← 9 月と10月の1行日記
8 月31日、相対論的貧困論という新しい概念を、経済学に打ち立てよう。... と、相対的貧困をもじってみたいのだけれども、ローレンツ収縮の所で、早速詰まってしまった。どちらかというと、インフレーション宇宙論の方が意味的にもハマり易い。指数的なスケールが、経済学良く一致しているからだ。さてミクロ経済学という者は、良くわかりやすい経済学なのだけれども、貧困などを含めて社会全体の経済を論じるマクロ経済学と、スムーズには繋がらない部分がある。10円のアメと、5円の豆、どっちを買う?と問われた時の判断と、10億円のビルと5億円のお屋敷、どっちを買う?と問われた時の判断を、同じように考えるかどうか、前者や後者に同じように市場原理が働いているかどうか、考え始めると、経済学の奥深さに敵前逃亡するのである。ともかくも、相対論的貧困なのである、今日のテーマは。
8 月30日、冬場に、高い緯度で時々起きる気団の配置が、南西が冷たく乾いて、北東が暖かく湿っているという、南北逆転した温度分布。上空の風の向きも東から西へという、偏西風とは逆向きになる。こう言う時に、日本海の北の方で、台風のような形をした前線のない低気圧ができることがある。前線として描かれるものがなくても、東西に寝た前線のような雲ができる。コンマ雲などと呼ばれることもある。この、コンマの足の部分の角度は、様々なのだけれども。一応、寒気団の中での気象現象なので、天気図には前線として描かれないのだ。さて今日の天気をよーく見ると、同じような現象が、随分と南で起きていることがわかる。それも、スケールが何倍か大きい。なかなか、面白い気象現象を見せてもらった気分だ。
8 月29日、3より小さい自然数、という表現がある。これを、初等的な数学で用いることに、どうも釈然としないものを感じるのである。自然数という集合が、実数という集合に含まれているという事実を、証明も説明もヘッタクレもない状態でまず押し付けておいて、実数についての閉区間と開区間の概念を「逆の道をたどって」自然数に降ろして来るという、悪行を積んでいるからだ。実数のことを忘れてしまったら、自然数という離散的な集合に対しては「以上、以下」を使うのが妥当であって、「3より大きい」「3より小さい」などという表現を用いるのは、単純に引っ掛けでしかないからだ。プログラムを組む時にも、この点は重要で、うっかり間違えると、トンデモナイ事態が生じるのである。もっと、数学的に面白い所で勝負してほしいものだ。
8 月28日、何気なく検索三昧の果てに、「銀河魔女ギルザ」に到達する。ジャスピオンという特撮番組に登場する悪役なのだそうな。こう言うヒーローものは、歌舞伎と一緒で、どちらかというとストーリー展開よりも役者の演技を楽しむことが肝要だ。さてこの番組、ブラジルで人気となったそうで、あちらではギルザではなくて Kilza という名前で登場する。検索すると、短い動画がヒットして、その場面だけでも色々と見応えがある。殺陣になると、カメラも変幻自在に動いている。何の変哲もない空き地で、よくあんな映像が撮れるもんだと、感心しきりなのであった。ついでながら、Jaspion という綴りから文字を少し抜くと Japon になる。これが意図されたものかどうかは、よくわからない。
8 月27日、上空に速い気流が戻って来て、うろこ雲が出た。ええと、気流が速いだけではダメで、ある一定の高度で垂直方向に気流の速さの違いがあって、なおかつ空気の密度が高度とともに指数的に減衰して、と、色々と条件があった上で、あんな波のような雲が安定して出るらしい。うろこ雲の面白い所は、その流れる速さ。時として地上の雲を追い越してしまうほど速い。昔、このような気流の速さを報告した人は「そんなバカな」と、周囲から否定を持って迎えられたそうな。これがサイエンスでは大切なことで、周囲から「いい仕事だね」と言われた瞬間に、もう、終わっているのである。本質的に新しいものは、一般的に理解されないものので、まずは周囲から「無意味だ」という否定で迎えられるものだ。
8 月26日、機械工学を学んだことがないので、エンジンの出力は単純に回転数に比例するようなものだと思い込んでいた物理屋である。普通に自然吸気でも、そのようにはならなくて、タービンが付いていると更に事情が異なって来るわけか、なるほど。タービンついでに、ジェットエンジンの場合、タービンが超音速にならない限り、対気速度と共にドンドン出力が大きくなって行くとか。こう言う話を聞くと、熱力学や流体力学は「使う」学問なんだなーと思う。じゃあ統計力学はどうなんじゃ?というと、ちょっと心もとない。イジング・エンジンでも作ってみようかしら。タイヤで動く機械には貢献できそうにないけれども、プランクトンくらいのサイズのマイクロマシンには貢献できそうな気がする。
8 月25日、夕方とは言っても30度は軽く超え、夕日もギラギラと刺す中、結婚式場の前で「前撮り」が行われていた。ウェディングドレスとタキシード姿、そして日傘、周りをスタッフが取り囲む。親族も入れて、総勢 10 名ほど。そして、クライマックスが「青信号横断風景」の撮影。車道で撮影すると、確かに、見通しの良い写真が撮れるのである。一般人がゲリラ撮影したりするけれども、右折車がいつやって来るか見当もつかないので、ちゃんとスタッフが付いて、路上撮影許可を取って行わないと、誰かの命に関わる危険がある。プロは、涼しい顔で撮影してたなー、カメラマンはああじゃなくちゃ、と、見とれてしまった。一番偉いのはやっぱり新郎だろうか。中は汗だくなんだろうなー、顔は涼しく写っていたけれど。ともかくも、この暑い中に、路上撮影に出るというのが、なかなか素晴らしい。なお、早朝、朝日の下で撮影すると、通行人も少なくてスッキリ撮れる。スタッフが、朝早くから集まれれば、の、話なのだけれども。
8 月24日、トンボの羽。あのギザギザした羽は、薄く長い羽を得るために「空力を犠牲にして」強度を得ているのだ ... と、今の今まで信じていた。いや、ちゃんと風洞で調べた実験結果によると、ギザギザしている方が、あの大きさでは揚抗比が高いことが知られているそうなのだ。自然恐るべし。じゃあ、あの体の左右に2枚ずつ並んでいる羽の構造は?肉眼で見る限り、羽を並べてスイスイと飛んでいるようにしか見えないのだけれども、スロー撮影すると、あら不思議、滑空している時もあれば、前後の羽の位相をズラして羽ばたく時もあれば、揃えて一気に打ちおろす場合もある。全部で4枚揃って、初めて実現可能な飛び方だったのだ。そこで、ムラムラと実験してみたくなったのが、潜水用のヘリウム酸素混合気の中で、トンボ様に飛んでいただくこと。うまく飛べるだろうか?
