← 11月と12月の1行日記  

10月31日、今日はハロウィン本番、スーパーマーケットのお菓子コーナーは半額投げ売り状態。子供たちのハロウィンは週末に終わってしまっているから、仕方ないよね。ちなみに、半額であっても、その辺りに並んでいる普通の菓子と比べると、より高価である。流通量や流通時期が限られているだけで、これだけ手間がかかってしまうということだ。これは、その後に来るクリスマス商品も同じ。その後は何だったっけ、ああ、バレンタインデーだった。その辺りに、節分とかひな祭りもあるのだけれども、商品的には影が薄い。あ、正月のことを忘れていた、まずは日本文化の勉強をやり直さなければ。

10月30日、学生たちが、ロウソクに火を灯していた。ロウソクと言っても、食用油を硬化させて、プラスチックのカップに流し込んだもの。どちらかというと、行燈の火に近いものだ。ロウよりも融点が低いので、芯が倒れ易い。また、この手の燈火に共通する「風に対する弱さ」がある。この辺りに気づく機となったのは、良かったのではないだろうか。また、2時間程度の燃焼に、どれくらいの燃料が必要かということも、検証できたことだろう。カップ一杯くらいの食用油があれば、1日は火が保つのではないだろうか。こういう光景を見ていると、ガスも含めて、火というものが非日常になった現代が見えて来る。火遊び、という言葉も絶滅するのだろうか。

10月29日、レンコンは、保存食のように見えて、実は保存期間が短い。水というか、泥から上げてしまったら、数日しかもたない。それも、どんどん切り口やら傷口から傷みが広がって行く。従って、冷蔵庫に保存することなく、買って来たらサッサと調理するしかない。レンコンの皮むきは、けっこう地道な作業で、特に凹んだ部分の皮むきが面倒だ。面倒だ面倒だと繰り返しても仕方ないので、黙々と皮むきする。その後は至極簡単で、薄切りにして湯通ししたら、好みのダシなりドレッシングなり何なり、合わせて食べるだけだ。大きな塊にして煮る手もあるか。ローカロリーな主食にもなり得るかな。さあ食べよう。

10月28日、趣味で、けっこう長い間、ラジオ講座の外国語を続けている。一度に何カ国語も付き合うのは無理なので、半年ごとに1コースだけ。第二外国語がフランス語だったので、フランス語から始まって、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語と、ラテン系を渡り歩いて、時々、ドイツ語や中国語などに半年だけ付き合って、今はロシア語。どちらかというと、会話で使えるとか文献が読めるというよりも、言語の造りを観察するといった感じ。ロシア語は、もっと変わった言語なのだろうと思っていたら、意外にもラテン語の枠組みそのもののような所があって、インド・ヨーロッパ語族の層の厚さを再認識した。幾つ習っても、毎日使う英語の域には決して到達しないのが、第二外国語の良い所だ。気を抜いて楽しめる。ついでながら、神戸大学に近い(?)場所に、ロシア人がピロシキを売ってる店がある。

10月27日、街中はハロウィン。日中は、どちらかというと子供のお祭りで、様々に仮装して歩く子供たちにお菓子を配る人々があちらにこちらに。引率するお母さん方も、軽く仮装 ... いや、なかなか本格的なお母さんも居たぞ、顔の半分くらいに骸骨をメークしていたり、コートとお面という定番の仮装だったり。デパートの地下に潜ると、忍者に扮している売り場のお姉さんも。子供用品売り場の階をエスカレーターで通りかかると、仮装パレード中だった。商店街として盛り上がるのは今日で、月末の木曜日に大騒ぎするのは若者達なのだろうか。大学では?あまりハロウィンという感じではない。東大は、近くに渋谷があるから、楽しみたかったら放課後に見に行くだけでいいんだよなー。

10月26日、コンデンサーの極板の間に、誘電体を差し込んで行く時に「誘電体が受ける電気的な力」を求める演習問題がある。この際に、極板間の電気力線が、極板間に何があろうとも極板に垂直な方向に描かれていると、大きな違和感を覚える。多少は曲がっているはずだ。誘電体が受ける力は、Maxwell 応力を表面全体に渡って積分したものだから、誘電体が極板に並行な方向へ力を受ける状況では、(1) 電場勾配があるか (2) 電場が極板に並行な成分を持つ、などの現象が起きているはずだ。もちろん、誘電体の内部の方が電束密度が高いので、電場が極板に垂直なままでも、ちゃんとマクスウェル応力から力が計算できてしまうのだけれども、どうも、それだけではない気がするのだ、境界条件は難しいものだ。

10月25日、研究者になる方法を研究者に聞いても明確な答えは返って来ない。「知らない」とか「運だけ」と答えるのが、一番誠実だろうか。何でも良く理解してくれる人と、飲み込みが悪い人、どちらが研究者に向いているかさえ、全くわからない。全般的な傾向としては、先々よく目が利く人は、研究というものを様々な社会活動の「一部」として眺められるので、結果として研究職を選ぶ可能性が低い気がする。また、同じ研究をするにしても、経済活動の中での研究に身を置くか、経済を度外視した研究に興味を持つかは、これまた判断の対象だ。どっちかというと、脇目を「振れない」人が研究に没頭する可能性が高い。ついでながら、研究職を目指すという言い表し方には、ちょっと本末転倒感があるので、何か良い表現方法はないものか?と思案してしまう。

