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10月31日、水を真空中に放ったら、という問題、正確な答えを得ることはとても難しい。容器に水を入れて、真空ポンプでゆっくり気圧を下げるという、おおよそ平衡状態が保たれているのであれば、水面からゆっくり蒸発して行って、蒸気圧と水温がおおよそ一致する状況で系の温度が下がり、やがて氷結する。昇華は蒸発に比べて遅い現象なので、平衡状態を保つことが難しいけれども、ともかく氷は氷だ。ではバケツの水を真空に放つと ... そんな自由水面と、至る所で非平衡かつ非線形なダイナミクスが絡んだ現象は、実験してみるしかない。想像では、ジュワっと四散して、細かい氷の粒が飛び散るのだろうと思うけれども、定かではない。宇宙船の水タンクが爆発したことって、あるんだろうか?

10月30日、Google のストリートビュー、ガラスのある場所では、よく撮影者がガラスや自動車のミラーに写り込んでいる。写っているのは自動車に搭載したカメラであったり、人の手持ちカメラだったり。目立つ場合には消しているか、そういう写真を外しているようだけれども、全てを消し去ることは困難なようだ。同様のことが、普通の写真撮影でも良く起きる。人々の目の表面に写る撮影者の影、陽の光が落とす影、ガラス窓に写る影。外の景色を写したつもりで、バッチリ自分が写っているのは、何ともカッコ悪い。逆に、それを狙って、夢のような自撮りをする人も居るから、何事にも、これと言った決まり事を定めるべきではない、ということなのだろう。

10月29日、確率は小さいものの、必ず (?) 起きてしまう現象は色々とある。教員が、専門とするはずの教科の、それも非常に基礎的な部分で、間違ったことを言い始めるという事例は、探さなくても耳に入ってくる。どうして、そのようになってしまうのか、普通に考えてみても、普通ではない現象なので、理解に至ることはない。いくつかの想像は可能で、例えば何らかの病により論理のタガが外れてしまったとか、教員となるべき研鑽を「全て丸暗記に頼って」積み重ねて来た結果として、記憶の一部が抜けたかスリ変わってしまった事が原因で論理が通らなくなったとか。おおよそ確かなことは、このようになってしまった事例に対して、外部から指摘があったとしても、本人には届かないし、効果もないということだ。なお、どのような教員がどう教えようと、それが原因で誤解が生徒に伝わってしまう、という事は起きないようだ。「あの先生、言う事が怪しい」と、生徒の方で判断できる。未来は明るい。

10月28日、野菜はどれが安いのか?という課題には、毎日のように遭遇する。ホウレンソウだけに注目して、それが前日より安いのか高いのか、他の店より安価か?という比較は、まあまあ簡単だ。但し、水っぽいホウレンソウもあれば、昔風に濃いのもある。大根とホウレンソウのどっちが安い?という問いはどうだろうか。重量比では、大根の方が圧倒的に安い。乾燥重量にしたとしても、やっぱり大根が安いだろう。こういう、無意味な比較で大根と戦えるのはキャベツとカボチャぐらいだ。あ、主食たる芋は除く。玉ねぎも、ちょっとはイケてるかもしれない。そんな事をぼーっと考えながら、野菜をカゴに放り込み、海辺の我が家に戻って、ちょっと切って生で食べてみる。生で美味しいのは、やっぱりキャベツ、それも中心の黄緑で甘い所。大根の上の方もまあまあイケるか。下の方は、ともかく辛い。さて、日曜日は調理三昧だ。

10月27日、休日の大学はどんな感じなんだろうか?と、ふと思って、今日も職場にやって来る。(本当のところはというと、毎週、休日「が」研究の時間となっている。)おお、素晴らしい、ウェディングドレスとタキシード姿のカップルが、カメラマンとともに歩いている。大学で出会ったカップルなんだなー、思い出の場所で前撮りですかー。加えて、小さな子供たちがハロウィンを楽しんでいる。ホームカミングデーの催しの一つとして、とある学生団体が企画しているのだと知った。ついでに?ポスター発表や講演会まで。お目出度い日なのだ。おっと、遊んでいてはいけない、仕事、仕事。いや、仕事が遊びなんだけど、サイエンスの世界では。

10月26日、阪急六甲から神戸大学へと登る途中に、六甲カトリック教会がある。その向かいに、低層マンションが建った。いまちょうど、エントランス周囲の工事も含めた、仕上げに差し掛かっている。うち放ったコンクリートが美しいのは、最近の工事現場の特徴だろうか。コンクリートの低い壁だった所に、石のパネルを貼り付けて行くと、一気に石垣風になるから不思議なものだ。石の薄い板を現場で割ったり削ったりして、次々とはめ込んで行く作業は、神業のように見えるし、神業なんだろうと思う。パネルを貼る場合、どうしても隅石に継ぎ目ができてしまうので、車道側から見た美観を優先して継ぎ目を目立たないようにしてある。どんな人々が住むのだろうか?値段を見ると、大学教員ではちょっと厳しそうであった。

10月25日、突然、ネーティブではない日本語での電話がかかってくる。かなり流暢に日本語が話せる外国人?でも、音のリズムや発音のわずかな違いで、日本人ではないことがわかる。一方で、誰がどう見てもヨーロッパ系の顔立ちの人から、いきなり全くの日本語?で話しかけられると、これまた、一瞬驚いてしまう。こういう所が、島国ならではの感覚なのかもしれない。さて、電話の主はというと、某(大きな)病院の受付の方であった。これまたびっくりと言うか、ギクっとすると言うか、良からぬ事が身近な人に降りかかったのか?と思ってゾッとしたのだけれども、留学生に伝えたい事があるという、単なる言づての電話であった。あ〜びっくりした。そういえば、私は本土人ではなくて、とある島国の出身なのであった。

