← 9 月と10月の1行日記  

8 月31日、ガイスラー管、クルックス管、ネオン管、ニキシー管、ブラウン管、そして蛍光灯。どれも放電で光るもので、直接光るものと、蛍光を使って光るものがある。ひとつひとつ、作動原理を述べようとすると、結構面倒だ。量子力学、統計力学、電磁気学の全てを使って説明しなければならない。こういう複合現象について根掘り葉掘り質問してみると、答える人の物理学習熟度がわかる。もちろん、知っていないと答えられないことも多々あるので、ちょっとはヒントを出す必要もあるだろう。これらの光る管は、放電領域が目に見える大きさなので、実験してみようと思えば色々と調べることが可能だ。これは、LED にない特徴で、光る物理現象の学習には持って来いである。段々と LED に押されて、見かけることが少なくなって来た、これらの管。何らかの用途で復活することがあるかどうか、はて...。

8 月30日、サンマの開き、ゴミ収集日などの関係で鮮魚の扱いが面倒な時や、獲れない季節にサンマを食べようと思った時には重宝する。この開き、背中から美しく包丁を入れて、頭をつけたまま開いてある。値段から言って、そんなに手間はかけられないはずなのだけれども、内臓や太い血管もちゃんと処理してあるし、エラも取ってある。毎日毎日、魚と相対すると、これらの処理も一瞬で出来るようになるのだろうか。また、開いて干すまでの間に、皮を傷つけずに、美味しそうな形を保つこともまた、なかなか難しい。自分で小魚の開きを作ると、ついつい、早く乾いた所がザルにくっついてしまって、見た目が良くないものになるのだ。どちらにせよ、美味しくいただく。

8 月29日、友あり遠方より来たる。遠方とは言いつつも、実は関西の出身で、私の方がずーっと田舎の出だ。関西においては、関西の言葉を正しく喋ることが、とても重要であって、私はいつまで経っても「関西に住んでる人」なのである。今日は、英語で紛れのないように、物事を読者に届けるという作業の繰り返し。いまの時代は英語が標準語なので、どの学問を進めるにしても、英語を避けて通ることができない。もちろん、近世に使われたフランス語や、もっと厄介なラテン語に比べれば、随分と楽な作業であることは想像に難くないのだけれども。この先もそうなのか?というと、それは未知数だ。スペイン語を含むラテン系の言葉が盛り返して来るかもしれないし、中国語だらけとなるかもしれない。日本語が今の標準語のままで、世界言語となることは、まず無いだろうし、なって欲しくもない。さて、作業の方は8割方進んで、今日の打ち合わせはお開きとなった。

8 月28日、パッと見て小学生とわかる子供達が、数多くハチ公広場付近を歩いているというのは、結構珍しいことだ。何じゃいな?と思って、渡った先を見ると、既に長い行列ができている。何でも、ポケコロとかいうアプリが、結構、小学生(の女の子)に広まっているらしいのだ。検索して「学んで」みると、着せ替え人形と、リカちゃんハウスの合いの子みたいな感じの遊びらしい。(←表現が昭和している...)そのポケコロの世界観と、どう結びついているのか、これまた不明なのだけれども、ヨーロッパ系のお姉さんが10人ほど、ピンク色の服を着て風船を配っていた。これだけの広告を打つだけの収益を、どうやって上げているのか実に不思議なのだけれども、アプリというものはおおよそ、そういうものらしい。(←ガチャというものを買ってもらうんだそうな。)

8 月27日、羽の数の多い換気扇は、なかなか厄介な代物だ。よく料理店で火事が起きるのも、よく理解できる。知らない間に、ホコリをどんどん吸着して、ファンの羽なのか、それともホコリの塊なのか、区別が全くつかない状態になってしまうのだ。こうなると排気すら、おぼつかなくなる。この状態に至ってしまった場合、モーターの加熱で安全装置が働いて自動的に回転が停止する場合もあるし、排気の弱さに気づいて掃除することもある。もし、全く気付かずに煮炊きなどしていると、いつ引火してもおかしくないし、一酸化炭素中毒の危険すらある。ホコリに気づいたら、さあ掃除だ、掃除。ホコリまみれになるのは、仕方ないか。

8 月26日、カイガラムシに要注意。カイガラムシというと、何となく、木にくっついて、白く星のように固まっていて、引き剥がすと中が赤かったりして何となく生き物っぽい、そんな印象が頭に浮かぶ。そういうカイガラムシも居るには居るのだけれども、要注意なのが「歩き回るカイガラムシ」だ。アリでも来てくれたら、食べてくれるのではないかと期待してみるも、実は蟻はカイガラムシが出す甘い汁を吸って、去って行くそうな。この銭形のカイガラムシにたかられた木は、成長が止まる。それもそのはず、樹液がどんどん辺りに撒き散らされるほど、木の養分を奪って行く。バラなどの低木は、カイガラムシにたかられた枝を早々に捨ててしまって、根元から新しい枝を出す。カイガラムシの習性に、よく対応したものだ。自然の不思議。で、その、カイガラムシにとりつかれたら、片端から潰して行くか、あるいは樹木が吸うタイプの農薬に頼るしかない。園芸栽培というのは、なかなか、無農薬とは行かないのである。

8 月25日、幼少の頃、ネットなどあるはずもなく、自宅にあった百科事典と生物学図鑑が暇つぶしの種であった。小学校の読書の時間も、図書館に行ったら百科事典を取り出して来ては、あれこれと眺めていた。時々、その他のものも読んでみようと、ふと書棚を見渡すと「毛沢東」という伝記物があって、八路軍から長征を経て北京に至る武勇伝にワクワクしたものだ。この伝記物シリーズが実に多彩な人々を取りあげていて、ネルーやガンジーはともかくとして、ヒトラーとか、帝国海軍航空隊のパイロットの伝記まであった。思い出して見ても、どういうポリシーで編集したものか、訳がわからないのである。あ、それで、百科事典に戻ると、「キンコ」という丸くておいしそうなナマコが掲載されていて、それは瀬戸内海では見かけないものなので、繰り返し見て頭の中に入れた。それから随分と長く経つけれども、まだ本物を目にしたことはない。ただ「キンコ: 食べられる」という説明書きが、スケッチとともに頭の中に入っているだけである。暇があったら、Wikipedia を読んでいるのは、結局、幼少の頃についたクセなのであろうか ...