10月24日、パソコンとは何か?ということが、もはや回答不可能であることを再認識した。タブレットの良さ、iPhone の使い勝手、ノートパソコン、そして業務用となってしまったデスクトップ、それぞれに、つなぎ目がない世界の中にあって、どの道具がどのように使われるべきか?という垣根はもはや、ない。入力方法も同じようなもので、確かにキーボードは速くて使いやすいのだけれども、歩きながら使うわけには行かないし、横になって使うにしても不便な道具だ。キーボードが必ず必要であるという言葉を放った瞬間に、何かを失うのが今の世の中だと、これまた再認識した。まあ何でもいいから持ちなさい、ということかな。

10月23日、海辺のわが家から、故郷の高松まで、どれくらいの時間で到達できるのだろうか?今まで、あまり真面目に考えたことがなかった。最短コースを組んでみても、その通りに乗れる保証はなくて、ついつい余裕のある乗り継ぎを組んで、適当に行ったり来たり、そんな感じで今日までやって来たからだ。海辺の家からは、とある私鉄かJRにトコトコと乗るのが、たぶん一番速いのだろう。三宮と新神戸の間が、気分的には最も遠い。JR だと西明石という手もあるけれども、こだまにしか乗れないので、新幹線を使う意味がない。高松に着いたら、あとは短い。南北方向には、ものすごく平たいのが、香川県の良い所なのだ。ついでに、南斜面がないので、台風来ても、大雨になりにくい。... その割には水に浸かりやすい地形だけれども。

10月22日、数学の問題は作ったことがないから、言葉の言い回しをどうすれば良いか、あまり知らない。4つ玉があって、1, 2, 3, 4 と番号が書かれているとしよう。これだけの状況説明も、あらゆる誤解を招かないように、かつ簡潔に書き表すことは難しいものだ。「4 つの玉に、それぞれ 1, 2, 3, 4 の番号を書き」で十分なのだろうか、何だか、どの玉にも 1, 2, 3, 4 と、4 つの数字が書かれているような気もする。かと言って、「... 1, 2, 3, 4 の番号を 1 つずつ書き」としてみても、どの 1 つを取って来て書くのか?という疑問が残る。ちなみに今日のニュースは「トレーラーから黒煙 テロ疑いなし」であった。おお、疑いなくテロなのか! と一瞬思ったけれども、全く逆の意味であった。

10月21日、台風がやって来て、生暖かい空気が流れ込んで、何となく朝から曇り、夕方から弱い雨となる。台風の暖気は、やがて温帯低気圧の肥やしとなって、低気圧の発達を促す ... と言いたい所だけれども、上空の気圧配置が、あまり温帯低気圧の発達に適していない。結果としてブロッキングされるように、しばらく関東に居座って、秋雨のような天気となるようだ。いや、これが秋雨か。今日は傘を持つべきかどうか迷ったのだけれども、まあ、こういう日は、アクセサリーの一部と思って傘を持っておく方が良い。神戸大学からバスで降りると、阪急六甲のバス停から駅まで、少しは雨の中を歩くし、某駅で降りてから自宅に到達するまでも、けっこう長いのだ。

10月20日、六甲台キャンパスまで散歩してみると、何だか雰囲気が違う。ロケが行われていた。建物の中を歩くと、あれあれ、白衣を着たエキストラがたくさん立っている。普段は事務室として使われている部屋の表札に「医学研究科」などと、上から貼り付けてある。肉眼で、パッと見た感じでは、ツギハギというか、いかにも工作しましたという雰囲気。照明をちゃんと入れて、カメラを回して、映像として切り取ると、ちゃんと融合した歴史的映像に化けるのだろう。ともかくも、休日に散歩すると、結構な頻度で何かの撮影が行われているというのは、やっぱり戦前の建物ならではの風格だ。歴史的建築は大切に。阪神三宮ビルも、外装だけでも、昔のままに復活して欲しいなー。

10月19日、遠く離れた国アルゼンチン。地球の裏側にあって、ブラジルほどの日系人が住んでいる訳でもないので、普段は何も情報が入って来ない国だ。大昔、ニュースを賑わしたのがフォークランド紛争。イギリス領の小さな (?) 島が、あんな場所にあって何の利益があるのか?と、ずーっと思っていたのだけれども、船や航空機の補給基地だとか、安全のための施設、そして何よりも軍事拠点として、太平洋と大西洋の間にある重要な拠点であったのだ。1914年のフォークランド沖海戦など、しばし歴史のお勉強。当時のニュースで記憶に残っているのが、シルクワームの威力と、ミラージュIIIがハリアーに蹴散らされたという、電子戦の重要さであった。最近のアルゼンチンは?というと、フォークランド紛争以来、経済的には沈みっぱなしらしい。

10月18日、唐辛子を練り込んだコンニャクに遭遇する。これは危険な食材で、中身にタップリと唐辛子が入っている割に、辛さをあまり感じない。よく噛み砕くと、その本性が現れるし、スープに入れたりすると、煮込んでいる間に辛い汁が出来上がる。唐辛子を練り込んだ食材には一様に危険が潜んでいて、唐辛子パスタがその代表格。真っ赤っかなのに、食べてみるとあまり辛くない。何事もないか?と思っていると、後で大変な目に遭う。何だかとても眠たいなーと思っていたら ... とか。食べてみて一発で辛さが実感できる坦々麺などの方が、意外と辛味を摂取しないものかもしれない。辛いものは、ついつい食べたくなってしまうんだなー、困ったものだ。