10月24日、高校で習う生物学では、多くの箇所で化学的な知識が本質的な理解に必要となる、が、あまり書かれていない。高校で習う化学では、多くの箇所で物理的な知識が必要となるが、あまり書かれていない。高校で習う物理学では、数学的な知識が抜け落ちている。高校で習う数学では、代数やら集合やら、数多くの要素が抜け落ちている。もちろん、初学者に何でも突っ込むなという意見には一理あって、順番はあるのだけれども、教科をキッチリ組み立てようとするあまり、枝葉を刈り過ぎているのではないかと思う。自然科学、サイエンスというものに一体感があるということを、もっと教えて行かなければならない。但しこれは、理科総合への道ではない。あれはサイエンスの域まで足を踏み入れない程度の所で、何でも網羅しようという感じなのだ。高校の理系科目が、それぞれ互いに関係しているぞ、という発展的内容を、習わなくてもいいから、もちょっと紹介してほしいなーと思う所。

10月23日、昔はバスの床が木で張られていた。今でも、たまーに遭遇することがある。床が木のバスは、たいてい床が凸凹していて、隙間に何やらゴミが挟まっている。そして、何となく、木のような、石油ワックスのような、思い出すとバス酔いしそうな臭気が立ち込めている。特に、冬に暖房が入ると悲惨である。そんな年季の入ったバスに乗って、毎日のように通学したのは、いつの頃だったろうか。昔のバスは、当然のごとくマニュアル車だったので、運転手によっては、変速の度に派手に車体を揺らしてくれたものだ。いま、あんな荒い変速をしたら、クレームが来るだろう。今日は珍しくバスに乗って移動した。昔の記憶は不意に蘇って来るなあ。

10月22日、職場のパソコンのバックアップディスク、一体、何年使っているのだろうか?ここ数年、入れ替えた記憶がない。ということは、そろそろ、いつ飛んでもおかしくない時期に差し掛かっている。昔は2年も持てば御の字だったなーとか、一見動いているように見えて、よーく調べてみると欠陥だらけになっていたとか、色々と古き良き(?)思い出が蘇って来る。起動の遅いディスクが接続されていると、色々と「引っかかる」ことがあるので、そろそろ新調しよう。動いている現役のバックアップディスクは、時々接続して「念のためのバックアップ」を保存しておく用途で残しておこうか、火事場騒ぎになったら復活できるように。

10月21日、大学の空き地というか、花壇になり損ねた雑草の生育地というか、ともかく草の生えた場所は、いまエノコログサ、別名ねこじゃらしが実る秋となっている。生物学科の隣にある、そんなエノコログサ畑(?)に異変あり。黄色や白のテープで、あの尻尾のような穂に、マークを入れてあるのだ。何でも、結実率をモニターするのだとか。ここに、生物学のフィールドワークの辛抱強さを見た。ひとつの穂に付いている粒の数を数えるだけでも一苦労だというのに、何十本もマークが入っているのだ。これらの解析は人海戦術であたるのだろうか、それともデータの質を均一にするために、一人で解析するのだろうか。同じ学問でも、手法は様々なのだと改めて思った。

10月20日、とある田舎の高校を卒業して、関西に住んでいる人々が一年に一度集まる会合に出席する。毎年、色々と趣向を凝らしてくれるので、結構楽しみにしている。先輩方が、同窓会の進行をある程度は固めて来た経緯があり、そのまま受け継いで、何となく流すことも可能なのだけれども、そうはならない所が、田舎の高校を出て都会(?)で鍛えられた面々ならでは。今年は、スペシャルゲストも登場、ええと ... あ、色々と書いちゃダメなのであった ... ともかくも同窓生という人材の中に、凄い芸人さんが居ることを知った。そして、最後は例年の通り高校野球の話題となり、こちらもまた盛り上がったのであった。そうそう、帰りに、アイノートというストリートミュージシャンが、RED というアルバムを売っていたのは、単なる偶然だろうか。

10月19日、電車は止まる。これは常識として、頭の中に入れて行動する必要がある、という事を実感した。少しだけ遅れることは毎日のようにあるから、一本早い電車に乗る。でも、止まったら、大抵は30分くらい遅れるから、近場だったら、それくらいは織り込んで早めに家を出る。海外へ行くような場合は、空港には前日に入った方が良い。そして、遅れてしまったら ... これはもう、運が悪かったものとして、諦めるしかない。人徳や、お得意さんとしての利用があったら、空席のある次の便に乗せてもらえることがある。必ずそう、とは限らないのだけれども。電車が止まったら、周囲の人々の様子を眺めて、時間を潰すしかない。誰だ?有楽町のボタンを押したのは???

10月18日、中央線は、山手線を横切っているように頭の中に入っていたのだけれども、千駄ヶ谷から新宿の辺りは山手線に沿って走っている、という事を、改めて思い出した。そして、新宿御苑の辺りは、歩いて回ると、結構落ち着いていて、散歩に良い場所なのだという事を知った。東京というと、ついつい、果てしなく同じ街並みが続く、つまらない場所だという印象が強かったのだけれど、これだけ色々と見せてもらえると、前言撤回なのである。そして、今日の打ち合わせの場所へ足を運んで、しばしサイエンスを語る。また楽しいではないか。そのままトボトボと散歩を続けようかと思ったけれども、仕事も詰んでいるので、サッサと戻って来ることにした。

10月17日、水が蒸発するとか、酸素と水素が化合するとか、ごくごく自然に観察できる現象の中に、ことごとく「自由エネルギー」が噛んでいることを習う人は人口の10パーセントも居ないだろうし、習ったとしても、その知識を必要とする人は1パーセントも居ないのではないだろうか。こう書いている私も、目の前で水の蒸発を見ても、エントロピーの事なんか、わざわざ考えたりしない。そして、どうして水が水であり、蒸発した水蒸気と区別できる存在となれるのか?という問いに対して、やさしく説明する技を持ち合わせていない。どう転んでも熱力学が必要なのである。そのように考えると、小学校にせよ中学校にせよ高校にせよ、理科の科目には自由エネルギーなる観点への足がかりが乏しいことがわかる。その結果、原子の世界とマクロスコピックな現象の間に、巨大なバリアが生じているのである。高校理科の、基礎系の科目に「暗記せざるを得ない項目」が多いのも、こんな所が原因なのかもしれない。