8 月23日、ディラックがまとめた量子力学の教科書、あれの元ネタの一つが、Proc. Roy. Soc. に投稿された数々の論文であることを知った。量子力学の初期の段階で、どのような考察がなされたのか?ということを調べてみて、何かそこに「物理屋のウンチク」が転がっていたら、科学英語の資料として使えるんじゃないかという、そんな魂胆で調べたわけだ。意外なことに、当時の Proc. Roy. Soc. では「いきなり本題」という論文も OK で、今日のように前書きだとか、論文の意義の宣伝などは不要というか、ゴタゴタと宣伝しまくるような振る舞いは良くないとされたようだ。戦後は Phys. Rev. にも投稿している。少しばかし、ゴタクを並べるスタイルも見えて、興味深い。ディラックを追ってみようか? (Gibbs を追うという、困難な作業も面白いかもしれない。あの英語は、とても読み難いからだ。)
8 月22日、「生涯メール」と検索すると、大学で「所属の付いたメールアドレス」を使い始めるという実態が見えて来る。この流れが定着するのかどうかは、よくわからない。学生の頃のメールアドレスが、そのまま使えるというパターンや、新しくメールアドレスを与え直すパターンがある。長らく続いてきたメールのシステムが、このまま続くのかどうか、それも自明なことではないけれど、しばらくの間、惰性で「昔ながらのアドレス」を使い続けられることは良いことだ。SNS でさえ、個人の識別は電話番号やメールアドレスに頼っているのが実情だ。なんか、この辺りは、社会のバックボーンとしては、そろそろ時代遅れな気もするのだけれども。
8 月21日、オリンピックの最後近い開催種目、新体操の監督インタビュー、あら、この方はどこかで見たことがある。ゲオルギエバなど東欧勢全盛期に現役で頑張っていた山崎選手ではないか。でも、ちょっと待てよ、どうして、あれだけの有名人が、消えてしまったんだろう?と、不思議に思って調べてみて、まあ納得したような、しないような。あの頃は、大学の中でも、堂々とアンケートしてたよなーと、そんな思い出が。関連して、古い記憶がよみがえって来る。とある近畿の有名大学の学園祭で、宗教団体の演説会があったとか、当時通っていた学部の数年上の先輩がそこの幹部になったとか、あれや、これや。まことに、大学生から社会人へと至る時期は、様々な勧誘があって人生を左右され易いものだと思う。研究室のソファーで、ノンビリ昼寝をするのが、安全な大学院生活と思わないでもない。当座の間は。
8 月20日、こうべ海の盆踊り、の日で、人出の多い神戸周辺であった。夏祭りも、これで最後という風情だろう。が、しかし、浴衣を着て屋外を歩いたりするには、ちと酷暑なのである。それで更に群れようというのだから、よほどムレムレが好きなのである、日本人(?)は。付き合ってられないので、涼しい本屋で、最近の出版のトレンドなど情報収集する。本の表紙が、こちらに見えるように陳列されているもの、複数の在庫が用意されているもの、手に取れる目の前の段に置いてあるもの、それが売れ線である。自分の著書が、そこに置いてあったら、ちょっと嬉しい。嬉しさのあまり、自分で買ってしまうこともある。本は人々に何かを「まとめて」宣べ伝えるために書くのである。時を超えて残る本を目指したいものだ。
8 月19日、MacOS で、写真のプレビューを何回も繰り返すと、キャッシュ領域を使い切ってしまうようで、途中から画像が表示されなくなる。こうなった場合の対処法は?と、調べてみると、ファインダーを再起動すれば良いとある。試してみると、確かに、うまく表示されるようになった。仕事に使っている iMac は、2台目のディスプレーが cinema display で、そちらの方か解像度が低い。最近では、この低解像度 display を眺める度に、なんかボケてるなーと思うようになって来た。... とか、何とか言ってる場合じゃなくて、お盆ボケから早々に復帰しなければ。さあ書き込み書き込み。
8 月18日、今日、新たに学んだこと: マジックのネタとして、偏光板が使われているのだそうな。高校で学ぶ物理、恐るべし。大学の物理にはない「応用」の視点の一つだ。そういう視点で、何かエエことないかなーと、一生懸命考えて、エエと、中身が全くないけれども、札束が詰まっているように見えるホログラム財布なんて、心を温かくするのに良いのではないだろうか?など、無駄なことを考えて時間を潰す。どちらかというと「見せ金」の一つとして、詐欺に使える道具になるんじゃないかとも。不思議なことに、通帳に書いてある「単なる数字」の方が、目の前の現金よりも信用される世の中なのである。いやいや、そもそも、管理通貨というものに信頼を置くとロクな目に遭わないのである。教員をリタイアした後にも「毎日稼げる」ように、今のうちから芸を磨こう。
8 月17日、初等・中等教育における、英語の教員を「育てる」方法を考えよう。というのも、校務やらクラブ活動の顧問やらで夏も忙しくて、大学の教員のように「授業のない期間に海外出張して専門を鍛える」という機会に乏しいように見えるからだ。お盆休みの間に、ちょっと観光旅行するというのは全然ダメで、せいぜい交通機関や宿泊の手配のやり取りくらいしか会話しないノラリクラリとした日々を送るだけだ。語学教育について、とか、ナントカ語のナントカ方言についてとか、ともかく、それぞれ、専門意識を持って研鑽を積む、その過程で「道具としての英語の使い方」を会得する、そういう機会を十分に与えて、働きながらスキルも伸びて行く、そんな現場が実現できれば、もっと外国語教育も充実するだろうに ...
