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12月31日、お正月用の食材が色々と並んでいる。買って来たら、即刻調理で、即刻完食である。食材は、いくつかの例外を除いて、保存しておいても美味しくはならない。調理品ならば尚更だ。わざわざマズくなってから食べるのは勿体無いし、保管の手間もかかる。サッサと胃袋におさめるのが、食材を活かす道である。こうして、例年のごとく、お正月を待たずして、お正月気分となるのである。但し、昼間からお酒という訳には行かないので、そこは水で代用するのである。お正月用に狙いを定めて売り場に並んでいる生鮮食料品は、どれも、とてもとても立派で高価で、貧乏人の手の届く所ではなく、眺めて通り過ぎる。あれは、まあ、飛行機で例えるならば、ファーストクラスなんだろう、別世界のものだから気にしないのが良い。

12月30日、広葉樹は、太い幹からでも芽を出すものが多い。大きな木を切り倒すと、切り株やら根元から、多くの芽が出て来て、放置するとそのまま育ってしまう。針葉樹は、多くの場合、切り株のまま枯れてしまう。この違いはどこから来るのだろうか?針葉樹も、よーく見てみると、中程度の(?)太さの枝であれば、一見すると枯れてしまっているように見える木肌の間からでも、新芽が出ることがある。また、木である以上、どんなに太い幹であっても、必ず形成層があるはずだ。ということは、大きな針葉樹の幹でも、光が当たるように樹皮をうまーく削れば、そこから芽を吹いてくれるのだろうか? ... そう言えば、広葉樹の木の幹は、大抵は皮が薄いなー。どっちにしても、本当に生きているのは薄皮一枚なのだけれども。植物はタフなものだ。

12月29日、国内線の空の旅で、飲み物を提供される時、テーブルを出すように指示されることが多い。一応、指示に従って出すには出すのだけれども、受け取ったらサッサと引っ込めてしまう。というのも、いつも後ろの方の座席に座っているので、昇降舵に振り回されることが多いからだ。テーブルの上に置いていればコップが倒れてしまうし、穴に入れておいても、こぼれてしまう。手で持って、サッサと飲んでしまうのが一番良い。いや、飲み物を遠慮するのが一番なのだけれども、ついつい貧乏根性が出て、何かもらってしまう。今日も、そのように飲んでいると、突然の揺れ。とっさに、手で蓋をして、事なきを得た。場所から言って、富士山のイタズラに違いない。大昔、これで空中分解した機体もあるのだとか。空気の力はすごいものだ。

12月28日、街を歩けば、そこかしこにお正月飾り。大きなビルの入り口に、とても立派な門松が飾られているのを見ると、盗られるんじゃないか?と気になったりもするのだけれども、今時の都会の路上は防犯カメラだらけだから、そうも行くまいか。(リスクと、得られるものを天秤に掛けるならば、結果は明らかだ。)盗られはしなくても、どんどん撮られるのはインスタグラム急成長中の風習だ。写真に撮った時におさまりの良い松飾りに、人気が集まりそうな気もする。ところで、門松に飾ってある松の枝は、意図的に徒長させた、あるいは自然のままに放置した芽で、庭木の場合には伸びる前に切ってしまうものだ。山のどこかに、門松用の松の木が植えてある、あるいは自然に育っているのだろう。

12月27日、電磁気学でゲージ変換というものを習う。電磁気学の範疇では、なぜこれが必要なものであるか、全く見えて来ないのが、ちょっとした難点だけれども、面白いといえば面白い。接続の幾何学とセットにすると、古典論の範囲内ではあるのだけれども、ちょっと得した気分になる。もっと重要さを感じるのが、量子論をかぶせる時だ。どのゲージを選ぶかによって、理論の見かけがエラく違って来る。どれを選んでも、うまく量子化できれば、どうでも良いと言えば良いのだけれども、下手なゲージを選ぶと計算が頓挫する。これは力学でも同じで、わざわざ特異点が出るような座標を選ぶと、あらゆる方程式が、そこから先は解けなくなるのである。うーん、こういうことは、少し先送りして教えるのがいいのかなー。

12月26日、トリプル・アクセルで、よく耳にする、アクセル・ジャンプ。アクセルというと、加速を意味する英語、アクセ(ら)レーションと響きが似ていて、何も考えずに英語だと信じると「加速ジャンプ」という意味で捉えても、おかしくない。おまけに、記号は 3A など回転数に A を付けるので、何となく記号を見た感じも良い。えーと、スケートのジャンプは、ルッツ、サルコウ、そしてこのアクセルが、実は人名だ。ループ、トゥループ、フリップは飛び方を表す言葉。アクセルが人名だと、初めて聞いた時のことは忘れてしまったけれども、きっと、ポカンとした思いだっただろう。このアクセル・ジャンプ、踏み切り足の力「だけ」で飛んでいるように見えるのだけれども、スローモーションで、よーく見ると飛ぶ直前に、ガシッと踏み切り足の、左足でブレーキをかけている。この時に、棒高跳びのように運動方向を縦に変えているのだ。滑走スピードが速いほど、高く飛び上がれる。その時に、膝や足首が折れ曲がらないよう支える筋力があれば。... という氷上の想像をしつつ、年末の仕事の片付けにあたる。

12月25日、表面が乾いている地面は、日頃から耕していない限り、とても硬い。草木の根がビッシリと広がっていて、掘ろうとしてもスコップを跳ね返すような頑強さだ。ここに水を注ぐと、どういう訳か、少し柔らかくなる。根が、土の間を滑るような感じになるのだ。しかし、まだ土の中に硬い繊維が残っていて、硬いには硬い。1日くらい待つと、それらの繊維にも水分が行き渡り、もう少し掘りやすくなる。しばらくの間、水をやりながら日々待っていると、腐るべきものは腐って、更に掘りやすくなる。木々の植え替えなどは、この状態で行うのが楽だ。今は、まさにその植え替えの時期。生えて来て欲しくない場所に生えたもので、ちょっと良さそうな木は掘り上げて苗にしておく。楠の苗など、幾らでも取れるのだけれども、さて、大木になっても大丈夫な植え場所はどこだろうか?

