← 11月と12月の1行日記  

10月31日、正しい式を、あれ、どこかおかしいな、と、思い始めると、ドツボに陥る。正しいのだから、何回チェックしても、同じ結果しか得られない。そのまま計算すれば良いのである。が、どこか間違っているのではないか?と疑心暗鬼になった時に、計算を進められるか?というと、なかなか難しいのだ。常に正しい式は正しい直感の下で計算したい。数学者も、そんな感じかどうか聞いてみると、聞く人ごとに答えが違っている。豊かな直感が大切という人もいれば、そもそも直感に頼るから見つかるはずの数学の構造も見落とす、と、おっしゃられる方もいる。数学というのは、なかなか、メンタルにも奥が深いものだと思った。

10月30日、街中を色々な人が歩いている。よく見かけるのが、適当に絵の具を塗りたくった人。それで歩く所に、意欲を汲み取ってあげたい。ただ、そういうのばっかしだと、集合した時の面白さがないのだ。マトモにタキシードを着て、ステッキを持ってるようなのが混ざってる、その多様さに、ハロウィン「と称される」お祭りの、現代的な楽しみがあるのだと感じる私。赤いのが混ざってるから、というのは、手前味噌か。白いのや黒いのは、良く見かけた。金色もあったか。軽犯罪法違反みたいなのも居た。バットを持って歩くのは、普通はアウトだ。芸術という目的がある、そこのところをお巡りさんが黙認する可能性は高いのだけれども。

10月29日、電車の中に、色々、仮装した人が乗っている。ヨーロッパの春先に行われる祭りを、ちょっと彷彿とさせるものがある。朝から、白塗りのサラリーマンが通勤電車に乗っている、そんな感じの祭り。ときに、香川県に「ひょうげ祭り」というものがある。ヘンテコな、ひょうげ者が、街道を歩むという祭り。波照間にもあったっけ。仏教の儀式が、いつの間にか祭り行列になってしまったという民俗は、ハロウィンにも通じるか、元はと言えば万聖節の前の日の騒ぎだから。年中の祭りを、こうやって見渡すと、盆と正月以外は、何となく流行ってしまったという感じの祭りが多いなー。

10月28日、だいたい、何事でも直前にならないとエンジンがかからない性格の私。今もなお、白い紙に文字を入れる作業と格闘している。もちろん、ちゃんと読んでいただけるように、筋立てて書くわけだけれども、書きたいことへの入り口が、いくつかの興味に基づく時は困惑する。自分なりには、全部を盛り込みたい。しかし、そんなことをしたら読めない文章になってしまう。どないしよ、と。まず、一番大切なことからメインストーリーを打ち立てて、それに枝葉をつけるように、流れる文章になるように、なるように ... 結局、途中で枝がポキッと折れてしまう。どこか、重たい記述が入ってしまうのだ。どうしようかなー、推敲あるのみ。

10月27日、雨が降るという予報。ずーっと降るという予報。気象レーダーを見ると、あれれ、雲はスカスカ。但し、いつかは雨に出会うだろうなーという、難儀な具合のスカスカぶりだ。こういう状況になるだろうことは、きっと予報できていたのだろう。時々降ろうと、ずーっと降ろうと、傘の用意が必要なことには違いないので、雨が少しでも降るのであれば、雨マークを付けるわけか。そして、実は、ほとんどの時間、雨が降らないのである。雨が降っても降らなくても、今日は街中にモンスターが溢れている。そして、袋一杯にお菓子を買い込むお母様方も。ハロウィンの良い所は、基本的には、引きこもらない方向のイベントだということだろう。続くクリスマス、正月、バレンタインは、どれもこれも、恋人・家族というキーワードを思い浮かべる、どちらかというと閉じた行事なので、なおさら引き立つのだろう。

10月26日、博士課程で習得する技術の一つが「情報収集」だ。どの分野にも、それぞれ研究する最前線があって、しかもそれは科学が扱う題材なので実は非常に単純なものだ。人々が寄ってたかって研究しているのは、この単純さが「見えない」からであって、ひとたび真実が明かされると、それは科学的知識として常識扱いとなってしまうのだ。ともかく、この興味関心について自分の力で辿りついて、それを理解して研究に入ることが、大切だ。突き詰めるまでもなく、これは知っていることと、知らないことの境界線である。従って、研究の最前線というものは、業界という人々の間のみならず、「自分」の中にも必ずあるはずだ。日頃から、自分の知らないこと、理解していないことを意識して、「既知」の領域を少しずつ着実に広げる習慣をつけることが大切だ。私も含めて普通の人は。(←どこが普通やねん?という批判は甘んじて受ける。)なお、一部の天才は、この面倒な認識をスッ飛ばして、ポーンと跳躍するのだけれども。

10月25日、MacOS のアップデートが出た。今回の更新で、iMac から外付け display に接続した状態で起動すると、画面がブラックになってしまうという不都合が解消されている。実は、この不具合に長らく引っかかり続け、苦労していたのだ。なるべくシャットダウンしないとか、シャットダウンする前に外付けを切り離し、再起動したら接続して、という手間をかけていたのだけど、もうそんな苦労も昔話となった。さあ快調に作業だ! と、文章を書いている途中で、突然フリーズして、応答がなくなった。OS レベルでは、生きてるんだろうなー、恨むぞ、上の階層のアプリ達よ!