8 月16日、お盆休みも、今日でおしまい。休みとは言っても、休んでいるのか、休んでいないのか、よく分からない。海外からは、プレプリントが降って来るし、ついでにレフリーも回って来る。レフリーはというと、通すか落とすか、ハッキリしているものは、コメントし易い。雑誌社のスタンダードに比べて、少し内容のクォリティーが低いんじゃないかと思える場合に、難儀する。中身の評価というのは「言葉を添えれば、どうにでもなるもの」だからだ。相手に付き合う気があれば、延々とコメント返すけれども、何の見返りもないのに、そこまでエネルギーを注げるかどうか、というのは、ちょっと疑問を感じることもある。まあ、物理コミュニティーを保つためのボランティア活動としての意義は、大変に大きいのだけれども。さて、言い訳せずに、サッサとコメントを返そう。
8 月15日、うどんの、茹で時間、何分と書いてあるのを見てしまうのだけれども、これはあまりアテにならない。加熱の状況や、湯の量や、鍋の沸騰具合など諸条件で、麺の茹で上がり速度が異なるからだ。何となく麺に透明感が出てきて、でもまだ芯っぽさが残っている所で火を落とすと、あとは模様眺めしながら好みの硬さの所でザルに上げることができる。出来上がったうどんには、ダシを絡めて食べるのが良いけれども、甘口の醤油だけでも、まあ何もないよりも十分に美味しい食事となる。カルボナーラにしてしまう、そんな裏技もあるにはある。イタリアンっぽくなってしまうから、普段はやらないけれど。
8 月14日、高松祭りを、久しぶりに見る。あら、音楽が昔とは違う。… 違うというか、編曲されている。我々が知っている「一合まいた」は、既に何代目かの編曲で、元々の盆踊り曲よりも随分と速く、ある意味で演歌化されていたのだそうな。そこから更に、モダンに編曲し直したのが今の曲。「一合まいた」は、どちらかというと裏のサブメロディーとして、こだまするように響き渡る。表に出てるのは、完全にダンスミュージック。まあ何でも良い良い、うちわがあって、高松の市民がドッと「まち」に繰り出せば、それで高松祭りなのである。この、「まち」が唯一の場所であるというローカルさが、高松の実に良い所なのである。
8 月13日、雨乞いをしたくなるほどカラカラの天気である。雑草でさえ、水がないので伸びない。いや、枯れる一方だ。今、緑を保っているのは、地中深くに根を張った木々だけ。ここは、掘れば幾らでも水が出てくる扇状地なので、ひとたびたいぼくになってしまえば、水は幾らでも吸い出すことができる。大昔は、一面が林であった、そんな地なのだ。いつ頃から開けたのかは、あまりよく分からない。阪急電車が、山沿いを走った関係で、どんどん開けて行った、という説もある。つい何年か前までは「六甲の美味しい水」の源泉でもあった、そんなエリアの一角に建つ神戸大学もまた、森の中の大学なのかもしれない。
8 月12日、自転車スプリントの歴史的一場面、中野浩一 vs ゴードン・シングルトン、ふと思い出して動画を見る。この場面は、数多くのカメラで撮影されていて、ゴール側から判定のために撮影された映像もある。これを、日本側から編集したものと、カナダ(イギリス?)側から編集したものを見比べると、映像の編集意図というものが明らかとなる。アナウンサーのコメントについては、ことさらに言うまでもない。なお、勝負は勝負として、ゴードン・シングルトンはカナダでは「伝説の人」として自転車関係者の語り草になっているそうである。随分と、地元での自転車競技を底上げした一人者であることは間違いないらしい。そういう検索を経て、数々の中野浩一の競輪映像を見るに、やっぱり天才というのは群を抜く存在なのだと、改めて思った。
8 月11日、トマトを冷やして食べる、あるいはトマトスープにする、これだけでは飽きて来るので、今日はホットトマトにしてみた。焼きトマトという手もあるのだけれども、それはトマトスープと大差ない味わいになるので、焼けるよりも前、まだ酸味が十分に残っている状態、半生でいただく。畑で、とれたてのトマトの中身の甘い所だけを吸うような、そんな味わいとなる。当然ながら、ミートボールのような肉とも相性が良い。パスタを添えるには、そのままではパンチ不足。パスタ側に、先に味を乗せておくと、なかなか美味しい。ともかく、夏も峠を越えかけると、トマトが大量に出回って、ありがたいこと限りなし。トマトが赤くなると、医者が青くなるともいう ... あれはリンゴだったか。
8 月10日、今日は、日傘をよく見かける日だ。神戸大学では ... (でも?) ... あまり日傘を見かけることがない。日傘を差して歩く人々の行方を追うと、お隣りの大学に吸い込まれて行くことが多い。では今日、キャンパスの中で日傘を見掛けるのはなぜかというと、高校生が見学に来る日だから。オープンキャンパスの日だ。一応のところ、大学を見学していただいて、その雰囲気を肌で感じてもらうという目論見だ。「神戸大学を」というよりも「大学を」というのがポイントだろう。昼間から、何をしてるのか良くわからないオッチャンがウロウロしてる、そんなアカデミックな雰囲気は、どこの大学 (の理学部) にも共通するものだと思いたいものだ。ちなみに、鍛えられているのは受け入れ側なのかもしれない。お客様を多数お迎えする、という経験は、日常の教育研究では、稀なことだからだ。今日1日、いつものように、何事も平和な内に終わりますように。
8 月 9 日、ネットワーク設定でコケた。ルーターの設定を web ブラウザで行う、というマニュアル通りの作業を始めると、ユーザー名とパスワードを要求された。機器のパスワードは、直前に設定してあったので、それをコピーするだけ。問題は、ユーザー名。妙だ、そんなものは通知もなかったし、事前に決めもしなかった。いろいろ試してギブアップ、サポートに電話すると「その欄はデフォルトが user です」との返答が。認証する画面にユーザー名とデカデカと表示しておいて、そこにわざわざ user と入力せよ、という、実に有難い御指示であった。なるほど、こうやって「裏の裏をかく大胆さ」をもって、セキュリティを強化しているのだ、と、強引に納得して ... 納得できるモンかい! まあ、無益な問答は控えることにしよう。