12月24日、スケートの選手が滑る姿を見て、すーっと片足で滑って演技している間は「それまでの勢いで動いているのだ」、と思うことがあるかもしれない。そういう瞬間が、全く無い訳ではないのだけれども、エッジに乗っている間、つまり空中に飛んでいない時には、必ず加速している(方向転換を含む)か、あるいは意図的に減速している。ターンをする時も、S字を描く時も、クルリと丸く円を描く時も、よーく見ると上下動を利用して氷を蹴って、速さを維持している。その下半身・体幹の努力を見せないかのように、滑らかに腕を動かして空気をつかむ、これがガチンコ競技と化した現代のフィギュアスケートだ。時折、一般営業中のスケートリンクに現れる競技者を見ていると、その凄さに、呆けて見とれてしまう。氷の上の美しさはスケーティングで決まる、という要素が大きい。少しでも、その技を盗みたいものだ。

12月23日、「各々」と書いて、おのおの、と読む。二人称複数形、あるいは自分も含んで一人称複数形の人称代名詞だ。日本語は、紛れがなくて、強調する必要がない場合、あまり主語となる人称代名詞を使わない。これが影響してか、人称代名詞が沢山あって、しかも関西弁の「自分」など、一人称と二人称がオーバーラップしているものもあり、実に混沌とした状況だ。時代劇で「うぬごとき頼りになるか」という下りで聞く「うぬ」は二人称単数。これと「おの」は親戚だろうか。重ねると複数形となる、という日本語のルールには即している。この「おの」に「れ」を付けると「おのれ」になり、これは一見すると一人称に見えるけど「おのれ、覚えておけ」という時には二人称単数である。(この「おのれ」は、人称代名詞ではないかもしれない。)何れにしても、これらの言葉は、意味が曖昧になりやすく、試験問題の出題文などでは使うことが難しい。

12月22日、計算機実験のテーマを、計算機自身にしようか?と考え始めた。普通、計算機を使った演習というと、微分方程式を解いたり、モンテカルロをやってみたりと、何か達成可能なテーマを設定しておくものだ。ただ、一度ノウハウが漏れてしまうと、実験・実習とはならず、単なる「裏マニュアル」に沿ったキーボード入力の繰り返しと化してしまう。一万行一万列の行列同士の乗算を 、なるべく高速に行いなさい、とか、なるべく大きな行列の乗算を行いなさい、といったテーマにしておけば、いやが応にも、計算機とは何かという点に意識を向ける必要が生じる。よし、来年度は、これで行ってみよう。... いや、きっと、誰かが BLAS の存在に気づいてしまうに違いない ...

12月21日、今朝は、抜きつ抜かれつの通勤であった。神戸大学は山の上にあるので、阪急六甲駅で下車した後は、歩いて登るか、バスを待たなければならない。六甲のおいしい空気を吸うか、それともバスの中で ... まあ商売の邪魔はしないでおこう。ともかく、日頃は徒歩で登っている。少し早足で登っていると、後ろからジョギングで追い抜く人あり。この坂を駆け上がるとは凄いなー、と思っていたら、しばらく先で休止。その間に歩いて抜き返して歩くと、また横を走り抜ける、少し先で休止。うーん、こういう場合は、本気を出すべきなのだろうか、カッとギアを入れ換えて、グイグイ徒歩で登坂、追いつけないだけの差を広げて、経済学部前まで到着。これで、午前中の英気を全て消費してしまったような気がする。

12月20日、絶不調の源は、10往復しただろうか、トイレに殆ど流し去り、昼前にはケロリと体調回復。いや、睡眠時間だけは足りていない。それでも、今日は昨日に比べれば、ずっと沢山の仕事ができた。「仕事」というのが、必ずしも研究・教育ではない事実には、注意を向けないようにしよう。強いて言えば、それらの準備に必要な業務である。そして、夕刻に一時、時計の針がシュッと動く。眠っていたのだ。ペーパードライバー歴ン十年、私は終生、ハンドルを握らない方が良い。居眠り運転間違いなしだ。さて、周囲を見渡すと、昨日の不調で滞っていた雑務が、まだまだ転がっている。これを一気に仕上げようとすると、再び絶不調に陥るであろう、サッサと逃げ帰ることにした。

12月19日、時差がスンナリと取れたというのは、やはり勘違いであった。朝昼と「普通に」体調すぐれず、講義が終わって会議の場所へと駆け上がる頃には背中が痛くなり、会議中は苦虫を噛み潰し、帰宅してやれやれ睡眠と思いきや、痛くて眠れないのである。これはいよいよ、お陀仏か?と思っていたら、日付が変わる早朝に意識が飛んで、ようやく浅い睡眠となったらしい。いつも、時差のある所を移動して数日から1週間の間に、この激烈な不調に見舞われるのである。今回も、逃げることができなかった。ずーっと昔は、何の義務も予定もなかったので、昼夜好きなように寝ていたのだけれども、それができないのは、年齢的に仕方のないことか。

12月18日、アルミフォイルで、丸いアルミの球を作る工作を行った。まず最初に、ざっくりとアルミフォイルを丸くする。この段階で、後でカパッと割れないよう、うまく噛み合せることが必要だ。その後、手でゆっくりと、あちこちから押し込んで行く。だいたい丸く硬くなったら、いよいよトンカチの出番だ。ただ、ここで力強く叩いてしまうと、割れてしまう。尖った部分から、順番に根気強く、最初は弱い力で、硬く小さくなって行くに従って、段々と強い力で叩いて行く必要がある。叩く強さは、叩いた後に平たくなっている部分の大きさで判断できる。最初に使うアルミフォイルの広さから、質量がだいたい推測できるのが、この方法の「学習的」な側面だ。

