← 5 月と 6 月の1行日記  

4 月31日、日曜日の朝は、何と電車が空いているのだろうか。これくらいガラガラなら、もっと間引き運転しても良いのでは?というのが田舎人の発想だけれども、都会の人は何十分も電車を待てない事だろう。駅を降り立つと「まだ夜の続き」の方々も沢山居る。これから、どこへ行って、しばしの休息を取るのだろうか?改札を出て、トコトコと住宅地を歩く。どこまでも、どこまでも、同じような風景が続くのが、メガロポリスの正体だ。これだけの人々の暮らしを支えるインフラは、一体、どうなっているのだろうかと思う。そうこうしているうちに、目的地に到着。八重桜の花吹雪が舞っていた。

4 月30日、ゴールデンウィークが始まった日の夜、交通機関は混雑していなかった。前日か、昼の内に移動を済ませてしまったのだろう。空席も目立っていた。移動する方向が首都圏だったから、なおさらそうだったのだろうか。こういう、ノンビリとした雰囲気の移動はいいものだ。ビジネスマンがギッシリという車内は、どうも落ち着かないのである。ときどーき、日頃の人間関係を、乗務員相手に持ち込もうとする、何か勘違いしてるビジネスマンが出現する、その確率も高くて、ますます居心地悪いのである。もちろん、その逆のパターンもあるのだけれども。こういう事のあまり無い、空いた電車は、とても素敵だ。

4 月29日、普通の土曜日の感覚で海辺の自宅から阪急電車に乗り、六甲駅で降りて大学にやって来たら、道行くバスが日の丸を掲げて走っている。ああ、そうか、今日は祭日なのだ。祭日の土曜日というのは、何となく、損な気分がある。そもそも大学にやって来てゴソゴソと仕事をしているのだから、祭日も土曜日も無いのではあるけれども、それでも休みは多い方が良い。ちなみに、大学の講義の回数はキッチリと決まっているので、祭日や行事が割り込んで休講となった場合には、ちゃんと後から補講が追いかけて来る。さて、土曜日は開いている、生協の食堂に昼食を取りに行こうか。あ、しまった、今日は祭日だった。

4 月28日、連日のミサイルのニュース、個数を足し合わせて、どれくらいの経済活動であるのかを考えて見るのも興味深いものだ。肩に担いで発射する、ロケットランチャーの値段を調べると、その高価さにびっくりするものだ。滅多に使わないものだから、あんなに高価となる、という側面もあるだろう。一家に一台、ロケットランチャーという時代が来れば、まあ、せいぜい一発、自転車くらいの値段になるはずだ。もっと大きな大陸間弾道弾くらいになると、国家予算の規模となる。ということは、ガンガン発射実験すると、結構「家計に響く」はずなのだ。昨今のニュースを見ていると、実は、その辺りの消耗戦を目的としている気もするのである。

4 月27日、職場ではない、とある大学の教職課程の、教育実習に際しての注意書きが興味深いのである。「実習中および実習後、特定の生徒と校外で会う等の行動は厳に慎むこと。」と書いてある。この手の注意書きは、どこかで、何らかの不都合な事象があったことを受けて追加されることがある。そう思って、この一文をよく読み直すと、あらゆる妄想が広がって行くかもしれない。じゃあ教育実習生ではなくて教員はどうなのかというと、卒業生と結婚している教員というのは、探せば容易に見つかるほど、珍しくはない存在だ。つまるところ、見習いはダメだけれども、親方になったら OK とも読めるわけである。何でも検索でヒットする、妙な世の中になったものだ。

4 月26日、電磁気学は何回も違った角度から教える、教わる、必要があると感じ始めた。最初は、クーロン力のような、遠隔力から入って行って、ようやく電場が導入される時に、電場とは「点電荷を置いた時に力を受ける何か」として定義される。悪くはないのだけれども、点電荷を置いた時の電場というのは、その後をずーっと辿っても、教えられることは稀だ。この「ひん曲がった」電磁場のエネルギーをちやんと計算すると、クーロン力が出てくるのである。ローレンツ力も同じで、大きさを持った電荷が動く場合の、電磁場の境界条件から導ける。もちろん、初学者にこんなの食わせると沈没するけれども、そのままずーっと、電磁場の心に触れずに卒業してしまうのは、ちと、惜しいな。

4 月25日、すうがく愛する人は、心清き人、すーみれの花のような、僕のフーリエ。ぶーつり愛する人は、心強き人、岩を砕く波のような、僕のニュートン。かーがく愛する人は、心深き人、愛を語るハイネのような、僕のドルトン。ちーがく愛する人は、心広き人、根雪をとかす大地のような、僕のケプラー。せいぶつ愛して増えに増え、僕らは生きている、太陽の光浴びて、明日の世界ー。なんか、全部、物理寄りの人材ばっかりの気もするのだけれども、まあまあ、そこは浅学ゆえに、許されたし。それにしても、この元歌、実にサイエンティフィックな比喩ばかりなんですよねー、改めて眺めると。

4 月24日、新学期は新入生が下宿を探した直後だから、単身者向けの賃貸物件はあまり空いていないだろう ... と思いつつも、ゲスト用の空室を探してみると、あれあれ、とてもダブ付いている。それも、条件の悪くない物件が多い。最近、あちこちの空き地に次々と賃貸ビルや、アパートが建っていたから、供給過剰になりつつあるのではないだろうか?こういう状況なので、敷金も更新料もゼロ、仲介手数料も家賃の半分の上に、家賃が安い。借金を抱えた物件オーナーには、苦しい世の中になりそうだ。経済は輪のようにつながっているから、どこかで詰まると、あちこち「バタッ」と行く可能性もある。誰も引き金を引くことが、ありませんように。

4 月23日、「電話の加入権」という、化石のようなものがある。今の世の中では、あまり意味のないものだ。が、しかし、あちこちで、今も帳簿に掲載され続けていて、会計報告では必ずお目にかかるものである。殆ど資産価値のないものなのに、加入当時のままの数字が記載されているのだ。これはどうして?と疑問に思って検索してみると、要するに「実態に合わせて会計報告しようと労力をかけても、何も得することがない」というのが実情らしい。何だかゾッとする話でもある。世の中の、あらゆる「資産」が、同じように形だけで登録されているのではないか?と、思うからである。埋蔵金などと呼ばれる資金も、その本質は空虚なものかもしれないわけだ。化けの皮は、いつ剥がれるだろうか?