10月16日、鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん、白文だと割鶏焉用牛刀、論語に出てくる有名な一節である。この牛刀とは、はて、どんなものだったのか?という疑問が、ずーっと頭から離れないのである。現代の日本で牛刀というと、刃渡りが 30 cm くらいの洋包丁である。ステンレス製であることが多い。論語の頃、春秋時代の中国では、ようやく製鉄が広まりつつあった。料理に使う刃物が、不純物たっぷりの青銅製だと、健康を害したのではないだろうか、それとも既に鉄製に置き換わっていたのだろうか、どんな形だったのだろうか?そもそも直刀しかないような時代だったので、やっぱり真っ直ぐな包丁を使っていたのだろうか?鶏と牛が、どんな大きさだったかも、よくわからない所、この辺りを想像して楽しめるのが、古文の良い所だろう。

10月15日、機械が、コンピューターが、人間の技をどんどん置き換えて行く時、最後まで人間に残されるものは何かというと、楽しむことなのではないか?と思う所がある。遊ぶと言っても良い。そう思って辺りを見回すと、遊んで暮らす人々はけっこう居るものだ。財産があるから遊んで暮らせる、という事例はもちろんのこと、貧乏だから遊んで暮らせるという、一見すると逆説的な事例も珍しくない。また、理想かどうかは別として、遊んでいたら自然とそれが職業になってしまった、という場合もあるし、研究者の半分くらいは、そんな状態なのではないかと思う。研究立国なんて力説するのであれば、まずは「遊びなさい」と説法して回るべきなのである。どの年代の人々に対しても。

10月14日、かーごめかごめ、カゴメという単語は、物性物理屋の共通語となってしまった。ずーっと昔は、物性物理の中でも、統計物理のごく一部でカゴメ格子という言葉が使われるのみであったのだけれども、量子力学系としてのカゴメ格子系が実際に物質として実現できるようになり、一躍広まったという経緯がある。この系は、数値解析を行う人間にとっては鬼門であると言って過言ではない。単純に、ギャップの有り無しの問題に過ぎないと言えば過ぎないのだけれども、アリとあらゆる筋書きで有無が議論されている上に、数値解析であっても、アプローチ毎に、そしてデータ整理の方法次第で、結果が変わって来るのである。ここに挑むか、ほっとくかは、好みの分かれる所だろう。

10月13日、街を歩いていると、豚饅娘というタスキをかけたお姉さん達が、ビラを配っていた。歩行者天国となった、その通りで、中華料理のブースが沢山並んでいた。ちょうど、中華料理でお昼を済ませたばかりなので、全く食指が動かなかったのだけれども、ライブ調理などもあり ... というか中華料理は常々ライブ調理か ... 見ているだけでも楽しい。料理と一緒に自撮りしている人々も。その通りは商店街に準ずる形の歩行者天国としても良いのではないか、と、ふと思った。特に駐車場の出入り口があるわけでもないからだ。ところで、娘という字は「むすめ」と読むのが普通であるから、豚饅娘はブタマンジョウではなくてブタマンムスメと発音するのだろう、きっと。これより先は蛇足か。

10月12日、ずーっと不思議に思っていたことを、忘れていた頃に思い出した。スカイラブである。今の人々にスカイラブと言うと、何だか誤解されそうだ。Skylab であって、SkyLove ではないぞよ。国際宇宙ステーションが出来る以前の宇宙ステーションの一つで、アメリカが打ち上げたものだ。これ、ヘンテコな形をしていて、太陽電池の大きなパネルが実験室ユニットの片方にしか付いていない。どうして、あんな形なのかなーと言うのが、長年の疑問であった。検索してみて、アッサリ解決、片方の太陽電池パネルは、打ち上げ時に「どこかへ飛んで行った」のである。宇宙開発にはありがちな事だ。このポンコツはオーストラリア大陸に堕ちて、たぶん、某アニメにコロニー落としの材料を提供したのであろう。

10月11日、ガラスの粉というものがあるのだそうな。用途は様々で、焼き物の釉薬のように使ってみたり、電子部品に使ってみたり、焼成するガラスアートの材料に使ってみたり。細かい粒で良いのであれば、花崗岩の細かい粉でも良いように思ってしまうのだけれども、粉であっても結晶とアモルファスの差は歴然としているらしい。粉とは言っても、ガラスと聞くと「刺さらないのだろうか」と用心してしまうのだけれども、ガラスの粉でそんな問題があるのならば、砥石のアルミナの粉は更にヤバいことになる。「吸い込んだら毒なのだろうか?」と警戒してしまうけれども、風の強い冬の日に吸い込む砂粒の量ほど吸い込む事は、まずないだろう。これを使って、摩擦か何か、物理の実験ができないか思案するのも楽しい。ジワジワと温度を上げると何かが起きるとか。

10月10日、今日は体育の日?と思ってしまうのは、昭和の記憶。ちゃんと、その分は月曜日に休んでいることを、すっかり忘れているのである。神戸大学に登って来る人々にとっては、毎日の登山が体育のようなものだから、一年中が体育の日だと表現しても良いだろう。前を歩く人について行けなくなったら、その時が引退の日であるとも伝わる、かの坂道は特に急だ。時々、その坂道を駆け上がる人を見かける。これには2パターンあって、信じられない速さでずーっと登って行く人と、適当にインターバルを入れつつ駆け上がって行く人が居る。後者は得てして、歩くより効率が悪いものだ。さて、今日も、もう一汗かいて少し登山してから、下ろうかな。

10月 9 日、ちょっと難しい気温になって来た。部屋に、ガンガン計算しているパソコンが転がっているので、通常あり得ないような発熱がある。エアコンを切ってしまうと、じわじわじわーっと部屋が生温かくなって来て、どうも都合が悪い。かといって、エアコンを入れると、温度調整があまりうまく行かずに寒くなってしまう。温度調整をきっちりしようと、風速を強にすると、ウルサイし、局所的に冷風が吹きまくることになる。扇風機でも入れて、部屋の空気を常に攪拌しておく必要があるのかもしれない。窓を開ければ ... まだまだヤブ蚊が舞っているので、大変なことになる。色々と難儀な季節の変わり目か?

