← 7 月と 8 月の1行日記  

6 月30日、梅雨前線が北上して、いよいよ熱帯っぽくなってきた。元気が良いのが、コケ。これだけ湿気があると、カビも出て来そうなものだけれども、屋外の地面でカビを見ることは滅多にない。(観察する眼力が無いだけかもしれない。)コケは、石の上、アスファルトの隅、タイルの隙間、ともかく、光が当たる濡れた部分には必ずと言って良いほど、生えている。緑色の植物なので、光が遮られると、途端に姿が見えなくなる。少し乾いた場所には、コケに変わって地衣類が。こちらも元気が良い。こういうものを見て研究するのも、アマチュアとしては楽しいのではないかと思っている。それで飯を食う研究者になると、大変なことも多いだろうから、あくまでアマチュアで。

6 月29日、今日は休暇を取っているのである。休暇なので、さあどうしようか?と思って、時間を過ごす内に、やっぱり今日の「仕事」は今日やるしかないなーと思って、職場にノソノソとやって来るのである。休暇なのだから、公然と遊んで良いのである ... というわけにも行かないか。そこで、気楽にノンビリと仕事をすることにした。だいたい、我々の仕事とは何かということを考えると、実は遊びそのものなので、日々遊んでいると言っても間違いではない。研究は世の中の役に立つことでなければならない、というお達しには、ハイその通りですと答えておいて「多くの研究の中には、やがて世の中に役立つものが含まれている」という解釈の下、そのうちの「一つ」となるべく、遊び保けるのである。

6 月28日、美味しいものが並んでいる場所に、焼きそばが必ず控えている。これがバイキングの鉄則。その時、どういう行動に出るかで、寿命が決まっているような気がする。焼きそばのチープな魅力には抗し難いものがある。それも、チョイと取ればいいのに、わざわざ満腹になるまで皿に盛って食べてしまうのである。これは、選ぶ側にとっても、店にとっても、幸せなチョイスなのであろうと勝手に思いつつ、焼きそばに直行。あーあ、ダイエットが、塩分が ...。食って後悔するかというと、いや全然、美味しかった、幸せ。ちなみに、バイキングの焼きそばは、意外と美味しいもので、焼きそば専門店よりずっといいんじゃないか?と思うことさえある。客の回転数や単価が異なるのだろう。

6 月27日、白い玉と黒い玉を使って数珠を作る、という、数珠順列・数珠組み合わせという問題が、高校の数1で取り扱われる。面白い問題だけれども、まあ、滅多に使うモンではないし、自分には縁のないものだと思っていた。さて、大学院博士課程で、ハイゼンベルグモデルや、ハバードモデルの対角化計算を行う必要にかられるも、計算機の能力がわずかに及ばないことに気づいて、よし、対称性を使ってヒルベルト空間の次元を下げようと思い立ったのであった。この時に、白い玉と黒い玉が、モロに出てきたのである。8年先を見越して学べ、と、言えなくなもない。ちなみに、それ以後現在まで、白い玉と黒い玉を「自分で」取り扱ったことはない。まあ、一度でも役に立てばいいか。数学は、それ自体が面白いのだから、役に立つ必要は全くない。

6 月26日、丸いスイカを頭の中に思い浮かべる。スイカといえば、濃い緑と、薄い緑が交互に縞模様を作っていて、濃い緑のギザギザ模様がトレードマークだ。スイカを描いてね、と、頼むと、誰でも、そんな絵を描く。きっと、本物も、その通りだろうと思って画像検索すると、あれれ、よーく見ると、思い描いていたパターンとは、少し違うぞ?... これは、丸のままのスイカを眺める機会がほとんどなくて、そういうものは絵の中でしか見たことがない、という「学習による印象操作」ではないか?と思うのである。メロンはどうだろうか?こっちは、スイカよりも丸のまま見る機会が多いので、頭の中の印象通りなのではないだろうか?

6 月25日、ふと見ると、駅で並んでいる、前のお姉さんの足元に、緑色の小さな輝きが。あれは、カナブン。夜の蛍光灯に照らされて、駅に飛んで来たのだろう。しかし、このままでは、電車が到着した時に、誰かに踏まれてしまう。うーん、うーん、うーん、「すいません、ごめんなさーい」と声かけして、カナブンを手に取って、空中に放つと、飛んで行った。思うに、数多くのカナブンが、毎日踏まれて命を落としているのだろう。もっともっと沢山のカナブン達は、自然の摂理で淘汰されて行ってるのだろう。そうとわかっていても、目の前で踏み潰されるのを見て見ぬフリをするのは、心が痛むのである。

6 月24日、その昔、阪急電車の連結器のドアは開いたままだった。発車すると、加速中には車両の後ろ側へと空気の流れが起きて、減速する時にはその逆となる。空気の質量と、その慣性を思い知る現象であった。空気抵抗が結構ある条件下での流れなので、振動が起きることはなかったと記憶している。もし内側に何もない筒型、あるいは箱型の空間であって、十分に幅が広ければ、もっと素早い空気の振動が起きるはずだからだ。飛行機でも、離陸の最中に同じような空気の流れが起きる可能性があるけれども、こちらはどうも、あまり感じられないのである。次に搭乗する機会があれば、羽根の上あたりに座って、調べてみよう。

6 月23日、日本語の形容詞に「白かれ」という命令形がある。現代日本語には存在しないとされる、形容詞の命令形だけれども、実は良く耳にする。「美しかれ」とか「多かれ」とか、もっとも頻繁に使われる「良かれ」とか。(←もっとも、単独では用いられない。)形容動詞の命令形も「堂々たれ」など、頻繁に使われる。大抵は、ちょっと古風な響きを、話し言葉に加える目的で使われる。そんな用法が可能な理由はというと、古文も現代文も、同じ日本語という同系の言語であるからだ。今日、この日に使うとすれば、次の言葉だろうか。『やすらかなれ』

