← 9 月と 10 月の1行日記
8 月31日、瓶詰めは、フタを開けたら、サッサと消費しなければならない。胞子が入って、どんどん細菌が増えて行くからだ。このように、空気中に胞子が漂えるのは、微粒子になれば空気抵抗が重力に対して卓越するからである。さて、高い所に登ると、気圧がどんどん低くなる。何となく、成層圏まで胞子が飛んで行くというのは大変なように思ってしまうのだけれども、実際にはウヨウヨしている。ここに、理想気体の粘性係数は圧力によらないという、ちょっと直感に外れる事実が噛んでいる。恐るべきことに、国際宇宙ステーションほどの高さに至っても、まだ生物由来のゴミを集めることが可能なのだそうな。頭上には不思議なことが沢山あるものだ。
8 月30日、タイピングの練習方法、昔々はどうだったかと言うと、タイプ教本を買ってタイプライターの側に置き、それぞれの行に目を通して、単調に、粒を揃えて、ひたすらタイピングして行くのであった。単語を打ち間違えたら、それだけを一行打つ。間違えた行があったら、それをもう一回打つ、ページを丸々間違えずに打てれば、そのページはクリアしたことにして、次のページへと進む。タイプ教本は、ごくごく薄いものであった。大切なのは、目を落とすのが原稿であって、ディスプレイではないという点。これはタイプだから可能である事で、ワープロだと、そう上手くは行かない。あれこれと訓練したものだけれども、結局は手首をベターっと机に置いて、文章を入力するようになった。キーボードが、こんなに薄くなると、誰が想像しただろうか?SF映画では、確かに机にキーボードが浮かぶような演出もあったなーと、思い出しはするのだけれども。
8 月29日、思い込みは怖いもので、去年は秋から行った、とある講義が今年もあるものと「思い込んで」カレンダーに丸印を付けてあったのだけれども、実は今年は担当ではないのである、という事実に「気付かされた」のであった。この事実は、正月頃にはちゃんと把握していたハズなのだけれども、いつしか忘れてしまったということだ。物事は、決まった時に、サッサとカレンダーに書き込んでおかないとイケナイ。記憶に頼ると、ロクでもない事になる、という認識を新たにした。ちなみに、今回は「無いハズの仕事を有ると思っていた」事例なので、その逆よりはマシなのであるけれども、気づかないまま当日を迎えていたらと思うと、ゾッとする事には変わりない。まあ、端末叩いたら、どのみち気づいていただろうけれども。
8 月28日、瓶に貼ってあるラベルを剥がすという作業は、ゆっくりと行うと瓶に何も残さないようにできる。この時、何が起きているのかをよーく観察すると、伸ばされた高分子がちぎれないように力を伝えつつ、瓶の上から離れて行く状況が観察できる。その現場は「白く」見える。何本もの柱が立っているようでもあるし、幕が曲がりくねっているようでもある。顕微鏡でも持って来れば、何がどうなっているのか、もう少し明確にわかるのだろう。どうして、こんな風になるの?というのは、とても不思議。高分子の心知らず、と言った所だろうか。瓶だと上手く剥がれるのに、ある種のプラスチックだと剥がれずに残ってしまう。系統立てて考えるには、難儀な現象だと、ふと思った。
8 月27日、電気陰性度という、何となく知っている用語の定義がどうなっているのか?と思って検索すると、実に混沌としていて、物理屋的には「直感的な指標」としか表現しようがないのであった。イオン化エネルギーとか、電子親和力の方は定義がはっきりしていて、わかりやすい。この辺りが、物理学と化学の興味の違いなのだろうと思う。化学屋さんにとっては、目の前にある現象を理解し、応用する事が大切であるのだと推察している。電気陰性度という指標が、これを助けるものなのだろう。物理屋が化学に疎いのは、興味の問題のみならず、個々の問題に傾注してしまって、全体を「ざっくり」理解する「例外だらけの法則」に至らないからなのだろうと思う。
8 月26日、静電気を習うときに登場するクーロンの法則、このクーロンって何だ?と、ふと思った。Coulomb と、最後に b が付く綴りが、何かを語っているような気がしたのだ。叩いて調べると、Columbus と同じ名前。コロンブスとクーロン、まあウィルヘルムとギヨーム、カルロスとチャールズよりは近いか。では Columbus は?というとギリシア語のコルンボス、海に潜るダイバーの意味から来ているそうな。Columbus はラテン語の主格で、目的語にあたる対格は Columbo。俗ラテン語は、西の方では対格を名詞の綴りとして固定させたので、この流れに沿うならば、かのコロンブスはコロンボと呼ぶことになるし、ポルトガル語やイタリア語では Colombo だ。こういう混沌の中で、日本で慣れ親しまれているのがコロンブスというのは、興味深いことだ。
8 月25日、昔々、国際会議に呼ばれた時は、一瞬「えっ?」と思った。いわゆる「この私が?」という、一種の疑問のような感情を持った訳である。いつも、研究会などで基調講演している先生方に混じって、駆け出しの自分に何ができるのだろうか?と、そんな疑問と言っても良いだろうか。さて、時は巡り、どちらかというと、会議を運営する立場が目立って来た今日この頃、段々とわかって来たのが「出た杭は引っこ抜いて集めろ」ということ。特に若い方々。そうしないと、毎度毎度、同じような面々で、どっかで聞いたような公演が並ぶ「定型」国際会議が延々と続く閉塞した運営への道が待ち受けているのだ。
8 月24日、銀杏の葉がしおれていた。昨夜、雨が過ぎた後の強風でカラカラになってしまった模様。地面が濡れていても、水の吸い上げが間に合わないこともあるのだろうか。大学にやって来ると、何だか窓が塩っぽい。神戸港が高潮でエラい事になっていた頃に、海から塩水が飛沫になって飛んで来たのかもしれない。山に塩害が及ぶと、紅葉の季節を前に枯れ木の山となってしまう。それも、厄介な事に落ち葉にならずに、枯葉が木にまとわり付いたまま冬を迎える。何年か前に、そんな秋の山があったなーと思い出しつつ、今年がそうでない事を祈るだけ祈っておこう。台風一過、夜のレーダー追跡で、眠い眠い。