8 月 8 日、トマトを「湯むき」する、という調理方法について。「皮をむくだけなんだから、包丁でむけばいいではないか」と、思ってしまうかもしれない。確かに、1個や2個のトマトをむく時、わざわざ湯に通すのは、手間がかかるばかりだ。でも、トマトを湯に通すと、表面の美味しい部分を完全に残すことができるし、その部分の酸味を抜いて、甘みを増す効果がある。特に、甘みの強い品種で、湯むきの効果が顕著だ。と、いうわけで、秋風が吹く頃までこれから先、甘いトマトがドンドン出てくる季節には、毎日のように湯を沸かすのである。疲れた時には、湯むきトマト。覚えておいて損はない。少し fat な食べ方になるけれども、塩とオリーブオイルをかけても美味しい。梅酒と合わせても良い。
8 月 7 日、沖縄の辺りに熱帯低気圧がある。周囲の海水温を見ると、発達するのに十分かと思われる温度になっているけれども、あまり低気圧が発達するセンスがない。寒冷低気圧直下に発生した熱帯低気圧は、なかなか発達しない、という言葉通りだ。高層天気図を見ると、発達した台風の場合、上層では暖気の印 W が中央に描かれていて、上層まで暖かい空気であることがわかる。また、風は吹き出しが主になる。今の沖縄の上空はというと、閉じた寒気の L マークだ。これでは、上にフタがあるようなもので、局所的に雷雨が発生しても、大きなスケールでの発達は望めないわけか。
8 月 6 日、フェルマーの大定理が証明された、という事について、実は、それは、少なくとも初等的な数学を学ぼうとする人々にとって、良くない出来事出会ったのではなかろうか?と、思う所がある。特定の次数について、a^n + b^n = c^n を満たす整数あるいは有理数解が存在しないという証明は、場合によっては容易にできて、それをフォローすれば、ちょっとした達成感の後に「他の n でもやってみよう」と、次の一歩を踏み出す原動力となる。その次、その次、そして「オレが証明してくれようか」という、最前線への挑戦意欲も高まるわけだ。... 高まっていたわけだ。それが、一般の n で証明された ... ということになると、何となく「もういいや」という風が吹かないとも限らない。少なくとも、アマチュアのレベルでは。いやいや、もっと簡単な別解が、どこかに転がっているはずなんだが ....
8 月 5 日、ひと夏の思い出、などという言葉がある。ええと、大学で働く身になってみると、だいたい人々が「夏」と言ってる頃には様々な行事が詰め込まれていて、ゆっくり休もうにも機会がない。では、いつ「夏休み」がやって来るのかと言うと、ええと、夏休み来ないなーと思っている間に秋風が吹き始めてしまうのだ。海にも山にも行ってないなー。あ、長野にはチョイ、出かけたか。ただし「山」というほど、山に登ったわけではない。海は、ええと、神戸は海辺の街だから、行かなくても、そこに海がある。じゃあ夏は何なのかというと、やっぱり食い物で楽しむことになる。そろそろ、メロンが終わって、モモもお盆まで。次はブドウや梨。そしてリンゴと続く。この間に、一瞬だけ、ネクタリンだとか、イチジクが出てくる。スイカも、日照が少なくなって来るお盆には、おしまい。ま、それでいいか、食い物に勝る季節の楽しみナシ。
8 月 4 日、非ユークリッド幾何学の中でも、曲率が負であるロバチェフスキー幾何学 (?) は、平面幾何で成立する定理の一部が「そのまま」の形で通用することがあって、面白い。ひとたび、そういう物の見方ができてしまうと、平面上の幾何学の演習問題などを目にした時に、「これは負曲率の曲面上でも成立することなのだろうか?」と、余分な考察をしてしまうのだ。角度を巻き込んだ形になる相似という考え方については、あまりうまく拡張できない場合が多い。こういう拡張について考え始めると、ついつい「量子幾何学って何やねん」と考察を広げてしまう。もちろん、Quantum Geometry という研究分野はあるんだけれども、そういう話ではなくて、単純に定規とコンパスを使う、ユークリッド幾何学の「量子化」なのである。量子円、量子直線、量子角。... なんやねん ?!
8 月 3 日、枝豆を茹でる時には塩のはいった湯を使う。せっかく湯があるんだから、他の野菜も茹でようと、ブロッコリーを投入してエラい目に遭った。ブロッコリーは、とても水を含みやすい野菜なので、湯の塩味が「そのまま」移ってしまうのだ。塩辛いブロッコリーの出来上がり。夏だから塩味もいいんじゃないか?と無理に理由をつけて食べてみたけれども、やっぱり、ただ塩辛いだけだった。水を含み易いだけでなくて、噛んだ時に、その塩味を直接的に感じてしまう所にも、この塩辛さがあるんじゃないかと思う。同じくらい塩を含んでいても、パスタやうどんの場合、そのまーま何も感じない内に胃袋に入ってしまう。これが、健康に良くないとされる、塩分の摂りすぎの一大原因ではあるのだけれども。
8 月 2 日、球の表面積と体積の関係は、円錐や角錐の底面積と体積の関係と密接な関係がある。これは、球を、その中心を頂点とする多数の角錐「もどき」に分解してみればわかる。これは、積分という考え方の入り口になっているのだけれども、初等教育では、もちろん取り扱わない。「もちろん」と書きはしたけれども、円の面積と三角形の面積の関係については、小学校の教科書にも「考え方」として示唆されている。さて、表面積と体積の関係は微妙なもので、体積は有限だけれども、表面積は無限大であるという実例を作ることができる。直感的には、シワシワの立体。では、体積が無限大で表面積が有限の立体は?これは、全空間から球を「くり抜いた残り」がそうだ。もっとも、そういうものを「立体」と呼ぶかどうか、その定義も問題になって来る。ここいらで、有限だとか無限だとか、面積や体積の定義が必要になって来て、「仕方がないから」測度を学ぶのである。物理学をやっている限りの話なのだけれども、その手の「仕方なさ」に遭遇した試しがない。
8 月 1 日、レンズを取り付けて遊ぶのに適当なカメラは?と、探している内に、レンジファインダーを持つ「一眼レフではない」フィルムカメラが面白そうだと思い始めた。フランジバックが小さい光学系なので、オールドレンズでも何でも来いだし、モノクロフィルムを入れると、レンズの性能そのままがフィルムに結果として残る。そんな面倒なもの、どうやって使うのか?というと、デジカメを持って行って、同じ F 値に絞って、iso 感度を設定して、シャッタースピードを「カンニング」す流のだ。こうすれば、フィルムカメラのシャッター速度も決定できてしまう。今まで、そんな事にイチイチ気を配らなかった。同じトレーニングは、デジカメを、わざわざ、フルマニュアルのMモードで使えば体験できるのであるが。
