← 9 月と10月の1行日記  

8 月31日、今日は生命化学の研究会、異分野との交流は面白いものだ。そして、意外なお話を聴くことができた。一丸先生の、電子ガスの話だ。もちろん、これは量子化学計算などを行う人々にとって、必ず接する話題だし、計算に必要な基礎パラメターとして常々頭に入れておく必要がある事なのだけれども、それを使うという話ではなくて、一様なプラズマの扱いそのものの話を、ズバリ聴くことになるとは予想だにしていなかったので、驚いた次第だ。私は、この辺りの話を、初任地の東北大学で、何度も耳にしたので、懐かしくもあった。電子ガスの理解というものは、10 年単位くらいで、少しずつ進んでいるものだと実感した。

8 月30日、カボチャの切り方。丸いカボチャを「買って来てしまった」のである。外側は硬いので、いきなりスパッと切ろうとしても、うまく行かない。業務としてかぼちゃを毎日のように、スーパーマーケットでカットしている人々は、どうやって切っているのかなーと首を傾げつつ、普段の切り方に。まず、ヘタの部分に少しずつナイフを入れて、ヘタを取る。そうすると、柔らかい部分が少しだけ露出するので、そこから薄い包丁を入れて、半分だけ切れ目を入れる。反対側にも同じように切れ目を「途中まで」入れたら、カパッと手で割れる。必ず、柔らかい方から包丁を入れることが大切で、硬い方から切ろうとするとコントロールを失う。刃先をまな板につけて、テコの原理で切ってもいいのだけれども、それをやると刃の研ぎ直しとなるので、その手はあまり使わない。

8 月29日、移動中に突然の降雨、その時あなたは ... 走りました走りました、途中から諦めの境地に似た水浴びを楽しみながら。実際、夏服は仮に濡れてしまっても、乾くのも速い。ベトナムでスコールに出会った、そんな感じだと思えばリゾート感覚である。で、走って目的地まで辿りついた途端に、パタッと降り止んでしまった。まあ、いいんじゃないでしょうか、そういうパターンもアリで。大切なことは、その時その時の判断について、後からどうこう考えないこと。で、今は、天然水が乾く時の気化熱を利用して涼み中。水素結合って、けっこうエネルギーを食ってるんだなーと実感する。

8 月28日、水素と酸素が燃焼して、水ができる。とても簡単な化学反応だ、というのが化学を真面目に勉強したことのない私の感覚。じゃあシュレディンガー方程式を解いてみなさい、と言われても、無理としか答えようがない。仮に散乱問題だと単純化したとしても、あらゆる初期状態、中間状態、終状態があり、手に負えない。けっこう密度の高い状況での燃焼となると、もう混沌としか言いようがない。この辺りに、うまい探索の道筋をつけるのが、化学という学問なのだということを、ごく最近になって、その一端をチラリと見て、恐れをなして退散。こういう難儀な化学反応の更に向こう側に生物学という学問がある。物理は安住の地なのだろうか、それとも隣の畑は青いのだろうか?

8 月27日、水田に囲まれているのは稲作が伝わって以来の、日本の(そして東南アジアの)原風景で、素晴らしい光景だと言える。冬になったら、空き地ができて、走り回れるのも楽しい所だ。ただ、現在の稲作では今頃の時期に、農薬を散布する。それが食の安全とか何とかという話ではなくて、散布する時に、よく作業している人がブッ倒れないものだと思うほど、辺りに農薬の匂いが充満する。これが、風向きによっては住宅の方へと流れて来るわけで、そうなったら窓やら何やら全て閉じて、ジッと通り過ぎるのを待つしかない。まともに吸い込むと、しばらくの間は呼吸に違和感がある、そんな事もあったなーと、昔のことを思い出す。

8 月26日、魚は値段が読めない食材だ。多く採れるものは値がつかない状態にもなるし、小さな魚もまた値段の内に入らない。美味しい魚の頭とか中骨とか、カマとかハラスとか、美味しい部分でも刺身やムニエルにならないような部分は、本当にオマケのような値段での売買となる。小魚もアラも、とても味わい深いものがあって、本当は大きな切り身よりも価値が高いのではないか?とさえ思う。食べるのが面倒という、この面倒臭さが値段として現れるのであるから、現代は忙しい時代なのだなと、思う。で、アラの定番の料理はアラ炊きか、大根煮か、味噌汁か。圧力釜があれば全部食べられるという話もあるけれども、何か過剰摂取しそうな気がするので、食べられるところだけ、つまむことにしている。

8 月25日、日曜日の大学にやって来ると、あら日曜日ではないかのような雰囲気。どこかで入試が行われているのだろうか、それとも諸行事の準備か。今日は、山から冷たい空気が吹き降りて来て、日陰に入ると涼しい。... 涼しいと言えるのは山の中の大学だからかもしれない、海辺の我が家の辺りはどうなんだろうか。昨日今日と、ローカルなお祭りや、地蔵盆が行われる場所も多そうで、通勤の途中には浴衣姿もチラホラと見えた。いよいよ最後の週末という雰囲気たっぷりの、遊び気が流れる中、さあ頑張るぞ、今日も執筆、明日も執筆、いや、明日はセミナーに顔を出すんだった、夏休み期間ならではの諸行事はまだまだ続く。

8 月24日、ピクルスを作る、というと、真面目にタップリと酢を用意しておかなければならないような気がするのだけれども、酢酸はとても「飛びやすい」分子なのであった、容器の底に少量の合わせ酢を作っておいて、茹で野菜を温かい内に入れて、容器を密封すると、酢が回って上の方までちゃんと酸っぱくなる。但し、甘みや塩分は飛ばないので、一度か二度は軽くかき混ぜるか、容器を振って酢を回さなければならない。この方法だと、酢を薄める必要がないので、少量の酢で作れるし、野菜に吸われずに残った酢はそのままドレッシングとなる。野菜にあまり隙間ができないよう、予め切っておくことが重要。茹でる前に手間をかけると、後が楽だ。