10月17日、チョウとガは、ハッキリと 2 分できる別々の昆虫だと、ずーっと思い込んでいた。よくよく調べてみると、チョウとガを合わせたチョウ目という、羽に鱗粉がある昆虫の群があって、その中からアゲハチョウ上科、セセリチョウ上科、シャクガモドキ上科のものをチョウと呼び、残りを全てガとするのだそうな。誰が見てもチョウというのは、アゲハチョウ上科のチョウで、セセリチョウの仲間はガのようにも見える。そういえば、身の回りで目につくチョウは、アゲハ、キアゲハ、クロアゲハ、モンシロ、モンキ、シジミ、セセリ、... それくらいなのだけれども、ガは大小様々なものが電灯に集まって来るし、毛虫や芋虫もよく目にする。ふと、イカとタコはどうなんだろうか?と思って調べると、諸説あるのだそうな。分類学は面白いものだなー。

10月16日、染めると、染まる、染められる、染めれる。染ませる ... は苦しい、染ます ... は無い。日本語の動詞は、時制とか性数には無頓着というか、助詞や助動詞にその役目を追い出しているけれども、それでも難儀な変化をするし、他の言葉と重なったり、発音が困難だと容赦なく不規則変化となる。標準語を作った時に、きっとみんな、妙な言葉だと思ったに違いない。それから少しずつ変化して今日に至る。まだまだ、これから先もゆっくりと変化が続き、やがては古文と完全に切り離された言語に変化するか、あるいは他言語を使うようになるのだろう。書き物をしていると、微妙なニュアンスの書き分けがいつも気になって、ついつい時間を取ってしまうのである。

10月15日、道端に転がるのはドングリ。広葉樹は、葉が広いだけに光合成も得意なのだろうか?(←針葉樹も広葉樹も、同じ大きさであれば当たる日光のエネルギーは等しい、という突っ込み入れ放題の記述です。)シブ抜きをすれば、何とか食べられるようになるドングリ、普段は動物のエサになっているのだろう。不思議なことに、あの大きなドングリの木の芽が、その辺りの花壇や道端から生えて来ることがあるのだ。大きな鳥が丸呑みして、そのまま消化されずに落として行った?それとも、とりあえず集めておいたものから芽が出た?消化しないものを食べるのか?という疑問もあって、謎は謎のままだ。

10月14日、大根のかつらむき、結構よく話題にされるし、目にする機会も多い。大根は、たぶん、一番容易にかつらむきにできる素材だ。ニンジンもまあまあ簡単。ジャガイモは、何に使えるかは別として、手を滑らさない限り問題なくかつらむきにできる。レンコンのかつらむきという、ちょっと難儀なものも。これも、どう使うかを考えると、単純にレンコンを薄切りした方がいいんじゃないだろうか?と思えるものだ。カボチャは、種類やら収穫の時期によりけりだけれども、かなり手強い素材だ。リンゴは、硬い品種なら可能で、粉っぽく柔らかいものはダメ。どう考えても無理なのが、熟したバナナのかつらむき。意味があるのはやっぱり、ニンジンか大根かなー?

10月13日、海の満ち引きは毎日のように速やかに進むけれども、川を流れる水はなかなか河口まで進まず、川から溢れ出た水は溜まったままとなる。こういう場面を目にすると、水の粘性というのは大きいものだと再認識する。ビルで火災が起きて、スプリンクラーの散水や消防活動を行うと、フロアが水浸しとなる。その水もまた、なかなか引かない。建てる時に、ちゃんと水平を取って建ててあるので、どちらにも流れ行く勾配がないからである。そして、コンクリートの隙間から、下のフロアも水浸しとなり、水がある限りこのプロセスが繰り返される。こういう時には、水は難儀なものだと感じる。無いと困るものだけれども。

10月12日、高校の同窓会で、母校では食堂が整備された時に、外食が禁止となったという事を知った。それは、私たちが入学する、ほんの少しだけ前のこと。それまではというと、昼休みにふら〜っと街中に出て行って何を食べようと、何を買って来ようと自由だったのだそうな。もちろん、昼休みの終わりまでには戻って来なければならない。私たちが在学の頃には、確か、昼休みに教材や文房具を買いに出るのは自由だった記憶がある。今はどうなんだろうか。校時を見に行くと、昔からの伝統で昼休みが2回あるのは現在もそのまま。11:05-11:30 と、12:35-13:05 が、その少し長めの休憩時間。どちらで昼食を食べるのも自由ということらしい。大学はというと、来るのも来ないのも自由だ。

10月11日、千葉を襲った台風と、今度の台風を比較する話、どうもシックリ来ない所がある。台風 15 号は小さくまとまった雲を持っていて、最も発達した直後に、中心付近の気圧傾度が大きいままの状態で首都圏を通り抜けた。明日やって来る 19 号の方は、大型の常というか、南方で強烈に発達した後で、段々と風が吹く領域を周囲に拡大させながら偏西風に乗って行く秋台風だ。どちらが、より強いという議論を始めても仕方なくて、ともかく、台風がやって来る時は用心するというだけで良いと思う。都会では、ちょっとした風でも、何かが降って来る危険があり、こういう時には屋根のある場所に居ることにしている。

10月10日、昼休みになると、辺りが外国人留学生だらけとなる。秋入学とか秋留学の季節なんだろう、ガイダンスで集まっているのかな。こういう光景を見ていて、実は 200 年後くらいの日本の、というか世界の姿なのではないか?と思ったりもする。日々の変化は小さくても、何年も経って比べてみると、とてつもない変化として実感できるという事は、よくあるものだ。50 年も前だと、市街地でも一歩路地に入ると、舗装されていなくて土埃が立つ穴だらけの道という状態だった。何でも吸収して分解してしまう、そんな光景を現代の人々が目にすると、クラクラっと来るだろうなー。今の社会も同じことだろう、未来から振り返れば ....