12月17日、お昼前に JFK を離陸すると、機はカナダ上空を延々と進む。「日没」の後、アンカレッジの遥か北方で再び合衆国に入り、ロシアをかすめる前に日付が変わる。この辺りは緯度が高く、冬の今はどこを飛んでいても、ずーっと辺りは暗い。この辺りで無理にでも睡眠を取っておく。... いや、無理する必要はなかった。要するに、滞在中には時差が取れなかったということだ。居眠りのような状態、ハッと気がつくとカムチャッカを通過、北海道へと向かう所であった。空の上のことだから、場所の感覚があるわけではないのだけれども、帰って来たと感じるのが毎度、不思議だ。到着したのは、敷地の中に農地があることでも有名な、かの空港であった。

12月16日、昨日は、ランダムスピン系のエンタングルメント・エントロピーについて発表する日であった。会議最終日の金曜日なので、既に会場を去った方も多く、こじんまりとした雰囲気になったけれども、それも良いものであった。奥行きが狭い階段教室で、スクリーン前に立ってみると、聴衆がすぐ近くに見える。これが討論の場なのだと感じた。今回の会議中は、時差で居眠りしていることもあったのだけれども、それもバッチリ講演者にバレていたということだ。講演する側も、聞く側も、手が抜けない、誰もが鍛えられる場所だと感じた。夜半に雪が降り始めて、今朝は帰国の日。予約してあったタクシーが、雪のせいか、来ない。フロントで、他のタクシーを手配してもらおうとするも、出払っていて捕まらない。そこで、電車の駅まで 20 分ほど、雪道を歩くことにした。道中で道を尋ねると、「滑らないようにな」「暖かくして」「良い1日を」と、声をかけてくれた。予想していたよりも、皆、親切な気がする、「初めて」訪れたこの国では。

12月15日、朝がやって来て、日が差し、お昼になり、やがて日が暮れて夜になる。この一日、一日の繰り返しが、どれほど尊いものかと、普段は気づかないものだ。体調が悪くなって、ゆく末が心配になったりすると、残りの日々がどれだけあるのだろうかと心細くなって、一日の重さに気づく。ただ、それでもなお一日一日が、誰の前にも訪れて、過ぎ去って行く。綱のように、永遠にねじれつつ進んで行くこの時間の鎖も、近づいて見れば一本一本の藁で作られている。その一端を知ること、それは、何にもたとえ難いことだ。先へと続く、その時間の綱に、何を見つければ良いのだろうか。

12月14日、研究会では、何かをテーマに、その周辺の研究者が集まる。ただ、それを繰り返していると、新しい風がいつまで経っても吹いて来ない閉鎖的なコミュニティーになってしまうので、意図して外側から専門家を呼んで来て、双方から接点を探ることも多い。いや、それが普通だ。今回は、幾何学との接点が求めらるている。幾何学と言っても、スムーズな多様体ばかりを相手にするわけではなくて、格子系あり、ランダム系ありと、様々な物理的な対象を念頭に置く。自然と、様々な手法、視点が生まれて来るものだ。数理的な思考も、物理の立場から見ると新鮮である。ともかく、まず数式、代数を使って系を構築して、その中に物理を見つけようという試みだ。

12月13日、どんどん時差が酷くなる、そんな渡航3日目?だろうか。いつも、この辺りでゲッソリしてから、段々と慣れて行く。そういう訳で、渡航したら三週間くらいは、じーっと滞在していたいものだ。それがスペインだったら、最高なのだけれども、今回は、もう少し海の向こう。そして、ようやく慣れ始めるであろう週末には、もうとって返すのである。短い旅行は時差がない国へ、というのが、良いものだとつくづく感じる。また、時差で一番厄介なのが、やはり昼夜が完全に逆転する12時間前後だということを、再度確認することになった。以前の、ブラジルに渡航した時も、大変だった思いが蘇ってきた。

12月12日、スパゲッティ・プリマベーラって何じゃいな?カッペリーニって書いてあるから、まあ細麺なんだろうと思って注文したら、何と、ニンニクや野菜たっぷりの、炒め「そうめん」であった。イタリア料理でも何でもない、これは中華料理、いや、味も素っ気もなくて、これは残り物のあり合わせに近い。どうやら、そこへ好きなだけ塩を振りかけて食べるようなのだけれども、それでは塩辛くなるばかりで、満足には至らない。これが食文化の違いなのかと、ひとまず感心する。確かに、野菜はタップリと入っていた。結構味のはっきりした野菜が多い気がする。何でも山盛りになっているのが、ここの土地柄だとか。

12月11日、珍しいことに、朝の5時にムクリと起きて、行動を開始する。というのも、朝の8時に動き始めると、電車が止まっただけで飛行機に乗り遅れてしまうからだ。すぐに次の便が飛んでいれば良いのだけれども、今日の目的地は日に何本も飛んでいない ... いや、飛んではいるのだけれども、航空会社をまたいで予約変更できる正規運賃なんか、払えるはずがない。というわけで、日中は寝不足。日中というか、夜が一度やって来るというか、到着したら朝というか、ともかく丸い地球は難儀なものだ。同じことだけれども、今日は1日が30時間を超えていた。朝に出発したのに、到着したらまた朝というのは、どうにもキツい。到着した先での入国審査は、流れ作業で、スムーズに進んだ。

12月10日、理学と工学は、最初は何だかよくわからない実学から始まって、接点を持ちつつ発展して来た。理学は、どちらかというと、何かの法則を見つける、あるいはそれを、よりシンプルな法則で整理するという方向性を持っている。工学は、法則を使って何が人間のために実現できるかということを考える。その法則自体は、自然の中に最初からあるわけだから、理学が何かを作るという訳ではない。しかしながら、今日では「役に立たない科学」は肩身が狭いので、ついつい、何かの役に立つと言わされてしまう傾向がある。理学の面白さを、応用に置くと、本質的な発展から遠くなるにも関わらず。