4 月22日、さあ仕事だ、と、意気揚々と、いや、足取り重く、やって来たら、意識朦朧、しばしシエスタ。パッと起きて復活。こういう時に「眠たくてもできる仕事」をダラダラと続けるのは、効率が悪い。気分一新、さて用務に取り掛かってみると、予想通りのことだけれども、色々と書類書きが待ち受けているので有る。今日と明日で一掃できるほど、少ない分量ではない。毎年、このようにしてゴールデンウィークを潰す種を溜め込んでしまうのである。でもまあ、この手の雑務も、多少は有って良いか、全くなくて、自由に研究して良いから、ドンドン成果を出せと言われたら、それこそ戦々恐々である。

4 月21日、金曜日が来て嬉しいことは何かというと、とりあえず、恐らくは、週末の間に新しい仕事の依頼は来ないだろうという事である。ということは、週末の二日間は、思う存分、積み上がった書類書きを進められると、無い皮算用に心の平穏を見出すのである。実際はどうかというと、週末のノンビリした光景が次々と SNS から降って来て、それを眺めてると、ついつい作業効率が落ちてしまうのであるけれども。ああ、そういえば今日は、昔の友人たちが横浜かどこかで集まって、ワイワイと騒いでいるはずだ。顔を出したかったけれども、新学期の今、職場を遠く離れることは、叶わない願いでもある。それくらい、仕事が詰んでいる方が、自分の存在意義を疑わなくて良いから、精神衛生上は良いのである。... こういう事を書くから、どこかの職場はブラックだとか揶揄されるのであるけれども、現場は非常に明るい。

4 月20日、パスポートが、あまり長くはない期間の後に切れてしまうので、更新することにした。残りが短い旅券は、使うとロクなことがないのである。そもそも、半年以上残っていないと、ビザなどの申請は絶望的だ。と、いうわけで、書類を揃えて旅券事務所へと赴く。こういう時に、自分が自分であることの証明が、どのように行われているのか、不思議に思うことがある。書面上は、戸籍が最も基本的なものであるけれども、戸籍だけを見て、私の姿を想像できる人は居ないのである。結局、免許証が最も強力な証明となるのだけれども、これまた性善説に基づいたもので、免許から偽造されていると、手の打ちようがない。つまり、孤立無援・天涯孤独な人は、狙われたら「誰かと入れ替わられてしまうかもしれない」のである。日頃から他人に覚えられるよう、精進しよう。

4 月19日、写真添付というのが、なかなか難儀なことなのである。書類だけならデスクで作成できるし、プリントアウトしてハンコをつくのも簡単だ。だが、写真となると、キッチリ撮りに行かなければならない。そんなの、自撮りでエエやん?と、言われそうだけれども、なかなか「条件を満たす写真」をキッチリと撮るのは面倒なのである。パスポートくらいだったら何とかなるかもしれない写真でも、ビザだと門前払いということも多い。それだけ、審査が厳しいのだ。いや、厳しいと思わせておかなければならないのだろう。で、いつ写真を撮りに行くんだ???仕事を「中抜け」するしかないか?

4 月18日、だーれだー「スマート引用符」なんていう、スマートでも何でも無い、雑多なものを Mac に導入したやつは! どうりで、ここ1・2年の間、メールや文章が書き辛かったはずだ。引用符が、勝手に書き換えられてしまうので、後から貼り付け直さなければならなかったのだ。それくらいの tips は、検索して早々に適用しておくべきだったという反省は、少しばかし、持っている。かな漢字変換の「ライブ変換」はだいぶん慣れて来た。ただ、漢字を使いたくない時にも、強引に漢字に変換されてしまうことが多く、閉口している。変換しない、ということを、あまり上手に学習してくれないのだ。私が使っている、古くからの操作方法に難があるのかもしれない。

4 月17日、何でも圧力をかけると固体になるか?というと、何とも言えないものがある。どんどん密度が高くなると、最終的には何かを局在させるのに必要なエネルギーが無視し得なくなって、液体というか、高密度プラズマというか、よく分からない流体へと遷移しそうな気がするからなのである。そんな高圧、どこにあるねん?というツッコミはともかくとして。とかく、物理は目に見えるかどうかを問題としないような所がある学問で、こういう、途方も無いことをちょくちょく考えて、ああでも無い、こうでも無いと、時間を潰して、結論を得ぬままに満足して帰ってしまうのである。

4 月16日、最近、うかつに「何かを知らない」ことを指摘できなくなって来たのである。白熱電球、まめ球、乾電池、そして行く行くは蛍光灯。ビデオなんか、もう見ることも再生もできない、記憶の中だけの存在である。カセットテープに限って、オモチャ感覚、あるいはサウンドにエフェクトを与える道具として、わずかながら残存しているらしいけれども、まあ、フィルムカメラと同程度の普及率だろうか。ともかく、古い技術、古い文化はどんどん消え去って行く、これが人類史の当たり前的な発展なのであって、そこに抵抗しても仕方ないのである。あ、抵抗は、ほぼ全て、セラミックになってしまった ...