10月 9 日、傘を振り回して、と言われたら、どう振り回すだろうか。グルグルと振り回す人が多いだろう。そのグルグルの回転方向は?人間が何かを振り回す時には合理的な回転方向を自然と選ぶもので、大抵は、とき卵を作る時や、卵の泡立て、お米を研ぐ時の回転方向と同じ方向に手を回すのである。逆方向だと、何だかしっくり来ない。スマホやパッドのスクロールアップ動作は、これとは逆方向の動きで、指によくない負担をかける。あまり使わないのがいいんだけど、ついつい。さて、傘の umbrella は、何となくスペイン語っぽい綴り。もともとは日陰を指す umbra から来ているそうで、最後に縮小辞がくっついたのだと。il とか ll の綴り字と読みは、ラテン系の言葉の鬼門の1つだ。

10月 8 日、歩くカイガラムシ、歩く速さが結構速い。ゴキブリのような速さではないけれども、そのまま一日歩けば何メートルかは移動できそうなくらいの速さだ。ただ、持久力に問題があるのか、そもそも動く気がないのか、放置しておくとすぐに止まってしまう。この歩くという性質が拡散の源となって厄介なのだけれども、一方で、適当に間引いておくと、次から次へと手入れしやすい場所に移動して来て、根気強く取っていると段々と数が減って来るという、駆除にはまあまあ都合の良い側面もある。へばりつくカイガラムシは、手の届かない場所に入ってしまうと、なかなか駆除できないのだ。で、今日もカイガラムシ落とし。影でクモが狙っている。

10月 7 日、推薦状を書く時には、自分が書いてもらった推薦状を参考にする。そんなもの読めないのではないか?と思われるかもしれないけれども、「こんな文面でどうかな」と、確認が入る場合もあるものだ。ベタ褒め推薦状というのはあまり相手にされないとも聞くし、そもそも推薦状の効力なんて殆どないという事実もある。どちらかというと、身元保証の意味合いの方が重要なのだろう。なお、密封ではない推薦状も存在するには存在する。何かの申請の様式の一部が、推薦状の書き込み欄という場合だ。こういう場合は、更に推薦自体が形式的なのだけれども、そのような場合には多くの人の目に触れるので、ちゃんとした文面を用意しておいて、転写する。字が汚いのはご容赦を。

10月 6 日、週明けには、あまり時間が取れないかも知れないので、日曜日に大学にやって来てゴソゴソ。廊下で何やら、ゴニョゴニョと話す声あり。壁に耳あり障子にメアリー、あ、誤変換だけど面白いや、ともかくも人々が普通に過ごしているというのが、大学ならではの光景。これは、別に、ブラック企業的というわけではなくて、単純に大学で時間を過ごすことが最も理に叶っているから来ているだけのことだ。時々、ブラック研究室が話題になるけれども、物理ではあり得ないことかなーと。そういえば、小学校で先生が「仲間をいじめる」なんて表現あったけど、あれは人権侵害の不法行為であって、「いじめ」なんていう言葉遣いを許容している、学校の慣習がそもそもおかしいのだ。

10月 5 日、神戸阪急初日、阪急電車のダイヤが乱れる。で、全線復旧した後に起こったのが、すし詰め状態の平行ダイヤ運行。電車が到着するたびに、ドバッと人々が駅に溢れて、ここは首都圏か?というほどの混雑であった。さて、神戸阪急へは足を踏み入れたものの、あまりの人の多さに買い物は諦めて、早々に退避。あれだけ人が入っても、建物の床が抜けることはない、という事実が確認できただけで、良しとしよう。ちなみに普通のマンションでは、ギッシリと人を詰めると床の設計荷重を超えるけれども、安全率を高く取ってあるから、実際に抜けたという話は聞いたことがない。

10月 4 日、低木は根元に本体がある。そこからヒョロリと生えた空中部分は、光合成をする仮の部分。何かあると、呆気なく枯れる。そして、また本体の根元から、ヒョロリと。このタフさが、低木が生き残る戦術なのだろう。草刈り機で刈り払われても、また生えて来る。誠に厄介な植物でもある。低木とは言いづらい、ロリエなども似た様な性質があって、結構大きな樹木になるにも関わらず、枝ぶりを整えて仕立てるのは、結構難しい。アッサリと枝を捨てられるので、思う通りの樹形にはなってくれないのだ。大地に植わってるものは、自然の姿にしかならない、と言うことなのだろう。

10月 3 日、カイガラムシは厄介なものだ。まず、枝に張り付いてしまうもの。擦り落とせば良いと、安易に考えてしまうと取り残してしまう。大抵、作業しづらい、葉と茎の間とか、芽の隣の皮の下など、取り辛い場所に密集している。もっとも、これらは動かないだけマシだ。終生動けるカイガラムシという、更に難儀なヤツがいて、見つけ次第ハタキ落としても、また何処かから同じ場所に取り付いてしまう。新しく増えて、やって来たのかもしれない。以前は、薬剤で何とかしようと考えたこともあったのだけれど、要するに手が回らないほどの株を持っている方が悪いのであって、潔く剪定して、残った枝を丁寧に楊枝やら筆やらで、綺麗にしてあげるのが、結局は駆除の早道だ。

10月 2 日、discussion は良いものだ。今日は、普段は考えない Fermion 系で、電流が流れている状態がどのように microscopic に表現されるかという問題について、しばし議論した。だいたい、量子力学系の時間発展だけで、何か定常状態を表そうというのは、神を恐れない行為なのであって、どこかで散逸というか、熱浴のようなものを導入しなければ、最終的な平均値は出てこない。何が定常かよくわからない途中経過を眺めて、その相関関数のようなものから、長時間の振る舞いを無理やり引っ張り出そうという案もあるけれども、うまく行くかなー、相互作用にもよリケリなのかな。