8 月23日、台風が近づいている。一足先に、朝鮮半島へ向かった台風の、現地レポートを見ることが出来る。現代はそんな時代。これが大昔だと、何だか雲行きが怪しくなって、暴風雨が突然襲って来る一大事となり、前もっての対策は当然なく、大きな被害が生じる事態となったのだろう。こう言う、大きなスケールの天気は、けっこう前から予測がつく。一方で、夕立やスコールのような、局所的かつ短時間の現象は、今の所、レーダーをずーっと見張って「現況」から推測して避けるしかない。この二つの事象に、大きな差があるかどうかを物理的に議論すると、実は大差ないのかもしれない。現象に特徴的な時間スケールに対して、その何倍前から予測がつくか?という事であるので。
8 月22日、ずーっと昔の記憶の糸を手繰っていると、色々と思い出して来るものだと思った。いつも空の上から自分を眺めている不思議なバルーンの記憶が蘇って、ハテあれは何?夜空に浮かぶカラーの巨大な目ん玉。... さすが検索の時代、一発でヒットした。大阪万博のリコー館であった。万博の記憶は切れ切れで、空間の把握が全くないので、太陽の塔とアメリカ館の位置関係も全く記憶にない。ミニスカートのコンパニオンも居たそうだけれども、覚えて居ないのは興味関心がなかったのだから仕方ない。東芝IHI館の外観はバッチリ覚えているのに、中身は記憶になし。月の石がどうでも良い代物であったことは、キッチリ覚えている。でもやっぱり、リコー館の目玉なんだよなー、記憶に鮮明なのは。
8 月21日、Tensor Network の応用を眺めていて、Matrix Product State (MPS) の応用範囲の広さに改めて目を見張るのであった。この桃源郷を離れると、いきなりイバラの道が広がるのである。Tree Tensor Network (TTN) は MPS の延長線上にあるはずなのだけれど、それすら、積極的に用いようという応用例が少ないのである。これは、恐らく、木構造を自動的に最適化するというテクニカルな部分で、まだ改良の余地があるからだろう。その先、Tensor Network Renormalization (TNR) になると、もはやイジング模型しかない、という状況である。思い出してみると、Density Matrix Renormalization Group (DMRG) にも、人々が取り入れて行く経緯は、非常にゆっくりであった。
8 月20日、言語は厄介なもので、因果関係があってもなくても、記述の前後関係やら、ちょっとした言葉遣いの片隅から、受け手側に因果関係を送り届けてしまうことがある。物理学の説明で、このようなものを良く目にする。例えば、コイルを貫く磁束が増加した「から」起電力が生じる、と書いてあったとして、これが因果関係か?と問われると、何とも言えないのである。紛れのない表現は枯れていて「磁束の変化と起電力は比例する」でおしまい。どっちが先というものでもない。力学で、作用に対して反作用が生まれる、なんて書いてあるのを目にすると、また余計な突っ込みを入れたくなるのである。面倒な職業だ。
8 月19日、研究室のガラス窓を見上げると、何やら可愛い影が。ヤモリである。日が暮れると鳥が来なくなるので、ヤモリ天国となる。窓に飛んで来た昆虫を品定めして、パクリと食べるらしい。もっとも、その現場を目にしたことはない。タマに食べたら満足なのだろうか。昼間はどうかというと、思わぬ時にヤモリに遭遇する。窓を開けたら、サッシの溝からヤモリが走り出たり、ちょっと何かを持ち上げた時に慌てるヤモリを見かけたり。ともかく明るい場所では身の危険を感じる習性のようだ。人類もこんなふうに、明るい場所が嫌いな種であれば、もっとノンビリ暮らせたのではないかと、ふと思うことがある。
8 月18日、デパ地下デリカの定番は、サラダである。余談ながら、サラダに対するイメージは、地域や時代で大きく異なるものだと思う。野菜だけ出て来て、後は酢と油と塩と胡椒を好きなようにかけて下さいという、素朴に提供されるサラダから、美しく盛り付けた前菜としてのサラダまで、千差万別だ。さて、デパ地下のサラダは、グラム数を指定して買い求めることになる。その時、キッチリとお願いしたグラム数になるまで、入れたり戻したり ... という場面はあまり見たくないのである。というわけで、最初に盛ってもらった時に、計量が多少多くても「あ、それでいいです」とお願いすることにしている。世の中、もっとおおらかになれば、人件費も少なくて済むはずなのだが。
8 月17日、ミクロの決死園なる映画が放映されてから、既に半世紀が過ぎた。まだ血管の中をカプセルで自由に動き回る技術は開発されていない。その理由は単純で、血管の中の血流が早すぎること。ついでに、一旦故障したら障害物となって漂い、即座にどこかに詰まってしまう困り物となる。映画の世界では、この点が曖昧になっていて、エラくゆっくりと血管の中を進んで行く。まあ映画なのだから、それくらいの脚色がないと映像として成立しないのは当たり前か。口から飲んで、排泄するまでの間を観察するカプセカメラは大活躍なのだそうな。ただ、普通に飲み食いしながら使えないのが、チト難点。この先、どんな技術が医療に役立って行くのか、興味深いものだ。
8 月16日、糖分の入った清涼飲料水のフタを開けて、また閉めて放置するとフタが飛ぶとか、爆発の危険があるのだそうな。最初から入っている炭酸の圧力だけでは、爆発しないように設計してあっても、発酵が起こって二次的に生じた炭酸が加わると、耐えられなくなるらしい。古くは、シャンパンの製造の過程で、瓶の中にわずかに糖分を入れてからコルクを打つと、少しだけ発酵して炭酸の入ったワインとなる、そんな工夫があったとか。製造過程で爆発する事もあったというのは、当然のことで、どれだけの糖分を加えるべきかの定量評価は、化学の進歩を待つ必要があった。なお、このような発酵を目的として清涼飲料水を所持すると、所持しているだけで酒税法違反となる可能性がある。法律の世界は不思議なものだ。