8 月23日、物理学はシンプルな学問だ。と、大学の学部くらいまでは教えられる。確かに、考え方としては、保存則とか対称性とか、場の考え方などしか使わない。では現象が全てシンプルか?というとさにあらず。素粒子が1つだけ、空間にポツンとあるだけ ... という事はなくて、様々な場と相互作用してしまう、多体問題であるなどという事情は、大学院でソレに接するまで隠されているかのようだ。もちろん、先々の知識をドンドン吸い込む「自習派」の学生さん達は、既に学部の内に色々と仕入れてこの辺りに気づいている。その上で、物理の各分野のどこを専門として研究を進めて行くかを決定する。私はどういうわけか、統計物理学へと吸い込まれてしまった。面白い分野なんだけど。

8 月22日、何気なくハワイの歴史を眺めていて、ポリネシア人があんな遠い場所まで船を出して移り住んで行ったという、いまの感覚で考えると、とても信じられないような記述に接する。また、キャプテンクックが訪れて、西欧にその存在が知られてから先の歴史もまた、とても興味深い、武力で何かが変わったというよりも、経済の問題で、いつの間にか独立が失われて行く過程が、まざまざと示されているのである。多数の日本人がハワイに渡って、労働者として働いた歴史、そして太平洋戦争へと。しばらく、環太平洋の歴史の勉強にハマりそうだ。ハマっているような状況ではないのだけれども。

8 月21日、ミラーレスの出始めのカメラは、なかなか面白いのである。iso 感度があまり高くできない上に、iso 感度を上げると、どんどんノイズっぽい画像になる。raw 画像を見ると、実は派手に荒れていることがよくわかる。あまり綺麗に出るノイズではないのだけれども、後で画像処理して入れるノイズとは異なるテイストになるので、ノイズっぽく撮りたい時には、お古の出番となる。さてこのノイズ、出どころはどこなのだろうか?イメージセンサーの熱雑音なのか、その後の読み出しや増幅でノイズを食らうのか、デジタルに変換する時か。本質的に photon の数で決まるノイズの領域には達していないはずだ。

8 月20日、夏ひと休み、ジェット気流が戻って来た。というわけで、天気は朝から雨模様、曇ったり、降ったり。空中湿度が高いのが良い。梅雨頃であれば、この気温と湿度は蒸し暑く感じたものだけれども、盛夏を過ぎてしまうと、かえって涼しく優しい空気に感じられる。日傘が不要になるのも良い。雨傘を持ち歩くのは、少し重たいけれども。さて今日から「入試ウィーク」に突入。あ、ウィークならば日曜日から突入しているのか。昨日は一応、休暇日だったので、今朝になるまで、そんな気構えにならなかったのだ。さあ仕事、執筆の仕事もガンガンと、進めなければならない。

8 月19日、雨が降る降る、と、期待してレーダーを眺めるも、神戸にやって来る前に、消えてしまう。海辺の我が家は、今日も潮風を受けて、何だか塩っぽいまま、カラカラなのである。待っていても仕方がないので、電車に乗って、阪急六甲で降りてトボトボと登校する。いや、通勤する。登校でも通勤でも、どっちでもエエやないか、というのが大学に勤める感覚。今でも毎日が勉強であることには違いがない。研究者の毎日は、特に理論系だと、勉強している時間の方が研究の時間よりも長いのである。と、いうことにしておこう。お盆明けだと、なかなか、エンジンがかからなくて、ぶらぶらしている時間も長いかもしれない。夕刻になって、ようやく雨が降り出した。よしよし。

8 月18日、いみじくも、という類の文章に行き当たると、これなんじゃい?と思う。一応、ビジネス用語とされているらしいけれども、脈々と受け継がれて来た日本語としての用法というよりも、一度滅んでしまった「いみじ」の使い方の一端だけが、古典文学の教育のカケラとして現代日本語に紛れ込んでしまった、というのが真相である気がする。知らんけど。似たような古典の用法として、演説での漢文口調がある。昔の国会答弁などで、よく使われていた。今の党首討論などでは、もう絶滅しかかっている。漢文は、昔の共通の文語として、そのまま読めというのが、たぶん一番負担の少ない受け入れ方で、外国語教育が浸透した現代では、あまり省みられなくなったのだろう。それで良いと思う。

8 月17日、カードの暗証番号を入力してください。これが落とし穴。キャッシュカードと、クレジットカードを一枚に合わせている時、どちらの番号なのかを確認せずに入力してしまうと、エラーとなってしまう。もちろん、クレジットで買い物をする時には、小さな端末でクレジットの暗証番号を入力するし、ATM ではキャッシュカードの暗証番号を入力する。端末の「見かけ」ごとに、入力する暗証番号が「自動的に」記憶の中から出てくるわけだ。うっかり間違ってしまうのが、銀行口座確認のために、カードを使って、暗証番号を入力する場合。クレジットカードの番号を入力して、エラーになってしまった。幸い、途中で違いに気づいて、3度目のトライで成功。もう一回間違えたら、口座凍結という瀬戸際であった。