8 月24日、バックアップディスクというのは、案外アテにならない。長期間のバックアップを入れてあるディクスほど、真っ先に壊れて行く。ディスクには寿命というものがあるから、これは当たり前のことだ。バックアップディスクを次々と追加して行って、古い方から新しい方へとバックアップファイルを引き継げば良いのだけれども、面倒なので追加したままにしてある。もちろん、RAID を組めば、この辺りの煩雑なことは自動的に済ませてくれるのだけれども、性能にあまりにも開きがあるディスクが RAID の中に混在しているのも、また奇妙なことなのだ。この辺りのことは、もはやクラウドに任せる時代になったのかもしれない。雲は、いつ消えても文句が言えない、という気はするのだけれども。

8 月23日、歌手が歌詞を間違ってしまった時、バックコーラスは? よくあるのが、サビの歌詞が最初から二番のサビになってしまう間違い。カラオケでやっちゃった人も多いだろう。こうやって間違えるのが、口パクではない証拠。さて、コーラスの方はどうかというと、生だったら機転を利かせて、合わせられるようだ。録音だったらどうしようもないけれども、実は間違ったままでも、あまり目立たないことが多い。違った母音が重なっている時に、どの音がどの母音だと聞き分けるには、かなりの注意が必要なのだ。また、歌は韻を踏むことが珍しくないので、違う歌詞でも、重ねてみると似たような子音・母音のパターンだったりする。ともかくも、ヴォーカルのミスに動じないバンドマンの毛の生えた心臓は、見習いたいものだと思う。同じように、バンドの構成が変わろうと何だろうと、堂々と歌うヴォーカルもまた、安定感があって美しい。

8 月22日、和菓子とは何か?と問われると、ええと、ええと、洋菓子から油分を抜いたら和菓子と言いかけて、油で揚げた和菓子もあることを思い出す。卵も、あまり使われないけれども、饅頭の皮に卵が入ってないか?というと、一概にそうも言えないし、卵味の餡が入った和菓子もある。これは中国の何でも入っている饅頭のバリエーションから影響を受けているのかもしれない。少なくとも、生クリームとチョコレートは、伝統的な和菓子には使われていない。従って(?)和菓子にチョコレートを入れたり、クリームをかけたりすると、洋菓子っぽくなる。かき氷とパフェのあいのこみたいなものだ。こういう、様々な菓子のスペクトルを楽しめる時代は、たぶん平和なのだろう。

8 月21日、落ち葉がたくさん、道に積もっている。何の落ち葉なのか?と、見上げると楠の大木。なるほど、楠はいつも緑があって、裸になることがない木だけれども、こっそりと今頃、古い葉を落としているのだ。ヒノキもまた、今頃(いつでも?)、古い葉を盛大に落とす。いや、ヒノキの場合は「伸びる芽は伸びて、伸びない所は次々と枯れる」という成長をするらしくて、いつ見てもモコモコしている木の中身は枯れ枝だらけだ。この枯れた状態に雨がかかって、風でちょっと揺れるとゴッソリと枯れた部分が落ちる。その、落ちた所に階段がある箇所があって、夜の暗い時に降りるのは、なかなかスリリングだ。氷の上を歩くよりも怖い、と言って過言ではないだろう。いずれにしても、舗装された場所に落ちる枯葉には風情がないものだ。土の上に降り積もった落ち葉は、数年の内に薄い堆肥の層となって、自然を感じさせてくれる。

8 月20日、年金というシステムについて、色々と意見が転がっている。過半数の人々が(?)毎月、ある一定額を支払っているのであるから、議論したくなるのは当然のことだろう。廃止して生活保護に一本化してはどうか?とか、基礎収入を導入して、そこに満たない場合は国家が補填するとか、まあ案は色々と出て来るものだ。では、私はどういうシステムを支持するのか?というと、先々の定量的なシミュレーションなしには判断がつかないというのが本音。もちょっと言うと、どのようなシステムを採用しようとも、サラリーマンからの国庫への支出割合は、ほとんど変化しないだろうと思っている。政権交代や革命が起こったとしても、この点は似たり寄ったりだと感じるのだ。むしろ、使い方、その現場に目を光らせておきたい。

8 月19日、御影駅の近くにあるお菓子屋さんが近く閉店となる。もう毎日のように行列ができていて、早々に売り切れとなってしまうそうな。同じお菓子屋さんが、三宮のそごうにも出店しているので、きっと長々と行列ができているのだと思って見にゆくと、数人だけの行列であった。看板商品について言うならば、どっちで買っても、美味しさに差があるとは思えないのだけれども、まあ、有り難みに差があるのだろう。また、百貨店の店舗では、周囲も同じようにお菓子屋さんなので、長い行列を目にすると「他を検討する」と言う経済原理が働いて、結果として行列の伸びが抑制されるのだろう。三宮のそごうで、行列が長くなるのはピロシキの店と、551である。この二つは、周囲に「比べ得る店舗がない」のであろう。購入して、早々に帰って、食べてしまった。

8 月18日、外国の方の履歴書を眺めると、Magister という学位を目にすることがある。マギステル、何だかマジシャンみたいに聞こえるのだけれども、大学の在学期間が長い国では大卒、そうでなければ修士くらいの資格で、人に何かを教えることができる程度まで修行を積んだことの証となるものだ。ラテン語では教師。当時の教師って、貴族の前で講釈する人々なんだよなぁ。また、マエストロと同じ、というと何だか高尚に聞こえるけれども、それは音楽や芸術の世界での外来語としての使われ方から来る印象だろう。マギステル、マエストロ、マスター(修士)と並べて見ると、ああ確かに同じ言葉なんだと思えて来るから不思議だ。博士の方は、今日ではおおよそどこの国でもドクトル、ドクターの呼び方で統一されている。こっちは、単に受け売りで教えることが出来るというレベルを超えて、「新しい芸」で人々を楽しませてくれるという、創造能力があることの証である。まあ、そういうことにしておこう。

8 月17日、仕事が終わって、チョイと本屋に寄ってみる。目指す先は、外国語のコーナー。どれくらいの外国語まで本が揃っているかで、おおよそ、その地域に住んでいる、あるいは仕事をしているコアな文系層の人口を肌で感じることができるからだ。行ってみると、あります、あります、色々な国の言葉の入門書があるだけでなく、フランス語の古文だとか、スペイン語というか、ガリシア語の文献も並んでいる。また、詩集なども。今日のお目当は、ラテン語。別に、ラテン語をマスターしようなどと思っているわけではなくて、英語の中に入り込んでしまったラテン語の語彙について、「中途半端に」知っておこうという目的で、チラチラと眺めるには楽しいものなのだ、ラテン語の入門書は。格変化「だけ」はキッチリと覚えないと、ごくごく簡単な文章も読み解けないので、これは暗記して行こうと思っている。動詞の活用は、ロマンス諸語に似てるから、まあ、そのうち、何とかなるだろう ...