8 月15日、台風がやって来たというよりも、台風が湿気を運んで来た、という感じの雨。この前の豪雨の時に比べると、主体となる空気の流れは西に偏っているので、神戸あたりで大雨が降り続くということは無さそうに見える。今の所は。天気予報によれば、この後、ジェット気流が大きく蛇行して、それに対応するように前線が南下して来るのだそうな。秋風がやって来るのだろうかと、密かに期待しつつ、夏の陽気はまだまだ続いて欲しいとも感じる。何れにしても、季節の移ろいには逆らえない。衛星写真を見ると、沖縄の辺りに大きな雲の塊が見える。アメダスの風速結構大きいなーと思っていたら、サッサと台風の印が付いた。大昔なら、見過ごされていた「隠れ台風」だったかもしれない。
8 月14日、栗林公園を訪れる、王道のコースは、JR 高松駅からタクシーに乗って現場まで。もっとお手軽にはバスに乗るのも良い。系統さえ頭に入って入れば、結構頻繁につかまえることができる。健脚であれば、中央通りをずーっと南へと歩くのも悪くはない。但し、真夏は別。少しだけ歩いてコトデンを利用するという手もある。栗林公園駅を降りた目の前に栗林公園がない事に要注意。もう一つ、JR 栗林公園駅か、JR 栗林公園北口駅を利用する方法もある。特に、北口駅は無人駅で、たどり着くのは栗林公園の北口、というか裏口。あまり人の気配がない穴場で、ひっそりしているのが良い。駅の周囲の水路も、この辺りは美しく風情がある。山の空気で、夏の午後はちょっとだけ涼しい。
8 月13日、たまには室内の整理を、と、収納などに目を向けたのが運の尽きであった。昔は、これもあれも使うかもしれないと、色々なものをどんどん収納に放り込んでおいたのだけれども、時間が経過してみると、どれもこれも、使い物にならないガラクタと化しているのであった。いや、元々、いつか何かに使えるかもしれないと考えた時点でアウトだったわけだ。そもそも、物に執着することがゴミを生むのだ、と、理解しつつも、いまだに毎日、ゴミを増やし続けているのかもしれない。物だけではない。知識に執着することも、実は似たようなものかもしれない、と思う今日この頃だ。
8 月12日、人間の目をカメラに例えると ... という説明をよく目にする。昔は網膜をフィルムに例えたけれども、今ではセンサーだ。ではレンズは?「水晶体がレンズの役割を果たしている」という説明は、間違いではないのだけれども、それだけで終わってしまうと誤解を生じる。水の屈折率が 1.33 くらい、水晶体は 1.41 くらいで、目の中で水晶体が果たす役割は集光というよりも、ピント合わせと収差の補正に主眼が置かれたものなのだ。空気の屈折率は 1.00 なので、実のところ、角膜表面が凸レンズとして、一番強い効果を持っている。陸に上がった脊椎動物たちも似たり寄ったりだ。魚の眼の中に丸い水晶体が入っているのは、角膜による屈折が期待できないから。今度、鯛の目玉に遭遇したら、よーく眺めておこう。
8 月11日、あれ、今日はバスが旗を立てて走っている。ということは、今日は祭日で、ええと、でも、8月に祭日は無かったんじゃ?と、戸惑ってしまう。授業期間から外れた祭日というのは、なかなかピンと来ないものだ。というわけで、祭日だろうが土曜日だろうが関係なく、今日もボチボチと研究のような雑務のような、判然としない1日を普段通り過ごすのである。こういう ON と OFF がハッキリしないのは日本人の悪い慣習だと言われそうだけれども、知り合いの研究者の中にも、こんなタイプは幾らでも居るし、そうでない人も居る。要するに労働の慣習を国別で語ることは、少なくともアカデミックな世界では無意味なのである。(慣習と習慣を英語で、どう訳し分けるか?と、書いていて思った。)
8 月10日、今日は隣の学部でオープンキャンパスが開催された。学内が、いつもとは違う雰囲気になったのは昨日と同じ。一見さんばかりなので、阪急六甲からゾロゾロと登る人々の足下を見ると、「登山」に向いていない靴を履いている人が、普段より目立った。ハイヒールはアカンやろう?!と一般に思われるフシがあるのだけれども、足に合っている限り登る分には問題ない。下る時に地獄を見るだけだ。(進行方向に横向き、あるいは半分後ろ向きで丘を下る人を見たことがある。)同じようにヒールが高い靴でも、足首がグラついたり倒れたりしていると、負荷が大きい。あ、要するに靴ではなくて歩き方の問題か、と、ここまで書いて気づいたのであった。
8 月 9 日、オープンキャンパスの1日。高校生に大学の研究活動を見てもらおうという企画。それぞれの学部学科で、実際にどのような教育・研究が行われているのか、具体的に知ってもらうのが、主な目的だ。神戸大学への進学を考えている方には、もちろん見てもらいたいものだし、そうでなくても「理学部ってどんな所かな?」という事を、おおよそ把握してもらうには、どこの大学の理学部を志望する方にとっても、参考になると思う。ただ、「プラズマ核融合が見たい」とか「スーパーコンピューターが見て見たい」など、ここに無いものは見せようがないので、そういうデカい物は、それぞれの施設の公開日に見に行くことで、補完していただけると有難い。液体ヘリウムはというと、無いことはないのだけれども、あれを見せる機器を準備するのは大変なので、液体窒素を見て想像してもらえれば、と思う。
8 月 8 日、前期の講義が終わる。学生達は帰省するのだろうか。昔、電車に乗って、そして「船に乗って」故郷に帰った事を、ちと思い出す。連絡船は、出航が特に長かったように記憶している。岸壁からゆっくり離れて、港内でグルリと方向転換して ... 大きい船は、これがなかなかノンビリしている ... ようやく灯台を過ぎるまでに 10 分弱くらいかかっただろうか。殆どの船が瀬戸内海を東西に進む所を、横切ることになるので、日によって、時間によって、けっこう通過する場所が異なる。眼下の瀬戸内海にはミズクラゲがよく浮かんでいた。船について来るのは、お決まりのカモメ。そうこうしている内に対岸に到着。そこで、ダッシュして「本来は接続されていない列車」に飛び乗るのが、いつもの事であった。
8 月 7 日、AI の2文字がつく製品が、40年も前から販売されている。光学機器メーカーの Nikon が取り扱っている、AI Nikkor というシリーズのカメラレンズだ。Automatic Maximum Aperture Indexing を略して AI なのだそうな。機能は、絞りを開放した時のレンズの f 値を、ボディーに伝えるというもの。こう言う、地道なステップを経て、今日の「何でもやってくれる」カメラにたどり着いたのだろう。ニコンの AI は、これからもずーっと、その2文字を使い続けるのだろう。(一般的に、企業が永遠に続くものかどうかは別として。)さて、巷で騒がれている方の AI と言う言葉、この2文字自体は、いつ頃まで使われるのだろうか?なにぶん、流行り廃れの速い情報の分野だけに、先は読めないものだ。