4 月15日、ホテルのテレビ設備は、とてもクラシックなことが多い。ブラウン管を目にすることは、流石に減って来た。液晶テレビが置いてある場合、大抵は、重厚である。単に、古い液晶テレビは薄く作れなかった、ということ。薄くてヤワいものは、営業には使えないという所もあるかもしれない。そういう機器の、デジタル処理能力は当然、相当に低いので、チラッと画面を見て調べることがある。ギザギザした画像だったり、四角いデジタルノイズが丸見えのものも。もっとも、コンテンツ的に見るべきものが無いのが、昨今の状況で、早々にパソコン作業へと戻るのである。

4 月14日、ちょっと冷しい一週間だったので、案外、桜が残っている。今日は花の舞う金曜日、絶好の夕べとなること間違いなしの、神戸山麓である。視線を山へと転じると、山の中腹はまだまだ満開の手前、頂上付近はこれからである。六甲山はいつも、少しだけ違った季節を見せてくれる。一方で海の方はどうかというと、もう暑くて暑くて、水泳している人を見かけるほどである。←こういう冗談を転がしておくと、尾ひれが付いて拡散して行って、何が真実で、何が虚構であるか、検索しても訳が分からなくなるのである。クリアであるはずの、サイエンスの分野でさえ、実は大変、怪しいのである。(例えば mid gap state なんていう、定義のよく分からない言葉も一人歩きする。)

4 月13日、新入生がパソコンを使う場面は、何年見ても見飽きることがない。何に注目するのかというと、日本語入力の指使いである。ローマ字入力を使う人が多数派だ。右利きの人の多くが、右手でとても広い範囲をカバーしている。左手はシフトに張り付いていて、指一本、二本だけ利用の人も居る。それでいて、入力は非常に速い。各自が使い易い指でサクサクと打つのであるから、速くて当然という考え方もある。両手とも指一本の、高速タイプ派も見かける。タブレット端末には、確かに、この流儀が便利だろう。結局のところ、タイピングを叩き込んで、キー入力には、まず手をホームポジションに置いて ... という発想自体が、既に化石と化しているのではないかと、思う。ちなみに、カナ入力で「ホームポジション」と入力すると、JIS カナ配列のダサさを実感するので、誰にでも「カナ入力いいですよ」とは言えない所がある。

4 月12日、惣菜として売られている「焼き鳥」、色々な作り方をしてある。普通に焼き鳥を作って、冷やしたものは、そのままではイマイチだ。もっと柔らかい状態の、浅い焼きの鶏に、ベットリと「焼き鳥風のタレ」をかけたものが、主流かもしれない。そのまま食べても、まあまあ美味しい。焼くと、タレは落ちて、薄く表面に残ったものだけが、わずかに焦げて美味しい。ただし、タレが落ちる分だけ量が減る。もったいないから、そのタレに飯をかけて食うと、落ちた油も一緒に食すことになって、これまた塩分とコレステロールの摂取となるわけだ。気にしない、気にしない、気にしない ...

4 月11日、ギターのバッキング演奏、地味で、あまり聞こえて来ないけれども、ドラムとベースとヴォーカルだけでは寂しい。結構、重要な役割がある。ドラムが入らない時は、アタックでリズムを取ることもある。こういう演奏形態は新しいのかと思いきや、ずーっと昔から、ルネッサンスギターの頃から、いやいや、もっともっと前の、ウードの原型?が演奏されていた頃には既に出来上がっていたようだ。それを言うなら「琵琶法師」か。今に伝わる琵琶の演奏、... 実はあまり聞いたことがない。大抵は、時代劇で「ガガガーん、ピチッ」と効果音のように演奏されるだけ。昔の良いものは、貪欲に聴くことが大切なのかもしれない。で、得たものはバッキング演奏に生かす。

4 月10日、フラクタルには、フラクタル次元というものがある。(フラクタルでなくても、フラクタル次元は計算できるのだ、と、突っ込まないように。)さて、そのフラクタルの二点間を電極で結んで、抵抗を測る。この抵抗値は、フラクタル次元を反映したものになるのだろうか?ふと思って、フラクタルの代表例の1つ、シェルピンスキー・ガスケットで計算して見た。結果は、(ケアレスミスしていなければ)フラクタル次元とは異なる次元になった。ただ、2次元に非常に近い振る舞いというか、大きさを変えても、抵抗値があまり変化しないことは、こういう抵抗ネットワークの特徴だと言える。

4 月 9 日、リュートというと、年老いた演奏者が味わい深く、弱い音で、地道にゆっくり楽しむものだと思い込んでいた。そういう写真のレコードや CD ばかり聴いていたからかもしれない。最近の動画を見に行くと、イケメン君、ビジュアル系、美女、なんでもアリなのである。演奏場所もまた、ステージだけとは限らず、自室、屋外、街中、暗闇、船の上など、多彩だ。 音楽というものは、楽しむものなのであるから、その助けになるものは何でも OK というのは、例えば声楽であれば当たり前のことなのかもしれない。器楽の、そういう面が、動画で閲覧できる時代、なかなか良いのである。

4 月 8 日、除湿乾燥機、なかなか便利なものである。あらゆる場所が、衣類乾燥室として使える。ただし、可燃性のものが大量に乾いているわけだから、火気厳禁でもある。この乾燥機、何年か使うと、必ず壊れる。世の中に壊れない機械なし、という大原則の通り。じゃあ、壊れる前の日まで、マトモに使えるかというと、そうでもないのだ。知らないうちに、除湿能力が半分くらいまで落ちていることに「気づかないだけ」という、何とも言えない状態が続くのである。買い換えた瞬間に、その事実に気づき、電気を食う割には働かない状態を許容していたことに愕然とするわけだ。エアコン、冷蔵庫なども、そうなっている可能性が ….