12月 9 日、朝一番のスケートリンクでは、滑っているのが1人だけという事がある。これはチャンス。普段はできない左回りだとか、八の字だとか、ジャンプ以外はやり放題なのである。2人目が現れるまでの、つかの間の自由だ。これをずっと楽しみたければ、深夜にスケートリンクを借りるという手が無いわけではないのだけれども、そういうのは上級者の行うことであって、下手ッピがリンクを借り切ったりしたら、とても恥ずかしいのである。(初心者向けスケート教室などの場合を除く。)第一、1時間に何万円もかけて、リンクを確保してまで練習する意義がない。朝一番の、最初の数分で十分なのである。

12月 8 日、神戸大学近辺の道路では最近、アスファルト舗装を切って、ガス管の取り替え工事を行なっている。歩道の下に走っていることもあれば、車道の下であることもある。掘り出した土を見ると、大抵は茶色の真砂土だ。最初に工事した時に、どこかから持って来たか、あるいはこの辺り一帯が扇状地なので、掘れば赤い土しか出ないのかもしれない。記憶の糸を辿ってみると、舗装の下が黒い沼地の土だったり、腐葉土だったりということは滅多にない。そんな場所に舗装すると、一発で凹んで穴だらけになるのだろう。大学の近くのマンション建設現場も、チラリと覗き込むと、出てくるのは御影石と同じ色の荒い土だ。あれだけ御影石がゴロゴロと出たら、中には良いものもあって、結構いい値段で流通することだろう。

12月 7 日、MacOS の update が出た。今使っている iMac にインストールすると、感覚的な表現だけれども、「とーんでもなく長く」待たされた。これ、フリーズしたと勘違いして、途中でブチッとリセットスイッチを押す人が出現しそうな、いや、すでに出現している気がする。黒い画面を眺めて時間を過ごしても仕方ないので、砂川先生の理論電磁気学に目を通すことにした。カッチリと書いてあるのだけれども、当時の教科書は「行間を読む」のが当たり前であったから、イザ講義に使おうとすると、かなり補間する必要がある。それも、結構な分量にのぼるのだ。うーん、どこまでを既知の知識として良いのだろうか?いや、一度説明があった項目であっても、きっと忘れているに違いない。もう一度、同じ内容について軽く講義するか。

12月 6 日、独居老人を見守るロボットというものが、開発されているというニュースを見た。何か異変があったら、通報するというシステムでもあるから、Wifi で接続されていることになる。ということは、外部からロボットを乗っ取ってしまえば、「通帳はどこにあった?」「印鑑は?」「お金持ってる?」なんて、可愛いロボットが質問するように、ネタを仕込むことも原理上は可能だ。もう少し手っ取り早く、点検と称してロボットを偽物と置き換えてしまえば、幾らでもやり放題となる。こういうシステムには、相互監視を行う必要があるなーと思った。監視カメラと、ロボットは別の会社が担当するなど。もちろん、何事にも完璧はあり得ず、どこにでも詐欺の穴はあるわけだけれども。大学にも監視ロボットを導入しようか。口を開けば「予算申請した?」と聞いて来る、そんなロボットを作れば、表彰されるんじゃないだろうか?

12月 5 日、日頃あまり書かない漢字は、覚えが悪い。誘電率だとか、感受率とか、英語では覚えていても、イザ書こうとすると、まず「ユウデンリツ」「カンジュリツ」と言う音の段階で記憶を読み出し、そこから漢字に変換して、ようやく指が動くと言う、トロい変換過程が自覚できる状態となる。準定常電流の所は、電磁気学の中でも、まあまあ面白い所なので、楽しんで講義したいものだ。教える側からは、とある学年に取り付いて、そのまま電磁気学を教えつつ「持ち上がる」パターンをやってみたいものだけれども、実現は難しい。学生から見ると「最悪の教員が3年間張り付く」ことになるし、弊害も大きいか。幸いなことに?今期の電磁気学は、8週間でおしまいなのである。頑張ろう。いや、頑張らないでおこう。

12月 4 日、店頭に並ぶリンゴを見ると、ここにも流行り廃りあり。昔は、デリシャスとか、スターキングとか、インドリンゴや国光など、今から思うとボケた感じのリンゴが重宝された。やがてセカイイチなど大きなリンゴを見かけるようになって、このままだとスイカのように大玉のものになるかと思いきや、サンふじ、サンつがるなど小玉で蜜入りのもの、王林のように味と香りに特徴があるものへと人気が移る。日持ちが良いという点も、流通上の人気の秘密かもしれない。そんな中で、いつもシブい顔を出しているのが、紅玉。これは酸味たっぷりの特徴あるリンゴで、代わるものがないため、いつの時代にも調理用として重宝される。こういう定番の位置を占める作物のような、そんな仕事をしてみたいものだ。

12月 3 日、グループ学習は時として、いや往々にして、いやいや絶対、効率が悪いのである。物事は昔からそうであるように、マンツーマンで教えるのが一番効率が良い。ただ、全ての物事をマンツーマンで、と言うわけには行かない。そこで学校のような、集団的な教育が行われるようになって来た経緯がある。今の世の中は?と言うと、タブレット端末などを使って個別に学べる時代で、かなりマンツーマン的な要素を取り込めるようになって来た。教員の立場、危うし?いや、「誤解の類い」を発見して修正する仕事は、まだ人間に一日の長がある。そして、最初に戻ると、グループ学習では、グループを形成する輪の中に閉じた妙な、タチの悪い誤解が伝染することが頻繁に起こり、それを修正する為に過分の労力が必要となるのである。義務教育をグループ学習にすると、一見、教員が楽をできるかのような印象を持つかもしれないけれども、それは問題の先送りである、そんな気がするのである。

12月 2 日、モノクロのカメラでカラー写真を撮る、と聞くと、昔ながらの「フィルターを交換して3枚の写真を撮る」方法を思い浮かぶ。惑星探査機が使っているカラー写真の撮影方法も、これだ。この方法の欠点は、動きが速い被写体では色ブレしてしまうこと。惑星探査では、このブレた画像を伸ばしたり縮めたり歪めたりして、一枚のカラー写真を作り上げる。彼らが正直に「疑似カラー」と称しているものだ、目で見てその色に見えるかどうかの保証はない。... 細かいことを言うと、デジカメの写真もカラーフィルムの写真も全て、原色ではないのだけれども。ちょっと面白いのが、三色のフラッシュを時間差で発光させるという方法。光の届く範囲であれば、カラーに撮れる。うまく使うと、面白いカラー写真となる。何事にも、色々なアプローチがあるものだ。