8 月 6 日、波に乗って先頭に立つと言うのは、なかなかしんどい事だと思う。研究職をやっていると、時として、そう言う立ち位置に恵まれることがある。そのまま先頭を走ろうとしても、なかなか上手く行くものではない。一度、見つかってしまったことは公知の事実となって、誰でも後を追えるからだ。従って、あれこれと画策してまた人々を驚かせようとするか、あるいは関係者を増やして、その中から次の一番手を育てて行くというマネージメントに活路を見つけるか等、色々とジタバタすることになる場合が多い。時々、そういう欲のない人も居て、淡々と職人芸を披露してくれる。科学もまた人それぞれ、個性があるものだと思う。
8 月 5 日、音響のプロの仕事はなかなか素晴らしいもので、スピーカーから出る音であっても、ステージ上の演奏者から出ているかのように、観客に届けるよう調整を怠らない。視覚的な効果も大きいので、照明と合わせての演出となるけれども、よく練られた音響の下では、目を閉じていても、ステージから音が聞こえて来る。スピーカーからではないのだ。それを言うとステレオも映画館も同じじゃないか?! と言えて、結局は音の定位の問題に行き着くのだけれども、多分に主観的なもので、自動的に設定することは ... 今の時点では ... 一般的ではない。聞くところによると AI スピーカーは、その辺りも手伝ってくれるらしい。
8 月 4 日、お化け屋敷なるものが神戸のド真ん中にやって来たので、鑑賞しに行った。あれは、基本的には全く怖くないものなので、怖いぞ怖いぞという演出や、役者さんの演技を楽しみに行くのである。従って、怖いよーという演技をしながらの道行きとなる。そして、期待通り役者さんが出て来ると、怖がりながら色々と鑑賞する。なかなか渾身の演技で、お客さんが来る度に、あれを一日中やったら、ヘトヘトになるよなー、と思った。照明にブラックライトが多用されるのも、非日常性を演出していて、なかなか良い。身につけている物の何が蛍光物質かが、よくわかる。こんな所で、物理を考えなくても良いではないか、と、思いつつ。
8 月 3 日、キュウリの蛇腹切り、夏になると毎日のように食卓に登場となる。包丁が良く研げていると、とても楽に蛇腹の切れ目を入れることができる。キュウリを切るだけなら、包丁の切れが鈍くなることは、あまりない。まな板に向かって、トントンと包丁の音を立てるような事をすると、切れ味が落ちて来て、段々と仕上がりが悪くなる。家庭で1週間使うくらいならば、週末に軽く天然砥石を当てる程度で十分に切れ味が復活する。研いだ直後の切れ味は、どんな刃物でも素晴らしいものだ。良い刃物は、その状態が長続きする。というわけで、日々お世話になっているのは青紙スーパー鋼の手打ち刃物だ。性能が良ければ、手打ちでもプレスでも何でも良いのだけれども、量産に先駆けてパイオニア達が手打ちで商品を出して来る関係で、手打ちを選ぶことになるのだ。
8 月 2 日、小学校、中学校、大学校なら、ご飯の盛りと同じ、小・中・大で納まりが良い。どうして、高校だけ「高」なのか、というのはちと置いておいて、歴史を振り返ると 1886 年に小学校令、中学校令、帝国大学令というのが制定されて、この時点では小・中・大であった。大学だけ、大学令としなかったのは何故か、うーん、その頃の人々が、あれこれと考えて決めたのだろう。高等学校令が出たのが 1894 年。この時点で、文字だけは小・中・高・大と、現在のものが出揃った。ただ、この高等学校というのは、今の大学の教養課程のようなもので、教育のシステムもヨーロッパのような複線型だったので、現在の小・中・高・大のトコロテン式とは、エラく状況が違う。と、いうわけで、高校野球の季節となった。(←パラノイア的思考の跳躍がある文章を書く1日。)
8 月 1 日、幼稚園という言葉、よくよく考えると不思議な言葉なのである。保育園の方は、保育を目的とすることが文字に現れていて、日本語を知らない人にも説明し易い。幼稚園はというと、幼稚な者を囲った場所という雰囲気の言葉に見えて、これでいいんかいな?と思い始めると、微妙なのである。いつ頃から、この「幼稚」の2文字が、教育機関に用いられ始めたのだろうか?検索してみると、明治5年の学制に幼稚小学なる言葉が登場し、明治9年に開園した東京女子師範附属幼稚園が「幼稚園」の初出とのこと。142 年も前のことなのであった。... 大学が、大学なのかい?という点については、どうぞ、突っ込まないでおいて下さい。
7 月31日、何らかの確率的な過程の下では、量子力学と同じようにエンタングルメントを導入することができる。それがどんな意味を持つかは置いておくとして。ということは、市場の指標にも、エンタングルメントがあるわけだ。よしよし、これは研究の新しい方向だと、意気込んで検索すると Quantum economics というキーワードに行き当たる。そりゃそうだよなー、そもそもブラック・ショールズ方程式なんてのも、数学的な部分は経路積分(あるいは伊藤の積分)そのものだモンな。経済学としては、それが何らかの経済現象を良く説明するか、良い指標になっているか、使い物になるか、という点が重要視されるので、数学のコアな部分だけに着目するのは見当違いなのかもしれない。
7 月30日、夏休みには、飛行機で一人旅をする子供をよく見かける。子供も、もちろん個性が色々で、じっと畏まっている子供も居れば、客室乗務員のお姉さんの目を盗んでやりたい放題の子供も居る。それぞれに、傍目には面白いものだ。この「一人旅にサポート人員をつけることが可能である」という点が、他の乗り物と飛行機の大きな違いなのだろうと、見ていて思った。もし酸素マスクが降りて来たら、誰が付けてあげるんだろうか?という風なシミュレーションも、やった上でのサービスなのだろう。うむ、そうか、どこかの大学 (?!) の大学院にも「ジュニア大学院生」なんて、できそうな気がして来たぞ?!
