。

11月 8 日、無責任という言葉がある。責任を負うということは、恐らく、自分が今行っている、あるいは担当している事象について、将来的に見守り育て、不測の事態には身を投じて改善に貢献しようとする、そのような態度を示すことなのだろう。しかし、ある一定の時間の後に、そのような責務をどのようにしても果たすことができなくなれば、責任の負いようが無くなるのだ。結果として、責任は取れないという無責任状態に陥る。その責任は次の世代へと丸投げされる。この無責任ボールを受け取る人が居るのか居ないのか、そんな状況を少し楽しむことができた、というのが今日の収穫だろう。

11月 7 日、量子化学においてエンタングルメントは、どれくらい重要な指標と考えられているのだろうか?分子軌道計算を行う時に、それを密度汎関数法で行うと、エンタングルメントが消し飛んでしまう。もちろん、消し飛んでも影響が少ない基底を選んで来て計算するという方針だから、それはそれで上手い割り切り方だ。そこから一歩出て、どこからエンタングルメントを拾って行くかという考え方から、最初から full CI を念頭に置いて計算を進める方法まで、様々なアプローチが考えられる。単にエネルギーを最小化、あるいは実験に合わせるという興味だけでは面白くなくて、分子のどことどこが強くエンタングルしているのか、それを波動関数レベルで明らかとして行くことが、分子の性質や反応の課程に重要なのだろうと、ボンヤリと思いつつ過ごした午前であった。

11月 6 日、大学の渡り廊下に小さな緑地があって、最初は綺麗に植え込みが設置されていた。年々、雑草がはびこって、見苦しくなって来たので、ここ若干年の間、少しだけ手を入れて来た。風や鳥が様々な種を運んで来るもので、松が3本生えて来た。最初は放置していたので、樹形は最悪。切り詰めて、何とか形になって来たかなーという所で、その場所を含めて工事が始まる。ホッとした。と言うのも、植え込みというものはおおよそ管理が行き届かないもので、ボランティア頼みという側面が強いのだ。辺りを見回すと、同じような植え込みがアチコチにあるのだけれども、今度こそ手を出さないぞ、と誓う自信はない。

11月 5 日、外国で英語が使われる場面、どういう場合が多いかは、わざわざ思い出すまでもなく「唯一の共通語として仕方なく使う」だ。国際会議で物理屋さんが集まると、大きく分けてロマンス諸語、ゲルマン諸語、スラブ諸語、中国語、アラビア語、その辺りを母語とする人々が混ざり合ってて、結局は英語しかないよなーとなる。昼食で、テーブルが分かれたら、その時にはそれぞれの言葉も飛び交う。さて、いま話題の?英語4技能、浸透させようとすると小学校から英語を教える必要があって、先生は当然ながら英語が堪能で、親もある程度は話せるという状況で本来の目的が達成できる。そのような社会が実現される頃には「日本人」同士でも英語を使う場面がチラホラと出て来て、行き着く先は「漢字の勉強は面倒だなー」となる。これがマズいと主張するのではなくて、遠い将来には全地球的に統一言語になるのかなーと、そんな世の中が来るのもマズくはないとも思う。

11月 4 日、ダイオードを組み込んだ回路を、大学入試の過去問で見かけた。これは勇気のあることだと思う。ダイオードが単純に「電流の一方通行」だと考えるのは危険な賭けで、「実際に回路を作って検証してみましょう」という横槍がすぐに入るものなのだ。ダイオードは、その構造から明らかなように、とある有限値の電圧をかけて、初めて電流が流れ始めるし、その後の電流の増大も電圧に対して非線型だ。半導体素子は、ともかく難儀で面白い存在で、そういう興味深いポイントを全て無視してしまって「一方通行の素子として動作するのだ」と決めてかかるのは、「車輪は丸いものだとする」という類の問題設定とは、次元の違う危うさがあると感じる。そもそも、高校の教科書で扱う半導体は、丸暗記教科だったな。

11月 3 日、じゃがいもが痛んでいたので、ミキサーにかけて、デンプンを取ることにした。こういう「実験」は、小学校で一度はやるけれども、デンプンは安価なものだから、成人してから体験するのは「小学校の先生」か「小学生の親」くらいだろうか。記憶を新たにする目的でトライしたのは、まあ悪い思い付きではなかったけれども、物事には道具が大切だということが良くわかった。問題は布。細かすぎるとデンプンが取れないし、荒すぎるとデンプンのような芋の粉まで出て来てしまう。十分に大きな、適当な大きさの目の布が必要で、こういうものはデンプンの粒の大きさをまず知ることから始めなければならない。ともかく、結構な労力を費やして、何とか少量のデンプンが取れた。黒砂糖と水を加えて、クズ湯ならぬイモ湯を楽しんだ。

11月 2 日、カフェでエスプレッソを頼んだら、カプチーノが出て来た。「え?エスプレッソでは?」と店員さんに言ったら「すぐ作り直して参ります」と奥へと戻って行った。ちょっとマズかったかなーと、すぐ後に思った。エスプレッソでもカプチーノでも、どっちでもいいや、という気分ではあったので、オーダーミスを指摘した上で「それを頂きます」と言えば、誰も困る人が出ないし、カプチーノが廃棄されることもなかったろう。いや、何よりも、あのカプチーノは美味しそうだったのだ、今度はカプチーノを頼むことにしよう。間違ってエスプレッソが出て来たら、今度こそ「それを頂戴します」だ。

11月 1 日、習っても直感が働かないというか、よく理解していないというか、電磁波とアンテナの関係は「自分的には」全く謎のままだ。ダイポールアンテナですら、実際の所、どのように電磁波が取り囲むのかを思い浮かべることは難しい。目に見えるシミュレーターを誰でも使える時代が、そのうちやって来るのだろう。そういう時代に、アンテナがどのような形になっているのか、想像がつかない。いや、現在でも、アクティブな素子でアンテナをコントロールするという、多関節ロボットで波乗りするようなことが既に行われているから、技術の進歩は早いものだと思う。お金が絡む所ならば。

9 月と10月の1行日記