10月 1 日、仮面ライダーゼロワン、見てハマってしまった。昔の仮面ライダーの動画も転がっているので、見て、これまたハマるのであった。当時は、あんなモン、親が見ても面白くも何ともないのだろうと思っていたけれども、いま見ると、ちゃんと「父親もハマる要素」というのを散りばめているではないか。親がハマらないと、関連グッズも売れないから、マーケティングとしては当たり前のことか。ついでに、キカイダー 01 なのである。キカイダーというの名前が、まさに「機械学習だー」になってて、寒いダジャレで白けるのが、仮面ライダーゼロワンのオチと重なって、一人ハマりっぱなしなのであった。

9 月30日、おお、学生がたくさん歩いている、というのが今朝の驚き。新学期が始まったのだから、当たり前か。特に、最初の週は受講登録するかどうかの見定めに、普段よりたくさんの学生さんがやって来る ... ような気がする ... ので、急激な変化に目を奪われるのだろう。来週くらいから、秋風も本格的に冷たくなって来て、人数も落ち着くのだろうか?毎朝、学生さん達の早歩き登山に並んで上がって行くのは、なかなか大変だなーというのが、今日の感想。体力をつけておかないと。さて、書き物を見直してみると、前提の説明がスッポリと抜け落ちていて、書き直し。よくあることだ。

9 月29日、そごうの営業も大詰め。あそこは、阪神三宮ビルで、阪神と阪急が同じ持ち株会社の下に入った今となっては、阪急百貨店の看板を掲げるのは自然なことだし、有難いものだと思う。向かった先は、四国物産展。今年もあれやこれやと、定番の食べ物がたくさん並んで盛況。普段であれば、火曜日まで催しが続く所、今回は日曜日でおしまい。翌日がデパートの店じまいだから、仕方ないか。阪急百貨店になった後も、四国物産展は続くのだろうか?というのが、田舎育ちの私の一番の関心事。生の手打ちうどんを仕入れるのは難しくて ... いやいや、近所のうどん屋でも売ってくれるのであった、讃岐うどんは全国区になったからなー。

9 月28日、今日はどんな魚が並んでいるだろうか?と、見に行くと、目が合ったのはホウボウ。これ、愛嬌のある魚なのである。前から見ると、人間のように見える。買おうか?と思って値札を見てやめた。魚は、博打のようなもので、たくさん採れたらタダみたいな値段になるし、数が出ないと高価なものとなる。保存方法が確立していないのだから仕方ないか。というわけで、今日は魚の購入は見送り。午後に顔を出したのが間違いだったとも言える。魚屋へは朝に行かないと、なかなか良い品かつ安いものには出会えない。魚の目利きだったら、レンタル魚を買って来る人、にでもなれるのだろうか?私には、そんな凄い知識はない。

9 月27日、キノコの季節だ。で、ふと思い出したのがキノコルゲ。数々のヘンテコな怪人?が出て来る、バロームワンという特撮物に登場する、キノコの形をした怪人?だ。胞子を出して、人々を全てキノコ人?に変えてしまうという、恐ろしい ... 恐ろしいんだろうか ... ヤツである。が、怖い風情ではなくて、どことなく可愛げがある。今の時代に登場したら、きっと愛される着ぐるみキャラクターになるだろう。キノコなどの菌類は、ずーっと植物に分類されていて、教科書レベルで菌類(金界)になったのは、今世紀に入る頃からだろうか。どちらかというと、植物よりも動物寄りの生き物らしい。さあ、キノコルゲ探しの週末だ!

9 月26日、道を歩くと強い香り、キンモクセイだ。と、毎年のように書き連ねて何年になるのだろうか。大阪大学の掲示板の周囲に植えてあったキンモクセイは、今もそのままなのだろうか?など、様々な記憶が香りとともに蘇って来る。キンモクセイの香りだけを蒸留しようとしても、うまく行かない。油性の溶媒に溶かし込むと、しばらくの間は安定した香りが続く。香水に使うエッセンスとなると、山ほど花を集めて来て、あれこれと作業して、そこからホンの少しだけ採れるらしい。そのように手間暇かけて香りを集めるのは、需要あってのことだから、化粧品とは恐ろしいものだと思うような、思わないような。

9 月25日、蒲鉾は高価な食品なのである。すり身の輸入価格が、1 kg で 400 円ほど。米の倍、小麦の数倍以上なのである。それを調味して蒸して製品とするわけで、真面目に(?)作ると結構な値段になる。すり身だけで作った蒲鉾は、とても硬いので現代の食卓には似合わないかもしれない。小麦やデンプンや空気、つまり泡などの混ぜ物をすると、柔らかく、ダシを吸いやすくなる。おでんの具には、炭水化物が混ざっている方が向いているかもしれない。魚屋へ行くと、魚のアラをとても安い値段で並べていて、そこから身を取ると結構な量のすり身が取れる。塩を加えて練ると、あら不思議、弾力が出て、蒲鉾らしくなる。蒸してもいいけれども、鍋やスープの具にするのが簡単でいい。そして、ふと気がつくと時間を失っているのである。

9 月24日、大学で何やら撮影中。なんでも、ミスターコンテストのための撮影なのだそうな。なるほど、カッコいい男の子たちが揃っているはずだ。カッコいいと言っても、背が高いとか、ガッチリしているというのではなくて、何となく楽しませてくれそうだなーという、雰囲気が大切なようだ。SNS 映えが重要なのかもしれない。今日は曇り、ソフトな光の下での撮影となる。陰影がなくて、肌色を均一に撮りやすいかもしれない。ミスターコンテスト、と聞くと何となく納得してしまうのだけれども、どういう活動をして、最終的にどんな方向へ抜けることを目指すのか、気になる所だ。検索してみようかな。