10月 8 日、休日は休日なのだけれども、それは日本特有の現象に過ぎず、世界のアチコチから様々な知らせが届く。思うに、メーカーさんにせよ貿易会社にせよ、平日の祭日というのは実質的には勤務日にならざるを得ないのだろう。ちょっと脇道にそれて、研究者に休日があるのか?という点については、深入りしないことにしよう。一応、労務管理上は休日ということになっていると思うので。共同研究者が地球の裏側に居る時に、どうやってリアルタイムな打ち合わせ時間を確保するか?というのも結構な問題だ。ヨーロッパくらいなら何とかなるけれども、問題は南北アメリカ。これは、一筋縄では行かない。

10月 7 日、四酸化二窒素という、ピンと来ない化合物がある。二酸化窒素 NO2 が、二つ合体して生成されるのだそうな。これで安定状態となる。窒素酸化物のスモッグにも含まれているらしく、空中を漂っているのは、あまり有難くないことだ。分子量が大きいので、酸化力の割には体積が小さいし、常圧の沸点が常温くらいである。この性質から、ロケットの酸化剤として使われることもある。窒素の酸化物は、高校で習う範囲の化学では価数という考え方があまり当てはまらないし、例外だらけとなる。難儀な化合物で、最終的には量子化学の助けを借りなければならない。化学は、一筋縄では行かない科学だ。

10月 6 日、何だか暑い、梅雨の時期のような天気であった。昼間暑いのは当然として、夕方になっても気温がなかなか下がらないので、体力が奪われるような気分で日中を過ごす。風はそんなに吹かず、台風が日本海に入った感じはしない。いや、この暑さがそれなのだろう。さて、日中にあれこれと課題をこなして、夕方をどこで過ごそうか?と思案する。西の方にしようか?いや、人だらけになっていて、日本かどうかよくわからない混沌から逃げ出すように、某街の東の方へと移動して、ゆっくり夕食を摂ったのであった。その後、さてたまった仕事をこなそうと思いつつも、パタリと寝入ってしまうのであった。

10月 5 日、最近、トタン板をあまり目にしなくなった。昔は、自転車置き場の屋根とか、ひさしとか、ちり取りとか、ともかく屋外で使う鉄製品がことごとくトタン板で作られていたので、ごくありふれた存在であった。そして、元はトタン板であっただろう、朽ちかけたサビサビの残骸もよく見たものだ。最近は?まず、プラスチックや、グラスファイバーとの複合材などが非常に幅広く使われるようになり、耐熱温度や剛性の確保のために金属板を使う場合でも、トタン板の代わりにステンレス鋼を使う場合が多くなった。逆に増えたのが、信号機の支柱などで使われるようになった、スチール管の表面に亜鉛をコーティングしたトタン管。昔はペンキを塗っていたけれども、塗り直しが間に合わなくて、根元から錆びて倒れることがしばしばあった。このトタン管は、さて、どんな運命を辿るのだろうか。

10月 4 日、何事にも裾野は大切なもので、裾野があればこそ、時々、トンデモナイ人材が発掘されるのである。発掘確率は、裾野の広さ(を定量化したもの)に比例するくらいだろうし、それで十分だ。さて、ここで重要なことはというと、裾野では何でもアリの状態をキープすることだ。たまに出た天才が何かやった、その発見に、裾野が感化され過ぎては、本来のバラエティーを失ってしまい、上記の確率に良からぬ影響を与えかねない。また、経済活動という訳でもないので、裾野がトップを支えるという構造も無いことが望ましいのである。これらとは逆の行いを目にしたら、当たり障りのないように表現したとしても、単なるダマしである。銭の事が絡んで来ると、政治を無視するわけには行かないのだけれども、純粋さあっての科学と信じたい。

10月 3 日、時々、近隣の大学の動向を見学することがある。見学といっても、足を運ぶわけではなくて、ネットで拾える公開情報を見るだけだ。大学院入試の募集要項は、大学それぞれに味があって興味深いものがある。まず書式がマチマチ、これは当然といえば当然。受験の資格などはまあ、どこも似たり寄ったりだけれども、細かく比較すると表現はもちろん、条件そのものに微妙な差があったりする。受験科目の設定が最も特徴的で、大学や専攻によっては、10問近い出題の中から3問の選択という所もあるし、ほとんど面接だけの所もある。英語の試験を実施するか、それとも民間試験のスコアで代用するかの違いもある。募集要項に、入試結果の開示について言及している場合もある。明記されていなくても、受験者のツイートで開示結果が流れて来たりする。何か進めるので見学しているのか?というと、そういうわけではない。他山の石を見学しておくことは、つまづかない杖を得るようなものなのである。

10月 2 日、野菜の無水調理は、水を加えないことを強調しても始まらない。いま市販されている野菜は、どちらかというと水っぽいものが多くて、加熱すると水分だらけになってしまうからだ。むしろ、どれだけ水分を飛ばして行くか?の見極めが大切となる。それでも、最初の加熱時には水がない状態なので、急な加熱は禁物だ。油で炒めてから調理を始めるという手もあるけれども、油っぽい味になってしまう欠点がある。鍋底に塩を加えておくと、浸透圧により水が早々に出て来て、しばらくの間は沸点上昇してくれる。が、加え過ぎては塩辛くなる。少しずつ先を読んで、最終的に食べる時に美味しくまとまるように、足し引き計算するのは、なかなか難しい。料理人にはなれないな、と、思った。

