← 3 月と 4 月の1行日記
2 月29日、水蒸気画像で、地球を眺めるとダイナミックな事になっている。寒気が一発、偏西風のうねりに乗って、西からやって来て、低気圧に餌を与えているのだ。赤道辺りが大気の境界条件の一つになっているようで、北半球で乱れると南半球もまた、似たようなパターンで乱れることが多い。少なくとも、極東付近から太平洋にかけては。そういう大気の状況もあって、今日は、朝が曇り、そして、にわか雨、強風が過ぎ去って、晴れ。雨と雨の合間に通勤できてラッキーだった。阪急六甲からバスを利用するにしても、やっぱり、雨でない方が良いに決まっている。雨の日のバスは、乗っているだけで、湿気を吸ってしまう雰囲気があるから。それについては、朝の満員電車も同じか。「雨の日は自主休講」なんて、宣言してみたいものだ。
2 月28日、ヨモギ、その辺りのどこにでも生えている。摘んで見ると、ヨモギの香りがする。香りと表現するとオーバーかもしれない、草臭いだけのような香りだ。ともかく、春っぽい臭い。斜面に生えているヨモギを摘んでいる人を時々見かける。あれは、どうやって調理するんだろうか?あまりにも身近すぎて、下処理の方法すら知らないもの、食材、結構いろいろとあるものだ。フキノトウも、フキが生えている場所ならば、必ずある。採って来ても、まあ、せいぜい、天ぷらか、苦い佃煮か、アク抜きして煮物の片隅に添えるか。いずれも、主役にはならないものだ。山菜は、そんなモンかな。さて、ヨモギ色をしたヨモギ餅らしいものは、季節を問わずよく見かける。あれは、どうやってるんだろう?と思いきや、冷凍物とか、ヨモギ粉など、いろいろと保存方法はあるようだ。
2 月27日、小さな粒になった紅茶、これは何の役に立つんだろうか?と疑問に思っていたけれども、使ってみて納得。全ての粒が沈んでしまうので、カップに放り込んで、湯を注げば、そのまま飲めてしまうのだ。段々と濃くなるとか、最後に粒を取り出す手間があるけれども、湯を切ってしまえば、塊となって、カパッと出すことは容易だ。ミルクティーを出すような時にも、茶漉しを使わなくて済むから、茶漉しに油汚れが付くのを防ぐことができる。めでたし、めでたし。欠点はというと、香りが物足りないこと。これが、茶葉そのものの欠点なのか、それとも粒にする加工の関係で生じたものか、それは、よくわからない。そもそも、どうやって粒にしているんだろうか?一度、練った紅茶のようなものにしてるのかなー?
2 月26日、温度計を見ると、寒い1日のはずなのだけれど、出歩くと寒くない。日差しが暖かい。夕暮れも遅い。何となく、繰り出して遊ぶ、そんな陽気が戻って来たような気がする。思い出してみれば、20 年ほど前に、宮城県の中新田町へ散歩に行った日が、こんな感じの天気だった。ポカポカ陽気で、日向ぼっこしていると、空から綿毛が降って来る。最初は、たんぽぽか何かの、綿毛が舞っているのだと思っていた。しかし、手に取ると消えてしまう。それは、雪だったのだ。気温は数度もないのに、日差しがきつくて、とても暖かだったのだ。春スキーも、似たような感覚だったなー。なお、仙台から中新田までの道のり、その長さに、宮城県の巨大さを思い知った。岩手県は更に大きく、北海道は関東一円よりも広い。北日本恐るべし。
2 月25日、夜もとっぷりと暮れた駅で、高校生の旅行姿をたくさん見た。あ、そうか、今日は、入学試験が終わった夕方だったのだ。パッと見の印象はというと、「大きくなったなー」という感じ。もちろん、何かと比較する訳ではなくて、受験生は高校3年生の終わり頃なので、当然ながら大人のように大きいのは当たり前なのだ。それでも、受験し終えたという、その、ひと山超えた感覚が、余裕を生み出しているのだろうか、大きく見えたのだ。受験勉強が終わった、その次に来るものへの期待もあるんだろう。私たちが見ることのない、少し先の未来も彼らは見るんだ、その頃は、どんな科学が発展しているんだろうか。あと、ひと月足らずで、新入生としてやって来る訳だ、その高校生の何割かは。いいものを受け継ぎたいものだ。いや、何もしないで、質問されるまで待つのが良いのだろうか、ここいらが思案のしどころ。
2 月24日、本屋さんで、ANA の気づかい、という本と目が合う。知人の紹介もあって、チト、気になっていた本なのだ。Amazon のランキングも、結構高いのである。本のレイアウトも気になるので、即、購入。まず、気づかいというキーワードに、必ず噛んだ文章が、ここまで色々な角度から組み合わせられるという、その高い編纂能力が強く印象に残った。文章の量は、黙読すると一時間くらい。セミナーの教科書に使うならば、きっと寄り道するだろう、全8回くらいの講義、通してやると3日くらいだろうか、集中講義にちょうど良い分量だ。かといって、新人研修用というわけでもなくて、普遍的な要素を並べて一般書として読めるものになっている。文字の大きさもいいなー。章も、伝統的に縦書きの左ページから始まってるけれども、その右側はキーフレーズで埋めてあって、広げて見せることもできる。編集者、恐るべし。こういうの、サイエンスで、できないかな ….