6 月22日、大学の単位は「積み上げ式カウント」なので、どんな単位を何回落としても良くて、卒業までに、指定された数の必修科目と選択科目の単位が取れていれば良い。高校でも、単位制のところはそうかな。学年制を敷いている高校には「赤点」という仕組みがあるのであるが、厳格に運用すると、恐らく半数程度の生徒が3年では卒業できないであろう。その「赤点」は、何点かと調べてみると、おおよそ30点。一方で、大学の単位取得については、多くの大学で60点を合格基準としてある。この数字を見ると「さすが大学は学問の府だ」という感想を持たれることだろう。実にその通りだ、その通りだ、その通りだ、余計な言葉を付け足して、幻想を壊すことは、やめておこう。(ちょっと苦しかった。)

6 月21日、ウランガラス、名前の通りウランが含まれていて、緑色に美しく輝くガラスだ。こう説明すると「放射能で輝いているのですか?」と問われそうだけれども、そうではなくて、蛍光色が緑色ということ。だいたい、直接的に輝くほど放射能が出ているならば、水などで遮蔽せずに接すると命取りである。(←研究所で運用している実験用の原子炉は水の底で青く輝くのだけれど。)さて、ウランが含まれているものは、きっと流通していないのだろうと思い込んでいたら、そうでもないようだ。ウランガラスの放射線は、ダイエット用に売っているカリウム塩と比較できる程度だし、多少の放射能があったとしても密封線源だ。ガラスを砕いて飲むようなことはしないから、問題にならない量だ。そういうわけで今でも、人形峠でウランガラスが製造され、その近くで製品化されて、販売されているそうな。ところで、ラジウム・ガールズという人々はその昔、放射線で輝く蛍光塗料を扱っていた。これを文字盤の数字に塗った時計は、今でもオークションに出回ることがある。ラジウム・ガールズには若くして亡くなった方が沢山いたとか。確かに、こんな非密封線源には(今の常識では)触れる気にならない。

6 月20日、広告でよく見かけるモデルさんで、右か左か、どちらか一方の側の顔しか見せない人が、時々いる。逆側から撮ったのはないのか?と、画像検索してみても、全然ヒットしない。よほど、左右の見かけが違うのだろう。顔の左右で、それほどまでに違いがあるというのは、ひょっとすると「どちらか片方だけでも商売になる」という意味において、強みなのかもしれない。ちなみに、この「右だけ」とか「左だけ」というのが、モデルや事務所サイドの意向なのか、それとも、カメラマンが角度を探して、自然にたどり着いた結果なのかは、判別がつかない。昔はアニメでも、左が多いとか右が多いとかあったけれども、グラフィックス全盛の時代となって、そういう強烈な非対称性は、次第に姿を消しつつある。

6 月19日、研究でコンピューターを使っているとは言っても、常日頃から数値しか扱わないので、文字コードが出てくると裸足で逃げ出すのである。EOF を表示すると -1 になるのは何故?と問われても、もちろん即答できない。NULL というものが、ポインターであるということも、忘却の彼方であった。それじゃあ、数値だったら万全なのかというと、実はそれも怪しいのである。浮動小数点演算は神を恐れない「有理数間の演算」であって、これを real number と称するコンビューター言語は全て、ユーザーを地獄に叩き込むポンコツ道具なのである。そんなものに、足を奪われないように、君子危うきに近寄らず、避けて通るようにプログラムを組むのが、この方面でのプログラミング技法と呼ばれるものだ。この技は伝授せずに、一代限りで消してしまうのが、世のため人のためである。

6 月18日、この、その、あの、どの、さて、これらの品詞は何?一瞬、属格の代名詞と思いかけて、即刻沈没。いやむしろ形容詞的に使われていて、はて、文法用語は何じゃいな?と、頭の中に空白が浮かぶ。明治時代に、留学して戻って来た「輸入学問博士」の頭の中にも、きっと、こんな疑問が浮かんだことだろう。検索すると、指示詞「こそあど」のくくりの中の、連帯詞としての用法であった。なるほど、そうであったか、よくわかった ... と、全然思えないのである。日本語の語尾変化には、一体、どういうパターンが根本にあって、言葉の使われ方が決まっているのだろうか、考え始めるのに良い題材かもしれない。

6 月17日、神戸芸術センターに「シューマンホール」という部屋がある。当然、シューマン・ホールなのであるけれども、何となく「シュー・マンホール」に見えてしまうのだ。マンホールの穴に、シューっと何かが吸い込まれて行く場面が想像できるだろうか?ところで、マンホールのマンは何なんだ?と叩いてみると、man + hole という何とも素っ気ない造語だった。人が降りて行く穴とでもいうつもりだろう。じゃあ、シューマンの方のマンは? こちらも mann で、人の意味。シューが靴。靴屋さん、靴職人、そんな性らしい。ということは shoe man hole だから、どこで区切っても間違いではないのである。

6 月16日、エレキギターとオルガンの共通点は、原理的に持続音で、音に強弱がないこと。エレキには音の強弱があるじゃないか?と言われそうだけれど、大抵の場合、ディストーションがかかったノンリニアな音で演奏しているので、電気信号としての音の振幅は、よほど弱く弾かない限り一定だ。変化するのは、倍音の構成。強く弾いたり、複数の弦を弾くと、ノイズっぽいバリバリ感が出てきて、倍音のエネルギーが上がる。全体的な音のエネルギーは上がるのだけれども、クレッシェントした感じはない。楽譜のまま弾くと素っ気がない、音を切ることに表現を見つけよ、と、オルガンっぽい所があるのが、エレキギターの面白い所。もっとクラシック音楽で使われてもいい楽器なんだけどなー。