8 月16日、台風が過ぎ去って、木々に緑が戻って来た。これまではカラカラの天気が続いていたので、草木が葉枯れしてしまって、砂漠っぽい雰囲気が漂っていたのだけれども、今日は見事に復活。倒れていた草が起き上がると、あんなにボリュームが増えるのだ、という驚き。山の色も違う。単に、雨でホコリが流れ落ちただけかもしれない。ともかくも、これだけの水量が天から降って来るのは久々のことで、一週間分くらいにはなった。8月も後半に入ると、夕立も増えて来るから、これから先、カラカラになってしまうことは、もうないだろう ... と思いたい。朝はひんやりしていたけれど、昼になったら、普段通りの夏。

8 月15日、台風が来た来た、と、構えていたら、太陽が見え隠れするし、風も穏やか。レーダーを見ると、神戸あたりまで、でっかい目の中のような雰囲気で、あまり風速が速くないのであった。これで新幹線やら JR 在来線を止めたのか?と、拍子抜けするような雰囲気。でも、三宮の店は数多く閉まっているし、スーパーも商売する気がないかのように、早々と半額シール。いや、仕入れが少ないし、お客さんも居ない。同窓会の待ち合わせという、いつもながらのお盆の光景もあまり見えない、寂しい夕暮れ ... 夕暮れの頃から雨足が強まって風も出て来た。台風の目を出たら強風が待ち受けていた、そんな1日であった。

8 月14日、海辺の我が家を出て、電車に乗って、トコトコと、海を渡る。盆踊りの街に到着するはずだったのだけれども、台風の接近による風で、盆踊りは中止。風速が 10 m にもなると、テントが飛んだり、臨時に設置する街路の照明などが倒れる危険があるのだそうな。昼頃はまだ穏やかな天気だったけれども、確かに夕方になると、風が強まって来た。というわけで、お祭りの楽しみは来年に持ち越し。あの大量のうちわは、どうするんだろうか?と、気になることしばし。来年に使えるモンじゃないし。やっぱり、廃棄なんだろうな。いつかは朽ちるものだから、それが少し早かっただけと思うことにする。

8 月13日、お盆休みに入る。しかしプレプリントサーバーは毎日のように更新が続く。そして、皆さん、ドコドコと論文を投稿する。あちこちで国際会議などが開かれていて、発表と同時に arXiv に上げたりするのか、それとも夏にこそ研究の仕上げと、この期間に詰め込んで来るのか、ともかく減る気配がない。クリスマス休暇が閑散としているのに比べると、夏はみんな働いているのだと実感する。そういえば、arXiv を眺めていて日本人を見かけることが、相対的に少なくなった気がする。むかし、投稿量が少なかった頃には、割合の話だけれども、日本の方の名前が目立ったものだ。

8 月12日、情報は、まだ空気とはなっていない。駅や空港に人々が集まると、たちどころに wifi はその能力を失う。まだまだ電波の使い方、特に指向性についての基本的な技術と、インフラの整備が追いついていないのだ。もう少し付け加えると、そのような方向へと進化して行く経済的な必然性と投資のバランスが、あまり取れていないのだろう。やがては、この wifi たる情報ハイウェーが、高速道路やら都市計画と同じように、どんどん税金を吸い込んで行く存在になるのであろうか?人々が集まる場所に行くからネットが落ちるのだ、というばかりではなく、人々がネットに取り付くから SNS が落ちるのだ、という現象も。まだまだ原始時代である。

8 月11日、食わず嫌いというものがあって、今までカメラのフルマニュアルというものを避けて通っていた。セミオートにしておかないと、調整が間に合わない場面というのは実際に多いし、セミオートでも露出の調整はできる。でも、暗い場所では、露出不足を覚悟して速いシャッターを切って、raw 画像でしまい込むしかない。覚悟を決めて練習してみたら、あら面白い、今まで諦めていた場面で色々な撮影ができる。露出計があるので、そんなに難しくもない。(大昔に露出計がない頃、どうやっていたのだろうか?)逆に、Ai モードなども避けて通って来たのだけれども、こだわりを捨てて、カメラが持っている機能は、使ってみることにしよう。

8 月10日、久々に鉄板の登場となった。どうして鉄板なのか?というと、まずスーパーで半額のメンチカツ(生)に遭遇したのが始まり。数枚あったので全部購入。さて、パン粉は付いているものの、煮物にもできるかと思っていたら、揚げ物のリクエストとなる。揚げ物用の油は買ってないので、さてどうしたものかと思案。これだけの枚数を一気に焼くフライパンは持っていない。というわけで、鉄板の登場。5 mm の厚さの鉄板は、なかなか重いのだけれども、一度温まると、少し弱い中火くらいで十分に隅々まで調理に使える。メンチカツを鉄板焼きの要領で、表、裏、最後は切り分けて断面を焼いて、出来上がり。半額のものが、これだけ美味しく調理できるのだから鉄板の威力はすごいものだ。

8 月 9 日、オープンキャンパスの日、高校生がたくさん、理学部を訪れている。今日は綺麗に晴れましたねー、ついでに昨日よりも暑い。昼過ぎに風がパタリと止み、急に気温が上がって来た。あちこちに入道雲が見える。そのうち、夕立ちになるのかもしれない ... いや、レーダーはそんな淡い希望が、現実のものではないことを示している。今日も暑い1日となるのだ。ただ、湿度が低くて、影に入るとホッとする程度の暑さだ。毎日暑いから、もう慣れてしまったのかもしれない。この炎天下で、お客さんの呼び込みを行なっている生協の皆様、すごい体力の持ち主なのだと、改めて感心した。

8 月 8 日、夏は、筋雲が出たり出なかったり。上空に、決まった方向の偏西風が流れない季節なので、毎日のように風向が変わるのだ。また、筋雲の動きが、とても遅い。筋雲の方向を見てから、全球の大気シミュレーションを見に行く。だいたい、合っていることが多い。もちろん、シミュレーションはシミュレーションなので、細かな差異はあっても仕方がない。ウィンドプロファイラーとは、バッチリ合っている。これは観測事実なので、当たり前。よく晴れた日には、ウィンドプロファイラーが働かないこともある。晴れた日には可視光で風速を測定するのが良いんじゃないかなーと、そんな事を考えつつ今日も登山。