10月24日、スピン角運動量は、量子力学の量子力学らしい部分への入り口。井戸型ポテンシャルなど、古典力学とはガツンと切り離された(かのような)題材を扱った後で、古典力学との整合も比較的容易に見えるし、かと思えば量子力学らしい離散的な世界でもある、そういう物理学の多面性を、バッチリ学習するのに、良い「ミニマルな系」が、スピン 1/2 の角運動量だ。ここぞとばかりに、色々とリキを入れて教えたいと思う所だけれども、あまり深入りすると、他の題材を講義する時間がなくなってしまう。まだまだ、クーロン散乱まで長ぁあい道のりがあるのだ、時間を節約しないと。

10月23日、京町筋の北の端に、三宮プラッツという、小さな広場(?)がある。もともと、どういう意図で設計されたものかは、よくわからないけれども、ともかく、目立たない場所だった。そこにステージが出現。BIBA というバンドが、文化祭やってた。ビッグバンドのサブセットみたい、あれはどういうジャンルになるんだろうか?注意して聞いていると、いや、注意するまでもなく、エレキベースが、良かった、良かった、バンドのレベルをぐっと底上げしている。どこかで、また聴きたいものだ。

10月22日、京都、河原町の雑踏は、狭い。ともかく狭い。もともと、あの広い道路は人々が歩く、あるいは、せいぜい牛車が行き来する程度の為に設計されたものだ、そこにドンドン自動車を通すから、歩行者があんな風に、せせこましく歩く羽目に陥っているのである。年中、時代祭や祇園祭のように、ホコテンにするが良い。そうでなくても、大阪のように一方通行を導入すれば、多少はマシになると思うんだけどなー。しかし、まあ、これから先、段々と人口も減って行くし、あまり気にするべきことではないのかもしれない。

10月21日、会議の真っ最中、携帯電話から「地震です」と。きっと、何処でも同じ光景が起きていたのだろう。聞くところによると、携帯持ち込み禁止の教室やら、部署に、コッソリと持ち込まれていた携帯電話が、全てバレてしまったとか。身構えて、来たぞ、来たぞ、結構揺れた。こういうのを「近未来的光景」というのだろうか。きっと、そのうち「悪魔がやって来ます」とか「ミサイルが落ちます」とか、どうしようもない状況を携帯電話で知らせてくれる、そんな時代が来るのだろう。あ、ふと、ドラグナーというアニメーションを思い出した。最初が、そんな光景だった。

10月20日、昼過ぎまでは真夏の雰囲気。ホントに、再び夏を楽しもうという、そんな服装の学生でキャンパスが華やいだ (?) 一日であった。夕方になると気温がぐっと下がり、きっと寒かったのではなかろうか?と、まあ、心配するまでもないか、若いのだから。中年を過ぎると基礎代謝が落ち、また日焼けにも弱くなる。小さな頃は、直射日光が背中に当たっても、何も感じなかったのに、最近では本当に、焼けるように感じる。きっと、皮膚の下の血行が悪くなって、ラジエーターとしての血流の機能が失われているのだろう。ダース・ベイダーが、かなりのお歳だったのも、多分、そんな理由なんだろう。

10月19日、5択マークシートの試験問題は受験対策が評価を歪めているとか、論述式であれば個人の評価を的確に行えるだとか、そのような空論を聞く度にデータというものは指標に過ぎないということを忘れているのではないかと、感じるのである。基本的な学習内容から、かなり高度な判定まで、5択、いや2択でもいい、そのような選択問題は、かなり習熟度を細かく表してくれるのである。下手に論述式で回答させると、母集団がわかってから、採点の基準を設定しなければ、全部0点などという悲惨な結末が待ち受けているのである。こういう細かいことは、個別試験に任せてくれないかなーと、ふと思うのである。もっとも、一枚採点すると 100円頂戴できるというのであれば、話は別なのであるが。

10月18日、人間によく似た、癒しロボットというものが、あちこちで開発されているそうだ。うーん、落とし穴がきっとあるぞー。姿形が人に似ているかどうかは別として、人に近くなれば近くなるほど、ユーザーの好き嫌いがハッキリと出てくるだろう。「あっち行っといて」「ほっといて」と命令された時に、さて、どのように振る舞うのだろうか、その辺りも機械学習することになるわけだろうか。ユーザーにすかれ過ぎたら過ぎたで、今度はユーザーの性格が曲がってしまうかもしれない。こっちは、本物の (?) 学習効果だけに、結果が手に負えなくなるぞ。まあ、その、人間というものに価値を見出して、機械に見出さないという固定観念から見た危惧に過ぎないのだけれども。それはそうと、素晴らしい癒しがテレビゲームで色々と提供されつつあること、なぜ、マスコミは無視してるんだろうか?!

10月17日、朝、すごーい雨が降って、これは何じゃい?と、降雨レーダーを見ると、和歌山上空で綺麗な渦巻きになっていた。スーパーセルと呼ぶには大きすぎ。もはや、ベータスケールの低気圧だ。これだけ渦巻いてたら、風も強かったろう、と、思ってアメダスを見ると、あれあれ、意外と穏やか。局地的に風が吹いたかもしれないけれども、上空の現象であった模様だ。但し、雨だけは土砂降りだったことだろう。これは凄い嵐になるぞ、と、思ったら、早々にエネルギーを使い果たして、小さくなってしまった。

10月16日、論文の手直しをする。文章をあまり書かない人は、局所的に何かを書こうとする傾向が高い。自分も、その仲間であるという事は十分に認識している。素人同士で文章を作り上げて行くにしても、他人の手が入った部分で「書いてある内容の順番がおかしいなー」と感じる感覚は重要だ。自覚症状は無くても、外から見るとわかるという、ある意味「かっこ悪さ」の粗探しだ。そういう箇所を一つ潰し、二つ潰し、ともかくどんどん潰して行くと、最後は「良い文章」となるはず (?) なのである。この「良い文章」が、読みたくなる文章かどうかは、別の話題なのであるが。