6 月15日、「4は2で割り切れる」というのは正しく「3は2で割り切れる」は正しくない。... という表現を見ていると、日本語はつくづく、状態の叙述に特化した言語だと思う。「動詞はどこに」という問いかけが無意味であるからだ。カッコの中身は「割り切れる」という可能の表現だ。もっと短い構成要素は「切れる」だ。関西では「切られ(へん)」と活用する。... と、ゴタクを並べるのは、さておいて、こういう命題は真であるか偽であるか、ハッキリしているものだと世間一般には思われているフシがある。どんな複雑な命題も、機械学習でも使えば (?) 真偽がハッキリしているものだと、信じる人が居るかもしれないけれども .... 囲碁に「必勝法が必ずある」ことすら、まだ一般的には証明されていないのだ。まだまだ、研究すべきことは世に満ちているのだ。

6 月14日、何事も、それが必要であるかどうか、常々考えておかなければ、段々と雪だるまのように、あるいはゴミの山のように、自分を圧迫して来る。日々の飯も、それを食べたいから食べるというモードから脱却して、必要であるから食べるモードへ移行したいものだと、常々考えておきたいと、常々考えていて、そして常々、実践できない。結果として、普段は無用の長物でしかない脂肪がついて、中年太りとなる。しかしまあ、イザという時には、多少の脂肪も蓄えておくのは悪くない事なのかもしれない。どちらに、重いリスクを見出すか?という選択の問題にもなるのだろう。と、考えなくても良いことを常々考えて、時間を潰してしまう。あーあ。

6 月13日、機械学習のニューラルネットワークを見ていて、何気なく思い出したのが「ネオンブライト」という、大昔のオモチャ。ライトで裏側から照らされた格子に色とりどりの透明なプラスチックピンを刺して行き、何かを描くという「光の刺繍」とでも呼べそうな、素朴なものだ。当時のテレビには走査線の概念はあったけれども、ドットはなかった。光のドットで、形を描くということは、言うまでもなく今日のディスプレイに通じている。ちなみに、そのドットが、とても美しいのである、少なくとも記憶に残る限りは。ドットが、ニューラルネットワークに記憶されていた、と、言うことか。

6 月12日、講義をしていると、とびきり寒い東風が窓から吹き込んで来る。待てよ、自分の体温が上がっていて、一人だけ寒気を感じているのかもしれない。このところ激務が続いたからなーと、一人弱気になって、じゃなくて発熱を理由にサボろうとして、アメダスを見ると 20 度そこそこの気温であった。神戸大学は山麓にあるし、風が吹いていたから、体感温度は 20 度を切っていたことだろう。それは寒いはずだ。というわけで、サボる理由は尽きてしまって、また今日もアクセクと働くのであった。今日は、理学部の建物の中に、自分のまだ知らない隠し部屋があるということを知っただけでも、有益であった。

6 月11日、ラテン語の、名詞の格変化は表にして目の前に貼っておきでもしないと、ちょっとした短い文章でも全く歯が立たない。google 様の自動翻訳に通すと、正しく翻訳されているのか、それとも数多い俗訳を単純に拾って来ているだけなのか、怪しい所が(まだ今でも)あって、やっぱり逐語的に確認しておかないと安心できないのだ。この苦しめられる格変化の語尾が、元々は日本語の格助詞のように「名詞にくっつく、半ば独立したもの」であったらしいという説があって、何じゃそれ?と思ってしまった。人類何百万年かの歴史の中で、言語は繰り返すように変化し続けて来たのだろうか?関西に住んでると、格助詞の使用頻度は相対的に少ないものだしなぁ。

6 月10日、ギリシア語で一番広く読まれている文章は何かと言うと、新約聖書だと言って間違い無いだろう。これは辞書を引き引き、動詞や名詞の変化を見極めて、意味を探るという地道な作業に立ち向かってこそ理解が得られるものだ ... という時代は過ぎ去ったようで、恐ろしく詳しい逐語訳、文法解説が無料で閲覧できるようになった。ありがたいことなので、全て頭から見て ... というのは老後の楽しみに取っておこう。訳で、意味の取れない所が幾つもあるので、そういう所の原義を探る時には、重宝する。それでもやっぱり、謎解きのようにボカして書かれている部分は意味が取れない。そういう所があるから、長く読み継がれているのだろう。

6 月 9 日、おはようございます。この表現の中に動詞があるか?と問われると、何とも言えないのである。まず「お .... ございます」の形の表現は、「お暑う/寒うございます」とか「お安う/高うございます」などの仲間で、「おはよう」だけが例外的に「ございます」抜きで使える。この、ございます、は、元々が動詞の「ござる」で、これは「ござらない、ござれば」など活用できるので確かに動詞だ。現代語でも「おはようござりまする」と考えて動詞+助動詞だと言いたい所なのだけれども、どちらかというと全体として助動詞に置き換えられる表現で使われることが多い。このあたりに、文語から現代語を理解しようとする限界がある。100 年後には、学校文法も随分と変わってるんじゃないかと、密かに思っている。

6 月 8 日、「美咲フォント」という、8x8 ドットで表現する文字がある。この「ドット」という概念は、ディスプレイやカメラの画素数を数える時以外は、もう使われなくなってしまった概念だ。ともかくも、この美咲フォント、不思議と複雑な漢字でも読めるのである。もちろん、込み入った漢字になると、1文字だけ示されると読めないことが多くなるのだけれども、文章の中に入って、漢語の一部になったり、送り仮名がつくと、途端に読めるようになるのだ。日本語の文章を読む場合の、文意の理解に文脈が果たす役割が大きいことが、何となく感じられる。それとともに、漢字という文字セットのタフさを改めて思い知った。