8 月 7 日、山の麓の道は実に面白いものだ。本能的に、高い場所に登ってみたいという願望を叶えてくれるのは登山に通じるのだけれども、そこに人々の生活の香りがある点が興味を引くのである。そして、行き止まりになっているのか、ループして戻って来るのか、それとも全然違う場所へと抜けて行くのか、皆目見当がつかないという、行き当たりばったりなシチュエーションが研究に似ている。進んで行った最後が、私有地かどうかわからなくなると、それ以上は進めない。そもそも、そんな場所を赤い人間が歩いて行く事が、昨今では不審者の侵入なのである。無理はせずに、適当な場所で折り返して、里に戻って来る。続きは航空写真で確かめよう。

8 月 6 日、常磐線に乗って、上野に向かうと、あら列車が東海道線へと入って行く。常磐線の記憶は、平成の最初に何度か利用したキリのことなので、そんな路線があるとは全く知らなかった。そういう事を言うと、つくばエクスプレスを始めとして、他にも色々と延伸しているではないか?と言うことになるのだけれども、京成スカイライナーのように「存在は知っているけれども乗ったことがない」新しい?路線は、結構ある。さて、東京で降りるか、それとも品川か。この辺りもまあ、接続の関係で色々と考えてしまうのだ。最悪なのが、乗り換えた新幹線の隣の席で酒盛りされること。あれは避けたいけれども、往往にして避け難いのである。自分も飲めばいいって?

8 月 5 日、いままで、物性研究所に行く時には、つくばエクスプレスを利用していた。柏の葉駅は、ショッピングモールが1つあるだけの、ドド田舎なので、柏市というのは田舎なのだと思い込んでいた。たまたま、JR 柏駅へと行くバスに乗って、柏駅にやって来ると、あらあら結構大きな街だったのだ。常磐線が走っているのだから、山手線にすぐ出られる便利な場所で、都会ではない理由がない、そんな地域だと再認識した。とすると、つくばエクスプレスの各駅の周辺も、行く行くは住宅地化されてしまうのだろうか?ともかくも、柏市の本気度の一端を垣間見ることができたのは、貴重な経験であった。

8 月 4 日、日曜日の都内、子供が多い。どこに、これだけの子供が居たのだろうか?と思うほど、沢山いる。いや、平日は学校に通っているから、見なくて当然なのだ。それぞれ、親とともに、たくさんの荷物を携えている。これからどこへ行くのだろうか。平日にできないことを、日曜日に行うというのは研究でも同じで、週末を使って研究打ち合わせを行うこともある。あちこちから人々が東京に集結して、あれやこれやと。メールが使える今でも、直接会うことは大切だ。図やボードを使って、じっくりと議論できれば良いのだけれども、立ち話も実に有益だ。ということにしておこう。

8 月 3 日、花火の撮影、カメラを手持ちにしているのでは、あまり花火らしく撮れない。ガチな人々は三脚を据えて、シャッタースピードを調整したり、多重露光したりと、工夫して撮っている。あるいは、花火らしい光景を広角で撮るという手もある。この場合、絞りがどれくらいであるべきか?という悩ましい問題が出てくる。花火は遠くて、周囲は近い。どれくらい絞るかは、よくよく考えておかないと、何のために何を写したのか、わけがわからなくなる。そして、最大の問題は、花火を撮影すると、花火が楽しめないと言うこと。やっぱり、花火は肉眼で見るに限る。あの美しさは、ダイナミックレンジの低いカメラの受像部分では写しきれないのだ。カメラのセンサーが、今後もずーっと半導体のまま進化するのかどうか、さて ...

8 月 2 日、プルーンは皮ごと食べると美味しい、と書いてある書き物をよく目にする。正しくは「皮ごと食べても美味しいプルーンは、皮ごと食べても美味しい」だ。買って来るたびに、試しに1粒、半分に割って、片方はそのまま、片方は皮を剥いて食べてみる。大抵は、皮をむいた方が美味しい。皮の部分に、かなりの酸味が詰まっているので、時間があったら砂糖で煮てエキスを抽出したい所だけれども、時間がなければ皮は皮、生ゴミとなる。これは、リンゴの皮でもスモモの皮でも同じことだ。粒が小さいので、食べる分量の割に皮が多いから、皮剥きには根気が必要だ。種は植えたら、芽が出て育つのだろうか、とりあえずその辺りにバラまいておいた。海辺で育ってくれるかなー。

8 月 1 日、生き物の素晴らしさを、排水溝に見る。新築の家屋などで、排水溝に最初に取りつくのが、正体不明のクラゲ状のものだ。ネンジュモのような、シアノバクテリアなのだろうか?ともかく、これが蔓延ると流れが悪くなる。しばらくすると、そこにS字状の小さな生き物が登場して、ドロドロが一気にサラサラに変わる。ハエの幼虫だ。昔は、気味わるい生き物だと感じていたけれども、最近では掃除屋さんだと思うようになった。昆虫が居ないと、どんどん炭素が貯まって行く ... わけでもないか、そのうち菌類がやって来て、食べてくれる世の中になってるのだった。生物界は奥深いものだ。