7 月29日、昨日の午後は延々と昼寝して、十分に睡眠を取ったかと思いきや、今日は朝寝坊。そろそろ、前期の講義やら何やらの疲れが溜まって来ているのかも知れない。その続きか、午前中はあまり考えがまとまらない状態のまま、作業に入る。昼食を軽く採ってからは、まあまあ調子が良くなり、夕方になると、そこそこ良いアイデアも浮かぶようになる。波があるのは、まあ昔からのことだ。大学生の頃は、色々な理由で不調になり、一日中寝ていたものだ。その中で、眠れば眠るほど体調が悪くなるという悪しき記憶が .... 下宿の管理人室で猫を何匹も飼っていて、毎晩のようにノミが大量に畳の下から攻めて来るので、室内に防虫剤を大量に蒔いていたら、それが人間にも危害を与えたという、トホホな事例。もう数日、気づかなかったら入院していたかも知れない。防虫剤は用法をよく読んでから正しく使うことが肝要だ。
7 月28日、台風が寒冷渦と出会う、確か去年か一昨年にも一度あったイベントだ。ただ、その時は台風と寒冷渦のサイズが同じくらいで、見事に引き合って合体、その過程で岩手県に台風が上陸するという珍しい記録を生んだ。今回は、台風が小さく、寒冷渦が大きかったので、台風が渦のヘリを回るコースを取ることになった。と、書くのは簡単だけれども、渦がひとつだけであっても、どちらに流れるかは定かでなく、それが二つもあるのだから、長時間に渡って高い信頼度で追える現象ではない。それが、まあまあ追えるようになって来たのは、地道なシミュレーション技術の確立、大規模計算を可能とした計算機と、リモートセンシングなどを使った観測データの多様化のおかげだろう。天気予報の分野は、今が予算申請の旬の時期なのかも知れない。
7 月27日、微分という数学の概念を「使う」ことになった時、コンピューターで扱える実数が、有限の桁数に限られているという制限が見えて来る。微小量ΔXというものが、どれくらいの大きさであるべきか?という、数値計算の世界ではよく知られた問題が生じるのである。これに対処するには、まず計算機の実数表現について知り、桁落ち誤差の発生などの基本的な所を押さえておいて、その後、実際にΔXを様々なの値にしてみて、差分の計算を進め、結果について検討する必要がある。絶対的な正解というものは得難いものだけれども、「マズい方法を検出する」ことは可能だ。なるべく、得られた導関数の値がΔXに関係ないように、ΔXを選ぶ。これがたぶん、おおよその場合に通用する手続きだろう。差分の取り方にも注意が必要だ。
7 月26日、台風がやって来るらしい。気象庁のシミュレーション結果も、米軍の予想も、今回はおおよそ一致している。観測点のデータについては同じものを共有するので、似たようなシミュレーション結果が出ても、不思議なことではないのだけれども、基礎方程式のパラメター設定やら、境界条件やら、細かな違いがある時点で大きな差異となって現れるのが、非線形現象というものだから、気流が緩い場所での予想はアテにならないことも多いのだ。夏の天気だと、上空の寒冷渦がどっちに流れるか?というのは、力学的にピンと来ない事が多い。今回は南下して、そのヘリを進むように台風が通り過ぎるらしい。ここしばらく、低層から高層まで、天気図から目が離せない。
7 月25日、不完全気体の状態方程式というと、ファンデルワールス方程式が直ちに思い浮かぶものだけれども、よくよく考えてみると状態方程式というものは気体「それぞれ」にあるものだから、実は気体の種類だけ状態方程式が存在することになる。それらから、エッセンスだけを近似的に抽出したものが、ファンデルワールス方程式の立ち位置である。さて、この方程式が表す状態には不安定なものがあり、その領域に差し掛かった時には2相分離状態で、等温であれば圧力が体積に関係なくなる。どこで、この液化が起きるかを、与えるも考え方が Maxwell construction である。この、Maxwell construction で仮定している「不安定状態を経る準静的過程」を、実験で実現するには、どんな気体で、どのような実験をすると良いのか、ふと、考えた。
7 月24日、頭の中には、常に「そうめん」があるのだけれども、イザ、そうめんを茹でようと思う時に限って、パンが転がっていたり、ご飯が釜に入っていたりする。あるいは、おかずを食べている内に満腹になって、ついに「そうめん」に到達しないなど。和食のコースなど、よくよく思い出してみると、お店で出てくるものは、どれも小さな量である。いきなり、ドカッと食べてしまうと、その時点で食事が終わってしまうからだ。最後に、ご飯や麺など「締め」を食べても、まだ「もう少し食べたい」と思うくらいで、丁度なのである。満腹になって動けなくなったら、後味の悪さが出てしまうのである。というわけで、禁断の「きいなり素麺」を、昼食の技として繰り出すかどうか、今後も思案なのである。
7 月23日、飛行機の窓の光学精度は、あまり高くない。人間の小さな瞳で見て、まあまあ外が見えれば良いという程度の設計になっているらしく、でっかいカメラレンズとの相性が良くない。窓の場所によって、ゆがんでいる所とマシな所があるので、写真を撮るならば、まずその違いから調べて行く必要がある。とてもカッコ悪いというか、不審な作業で、窓に目を近づけて、少しずつ位置を変えながらくまなく見て行くのである。そして、ようやく「ここ」という箇所が見つかったら、そこからレンズを被写体に向けるわけなのだけれども、これがまた骨の折れる作業なのである。飛行機は滑走しているか、あるいは飛んでいるわけで、被写体は常に後ろへと流れて行く。それを追いかけて、カメラを「窓の特定の場所」に構えるのは、アホウとしか言いようのない姿である。写真良ければ全て良し ... 当たりが悪ければ全てが徒労となる ...