6 月 7 日、最近、プリンターの調子がどうもおかしい、とても印字が薄い .... トナーは十分にあるのにな〜。これはもう、買い替えか?いや、ちょっと待て、機械部分はともかくとして、ドラムに傷が付くなどしない限り、そんなに消耗する部品はないはずだ。とすると ... LED が汚れているかもしれない。と、思い当たるまで、我慢して軽く一年間は使い続けたのだから、何とも言えないものだ。プリンターのマニュアルをダウンロードして、LED ヘッドを紙で拭ってみると! まあ、何と、どこでこんなに汚れたのかとびっくりするほど、トナーが積もっていた。印字できなくて当たり前だ。というわけで、プリンター復活。まだまだ、末長く使えるかな。

6 月 6 日、face time の設定に、少しシクハクする。同じ Apple ID のデバイスの間で face time を使って通信するには、それぞれの着信アドレスを別々のものにしておけ、とある。問題は、このアドレス追加。追加する時に、アドレスの存在を確認するメールが飛んで、その先でもう一度、Apple ID を入力しなければならない。このことに気づくまで、30分を潰した。使ってみてわかることは、映像の通信が、とても細いこと。それはそうか、wifi というものは、いつでも高速通信できるとは限らないものだ。それから、iPad のカメラで、ホワイトボードを撮影する場合には、ちゃんと三脚を立てないと、安定した映像にならないこともわかった。機材というものは、なかなか、芸が必要なものだ。

6 月 5 日、モバイルPhone とタイプしようとして、movile と書いて、パソコンに間違いを指摘される。じゃあ何じゃい?と調べてみると mobile であった。どうして mov- じゃないのか?と思って調べてみると、動きを表す英単語の接頭語は mov, mob, mot の3つあって、motion なども含まれていることを知った。(完了形の語幹が mot となるらしい。) で、mobile はラテン語の mobilis (可動の) という形容詞から来ていて、これは動詞の movere に形容詞語尾の billis をくっ付けて作った形だとか。movbillis とは発音し辛いので、b が v に勝ったということだろうか。ちなみに、movile phone と発音しても、通じるという意味においては、全く問題なく通じる。

6 月 4 日、飛行機の座席は狭いので、肘掛け争いが起こるものである。私はどうしているかというと「可能な限り譲歩する」というモードを楽しんでいる。人間はどこまで越境して来ることができるか?という実験と考えると、結構興味深いものがあるのだ。大抵は、肘掛から少しハミ出す程度まで。昨日、隣に座った若いお姉さんは、実に興味深かった。最初はお行儀良く座っていたのだけれども、越境が自由だと気付いた頃から肘を深くついて、足を組んで斜め座りに。何不自由なく育って来たのだろう、その自由奔放さ、見事であった。こういう、本性はやっぱり、譲歩しないと見えてこないものだ。肘掛けは譲るに限る。えっ、譲らなくてもいい上級クラスのシートに座れって?いや、あっちはあっちで、アメフトの選手みたいな凄い体格のがゴロゴロ居てて、好みではない。

6 月 3 日、紫陽花は、しばらく前から花をつけていたのだ。緑色の内は、ひっそり目立たない。赤くなったり、青くなったりして、初めて目につくようになる。もちろん白くなっても目立つ。そして、そのままにしておくと、またまた夏頃には緑色がかって、やがて枯れて行く。要するに、放置すれば葉が付いている間は、ずーっと花が付いていることになる。こういう、ノンキな花も珍しいものだ。切り花にしても、すぐに枯れることはないし、切り花のまま水挿しにして放置すると、根が出て苗になってしまう。それを庭に植えるのは、まあいいんだろうなー。売ったり、誰かにあげたりすると、アウトだろう。

6 月 2 日、今の銀行は、通帳だけでは現金を引き出せないのだ。そのことを全く知らなくて、肝を冷やした。銀行口座を作る時に、キャッシュカードは郵送で送られて来る。それまでの間は通帳しか手元にないのだ。その通帳に、手持ちの当座の資金を全額入れてしまうと?入金は、銀行の通帳だけで可能なのだ。が、さあ、引き出してみようと ATM に通帳を入れようとしても無理で、せいぜい記帳くらいしかできない。現金は引き出せないのだ。慌てて窓口に戻って、引き出しの用紙に記入して印鑑を押して、ようやく引き出し。こういうトラップ(?)があるということを、外国人の口座を作ってみて、初めて知った。

6 月 1 日、大陸をまたいで ... というか海を渡って ... 学振外国人特別研究員がやって来た。ポスドクと呼ばれることもあるけれども、普通のポスドクはボス獲得の予算を切り分けて雇用に使うことを考えると、ポスドクというのは当たらない気がする。自分で申請して、獲得した地位なので、「研究員」という、独立した研究者であることが明示された名称こそ相応しい。任期は2年間である。これから、どういう活躍を見せてくれるだろうか?それはそうと、迎えに行った関西空港は、何というか、レジャー出発の人々で溢れていて、羨ましいな〜という雰囲気。ヨレヨレの姿で帰国して来る人々もまた、楽しかっただろうな〜と。

5 月31日、最近、タイピングの時に右手を浮かせるクセがついてしまった。もちろん、正しいタイピングは、ホームポジションに指を貼り付けておくような感じで、常に両手首を浮かせて行うものだ ... 少なくとも、昔のストロークの大きなキーボードでは。最近のパソコンの場合、特に大量のテキストを入力する場合でなければ、手首を机に置くことも多いだろう。が、最新の MacBook Pro でそれを行うと、あのデカいパッドに手の平が触れて、あらぬ所にカーソルが飛ぶのである。そこで、左手をベッタリとつけて、右手は浮かす。当然、左右非対称な荷重となり、体に良いことは一つもない。思うに、タッチタイプというものを、放棄しつつあるのではないだろうか、MacBook の世界では。昔のキーボードを引っ張り出してこようかな?