7 月31日、今日は、統計力学の講義の最終回。この時期になると、重要な概念とか典型的な応用については、おおよそ語り尽くしているので、オマケ的なものを何か1つか2つ選んで語ることになる。一週間ほど考えて、そうだ、ボルツマンマシンにしようと、思い立つ。統計力学でボルツマン重率を学んだばかりだし、確率の概念も(たぶん)しっかりと頭に入っているはずだ。この、統計力学的な部分は非常に簡単なのだけれども、そこまでの「のりづけ」が大変だ。世の中の、あらゆる現象を「表面だけ見て」確率に落としてしまって、それを真似ることができるか?という、一見すると物理とは逆のアプローチなので、色々と説明して回らなければならない。どうだろうか、楽しんでもらえただろうか?という感じの最終回、サラリと終えて、撤収。

7 月30日、インターネット、その進化については、ついついアプリケーションに目が向いてしまうのだけれども、バックボーンの強化にも、地味ながら強力な進展が続いている。目に見える形でのプロクシーは絶滅して久しいけれども、ミラーサーバーも次々と消えて行っている。プレプリントサーバー arXiv: のミラーサーバーも、次々と消えて行った。従って、むかし xxx.lanl.gov で張ってあったリンクは、全てオシャカとなる。一括変換で書き直し。ハードディスクの、どこかに生き残ってると、復活するかもしれないので、検索してしらみ潰しにする。うっ、「シラミ潰し」って何だ?という、現代生活ならではの疑問も。実際、見たことがない。南京虫もしかり。ノミは、野良猫が持って来るので、時々やられる。

7 月29日、秋葉原駅で、うっかり目の前の普通電車を見過ごしてしまう。乗ろうと思っている内に、ドアが閉まって発車。まあ3分後に次の普通電車が発車するので、大した問題ではないのだけれども、選択した上でのミスではなくて、何となくぼーっとしている内に列車が発車してしまったというのが、全く良くない。阪急電車に乗る時に、こういう凡ミスが起きないのは、発車する前の雰囲気が体に染み付いていて、意識していなくても足が動いて乗車するからだろう。乗ってしまえば、NTT Spot も Free Wifi もあるのが、つくばエクスプレスのいい所。ついでに、朝の下りはガラガラだし。

7 月28日、全世界的に、世の中はどこへ行っても同じようなコスモポリタンな街になってしまうのだろう。その中で、日本が1つのコスモポリタン国家となるのか?あるいは国家がなくなるのか?... それとも、そこから外れた「珍しい訪問先」として生きるのか?などという、どうでも良いことを考えてしまうのが、東京で過ごす意義なのかもしれない。研究の世界は、随分と前から国際化していて、もはや国境はない。ただ、アフリカ諸国からの参加は非常に少ない。より遠い、南米からの参加はポツポツとあるのだけれど。中国からの参加は、大都市近辺の人が多いかもしれない。それは日本でも同じか。さて、日本の未来は ... 世界が羨むことはないと思うのだけど ...

7 月27日、高校の教科書に「重力子」が出てくる。うーん、このゲージ粒子は、誰も「量子」として観測したことがないんだなー。実験的に裏付けのないものは理論あるいは説に過ぎなくて、原理という物理学の出発点にはならないんだよなー。まあ、このキーワードに触発されて、物理への道を歩み始める人が少しでも増えることを期待してのことなのだろう。一方で、クォークを直接見た人は居ないのだけれども、クォークが存在すると仮定すれば実験的事実を実に見事に説明できるので、クォークは素粒子物理学の出発点として認められるものになっている。物理は、やっぱり実験的事実あってのものだと思う。

7 月26日、夕焼けが綺麗に出るか?と思った夕方には、虹が出た。虹は出たけれども、夕焼けの方は期待外れであった。雲の高さが低い時には、あまり綺麗な夕焼けが出ないという、セオリー通りの普通の夕暮れがやって来て、そのまま暗くなっておしまい。ジェット気流が頭上にない時には、あまり夕焼けに期待しない方が良いのかもしれない。さてその気流、台風に向けて風が吹き込む関係で、梅雨明けすぐにしては、秋のような涼しい風が吹き下ろしている。毎日、こうだと申し分ないのだけれども、夏になったら、必ず何日かは来るんだよなー、あのとてもとても暑い、いや熱い夜が。

7 月25日、学期末なので ... いや、クォータ末だったっけ ... 研究会などで週の半分くらい、神戸から離れて戻って来ると、浦島太郎になってしまう。ええと、期末試験、じゃない、クォータ末試験があるし、講義アンケートがあるし、採点はする、成績はつける、それぞれに何か追加して応対すべきことはこなす。明日もまた、同じように様々な作業が待ち受けている。週末に何とか、やっつけられるものは、やっつけてしまわないと。それと、しばらく手を置いたままにしている執筆仕事も、本格的に復活しなければならない。こちらは、どちらかというと「どんな作業環境で」という事から考え直さなければならないなー。キー入力にはだいぶん慣れて来たかな。

7 月24日、それはやってみたけれども、論文にはしていない。と、いう類いの発言は珍しいことではない。色々とやってみて、一番うまく行きそうな方法が完成品として論文になっているわけで、そこに到達するまでに様々な試行錯誤があるわけだ。時々、捨てられた選択が、実はうまく行く方法であったという「再発見」があって、歴史が繰り返される。それだけではなくて、うまく行って論文になっている方法についても、忘れ去られるということが、ままある。数値計算の分野では、コンピューターの発展が最初は実にゆっくりだったので、その長い歴史の中に埋もれてしまったアプローチが結構あるのだ。見返してみると、あら、すごい宝の山。そんな感じかな。