4 月 7 日、朝一番から蒸し風呂の中のような気温と湿度。木々の新芽が一気に膨らむというか、伸びに伸びる。昨日までは見えていた景色が、今日はもう、葉陰となってしまって、次に見通しが良くなるのは秋も深まってから。桜の花も、そんな空気の一部となったかのように、輪郭がぼやけて見える。いやいや、視力が落ちてボヤけてしか見えないだけのことだ。ハッキリ撮るならカメラを持ち出せば良い。おー、くっきり写る。が、何だか色が妙だ。青白く写ったりすることもある。ちゃんとホワイトバランスを設定しなければならないな。ちなみに、桜をド真ん中に入れて、ホワイトバランスを取ると、どんな桜も、真っ白く写る。これは、これで面白いのだ。

4 月 6 日、草抜き、草抜き、草抜き。少しでも、雑然とした場所が庭にあれば、そこには必ず雑草が生えている。枯れ込んでいるように見えても、根っこは健全である。さあ草抜き、という時に、チクチクと刺さるものがある。松葉だ。生の松葉にも増して、乾いた松葉は鋭い。そして、厄介なことに、刺さったら折れる。引っこ抜こうとしても、抜けないのである。針で、地道にほじくるしかない。そうなりたくないので、まずは松葉を取り除く作業から。ああめんどくさい、めんどくさい、そして楽しいのであった。春の庭は、いつまでも、そこに居たいだけの魅力があるのである。

4 月 5 日、ハッサクの種など、柑橘類の種を集めて、植木鉢に入れておいたら、芽が出てきた。そのまま、どんどん育って .... と思っていると、あら、何本かは既に姿を消している。枯れたのかと思いきや、茎は残っている。ということは、陸の貝、軟体動物の、ナメクジ様の仕業だ。日頃、何を食べているのかは知らないけれども、やっぱり栄養の乗った双葉というのは美味しいものらしい。日中は、どこかの隙間に隠れているので、捕獲するのはなかなか難しい。野菜クズを置いておくと寄って来るので、一網打尽に ... と上手く行く時もあれば、食い逃げされて更に増えることもある。とかく、生物というのは隙間商売が上手い。

4 月 4 日、臨床心理学に詳しい方と話をする時には、常に「劇中劇」を意識して接するのだ。その話し相手が、話の内容を聞いているのか、それとも話している人の思考の特徴・傾向を読み取ろうとしているのか、またその周囲の反応を見ようとしているのか、すべての可能性について用心しつつ、時には意図的にサインを出しつつ、その場で過ごす。これは、相手が誰であっても、多かれ少なかれ、誰でも無意識に、あるいは意識して行なっていることであり、特記するほどの事はないのかもしれない。そういえば、今朝、電柱の上でカラスがガーガーと争っていた。動物も人間も、さして変わらないものなのかもしれない。

4 月 3 日、新学期は、いやいや、新年度は、予算年度の始まりでもある。前年度に財布を閉じて、しばらくは冬眠に入っていたのだけれども、また再起動しなければならない。その手続きやら、関連する規則の読み込みやら、あれこれと用務をこなす。一ヶ月先には、前年度までの研究成果をまとめて報告することになっている。嬉々として成果を取りまとめ、「素晴らしいだろう?」と語りかけて、読者に楽しんてもらえる、そういうレベルを目指したいのであるが、なかなか目標を達成するのは難しいことである。形式的に無難に書けば?という、悪魔のささやきに耳を貸してはならない。

4 月 2 日、新学期は突然やって来る。もちろん、やって来ることは前々からわかっているのたけれども、新年度にならないと出てこない資料とか、新しくやってくる学生さんたち向けのガイダンスの手順など、結局のところ直前でないと手がつけられないものも多いのである。というわけで、とても素晴らしい天気の中で、黙々とデスクワークする。楽しい楽しいデスクワークである。SNS に息抜きに行くと、桜の咲いていない花見の情報が次々と舞い込んで来る。関西や四国では、まだ咲いていないんだよなー。ポツポツと、早咲きのものは見られるんだけれども。

4 月 1 日、スケート場にカメラ女子現れる。結構、いいカメラに、手を抜かないレンズを付けて、リンクサイドで友達を撮影している。カメラは2台。マニュアルを見ながら操作していたので、一つは買ったばっかりなのだろうか。スケート場で、写真を撮るのは、結構難しいのだ。普段の営業中は、最低限度の照明で、エネルギー節約している。何かのイベントになると、カッと照明を点けてスポットライトも登場したりするけど、そんな明るさはない。そして、被写体はリンクの中で動いている。スピンや、ジャンプで飛んでいる最中の選手は、解像度やノイズや色乗りなど、何かを犠牲にしなければ撮れない。冗談のように大きくて重いレンズを持ち出す裏技もあって、世界選手権の画面を眺めていると、観客席下に、そんなのが並んでいる。さて、どんな写真が撮れたのだろうか、いい作品が撮れたことを祈ろう。

3 月31日、各大学の成績評価の区分を見てみると面白いのだ。一番上が「特に優れた成績」である点については、特段の差異はない。ボーダーラインの表現に、工夫が見られる。「合格と認められる最低限の成績」とか、「目標を概ね達成している」とか、「合格基準に達しているけれども、更に努力が必要」とか。あれこれと、言葉を重ねることは、外部から揶揄される原因にもなるので、簡潔に表現されているのである。神戸大学は「修学の目標を達成している」である。達成していなければ、取得単位としてはカウントされない。各大学の、それぞれの合格基準に差異があるのか?という地雷に触れてはならない。そのままブーメランのように、自分たちに戻って来るからである。学習結果の評価というのは、数値化が難しいものなのである。