5 月30日、植物は、隙間があったら生えて来る、とは言っても、種か地下茎か、あるいは枝葉の一部でも降って来ないと、新しく芽を出して来ることは難しい。風に飛ばされる小さな種、綿毛の付いた種でも、垂直に切り立った壁には引っかからないものだ。この点、コケとか地衣類、あシダもそうか、とても軽い胞子でどこまでも飛んで行く所が、なかなか素晴らしい。さてコケの分類は?と調べてみると、あれあれ、大まかに3つの種類があって、それらを合わせたものが「コケ植物」らしい。一応、植物ではあるようで、昆布やワカメのようなことにはなっていない。なにぶん生物には不案内なので、これ以上語るとコケるのがオチか。

5 月29日、質量が連続に分布したバネの運動の計算は、色々と厄介なのである。フーリエモードにしてしまえばエエじゃん?と思わなくも無いのだけれども、境界条件と整合を取るのが厄介だし、また、バネに撃力が働いた場合だとか、バネの端が伸びた状態で「手を離す」と、縦方向へのキンクが走って、自分自身の弾性力が撃力になってしまう。これらの状況を、式に頼るのではなくて、まずは頭の中にイメージを蓄えて、運動させてしまうことが一つの解決方法だと言えるだろう。さて、この小さな系の物理、何かに使えないかなー。弦理論に使うという冗談はナシね。

5 月28日、あれ、電車の広告が無い。と思って辺りを見回すと、全部液晶画面になっている。そうか、山手線の新車両なのだ。まだ、どういうコンテンツを作ると良いのか、デザインの研究が進んでいないようで、動画が出ている割には、イマイチ、広告としてはインパクトが薄い。紙に印刷した文字や写真のコントラストの良さというものに、まだ手が届いていない印象がある。こんな事が出来るのも、液晶というものが値崩れしてしまったからなのだろうなー。マトモにポスターを発注するくらいならば、同じコンテンツを配信した方が安いや、というシビアな節約の需要もあるのだろう。これから、どんな電子広告を車内で見ることができるだろうか ...

5 月27日、いつかは情熱も 記憶の底へ ... と書くと、JASRAC が飛んで来るんだそうな。そこで、ふと思うことがあるのだけれども、適当な無理数、例えばルート2の中に、任意の文字列を探し出すことはできるのだろうか?√2 の中に、ある楽曲の歌詞が丸々入っている、なんていうことを想像するだけで楽しいのである。実用的な意味からいうと、もし潜んでいたとしても、「何桁目から始まる」ということを指定しようとすると、トンデモない桁数を指定しなければならず、記憶としては全く役に立たない。役に立たないからこそ、こういうことを考えるのは楽しいのであり、学問の対象となるのである。

5 月26日、大学の講義棟の中庭のツバキが、どうも調子が悪い。ずーっと理由が不明だったのだけれども、よーく根元を眺めてみると、地面のキワキワの所では幹の太さが倍になっている。その上で急にくびれている。そこにあったのは、植え込んだ時に根鉢を作っていた、樹脂製の強靭な帯。あらら、根元で締め付けられていたわけだ。どうするか、ちょっと思案した。下手にいじると、形成層に傷をつけたり、折れたりする可能性がある。よーく確かめてから、そろそろと帯を幹からはがしてみる。一部は幹に食い込んでいた。形成層ごと、ごそっと剥がれる最悪の事態は何とか避けられて、やれやれ。さて、復活してくれるだろうか?

5 月25日、居室の模様替え作業を、少し行う。部屋の中のガラクタを、右から左へと移動するだけで、幾分かのスペースが生まれる。そして、ついでに、これはもう捨ててもいいや、というものがゴロゴロと出てくる。少々重たいので、あとで捨てようと思っているうちに、何年もスペースを占拠してしまったゴミには風格がある。捨てられることを拒否しているかのようだ。これではいけない、今度こそ捨てないと、部屋のヌシとなってしまって、こっちが押しつぶされるぞ。今度こそできる、部屋の掃除、まあ何とかなるでしょう。それにしても、困るのは、保管しておかなければならない書類。全部、古紙回収に出したいのだけれどもなー。

5 月24日、阪急六甲駅前は、パン屋さんの激戦区かもしれない。一体、何軒あるんだろうか、この狭い界隈に。学生がたくさん通るという事情はあるものの、全てのお店が共存するには厳しいものがあるように映る。ただ、営業時間帯は少しずつズレていて、早朝からやっているお店と、結構遅くまでやっているお店がある。また、フランスパンが得意、デニッシュが得意、モチモチの調理パンが得意、という違いもある。当然どのお店も、食パンはしっかりとした物を提供していて「広告で話題の食パン」には目もくれる必要のない美味しさだ。ただ、ライ麦パン、黒パン(←同義か?)は手に入りにくい。ベーグルの店は、できたと思ったら、あっという間に撤退してしまった。色々あるのが、毎日通勤で通る阪急六甲の面白い所だろうか。