10月 1 日、いつもは台風が通り過ぎると、あちこちに木の枝やらゴミやら、色々と散乱しているものだけれども、今日はすっかり綺麗な朝であった。吹き飛ぶようなものは、前回の台風で吹き飛んでしまったからだろう。ついでに、今回は北向きの風が主体だったので、海から潮が飛んで来ない好条件に恵まれ、塩による葉焼けもない。集中豪雨もなく、側溝の柵も詰まることなく、ハッと気がついたら後期の授業期間に突入していた。「夏休みが終わった」のである。授業が始まったのである。ついでに週明け。まあ、週末には早速3連休もあるし、後期の長丁場に備えて、今のうちに十分な休養を取ることにしよう。

9 月30日、台風が来る来るというので、海辺の我が家で土嚢を積んで、窓にテープを貼って、冷蔵庫に沢山の食べ物を詰め込んで準備していたのであるけれども、日の明るい内は何の音沙汰もなく。ようやく夜半頃にそれらしくなって来る、来たぞ、来た来た、と、身構えした途端、風がパッタリと止む。後は、時折、思い出したように風音がする程度で何事もなし。本体は随分と南にそれたようだ。前回の台風が余りにも強烈であったが故の、妙な安心感とも言えるだろうか。というわけで、冷蔵庫の中身は次々と胃袋の中へと吸い込まれて行き、出歩かなかった運動不測と相まって、メタボの素となったのであった。

9 月29日、サンマが目に入ったので、ついつい買ってしまった。ゴミの日は週明けなのである、今日、魚の生ごみを作ってしまうと、それはそれは、芳しいものになるであろう。腐った匂いが嫌いであれば、腐りそうなものだけをガリガリになるまで、古い油で揚げてしまって、ついでにヤシ油で固めてしまうという手があるにはあるのだけれども、部屋を油臭くした上で面倒な掃除をする努力を考えれば、臭いものに我慢する方がまだマシだ。大昔の人は、きっと、野良猫にプレゼントしてたんだろうなー。それとも、ほとんど残さずに食べてしまっていただろうか。

9 月28日、たばこの栽培、というキーワードが目に入った。あれは免許制やろう ... と思い込んでいた。例えば医療用のケシ栽培は、ずーっと昔から続いて来て、最近は段々と減らして、近内栽培は今年で最後となるのだそうな。ところが、たばこの場合、栽培するだけならば、誰がどこで行っても良いらしい。但し書きがあって、タバコへの加工を行ってはならない。ここは酒税法と同じように、商品にせず自己消費したとしても脱税になるという事からだろうか。じゃあ観葉植物として栽培できるかもなーと、写真を検索してみると、大して美しくもない葉ばかりの植物であった。この手の、毒を含む植物は実は沢山あって、あまり一般には知られていないだけ、という側面もある。野山の植物には手を触れないのが、秋の山歩きの鉄則かもしれない。

9 月27日、セルオートマトンでカオスが出る、それも簡単なルールで。この、簡単なルールというのがクセモノだ。local には簡単に見えても、相手にしているのは長大な 0 と 1 の列なので、幾らでも離散数学の森へとわけ入る余地があるように見えるし、実際にそうらしい事例の報告が幾らでもある。さて、カオスで難儀な点の一つが「いつカオスになるのか」を、結構色々と計算してみなければ判別できないことである。ロジスティックマップがオラクルになってるような検索アルゴリズムで、一発検索とか ... いや、それでは一点だけポツンと求められるだけだ ... うまい方法はないものだろうか。テンソルネットワークとの関連も見え隠れするんだなー、楽しめそうだ。

9 月26日、あそこにキノコが生えているならば、と、学内を散策するも、キノコ探しの成果ゼロ。というか、生えていそうな場所は既にイノシシが掘り返しているのであった。そういえばドングリも毎日のように降って来ては、毎日のように姿を消している。確か、イベリコ豚というのは出荷前に森に放って、ドングリを沢山食べさせるのであった。ということは、今時に神戸大学のキャンパスを夜歩きしているイノシシを採ったら、美味しいイベリコ猪、いやコウベコ猪になるわけだ ... いや、あれはゴミも荒らすので、ドングリやキノコの芳香を期待してはイケナイのかもしれない。ともかくも、継続して観察することにしよう。イノシシではなくて、キノコの方。

9 月25日、キノコがその辺りにも生えるものである、という当たり前の事実を、すっかり忘れていた。先日、文理農学部前のバス停のすぐそばで、道端に何やら丸い煎餅のようなものを見かけ、はて、これは何だろう?とのぞき込んで見れば、キノコであった。幾つか群生しているし、よく見ると奥にも何本か生えている。田んぼのあぜ道に生えているようなタイプのキノコだ。この所、十分な寮の雨が降っていて、キノコが出て来る条件が整ったのだろう。最初に見かけた時には、イグチだろうと思った。けれども、今日また観察すると、傘の裏側は網ではなくて筋模様であった。未だ正体不明。どうせ生えてくれるんなら、ハツタケが生えていて欲しいと思うも、このあたりには松林が無いから無理か。

9 月24日、タレントになれます、という触れ込みで高額なレッスンを受講させる生業があるのだそうな。物理学者になれます、という触れ込みで ... いやいや、我々の場合、最初から何かにな れるという看板は立てないのである。そもそも自分が学者なのかどうかも分からないし、学者の定義すら存在しない。研究職か、あるいは教育職を受け持って、過去の財産を将来へとつなぐバトン持ちくらいの存在だ。さて、「あなたも物理学会で発表できます」という触れ込みで一般人を募って何かをする生業を一瞬思いつくも、直ちに、学会の規約に反する可能性が高いことに気づく。学会の会員であることを看板にして、人々に幻想を植え付けてはならないのである。こういう枯れた世界で生きているので、色々な商品の解説に「何々先生お勧め」とか書いてあるのを目にすると、その商品には手を出さないことにしている。