2 月23日、測定することによる量子計算という研究題材がある。形式だけを見ると、古典統計系の「ところどころ」に境界条件を課したものになっている。熱力学的な系を繰り返し測定する、という操作にも通じるわけだ。所で、熱力学系って何やねん?という話がある。量子力学系で説明がつくはずと考えたいのだけど、一筋縄では行かない。ごくごく短い時間の間では、熱力学が見えないのが普通だ。コヒーレンスが保たれる時間は、不確定性と熱雑音のエネルギーでおおよそ決まっていて、そんなに長くないのであるが。うーん、物事をいろいろな角度から眺めると、実は何も知らない、知られていないことが浮かんで来るなー。物理学は、そもそも、美しい所しか見ないから ....
2 月22日、少し前に書いた英文を見直すと、あーあ、とてもひどい構成になっている。日本語で書いてあると気づくだろう、論理の前後した部分が、なぜか、いや毎度のごとく、見落とされている。使える表現の幅が狭いから、ゴリゴリと、計算機言語のように書くしかない訳だけれども、その限られた中に間違いがあるのだから、救いようがない。ただ、文章として誤解を受けるようにはなっていなかったことが、不幸中の幸いだろう。次に、同じような見落としはしないぞ、と、心に誓って、また別の英文書き作業へと入る。どうせまた、同じように、いや、少し違ったパターンで、表現上のミスを重ねるであろうことは、承知の上で。
2 月21日、肌寒い午後、ちょっと体を温めよう、と、白下糖に目をやる。2カケラほど取って、シナモンスティックを割って、生姜もスライスして、あと、カルダモンを一つ。これらを鍋に放り込んで、コップ2杯の水を加え、加熱。じーっと煮出すような感じにしたい所だけれども、時間も惜しいから、早々に抽出終了して、カップに移し、飲む。マサラ茶の、お茶抜きといった感じ。上白糖では、この味にはならない。サトウキビ感覚が、少し味わえる白下糖ならではの、少々しつこい甘さ。これが、スパイスと合うのだ。さて、温まったら、また次の作業。
2 月20日、カシューを塗って、乾かして、また塗って、だいぶん塗り重ねたから、さあ水研ぎの開始。濡らした、紙やすりで、注意深く削って行く。削り過ぎると、今までの努力が水泡と化すから、慎重に。すると、あれ、なんだか、柔らかい。あ、だめだ、しばらく作業中止して、また乾燥に移らないと。厚塗りした塗料には、ありがちなトラブルだ。表面は乾いていても、中にまだ、揮発成分が残っている。この状態で無理をすると、塗膜が浮いてしまったりと、ロクなことがない。最低でも、一週間は放置してから、また様子を眺めながら削って行こう。
2 月19日、今の筋力のまま、体重が 10 kg 落ちたら、らくらく懸垂できるのだが ... これは無謀な願望。毎日のように、何かにぶら下がって腕や背筋・腹筋を鍛え、精進して体重も増えないようにする。これらの結果として、体重をキープしながら、筋力をアップして行くのが関の山。昔はどうして、48 Kg なんていう軽量で生きていられたのだろうか?と、不思議に思うくらいだ。その頃は、鉄棒にブラーんとぶら下がって静止した状態から、えいやっと懸垂逆上がりができた。それよりも筋力を使わなくて済む、蹴上がりでさえ、今は全く、できそうにない。まずは握力の回復から。しっかり、物を握るという訓練を重ねてみよう。
2 月18日、頭の中で、図形をどれくらい自由に操れるものだろうか?この能力は、人によって随分と異なるものだと思う。マンガやアニメをやってる人は、日頃からこの訓練をしているのだろうなー。人間でも何でも、頭の中で自由自在にポーズさせられるようでなければ、そもそも、アニメの世界では生き残れないものかもしれない。さて、レコード盤を思い浮かべてみましょう。そこに、何か文字が書いてある。「デビルマン」でも「エヴァ」でも何でもいい、カタカナでも平仮名でも漢字でもいい。さあ、そのレコード板を、ぐるぐると頭の中で回せますか?私、どうやっても、文字が読める状態で回せない。文字一個なら、らくらく回せるのに、レコード板の上で回転する文字は、思い浮かべづらいのだ。天才にはなれないものだ、と、思う今日この頃。