7 月22日、朝の東京を歩く。朝の ... 既に例えようのないほど暑く、目的地に到達した時には汗でぐっちゃぐっちゃになっていた。昼間は涼しい場所で過ごし、夕方にまた歩いて駅に戻ると、気温は更に高く、これが夕暮れなのか?という雰囲気。寝ぐらに帰り着いた時には、即刻シャワーを浴びたのであった。神戸もさぞ暑かっただろう、と、アメダスの記録を見ると、神戸は3度以上気温が低い状態であった。ただし、神戸の気温は海辺で計っているので、神戸大学のある山側にそのまま、その値を適用すると「事実誤認」となる可能性がある。結構、厳しい暑さが待っているのが、神戸の山麓なのである。出先も酷暑、帰る先も酷暑、どこへ行っても逃れられないものが、日本の夏である。
7 月21日、地面がデコボコしている所でスーツケースを転がすのは大変である。お年を召された方が、お困りのようなので、少し押すのを手伝ったら、「あ、ありがとう、Thank you」と。え、日本語が通じないと思われたのであろうか。しばらくして、今度はエレベーターの中で、先に降りる方のためにドアを押さえていたら、これまた「Thank you」であった。その人は間違いなく日本人なのであるが。外国人に見えたのかなー、それとも現代では、道行く人が何人か見分けがつかないというコスモポリタンな (?) 状況が普通だから、とりあえず英語で挨拶すれば、どんなシチュエーションでも通じるということなのかなー、そろそろ日本語が危ういぞ、という気もするのである。
7 月20日、最近のお気に入りが、モロヘイヤのスープ。簡単に作れる割には、何となく沢山野菜を食べた気になれる。そして何となく満足できる。当たり外れがある所も結構面白くて、硬い茎のものは細かく刻み、柔らかい茎のものはざっくりと。包丁の切れ味も確認できる。ただ、毎日のように買えるか?というと、結構、競争率が高くて、売り場にもう残っていない日も多い。モロヘイヤ争奪戦である。モロヘイヤだけでは塩味がないので、コンソメか何かを足す必要がある。塩でも醤油でも良いし、梅酢でもいい。今の時期、ダシパックなるものを頂戴する機会が多いので、台所に積み上がるダシを「消化」するには、持って来いのモロヘイヤなのである。なお、院生に作文指導する時には、こんな風に「モロヘイヤ」なる単語を連呼するような文章は幼稚だから工夫しなさい、と勧めている。ここは日記だから気にしないのだ。
7 月19日、試験の時期になると、学生が一時的に?キャンパスに戻って来る。当然、朝のバスも満員で、電車から降りてバスに乗ろうとしても、無駄である。下手にギューギュー詰めになってしまうと、様々な問題が生じかねないから、サッサと徒歩の「登山」に切り替える。この登山が、朝から結構暑かった。今の時期、登山し終えてから30分間くらいは何もする気力が湧いて来ないのである。けれども今日は幾つものミッションが連なっているので、時間を無駄にする訳には行かない。一つの事をこなしつつ、空いた時間で別の業務をチョコチョコとこなし、戻って来るという、事務処理を細かくこなし、そして山を降りて某所へ駆け込み、また夕方に登山。二度目の登山もまた、通勤帰りの人々の列を見てゾッとしたので、徒歩であった。
7 月18日、鍋に水を入れて沸騰させるまでにかかる時間と、沸騰し始めてから全ての水が蒸発してしまうまでの時間には、どれくらいの違いがあるだろうか?これは水の気化熱を調べてみれば良い。気化熱が ... と、話を続けようとすると危ない橋を渡ることになる。まず、高校の教科書には「蒸発熱」しか掲載されていない。液体として存在するものは温度にかかわらず蒸発し得るからだ。一方で、気化は沸点に達して液体から気体に変化することを指す用語らしく ... この辺りの専門家ではないので受け売りなんですが ... 圧力が定められていれば、気化熱は一意に決まる。じゃあ、最初に書いた「鍋から水が蒸発して」は「気化して」になるのか?というと、蒸発に気化も含まれるから、そのままで良いことになる。こういう、国語の問題は大変危うくて、医療現場で起きるミスというのも、多分、こんな所から起きるのではないだろうかと思った。
7 月17日、植物は光合成によって二酸化炭素と水から糖分を作りだす。その二酸化炭素の濃度を調べてみると、屋外だと 400 ppm、つまり 0.04 パーセント程度だ。とても薄い。こんな中から二酸化炭素を捕まえるのだから、風が吹くことが植物の育成に大切ということが、何となく理解できる。その 10 倍や 20 倍、1 パーセント程度までは人間が活動できる許容範囲。吐息と同じオーダーで、この濃度が大丈夫だからこそマウスツーマウスの人工呼吸が意味を持つ。もう一桁上がると、炭酸飲料を飲んだ後のゲップの中で暮らしているようになって、死亡フラグが立つのだそうな。ひょっとして、産業革命以来、植物は育ち易くなっているのだろうか?