9 月23日、しばし SNS の利用方法を再検討中。というのも、海外の知り合いとの繋がりが増えて来たから。そのまま日本語だけで何か掲載しても無意味なものになる。繋がっているだけで、実はミュートされている、という場合もあるので、気にしないというのも一つの手なのだけれども、やはり無意味なものは増やしたくない。かといって、英語だけで何か投げても、殆どの日本語話者にとっては「シュッ」と流すだけの対象となるだろうし、ミュートされるのがオチだ。アカウントを複数持つという手はアリだけれども、ズボラな私には向いていない。単純に何も投げないというのもアリかなー。Read Only の人、結構いるよなー。やっぱり万国共通の写真にシフトすることになるのかなー。

9 月22日、海辺の我が家から、海辺の元町へとふらり遊びに行く。何だか今日は街中を歩く女性の着飾り方が普段とは違う。秋とはいえ、まだまだ暑い季節なのに、タップリと生地を使った、実に高価な装束と持ち物に身を包んだ人々が、ゲリラ的にファッションショーでもやってるんじゃなかろうか?と思ってしまうほどに。やがて歩行者天国に遭遇して、報道機関やら警備員やら観客やら、何じゃいな?と訳も分からずに見物していると、自動車の中からゲストが出て来て、更に歓声が上がる。どっかで見たなー、あのおばちゃん。うーん ... と記憶をたぐりつつその場を離れ、ノコノコと職場に戻る。調べてみると、ゲストは柴崎コウだったのだそうな。ググってみると、あ、確かに、さっきの。

9 月21日、キノコの栽培は、培地と湿度と温度が揃っていれば、いつでもどこでも行える。結果として、スーパーで販売されているキノコの価格を見ると、売値で1パック百円程度。それでも、秋はやっぱりキノコにとって気持ちの良い季節なのか、単に片手間の露地栽培が出来るだけのことなのか、更に安価となる。どんどん食べよう ... と、買い込んで来て何パターンか調理してみる。一番美味しいのは、やっぱりキノコだけの煮込み。急いで作ると、素抜けた「味のないキノコ」というか「醤油の味だけ」になってしまう。大量に鍋に詰め込んで、弱火でじーっくり煮て、段々と水分を飛ばさなければ、あのキノコらしい味にならない。ピレネー山脈に大量に生えるキノコ、あれもまた食べてみたいものだ。

9 月20日、いま普通に食べているものでも、ちょっと前とは随分と異なるものがゴロゴロと転がっているらしい。貝類なんかは、ずーっと昔から拾い食いされたものだから、昔も今も大差ないのだろうけれど、果物は随分と変わった気がする。特に、ナシ。私たちが思い出すのは20世紀と長十郎のふたつ。20世紀は、ごく稀に目にすることがあるけれども、いま売られている20世紀が昔と同じと考えてはいけない。栽培方法が改良されたようで、昔よりも美味しい。(←個人の主観です。)長十郎はけっこう甘かったけれども、ポソポソした食感がイマイチだった。どちらも美味しく食べた覚えがある。食べ物そのものの味もさることながら、皮をむいて皿に並べてくれること、その過程とタイミングが味として記憶に残っているのかもしれない。

9 月19日、歩かん、歩けん、歩きん、何の方言やねん?と思ってたら、アルカン、アルケン、アルキンは化学用語出会った。アルカンが、メタン、エタン、プロパンなどの普通の炭化水素で、輪になっていないもの。アルケンが二重結合を一つ含むもの、アルキンは三重結合を一つ含むもの。そういう化合物は幾らでもあるとのことだ。アルケンの中で輪になっているシクロアルケンは、その描き方が少し面白い。和の中に、一箇所だけ (複数箇所のものもあるにはある) 二重線が入っていて、他は一重のまま。丁度、描いた部分だけが本当に二重結合になっている、というもの。これ、おおよその話。分子の性質は、最終的にはシュレディンガー方程式に聞くしかない。あ、プロトンの得意な性質は、それだけでは足らないのであった、ボルンオッペンハイマー近似の限界もある。難儀なことだ。

9 月18日、HTML は、とても難儀なコンピューター言語で、一般的に使われているにもかかわらず方言だらけな上に、互換性が乏しいのである。むかーし昔に手書きした web page を、現在の文法チェッカーに放り込むと、ありとあらゆる文句が並ぶのである。HTML 1.0 は、もう読んでくれなくても仕方ない、いにしえの言葉である。ブラウザーの方で、適当に解釈して、そして適当に表示してくれるには、してくれるのだけれども、ブラウザーごとに見かけが異なったりして、あまり具合が良いとは言えない。手直しするには、一旦、HTML エディターに吸い込んで、新しいファイルに保存し直すのが簡便だ。但し、そのソースを読もうとすると、死ぬほど複雑で閉口すること多し。開発環境から作成するプログラムのソースに、ちょっと似ている気がする。

9 月17日、位取り記数法、さあ英語で何と言うんだろうか? Positional Notation なのだそうな。place-value notation とも言い表す。韓国語が位置記数法で、中国語が進位制。10進数に特異な立場があるのは人の世のことであって、数の世界では何進法も平等であって美しい。各桁にマイナスの数を許したり、整数ではない、場合によっては複素数までを許す、広義の記数法というものもあって、数学好きな人々は何でも考えつくものだと感心する。一部が消えても、表したい数が変わらない冗長な表現もあって、これは通信や記憶に使われているものだ。数って何だ?という問いかけに対して、少しずつ住処を広げて来た数学者には脱帽するばかりである。