12月 1 日、マクスウェル方程式を、何年かぶりに見た。この方程式を見て思うことは「単純な現象であれば頭に思い浮かびやすいけれど、ちょっと込み入った状況になると場の配置が見えなくなる」ことだ。例えば、メガネのフレームのようなものに、それよりも少し波長の短い電波が入って来た時、どのように吸収・散乱されるか?という問題を考えると、そのややこしさが容易に想像できるだろう。電束密度と電場の関係は、物質中に電荷がウヨウヨしている関係上、磁場と磁束密度の関係以上に難儀で、ポンとパルス状の電磁場が入射しようものなら、その後の系の応答をクソ真面目に扱わないと、何も言えないほど面倒だ。授業では、なるべく、そのような混沌は避けて通ることにしよう。わけ入ったら、自分が沈没する。

11月30日、コンピューターが「ただの板」になって久しい。昔、箱に入っていた頃は、カパッと開けばそこにボードが入っていて、眺めれば CPU やメモリーが見えた。今、そんな仕組みになっているのは、業務用・研究用のサーバーくらいなもので、人々が手にするものはタブレットなど、ガッチリと固められた板に過ぎない。内部で何が?という想像すら、隠蔽してしまうのだ。その上で作動するソフトウェアもまた同じで、随分と高い階層で動いていて、ソフト側からハードを直接触れたような危ない時代は過去のものとなった。CPU のクロック数(という怪しい指標)が、今の世の中で、どれだけ製品の能力を示すと受け取られているのか、実は気になっているのだ。何を表す数字か、手当たり次第に質問してみようか?

11月29日、ローマ時代の遺跡を訪れると「ローマ字」の碑文に出くわす。カトリック教会の壁画にも何やらラテン語が書いてある。イタリア語の親戚くらいなものだろうと、甘く考えて読もうとして、玉砕したのはいつの事だっただろうか。幾つかの事を最低限、知っておくと、もう少し楽しめただろうと思う。U と V の区別も、I と J の区別もなく、単語の間にスペースがないので、単語の区切りを探すだけでも、ひと仕事なのだ。古風な碑文や壁画、それが本当にオリジナルであるか、展示用のレプリカであるかは、素人の目では容易には判断できない。どちらであっても、そこに書かれている情報の量は変わらないのだから、どっちでもいい、そんな気になって来た昨今である。

11月28日、空を飛べない人間が、空を飛ぶ真似をするというのは、どういうことだろう?と、言葉で聞くとクエスチョンマークしか浮かばないのだけれども、バレエとかダンスとか、そういう身体表現を目の当たりにすると、ああ、人間も飛ぶ真似をできるんだと納得できる。その表現にも色々とあって、一瞬だけ浮遊するタイプのものもあれば、飛行機ごっこのように両手を広げて走り回るものもある。また、裏技として宙乗りとか、水中で浮かんで見せるという手段もある。飛んでるっぽく見せる要素の一つが、肩の位置にあるらしい。腕ではなくて肩。これは意外なことであった。言われてみると、確かに、棒立ちで手を少し広げても、飛んでいるようには見えない。何事にも、基本が大切なのだなーと思った。

11月27日、英語で二進数をどう読むのか?と質問されたら、ええと、要するに、頭から1と0を読むしかないのじゃないだろうか。... そんな質問が、実は既に引っ掛けなのである。「英語で」と言われた瞬間に、英語で何とか答えるぞ、という頭になってしまっているのだ。よーく考えてみよう。日本語で二進数を読む時だって、頭から1と0を読み上げるだけなのである。何事でも同じだ。ドイツ人だって、二進数を二桁ずつ区切って、逆順に読むなんてことはしないであろう。... そう信じたい。「英語で振り子の運動を説明しなさい」と言われて出来ないとしたら、実は、日本語でも「しどろもどろ」の説明しかできないのである。これはホント。

11月26日、首都圏で思うこと: 平地をスタスタと歩く人には、なかなか追いつけないのだけれども、ちょっとした坂道になると、なぜかみんなトロくなること。神戸が坂道の街だということを、改めて認識した。神戸の坂道を、平地のように登って行く人、結構居るのだ。追いつこうとしても、心肺能力が付いて行かない。小さい頃から坂に慣れ親しんで、そこに合わせて成長して来た人々だと感じている。私はというと、うどんで有名な県の、平らな田んぼの隣で幼少の頃を過ごしたから、そもそも速く歩くことなどなかった。ノンビリで良かったのだ。世界は広いから、もっともっと驚異的な体力の集団の村々が、あちこちの高山の麓にあるんだろうと考えると、何だか楽しくなって来るような気がする。

11月25日、今日は珍しく体調が良いので、さあ土曜日だ、氷に乗るぞ! と言いたい所だけれども、ポーアイのスケートリンク、今年の11月は週末ごとにナントカ大会で貸切営業、一般滑走はなかなか無いのだ。なんばや、西宮まで滑りに行く元気はないし、梅田の屋外リンクで無意味に目立つのも何だしなー。というわけで、トボトボと、メリケンパークのクリスマスツリーを見に行く。海辺まで持って来た大木、その姿を見て率直に思ったことはというと、神戸大学に生えてるヒマラヤ杉の方が、クリスマスツリーとしては立派な枝ぶりだということ。比べるものがあって、初めて気づくこともあるのだと思った。

11月24日、一年間の大学生活で、どれくらいの額を「学内での飯代」に使うのだろうか?これは個人差の大きい問いかけだけれども、まあ一日二食を適当に食べて、1日あたり 500 円だと仮定しよう。大学に、どれだけ通うのか?という点についても、授業があるのは 32 週間で 160 日だとしよう。案外、少ないものだ。こうやって計算すると、8万円という数字が出てくる。まあ、もうちょっと支出することもあるだろうから、10万円と計算しておくか。学生さんの数は、神戸大学の場合、1学年あたり 3000 人弱だろうか。学年あたり売り上げ 3 億円ということになる。その4倍、と声をかけたいけれども、4年生の登校日数の実態は、あまりよくわからない。まあ 10 億円程度か。こういう荒い計算は物理屋の好む所であって、経済・経営屋さんは首を横に振るだろう。