7 月23日、専門家の間であっても、用語の使い方はマチマチなので、その解釈が議論に余計な時間を生んでしまうことが、よくある。例えば「密度行列繰り込み群 (DMRG)」という言葉が、どこまでを指すかは、人によりけりだろう。杓子定規に取ると、DMRG は一次元系についての計算手法に限定されていて、Y 字型に分岐している部分を含むような系に使うのは邪道ということになる。それは、別の計算手法だと言うべきだろうか。しかし、広い意味では、どこに何を使おうと、Canonical form の Tensor Network と Hamiltonian の組み合わせであれば、それは DMRG なのである。いやまあ、この点はどうでもよくて、結局、用語の使い方の解釈の議論に時間をかけてしまったのは無駄だったかなーと。

7 月22日、シンポジウムの座長をご指名いただく。座長になったらできないことは? (1) 一時的な会場からのエスケープ (2) 端末を使って行う日常業務、通称「内職」(3) 居眠り。もちろん、貴重な予算から旅費を割いての出張であるので、これらの怠業行為は「もってのほか」であって、座長であろうとなかろうと、国際会議に参加したからには、最初から最後まで、緊張感を持って各発表者の講演を、注意深く聞き、活き活きと質問しなければならない。←と、言うことにしとこうか。みんな揃って、この糞真面目モード活動をやられると、老害も相まって、トンデモない事になりそうだという点については、まあ、実情を見て考えてもらおうか。

7 月21日、夏は食中毒の季節である。ちょっと抜かっていたのが、余熱調理。スープなど、大量の液体は一度加熱すると、なかなか冷えない。それを利用して、火を使わない煮込みが可能だ。火なし調理とも呼ばれる。が、ある温度よりも下がると、調理が進まないだけではなく、細菌繁殖に好条件となる。それも、人間には少し熱いように思える温度であっても繁殖する。と言うわけで、ある程度の時間が経った後には、再加熱して増えて来た菌に死滅してもらわなければならない。その間に毒素を分泌するタチの悪い菌もあるので要注意だ。と言うわけで、少し良からぬものを口にしたのであろう、トイレとの距離が近い1日となった。(いや、実は半額で買った古いチーズが原因かも。)なお、昨日の悪い予感はあたり、投票した候補は落選となった。

7 月20日、選挙の応援に。最終日だから、さぞかし数多くの人が集まることだろうと思っていたら、ありゃ?案外少ないではないか。けっこう大物の国会議員がやって来るのだから、もっと見物客が多くても良さそうなものなのだけれども。時代が SNS になったのかな、わざわざ物理的に近い場所までやって来て、実物を見る必要もないのかもしれない。それよりも、ツイートに反応があったり、フォローバックして来るなんて事の方が、感覚的には大きい事なのだろう。... これもジジイの感覚かもしれない。SNS の使い方は、よくわからないものだ。... そもそもジェネレーションギャップは、どうしようもないので、SNS の問題だけではないのだろう。

7 月19日、熱帯。熱帯夜がどうこうと言う、気温の話ではなくて、湿度の問題。気象学的に言うとエントロピーの問題と言った方が良いのだろうか。じわーっと肌にまとわりつく湿気。この空気が嫌いなのか?というと、実はとても気に入っている。肌がガサガサになる事もないし、アレルギーに付きまとわれる事もない。湿気のある熱帯に生まれるべきだったのかなーと思ったりもする。冬になったら冬になったで、あの冷たい空気も好きなので、要するに大嫌いなのはスギ花粉から初夏までの、乾燥した日ということになるのかもしれない。ともかく、雨の降る熱帯の1日は、とても気分が良いのである。

7 月18日、大学院入試が近づいて、大学院で学ぶことへの期待を何となく「空気」として感じる。では大学院で何が学べるのか?というと、理論物理学の場合には、結局のところ、自分で情報収集して勉強することと、何か少しでも引っかかる点があったら、即座に誰かと議論するか、あるいはじっくり考えること、これが学ぶというか、習得すべきことの主要な部分だと思う。また、学んだ結果を口頭発表する、ポスターにまとめる、論文にまとめる、論文を投稿する、レフリーコメントが辛口であっても飄々と応対する、この辺りのことを一通り身近に見て習得しておくことが大切だ。自分から何か、新しいアイデアが湧き出た時に、サッサと発表することが可能となる。もっとも、最近では、ツイートしてしまうという、手っ取り早い手もある。大昔のアカデミーは面倒だった、物理の公開討論のような場であっても、首を突っ込んで質問してみたら「お前のことは知らない」と、明らさまに無視する爺さんも多かった。紹介がなくても議論に加われる今は、随分とサバけた世の中になったものだと思う。で、ともかくも、サラリと無難に学位を取得して、自分の中から湧き出るアイデアの勝負は、それから始めても遅くはないという気がする。

7 月17日、講義ノートには、よく誤りを見つける。その時は、単に表記ミスだったのだろうと思う。が、時間が経つと、表記のミスなのか、本当にそうなっているのか、もう一度確かめなければならなくなる。結果として、常々、講義ノートは「信用すべからざるもの」なのである。毎回、間違いは訂正しているのだけれども、それでも授業中に「なんでやねん」という事態に遭遇することがある。事前に予習していても、やっぱり、行き当たる時には出会ってしまうのが、この手のミス、あるいは読み違えなのである。急いで講義してはならない、という自戒は、この辺りから来る。落ち着いていれば、すぐに見抜ける差異も、慌てると手に負えなくなるのだ。

7 月16日、昔は、大学に成年と未成年が混在していて、色々と考えることがあったけれども、今は飛び入学などを除いて成年しか居ないことになっているので、法律的には考え方が単純になった。一方で、高校は現場で戸惑うことも多いだろう。成年と未成年、何が違うのかというと、責任が最終的にどれだけ取れるのか?という点が最も大きいと思う。未成年の契約は、取り消しが効く。刑法に触れた時もまた、成年とは扱いが異なる。一方で、人権など天与の権利については、成年と未成年で変わることはない。この点は、どのような年齢に対する教育現場でも、繰り返し認識してもらう必要があるものだ。特に、中等教育において「指導して従わせる」という暗黙の了解があるのではないか?ということは、大変気になっている。大学生に対しては?学問そのものに魅力を感じてもらう他に、手は無い。