9 月23日、レフリー制度で妙だなーと思うことが1つあって、とても良いクォリティーの論文に接して、感じたそのままに「早速掲載するように」と、短くコメントすると、その後全く音沙汰ないことが、よくあるのだ。真面目に読んでないと思われているのか、信頼できないコメントを返したとされるのか、よくわからない所がある。ケチを付けて論文のクォリティーを上げるという考え方が Editorial Office にあるのかもしれない。が、良い論文にケチをつけると、良いところを削って、ケチに答える言い訳ばかり増え、誰の為にもならないのだ。そういう経緯で、雪だるまになってしまった論文を、後で見つけると悲しい思いをする。そういえば、プレプリントサーバーに載せておしまい、という人も増えて来たなー。

9 月22日、ニンジンの赤い色、カロチン、綴り字は Carotene でカロテンと読むことを知ってびっくり。今世紀に入る頃に、カタカナ表記が変わったのだそうな。食品の表示もカロテンだ。さて、この物質はポリエンと呼ばれる、π電子がズラーっと直線的に並んだ物質の仲間だ。で、このポリエンの分子軌道計算をしている人が居ないか、探してみると、意外に近くに居てびっくりした。DMRG Carotene で検索すると、ヒットしたのはアメリカの某氏のグループ。そうか、彼等は、この物質についてのデータが手元にあるわけだ。ボリエンはよく、1 次元の「箱入り電子」のモデルとして説明されるのだけれども、果たして、本当にそうなっているのだろうか?bond length alternation というキーワードも拾えた。

9 月21日、「引下げ導線」という言葉を初めて知った。よく、高い木造の建築物などに、避雷針から建物の外側を伝って、地面へと至る導線が取り付けられている。あれを、引き下げ導線と呼ぶのだそうな。落雷時に、電流をなるべく安全な形で流すことが、導線設置の目的だそうな。どんな導線を使うのか、どれくらいの間隔で設置するのか、どこからどこまで安全と考えられるのか?など、割と細かく法律などで規定されている。まあ、それを守っておけば、仮に落雷による問題が起きたとしても、建物の管理者としては「過失がなかった」という事になるのだろう。最終的に電流を逃す接地は、意外と抵抗の値が小さい。これも興味深いポイントであった。引き下げ導線を探すという趣味ができてしまったぞ?!

9 月20日、健康診断が終わったら酒池肉林、と、言いたいのは山々なのだけれども、まずは様々な文章書きが待ち受けているのである、酒を飲んで気楽になっている訳には行かない。ストイックに ... と作業を詰め込んでみると、途端にエネルギー切れしてしまった。スタミナというものは、毎日のように鍛錬することによって「のみ」身につくものであって、英気を養うというのは無意味だということを悟った。というわけで、ともかく文章を意のままに書いておいて、整合は後で取るという基本方針に徹して、書き進めるのであった。毎度のことなのだけれども、文章書きは書き始めたら、その作業を終えない限り、トンネルは抜けられないのだ。そして、喉元過ぎれば、また文章書きに手を染めて ...

9 月19日、朝に健康診断。一年に一回、法律に基づいて行われる。教員は、医療従事者と同じように、健康診断が法令で義務付けられているのである。ついでに「必要がある時は臨時に診断を行う」とも書いてある。健康診断を受けない状態で、結核に感染して、周囲へと広めてしまうとアウトなのである。というわけで、朝飯を抜き、水だけ飲んで、海辺の我が家を出る。電車に乗っていても、何だか力が出ないのである。待ち受けるは、阪急六甲で降車してから後の登山。健康増進、法学部前まで登ってから、健康診断へ。実は、こういう運動をすると血圧が上がるので、血圧検査の際にしばらく静かにしておく必要がある。ストイックに健康診断が終わったら、さあ、担々麺だ!

9 月18日、物理屋にとって、化学の知識は高校で習ったところ辺りまでのものだ。熱力学や統計力学や量子力学や物性物理学を習うから、後付けで多少は深いところまで理解が進むけれども、単純な化学反応ひとつをとっても、それがどのように段階を経て進んで行くのか、また、どのような道筋で合成が進んで行くのかなどは、全く勘が働かない。これらは、統計力学・量子力学の森みたいに見えて、分け入って調べようという気が起きないのかもしれない。物理にも似たような所はあって、地面の上を歩く時の土の中の力学を考えるとか、森を吹き抜ける風とか、考えたくもないような複雑な現象ばかりが世の中に満ちていて、美しい数理の抽出を、密かに待っているかのようである。やっぱり科学は上澄みをすくうのが美味しいのかな。

9 月17日、横磁場イジング模型のエンタングルメントというと、普通にブッタ切って実空間で考えることに慣れてしまっている。だが待てよ、あれには解析解があって、対角化された Fermi 基底で考えると、エンタングルメントもヘッタクレもないのだ。これが Fermion の意地汚い所で、幾らでも抜け穴のように「この角度から眺めなさい」と人々を誘導するのである。これ、一般論はどうなっているのだろうか?と考え始めると、なかなか奥が深いような気がするのである。普通に分子軌道を CI で計算して、出て来た波動関数について「そもそも、計算に使った基底が良い物理的な切り口ですか?」と、問われたら何か即答できるだろうか?