10月15日、ブログも SNS もあるのに、どうして毎日のように、細々と、自前サーバーに短文を掲載しているのかというと、その理由は超単純なのである。「他人にデータの扱いを預けるのかい?」だ。じゃあ、こうやって書き潰した文章の山が何かのやくに立つのかと問われると、全く何の役にも立たない。そもそも、昔、自分が何を書いたか覚えてもいないので、証人喚問にでも引っ張り出されて「あなたは、このように主張されていたではないですか」と問い正されれば、ハイ、その通りと答えるしかない。公開の場所に吊るされた、アルバム帳みたいなものだと考えている。結局、日記に過ぎないのである。今日も、何事もなく、一日が終わった。

10月14日、数学の、わかり易い解説とは何であるか、ちょっと思案する所なのである。たぶん、教えるべき内容の、学習者にとっては非自明な部分について、一部でも良いから具体的な例で引っ掛けて見せる、そしてそれが平易である、そんな構成が実現できた時に、非自明が自明へと変わる学習効果が高い教材となるのだろう。1+2+4+8+16+32+64+128 の値は?と聞かれて、これが等比級数であることを見抜いて、更に 2^8-1 の因数分解を使えば答えが 255 であることが、たちどころにわかる。そして、可能であれば、冗談のようなオチが付いているのが良い。もちろん、もっとも簡単な「正解」は 11111111_(2) である。... どうして、小学生や中学生や高校生は、答案に 10 進数を使わなければならないのだろうか??

10月13日、スケートのジャンプで、スピードを高さに変えるという表現がある。これは、正しい記述のようで、実はよーく考えて計算して見る必要があるのだ。まず、足が真っ直ぐな棒のように伸び縮みしないものであれば、それを立てているだけではジャンプできない。これを、棒高跳びのように使えば .... と、よく表現される。実は、真っ直ぐな棒を真っ直ぐなまま使えば、突いた瞬間に破壊的な力がかかって、棒、つまり骨が折れてしまう。足を曲げて、体全体でエッジから来る力を受け止め、飛ぶ方向へと変換しなければならないのだ。この時に、どれだけの力積を受け止められるかは、結局の所、ジャンプ力に「ほとんど」帰着できてしまう。ほとんど、と、断ってあるのは、垂直跳びとは少し違って、貯めの時間が長く、その間に上向きの力積を蓄積できるからである。よく目にする「伊藤みどりは速さを高さに変えるタイプの ...」という記述は、高い荷重に耐える晴らしい脚力と全身のバネがあって、初めて実現できる技であることを、ちゃんと書いておいて欲しいものだ。どっかに、記事にして転がしておこうかな。

10月12日、量子力学を習う準備として、解析力学を学ぶという触れ込みをよく耳にする。これは、意味のあることでもあるし、全く無意味でもある。量子力学と解析力学の両方を充分に習得していれば、両者の対比ができて、なるほど、それぞれ知っておくと相乗効果があることが容易に理解できる。しかし、量子力学を習うのに解析力学が必要かというと、いやいや、全く逆で、解析力学こそが量子力学から導かれるものなのである。量子場の理論を習う準備として、量子力学を学ぶという話、これも本当は論理的に逆なのだけれども、「場の理論のミニマルな意味ある学習」が難しいので、場の理論から全てを始めるという話は、あまり聞いたことがない。ただ、人類の知識は蓄積し続けるので、やがては学習の方法や順番も、移ろって行くことだろう。

10月11日、高校数学の中で、数Iには、今まであまり気をとめなかった。微分や積分など、目新しいものに乏しいというか、どちらかというと中学校で「制限付き」で教えられたものについて「限定解除する」という側面が大きいのではないか、と、思い込んでいたからだ。しかし、よーく見直してみると、代数という考え方が、この数Iで、だいぶん整理された形で与えられて行くことに気がついて、ちょっと、数Iを見る目が変わった。次の段階へと進む前に、まずは数学という体系をちゃんと頭に叩き込む、そういう意図がよく見えるし、おおよそ世の中で使われる日常的な計算であれば、数Iまでの理解で十分に活用が可能だ。もっともっと、重用されて良い科目かも。

10月10日、椿の実がたくさん成っている。そんなに実を付ければ樹勢が弱るとは思いつつも、元気になったらなったで茂るだけなので、放置してある。実の中の種から、椿油が取れるのだそうな。普通に抽出すると、一割取れればまあ良い方らしい。量だけを考えると、もっとたくさんの油を含んでいるものは、幾らでもある。椿油の特徴は、オリーブオイルなどと同じく、酸化されにくいことだろうか。木工をする時には、どちらかを持っておくと、都合が良い。チョイとこするだけで、木の表面が光って来る。こういう事は知っていても、椿の種から油を搾り取ったり、煮出したりするか?というと、その面倒臭さに撤退するのみなのだ。

10月 9 日、銀杏の下に、沢山のギンナンが落ちている。拾う人なし。沢山拾って来て、超臭い作業を行っても良いには良いのだけれども、ギンナンは一度に沢山食べられないから、ちょっと有り難みが少ないのだ。さて銀杏は松と同じ裸子植物。種が裸で成る、松ぼっくりと同じように、種が裸で ... じゃあ、あの臭い果肉は何じゃいな?と思って調べてみると、あれは果肉ではなくて、種の皮なのだそうな。何となく、ヘリクツ感があるのだけれども、まあ硬くても柔らかくても、皮は皮なんだろう。ギンナンを植えると、小さなイチョウの鉢植えになる。但し、気がつくと枯れてしまう気難しさは、やっぱり裸子植物だなーと感じる。