8 月16日、ヒンヤリとした東京は、ミストシャワーのような霧雨に包まれていた。これは、米が凶作となった年に仙台で何日も包まれた雨と同じものだ。傘をさしても、結局は真横から、あるいは真下から濡れてしまう。傘をささなくても、ずぶ濡れになることはない。そんな謎めいた雨。瀬戸内とか大阪湾に面した地域では、滅多に経験することのない雨だ。涼しいのだから贅沢は言わずにトボトボと目的地まで歩いて、今日は店じまい。夏もお盆で一区切りとなる、というのは、確かにその通りだと思わせる東京の夜であった。

8 月15日、お盆のゴミ出しは要注意だ。毎日のように大学から電車で戻る、都心からちょっと離れた海辺のわが家の周辺でも、お盆の時期には「人口」が少なくなる。あるいは、人が居ても、みんなで外食に出かけたりして、ゴミが溜まらない。一方で、お盆の間もゴミの回収は、いつも通りのスケジュールで行われるので、普段であれば太陽が高く登ってからやって来るゴミ回収車が、早朝の指定時刻を過ぎるか過ぎないかのギリギリの頃合いにやって来て、ガガガーっと回収して去って行くのである。その物音で気がついても、後の祭りである。腐敗臭を発するゴミを、次の回収日まで何日間か、抱えておかなければならない。

8 月14日、フランス語、イタリア語をかじって、名詞や冠詞や代名詞は「男性と女性」という文法を頭に叩き込んでから、スペイン語を見ると、早速ヘンテコなものに遭遇するのである。Esto という、頻繁に使われる言葉。Este が男性形で Esta が女性形、Esto はえーと、なんじゃこれ?と、いうことになる。スペイン語の名詞は全て(?)男性か女性。でも、代名詞と冠詞に中性が残っていて、これまた lo que みたいな形でドコドコ使われるのである。これはエラいこっちゃ?いや、男性か女性か迷ったら、中性の形で言っとけばとりあえず何とかなるので、誤用とはいえ初心者には優しい言葉なのである。この辺りの変幻自在なスペイン語の性格は、話者が非常に多いことと無関係ではないのだろう。

8 月13日、夕方になると、隣の建物の窓で反射した太陽光が研究室に差し込むようになった。秋がもう、やって来ているのである。夜にセミの羽化を見ることもなくなり、涼しい風が吹き渡ると、虫の音が聞こえてくる。夏の厳しさはどこにあるのか?というと、日増しに温度が上昇して行き、体が慣れるのが追いつかない梅雨明けの頃がピークで、その後はだんだんと「一瞬の涼」を感じるようになり、やがて太陽が低くなって行き、楽に過ごせるようになって来るわけだ。大学の「とても」良い所は何かと言うと、9月になっても新学期が始まらないことだ。大学教員の夏休みは、これから始まると言って過言ではない。ただ、ちょっと寂しいことに、9月になって海に出かけても、泳げないのである。やっぱり、今のうちに楽しんでおこう。

8 月12日、中学校・高校に占める英語教育の時間は、結構長いのである。しかしながら、一部の熱心な受講層を除いて、目に見えるような教育の効果が上がらない、そんな指摘がなされて久しい。実はこれ、英語の上達は「目に見え易い」というカラクリが潜んでいるのではないか?と思う所があるのだ。国語の上達は目に見えるだろうか?判決文や、契約書の約定が正しく読めないという点が、よくクローズアップされるけれども、国語の問題ばかりとは言えない面がある。数学の上達は ... これについては、そもそも、日常生活に数学が必要ないと考えている人々が多数派である限り、議論しても仕方がないのではないかと、密かに思っている。この状態が続く限り、理系人間には飯を食うチャンスがあるからである。さて、英語に話を戻すと、「同じ時間だけ受講する」ならば、英会話学校のマンツーマン講義の方が、クラス単位での授業よりも効果的なのである。これは、時間単価が全く異なるので、比較するまでもないことなのだけれども、例えば「国語でマンツーマン講義をする」とか、「数学でマンツーマン講義をする」という場面を思い浮かべてみると容易にわかるように、英語のマンツーマン講義は「目に見える改善」を生じ易いのである。これは自らの経験なのであるけれども、その機会が巡って来たのは自分が定職についた後のことであった。ちなみに、英語の教育がどんどん進んで、巷で日本人同士が英会話する時代となると、「国語力こそ学力の核心である」という方向に舵が切られることであろう。そういう論調が出る頃、とき既に遅く、日本語は滅びの道を歩むのである。

8 月11日、昨日やり残した仕事は、今日が仕上げ。後は、事務室に提出するだけだ。と、真昼になるまで信じていた。が、何だか世間の空気がドンヨリしているのである。もうお盆休みが始まっているのだろうか?と、スットボけたことを考えつつ、テレビでは「山の日」の特集が放映されている。何じゃ?山の日?これで、計画の半分は狂ってしまった。今日も働くんじゃーっ、と空に向かって叫んだつもりで、プラプラと、あてどもなく炎天下をさまよい歩くのであった。いや、そうするには暑すぎるので、ちゃんと目的地にたどり着いて、ゴソゴソと日頃の悪い行い(?)を重ねる午後であった。