3 月30日、「指を挟まない」は、「指を詰めない」と同義の言葉。どちらかというと、指を「詰めない」の方を良く耳にする。... というのは、実は生まれ育った地域の特性だったらしい。検索してみると、指を「挟まない」の方が 10 倍くらい多くヒットする。どうも、指を詰めるというと、別の意味で使われるのが標準的となっているらしいのだ。今度、電車に乗る機会があったら、それぞれ、どのように表示されているか、注意して読んでみよう。そういえば、電車のドアの下の方に、指を詰めて泣いている「くまさん」のイラストが描かれた車両に出会って、可愛かったから撮影したかったのだけれども、場所が場所だけに、カメラを向けることができなかった。

3 月29日、秋に草刈りする場所に、スイセンの球根を植えておくと、春先にいち早く芽を出して花が咲き、初夏に他の草木が育って来る頃に枯れてしまう。そこまでで増殖完了なのだろう、晩秋に草刈りがあると、また翌春に顔を出して来る。それも、数が毎年のように増えて行くのだ。草刈りが入らない場所では、枯れ草に負けてしまって姿を消す。人の手を借りる植物の一つである。あ、草食動物が下草を食べてしまう場合も、同様か。スイセンは毒があるので、食べられることがない。どうやって臭いを嗅ぎ分けているのかは、不明だ。動物と植物の不思議な縁、人もまた生態系の一部に過ぎない、そんな気がする。

3 月28日、おやつ時に、突然の雨。春は天気が変わりやすい時期だ。道行く人々は ... あら、ちゃんと傘を持っている。最近は、朝の天気よりも、10 分前のレーダー画像を見て行動するのが常識となっているのだろうか。こうして、雨が降ってくれることは、ありがたいものだ、野草が活き活きと芽を伸ばしている。もう、道端にはスイセンが咲き、チューリップらしきものが顔を出した植木鉢も、アチコチで見かける。さて、もうそろそろ、雨も止む頃だろう、と思って周囲を見渡すと、ますます強く降っているではないか。自然は恐ろしいものだ、六甲山で難儀してる人が居ないことを祈りつつ。

3 月27日、新しい薬を飲む時は、副作用に用心しなければならない。色々と怖いことがパッケージに書いてある。というわけで、風邪薬は「この製品」と決めて、不都合がない限り、同じものを飲むことにしている。しかし、風邪薬にも流行り廃りがあり、一つの製品にかじり着くと段々と入手が困難になる。そこで、乗り換えが必要な時には、じーっと成分を見比べて、なるべく似たようなものを選ぶ。興味深いことに、幾つかの製薬会社が「互いに乗り換え可能な製品」を用意しているのだ。むかーしは病院でアセトアミノフェンを処方されたものだけれど、よく唇がパリパリになったものだ。今はイブブロフェンが主成分のものを飲むことにしている。気管支拡張剤の dl-メチルエフェドリン塩酸塩というものも入っているなぁ、これは、悪名高い(?)アンフェタミンにも似た分子だ。薬剤というものは、何でも毒、あるいは毒の隣の物質だと思った方が良いのかも。

3 月26日、普通のミンチ肉には、脂身がタップリ入っている。塩や香辛料を加えて、じっくり炒めると、脂の中に赤身が浮いた状態になって、何の料理にでも使えるし、脂を抜くこともできる。水分以外の重量の、半分以上が脂なのではないだろうか。現在では、コレステロールの観点から悪者にされてしまった脂だけれども、カロリー摂取というのは食の本来の目的なのだから、善悪を議論しても始まらない。ミンチ肉に脂タップリなのは、サシの入った肉が豚肉でも牛肉でも重宝されていることが原因の一つだ。美味しい赤身肉を調理して楽しむ、そういう習慣もあって良いか。日曜日の台所は、色々と考えさせられるものだ。

3 月25日、風邪で伏せっている訳には行かないので、今日も書類書きのために職場にやって来る。こういう時間を残業にカウントしてはならない。いかなる書類も、それを楽しんで書かなければ、虚しいのであるから、書類書きは楽しい時間なのである。(←と、ブラックに自己暗示をかけることン十年 ...)この、書類というものもまた、誰かが読むのであるから、コミニュケーションの一種には間違いない。書類の端から端までじっくりと読まれることは稀で、大抵は「パッと見てチェックする」か、あるいは「目に付いた所を拾い読みする」だけだ。その短い時間の間に、何かをアピールすることが重要であり、一点豪華主義で中央突破をはかるのである。もちろん、ジックリ読まれても大丈夫なように、論理の破綻がないものを届けなければならない。さあ頑張るぞ。

3 月24日、何日か前に、嗅覚が一瞬妙になり、何時間かの間、耳管の通りが悪くなった。これも花粉アレルギーの影響かなーと思いつつ過ごし、送別会でガンガン喋って喉を潰しガラガラ声に。年寄りになったのだから養生しなければと、静かに過ごすも喉はイガイガになるばかり。あ、これは花粉アレルギーではなくて、ウィルス感染だ。ここまで判別できれば、後はお気楽な風邪薬コースである。最近の風邪薬は良くできていて、ピタッと症状を抑えてくれる。ただし、薬が切れ始めると、途端にパワーが落ちて来て、普通の病人に戻る。一種の禁断症状のように、次の錠剤を飲む。また切れる、の繰り返し。毎日、缶ビールを飲む程度の薬代がかかる。勘定してみると、製薬会社が繁盛する理由も、よく理解できるのである。