7 月31日、弾丸旅行の長野、これで盆前の予定は「おおよそ」終わり。帰りは道草して「そのままの現地時間」を楽しみたいものだと思っていたけれども、睡眠不足で「移動しつつ眠る」作戦に切り替え。長野土産は何にしようか、と、見て回ると、さなぎ、ハチの子、イナゴ、ザザムシ、昆虫の佃煮が目に入る。が、一人で食べるのなら興味深い食べ物なのだけれども、土産として歓迎されるかどうかは、このご時世、よくわからないのでパス。栗が比較的コモンなようだったので、栗のお菓子にした。野沢菜漬けも、申し訳程度は仕入れた。土産にしなくても、いつでもどこでも、スーパーで買えるからね。結局、名古屋で途中下車してウイロウを仕入れ、京都の駅中で八つ橋を仕入れ。最近は、改札を出なくても、何でも手に入るね。
7 月30日、昔は、関西から長野行きというと、名古屋からギシギシ、ガタガタと振れまくる振り子電車に乗って、ようやく到着という長旅であった。北陸新幹線が出来たので「お金さえ積めば」東京経由で、あるいは少し遅いけれども金沢経由で長野に入れるようになった。が、貧乏人に選択肢なし。さて、二十数年ぶりに名古屋から特急「しなの」に乗ってみると、あら随分と快適な車両に。それでも、長野電鉄に乗り継いで湯田中へ、そしてバスで志賀高原の蓮池・丸池まで到達する頃には、もうへとへとになっていたのであった。実は、神戸から「趣味で」ずーっと立ちっぱなしだったのだ。立っていると列車の状況がよくわかるのだ。そして翌日は、夏の学校で、予定していた3時間の講義。夜は、解放区と化したロッジで、かなーり遅くまで、どうでも良い活動に勤しむのであった。聞くところによると、皆さん、そのまま朝焼けを迎えたそうな。
7 月29日、3時間で「テンソルネットワーク」らしいものを垣間見てもらうには、どうすれば良いだろうか?という課題、しばらく考えてみて、結局のところ行列積状態からのアプローチは、3時間の板書では最終結果まで辿り着けないであろう事を悟る。強引に進めれば話は別なのだけれども、あくまで理解を求めたいのだ。従って、特異値分解が終わった所で、一気に Tensor Entanglement Renormalization Group (TERG) へと進める事にした。こうすれば、繰り込み群との関連も自然に入って来る。まあ、こうして計画していても、本番では意外な展開が待ち受けているものだけれども。
7 月28日、世の中、何でもネーミングは大切な事だと思う。売れているスナック菓子は、中身と価格のバランスが取れている事は当たり前として、その上でなおかつ名前やパッケージが印象的だ。さて量子情報の本を開くと、超高密度コーディングなる用語が目に入る。横文字で、スーパーデンス・コーディング。きっと、ものすごーく高密度なんだろうと、誰でも思ってしまう所が肝要だ。実の所は、1ビット送ると2ビット分の情報が送れてしまう、つまり2倍でしかない。それだったら、ちゃんと「倍密度コーディング」つまりダブルデンシィティーと断るべきなのである。が、世の中に広まったのは前述のスーパーデンス。そんなのアリかい?ちなみに、この「倍送れる」という準備のために、予め、もう1ビットを送信しておく必要については、後からコッソリと解説されるのである。そんなの、インチキだろう?! と、揶揄してはならない。世の中、タキオンだとか、誰も見たことも検出したことも、整合している論理を得たこともないグラビトンなど、「これを見て物理に興味を抱きました」と言わせるキーワードに満ちているからである。いやいや、控え目な物理の世界、控え目な理学の世界でこうなのだから、「それ以外の世の中」がどうなのかは、言うまでもないだろう。
7 月27日、枝豆が出てきた。時期的には、ちょっと早い気もするけれども、できる所ではできるんだろう。丁寧に扱うならば、まずフサの両端を切ってから、塩水で茹であげて、ザルに取って水切りする。そのまま、熱いうちにダシ汁か何かにつけ込むと味が移って、冷やしても美味しい。丁寧に扱うならば ... と、言ってられなければ、ともかく茹でればいい。塩味が足りなければ、後から振ればいいい。枝豆は気楽なおつまみだ。同じ枝豆でも、黒豆のものは、もうちょっと本腰を入れて長時間茹でなければならない。なお、枝豆のサヤは、アクが出やすいので、茹でる時にはアクとりのスプーンを用意しておくと、仕上がりが綺麗になる。いやいや、どうせ剥いて食べるのだから、仕上がりなんか気にせずに ... 乱筆の今日である。
7 月26日、雨ザーザー降ってきた、朝の世界は雨とも霧とも雲ともつかない中であった。日本の東側に寒冷渦が居座っていて、西からサブハイが押すと言う上空の気流が、こんな天気に対応している。梅雨時だったら、ジメジメ暑いなーという感想だったろうけれども、今となってみれば、日差しが一息ついて、ちょっと夏の中休みという感じ。さてカレンダーを見ると、もう夏の学校が迫って来ている。長野の夏はどうかなー。私が夏の学校を準備した年は、天候が悪くて、ずーっと霧の中だった。今はそれなりに旅費の補助も得やすい世の中だから、夏の学校も、都市部で開催するのが良いのかもしれない。あ、でも、そうしたら、夜は街に繰り出すことになってしまい、あの合宿のような雰囲気はなくなるか。一長一短だなー、何事も。
7 月25日、体重が、9年前の危険水準まで戻って来てしまった。世の中、美味しいものに満ち溢れているのである。少なくとも、何気なくカロリーの多いものばかりだ。いやいや、環境のせいにしてはならない。要するに、空腹を楽しむことを忘れてしまったのだ。空腹になるということは、健康のサインであるのだから、なるべく長時間、空腹を楽しむのである。ただ、9年前はストイック過ぎてクラリと来たので、今回は「少し楽しむ」のに止めておこう。ダイエットしつつ貧血を防ぐにはポパイの缶詰 ... いや、あれは種類によってはオイルだらけなんだった。グダグダと時間を潰さないで、寝食を忘れて働くことが一番なのである。
7 月24日、「理科に関する資料」でキーワード検索すると、中学・高校で習う理科の科目についての、検討資料がヒットする。昔、理科の教科書って、こんなにぶ厚かったか?という疑問に対して、どういう経緯で今日のように「カラフル教科書にキーワードが散りばめられている状態」へと至ったのか、その一端が見えて来る。細かい所は見なくてもいいだろう。重要なのは、最後の2ページくらい。学習の過程において「理科なら人並みにできるよ」という主観を持ち得るかどうか、その調査の数字が「高くない」のである。この現状が良いのか、良くないのか、即断はできないけれども、自信のないものには、意欲も湧きにくいものだ。素朴な理科に回帰する時代はやって来るのだろうか?