8 月10日、オープンキャンパスの一日。準備から始まって撤収まで見届ける。今回、とある会場を担当していただいた先生は、生徒の興味を引くツボを良くご存知で、毎回、色々と新しい引き出しから小ネタを披露して会場を沸かせてくれた。ああいう技を身に付けたいものだと思う。さて、空気の熱伝導はとても悪く、デモ実験の主役である液体窒素が容器に入っていても、表面から熱が侵入して行く速さは、とてもゆっくりなのだ。また、発泡スチロールの容器に入れておくと、結構長持ちする。こういうことは、そのものを見ないと、なかなか想像し辛いものだ。理論物理屋も、時々は実験を見なさい、ということなのだろう。

8 月 9 日、お盆になると、航空機の利用が増えて、人々がどんどんマイレージを積むのだそうな。墓マイレージ、なんて言うと寒くて凍りつくだろうから、暑い時期に敢えて言っておこう。さて、このマイル、オマケと言うか、ポイントとして航空券に引き換えられるマイルと、ステータスを決めるマイル、あるいはポイントが別々にあって、混ぜこぜに語られることもあるのが難儀なのである。マイル貯めるといいことありますよ、ステイタスが高いと優先搭乗できますよ、と、耳元で囁かれると、その気になってしまうのだけれども、よーく勘定してみると、私のように早々と割引航空券を確定してしまう貧乏人には、あまり向いていないと思うに至る。そう断定すると営業妨害になるから、単に、個人の感想。そのうち、気が変わるかもしれない。

8 月 8 日、今日もゴソゴソと仕事。月曜日は、特にお盆直前の週の月曜日には、駆け込み仕事がどんどん降って来るものだ。こういう仕事は、結局はお盆に仕上げることになるのが通例なのであるけれども、片付けられるものから先に、どんどん手をつけて行かなければならない。とは言っても、別件仕事で時間が空いていないので、夕方まで積もったままにする。そして、夕刻にメールを見てゲンナリするのである。ここからが馬力の見せ所。arXiv プレプリントサーバーも、ちゃんと見なければ。幸い、火曜日にしては投稿数が少ないので助かった。みんな、夏休みモードでバカンスを楽しんでいるのだろう。

8 月 7 日、台風来る来る、いや、実は敵前逃亡して、東京でクダを巻いているのであった。どう言うわけか、スペインとは縁が切れないのである。昔、第二外国語としてフランス語を習っていた頃は、きっとフランス語が役に立つ日も来る来ると信じて頑張っていた。確かに、後にローザンヌに40日ほど滞在した折には、フランス語の看板が読めるだけでも、数が数えられるだけでも役に立った。単身者(当時)の日常生活では、日本語でも、これくらいしか使わなかったかもしれない。しかし、共同研究を始めた外国人はスペイン人であった。マドリードには一体、何回行ったんだろうか。そして世界を見渡せば、ロスアミーゴスだらけ。きっと、フランス語は、英語からスペイン語への橋渡しのために、神様が学ばせてくれたプレゼントなのだろう。と言うわけで、今日もバルで乾杯。

8 月 6 日、ちょっと、いんでくる。... これが、西日本であっても若い世代には理解しがたい表現であることを知って、びっくりした。「去ぬる」は古文に出てくる、ナ行変格活用の動詞だ。このパターンは「死ぬる」と「去ぬる」の二つしかなくて、前者は五段活用になってしまい、後者は方言に入り込んで現在も使われている。冒頭の「ちょっと、いんでくる」は、今からしばらくの間、自宅またはベースとなる活動の場所に移動して、所用を済ませた後で、また戻ってくるという意味だ。標準語で正確に表現すると「少しの間、一度戻って、また来ます」と実に長ったらしいのである。古文の動詞の活用、上二段や下二段は現代文でも時々見かけるし、方言にそのまま組み込まれている場合もある。ちなみに、ここで言う古文の文法とは、ごく限られた学のある人々が使っていた文章表現の標準的古典日本語に準拠するものであって、全国の平民がそのままの言葉を使っていた訳ではないことには注意が必要だ。現代の国語文法もまた同じ。

8 月 5 日、あれあれ、昨日の夜にはデータベースに入っていなかった情報が、土曜日の今日にはバッチリ入っている。ということは、その間に、作業してくれた方が居るということだ。何処の、どんなデータベースかということは、伏せておこう。うっかり公表してしまうと、そこで働いている人々の「仁義なき残業」が公然となってしまうかもしれないからだ。ちなみに、研究者はどうかというと、非常にブラックな職業で、寝てても食ってても映画見てても、何となく頭の片隅で色々と考えていたりするし、共同研究者の手前、あらぬ馬力を出して休日出勤したりする。いや、出勤とは言っても、好きな文章書きしてるだけだから、業務とはチト言えないのであるが。

8 月 4 日、2リットルのミネラルウォーターが6本入った箱は、12kgの重さがある。これを生協の売店から、研究室まで持って来ることには、さしたる苦労はない。ただし、直近の生協であれば。今日は、ふと、少し離れた山の上の生協でこれを買い求めてしまった。どうせ下り坂だからと、ナメていたのだ。道半ばまでは、確かに楽々やって来たのであるが、そこでスタミナが切れて、後は持久力の戦いとなった。無理をして、ギックリ腰にでもなったら元も子もないのである。道半ばであると自分に言い聞かせて、部屋まで戻って来て、箱から取り出した水の美味しかったこと。炎天下での肉体労働をこなす方々の強靭さを思い知ったのであった。

8 月 3 日、ポートアイランドの南の端は、距離的には結構、三宮から遠いのである。神戸大学から三宮までと、同じくらい離れている。神戸大学から、京コンビュータまで、どれくらい時間がかかるのだろうか?と、実際に測ってみて拍子抜け、まあ50分から、余裕を見ても1時間を見込んでおけば十分なのである。随分と時間がかかるように思えるのは、多分、三宮の乗り換えが結構、チンタラとしているからだろう。阪急と JR とポートライナーは、ホーム同士は目と鼻の先にあるのに、乗り換えにはクネクネと歩かなければならない。ついでに文句タレると、二つの地下鉄路線もまた離れている。まあ、乗り換えの間に、神戸の風景を見て歩けるのだから、文句をタレたらバチが当たるかも。