2 月17日、ロケットの打ち上げ写真を、よーくみると、白い煙がジグザグになっている。風が全くなければ、あるいは風が一様に吹いていれば、このようなジグザグは生まれないハズだから、このジグザグ模様は大気が水平な層となって、結構自由に運動していることを表している。このような跡は、逆に、隕石が地上へと落ちて来た時にも生じる。ということは、人類が望遠鏡を手にした、その瞬間から、実は上層大気の運動について、ある程度の知識を得ることが、技術的には可能であったわけだ。しかし、昔の人は、せいぜい、雨を降らせる下層の雲にしか興味関心がなくて、そこから上のことは考察の対象外であった。こういう、知識の欠如が「いま見えるものも、見えなくしてしまう」ことは、良くあることだ。きっと、現代の我々も、いろいろと見落としているに違いない。
2 月16日、ええと、運動場にでっかい筒を立てて、宇宙まで伸ばすことができたとしよう。大気の温度は、まあ、大まかに言って、地上から上空まで「同じくらい」だ。さて、筒の底で「あーっ」と叫ぶと、どうなるんだろうか?音は、上に向かって伝わって行くのだけれども、登るほど空気の密度が下がって行く。ここから先は、ちゃんと計算すれば良いだけの事なんだけど、サボって想像を働かすと、二つの可能性がある。ひとつは、高度が高くなるほど、どんどん振幅が大きくなって行くという説。振幅が平均自由行程くらいになった所で、熱に化けてしまうはずだ。もうひとつは、音波の一部が「反射」されるような形で地表に戻って来るという説。これも、無いとは言えない。ただ、そのうち、どこかでエネルギーが熱に化けてしまう、不可逆なことが起きるはずだ。こういうのは、惑星大気の専門家が良く知ってるのかな?
2 月15日、そのあたりに落ちている木切れ、風で折られた枝、これらも磨けば光る素材なのだ。石ころもまた同じ。どのようなものであっても、仏様を彫ったら仏像、魚の形にすれば釣りの餌もどき、ボタンの形に彫れば、もちろんボタンに。価値あるものになる。このように、何でも加工の余地がある。ただし、加工のノウハウもさることながら、加工する道具は、ちゃんと準備する必要がある。道具の準備に半分くらいの労力を費やすかもしれない。でも、その道具もまた、安く仕入れようと思ったら、金物屋さんのジャンク箱に、山ほど積まれていたりする。案外、どうにもならないのがサンドペーパー。これを自作するのは、なかなか、一苦労なのだ。もちろん、砂や泥を丁寧に沈殿させて、粒を揃えたもので磨けばいいのだけれども、効率が悪い。まあともかく、お金をかけずに、趣味に走るならば、工芸はいいなーと、思うのである。
2 月14日、バレンタインデーの神戸空港、日が暮れた後の手荷物検査の列は … 別れを惜しむカップルの行列と化していた。2つ前の2人は別れを惜しみ手を振り合い … 振り愛い … ひとつ前の2人は手をつなぎ、記念写真を自撮りし。その自撮りの瞬間に、画面が見えてしまったので反射的に覗き込んでしまった。あ、これは失敬。2人は角度を変えて、タコ坊主が映らない角度で別れの自撮りを完了。ひとつ後ろのカップルは、これまた、愛に満ちた声で、次に会えるのはひと月後と、誰に聞こえようと気にせず語るのであった。心からの言葉というのは、テレビドラマの演技とは違うなーと。その、「純粋な愛」の列に挟まれてしまった私は、ひとり、単なる「不純物」と化したのであった。ひとつ言っておく。その自撮りに使ってた iPhone の中身の LSI では、シリコンにブッ込んだ「不純物」が主役なのである。… やめとこう、年寄りの冷や水発言は。