7 月23日、コンビニに、「写ルンです」が置いてあった。デジカメの時代に、フィルム写真なのかい?と思われるかもしれないけれども、写ルンですで撮った写真をデジタルスキャンすると「画質が落ちる」のである。正しく表現するならば、あの砂っぽい粒々の見えるテイストが、完全に塗り潰されてしまうのだ。これは、大きく引き伸ばしてみると良くわかる。銀塩写真だと、引き伸ばすと粒々が見えて来て、何処まででも「それっぽい」のだけれども、デジカメは伸ばすと最後は四角いドットのモザイクになる。しかも、JPEG を使っていたら、圧縮ノイズが見えてしまう。ついでながら「オヤジの世代」のカメラで撮ったフィルム写真の情報量はすごくて、ちゃんとスキャンし切るには一枚あたり 100 Mbyte くらいは優に必要となるのだ。いや、もっと細かく写っていることすらある。アナログ恐るべし。
7 月22日、夏至から1ヶ月経ち、あら、もう秋が迫っているのである。隣の建物のガラスからの反射光が、夕暮れ時に窓から差し込むのが、そのサインなのである。それはそうだ、あと2ヶ月で秋分となるのだ、夕暮れを優雅に楽しむのも、今の内の事と思うべし。しかしながら?、草の伸びは今が最盛期。まだ地面に梅雨の湿り気が残っていて、夏の日に照らされながら、ドンドン成長する。かくして、草ボウボウと化した花壇を眺めて、思案するのである。もちろん、根絶すなら、少し伸ばしてから、引っこ抜いて根こそぎ駆除。しかし、そこまで待つと、伸びすぎてグラウンドカバー用の植物を枯らしてしまう。そういうわけで、今日は、とりあえずの草刈りを断行する。あまり女装の足しにならない作業ではあるのだが ...
7 月21日、宇宙の放射性物質汚染、と書くと、いかにもヤバそうに聞こえるものだ。まあ、ちょっと、落ち着いて考えよう。そもそも、金銀が身の回りにあるのは ... いや、貧乏教員の家に金銀など無い ... 巨星がその最終段階で作った重い元素か、あるいは更に超新星爆発で中性子を吸い込んだ元素か宇宙に散らばっているからだ。そのような核反応を経て作られた物質は、できたてホヤホヤの頃は全く近寄り難い放射能を持っていて、とてもヤバいのである。しかし世の中、うまくできているもので、一億年も経つと半減期の短い放射性物質はおおよそ消え去り、残った半減期の長いものは「半減期が長いだけに」目立つ存在ではなくなり、我々の周囲のようなマイルドな環境が整うのである。こう考えると銀河系は至る所「核汚染」されていて、それが普通のことなのである。
7 月20日、森高千里の ALONE という、カラオケにはちょっと ... いや、だいぶん難しい曲がある。音域が、2オクターブと少し。声を打楽器的に使い、音が飛ぶ。もちろん、難曲であれ何であれ入ってるのがカラオケなので、ちゃんとタイトルを選ぶことができる。(←私はカラオケは聞いても、歌わない人なので、どのみち無縁。)さて、最近になって再収録されたバージョンも YouTube に転がってるので、聴き比べてみる。あれ、何だか雰囲気が違う。絶対音感の無い私は、しばらーく気づかなかったのだけれども、再収録版はキーを下げてあるのだ。しっとりしてて、これもいい感じ。1音の上げ下げで、これだけ曲想が違って来るわけか。ええと、編曲も伴奏もあれもこれも違っているという点は、まあ置いとこうか。... と、聞くばかりではいけない、いけない、さあ、溜まってる書き物を、片端から片付けて行かないと。
7 月19日、梅雨が明けて、日に三度、六甲の坂を登る。事前の予想では暑くて死ぬのではないかと思っていたけれども、意外とクールであった。湿度が低いのかもしれない。空は晴れてるし。神戸上空はともかくとして、昨日あたりから、地球の「こちら側の見えている範囲」の雲が、ものすごく少ないのである。太平洋も、南半球も。今日遅くになって、ようやくインド洋の雲が増えて来た。じゃあ水蒸気はどこへ行ったの?と不思議に思って、水蒸気画像を見てみると、全球真っ白。なるほど、ちゃんと帳尻が合っているわけだ。雨が降るのは、むしろ、乾いた空気が固まっている前面であるというのが、直感的には行かない気象の不思議な一面。今回はどうなんだろうか?