10月 8 日、松の剪定。どういう風に松を仕立てるか?によって、剪定の方法も変わって来る。洋風の庭園だと、松が「串の字」のように、十字ができるよう管理してあったり、一本だけ真上にスクッと立ち上がる棒みたいな仕立てにしてあったりと、ともかく自由奔放さがある。日本の庭園で松というと、もう、日本画の背景にある、あの松、盆栽の松である。曲がりくねって、荒々しい風情がある方が良い。さて、何年も剪定していない松に目を向けると、自由に生えているというものでは全くない、葉っぱの団子と化している。手を突っ込むのも大変だ。えい、もう、この際、バサバサと切ってくれよう。まあ、枯れない程度に。

10月 7 日、今日も、アフタースクールの説明会が、昨日とは別の場所で開催された。あれれれ、何だか集まる人が少ない。ここに、講師がやって来て英会話を行うという「高いコスト」の壁を見るのであった。実は時々、いや、しばしば、大学のここそこで、ボソボソと語る学生さんを見るのである。何をしているのかというと、パソコンで英会話。相手はフィリピンが多い。なるほど、よく考えたものだ。経済マジックとでも言おうか、労働単価の違いに目をつけたわけだ。(←これは以前書いたかも。)ともかく、講師がお出ましとなると、その分のコストがかかるのである。じゃあ、大学教員はどうなんじゃい?というと、やっぱり高いコストがかかるものだと思わざるを得ない。自分に向いた動画コンテンツ作成の道でも探ろうか?物理漫談その1、その2、とか。

10月 6 日、大学の教室で、夕方に英語を教えるアフタースクールの説明会をチラリと見に行く。どんなコースを用意しているのかなーと。ああ、なるほど、それぞれ特色あるコース設定しているわけだ。ビジネスに使うのか、全体的に底上げして行くのか、自然な表現を身につけることに重きを置くのか。大学生という、恐らく何もまだ進路が定まっていない内に、どれを選べと言われても困る所はあるのだけれども、直近の留学やら国際会議やら、それぞれの事情に応じてクラス選択するのだろう。もっと大きな影響を与えるのは、講師とのマッチングかもしれない。性格という意味において。どんな学問でも、教える技術がどうであれ、結局、ウマが合うというのは大切な要素だから。

10月 5 日、阪急電車に乗ると、ああ、関西に戻って来た、という気分になる。単に慣れの問題で、阪神に日々乗っている人は阪神だろうし、京阪なら京阪に関西を感じるのだろう。おおよそ、どこも日中の車両が空いていて、車内がスッキリしている。理由は明らかで、人が少なくて、日中の移動に使うというよりは、通学や出勤やお買い物に使う移動を目的とする人ばかり、四六時中人が動く 24 時間の街では有り得ないからだ。広告も、そんなに取れないから、車内がゴチャゴチャしていない。地下鉄御堂筋線の駅は、特に素晴らしく広い。いい所である、関西は。持ち上げ過ぎかも。

10月 4 日、電気屋さんで、ちょっとしたものを購入すると、アンケートを依頼された。スクラッチカードなのだそうな。自宅で使っているネット環境についての設問だ。擦ってみると、当たり。お菓子がもらえた。そこで係員が変わって、「光コラボに乗り換えませんか?」と。いやー、やって来ましたねー。大手通信会社が、光回線をプロバイダにも切り売りするという、この光コラボ、大流行りである。電気屋さんに係員を配置するだけの資金が、どこから捻出できるのか不思議なのだけれども、まあ、今の所は上手く回っているんだろう。商売の邪魔をする気は無いので、「今のまま、今の通信会社の契約を続行します」と告げて、お菓子だけもらって、サヨナラ。長話していた時間の人件費の方が大きかったかもね。

10月 3 日、今日の天気図を見ると、前線が三本も横たわっている。真夏の気団から、冬将軍までがサンドイッチされた、素晴らしい大気の絵画だ。本当に3本も見えるのかと、画像を見に行くと、ちゃんとジェット気流に対応する、速い雲が三筋に分かれて存在する。低層の雲は見分けづらいので、このように高層の雲を見るわけだ。さて今日の雨は、兵庫県では 15 時頃にチラリと降って、おしまい ... という予報であったが、ホンの紙一重のところで前線が居座り、降り続けている。これが天気予報の 難しい所。下層の雲は、なかなか把握しづらいものだ、と、繰り返しておこう。経済もまた同じ、何が富裕層じゃい、下々にこそ経済実態があるということを、スッカリ忘れておるな?!