7 月15日、今日は祭日の授業日、ということになっている。なぜ祭日に授業を?という理由には触れないでおくことにしよう。同じように、今日、授業を行なっている大学も、ボチボチあるのだ。そもそも祭日に官公庁が必ず休みというのは国際標準でも何でもなくて、数多くの祭日の中から選んで休みとする、そんな国もある。さて、今日のような日には、食堂や売店の仕入れが難しい。授業日だから、大学は普通に運営しているように見えるかもしれないけれども、授業担当でない人々は祭日のままなのである。結果として、食事を摂る人の数も激減する。数が少なくなれば統計的揺らぎが大きくなる、というのは数学の示す所で、仕入れ予測がハズレる割合が高まるのだ。

7 月14日、電気湯沸かし器が壊れる。3リットルの、電気ポットの回路のどこかが壊れたらしく、100 度に沸騰しても、沸騰が止まらなくなった。そのまま沸騰し続けると空焚きになって、最後は温度ヒューズが落ちておしまいだ。こういう、危ない壊れ方もあるのだと知った。というわけで、即刻廃棄。新しいものを買い求める。従前の製品よりも軽くなっていて、製品として進化しているような気もするし、またすぐに壊れてくれそうな気もする。保温性能は悪くなっているようだ。その代わりかどうか、節電機能がデフォルトで付いている。このようにして、毎日、世の中のどこかで沢山の電気ポットが買われて行くのだなー。

7 月13日、オーディオ関連のケーブルと、ついに決別する。音声は赤と白、ビデオ信号は黄色 ... アナログ伝送は、必ず雑音を拾って劣化の元となるだけだ。いつまでも後生大事に持っていても、何の役にも立たない。全部束ねて、燃えないゴミへ。銅が結構入っているので、適当にリサイクルされることになるのだろうか、それとも埋め立てて将来の都市鉱山となるのだろうか。電気屋に並ぶ家電製品も、安いものから段々とインターフェースが簡素化されて行って、アナログは消えつつある。そのうち、マイクの端子なんかも、ワイヤレスになってしまうか、あるいはデジタルになるんだろう。アナログで長いコードを伸ばせば、どんなに対策を講じても雑音を拾ってしまうから。雑音を消す AI が普及するかもしれないけれど。

7 月12日、ちょっと木々が茂っている場所に立ち入ると、足下に樹木がたくさん芽生えていることに気づく。とりあえず、運よく地面に着地した種が発芽して、少しは成長しているということだ。全てこのまま大きくなる訳にも行かず、ある程度の所で立ち枯れてしまうものが多い。ツル植物の餌食になってしまったり、乾燥に耐えられなくて枯れたり、光が当たらずに成長が止まったり。これらは「予備軍」みたいなもので、台風がやって来て、古木が倒れたりすると、その光の隙間を狙って、どんどん伸びるのである。で、まあ、辺りを見回すと高齢の同業者が多いという現状は、ある時頃に、とある事情で、こぞって採用したからなんだよなー。

7 月11日、SSD 研究会に参加する。SSD であれば何でもアリというか、そもそも SSD が母体とする Energy Scale 変形についても色々と考えてみることができる、興味深い研究会であった。様々な橋がアチコチの話題にかかっていて、物理はどんなトピックスでも、孤立して存在できることはない、その点について再認識したのであった。で、本当は最後まで参加したかったのだけれども、後ろ髪をひかれる思いで中座して、駅へダッシュ。朝に会場までやって来る時に、毎日通勤している人の後ろをトレースして、裏道をやって来たので、トレースバックできるか心配だったけれども、うまく記憶と照合できて無事にたどり着いた。

7 月10日、明日は朝から研究会ということで、夕刻に首都圏へ入る。涼しい。いや、寒い。20度以下ではないか、ガンガンにクーラーを効かせた部屋よりも気温が低いのである。その理由はというと、前線が日本を縦断しているような気団の配置になっていて、関東には冷たい東風が入っているからなのだ。当然、東西の間に不安定な部分があり、アチコチで雷雨となっている。そのまま散歩したい気分なのだけれども、いやいや、今日は研究会スライド作り、スライド作り、出来上がるまで寝ることはできないのだ、ともかくもスライド作り、徹夜になるんだろうか?

7 月 9 日、カボチャの種をあちこちに蒔けば、辺りはカボチャだらけとなる ... とは上手く行かないものだ。カボチャの種類によりけり、と表現すると良いのだろうか、鑑賞用のオモチャカボチャとか、長年に渡って種を繰り返し取って来たような固定された種なら、水と日当たりさえあれば比較的簡単に育つのだけれども、スーパーで買って来たカボチャの種の場合は、発芽してからの世話が足りないと、いつの間にか勢いがなくなって枯れてしまう。接ぎ木が当たり前の品種なのか、F1 の種なのか、単純に栄養を大量消費する種類なのか、根が詰まりやすいのか、ともかくも世話が必要だ。と言うわけで、空き地のゲリラ的カボチャ畑計画は、今の所、頓挫中。