7 月18日、豆腐を買って来て、ダシで加熱する。豆腐の不思議は、加熱すると水分が抜けて縮んで行くこと。異方的に加圧しながら加熱すると、さらにドンドン水が抜けて行き、最後はチーズのように硬くなる。どうしてこうなるの?と検索して調べると、続々と情報がヒットする。人類の存亡がかかっている食べ物だけに、情報は豊富だ。豆腐を絞ったカスの、おから、昔はよーく、たくさん食べたものだけれども、今はオカズにちょっと乗っているかどうか。ほとんど、飼料か何かになっているのだろうか?これも検索。えーと、えーと、廃棄物扱いだったり燃料だったり、まあ、あまり実態が浮かんで来ないものだ。生産側ではない情報は、あまり出回らないものらしい。
7 月17日、昨日撮影した画像をしげしげと眺める。そして、選択する。これが難しい作業なのだ。一番の原因は、液晶画面の再現性。ノートパソコンは、一般的に、ここが弱いのだ。色や明るさの階調が潰れていて、どこまでが黒なのか、どこから灰色なのか、そしてまた、どこで白飛びしているのか、ヒストグラムでも見ないと判別がつかないのだ。最近の 4K, 5K の iMac は、この点は、まあまあクリアしてくれている。それでも、完全ということはないので、やっぱりヒストグラムからは目が離せない。この、再現性の悪さが「どっちの写真がいい?」という判断に微妙な影響を与えるのだ。ああ、めんどくさい、そして、ああ楽しい。
7 月16日、久しぶりに梅田へ行く。行き先は、ハービス大阪。ここが、あまり足を運ばない私のような人々には鬼門。地上からアプローチするのが、多分あまり外さない方法なのだろうけれども、日中の大阪の路上を歩く気には、なかなか。涼しい風に誘われて、地下に入ってしまう。さて、無事にハービスと書いてある看板が並ぶ地下道へ出たとしても、そこから先には平行する地下道という困難が待ち受けている。そして、長ーいハービス大阪のどこに、どんな店舗があるのか、確認しながら歩いて、ようやく目的地へ到達する。そんなの、スマホがあったら一発でしょ? ... 持ってない私は、やっぱり縄文時代の人間なんだろうか?
7 月15日、テンソルネットワークの会議は今日までなのだけれども、今日は神戸の職場で会議があるので戻って来た。神戸は薄曇りの晴れ。聞くところによると、千葉では土砂降りだったそうな。さて、しばらく大学の花壇を見ない内に、随分と草が茂ってしまっている。ここまで育ったら、もう、ペンチでも持って来て抜くしかない。特に、あのススキはどうしてくれようか。ちょっとでも手で抜こうとしたりすると、直ちに腕が傷だらけになってしまう。やはり、もう一度、ハサミの出番だろうか、手作業に移る前に。毎日少しずつやることにしよう。焦っても仕方ない。
7 月14日、夕方の東京は雷雨で土砂降り。稲妻の光景を久しぶりに目にした。こう言う中でも、街頭に立って働く人々は居る。お巡りさんだったり、警備員だったり。びっちりと雨具を着込んではいても、足もとはビショビショ。… というか、道路が川と化しているではないか。平らな地面に雨が降り注ぐと、こうなるという典型だ。これで、交通が乱れないことを祈ろう。東京はどうして、こんなに水が湧きでるんだろうか。いやいや、もっと不思議なことは、人が「湧き出る」ようにスペースをふさいでしまうことだ、ちょっとした雨やら雪やらで。
7 月13日、新潟から「同業者」がやって来て、ここ柏でたむろしている「連中」も含めて、幾つかのことについて次々と議論する。ああそうか、そうやって計算すれば、あの量が簡単に求められるのだ、と、暗号じみたことを書いておく。ちょっとした思いつきというものも、一人で悶々としていては浮かんで来ないものだ。discussion は、こうでなければならない。ただ、同業者が集まると、ダメ情報も同じように聞くことになる。やってみたけれども、うまく行かなかった、という類の情報。そういうのも、まあ、聞いて溜め込んでおこう。
7 月12日、夕方までセミナーを聞いていると、日常の仕事はついつい、深夜になってしまうものだ。私の性格上、難儀なものほど後回しにするので、最後は眠気がキョーレツに襲って来た頃に、あくび連発で書類の仕上げなど行うことになる。そうやって、苦労して作ったものも、翌朝よくよく見ると、全然ダメ。いや、見るまでもなくダメ。要するに、文書というのは刀と同じで、クリアな頭で執筆し、またその技量も常に磨いておかなければ、イザというときに役立たないのである。よし、今日からまた、何でもいいから1ページずつ書くぞ。文書書きは積み重ね、積み重ねなのである。
7 月11日、明るいカメラレンズで、随分と助かっていることを書いたばかりだけれども、レンズ付きフィルムでは、そういう好条件が期待できないにもかかわらず、バッチリと目的の写真が写ることがある。あの、何もかも違う外見の中に、どのような使い勝手が潜んでいるのだろうか。現像の工夫が凝らされているのか、それとも、元々のフィルムの感度が高いのか。特に、モノクロのものが秀逸。古びた写真に見えるからなのか、多少の焦点のボケなど気にならない。また、白黒ならではのコントラスト調整が後から結構自由にできて、完全にミスったような写真でも、面白さを発見できることがある。枚数が枚数だけに、いつでもシャッターを切るという訳には行かないのだけれども。
7 月10日、ガラス越しの夜景というものは、こちら側、室内側の照明が反射して、あまり綺麗に見えないものだ。写真に撮る時も、可能な限り窓に寄って、できれば覆いで室内からの光線を遮って …. と、工夫しなければならない、と、思い込んでいた。実は、室内からの光は短距離なので、F値の小さなレンズで撮影すると、画像が黒浮きするだけで、そんなに妙なことにはならない。また、この黒浮きは、後でだいぶん修正できる。修正のことまで真面目に考えると RAW 形式で撮影することになる … これは容量が増えてしまうので、ここぞ、というキメの時だけの作業なのだけれども。夜景の撮影が、より、色々な場所からできるかも。
7 月 9 日、気象庁のレーダーには「雨粒」しか映らない、ということを実感する一日であった。一歩外に出ると、そこは霧雨の世界。周囲から、まとわりつくような霧雨が肌に吸い付いてくる。しかし、気象レーダーには、全くエコーなし。何も降っていないはずなのである。どうして、こんなことになるのか?ということは、使われている電波の波長を考えると明らかだ。マイクロ波かミリ波しか使わないので、レイリー散乱で雨粒(の集合)を捉えるのである。もし、雨粒よりも波長の短い電波を使えば、直ちに視界が遮られてしまって、レーダーとしては使い物にならない。結果として、雨粒が小さければ、じっとり濡れるほど降っていても、エコーが出ないのである。まあ、仕方ないか、と、思うか、チャレンジすべきリモートセンシングの問題と思うか、それは人それぞれだろう。
7 月 8 日、乗り物は、色々な経路で乗ってみないと気が済まない性格なので、秋葉原まで行って浜松町からモノレールに乗れば楽な所を、わざわざ北千住から日比谷線に入って、人形町から都営浅草線で羽田までやって来た。空港快速に乗ってからは、スムーズであったけれども、もう一度トライするか?と言われると、ちと微妙だ。まだ羽田はマシな方かもしれない。国際会議参加者の一部は、成田空港から帰国する。柏から秋葉原へ行って、適当にその辺りで乗り換えて、成田エクスプレス。何だか虚しい乗り方だ。本当は、案外近い距離関係にあるのに。
7 月 7 日、久々に牛タンを食う。ショッピングモールの中に牛タンの店があったお陰だ。テールスープ、麦飯、牛タン焼き、漬物。相当の塩分を摂ったことになる。気にしないでおこう、美味しいものは、リラックスして美味しくいただくのが一番だ。麦飯のおかわりはいかがですか?、さすがに、入らないのであった。これが年齢というものか。いや、絶対に最初から盛りが大きかった。柏スタンダードの「盛りの大きさ」というものがあるんだろうか、都心から東へ向かうと、段々と飯の盛りが大きくなるような気がする。そういえば、仙台も食い物に関しては大盛りだったなーと。住んでる人々が、関西よりも、少しずつ体格がいいことも関係しているか。… ということは、最初の「年齢か」というコメントは撤回することになる。まだまだ、いけるぞ!