2 月13日、重力波の検出騒動で思うことは …. Higgs の時に比べて、噂の期間が短かったなーということ。Higgs 粒子が検出されたという話は、結構前から噂されていた。それには、理由があるといえばある。イベントをいくつも集めて、統計的な精度を上げて行かなければ発表として成立しないという、粒子物理学特有の事情が。「あの辺りに何かありそうだ」という、そんな話が聞こえて来てから、何ヶ月もかかって、ようやく正式なお披露目となった。LIGO による重力波検出の場合、データ自身は数秒で取得できてしまっている。ウェーブレット解析したとか、あれや、これやとノイズの可能性を排除したとはいえ、基本的には一瞬ですべてが終わってしまっているのだ。そこから数ヶ月、投稿した論文の editor や referee も含めて、うまく情報管理したものだ。ただ、あの発表のスタイルは、どうかなーと感じる所もある。静かに、世の中に公開するだけで十分なのに。
2 月12日、重力波の話題がアチコチから聞こえて来る。ブラックホールが、遠い宇宙の彼方で融合した、その現象を観測したということらしい。距離について言及しているので、はて、どうやって距離の情報を得たのだろうか?と、しばし思案。あっ、そうか、振幅で「おおよそは」わかるんだ。融合したブラックホールの間の質量比はどうなのかなー、一定の範囲内にあること程度までしか解らないだろうなー。この手の物理的な情報は、どこにあるんだろうか?と思案していると、数本の論文として、プレプリントサーバーに上がっていた。これだけの論文を投稿していて、「噂」ぐらいの情報漏洩に止まったというのは、なかなか良いことだと思う。editor も referee も、その辺りの責務は、ちゃんと果たしたということだ。いや、ちゃんと査読することが本当の責務なんだけど。まあ、それも、読んでみて、問題ないと思った。
2 月11日、暖かさが戻って来て、下草が段々と緑色になって来た。小さな花が咲き始める日も近い。今の時期の雑草は、本当に美しい姿をしている。ロゼッタ、そう、花が地面に広がったように、平たくなって太陽を受ける姿は、春の伊吹きそのものだ。今のうちに、ヨモギの苗も確保しておこうかな。ヨモギは、管理せずに放置すると虫だらけになって、調理に使えたものではないのだけれども、庭植えして剪定や葉水やりなど手入れに気をつけると、綺麗な葉を広げてくれる。ヨモギが、あまり園芸に用いられないのは、多分あの目立たない花のせいだろう。秋になると、粉ばかり飛ばす、パッとしない花が伸びて、いつの間にか、種になって、これまたゴミのような種を撒き散らす。花が目的だったら、春菊の方がいいかなー。「春菊は、挿し木で増やせる」という事実は、知っておくと便利だ。美味しいし、花も綺麗だし。ああ、いけない、結局は食い物に話が流れてしまった。
2 月10日、質疑応答には、反射的な即答を控え、まずよく質問者の意図を理解するように努めるべし。という呪文を、何度唱えても無意味なことは、十分にわかっている。本番で、質疑応答が噛み合わないという、悪夢の経験を通して、改善を図るしかないからだ。従って、この「呪文」の効力は、たぶん、二回目の経験くらいに現れて来るのではないだろうか。また、日本語で受ける質問は、誤解が生じやすいという、言語的な問題も少なからずある。「それは何の反射率?」と、いきなり質問が飛んで来たら、「えっ?赤外線の反射律?それとも金属表面の反射率?」と、聞き返す必要がある。しかし、慌てていて、どちらか一方の意味だろうと思い込んで、延々と返答を始めると、すでに「質疑応答が噛み合わなドツボの一丁目」なのであ。実に半分の確率で、無意味な返答となってしまう。こういう危険もあるので、冒頭の注意に戻るのである。質疑応答には、反射的な即答を控え、まずよく質問者の意図を理解するように努めるべし。以下、無限ループのごとく、繰り返す。