7 月 8 日、カメラのレンズ、どんどん進化していて、新しいレンズが様々な使いやすい機能を提供してくれている。ただ、日中の光が強い時には、注意が必要だ。ファインダーをのぞいている時の絞り値が、実際にシャッターを押した時の状態とは異なっているからだ。もちろん、絞り値を一致させる方法はあって、単にボタンをひと押しするだけなのだけれども、そのひと押しが面倒というか、シャッターチャンスの見逃しにつながってしまう。というわけで、明るい時には、中古のマニュアルレンズを使うことにしている。見えるがままに写るので、ストレスがない。段々と日が西に傾くと、シャッタースピードが落ちて来て、そろそろ手ブレ防止機能のついたレンズに交換しなさいと、教えてくれる。昔の人は、自分の目で露出を確認していたんだよなー、すごいなー。

7 月 7 日、笹の葉さらさら、今日はとても天気が良くて、初秋のような風が吹いている。そんな時には遊びに行きたいものだけれども、締切だらけの7月なのである。まずは、目の前のことから、次々とこなして行かなければならない。もう、学期末も目前なのである。きえ〜っと叫び声を上げて、どれから先に手をつけるかを決める。後回しにしたものは、必ず追いかけて来るのである。エネルギー補給して、カフェインを入れて、さあさあさあ。あ、まだ日記を書いてなかった。と、いうわけで、チョイ時間を潰して、この文章に手を入れる。短い文章だけれど、毎日同じような調子になってしまわないようにと思うと、迷うことが多いのだ。

7 月 6 日、少しだけ空いた時間ができたので、デパートで涼むことにした。入り口の案内係が、着物を着用していて、ああ、そんな時期かと思った。京都は今頃、祭りの真っ最中なんだろうか。田植えの後の、まだ色々と作業がある時期に祭りがあるという事が、昔から京都が都会だった証なのかもしれない。また、その祭を支えるだけの充分な生産力が、支配の及ぶ地域にあったという事なのだろう。ぼんやり、そんな事を考えながら、涼むついでに買い物も。貧乏人だから、見切り商品の野菜とか、まとめ売りしているようなものばかりに目配せして、やっぱりデパートは高いなと、思いつつ、通り過ぎるのであった。海辺の我が家へ戻って、地元の見切り品を探すことにしよう。

7 月 5 日、小学校の頃の知り合いから、同窓生の訃報が届いた。なにぶん記憶が薄れていることなので、まず小学校の同窓会資料を見てみて、当該者なし。しばらく時間が経った後に、再度連絡してみると、同じ高校に通っていたはずだと。この辺りが同窓という枠組みの厄介な所で、小学校・中学校・高校と進学する間に、様々な交流が生じて、友達の友達くらいまで辿れば、けっこう多くの知り合いが居る勘定になるのだ。単に、田舎ということなのかもしれない。写真が残っているかもしれない、と、検索してみると、クラス合同の大同窓会などの折に、写ったものがあった。元気そうだったんだ、あの時は。

7 月 4 日、集中講義で、量子情報についての研究の観点を色々と伺う。日頃、ついつい、何か目に見える形で物理的な結果が出ないと研究ではないのだという、固い枠を自分に課しているのではないか?と反省する材料を次々と頂戴してありがたい限りだ。発想の自由というのは学問の根幹をなすものだと、再認識した。さて、お昼ご飯はどこに行こうか?と思案して、某所までタクシーを飛ばす。長い昼休みというのも、悪くないものだと思った。職場に舞い戻って、しばし discussion される言葉を横から盗み聞きし、アカデミックな雰囲気を楽しむ。いや、日頃がアカデミックではない、という訳ではないのだけれども、風が新しい。

7 月 3 日、窒素が絡む化学反応は、何とも言えない複雑なものがあるらしい、ということを知った。そもそも、窒素酸化物が、その名称からして混沌の一丁目なのである。炭素の酸化物というと、普通は二酸化炭素で、燃焼条件によっては一酸化炭素もできる、その程度であるのに対して、窒素酸化物は .... 一体、何種類あるのだろうか。二酸化窒素は、その濃度によって四酸化二窒素にもなるぞ。また、窒素がどこかにあれば、高温の環境下でアンモニアも生成される。化学平衡がサッサと凍りつく常温になると、出来てしまったものはそのまま共存する。今日の統計力学は、水素の解離反応に触れたけれども、窒素は更に奥が深いなー。

7 月 2 日、一般相対性理論「塾」というのは、都会では経営に乗るんじゃないかと思う所がある。一般相対性理論「入門」が、まあ中学校程度の数学で、「初級」で高校の物理の教科書程度、「中級」でようやく特殊相対性理論、「上級」でリーマン幾何学くらいまで行って、その後は「考究」とかなんとか、適当に続けて、最後に「師範」となる。普通の習い事であれば、功徳を積んで行けば大体の所は「師範」手前まで行くのだけれども、一般相対性理論だと、なかなかそこまで行ってくれないような気もする。まあ、それは、経営次第なのである。多くの習い事で「師範」を乱発できるのも、そのまま冥土の土産になってしまうからである。もちろん、これは大学の教育とは全く関係ない話であって、大学では基礎に基づく本質的な理解が重要であることは、言うまでもない。

7 月 1 日、仕事がコンスタントにできるか?というと、理学系の研究の場合、なかなか難しいのである。ルーチンワークならば何とかなる、というのは昔の話。ネットは世の中を変え、人々が世界を垣間見ることを可能とし、「研究」なる世界が広がっていることを誰でも知る時代となった。これは喜ばしいことだ。世界的に見ると、物理学の研究を職業に「しよう」という人の数はドンドン増えつつあり、プレプリントサーバーに投稿される論文の量も増加し続けている。結果として、競争の激しい時代となり、ルーチンワークをキープしていても、仕方のない世の中となった。何かが必要なのだけれども、その何かを待っている訳にも行かない。研究職は、うーん、他人にはあまりお勧めしたくないものである。

5 月と 6 月の1行日記