8 月 2 日、イタリアはイタリアなんだけれども、イスパニアがスペインとして日本語に定着してしまったのはなぜだろうか。ポルトゥガルはポルトガルだから、これは単純に表記の細かな差でしかない。よほど、江戸時代の初めにイスパニアが嫌われたに違いない、全く忘れ去られるほどに。あるいは禁句となったのだろうか。やがてドンブラコ、ドンブラコと、黒い船がやって来て、世界地図に Spain と書いてあった、そんな筋書きを「でっちあげる」と、何となく本当らしく聞こえて来る。真相を探るには、明治時代の新聞を片端から読んで行くなど、地道な作業が必要だ。カタカナ表記といえば、スパゲッティー・ボンゴレ・ビアンコの、最後のビアンコが性数一致していない不自然さに長らく疑問を持っていたのだけれども、実は Spaghetti alle vongole in bianco 又は Spaghettic con le vongole in bianco と、前置詞で仕切られているのであった。カタカナ表記には、いくつもの落とし穴があるものだ。

8 月 1 日、Gravitational Wave と Gravity Wave は、どちらも「重力波」と訳すことになっている。意味は違っていて、前者が連星ブラックホールから出るような、空間の曲がりが光速で伝わる「重力理論的な波」で、後者が水面の波長が長い波だとか、うろこ雲が見える時に空にできているような波、つまり「重力が働いた結果の波」を指す。言葉の使い分けとしては、Gravitation の方が古くは万有引力、現代的にはアインシュタイン方程式で記述される相互作用を意味していて、Gravity が単に「地球(あるいは他の惑星など)の、主に表面で物体に働く力」を指す。こんな区別があるんだ、すごいだろー。実は、ついさっき、google を叩いて、初めてこの区別について知った。で、重力の専門家にコメントをと、聞いてみたら「wave が付く時以外は gravity でいいかなぁ」と、あまり意識されていないか、あるいは無意識に判断できる域に達している模様。

7 月31日、デジタル技術を地道に支えているのが整数の演算。レジスターの bit 数が幾つであっても、基本は変わらないのだけれども、昔の 8 bit という整数の単位は、bit と数の間の距離を強く意識させるものであった。符号無し整数ならば 0 から 255 まで、符号があったら - 128 から 127 まで。これを「つなぎ合わせて」16 bit や 32 bit の整数を表現したり、掛け算や割り算を実行するプログラムを、まずは教科書的に書いたものだ。そこから先が実にオタクな世界で、なるべく ALU に近いレジスターを使うとか、可能な限りメモリーアクセスしないとか、クロックを数えて短い方の演算を使うとか、パイプラインを乱さない順番でコードするとか。機械語でコンピューターの世界を支えた人口が何百万人も居た時代、もう二度と来ないだろう。世の中進んだものだ。

7 月30日、暑くなったら素麺。産地はいろいろあるけれども、郷土愛あって、買うのは小豆島の素麺だけ。昔は、色々な地方の素麺を買って食べ比べていたのだけれども、子供の頃からずーっと食べ慣れている小豆島の手延べそうめんに「比べる」感覚で、結局は素朴な味わいの地元産に戻って来たのだ。まあ、麺に凝るよりも、茹でたらサッサと食べるという方が大切かもしれない。だいたい、一食でふた束くらいが丁度だろうか。お腹いっぱいになるには三束だけれども、延々と素麺だけを食べるのは体にあまり良くない。おかずは、さて、ゴーヤくらいかなぁ、あまり豪華に食べても、素麺の印象が薄れてしまうのだ。何か、書いてる端から論理が破綻しているけど、これも暑さのせいだろう。

7 月29日、めちゃくちゃ暑い日であった。日中に一度雨が降って、これは過ごしやすくなると思ったのが間違いであった。夕方にかけて、気温がどんどん上昇して行き、蒸し風呂のような夕凪を迎えたのである。メリケンパークで、海の日のイベントが行われていたけれども、あまりの暑さに、日中は人もまばら。夜は賑わったのだろう。対岸?の、ハーバーランドでは、ラテン音楽の催し。こちらは、暑くなったらハーバーランド・モザイクに逃げ込める場所にあって、多くの人が集まって、あるいはモザイク側から鑑賞していた。ただし、冷房が効いた場所があるということは、どこかで排熱しているということで、屋外の暑さの厳しさは変わりないものであった。

7 月28日、学位の取り方は国によってマチマチで、同じ博士様と言っても、よーく比べてみると微妙にその意味というか、意義が異なるのである。日本国内に限っても、分野によってだいぶん異なるかもしれない。どちらかというと、自然科学の分野や、工学など、価値判断が割とハッキリしている所では「ひと仕事したら学位」という共通認識があるのではないかと思う。文系になると、「大仕事をして」あるいは「研究を大成して」、周囲から贈られるような形で学位を得る、そんな場合もあって、これはかなり高い評価基準である。ともかくも、学位を持っていないと、なかなか研究職や、大学での教職にありつけないことは確かで、運転免許みたいな機能を果たすことでは共通している。持つべきものは学位かな ... というのは、まあ、業界で働きたい方向け(だけ)のオススメかもしれない。

7 月27日、faculty という英単語について学んだ。ポンと英訳させると「学部」という答えが戻って来る。学部なんだから、組織を指す言葉なんだろうと、ずーっと思い込んでいた。少なくとも 30 年間は。英英辞典の Webster で faculty と入れてみると、確かに「学部」に相当する言葉ではあるのだけれども、それは多用される用法ではなくて、能力や才能という意味が最初に立つ。ラテン語の facere、ロマンス諸語にも引き継がれている「行う」という言葉に源を持つ、数多くの言葉の一つであった。そして、アメリカ英語では更に「学部の人々」を指すようになった。但し「能ある人々」という意味であって、私のように煩悩しか頭にない人間は stuff で充分らしい。