3 月23日、とある県の高校入試の理科の問題が公開されていたので、読んでみると、傾いたレールに小球を「転がす」実験がテーマとなっていた。おお、回転運動を題材に取ったか! と感動して読み進むと、「小球はレールから摩擦を受けず」という注意書きが添えられている。なるほど、これは非常に凝った運動だ。球はレールを、一定の角速度ωで回転しながら、斜面を滑り降りたのである。この運動を「転がる」と称することには、一抹の抵抗を感じるのではあるけれども、そもそも中学理科では物理(を含む理科諸分野)の全てが「実験・観察してみると、こうなった」という発見的経緯で語られるのである。そういう目で見ると、問題としては大難なく成立しているのである。大学で物理を「論理立てて」教えるという仕事の単純さが、とても有り難く思えた瞬間であった。

3 月22日、重い鉄の扉を開いて入る、窓のない部屋で調査を行う。中は当然真っ暗なので、まず照明のスイッチを入れてからドアを閉める。この手順を間違えると、真っ暗闇になって、難儀なこととなる。普通は、扉を開ければ、外の光が入って何事もないのだけれども、一部のドアは自動ロックになっていて、内側から正しい操作をしなければ開かない。その操作は明るくないとダメ。... というトラップに、ハマってしまった。こういう時には、慌てないことが大切だ。そこかしこに LED の光があるので、数分待てば辺りが見えるようになって来る。鳥目にならないように、普段からちゃんとビタミンを採っておくことが大切だ。食べれば、慌てない、事故らない。

3 月21日、王子公園駅の辺りに、神戸市の文教南北軸がある。地図を開くと、教育機関や、その跡地、そして美術館などが南北に並んでいる。どうして、この様な配置になったのか、その歴史については詳しくないのだけれども、昼間人口に占める未成年の割合が、特に高い界隈である。その、ド真ん中にあるのが王子動物園。これまた、日中に訪れると、小さな子供達と、そのお母さん達しか見かけない所だ。動物の写真を撮ってみたいなーと思って足を運ぶには、ちょっと気構えが必要だ。動物は面白い反応を返してくれることもあって、なかなか、ハマると楽しいのであるけれども。鳥さんたち、元気かな〜?

3 月20日、氷に乗る。朝一番の氷は素晴らしい状態で、スケートが上手くなった気分を感じさせてくれる。そこで、グイグイと練習すると、2時間程度でヘトヘトになってしまって、その先は「流しているだけ」の状態になってしまう。そういう時に、何の練習をするべきなのか、あまりよくわからないのだけれども、以前よりもエッジが使える範囲が広くなっていることを感じる瞬間が「ときどき」ある。誰かを避ける時や、ちょっと止まってみたとき、アウトエッジを使った制動が効くと楽しい。そればっかし練習するのは、アイスホッケーのディフェンスをやっている様なもので、フィギュア愛好者からは煙たがられるけれど、面白いものを練習しない理由はないのである。ジャンプを跳ぶ時にも、エッジを使った制動が必要だし。

3 月19日、今日は、神戸でゴソゴソと「人間活動」した後に、ゴソゴソと「公的活動」をして、そしてゴソゴソと「非公開活動」の夕べを迎える。近場ながら、移動時間を結構費やしての行動だ。その間に、何を考えて過ごすかが、大切なことなのだろう。昔の人々は、円の中に直線を引いて、いろいろな定理を証明した。この平面幾何学の多くの部分が、実は解析的な手法で「もっと簡単に」証明できてしまうことを知ると、拍子抜けな部分もあるし、感銘を受けることもある。学問の進歩というものは、おおよそ、こういう単純化なのだろう。もっとも、初等教育で出題される問題に関数論の知識を使うのは、何となく、ズルという気もするのだけれども。

3 月18日、二日目の学会は、ジュニアセッションに始まり、シンポジウムに終わる。後者はさておき、ジュニアセッションは実に良かった。こんなにも沢山の中学生・高校生が、研究意識を持って日々過ごしているのだ。それぞれの地方から集まって来た高校生達は、言葉が地元のままで、これまた趣があるのである。標準語で会話して居ても、言葉というか、声の出し方に特色があって、例えば仙台の言葉を聞くと、懐かしいなーと感じる。故郷の高松からも、高専の学生さん達が、マリンライナーに乗って?あるいは高速バスに乗って、やって来て居た。みなさん、そのまま物理への関心を、終生持ち続けて下さいな。

3 月17日、学会初日、大阪大学の新しい (?) 講義棟に、初めて入る。場所は、昔に「ロ号館」があった所で、建物の雰囲気も何となくロ号館に似てはいるのだけれども、何となくどこかが違うというか、何もかも立派になっている。改修ではなくて新築だそうな。こんな場所で学びたかったなぁと、思いつつも、毎回 10 分くらい遅れて来る先生の講義を、ギシギシと音が鳴るボロい椅子に座って受けた記憶も蘇って来て、阪大はいいなーと改めて思った。それは、待兼山という場所が持つ雰囲気なのだろう。コンクリート・ジャングルの伝統は、しっかりと受け継がれているのである、どの建物も無骨なのが、なかなかヨイ。

3 月16日、時が流れること、これは麗しいことだと思う。始まりがあれば終わりがあり、終わりは新しい始まりでもある。毎年、この時期になると、同じように、こんなことを考えるのである。教育機関で働く者の宿命かもしれない。直接、言葉をかけて何かを伝えることは、もう叶わなくても、今までに議論して来たことの一部は、何らかの形で将来に反映することだろう。それが反面教師という形であったとしても、実に有難いことだ。明日からの一週間は、学会やら研究会やら、色々と行事が続くので、大学を巣立って行く皆さんを、門出の日に見送ることはできないかもしれない。

3 月15日、さあプレプリントを読むぞ、読むぞ、と意気込んで arXiv プレプリントサーバーにアクセスすると「経験したことのない現象があり、公開を明日に延期する」というお知らせが表示されていた。ということは、明日の朝のプレプリントは、通常の2倍の分量となるわけだ。その現象は火曜日だけにして欲しいと思っていただけに、明日の夜明けを迎えるのが億劫になった。また、今日の朝一番を狙っていた投稿者も、ガッカリしたことだろう。いや、それは、明日の朝一番を狙っていた人々かもしれない。朝一番ではなく「朝まんなか」になってしまうからだ。さて今日はどうやって過ごそうか?と思案していると、美しい虹が待兼山にかかった。物理学会を応援してくれているのだろうか?