5 月23日、メロンの真ん中に入っている種の部分、キュウリみたいで美味しくないと思っていた。事実、昔はマズかった。最近のメロンは糖度が上がっていて、しかもキュウリ臭さが随分と減っているので、ひょっとしたらウマいんじゃないか?と思って、茶こしに取って、エキスだけ根気よく取り出してみると、あら美味しい。贅沢を言うと、やっぱりキュウリなのであるけれども、それを感じた上で、十分に美味しい。それにしても、果物というものは、陽の恵みを糖分に変えて、植物的には盛大に無駄遣いさせるわけだ。元々は鳥や小動物などに食べさせて、種をアチコチに運ぼうという魂胆だったのだろう。人間も分け前をいただけるとは有難いことだ。

5 月22日、カナダの国境近くに Brock University という大学がある。一方、ニューヨークに StonyBrook University という大学がある。この二つを、今の今まで「同一視」していて、後者の名前を聞いても、頭の中ではカナダにある「見たこともない大学」が浮かんで来るのであった。共同研究者から「その大学、カナダにないぞ」と知らされて、冗談だろうと思って検索してみて、始めて真実を知った次第。今まで、論文を読んでいても、どっちも「ブロック大学だなー」と思っていたわけである。思い込みは怖いものだ。それはともかくとして、手をつなぎつつ、朝からラブラブと大学にやって来る二人連れをポツポツと目にする昨今、初夏は若葉のように愛が育ち易い時期だと感じるのである。

5 月21日、仙台では青葉まつりが盛大に行われているそうだ。この時期の仙台は、本当に美しい。神戸でも、今日はサンバで有名な神戸まつりが行われている。地元の人曰く「行かんでいいよ」とのこと。行ってみたいという気持ちを持つということは、まだ神戸の人間になり切れていないのだろう、たぶん。と、行きたい所だらけなのだけれども、今日もまた別の作業と打ち合わせが待ち受けている。こういう時に限って「なにわ筋線の難波への乗り入れ可能な地下の空き地探し」みたいな、しょーもないことを調べてみたくなるのである。が、そんな時間もない。黙々と目の前にあるスタックに挑むのが、まず先決だ。

5 月20日、お昼前から、あれこれと雑務に入り、2時から一時間ほど他の仕事を行い、また元に戻って 21:30 までミッチリと作業をこなす。明日はまた、別の作業が待ち受けている。よくよく考えると、このようにして研究時間が全くない状態に満足してしまっている昨今である。研究者たるもの、答えのない海へと毎日漕ぎ出して行かなければならない、という焦りは何処へ行ってしまったのだろうか。そもそも、定評のないもの、新しいものを評価しようという考え方が、どこかおかしいのである。全く新しいもの、人々に馴染みのないものは、そもそも理解が得られないのであるから、評価の根拠を示せと言われても無理なのである。そこを無理に作文するから、時間を食うのである。あーあ。

5 月19日、継ぎ目が目立たないようにしてください、というのはよく聞く言葉だ。何かと何かを継ぐ、これは全体を構成する要素である、部分を継ぐということを意味しているので、少なくとも、一部とか部分という概念が必要となる。物理を考える上で、この「一部分」は鬼門の一つだ。小さく区切ると、性質が変わってしまう物理系も多い。そんな小さな容器がどこにある?と揶揄されそうだけれども、例えば白い色の飴を例に取ると、透明な飴に空気を含ませて、何度も伸ばした結果、細い空気のチューブが一方向に揃って白くなっている。このチューブが、どれくらい細いかは、チョイと計算してみればわかる。... と、考えていて、どんどんチューブを細くしたら、最後は再び透明に戻るのだろうかという、別の疑問が生じて来た。真相やいかに?

5 月18日、よく晴れた日は、陰影が濃い。こういう時には、いい写真が撮れるだろう、と思ってカメラを構えるのだけれども、意外と面白くない写りになることが多い。人物を写すなら、光を避けての逆光とした方が、妙な影ができなくて良い、ということが度々だ。もちろん絶対にそうというわけではなくて、光を見つめるように浴びることで映える被写体もある。場合場合で、それぞれ適切な角度を選んで行かなければならない。学習も、似たような所がある。何でも揃っていて、教える人も周囲に居て、ぐんぐん伸びるかというと、そうとも限らない。一冊の本が、階段のステップを登る手助けとなることもある。そんな本を書いてみたいものだ。

5 月17日、EMS は、最も速く届く郵便システムの一つだ。うまくすると、ヨーロッパまで3日あれば届く。ただし、そんなにポンポンと飛行機が飛んでいる訳ではないので、積めなかったら待ちとなる。まーだかな、まーだかな、と、待つのである。物品を送ると、通関で引っかかることが、時々ある。不幸にも、向こうに届かなかったら、そのまま戻って来る。戻って来ても、帰りの料金を請求されることはない。道中、どこを通っているか、一応は追えるのだけれども、国際交換局から発送されて、向こうの国際交換局に届くまでは、一時音信不通となる。さて、無事に運ばれているだろうか?

5 月16日、物体を投げる時に初速が一定ならば、45度に投げ上げると最も遠くまで届く、その理由を考えて行くと?まず、垂直方向には等加速度運動だから、滞空時間は速度の垂直成分に比例する。一方、到達距離は速度の水平成分に滞空時間をかけたものになる。従って重力加速度という係数に関わらず、速度の水平成分と垂直成分の積が到達距離の因子となる。成分の2乗を足し合わせると、初速の2乗になるから、要するに「初速の大きさを対角線とする長方形の面積(←次元を無視)を最大化せよ」という算数の命題に落ち着く。答えが、正方形の場合であることは明らかであるし、この対角線の角度が「そのまま」投げ上げの角度になるわけだ。こういう説明って、どっかに転がってておかしくないんだけどなぁ。ただ、シュレディンガー方程式的な理解は、まだ得ていない。