11月23日、漢文が中国語だと思い込んでいた私が無学であった。義務教育で習ったような漢文を検索してよーく眺めると、いや、よーく眺めるまでもなく、現代の中国語とは語順も語彙も違っている。そのむかーしの漢文をたっぷり吸い込んだのが日本語、漢文を意訳して書き下せるのも、そのお陰というか当然というか。漢文の文法では、当時の口語を正確に写し取ることもできないというのは意外なことであった。じゃあ、ちょっとした手紙とか、どうやって書いてたんだろうか?そもそも、手紙なんか使う必要が無かったんだろうか?色々と想像してしまうのである。目を日本語に転じて、マンガのように、話し言葉そのまま(のイメージ)を、文字に落とせたのは、一体いつからなんだろうか?ということも、チト、気になり始めたのである。

11月22日、書類上のことと、現況というのは、ズレているのが普通だ。紙にはこう書いてある、と思って現場へ行くと、あれーっという事態が生じている、そんなことは稀ではない。従って、何か調査資料が上がって来たら、まずはそれを疑ってみることから始める。何かがおかしい、という直感が働く時には、躊躇せずに現場へと向かう。今日は、ネットワーク機器の設定を調べに行ってみた。すると?あれれ、この見慣れないケーブルは何だ?というものが、必ず転がっている。大抵、そういうケーブルは妙な隙間を通して敷設されていて、他のケーブルと、もつれるようにクネクネと配線してあるのだ。その時点では何の問題もなくても、一度全てのケーブルを抜いて、再度接続する、という場合に、何が起きるかは容易に想像できるだろう。今のうちに見つけておいて、良かった。

11月21日、密度行列繰り込み群について語る機会を、ありがたくも持つことができた。テンソルネットワークの広がりつつある昨今とは言え、誰でもカッチリと結果が出る信頼性のある計算手法として、広く勧めることができるのは、やっぱり密度行列繰り込み群だ。これは、直交性という素性の良いものが背景にあるからで、なかなか他の手法では真似ることができない。今日は量子化学分野の若い人々に、その考え方の背景として、行列積状態 (MPS) と、エンタングルメントがあることを伝えた。恐らく、その二つのキーワードだけ覚えていてくれれば充分で、実際に必要になった時には、そこから検索して必要な計算手法を自主獲得してもらえることだろう。繰り込み群という、もう一つのテーマがあるのだけれども、これについて語ると一日仕事になってしまうので、それについては、今回は主体的には扱わなかった。

11月20日、品川を出て岡崎へと向かう。道中、パソコンとニラメッコ。幸い、電源が確保できたので、明るい液晶画面を眺めることができた。南側の窓側座席で、日当り良好。こういう時に、発光型素子だけではダメなのではないかい?と思わなくもない。紙媒体であれば、明るい場所ほど良く見える。反射型と発行型の両方をうまく兼ね備えたようなディスプレイが、やがては出て来るのではないか、そんな期待を持った。もちろん、発光と吸収では三原色の作り方が違うので、ハイブリッドで「まともな色」を出せるとまでは期待できないのだけれども、大抵の仕事は、いい加減な発色で何とかなるものだ。バッテリーの減りが少なくなって、見えやすくなるのであれば御の字である。

11月19日、日曜日の東京。まあ、移動日のようなものだ。街はクリスマス、という風情かと思いきや、まだ少々早いようだ。クリスマスが始まっているのはデパートのような商業施設だけで、街灯は晩秋、紅葉の季節といった感じ。観光客が目立つのは、日曜だからだろうか。ホテルにも団体さんが宿泊していて、色々な言葉が聞こえてくる。英語のようで、聞いてもよくわからない言葉は、ええと何だろうか。ドイツ語とも、少し響きが違う。中国からの団体さんも居た。けっこう、地方というか田舎からの団体さんらしい。素朴に日本の旅行を楽しんでもらえているようだ。時々、都会に顔を出す程度の暮らしの方が、ノンビリしていて良いのではないだろうか?と、しばし考えた。

11月18日、NTT-SPOT は、アクセスポイントとしては、結構イケてる所がある。仕事をするような用務で出向く所には、ちゃんと飛んでいることが多いのである。それだったら、他の会社もそうではないか?と言われれば、それはそうなので、公平に言うならば「他と同じようにイケてる」と表現すべきだろうか。むかーし昔、とある所に光回線を引っ張って来る時に、色々な業者さんに声かけしても、設置規模の小ささ故に見向きもしてもらえなかった経験があって、そんな中、ちゃんと回線を引っ張って来てくれたのが NTT という、ただ一度の事例に義理堅くお付き合いしている私も、単なるアホの田舎者だとは思うけれども、やっぱりダブルループには足を向けて眠れないのである。

11月17日、アンデルセンの童話に、クリスマスツリーの物語がある。どういう話か、ここで3行書くだけで、尽きてしまうほどの短い童話(?)なので、中身については皆さんに読んでもらうとしよう。さて神戸に、とても大きなクリスマスツリーがやって来たと、話題だ。あの大きさの樹木は、たぶん、移植できない。何とか移植して根付かせようと思ったら、根を小さくした分だけ、枝葉も減らして様子を見る必要がある、そんな気がするのだ。大きさはともかくとして、最近、古木を強引に街中や建物の中に飾り付けるイベントによく遭遇する。樹木の中には、桐の木のように憎たらしいくらい再生能力のある物もあれば、移植しようとするとアッサリ枯れてしまう物もある。まあ、樹木を生花のように使って何が悪いという意見にも一理あるか。山林の管理は大抵、切ることで育つ空間を空けることが仕事だからなー。