9 月16日、焼き塩を購入する。粗塩の湿った感じがなくて、料理にサラリと一定量をふりかけ易い。焼き塩とは何か?と調べるに、焼いた塩と書かれている。焼いただけでは、塩化マグネシウムから水が抜けるだけで、常温に戻ったら、また水っぽくなるのではないか?と思いきや、どうやらそうではないらしい。こういう化学工業の話?は、全く専門の外のことで、何が起きているのか想像もつかない。ただ、何にでも首を突っ込みたがるのが物理屋の習性だ、しばらくの間、あちこち検索することになりそうである。(2017年に論文も出ているではないか!)検索していると、原発事故以後に製塩された塩の話も引っかかって来る。コンクリートに囲まれて生活している現代人にとって、塩から来る放射能に目クジラ立てるのは、オーダーの違う話かなーというのが率直な感想。

9 月15日、大学入試問題の数学、あれを時間制限の下で解くのは苦手なのである。特に、高校の低い学年で習う範囲からの出題が、手に負えないほど難しいし、無意味なことが多い。選抜試験の問題としては、その辺りに焦点を当てておかないと、受験者の選別の役に立たないということ、それを理解していても、やっぱり無意味さにゲッソリする。時々、解いていて楽しい問題があるにはあるのだけれども。高校の高い学年で習う範囲からは、比較的ストレートな問題が出題される。こういう問題は、サッサと取り組めるので気が楽だ。何れにしても、時間制限には意味があまりない。現実問題として、フリータイム受験は不可能なのであるが。

9 月14日、海辺の我が家は、この前の台風で海に沈みかけたので、今も塩っぽいのである。玄関前をよーく眺めると、海水のせいか、塩が吹いているような気がするのである。塩があれば、曇ったり雨になると、当然ジメジメとして、清く表現すれば海の香り、悪く書けば便所そのものといった、複雑な臭いに包まれるのである。自宅でそうなのであるから、海に浸かってしまった関西空港は、想像に難くないのである。到着フロアの地下にあったトイレは、完全に水没だろうか。事前に立ち入り禁止にしていたのだろう、よく溺死者が出なかったものだ。今年は災難続きと聞くけれども、まだま 100 日以上残っているのである。用心用心。

9 月13日、研究室のホームページ、もう10年も前に作ったまま、一部は書き換えていたものの、全体的には放置したままのような状況となっている事に気づいた。少しテコ入れしないと。まずは、写真から。ホームページの教員写真が「詐欺である」という状態かもしれないので、できるだけ現況に近いものを選んで、貼り直そう。できれば、少し老けて写っている方がいい。あるいは、AI で老けさせた写真を使うか。それも詐欺だなー。いや、そもそも、写真というものが、真を写すと書いてありながら、光の具合やアングルで、どうにでも写るものなのである。なるべく悪い顔で写っているものを選ぼう。極悪非道の研究室ホームページ、いいんじゃないだろうか?

9 月12日、物理学会の、特定のセッションに人々がドドッと集まる、というのは公園のハトのようなものだと思う。テンソルネットワークのシンポジウムを昨年行った時に、結構大きな部屋を埋めるような人出を目の当たりにして、ウソやろうと思った。世界中から研究者を集めても百人そこそこなのである、この業界は。エサがあると集まって来る公園のハトにもよく似ている。ドッと集まって、サッサとエサを食い尽くして、また他の場所へと飛んで行く。簡単に食える飯は、その程度の量しか転がっていないものだ。それ以上にエサが欲しかったら、掘らなければならない。何か出土することもあれば、何もないこともある。何もない場所を掘ることの尊さよ。

9 月11日、学会の発表の朝、コネクターが無い事に気づく。ええと、これはもう仕方ないので、板書か、最悪の場合はマイク一本でやるしかない。もともと、理学というのは哲学であって、哲学の世界の学会はマイク一本が当たり前なのだそうであるから、理学でも大丈夫なはずだ。ただし、スライドを前提として組み立てた話を、スライド無しで話すには無理があるから、話の組み立てを考えなければならない。これから会場へと向かう2時間の電車の中で、じっくり考えることにしよう。黒板が使えたら板書だな。まあ話すことの本質は、スライドがあってもなくても、大差ないと思う。どのみち伝わる人には伝わるし、伝わらない人には伝わらない。そんなものだ。→ という訳で、現場のホワイトボードを使って講演しました。

9 月10日、仙台にやって来たら北目町に足を運ぶ。まず、仙台の歴史ある町名の中で、突如として現代的な響きに出会うことの驚き。しかし、調べてみると「北目衆」という仙台藩の家臣が住んでいたから、北目町通り、北目町という名前となったので、モダンに聞こえるという私見は、単純に聞く方の勝手な解釈なのである。この北目町、仙台の繁華街へのアクセスがとても良くて、住むにはベストな場所の一つなのである。商売の街というよりは、職人や取次が住んでいたような街だ。地下鉄東西線が開通してから、おしゃれな店がジワジワと増えて来た。これから先、どう変貌を遂げるのだろうか?