10月 2 日、「ひとつずつ」の表現は、非常に要注意だということを体感した。レストランに二人連れで入り、二種類の料理を「ひとつずつお願いします」と頼んで、店員さんが「おひとつずつですね」と確認して、意思の疎通が図れていた、はずなのであるが …. 一皿目のサラダが、まず一皿。2皿目のパスタが、更に一皿。おしまい。あーっ、まさかのパターンであった。というか、この注文が通るとは思いもしなかった。そうか、一杯のかけそばのように、二人で一皿というのは受け付けられないけれども、二人で2皿なら良いわけか。身分相応に、貧乏に見えたということだから、それは、それで、有り難く思うのが良いのだろう。

10月 1 日、金沢で仕入れた味噌漬けの魚、実に味噌がたっぷり使ってあり、解凍する度に、十分な量の味噌煮込みが作れる。魚ではなくて、味噌を売っているのではないかと思うほどだ。手間から考えると、味噌というのは、熟成さえさせなければ、そんなに高価なものでは無いのだけれども、まあ、これだけタップリと付いている味噌に、金沢という地の豊かさを感じるのである。ええと、金沢は何県だったっけ、というのは冗談だとして、石川県に接している県は?と言われると、岐阜県という伏兵が潜んでいる。また、うっかり京都府と言いそうになってしまう。福井県の存在がスッポリ抜けているわけだ。北陸は、地理という学問の難所である。

9 月30日、英語教育はますます重視され ... のハズなのであるけれども、専門書の英文読解能力は、段々と落ちているのではないかと、ここ何年かに渡って、ずーっと感じているのである。英会話、英語表現に割く時間が長くなり、ひょっとすると、英文読解の学習時間がドンドン削られているのかもしれない。こと専門知識となると、長い文章を地道に読んで仕入れるものが非常に多いので、読解力が重要なのである。もっとも、これは英語を使う段階で問題になることだから、初学者を相手に教える中等教育の先生方を揶揄するわけには行かない。他山の石とするならば、我々が大学で教えている物理学というものも、たぶん、どこでも役に立たないものなのであろう。自信を持って「役に立ちません」と、公言できる。あ、他山の石ではなくて、単なる開き直りか ...

9 月29日、書類を何年保管するか?という期間を定める目安というものが、あるのだそうな。2年だとか、3年だとか、5年とか、10年とか。その次のカテゴリーとして「永久」というものがある。永久に保存しなさい、ということ。ええと、世の中で、永久に近い形で保存・保管されて来た文章というものは、古代の碑文のような叩いても壊れないし腐らないものか、価値ある文章として書き写され続けて来たもので、複数の写本があるものか、あるいは基本的な法律の文章か。そういう物であれば「永久」と言われても、まあ良いのではないかと思うけれども、「永久保存されるべき書類」というものは、大抵の場合、大多数の人々にとっては意味のないものである。そのうち、世の中、保管するべきものだらけになる?いや、きっと、ガサッとまとめて「データ供養」する日が、必ずやって来るぞ。

9 月28日、すだちを買って来て、瓶に入れて、氷砂糖を吹っかけて、焼酎を流し込んで、蓋をする。すだち酒の仕込み。どんなものが出来上がるのか、想像がつかないけれども、ともかく仕込んでみた。梅のように、実がシワシワになる訳ではないようなので、何ヶ月かしたら、実を取り出して絞る作業が必要かもしれない。この時は、上澄みと、絞った液は分けて保存しようと考えている。梅酒にしても何にしても、最後に膜を使ってノンアルコール化できれば素晴らしいのだけれども、民生機器としてアルコール分離できるものはないので、仕方なく、少しずつ消費することになるか。

9 月27日、一日中、大きなエクセルのテーブルとニラメッコする。ここ数日間の、定例の作業も、いよいよ佳境に差し掛かる。こういう、箱に積み木を入れてゆくような作業では、おおよそ片付いたと思った瞬間に「何だ、この新しいピースは?」という、考えもしなかったような条件に行き当たり、もう一度箱をひっくり返すようなことに遭遇するのである。なるべく、そうならないように、緻密に作業予定を組んで、保守的に、保守的に、ええと、やっぱりうまく行かないので、箱をひっくり返す。そうこうする内に、何とか片付くと期待しながら。

9 月26日、最近、よくパクパクと食べるのが、大西食品の、しょうゆまめ。ああ、平仮名で入力するの、大変だった。勝手に、醤油豆と漢字変換されてしまうからだ。醤油豆にしてしまうと、醤油の原料の豆のようでもあり、また、醤油に漬けただけの辛い豆のようでもある。いや、そうではない、甘辛い、讃岐のしょうゆまめなのである。発音も、しょうゆまめ、ではなくて、しょゆまめ、に近い。よーく煎った、乾燥そらまめを、あま〜いダシに漬けるのである。甘いのは、もちろん、白下糖から来る甘さなのだけれども、まあ、普通の砂糖でも問題ない。これを作るのには、結構時間がかかるので、面倒な時は大西食品をポチる訳である。さて、そろそろ、在庫が尽きたかな?

9 月25日、ぶどうの粒は、どんどん大きくなる。ピオーネは、特に粒が大きい。このまま、粒がどんどん大きくなれば、やがてはリンゴくらいの大きさになるのではないだろうか。ブドウという果物が、巨大な一粒の果物となる日がやって来るのである。ワッハッハー。そんなことを想像すると実に楽しいものである。冗談で笑っているけれども、大昔の人々が、現代の果物を見ると、きっと笑い出すだろう。デカイ、色が派手、甘すぎとか。ご先祖様にお供えする時期かな、そういえば。

9 月24日、詩集というのは、世の中に実に数多くあるものだ。最近はツイートという手段もあるので、加速的に詩が増えつつあるとも言える。その中で、詩集として冊子になったものを手にする機会は、かえって減りつつあるのではないだろうか。そこを、敢えて、紙に刷る、ISBN ナンバーを付ける、という行い、それだけの費用と労力をかけて冊子にまとめるという作業には、敬意を持って接したいものだ。中を見ると、ちゃんとその努力が現れている。それも、努力を感じさせない形で。いいなー、詩集は。中学校の先生が、「これ、あげる」と、ポッと手渡してくれた詩集、今も宝物だ。