7 月26日、鉄棒という競技は、重力あってのものだということ、これは当たり前なのだけれども、もちょっと考察してみよう。無重量状態であれば誰でも鉄棒の離れ業を自由にやってのけられるか?という問題を考えてみる。角運動量のことを考えると、無重量状態では「ブラ下がった」状態から大車輪に移れないし、何らかの方法で大車輪を始めてしまったら、今度は止めることができない。離れ業のほとんどが、離れたが最後、鉄棒とさようならである。重力が鉄棒という回転軸に対して角運動量を与え、また、離れた体を鉄棒まで引き戻してくれているのである。月面宙返りも、月面でやろうとすると、かえって難しいのではないかと思う。特に、着地で浮かないように決めることは至難の技だろう。

7 月25日、コンピューターを速く、そして軽く作動させることに、どれだけの技術と経験が注ぎ込まれているのだろうか?ちょっとしたプログラムを組んで動かすだけのことでも、プログラミングの技量によって大きな差が現れる。もっともっと複雑な動作を要求される場面では、なおさら、技量が問われるだろう。こういう状況で、技を磨いて世の中に見せてやろうというのが、日本的な考え方で、なるべく楽チンして、怠けられる方法を探そうというのが欧米的思考ではないかと思う。これは用語にも現れていて、マスター・スレーブとか、サーバーなど、パソコンの世界には下僕が付き物なのである。表向き、奴隷という身分がなかった歴史、これはまあ良いのではないかと思う所だけれども、楽をする発想は、もっと取り込んでも良いかも。

7 月24日、昼過ぎの大学を歩くと、実に色々な国籍の学生さん達がブラブラと歩いている。外国人ばかりのクラスというのもあまりないだろうから、多分、昼ご飯の時間に落ち合っているのだろう。ハラールフードを出食していることもまた、外国人が多い原因になっているのだろう。今の世の中で、はて、日本にやって来て学ぶメリットというのは、どういうものだろうか?と不思議におもう所もあるのだけれども、こうやって学びに来てくれているのだから、何かがあるのだろう。思うに、日本の最大の財産は和食でも何でもなくて、日本語という珍妙な記述形式を持つ言語そのものであって、これを守り抜くために英語をサボるのは実に良いことである。ちなみに、こうやって英語嫌いが多いからこそ、英語教育が商売になるのであって、日本人同士が英語でコミニュケーションできるようになったら --- 事実、そうなりつつあるのだけれど --- もはや日本語は滅んだも同然なのである。

7 月23日、街中のネットワーク環境は、まだまだこれからと思う所がある。特に、人々が集中し始めると、全く電波が用をなさなくなる。こういう場所のために、赤外線など指向性の強い光を使った通信ネットワークが、これから先どんどん重要性を増して来ると思われる。パッとあたりを見回すと、光源だらけであることはいうまでもない。それら、人工の光は常に、通信の可能性を秘めているのである。「光あれ」とは、このことか! と思う、情報の世の中がやって来た時、地球はどうなっているのだろうか?全地球的に、要するに、バカバカしい些細なことが巡り巡っている内に、人類を打ち負かす種が現れるかもしれない。

7 月22日、夕日を眺める人は尊い。という表現を見て、文法的にどう考えるかで、その「考える人」の立ち位置がわかって来る。複文みたいなものだと思うのが中等教育の先生、分詞構文だと思うのが英語というか印欧語に毒された解釈、何でも名刺にくっついて修飾できてしまう言語の特徴だと思うのが、ええと、言語学の先生か?こういう文を見せて「動詞はどこにある?」と聞くのは意地悪で、どこにもない。転置して「人は尊い、夕日を眺める。」としてみると、日本語の語順は自由であるという説が崩れることがよくわかる。休日の朝から何を考えているのだろうかと自問しつつ、何でもないことに頭を使うことも悪くないと思うのであった。

7 月21日、銀行口座の残高がゼロになると、自動的に引き落としが不可能になるのだと、ずーっと信じていた。が、場合によってはそうでないこと、貸越しという手段があることを、いまになって初めて知った。ふーん、上手い仕組みになっているものだ。経済学は高校の政治経済と、大学の教養で習ったキリなので、そろそろ復習しておくのが良いのかもしれない。むかーしむかし習った、公定歩合とか準備預金による金融のコントロールなんて、もう実際のところ何の役にも立っていない。ケインズの呪い、いや、ケインズの言い遺したことを無視した呪いとしか思えないのである。

7 月20日、夏の野菜は、ざっくりと刻んで炒めて、冷蔵しておくと色々と使えて重宝する。そのまま、ドレッシングをかけて食べてもいいし、ダシと合わせてもいい。温めない方が、花のような香りが楽しめて美味しい。唐揚げでも買って来て、一瞬でカレーにすることもできる。夏の野菜は水気が多いので、鍋に焦げ付くこともあまりない。もちろん、注意は怠れないのだけれども。分量の割には沢山野菜が入っているので、気がつくと定食よりも高くついていたりする。下処理をあまりしていない野菜を段ボールで買い付けないと、こういうものは安くは作れないものだ。野菜室付きの大きな冷蔵庫があったらなーという10年来の夢を実現するには、まず稼がなくてはならない。どうやって???

7 月19日、夜の帰宅時に、ウリ坊を引き連れたイノシシを見かけた。なかなか用心深くて、サッサと茂みの中に消えてしまったのは残念だ。大学の構内で、一体、何を食べているのだろうか。今の時期なら、ノコノコと這い出て来たセミは、ちょっとしたオヤツだろう。草刈りの後も、イノシシの好きな場所らしい。年中、どこかで草刈りが行われていて、翌朝になると早速その跡を掘り返した跡ができる。目ざといものだ。ミミズが居るのか、カナブンの幼虫が出て来るのか、それとも芋でも埋まっているのか、ともかく土が好きな動物だ。そして、掘った後にはハトがやって来て、おこぼれ頂戴している。自然はうまくできているものだ。

7 月18日、まっ昼間に散歩。風が吹いて、ああ涼しい。この所ずっと、30度を超える熱気の中だったので、29度でも涼しいのである。ただし、じーっとしていればの話。坂道を登り始めると、やっぱり暑い。あちこちにセミの抜け殻が見える。ふと、これが人間だったら、面白いことになるだろうなーと思った。毎年、抜け殻が一つずつ出来るという、冗談話の設定だ。(←どうせ、誰かが既に文章化しているだろう。)有名人の抜け殻があったら、結構な高値が付きそうなものだ。人間は脱皮動物とは、結構遠い種だから、内骨格だし毛が生えていたりして脱皮するには無理があるのだけれども、そこはまあ、冗談話だから許してもらおう。