7 月 6 日、どこでも、3日住めば何とやらという言葉がある。柏の物性研の周囲の「いい所」も、じわじわと感じつつある。関東一円が東京の都心のように気ぜわしい場所なのではという先入観があったのだけれど、なんか、ノンビリしている。秋葉原まで電車で30分、大阪から神戸くらいの距離で、随分と違うものだ。空が広くて、要するにアクセスの良い田舎。もっと昔は、なーんにもなかったけれど、ショッピングモールができて、陸の孤島という感じは薄れた。夕日の日の入りも見える。どういうわけか警察の拠点がある。じゃあ、ここに住みたいのか?と、問われると、「絶対に神戸がいい」と、即答する。(←個人的感想です。)
7 月 5 日、西日本では蒸し暑さが渦巻いているだろうと思いつつ、実は肌寒い千葉の柏の天候に異国を感じるのである。もともと、あまり人が住んでいない場所なので、雰囲気としては神戸に浮かんでいるポートアイランドや六甲アイランドの南半分に似ている。夕暮れ時になると、人気 (ひとけ) がなくなる。ただし、大学や研究所に頑固に張り付いている人が夜通し居るのは、こういう場所のお約束のようなもの。それでも、実は、研究室で「夜遊びする人口」が減ったのではないかという気がする。昔は、ゲームするにしても何にしても、どこかに集まる必要があった。今は、ネットが使えるから、繋がってさえいれば、とりあえず一人ぼっちにはならない。結果として、徹夜組が減ったのかなーと。もちろん、徹夜組はまた、昼寝組でもあるのだけれども。
7 月 4 日、つくばエクスプレスに乗って柏の葉?までやって来る。この位置にある物性研にやって来るのは、実はこれで2回目だ。以前、六本木から移転したての頃に一度やって来て「不便で、何もなくて、懲りた」ので、それ以来、可能な限り訪れないようにして来た。東大の他の場所や、京大で研究会が開かれる機会もあるからだ。今回は、テンソルネットワークの研究会があるということで、久々に物性研へと足を運んでみた。まず、随分と交通の便が良くなった。秋葉原から電車で 30 分と、バス 10 分、駅からは徒歩でも良い。まあ都心から一時間もあれば到達するとは、隔世の感がある。他の研究所も次々と出来て、何だか ETH Zurich みたいになって来た。牛が居ないのが、ちと寂しい。建物がまっすぐに並んでいるのは、昔の「滑走路」の上に建物を建てたからだとか。
7 月 3 日、面と向かって話すこと、これには様々な要素があると思う。猿の飼育は、これが難しいんだそうな。一度、嫌いになられてしまったら、世話をしてもソッポを向かれるとか。では、学生と面と向かって話してますか?と問われると、これがまた難しいのである。セミナーなんか、やってる時には「目を見てはいけない」。目が、「私は理解しているんです光線」を出すのである。これに騙されるとロクなことがない。本当に理解しているかどうかは、問い詰めてみればわかるので、わざとソッポを向いて、言葉を空に出すのである。きっと、変人だと思われていることだろう。
7 月 2 日、文章を読むこと、これには様々な要素があると思う。文章とは、そのまま、書いた人の思考が現れるものである。もちろん、文章を思いのままに書くことには訓練が必要なので、「そのまま」というのは「書いた人の文書能力も含めて」そのままという意味である。読み手に届くかどうか、あまりわからないような書き方の場合も、その「わからなさ」の中に、周囲への配慮が現れていたり、現れていなかったりするわけだ。色々な情報を多角的に、できるだけ読み取る、その努力は教員の務めの一つだ。頑張るぞー、と、自分にカツを入れる。
7 月 1 日、何事にも点検は大切である。まっさかー、と、思っているような箇所に、誤りというものは混ざり込むのである。プログラムを組むにあたっては、まず自分を信じず、自分が組んだプログラムが正しく動いているかどうかを、幾重にも確かめる仕組みを仕込んでおく。セグメント違反が出るようなことはしない、というのは今日では笑い話か。現代では、いじれない変数はいじれないように宣言する、そもそも変数ではなくてオブジェクトと考えて、脈絡のない計算は排除する、そういうプログラミングの時代となった。どうやら、手書きの数式を見たら、それを計算してくれるソフトウェアというのも、簡単なものであれば実現できるようになって来た。数式ではなくて、自動会計・自動レジなんてのも。なんか怖いのは、生れ落ちた瞬間に「自動優良可判定」なんかされそうな時代が、そんなに遠くないような気がすることである。よし、時代を先回りして「プログラムを破壊するプログラム」を作ろう。コンピューター消滅党、なんか作ろうかな?!
5 と 6 月の1行日記