9 月23日、エクセルの大きな一覧表に向かって、いろいろな資料と見比べること n 時間、作業を完了することなく今日も終了。この手の作業は、なかなか面倒なのである。まず、それぞれの資料に盤石の信頼を置いて良いかどうか、そこがまず不安なので、複数の資料から同じ情報が得られた時に、初めて信頼できるデータとして確認印を入れる。また、不要なデータというものも放置しておくと、勝手にどこかへ泳いで行くことがあるので、そうならないように、消去して行く。但し、できるだけデータを損なわないように、まずはバックアップを取ってから。中断があると、それだけ時間の無駄になるので、作業は集中して行いたいものだ。

9 月22日、大きな和牛の塊が、安く売られていた。どうしてそんなに安いのか?というと、ほとんど脂身だから。霜降り肉も、ここまで「降りすぎる」と、肉としては価値の低いものとなるわけだ。焼き肉を食べに行くと、そういう白い部分は「飾り付け」のように、赤い肉の間に点々と置いてあったりする。焼くと縮んで、無くなってしまうような肉なので、ちょっと思案して、煮ることにした。よーく煮れば油も程々に落ちて、冷やしてから切れば、それなりに美味しい惣菜になるはずだ。和牛の油を捨てるのは、ちともったいないけれども、食べるとコレステロールに直結するからなー。

9 月21日、出遅れた、とか、田舎ではダメだとか、その手の焦燥感は「あまり」足しにならない。研究は実に長丁場なので、集中力を真に発揮する瞬間のために、日々リラックスして腕を磨くことが大切だ。どんなに画期的な報告であれ、その突進力は時間とともに薄れ、やがて人々が同じスタートラインにつく事になる。まだまだ、間に合うのである、一瞬の加速力さえあれば。田舎は実に、そのような英気を養うことに適している。20世紀に発展した国々は、広大なる田舎を抱えているものだ。(←日本は、実は狭くない。)都会しかない、小さな国が「自分の力で」発展するのかというと、それは怪しい事なのである。田舎はいいぞ〜。

9 月20日、シュレディンガーの猫というと、実験装置を作らなければ「体験」できないものだと思ってる人は多いと思う。(←単に私の誤解かもしれない、大多数の人はシュレディンガーの猫なんか「気にもとめない」というのが正解。)さて、放射線がガンのリスクを高めるという事実がある。放射線による遺伝子損傷から、ガン細胞の増殖までの過程がどうなってるのかは、ともかくとして、最初に出た放射線がα線源であれば、まさにシュレディンガーの猫なのである。生命が誕生してから ... その前からかもしれない ... シュレディンガーの猫は数限りなく、世の中にイタズラし続けたのである。エヴェレット解釈によると、並行世界の地球が実に沢山あることになる。それも、いいかも。

9 月19日、物理学に、よく、正準形式と呼ばれる、一群の「物理の表し方」がある。カタカナ書きでは、カノニカルフォーム。まず、漢字の変換に苦労する。清純がトップに出て、次が清順とか正順だ。決して「正準」がトップに出たりしない。苦労して登録しても、OS のアップデートで消し飛んでしまうことも。某リンゴマークの裏切り者め! と、叫んでも仕方ない。必要なものは、登録しなおすだけだ。さて、何が正準なのか?ということについては諸説あって、正準形式が複数あったりするから、タチが悪い。世の中、何かが正統派であるなどと主張を始めた段階で、すでに終わっているのである。

9 月18日、時々、登場する、汁物の裏技というか、怠け技は、何でもいいから味噌汁など汁物として販売されているものに、トマトを丸ごとブッ込んで、加熱するだけ。これで、美味しいトマト汁になる。トマト自体に、幾分かの旨味があるので、特に何も足さなくても、味のバランスには問題ない。むしろ、市販の汁物は塩辛いので、水を多めに入れないと、からい汁になってしまうほどだ。ここにスパイスを足すと、段々と洋風にシフトして、オリーブオイルを振ると完全にアチラの国々の料理となる。そこまでは凝らないけど。

9 月17日、薄曇りをナメて、炎天下で半日突っ立ってると、真っ赤になってしまった。ありゃりゃ、これはまずい。冷やしてみたり、あおいでみたり。ともかく、こすらないこと、引っ掻かないこと、温めないこと。消炎剤がなかったから、同じ成分が入ってる風邪薬を少し飲む。ただし、風邪薬の成分には「効果のある内に光に当たるとマズイ」と噂されてるものもあるらしい。どのみち、しばらくは日光を避けるから、まあいいか。こう言う時に、とっておきの、ミントがたくさん入ったシャンプーを、優しく使うか。

9 月16日、金沢、ずいぶん遠くだと思っていたけれども、意外と近いのだということがわかった。神戸から列車だと、東京へ行くのと同じくらいの感覚。新幹線が通ったら、もっと近くになるのかーと、しみじみ。まあ気長に北陸新幹線の完成を待つ。特急サンダーバードは、すーっと大阪に到着する感じ。京都から新快速で大阪へ向かうと、なかなかこうは行かない。多分、高槻とか茨城市だとか、途中で止まるたびにポイント切り替えがあって、ガタガタと揺らされるからだろう。あ、大阪に着く直前は、例のガタゴトと付き合うことになる。まあ、それは仕方ない。

9 月15日、金沢のうまいモン、和食ばっかり宣伝されてるような気がするんだけど、洋食も普通にウマい。仕入れに苦労しないんだろうと思う。うまい、うまいと、食ってばかりだと、どんどん体重が増えるではないか、歩いて減らさなければ。しかしながら、金沢大学は歩いて行くには、遠すぎる場所に建っているのだ。というか、途中、車道だけみたいな所を通るので、自転車はともかく、徒歩では厳しい。ともかくも、色々とネタを仕入れるなり、人脈を作るなり、ゴソゴソと活動しなければ、回らないのが才能無き者の定め。頑張るぞ!