7 月17日、3つ以上の数の筆算というものを、計算ドリルとやらで、やらされることがあった。そろばんならば、これは OK である。幾つ数があっても、二段の間で計算するだけだ。しかし、手で行う筆算の場合、繰り上がりが二桁になった段階で筆算としての意味が破綻するのである。こういう、無意味なものを、結構たくさん、初等教育で「教育の時間潰し」のために行った記憶がある。だいたい、位取り記数法によって書かれた「並ぶ数字」について、多項式の係数としての意義を抜かして頭ごなしに覚えさせるのであるから、何を教えているか訳が分からなくなって当然なのである。初等教育の現場にも数学の心を持つ人々が、もっと沢山居て良いはずなのだが ...。

7 月16日、確か色々とやるべきことは数多くあるんだったと思い出して、連休こそ、そのような仕事をこなす絶好のチャンスと捉え(←役人的言葉遣い)ノコノコと大学にやって来るのであった。さて、幾つかあるんだけど、どれから手をつけようかなー、これは楽しい選択である。今の時間には、神戸港で帆船が帆を張るデモンストレーション中のはずだ、それを想像しつつ、行って見たいなーという気が起きることを喜びとして、ストイックに物理に没頭するのである。なお、これは自分の個人的な趣味であって、他人にも「休日に研究しろ」と強要するわけではない。諸々のことを天秤にはかって、やっぱり神戸港だー! 帆船だー! という判断があれば、それは立派なものだと思う。あ、祇園祭もやってるんだった。

7 月15日、神戸は海辺の街。波の音で目覚めると、何だか今日は道ゆく人が多いのである。連休というだけではない。帆船がやって来るのである。帆船パレード。(←すぐ反戦パレードと変換されるのは、日頃の入力のせいか?)今回はロシアからやって来た航海実習船が面白かった。乗っているのは当然、ロシアの人々、それも若いお兄さんが多かった。色の使い方が、日本の帆船とは違っていて、外国という感じがする。実際、船の中は(停泊している時には日本の法律が適用される可能性があるとはいえ)ロシアなのである。ともかくも、この3日間の停泊の間に、神戸を楽しんでもらえるだろうか?

7 月14日、今は恐ろしい世の中で、むかーし昔はこうだったとか、もう時効だからとか、うっかり話せない時代なのである。そこに、誰が見ても違法ではない、または不道徳でないと、判断できない内容が含まれている場合、時間を超えて第三者から批判を浴びることが目に見えているのである。道端に百円玉が落ちていたら、多分それは、どこかに隠しカメラがあって「横領」を見張っているのである。そう思うに越したことはない。我先にと、拾おうとした時点で「警察に届けようと思った」と釈明しなければならないのである。一円であっても同じである。したがって、夜に歩道を歩くセミの幼虫を集めて歩き、唐揚げにしようなど思っても、実行すれば即ち「誰かの貴重な食料を横領した」ことになるのである。一方、想像するだけならば、いくらでも想像する自由があるのである。思索万歳!

7 月13日、「フィッティング」という言葉が、色々な意味で使われていることを知った。我々の業界で「フィッティング」というと、実験で得られたデータをグラフにして、理論的に予測される、あるいは適当に選んだ、関数が描く直線や曲線の「どれ」が、点々と示されるデータと良い一致を示すか?ということを考えることである。うまくデータに曲線が乗れば「良くフィットしている」などという言葉遣いになる。どうやら、身の回りでは、衣服やら靴やらが、ユーザーの体型に合うように加工する、あるいは着こなすことがフィッティングらしい。また、工学的にも様々な場面で、フィッティングが登場する。外来語は使われ方が面白いものだ。

7 月12日、「あの人たちの計算は信用できない」という、何だかサイエンティストとして真っ当な発言なんだろうか?という言葉を、国際会議の場で耳にしたことがある。確かに、その発表内容はガタガタであったのだけれども、常にそうか?と問われると、そうとは言えないのである。たまたま、計算を担当していた「誰か」が間違ったデータを出してしまうことが無いとは言えず、また、その「間違い」を周囲が見抜けないことも稀ではない。しかしながら、この何とも言えない類の印象操作は、付きまとうことがあるので要注意だ。そういう事がないように、事前に著者間で、計算条件について、よーく討議しておくことが大切だということを、改めて理解した。

7 月11日、今朝は、セミの声で目覚めた。あちこちに抜け殻がある。抜け殻だけならともかくも、やっぱり、道中で力尽きて、道の上で踏まれてしまったものも点々と。地面に出ようとしたらアスファルトがあったとか、木の根に阻まれて生涯を終えるものも多いと聞く。そういうのは、肥料になったと考えれば良いか。さて今日の午後は、セミではなくてゼミ。関西弁では、上りアクセントで「ゼミ」と、ミの字を強く発音する。そして、お約束の通り、その後の助詞が抜け落ちる。「ゼミ始めるで」というふうに。ゼミでは論拠、論理の構築が大切で、ここを素通りしようとすると、思わぬ障害物に出くわして頓挫するのである。幸いなことに、どこかで議論がストップしても、また次回、新しい気持ちでスタートすれば良い。セミでなくて良かった。

7 月10日、足もとを動く影あり。この前は、緑色のカナブンだった。昨夜の神戸大学は?セミの幼虫 ... あれを幼虫と言って良いのだろうか、セミになる直前に歩いて出てくるゴツい姿は、老虫と言っても良いくらいだ。ともかく、道を歩いていては羽化できないので、そろりと木にとまらせる。強引に捕まえると、それだけで羽化が止まってしまうこともあるのだそうな、何事もソロリソロリ。一瞬、天ぷら鍋が頭の隅によぎったのであるけれども、自然の中ならばともかくも、この都会で何を吸って育ったのか不明のセミだから、揚げて食べることは断念。さて今頃は、どこかで空を舞っているだろうか?それとも、カラスの餌食になってしまっただろうか?