9 月16日、スネ肉と、煮込み用のバラ肉を買って来る。下茹ですると、とても食べられそうにないようなガチガチの状態となる。これを鍋に入れて、じっくりと煮込んで行く。すると、硬かったスジが段々と膨れて、ようやく食べ物らしくなって来る。煮ること3時間ほど、どうやら仕上がったようなので火から下ろして、冷蔵庫へ。冷え固まったら、適当な大きさに切って、次の調理に備えることにしよう。そのまま食べても美味しいはずだ。カレーにしてもいいかも。薄く切って、サラダのようにして食べようかなー。ステーキ肉の 1/3 から 1/4 の価格で買える肉は重宝する。節約するなら鶏肉がいいのだけれども、そればかりでは飽きてしまう。

9 月15日、誤解を避ける日本語の言い回し、という点を追求し過ぎると、筆の滑りが悪くなる。色々と原因があるのだけれども、英語表現から仕入れたものを日本語に落とす時に、厄介な事が起きやすい。まず、冠詞の区別。ある、とか、1つの、とか、一般になど、あまりクドクドと入れると文章がおかしくなる。修飾がどこまでかかるのか?というのも難しい所で、何気なく書いた文章が全く別の意味で読めることに気づいて、慌てて順番を変えるなど、なかなか気が休まらない。制限用法か、非制限用法か?という区別も、日本語文法には馴染まないしなー。科学的日本語作文は、なるほど、それだけで本になるわけだ。

9 月14日、サイエンスの世界に身を置いて、何が一番大切か?というと、やっぱり独自の着眼点だろうと思う。難しいだけ(?)という問題は結構色々とあって、大抵は誰かが大昔に目をつけて切り開いた分野のもので、美味しくて基本的な部分は既に掘り尽くされ、隅を埋めて行くような地道な問題ばかりが残っている。もちろん、そういう個々の問題に取り組む内に、スキルを上げたり、意外な発見に遭遇したりもするので、一概に取り組まない方が良いとは言えない。でも、誰も取り組む気さえ起きなかったという大問題は幾らでもあるわけで、そういう着眼点を磨く ... というか興味を持てる自由な心を残しておくことが、とても重要だと思う。音楽もそうなんだろうなー、個性的な曲は、一度聞いたら耳について離れないもんなー。

9 月13日、タマゴは、ものすごく水っぽい食材だ。ゆで卵にすると、固まるので何となく量を感じるのだけれども、煮卵でも作ろうか?と思って調味料を加えて火にかけると、浸透圧の差により中から幾らでも水が出て来て、なかなか煮汁が減らない。結果として、煮上がった頃の卵は少し小さくなって、弾力のある食べ物に変化している。ふと思うのが、卵焼きも、煮たら縮むのだろうか?ということ。あれは、調理中にかなり水が蒸発する調理方法だから、逆に水気を吸い込んでしまうかもしれない。 ... と、色々と調理中に考えていて、やっぱり、オムレツくらいが、一番手間のかからない卵の食べ方だなーと、再認識した。今日は 13 日の金曜日か。

9 月12日、電車が速く走る時、運転席前面の窓に叩きつける雨粒は、粒ではなくて霧のように窓に到達する。空気中を「お餅型」で落下して来た雨粒が、電車前面を「分ける風」に突然遭遇して、砕けてしまうのだ。もしスローモーションで撮ると、加速する状況が観察できるはずだ。新幹線の窓につく雨粒もまた、同じ理由で雨粒にならない。この、砕ける現象、どんな過程なのかを研究してみるというのも、良さそうだと思った。何かの役に立つかもしれない。などと、ぼーっと考えていて、あれこれ空想を巡らせる間に、リング型の渦で蚊を撃ち落とすなんて発想に行き当たる。ああ、今日も無駄に?過ごしてしまった。

9 月11日、一日中雷が鳴り響き、何とも落ち着かない状況であった。雷が落ちるかもしれない状態で、高木や電柱の横を通るのはリスクを増す行為だし、そこから離れて平らな場所にポツンと立つこともまた、落雷を呼び寄せる原因となる。そんな、だだっ広い場所は学校に多い。運動場だとか、何気ない芝生の広場だとか、実験のための農場だとか。というわけで、歩いたのはシールドが確認できるような、建物の中、電車の中、ビルの谷間。流石に、あれだけ電流を流し易いビルの地面部分まで、雷が到達することは稀なことだろう。こういう高いビルの屋上にテラスがあったり、ビアガーデンが設置されていたりする。法律で決まっているのだろうか、必ずメタルワイヤーで囲ってある。晴天でも、雷が落ちることはあるので、あまり近寄らないようにしている。

9 月10日、りんごが戻って来た。先週までは、冷蔵庫で貯蔵されたリンゴか、青リンゴか、輸入物しかなかった棚に、ようやく今年のリンゴが並び始めた。というわけで、食卓に並べるフルーツも、段々とナシからリンゴへ。ここで気付いたのが、皮むきの感覚の退化。毎日のようにリンゴを手にしていると、包丁の感覚が段々と出来上がって行くのだけれども、夏の間にすっかり忘れてしまっていたようだ。というわけで、左手のホールド、右手の刃の構え、左右両方の手の間で押す力加減など、またまた確認。スキーシーズンの始めにボーゲンから入るような感覚だろうか。物理も、もう一度、勉強し直そうか。

9 月 9 日、新しく仕入れた MacBook Pro, パワーはあるのだけれども、熱くなり易いのである。バックアップが始まると、熱くて手のひらを落としておけないので、必然的に手を浮かした「正しいタイピング」での作業となる。誠に有り難い事である。こうして、手を浮かせてホームポジションをキープすると、文書入力もスムーズに行って、良い事づくめなのだけれども、ついつい猫背の怠け姿勢が出てしまう日々であった。昔はキーボードが硬くて、その反発を利用して肩に負担が及ばないようにできたなーと、懐古。その頃のキーボードが目の前に出て来たら、たぶん、一文字も打てない事だろう。

9 月 8 日、三宮センター街でオープンカーが展示されていた。運転席はどんな感じ?と、覗き込んで退散。ペーパードライバーの私、昔の自動車しか知らないので、ボタンだらけの今の自動車は運転できない、いや、どんな自動車であれ運転は無理だろう。ついでに、オートマチックのシフトレバーの使い方も知らない。もし自動車に乗る必要ができたら、また教習所通いしなければならない。今浦島の状態と言えば、iPad の使い方もあまり詳しくないのである。移動先で、メールを見たり、ブラウザーで論文を読んだり、そんな所。あまり有機的に使えていない。iPad OS になったら、少しは MacOS との融合も高まるのだろうか?