9 月14日、学会の本番。どのように、学生さんに計算してもらった結果を印象的に話そうか?と、一晩考えて、朝になって新聞紙を見てハタと思いついた。新聞紙に穴を空けて、それを見てもらえば良いのだと。北国新聞というのがある。きたぐに新聞か、いい名前だ。… 後で指摘されたことなのだけれども、実は「ほっごく?ホッコク?新聞」なのだそうな。印刷が美しいカラーで、大衆紙とは一線を画した、きめ細やかな地元の新聞だ。それで、その、新聞紙に穴を空けてみると、なんだか、そこから覗きたくなった。それならば、覗き穴も空けてみよう。どうせなら、頭の所は三角に折ろう。完成したのが、なんだか、どこかで見たような、悪人のマスク。うーん、印象的なのかなー、こんなの。

9 月13日、金沢、すごーい観光地なのだ、観光スポットはもとより、その辺りの路地まで、色々と楽しめる。古い民家が結構残っていて、水辺が多いのが良い。水があったらヤブ蚊の巣になりそうなものだけれども、なぜかあまり刺されない。東京からのアクセスも良くて、外国人が続々と。… と、一見さんが喜ぶだけの街でないことは確かだ。最も良いと感じることは、アレルギーの源が少ないこと。交通量が少ない、海風が適度に湿っている、食い物に添加物を加えなくても十分にうまい、あくせくした雰囲気がない。ついでに、関西弁が充分に通じること。

9 月12日、落ち葉を溜め込んで、植木鉢にでも入れておくと、やがて腐って腐葉土になる。すこーしだけ砂っぽい物を混ぜると、本当に土になってしまう。さて、その土は一体何者なのだろうか?乾かしてみると、すごく量が減ってしまう。そして焼くと、ごくわずかの灰と土砂の集合に戻ってしまうものだ。ほとんど、水と、セルロースか何かの繊維と、菌の集まりで形作られているのではないだろうか?と、邪推している。そんな土の上を毎日のように歩いて … と書こうとしたら、かれこれ何日間もの間、土の上には立っていないことに気づいた。現代生活にドップリと浸かっているなー。

9 月11日、検索のターゲットは、ハイゼンベルグが英語で書いた論文。Physical Review に、結構、核分裂に関する論文が投稿されている。当時は、ファインマンやべーテらもマンハッタン計画に参画していたように、キナ臭い時代だったことがよくわかる。いやいや、そんなものを探しているのではなくて、ハイゼンベルグが量子力学に対して見つけた事実を、自身の英語で文章に落としたものが無いかどうか、それが問題だ。シュレディンガーは、Physical Review に良くまとまった記事を 1926 年に投稿している。結局、語学の問題なのかなー。

9 月10日、電車に乗っていて感じることがある。最新鋭の電車は、軽量化がとても進んでいて、乗り心地がバスのようにフカフカしているということ。何となくというか、一抹のというか、不安感がある乗り物だ。これに対して、むかーしからの古い車両は、重厚感があって、何となく安心できる。これは、どちらが安全だとか、どちらが本当に振動が少ないという、量的なことを言っているのではなくて、あくまで感覚の問題、個人的な感想だ。もっと昔に遡ると、壁や床が木製だった電車があったなー、あれは吊り掛け式のガタガタと反動が伝わる電車だった、もう思い出そうとしても、半分、記憶が消えている。

9 月 9 日、火起こしの続き。割り箸と、カマボコ板で火起こしできるとある。ナイフを持っていればの話。板の窪みには、空気が通るようにカットか溝が入っていると良いのだそうな。また、コソコソと火を起こしている間に出てくる、コーヒーのような細かい粒子にまず火がつくので、それを乗せて囲って火が移るような、燃えやすい削り屑などを、準備しておくのだそうな。映画の 5th element に登場する、マッチのすりがらを使って火をつけるという話も、似たようなものだろうか。力技で行く場合には、二本の木の棒でも良いそうな。サバイバルになったら、まずは良く乾いた木の棒を探すことから始めるのだろうと、想像してしまった。苦労して点けた火は、ずーっと火種で持っておくようになるんだろう、多分。

9 月 8 日、木の棒と板と紐で、火を起こすという課題、某所でキコキコと音を立てながら頑張っていた。見ていて思ったことは、ええと、火が起きたらバーベキューを始められるという類の、必然性があれば、もちょっと必死に火を起こしていたであろう、ということ。火という「調理の道具」あるいは「灯りの源」そのものを目的にすると、意欲に限りがあるわけだ。これは数値計算でも同じで、何か課題を与えられて、それを達成するプログラムを書くだけというのでは、演習に過ぎなくて、なかなか意欲が湧いてこない。プログラムを書いたら、ゲームや製品になってドンドン売れるとか、お金にならなくても数多くの人々に使ってもらえるとか、そういう「計算機を使う目的」がハッキリしていれば、プログラムも良いものが、いや良くなくても、ともかくコーディングするものである、目の色を変えて。