7 月 9 日、顔写真をプリントする時に、片面印刷にするか、両面印刷にするか?迷わず、イケメン印刷にするべきである。こう言う、寒いネタは、暑さで苦しむ人々の間で発するのが良い。一杯おごることになっても知らない。忙しいラーメン屋さんで、このような世迷いごとを言うと、叩き出されるか、良くて軽く無視されて終わりである。このように、身を粉にして自ら灰をかぶる(?)のも、これまた人々の幸せのためなのである。滅私奉公あるのみ。

7 月 8 日、酔った兄ちゃんが、電車の床に座り込んで、ドアを背にして寝ている。さて、どうしたものか。前後不覚の状態の兄ちゃんに近づくと、運が悪ければ一発殴られてノックアウトである。また、本人が動けなければ、ギックリ腰を覚悟して起こす必要がある。その際に、ゲリラ、いや、ゲロリなんてことが無いとも限らない。なるべくギリギリまで、見守るだけにしようと思う内に駅が近づいて来た。と、その時、女性の車掌さんが現れて、優しく声をかけたら、目を覚まして素直に従う兄ちゃんであった。女性の力はすごいなーと思った。

7 月 7 日、ジェット気流はどこへ?実は、もう、梅雨明けも近いのではないか?というくらい、極渦が小さくなって、切離された寒冷渦も動きがトロくて、梅雨前線という雰囲気がない。どちらかというと、熱帯のスコールのような、緩い気流の中で起きる降雨が続いている。もちろん、気流が緩いからといって、雨が緩いということはないのである。むしろ、動かずに雷が鳴り続ける、厄介な雨をどんどん降らせて、帰るに帰れなくなるのである。そういう時は、慌てず、その場で寝よう。あるいは、眠らなくても良いのかもしれない。週末は24時間営業だ〜と、強がれないのは、寄る年波のせいか?

7 月 6 日、オクラは、生でも刻めば食べられるけれども、表面のトゲの処理が厄介だ。少し茹でると、取り扱いがずっと簡単になることは言うまでもない。肩の所を、包丁で少しむいてから、ヘタの所を落とすと、穴が空かずに済む。さて、オクラを煮込むとどうなるか?そんな事、わざわざ実験しても仕方ないのだけれども、まず縦に切れ目が入るように割れてしまう。その後も加熱を続けると、アレレーッ、干からびた唐辛子を水で戻したようなと言うか、何とも言えないボソボソの繊維だけが残って、残りのネバネバは完全に分解、元のオクラは影も形も無いのである。煮汁を賞味してみても、オクラ感はゼロ。どこへ消えてしまったのだ?あのネバネバは ...

7 月 5 日、国民年金と外国人留学生・ポスドクの関係は厄介なものだ。年金を無視することが全く不可能かどうかは別として、無年金障害者になる確率がゼロとは言えないので、頭から無視することは勧められない。(もっとも、その状態で滞在を続けるかどうかは別として。)満額払って、帰国するときに一時金を受け取るか、減免申請するか、どちらかを通常は選択してもらうことになる。両者には微妙な違いがあり、よくよく理解しなければ判断は難しい。ここに救いがあって、両手の指で数えるくらいの数の国との間で年金の協定が結ばれつつあり、5年程度の短期滞在であれば母国の年金を支払い続ければ良い。ともかくも、外交関係というのは、ひとつひとつが協定になるので、なかなか難しいものだ。

7 月 4 日、最近、好んで良く食べるのが、スイカの白い部分。昨年までは、それを煮て冬瓜のように食べていたのだけれども、今年は生。生食で美味しいのは、白い部分の半分くらいまで。サラリとした感じの淡い甘みがあって、キュウリのような歯ごたえ、水々しい感覚、けっこう好きになってしまった。これに慣れてしまうと、ド真ん中の甘い部分は「甘すぎ」と感じてしまうから不思議。スイカは積算温度もさることながら、日照が勝負。夏至を過ぎた頃が一番美味しい。(←個人の感想です。)今日の台風の雨で、水を吸い過ぎて割れてしまったものもあるだろう。この辺りで作ると、多分、イノシシやアナグマがパクッと食べておしまいかな?

7 月 3 日、アルファベットを頭から3文字書、言って下さい。... 誰でも A, B, C と口にすることができる。では、7 文字では? A, B, C, D, E, F, G と、何とかなるだろうか。16 文字になると ABCDEFGHIJKLMNOP と、最後が P であることを的確に意識することは、工夫なしには難しい。例えば ABCD EFGH IJKL MNOP と、4つずつ口にすれば割と簡単なのだけれども、咄嗟には思いつかないだろう。数を数えるという行為も、ある範囲を越えると直感の及ばないものとなり、数字という言葉で理解しているらしいのだ。おそらく、それが原因で ABCD ... と文字を思い浮かべつつ、同時に頭の中で数えることができないのだ。母語によって差があるんだろうか?

7 月 2 日、「にがり」が店頭から姿を消す。なぜ「にがり」を探しいるか?というと、植物に一発で効くからだ。海水中のミネラルの 15 %ほどはマグネシウム塩なので、海水でも構わない。塩害が問題となる程の量を与える必要はない。なにせ、葉緑体の色素の、ど真ん中に1原子かるく乗っかっているだけなのだから、分量としては大したことないのである。その「にがり」が、全く販売されていない。豆乳を売っている横に、吹き寄せ豆腐を作るための「にがり」が置いてあったのは、もう何年まえのことだっただろうか?もっとも、探すまでもなく、塩よりずっと安価に、にがり粉末をネットで仕入れることができるのであるが ...

7 月 1 日、アルミは鉄よりも軽い。だから、最近のアルミ合金で出来た電車の車両は、昔の鉄製のものより「ずっと」軽い。... と書いてあったら、編成重量を比べてみると良い。アルミと鉄の比重ほど大きな差は出ないし、実は「ほとんど変わらない」場合さえある。これには、鉄の方が機械的な強度が大きいというマジックが潜んでいる。軽いというだけだったら、大昔の木製の車両の方がずっと軽い。燃えやすくて、メンテナンスが大変なので廃れてしまったけれども。ものすごーく軽くしようと思ったら、それこそトロッコ列車のように、骨組みと幌だけにしてしまえば良い。地下鉄に使ったら、さぞかしウルサイことだろう。

5 月と 6 月の1行日記