11月16日、グラフ用紙をどう使うか?という質問をよく受けるのだけれども、実は私は「グラフ用紙は何を持って来ても構わない」派。もちろん、図に描いて示したい、あるいは発見して行く関係式から、自然な縦軸と横軸の選び方というのは、厳然として存在するはずで、それに見合ったグラフ用紙が手元にあれば、それに越したことはない。しかし、その「最も似つかわしいグラフ用紙」だけを尊び、それ以外の紙について不適切であると言い切るのは、ちょっとマズいように思っている。というのも、関数電卓の機能が付いたスマホやタブレットはゴロゴロしているので、普通のグラフ用紙の横軸や縦軸を対数に取ること等の工夫は容易だからである。マズさを感じるとすれば、描き方よりも、むしろ点を打つデータの取り方にある場合が多い。示したい関係式が綺麗に見える訳ではない範囲でデータを取っていれば、いくら数多く点を打っても、何も見えない。何も見えなかったら立ち止まって、データの取り方や図の描き方を検討するという、ステップこそが大切なのである。

11月15日、昨日、通常よりもプレプリントの数が多い魔の火曜日に、プレプリントサーバーが落ちた。これはエラいこっちゃ、と、見守っていたら、今日の昼前になって、火曜日と水曜日の分量が合体して、公開となった。2日分くらいのプレプリントの題目を目でなぞって行くだけで、1時間は軽く消費する。それだけ研究学習が深まるというわけではなくて、単に、新聞を読んでいるに等しい作業なのだけれども、もう惰性で 20 年間も続けているから、今更後に引けないのだ。Tensor Network の文献スタックに、どんどん、論文を放り込んで行くこの作業、あと、どれくらいの間続けることができるだろうか。何事も健康あってのこと。養生しないと。

11月14日、雨の日があれば晴れる日もある、季節の移ろいを感じさせるのが11月の気候だ。朝方は三歩あるけば濡れてしまう強い雨であったけれども、昼過ぎにはおおよそ降り止んで、薄い霧が棚引く曇り空のまま夕刻を迎えつつある。山は色づき始め、様々な野鳥を養って来た柿や木の実もだいぶん少なくなったようだ。道を歩くと、この時期に咲くツワブキの黄色い花や、野菊の薄紫色が目に入る。このような自然の営みの一部として、人々の世界があるのだろうか。大阪湾に視線を落とすと、今日は霧が濃くて、瀬戸内海への入り口となる明石海峡大橋までは見えない。その先には、陽のあたる穏やかな海が広がっているだろうと想像しつつ、静かに時を過ごす。

11月13日、統計力学を学習してもらう段取りについて、最近、考える所がある。大抵の教科書は、まず孤立系のミクロカノニカルアンサンブルから記述が始まる。等重率という、それほど厳格に認める必要はないけれども、一応信じておけば正しい熱力学関係式へと到達する、一見するともっともらしい考え方から入るわけだ。しかし、孤立系というのは統計力学で「一番考え辛いもの」の一つであって、色々と誤解を招くことになる。カノニカルアンサンブルから入ると、天下りにはなってしまうのだけれども、体系としての無矛盾性はすぐに示せるし、ミクロカノニカルアンサンブルへの帰着も容易である。何より、ボルツマン因子さえ丸暗記しておけば、様々な問題解決に即刻役立つという長所がある。今度は一度、カノニカルアンサンブルから始めてみようか。

11月12日、洋梨をもらったら、どうするか?という、長年の課題がある。最も自然な食べ方は、少し柔らかくなって、香り漂う頃に皮をむいて、そのまま食べる、だろう。それ以前に食べようとすると、カスカスの食感で全く美味しくない。但し、よーく味わってみると、カスカスな時でも糖度は十分にある。今日、とあるお店で、解決方法を一つ知った。コンポートにして食べれば良いのである。芯のあたりまで美味しくいただける。そうと知って、よーく思い出してみると、フルーツ缶詰に入っている四角いジャリジャリしたフルーツは、洋梨だ。なーるほど、大昔から、加工食品向けには、どんどん使われていたわけだ。特に、舶来の缶詰にはゴロゴロと入っていた。懐かしい思い出だ。

11月11日、マクスウェルの気体分子運動論、どうしてマクスウェルがそこに興味を持ったのか?ということを、今まであまり掘り下げたことがなかった。実は、熱力学が大成しつつあった頃の研究で、クラウジウスなど、記録に残っているだけでも幾人かの研究者が、原子論に基づく気体の研究をしていたのだ。そういう時代の中で、分布関数というものにいち早く目を付けたことが、その後の統計力学の発展に大きく貢献することになった訳だ。この仕事だけでも、十分に歴史に名を残していたであろうマクスウェルは、電磁気学の総まとめにも寄与しているのだから、天才以外の言葉が見つからないのである。

11月10日、明日から学祭ということで、学内が何だか騒がしい雰囲気に包まれている。単に、普段より学生の数が多いというだけのことかもしれない。日付が変わる頃から雨が降って、明け方には止むのではないか、という所で、今年の天気はまあまあだ。学祭で何があるのかというと、はて、何が?というのが傍目からの実感。あれは参加することが楽しいのであろう。... あろう、と、書いているのは、私自身、大学祭に参加したことがないから。音楽系の部活動をやっていたので、学祭の時期は、いつも秋合宿と称して集団で山に篭っていたのだ。というわけで、今年もまた海辺から大学を見上げて、ぼーっと過ごすことになるだろうか。

11月 9 日、原子がいっぱい飛び回っている絵、思い描くのは簡単なのだけれども、実際に描こうとすると、なかなかしんどいのである。図が大きいと、余裕で千個くらい描くことになる。こうなると、もう手では描けない。ベクトルデータを乱数発生させて、まずファイルに落としておいて、図へと吸い上げることになる。いや、ひょっとしたら、手で何とかする方法があるかもしれない。タイリングというズルは、比較的見破られやすいので、拡大したり、縮小したり、回転したり、色々とバレないように工夫して描くと何とかなるか。... と言う風に、相反する思考をズルズルする内に、時間が過ぎて行くのである。思考に溺れるくらいならば、どちらか一方を選んで、サクサクと作業に取り掛かる方がマシだ。