7 月16日、カボチャを切る時だけ登場する包丁、というものが自宅にある。元々は鋼(かすみ)の万能包丁だったのだけれども、熱処理が悪かったのか、次第に刃がねじれて来て、修正して使う気にもなれなかったので、大きく研ぎ減らして薄い刃のナイフにしてしまったものだ。それでも素性の悪さは、如何ともしがたく、普通の料理には滅多に使わないのだけれども、刃が薄いという点でカボチャを割らずに切れてしまうので、段々とカボチャの時にしか登場しない包丁となった次第だ。カボチャを切ったら、サッサと拭いて、また収納。出番の少ないながらも、こうして余生を送る包丁である。今の時期のカボチャは柔らかいので、簡単にカットできて有難いものだ。
7 月15日、フラリと昼間のスーパーに行くと、半額の肉が転がっていた。賞味期限がその日限りのものが、刻々と半額になってゆく。半額シールを貼って行くのは、結構な手間だ、人件費に反映されていることだろう。きっと、そう遠くない将来に、この辺りは自動化されて行くのだろう。ポケモンみたいな技術が、活躍することになるのだろうか。牛肉は半額になっても、鶏肉よりも高価。ぼんやり、鶏よりも安い肉はできないものか?と考えてみたりもする。爬虫類はどうかなーと一瞬考えたけれども、鳥類ほどの筋肉を持つ爬虫類は見当たらない。両生類は言うまでもなくダメ。肉は鳥類か哺乳類なのかなー、やっぱり。そういう目で見ると、筋肉ばっかりの魚というものは、素晴らしい進化の結果なのだろうと思えて来る。
7 月14日、夕方から、高校の同窓会っぽい集まりに顔を出す。在学していた当時に、失敗していれば失敗するほど、語ることが色々と出て来て楽しいのであるから不思議なものである。大失敗というものは、この頃にいくつでもやらかすのである。修学旅行で買って来て部室に置いておいたワインが、いつの間にか空になってしまった謎とか、授業中に回覧板が回って来て面食らった話とか。とても書けないような話ばかりで、大笑いの連続であった。一次会から二次会への道中で、歩きながらの写真撮影にもチャレンジ。これは、下手をすると路上撮影許可取ってない件で大目玉を食らうので、目立たぬよう、邪魔にならぬよう、人の居ない瞬間に撮影。
7 月13日、半年よりも前にレフリーコメントを頂戴した論文の、最終的な手直しをして再投稿した。ここに来るまでに、結構な量の再計算を大量に行い、データの質はだいぶん良くなった。まだ少し、気になる部分がないわけではないのだけれども、これで reject になったら、それは仕方のないことなので、その場合には意気揚々と再投稿先を探すこととしよう。タイミング良く、力量のある助っ人が海外からやって来たことが大きい。彼が居なければ、もっと茨の道を歩むことになっていたであろう。さて、一つ蹴りだしたら、また一つ。「詰まって」いる論文は、まだまだあるのだ。この夏は、ちょっと忙しくなるかな。
7 月12日、大学を卒業したのはバブル真っ只中のことであったから、今では考えられないような事が色々とあった。とある有名な「就職支援会社」から電話がかかって来て、企業が集まって講演会するから、参加するだけで交通費と日当合わせて「ン万円出す」とか、就職活動している友達にはバンバン旅費も小遣いも出たし、そもそも就職活動にチョイと顔を出せば一発で内定が出たし、そのまま他社に取られないよう「合宿」と称して保養所で酒池肉林の毎日であったとか、あれや、これや。ただし、このようにスンナリと決まるのは大学に届いた求人に答えた場合であって、例えば当時はまだ花形であった客室乗務員などは、今よりも狭き門であったと記憶している。教授から「お前はこの会社」と割り振られて、そのまま就職なんて風習が残っていた所もあったかな。記憶が怪しいけど。企業の初任者研修の講師になるアルバイトなんてのもあった。ウィスキーの値段は、今から思うと馬鹿馬鹿しくなるほど高価であったけれども、それがドンドン売れたのだから、社会に余力があったなーと回顧するのである。
7 月11日、昔書いた講義ノートを開くと、明らかにおかしい部分がある ... そんな経験は何度でもあるものだ。気がつく度に修正を入れてあるのだけれども、それでも色々と間違いが潜んでいる。良くあるのが「書いたつもり」で書いてないという現象。対数 log が、書かれてあるはずの箇所に、なぜか抜けがあるのだ。この手のものは、ひょっとしたら見た瞬間に頭の中で補正されるから、log が書いてなくても、板書する時には自然と書いたのかもしれない。一番マズいのが、受講者が意味を汲み取る間もなく次々と、教員が数式を板書して、意味のわからないまま受講者が書き取っていた、その結果として誰も間違いに気づかないというパターン。これでは、講義を行う意味がないのである。今日もまた、そんな経験を積んでしまったのであった。
7 月10日、自信には裏打ちのあるものと、そうでないものがある。後者の代表格が「本が書けるはずだ」というもので、実際に書き始めてみないと何とも言えない作業であるにも関わらず、自分では書けると思い込んで、作業を始めるのである。小説にしても専門書にしても、要するに読者がまだ心の中に持っていない世界を、言葉(と絵図と数式)を使って構築して行くことになるので、どこかで「まだ概念を持ち得ない新たなもの」を唐突に持ち込む必要が生じる。理系の本なら、定義したら使って良いだろう、という突き放した書き方もアリはアリなのだけれども、それでは読者から突き放されてしまう。論文を書く時も基本は同じで、なるべく突き放さないように書かないと、読者代表の覆面レスラーから突き放されてしまうのである。
7 月 9 日、簡単な絵であっても、見た目がおかしくないように描くことは、案外難しい。講義で立方体を描くことが良くあるのだけれども、先に「立方体だ」と断っておかない限り、立方体に見えないものになってしまう。何だか奥行きが薄いとか、歪んでいるとか、辺の長さが等しくないとか、立体感がないとか、角度が直角に見えないとか。三角錐で底辺が正三角形というものも、なかなか難易度が高い。三角錐は三角錐だけれども、底面が直角三角形に見えるようなヘンテコな図になるのだ。円錐は円錐で底面の楕円がクセモノだし、球と X, Y, Z 軸という定番の「歪んだ図」も良く見かける。パッと見は良くても、線分などを追加して正しく図形を描いて行こうとすると、どこかで破綻するのだ。こういうのは、電子黒板で ... と長年言われ続けているような気もするのだけれども、投資と耐久性の関係で、まあ良くてプロジェクターによる投影が関の山。黒板ほど、安価で耐久性のあるものは、なかなか無いのである。