9 月 7 日、カナダ産の松茸が並んでいる。割れた傘など、クズの部分が安く出ていたので、拾って来る。何にしたものか?と思案して、松茸入りの甘いクズ餡を作って、豆腐にかけて賞味する。確かに松茸だ、と、ひとまず満足して、松茸って、これくらいの食材だったっけ?と、何となくイメージ先行で期待し過ぎていた気がする。和食などで、ほんの少しだけ出てくる松茸の使い方が、期待を期待のままで保ってくれる良い方法なのだろうか?と思った。同じことは教育にも言えるかもしれない。ちょっとずつ、がミソ。大量の宿題など出してはならない。物理学の松茸は、一般相対性理論だろうか、それとも量子力学だろうか。

9 月 6 日、国の施策というと、いつも茫漠としていて何が何だかよくわからないのだけれども、よくよく考えれば施策を立案する方にとっても、結果が見えないものだと思う。予算の一番上で、どの分野にどれだけ何を配分するか?という判断を迫られたら、それこそガンダムのレバーそのものである。数人で、エイヤッと判断するしかない。それを支える資料やデータがあるはずだ、と、気休めのようものがあるにしても。結果として上手く行けば名君、失敗すれば失脚、これの繰り返し。まだまだ 1000 年はかかるのだろうというのが「理想の行政」への道筋。教育というものも、今の形で始まってから 200 年も経ってないしなー。

9 月 5 日、Tensor Product State, 略して TPS を、これまでティーピーエスと読んで来た。が、これはちょっと長ったらしいので、TePS (テップス) と読むことを思いついた。こう読むと、Projected Entangled Pair State (PEPS, ペップス) とよく似た発音になる。Japanese Physical Society (JPS) も、ジェーピーエスじゃなくて、JaPS (ジャップス) と読むのがいいんじゃないかと、そんな気がし始めた。どうせ、物理屋なんて「センセーは」と蔑称で呼ばれるような職業だから、国際的にもジャップスでいいじゃないか?というわけ。みんなでいい仕事したら、蔑称もそのうち敬称と転じるかもよ?

9 月 4 日、有限多体系で、ボゴリューボフ変換を経た基底で現象を眺めると、良い記述が得られるということがある。有限系で、そんな対称性の破れがあるのか?と思われるかもしれないけれども、対称性が破れている必要はないのだと思う。単に、そのような基底でエンタングルメントを勘定したら、他の基底よりも小さなエンタングルメントしか無いということなのだと邪推している。物理は直積を好む学問で、平均場近似というのは直積そのもので物理系を眺めることに相当している。その桃源郷を離れるとすれば、次に盾となってくれるものは、最小エンタングルメントという概念であろう。

9 月 3 日、創世記を開いて、そういえばリベカという美しい女性の記述があったと思い出して全文検索。そこで、あれれ?と思ったのが、いつの間にか埋葬されていること。創世記の中で女性としては非常に克明な描写があるにも関わらず、いつ亡くなったのかわからないのだ。創世記にはありがちな事なのかもしれない。アブラハムも、長い祝福の詩を残す事もなく、あっさりと亡くなっている。もっとも、後から何度も思い出したように、あちこちで記述されているから、いつまでも言葉が生きているという事なのかもしれない。なお、リベカがどれくらい美しいか?という記述、現代の我々が受ける印象は訳によってマチマチである。文語訳がなかなか良いと思う。原典で読んだとしても、古文なのだろうという雰囲気があって。

9 月 2 日、1980-90年代、SFマンガの一角を占めるのが「コンピューターに支配された世界」であった。メインフレームの親玉みたいな、デッカいコンピューターが、犯罪者、反社会勢力、異端の者などを徹底的に取り締まって、結果として、これに対抗する自由連合みたいな物が出来上がるという構図、あるいは人類がこれに対抗する進化を始めるというのもあったか。そういう形ではないけれども、どうやら、どこを出歩いても、直ちに個人認証されてしまう時代が「来てしまった」ようだ。この流れは、もう止めようがないだろう。そのうち「生涯売買記録」とか「移動記録」なんか残る時代になるんだろうか、その時代の夜の街って、どう楽しむことになるのだろうか?

9 月 1 日、鶴甲キャンパスから農学部への最短通路は?うーん、微妙な所だ。地図の上でわかり易いのは、36 系統のバス通りまで出て、本部か文理農学部前あたりで南に折れる道。でも、最初に登りがあって、一番高い場所を通ることになる。工学部側からセブンイレブン前を通って、100年記念館から農学部へというのが、フラットなんだけれども大回りになってしまう。うりぼうロードを抜けて、本部の裏道を通り抜けるのが、たぶん一番短い。最短コース?にありがちな、トラップだらけの道なのだけれども。で、その、けもの道を走って農学部に到着。さあて、ゆっくりコーヒーでも飲もうかな。

7 月と 8 月の1行日記