11月 8 日、紅葉の季節なのだけれども、木々に葉無し。最大瞬間風速 50 m が吹き荒れた台風で、かなりの木々が枝葉をもぎ取られてしまったからだ。残った葉も、紅葉を前に、チリヂリに痛んで茶色くなり、気がつくと地面の堆肥原料と化している。よーく見ると、場所によって風の影響にかなりの差があることがわかる。建物を風が通り過ぎて行く場所に立っていた木は、そもそも台風の翌日には葉がなかったし、倒れているものもあった。そんな中、以外とシブトイのが桜の木。緑の葉は落ちずに残り、今きれいに赤くなって、秋の姿を楽しませてくれている。台風で倒れる可能性があると言われて、伐採予定だった桜の木はというと、台風で倒れなかったけれども、予定通り今月中には伐採だとか。

11月 7 日、気体の気の字、もともとの旧字が「氣」で、中に入ってるのが米になっている。中国の簡体字では「气」で、これはエラく簡略化したものだと思っていたら、実は象形文字の頃の気の字体は三やΞみたいな三本の線で描かれ、气の方が本来の文字だということを知った。そういえば、汽車の汽の字には何も入っていない。いつの間にか米が入って氣と化した、不思議な歴史がある。まあ、漢字は「どんどんくっつく」性質があって、旧字の世界では闔閭とか蟲とか、いやいやもっとトンデモない文字が沢山あるから、ちょっと米が飛んで来たからと言って、いちいち気にしない方が良いのかもしれない。でも氣になるなー。

11月 6 日、ヘッドフォーンのハウジングが、樹脂だろうと皮だろうと、聞こえさえ良ければ関係ないや。と、昔は思っていたのだけれども、長く使っていると樹脂製のものはボロボロに崩れてしまうのだ。ハウジングを買って来て取り付ければ良いのだけれども、新品を買うよりも高くつく。新品を買ったら良いのだけれども、まだ使える古い方は .... と、しょうもない貧乏経済学に取り憑かれて身動きできなくなるのである。皮の方はというと、中のウレタンがクタったら詰め替える必要があるにはあるのだけれども、長持ちである。結果として、ランニングコストが低いかどうかは別問題として。

11月 5 日、またまた、ノンビリと物理基礎の教科書を眺めてみる。高校理科の基礎科目の教科書には A4 の「大判」と、通常の B5 判のものがある。大判の方は、記述内容が指導要領そのままで、章末に科学史物語などが記載されている。B5 判の方は、「発展」と称して、昔々は最初の年に教えていた内容が、かいつまんで記述してある。本気で理科を教えようと思うならば、B5 判を使って、発展の内容まで取り扱うことになるのだろうけれども、それぞれの教育の現場で可能なことかどうかは、わからない。科学の裾野が広がるのであれば、大判の採択も十分に歓迎されるべきものだと思った。アマチュアが沢山居ないと、専門家も出てこないし、食いぶちも乏しいのである。

11月 4 日、連休2日目、今日も一応は雨が降らないという予報だったけれども、寒冷前線が通過する時に、いや、前線が通過した後で寒気が入り込む時に空が暗くなって、パラパラと雨が降った。時雨のようなものだろうか。遠く南には、寒冷前線本体の積乱雲が見えた。その後、北風が吹いて気温がやや下り、夕暮れが早く訪れた。空の低い所に雲が棚引き、夕日を隠してしまったのだ。夜は無料のギターコンサートへ行く。ギターの合奏というのは、収益が見込めないところもあって、必然的にアマチュアの公演となる。そのレベル、結構高いものが「混ざっている」ことが多い。玉石混交とはこの事で、時々でも素晴らしい響きがあれば、十分に満足なのである。

11月 3 日、穏やかに祭日、とは言っても祭日なのは日本だけ -- かどうかは世界中を検索してみなければ判定のつかないことだけれど -- なので、プレプリントサーバーにアクセスして、論文を読む、というか、タイトルを見る。この作業、結構時間がかかるので、何らかの手段により自動化すれば良いのだけれども、やっぱり、タイトルやらアプストラクトの端が目に入ることは重要で、時々思いもよらぬ文献が目に止まることがある。そういう経験もあって、いまだに目を通し続けているのである。午後には、チラリと物理基礎の教科書を眺めて、力の単位が N (ニュートン) であるという記述が目に止まってしまった。基本単位で kg m / s^2 と、積極的には書いてくれないのだ。うーん、教育現場では、どう教えているのだろうか?

11月 2 日、最近、あちこちで空き地が目立つようになって来たのである。空き地というよりも、建築予定地と表現した方が良いかもしれない。不動産の一部である土地の価値が、まだ保たれていることの証なのだろうか。まあ、誰も住んでいない古屋が解体されるのであれば、それはそれで新たに利用されて、経済的価値も生まれて行くのだから納得もできるのだけれども、建ってからまだ30年も経たないビルまで、どんどん解体されるのだから、いよいよ来たか?と思う所もあるのである。解体の憂き目に遭うのはというと、塩漬け状態に陥った贅沢な造りのビルだったりする。コスト感覚というものから外れると、使い辛くなるものかもしれない、建物は。

11月 1 日、文章を定められた長さに収めるということ、結高面倒な作業だ。まず、読者が持ち得る時間を想像しなければならない。その辺りに転がっている文章を1分間も読むことが、そうそうあるだろうか?新聞記事でさえ、社説や特集でも無い限り、1分はかけない。連載小説は、その辺りを上手く狙っていて、味わって読んで1分、そして「つづく」となる。論文という厄介な書き物にも、こういう要素は必要なもので、上手く段落を接続しないと「次を読んでもらえない」悲劇に遭遇する。そういう、忙しい人向けに、文章の最初の方に総まとめのようなものを書いておくことも大切だ。さて、書き物、書き物。

9 月と10月の1行日記