3 月14日、神戸のファッションというと、日頃はあまりピンと来ないのだけれども、たまに首都圏へやって来ると「あら、少し昔のスタイルが」と感じることが度々あり、実は最先端を走っている部分も多々あるのだという現実に気づくのである。何が原因なのか、ハッキリとはわからないものの、貧乏であっても「お召し物へのこだわり」が人それぞれあるというのが、神戸の神戸らしい部分を形成しているのだと思う。これは制服の着こなしや、通学カバンへに付けるアクセサリーなどという、地味なものにも現れているものだ。そもそも、神戸で何か特定のスタイルが「そのまま」大流行するということは、珍しいことなのだ。大抵、何かしらの「変形」がある。

3 月13日、街を歩いていて、あるいは街の2点間を移動していて、行き先までの経路がわからなくなった時、ともかく辺りを見回して、地図や案内図を探す。神戸で、この技が使える場所は幹線道路沿いか、商業地に限られている。大阪や京都は、もともと道路が整然と走っているので、あまり地図が必要ないのだけれども、結構あちこちで地図を見かける。東京は、犬の散歩をしている住宅地にまで地図がある。この、地図をじーっと眺めるのは旧人類の私で、(老若を問わず)スマホを使う新人類は、画面を見てサッサと歩いて行く。密かに「電波が尽きたら路頭に迷うぞ?!」と、思ってる私。

3 月12日、日曜日も、何となく大学にやって来てしまう、これでは「退職したらボケ老人」直行コースではないか ... と、思いつつ、日頃の業務もこなし、日頃はできないこともやり、ついでに SNS で息抜きする。この、SNS の息抜きが膨大な時間のロスとなりつつあり、イカンイカン、業務に専念、少なくとも自らのエネルギーを投じて何かを形成することに時間を使おうと節制しつつ、その合間に SNS。なに、こういう悪いクセは、インベーダーゲームの頃からのものだし、次は fj、そして 2ch、と、まあ、常々あったことだから、これはもう終生治らない無駄遣いだと開き直りつつ、今日の時間を職場に費やす主目的もこなす。

3 月11日、大学入試の競争率が低迷、という話を良く聞く。少子化の影響が主要なものではあるものの、実は隠れた要因が「進路指導の序列化」である。進路指導で、A 判定 B 判定くらいまでしか受験「させない」、ダメモトの C 判定受験は「ランクを下げて」別の大学へ、という「きめ細かな対応」が、それである。受験する側の当事者の気持ちに立つと、よく理解できることだ。ダメモトでもいいから、希望を持ってチャレンジしてほしい、というのが待ち構える側の期待と本音。それは、実質的には過半数の受験者が不合格である状況を期待するものでもある。こういう議論ができるのも、私立大学という強力なバックアップがあってのことだ、それは常々、忘れないようにしている。

3 月10日、大学の良い所は、幾らでも数え上げることができる。その中から、マイナーながら、大学の精神を体現している事例を1つ挙げよう。卒業式や入学式に「当事者を交えての予行演習がない」ことは、重要である。もちろん、会場設営とか放送機材の手配とか、席次や司会進行を準備する人々は入念に検討を重ねるのだけれども、学生を巻き込んでの予行演習など、絶対にしない。いや、強行しても「全員自主欠席」でおしまいなのである。高校でも、予行演習したりしないか。じゃあ、中学校・小学校はどうなのだろうか?昔は延々とやってたよな〜。今の時代では、父兄席からメール着信音やらワンセグの放送のゴソゴソとした音声が漏れ聞こえて来る時代だからなぁ。あ、そうそう、洋風の風俗が何でも良いという訳ではないのだけれども、パーティーの初めに乾杯の音頭を取ることが無いという、アチラの習慣は良いものだ。いつの間にか楽しい時間が始まって、用のある人からバラバラと去って行く。学校も、こんな風であれば、不登校なんていう言葉も生まれないのにな〜。

3 月 9 日、あら、朝から高校生が、親子連れが、そして部活動のジャージを着た集団が。あ、そうか、今日は大学入試の合格発表だった。午前 10 時に、意外な場所から出て着た掲示板に駆け寄る受験者が若干名。「っしゃぁあ〜っ」と腕を振る姿、じわじわ〜っと笑顔になる様子。当然、周囲の部活動勧誘員に取り囲まれる。まあ、掲示板まで見に来るのは、受験に手応えのあった方々なのだろう。しばらくすると、合格を確認した上で、記念撮影にやって来る方々の姿が見えた。これまた、取り囲まれる。そうこうする内に、段々と普段の静けさへと戻って行くキャンパス風景であった。