5 月15日、早朝に足がつる。その時に、筋肉を痛めてしまって、朝はほとんど歩けない状態からスタート。しばらく、ひょこひょこと歩いていると、段々と回復して来て、昼頃には、気をつけて歩けば他人にわからない程度の動作ができるまで回復。ただし、これは痛みに慣れてしまったという側面も大きくて、本当の回復には何日か必要だろう。国内に居るから、どうということはない。以前、スペインでこうなった時には、旅が継続できるのだろうかと、本当に心配した。... 翌朝の美味しいご飯で、回復してしまったのだけれど。スペインの飯はうまい、というのが心底理解できた気分になったものだ。実際、美味しいのだから、仕方ない。元の話に戻ると、夜になってみると、1日の間に、痛めていない側の足を痛めていたことに気づいた。互いにかばい合うらしい。

5 月14日、仕事はのんびりと行うのが良い。というわけで、今日も仕事。天気良かったなー、こんな時は遊びたい、という気持ちを抱えて、仕事をすると案外捗るものだ。結局は、ずーっと色々な仕事をして終わった日曜日であった。飯は寿司にするか、と、寿司屋に行ってみると行列ができてて断念。隣の中華料理にした。定食はまあ、そこそこのモンだろうと思って注文したら、美しいまでに美味しい料理が出て来て、これがホントに、あの値段で作れるのかとびっくりした。都会は何事も激戦区なのだろうか。もちろん、どこにでもあるチェーン店は、同じように同じ味なのだけれど。

5 月13日、食べられる、が、食べれる、に変化しつつある「ら抜き言葉」、この「られる」が敬語や可能に使われるようになった経緯、ちょっと調べたくなって来た。というのも、ロマンス諸語(たぶんゲルマン諸語でも?)で使われる、接続法に似たような側面があるからだ。接続法には直接法と全く同じ綴りのものが、人称を変えて出て来る場合が良くある。二人称の相手に、三人称で語りかける事によって敬語とする。従って、前後の経緯を切り離してしまって、その部分だけを切り出すと誤読する可能性もある、そんな危険が接続法にはある。食べられる、も、その前後を狭い範囲で切り出すと、可能なのか敬語なのか受動なのか、容易には判別がつかない。動詞を取り囲む名詞の格をハッキリと書けば判別できるのだけれども、何事も短縮して伝えたい、忙しい現代では「食べれる」の導入は自然なものだろう。

5 月12日、裏道というものは、いつも意外な場所でつながっているものだ。建物Aを出て、飯屋Bへと行く時、建物Aの敷地の正門をくぐって、駅の架橋を渡って、あっちから登って、そっちへと歩いて行って、ようやく到着。こういう経路で10分くらいかかった道のりが、帰りは裏道をたどって裏門から入ること、たったの5分。じゃあ最初の散歩は無駄だったのかというと、頭の中で地図を完成する作業には、ちょっと寄与したかもしれない。歩くだけでは、意外と地上の位置関係は把握し辛いものだ。それが証拠に、伊能忠敬以前の地図は、一応の測量をしてあるものでも、妙なものが多い。一説によると、田畑の上がり、つまり税収を隠すために「わざと」歪んだ地図を描いたという話も。

5 月11日、コケは水と光があれば幾らでも育つ。... それは植物なら何でもそうか ... ともかく、化石に残るくらい、どんな環境でも育つ力強さがある。ところでコケって、分類上はどんな植物?コンブやワカメのようなものなのだろうか?それなら、コケが食えても良さそうなのだけれど、食べて美味しいという話は聞いたことがない。胞子ができる所は、シダ植物にちょっと似ている。そうそう、そういえばゼニゴケの発生とかいうのを、中学か高校の生物で習ったような記憶が、かすかにある。その頃に習った知識は、ほとんど全て抜けてしまっている。いま、高校の生物の教科書を開くとびっくりするのだ、内容がゲノムてんこ盛り。時代は変わったものだ。

5 月10日、日本大学の場所を地図で調べて、お茶の水駅から南に向かって歩く。大学の「キャンパス」があるという思い込みが、全ての真実をマスクしているのに気づくまでに、どれくらい歩いただろうか。そういえば、ヨーロッパの大学で同じような経験をしたことがある。旧市街に、普通に建っている古いアパートの一角が大学の研究室だったとか、商店の裏側に研究所があるとか。そうこうする内に、ようやくたどり着いた日本大学、一部を見ても、どれくらいの規模の大学なのか見当もつかない。調べて見てびっくり、私立大学としては最大規模と言っていいではないか、どうやって共通教育を行っているのだろうかと、ふと、調べてみたくなった。

5 月 9 日、ススキをひっこ抜く。この、ススキの難儀な所は、地下茎がぶっとい割に、上部に顔を出す部分が細くて切れやすいこと。なかなか、根こそぎ抜くという訳に行かない。じゃあ掘って抜けば?と言われそうだけれども、地下茎が板のようになってて、クワか小さなツルハシでもないと、なかなか掘り起こせない。もちろん、そこまですると、他の植物の根もブチブチに切ってしまうので、どうしたもんだろうかと。そうこうしている内に、何だか足元が痒くなって来た。蚊にやられたのだろうかと見てみると、小さな赤い噛み跡。あーっ、アンラッキー、ブヨだ。しばらく、痒さを楽しむ日々となりそうだ。

5 月 8 日、物体をなるべく遠くへ投げようとするとき、45度で投げれば良いことは、ニュートン方程式から簡単に示すことができる。... 物理屋の観点から、この説明では納得できないのである。45度という美しい数字、つまり初速度の水平成分と垂直成分の大きさが全く等しいという、ある意味「対称性」がある時に、到達距離が最大になるという結果なのだから、もっとシンプルな回答の方法があるはずだ。うーん、どうなってるんだろう?と、思わぬ思考の迷路にハマって沈没。(→数日後に解決しました、対角線の長さが一定の四角形で面積が最大のものは何?という数学に落ちるんですね。)実は、もうちょっと拡張があるはずで、球形の惑星地表から物体を投げたらどう?という、楕円軌道からの考察も可能なはずだ。力学は奥が深いものだ。