9 月 7 日、台風13号が台風なのか?について、人々に聞いて回ると、かなーり意見が割れると思う。まず、アメダスのデータを見ると、低圧部が移動していて、その通過の前後で風向きが変わっていることがわかる。但し、こういう事は前線や、弱い熱帯低気圧でも起こり得る。次に風速が基準以上であるか?というと、どうやら海上で強めの風が吹いている箇所があるらしい。これは、アメダスのデータには引っかかっていない。ハリケーンセンターの報告に上がっているか?というと、実は上がっていない。衛星画像で下層渦が明瞭か?というと、尻尾らしきものがチラリと見えるだけ。ひょっとして、とは思うのだけれども、これはいわゆる、シミュレーションのモデルの中に存在する渦が、実際よりも強めに表現されたのではないだろうか?コンピューターが、こういう結果を出して来たから ... というデータに予報官が引っ張られつつあるのでは?というのが、今日感じた、ちょっとした危惧なのである。

9 月 6 日、ディラック方程式の原論文はどこに?と、検索して読んでみた話は以前に書いたけれども、その最後に、SUMMARY として、次のような短い文章が転がっていた。まあ、読んでみるといい、拍子抜けするというか、ディラックらしいというか、中身だけで十分だという自信の表れとも言えるし、要するに何でもやっちゃえる立場に立った自由自在さが現れてるとも解釈できる。こんな文章だ。→ The paper deals with the setting up of relativistic wave equations, linear in the energy operator, for particles of spin greater than half a quantum. It is found that this can be done quite simply when the rest-mass is zero, and somewhat less simply when the rest-mass is not zero.

9 月 5 日、リンゴは果物だ。--- という文は、動詞を含まない。何かが省略されているわけでもない。君はどちらがいい? --- という時の「いい」の品詞は何だろうか?と、考え始めると罠にかかり易いのだけれども、どう考えても動詞ではない。形だけの形容詞かなー。とても長い文章を書いている時に、節の中には動詞が含まれているけれども、文章の骨格自体には動詞がない、そんなことも時々ある。何か、動作や働きかけが具体的に生じた時、その時に動詞が表に顔を出すのが日本語の面白い所だ。ただ、その活用の概念が、英語やイタリア語とはエラーく違っている。どっちかというと「法」や「相」を区別するために活用しているように見える。ただ、これも、海の向こうから渡ってきた文法に毒された考え方なのだろう。ともかくも、学校文法は、一度、エイヤッと忘れてしまって、謙虚に考えてみようか。

9 月 4 日、大学院の入試、各大学ともあらかた終わって、やれやれ、という雰囲気の学生さん達が、久しぶりにノンビリとした風情で「つぶやいて」いる。さて、過去に出題された、各大学の大学院入試を見ると、特に物理分野の出題傾向は明らかだ。「そこで設定された物理的な状況が頭に浮かべさえすれば、必ず解ける」のである。計算が鬼のように面倒臭いとか、効率的に解かないと時間切れになるとか、引っかかり易いポイントがあるとか、コマゴマと場合分けしなければ解けないとか、そんな受験テクニックとは、全く無縁な出題なのである。暗記が必要ということも、あまりない。つまるところ、物理現象を「言葉で表す」という、よくよく考えると一筋縄では行かないバリアが最大の問題であって、そこを日々の学習によってクリアしているかどうか?という、ただそれだけのことが問われているのである。

9 月 3 日、さて、いま「進めてもらっている」計算は、どうやったら論文になるだろうか?と、思案する週末である。DMRG や TEBD を使った大規模計算を念頭に置いて計画を立て、進めている研究なのだけれども、まずは途中経過を取りまとめ、研究成果を形として世の中に提供する経験も「積んでもらわなければ」ならない。興味を持っていただければ、あらゆる所から批判が届くはずである。何のレスポンスも無いのが一番ダメなパターンだ。研究成果の発表にあたっては、世の中の関心事にも少しは労力を割いておかなければならない。その感覚をまずは「身につけてもらえる」よう、何とか論文まで持って行こう。最初は地味で良いのだ、研究の中身は。

9 月 2 日、毎日お米が食べられるのも、稲が苗から成長する時に、株分かれするから。イネ科の植物は、その辺りで見かけるものは、だいたい株分かれする。田植えした時には、ホンの二、三本なのに、夏になると太い束となって、秋に刈り取ると太い根元が残る。これがイネだと有難いのだけれども、雑草となると手を焼く。多年草で、根元が残るものは、土の表に茎が硬い塊となって密集していて、その全てを抜き去らないと、また春になると芽を出して株分かれして、元に戻ってしまう。その状態を素手でどうにかするのは無理なので、ペンチで引っこ抜くか、あるいは必殺技の除草剤を塗るか。耕してもいいのだけれども、他に抜きたくないものと一緒に生えている場合には、その手は使えない。地道に行くか。

9 月 1 日、ストレスチェック、なるものが、あるのだそうだ。(←というか、義務化されてるから、どこでも年に一回、実施される。)物理学を生業とする大学教員に実施してもなーと、思わないでもない。物理屋というのは、自然の仕組みの底辺に少しは理解があって、かつ、その理解には常に限界があることを日常的に念頭に置いて日々を過ごす、ある意味で超鈍感な人種だ。そして、その鈍感さを最も発揮する時期が、博士課程から後、実際に研究を進めて行く段階だろう。なにしろ、何を見つけても、見つけた瞬間に公知の事実となってしまい、その先に未知が広がって、結局は同業者と同じスタートラインに戻ってしまうのである。いつまで経っても「オレだけが知っている」なんて情報は、増えないのである。金だったら、見つけた人、拾った人の物になるんだけどなー。もっとも中には、キャベンディッシュのように、新発見を机の中にしまい込む人も居るのだが。
7 と 8 月の1行日記