3 月 8 日、食パンの風味を論ずるならば、まずは4枚切りを食べてみるべし ... という類の主張は、4という数字を5や3に変えても、ホントらしく聞こえるものだ。その点を予め断っておいた上で、やっぱり4枚切りは美味しい。... これもまた、数字を5や3に変えても ... とゴタクを並べて退散してはならない、やはり4枚にはトーストしてもパンの塊を食べているという質感があって、幸せな気分になれる。この感覚は、6枚切りを2枚食べても得られないものだ。さて、4枚切りを一枚食べて、満足しなかったら、もう一枚か? ... それは、ちょっと多いような気もする。そうこう考える内に、出勤時間になってしまった。さあ、電車に乗って、降りたら標高差 60 m か 70 m の登山だ。

3 月 7 日、教員は、それぞれの学校から雇われている「だけ」ならば、確定申告の必要はない。集中講義などで、非常勤講師として働くなど、追加の(?)業務が入ると、その分の収入を合算して、確定申告する必要が出てくる。人によっては、教員業の稼ぎよりも、出演料だとか講演料だとか印税だとか、そういった収入の方が多い方もいらっしゃるのだそうな。きっと多忙なんだろうなーと想像するし、申告書の作成も込み入ったものになるのだろう。幸い、貧乏人の申告書類はシンプルなものだ。サッサと作って、集中講義からの収入の1〜2割ほどを納付して、おしまい。作業のオマケというか何というか、非常勤講師だけで生計を立てようとすると、とても困難であることを理解した。

3 月 6 日、むかーし、テレビでアメリカの田舎街を見ていて、バケツのような大きな容器に入ったアイスクリームを、巨大なスーパーというかショッピングモールで仕入れて、でっかい車に積んで自宅の巨大な冷蔵庫に入れて、毎食のようにドカドカと食べる場面に仰天した。そんな業態は、アメリカのように広い国土と、潤沢なエネルギーと、世界の富が集まる田舎ではの光景だと思っていた。最近のショッピングモール、段々と、それに近い雰囲気になって来たような気がする。ともかく広くて、販売される商品、特に食品にメガサイズのものがあり、買い物客はカートを押してドンドン詰め込んで購入して、自動車に積んで消えて行く。何かが妙な気がする。

3 月 5 日、氷に乗る。今日は試しに、スケート靴を「なるべく緩く履く」ことにしてみた。何だか、心許無いような気もするのだけれど、ともかく氷に乗って感覚に慣れてみると、あれ?何だか、今までよりも深くアウトエッジに乗れる。今までは、ある程度深く乗ると「戻って来れない」感じの恐怖感があったのだけれども、それが緩和されたと言ったら良いだろうか。違いは何かというと、足裏の角度を使ってエッジを操る自由度が増したのだ。これを突き詰めて行くと、下駄にエッジを付けたスケート靴となる。スピードスケートの靴も、外見はそんな感じだ。なーるほど、足の自由度は、スケーティングには大切なんだなー。

3 月 4 日、ポートライナーの、市民病院前駅のすぐ近くに、何だか妙な外観の建物がある。普通のビルは、縦と横の線で構成されているものだ。この、奇妙なビルは、正面に蜂の巣を横に潰したようなファサードがあり、とても有機的に見える。建物の名前は、融合連携イノベーション推進棟。IIB という看板を掲げているので「数学IIB」みたいなものだろうかと、勝手に思っていたら、Integrated Innovation Building の頭文字だそうな。中は吹き抜けのらせん階段が上階まで伸びるモダンな構造。ここに、生命科学以外の研究者が居るということを、初めて知った。融合連携なのだから、それはそうか、いろいろな分野が集まっているわけか。

3 月 3 日、ミツバチがその生涯で集める蜜はスプーンに一杯足らずと聞いたことがある。これを贅沢に、パンに塗って食べられるというのは有難いことである。と、いう話、実に「話の組み立てのマジック」と言えるだろう。その昔、保険の外交員さんに聞いた話では、商売相手である勤労者の生涯収益は、2億円とか3億円という額で、そこから「毎日のコーヒー代より安い」掛け金を頂くのだそうな。これに比べると、税金の割合はケタ違いに大きい。収入への直接税、支出にかかる間接税、それぞれの物品に上乗せされている労賃・工賃などに隠れて含まれる税金、etc.。こうやって吸い上げられた百兆円を贅沢に塗り込むのは、さてどんな食パンなのだろうか。

3 月 2 日、覆面レスラーの仕事というのは、覆面レスラーなので、対戦相手に正体が知られることは、極力避けなければならない。しかしながら、覆面レスラーとして色々と技を繰り出すことは、とても難しいのである。どんな風に立ち回っても、自分の経歴やら仕入れた知識に基づく「クセ」が出てしまうので、手や口を出せば出すほど正体がバレてしまうのだ。場合によっては、もうバレバレであることを前提として、審判にアピールするようなこともある。対戦者が、世界初の技を披露するという時は、特に要注意だ。実は、覆面レスラーとして過去に公表した技が「新技」と称されることが良くあるのだ。でも、それをズバり指摘すると、正体をバラすことになる。うーん、覆面レスラーは収入も入って来ないし、何とも言えない役割だなー。

3 月 1 日、ちょっとした植え込みを、まじまじと眺めてみて、そのカオスぶりに目がクラクラとした。ユキヤナギが植えてあって、そこに何かよくわからないツル植物が、はい登っているのである。庭を設計した人は、きっと、このユキヤナギが茂る場面を想像したことだろう。いや、茂ったのは、イネ科の雑草であった。苦労して、その雑草を抜き去って見ると、今度はツルだったわけだ。このツルは、いくらでも伸びるので、とりあえずユキヤナギの周囲からは刈り取ってしまうことにしよう。この作業の途中にも、隙間よろしく、カラスノエンドウが見る見る伸びて来る。あれは、引っこ抜くのが簡単なので、とりあえずは伸びていてもらおう。
1 月と 2 月の1行日記