7 月 8 日、しばし雨の降らない場所に避難。気象情報を見るに、西日本でも、ようやく日が射して来たようだ。ここ何日か雨でロクに出歩いていないので、足が鈍っている。ちょっとした坂道を登るのにも、パワーが足りない。こういう時には、積極的に歩いてまず荷重を減らす。そうする内に、段々と筋肉や関節の可動範囲が広がって来て、快調に歩けるようになって来る。幸い、夏の暑さはまだ本番ではない。散歩を楽しんだ後は、頭を使う ... 使うんだろうか ... ともかくデスクワークのようなものに専念する。そしてまた、夕日というにはまだ高い太陽を眺めつつ、帰り道の散歩。神戸の散歩は坂道だらけだけれども、平地が主体の散歩も悪くはないものだと思った。
7 月 7 日、雨の神戸、七夕の行事は、ほとんど取り止めとなった。昨日の午後の大渋滞を思い出せば、仕方のないことだ。鉄道がほとんど止まってしまった時に、道路だけで輸送の需要を賄えるか?という問題は、阪神大震災の時からずーっと課題となっている。昨日、宅配便は集荷も配送もアウト、同じように営業して回る職業、流通業、そして末端の商売は完全に上がったりとなり、生協もまた例外なく営業を狙い撃ちされた。夜の間にアチコチで崩れたり水が出たりして、午前中の交通機関は「模様眺め」の雰囲気、ようやく午後になって、定時運行となって来た。さて、海辺の我が家から、少し散歩に出かけようかな ... いやいや、道路と側溝の境目が見えない箇所が残っている、危ないので早々に引き揚げる。
7 月 6 日、昨日はまだ「靴下」について考える余裕があったけれども、今日はもう、傘をさしていても一歩目からズブ濡れ、覚悟の素足スニーカー。地面に水を吸い込む余裕が全くなく、降った雨がそのまま川となって道路を流れ下る。JR の最寄り駅まで歩くだけで、膝から下はビショビショ。そう、日本は夏になったら南国なのであるから、ちゃんとそれに似合った服装でなければならない。昔の人は、げた履きだったのだろうか、それともワラジというサンダルだったのか。と、ブツブツと独り言を口にしながら歩いても、雨音にかき消されてしまう、そんな強い雨が降り続く内に駅に到着。気持ち悪い電車通勤、素足の姿も目立つ。阪急六甲からバス停の間、バスを降りてから先、同じような水との戯れを経て、職場に到着したのであった。
7 月 5 日、空梅雨ではないか?というのが、先週までの感触であった。そして、その、恐らく最後に、ドカッと降る。海辺のわが家でも、もう洪水になるのではないか?という雰囲気で山から水が流れ下っているし、川から流れる泥水で海もまた茶色に染まり、風情なし。やっとの思いで阪急六甲に辿り着いて、さてバス乗り場へ ... そこまで移動する、わずか 20 m くらいの間に、すでに足元がドロドロと化してしまう、凄い雨であった。ここまで苦労してやって来て、さあ仕事 ... あ、今日は授業が無いのね ... まあ世の中、そんなモンでしょう。ついでに、裏山が小さく崩れたという連絡も入って、いくつかの通路が通行止めとなった。崖が崩れなくても、木が倒れて来る気配は十分にある。君子危うきに近寄らず。
7 月 4 日、新潟で何が良かったか?まず、一番素晴らしかったのが、集中講義に耳を傾けてもらえたこと。だいたい、集中講義みたいに長い講義では、あちこちで昼寝モード、あるいは携帯モードとなるものだけれども、かなりの割合の学生が最後まで耳を傾けてくれた。有難いことだ。次に、飯がうまかった。量もたっぷりあった。そして安い。これら相まって、ちょっとした定食でも満足満腹、財布に優しい。ホテルの朝食が、これまた素晴らしく、ずーっと食べていたかったのだけれども、電車の時間を考えると朝食に許される時間は、わずかに 20 分、ご馳走の山を片目に、泣く泣くチェックアウトしたのであった。また新潟に来る機会があれば、今度は時間をゆっくり確保して楽しむことにしよう。
7 月 3 日、ホテルの Wifi の接続に癖があって、ちと難儀した。部屋から接続しようとすると、電波は捕まえても、IP アドレスが取得できない。仕方なくロピーヘ出て接続してみると、スンナリ接続できる。そのまま部屋に戻ると、しばらく時間がかかるのだけれども、今度は比較的スムーズに接続できる。こういう現象に、時々出会うのだけれども、何が原因なのかは、その道の専門家でないので、皆目見当がつかない。アクセスポイントの認証の方法に鍵がありそうなのだけれども、それをアレコレと調べるよりも、つながる電波を探してウロウロする方が速いものだ。そうして苦労して接続して、何か意味のある仕事をしたかと言うと、それは .... 結局、バーカウンターでカクテルを傾けつつ、海外のサッカー記事を眺めるに終わった。
7 月 2 日、新潟は涼しい所で、と、書き出したいのは山々なのだけれども、今日は関西よりも熱かった。フェーン現象が起きると、サッサと気温が高くなるらしい。カーッと照りつける太陽が梅雨明けそのもの(?)の夏を感じさせる。JR 新潟大学まえから、大学までの間、日陰を作るような建物もあまりなく、散歩を楽しむことができた。それを言い出すと、阪急六甲から神戸大学の間も同じではないか?と、突っ込まれそうだ、それはその通り。坂道が無い分、新潟大学への散歩は天国なのである。ひとしきり楽しんだ後で、大学生協をチラリと覗いて、本日のメインの業務に入る。講義では、bit という概念自体が、現代ではそれほど共通の概念ではないことを知る。言葉・概念の Generation Gap を知ることも、これまた楽し。そりゃそうやなー、真空管みたいなモンやからなー、8-bit とか 16-bit なんていうアナクロい話題は。
7 月 1 日、物理学を理解する人はゴマンと居て、物理学を一定のレベルで修めたからと言って、職業としてのポストが転がって来るわけではない。一応、最初の数年間はポスドクという立場で当座の飯代くらいは稼げるのだけれども、そこで「好き勝手する」ことで、何か新しい概念を編み出す必要がある。と文章で書くと、何か大変なことのように聞こえてしまうのだけれども、学問は隙間だらけなので、何かを考え始めれば、必ず何かに行き当る。やってはならない事が、「言うことをよく聞いて、指示された通りに仕事に打ち込む」ことで、そのままでは「残りカス」ばかりつかまされることになる。流行を追うと、同じような目に遭うことが多いものだ。
5 月と 6 月の1行日記