5 月 7 日、大阪府の公立高校の受験システムが、ここ何年かの間にどんどん変わりつつあることを知った。同じ中学校とは言っても、都会には色々な特色を持った学校があるのだろう、全てを教育現場に任せて、そこから上がってきた内申点を信じられるかどうか?という所に、一抹の疑問を感じている風にも見受けられる。そもそも東京や大阪では、内申点の割合が地方よりも低い。その低い中で、あれこれと採点レバーを動かして、中学・高校・教委がキャッチボールをしているわけだ。ちなみに大学入試はどうなのかというと、国公立大学ではセンター試験と二次試験でほとんど全てが決まる、と、毎年公表される、それぞれの大学の入試要項に書いてある。もちろん、推薦や面接を重視する例外枠もあるのだけれども。これらのシステムはともかくとして、現場の教育が、内申や入試を人質に取ったように行われることは本末転倒であって、教科それぞれの面白さを生徒に伝えるようであって欲しいものだ。

5 月 6 日、カメラの大切な部分である、センサー。今は固体物理学を応用した半導体の部品である。昔はそこに、フィルムという化学反応を用いたものが位置していた。どっちが解像度や感度がいいの?と問われると、ハテ、一概には何とも言い難い所がある。ただ、フィルムは現像しないと画像にならないし、スキャンしなければ電子化できない不便さがあって、どんどん廃れてしまった。このまま、半導体センサーの時代が長く続くのだろうか?それとも、光と物質、とりわけ光と分子の反応が、もっとよく理解される時代がやって来ると、再び化学的な知識がカメラに戻って来るのだろうか?それとも生物学の知識が???

5 月 5 日、松を剪定すると、松ヤニが出てくる。しばらくの間、じわーっと松ヤニが出て、やがて固まる。松ヤニの香りは、そんなに悪いものではない。これは、何かハーブのような使い道があるのだろうかと検索してみると、まず松ジュースがヒット。松葉で作るそうな。次に松葉酒。若い松ぼっくりのジャムとか、あれや、これや。まあ、松ヤニで香りづけした、ギリシアのワインのような感じなのだろう。私の好みはというと、剪定した松葉を堆肥にした時の香り。ほんのり、松茸の香りがするのである。この、わずかな香りをぎゅーっと凝縮したものが、松茸なんだろう。ちょっと断っておくと、松茸自体が、取り立てて好きというわけではない。

5 月 4 日、犬の大好きな散歩。はて、散歩とは何じゃいな?音は、サンポで、日本語の音のようでもあり、また漢語のようでもある。語源や由来を調べてみると、どうも怪しげな説が並んでいて、しかも中文へのリンクがない。これはますます怪しい。ところで散歩って名詞なのか動詞なのか?よくわからない。中国語は習ったことがないのだ。よくわからないまま、叩いてみると、離合詞という、これまたドイツ語の分離動詞に似て非なる、いや似ても似つかないものに出会う。ありゃりゃ、熟語として覚えているものが、結構このカテゴリーに含まれるではないか。とすると、散歩の語源諸説は、やっぱり冗談だったのか???

5 月 3 日、神戸市の都市計画地図を、久しぶりに閲覧してみる。あら、便利になっている。今までは、マス目に区切られた地図ごとに画像が表示されるという、とても手間のかかる閲覧方法だった。今は、普通の地図アプリと同じように、どんどん、スクロールできる。ええと、神戸大学の近辺でまだ計画が実行に移されていないのは、主に阪急六甲駅の周辺。何だか妙な気もする。毎日の電車通勤で眺める限り、阪急の路線の、すぐそばの土地に、どんどん新築木造住宅が建っているからだ。鉄筋コンクリートじゃないから、いいだろう?といえば、その通りなのだけれども、やがて計画が進めば、立ち退きか、住宅の一部を崩すことになるぞ???

5 月 2 日、ロブスターが長生きだ、ということを聞いて、その大きさから何となく納得してしまうのだけれども、どうやって病気にならずに生き残るのだろうか?という不思議さもある。強力な免疫があって、ちょっとやそっとの事ではウィルス感染しないとか、細菌が取り付きそうになったら、サッサと白血球みたいなものが食ってしまうとか、色々と防御策があるのだろうか。他にも、海の中には長生きするものが、色々と。陸上で生きる動物は酸素を使い過ぎているのかもしれない。... そうかと思えば、サクラエビのように、サッサと世代交代してしまうものも居て、節足動物の多様さには、常々、びっくりさせられるのである。

5 月 1 日、松の剪定をする。何年か、放置されたまま伸びた松を剪定しようと思ったのが去年のこと。伸び放題に伸びた松というのは、樹形もヘッタクレも無いので、バサッと行こうと、何度も考えたのだけれども、松は強剪定するとスカスカになってしまい、充実した姿に戻るために2年はかかる。そこで、寂しくならない程度に切って、適当に見栄え良くなって来たら、不要な枝をバサッと切ることにした。今日の作業は、その第一段階。まず、枝分かれしている部分から垂直に立つ太い枝を落とす。残った分岐の数が実に多くて、5とか6。そんなバカな ...。ここで教科書通りにYの字にすると、上記のスカスカ状態となるので、まず3から4に。その際も、強い枝、上に向く枝から払って、なるべく重ならないように、アレヤコレヤと考えて、作業を進める。しかし結果は、やっぱり、2年先を見据えるしかないような見栄えになった。

3 月と 4 月の1行日記