9 月 9 日、なぜか仙台で道案内をする役になってしまう。仙台の街中、広瀬川から東は迷いようのない端正な地図が広がるのだけれども、夜になって東西南北の把握ができなくなった外来の方には、京都で迷うような困難が待ち受けているのかもしれない。さて仙台に来たら牛タン、名店がどうのこうの、という話は良く聞くのだけれども、迷い歩くくらいならば、目の前の店に入った方が良い。十分に楽しめる。定食だと1時間もかからずに、アッという間に御開きとなる。ここで、有名店の場合、行列が出来ていてサッサと追い出されてしまうので、実は地味な店の方がいいんじゃないかと思うのである。どっちにしても、寿司と同じように、牛タンはファーストフードだと思う。

9 月 8 日、仙台に降り立つ。毎度のことながら、この街に来るとタイムスリップしてしまうのである。わずかに4年半しか住んでいないにも関わらず、9年住んだ大阪よりも印象深いのである。たぶん、神戸と大阪は近すぎて、しばしば訪れるので大阪ではタイムスリップできないのだろう。ともかくも、街を歩けば何かしら蘇って来るのである。初任地ということで、失敗の数々もあって、なおさら印象が強いのかもしれない。とりわけ、音楽を趣味で習ったことは職場以外の知り合いを得た貴重な機会であった。もっとも、当時の知り合いで今も連絡が取れるのは、やはり物理学を専門とする人々のみなのである。音楽仲間の方は、みんな若かったので、その後、散り散りになってしまった。

9 月 7 日、関西空港、という書き出し3日目。今日の正午前に、ピーチが関空から飛び立った。そろそろか、と、レーダーを見ていると、ヘリコプターが関空や神戸空港の上を舞っている。どうして神戸空港?という不思議さもあるのだけれども、関西空港の機能を一部移転しようという、準備が始まっているのかもしれない。大阪空港へと向かう航空機も、普段とは異なるものが。便名が付いていない、フェリーフライトのような機影がレーダーに写っている。結構多いのである。関西空港の管制が落ちているの?と一瞬思ったけれども、それでは空港再開は無理。はて、大阪空港や、そこに就航している航空会社もまた、密かに何かを準備をしているのだろうか?ともかくも、関係者の9月中の休暇は吹っ飛んだのだろう。

9 月 6 日、関西空港の橋にタンカーがぶつかって、という光景を目の当たりにして、まず真っ先に感じたのが、工学的安全率というもの。橋桁が動いたのは、波に揉まれるタンカーの浮力によるもので、そのまま持ち上げた状態でズレただけ。橋桁の道路部分はだいぶん削れてしまったけれども、桁の箱の部分はまだまだ残っていて、折れる気配が全くない。速度制限・重量制限さえ適切に行えば、今の曲がった橋桁を、ちょっとズラすだけで応急措置としては十分なように見える。その後で、必要な補強を行うというのが、阪神大震災の時に倒れた橋桁の修理方法であった。結構、そのままの状態の場所も多くて、高架の道路や線路が上下に波打ったままの場所が神戸には沢山ある。そんな事をぼーっと考えながら、今朝は健康診断であった。

9 月 5 日、関西空港と神戸を結ぶ船、最初はジェットフォイルの K-Jet であった。ポートアイランドの南端から出港して一路南へ。独特の、波を全く感じさせない走りで快適な航海であったけれども、採算が取れない上に、浮遊物に衝突して沈没しかけたこともあって撤退。神戸空港が完成して、今度は海上アクセスの名前で再開。ええと、ベイシャトルの名前を使い始めたのは、いつ頃だったっけ?再開後は、双胴?の高速船で運行。波が高いと、それなりに船らしいアップダウンを感じる走り。どちらかというとモーターボートのお化けだ。ともかくも、神戸空港と関西空港は、一体のものなのである、そう言える日が近いのかもしれない。

9 月 4 日、台風が接近して、海辺の我が家から周囲を眺めることしばし、尋常ならざる状況に目を奪われる。水がやって来るというのが率直な表現だろう。土を含んだ濁り水ではないことが、災難の中でも多少はマシであった、と、言えなくもない。ともかく、嵐が去った後は、塩気らしき臭いを感じつつ排水することに腐心する。もう少しの所で、浸水と表現される状況になるところであった。これだけの嵐がやって来ても、被害が点々としていて、線や面ではないというのは、予め台風がやって来る予測がついていたからだろう。江戸時代だったら、記録に残る大災害になっていたはずだ ... と思うのは、現代人の江戸時代への偏見か?と、書いてみてから思った。

9 月 3 日、昨年の台風で、某所に地植えしてある木が傾いてしまったので、手の届く高さでぶった切った。根が再び深く張るのを待って、大きく育てようかと。が、今年、気がついた時には既に元の大きさに戻ってしまっていたのである。野生の木の恐ろしい生命力である。が、押してみると根元はまだまだ怪しい。今年も、オフシーズンに枝を切らなければならない。また、急な剪定の後に生えて来た枝は、互いにもつれるように、妙な交差をしつつ伸びている。よーく見極めて、残すものを残さなければならない。先の台風で、結構枝が折れていたけれども、また台風が近づいて来た。某所はともかくとして、そこかしこの桜の木は大丈夫だろうか?

9 月 2 日、働き始めた頃にスイスで過ごす機会を得て、バスが全てオートマチックであることに感激したものだ。あ、何のショックもなく発信するやん、という感覚。今は路線バスにも AT 車がどんどん増えて、それに慣れてしまっているので、地方でマニュアル車のバスに乗ると、かえって物珍しくて楽しいことが多い。あの長いシフトレバーも、見た目が懐かしいものだ。要するに稀なるものを目にすれば、非日常が楽しめるというこなのだろう。今日は路線バスに乗って、海辺の我が家から、少し離れた場所まで小旅行。用を済ませて、また海辺まで、今度は下り坂のエンジンブレーキを、しばし楽しみつつ。

9 月 1 日、簡単にダシが取れるパックという、まあまあ便利なものがある。まあまあ便利というのは、ダシっぽい香りの量に比べて塩が濃いので、気をつけて使わないと料理の味を崩してしまうから。これは、成分表示を見ても良くわかる。最も多いのが食塩で、次が「味付けした鰹節」となっているような場合が多い。ここに、成分表示というものの限界を見てしまうのだけれども、まあ表示はどうでも良くて、最終的には味が問題となる。ダシのパックを調味した上で、麺類の汁に使えるかどうか、その辺りが一番のポイントだろう。えー、実は、フライ麺を混ぜてしまうと、元がどうでも、適当に説得力のある味になってしまうのだ。油というものの恐ろしさよ。

7 月と 8 月の1行日記