2 月 9 日、Apple の広告動画に、ノートブックパソコンが机の周囲の道具を次々と吸い込んで行くというものがある。ノートブックが、机の周りをキレイにしたでしょ?という、あの動画。実は、あそこに含まれていない要素がある。一時期のパソコンは巨大だったので「机の上に余分な物を置くスペース自体を奪った」のである。そして現在は机の上もキレイになり .... なってない。結局、何かが机の上に置かれているのである。貝殻だったり、使い古しの電池だったり。まあ、それは良い。この調子でパソコンが色々と物を奪って行くと、最終的には自宅とか、衣服なんかも奪ってしまうのではないだろうか?今日の寝泊まり場所、今日の服、何でもスマホが用意してくれる、「遊牧民的生活」が標準となる、そんな世の中が来るぞ?食いモンに関しては、すでに、そうなり切ってしまっている、そんな気がしなくもない。
2 月 8 日、今週の後半から、ふわーっと気温が上がって春がやって来る。この前の寒波で、凍ったものが枯れ始めて ... いや、枯れていたものがようやく「枯れた色」になって ... 枯れ草の風情がアチコチに出現している現状のままではイケナイ、枯れたものは刈り込んで、新しい芽吹きに賭けなければ。どこから手をつけるか?一番目立つのは、教室に近い場所にある植え込み。でも、あそこのススキの駆除に手を付けるには、地面が乾きすぎている。ススキの根は深いので、雨が降った翌日にでもないと、なかなか抜くことができない。それとも、少し離れた庭園の下草を狩りに行くか?あそこも面積が広くて、どこから手をつけたら良いのか、ハッキリしないなー ... と、引伸ばしていては、いつまで経っても先へ進まないのは、目の前に積んである書類と同じ。
2 月 7 日、スープを、カレーっぽくしようとして、カレールーを少しだけ入れてみると、とっても甘くなってしまった。これは、失敗といえば失敗、狙った味に到達しなかったわけだ。もちろん、美味しいので、そのまま食べたけれども、次からはちゃんとスパイスを調合しようと思った。時間があれば、大きな粒のスパイスを、そのまま贅沢に入れて煮るのが長持ちする香りを出すポイントなのだけれど、まあ、ミルで粉にしてしまって、少しだけ煎って香りを立てて、そのまま油に移してスープ鍋行きかな。粉でしか売ってない種類のスパイスは、ちょっと難儀で、変質する前に使い切らないと、香りの薄い、怪しい粉に成ってしまう。そうなる前に「自家製カレールー」でも作って冷凍しておくのがいいのかなー?
2 月 6 日、お寺の仏像は、普通、前から眺めるものだ。斜め方向とか、横から眺めるようなことも、無いわけではないけれど。後ろからは?仏像の後ろには、呼び名を知らないのだけれども、色々と「背景」となる彫り物が並んでいるので、真後ろからシゲシゲと仏さまを眺めることは難しい。その、長年の未体験ゾーンに、本日遭遇した。とある場所で、等身大の仏像が展示されていて、その後ろに回ってみると? はい、その、何というか、存在感があるんです。前向きだと、仏像は仏像にしか見えないんですが、後ろから眺めると、人間。誤解のないように、いや、誤解を上塗りするように言葉を添えると、決して、彫り師の技量が無いから悟りが見えないと言っているのではなくて、悟ったはずの存在を表す仏像に人間が重なって見えるのが、興味深かったのである。思わず、肩揉んであげそうになった。何百年も、ああやって座ってると、肩、凝るよね?
2 月 5 日、節分の鬼を見て、ふと「なまはげ」の写真を見たくなった。画像検索すると、アッ、包丁を振り回している。ええと、武者行列のような伝統行事の場合、模造の刃物を携帯していても、理由があるので「銃刀法違反」にはならないわけだ。模造とはいえ同じものを、街中で振り回したら、即刻、現行犯逮捕だ。さてその「なまはげの刃物」、いろいろな形をしているけれども、どれも伝統の黒打ち刃物である。また、刃が強くカーブしているものが多い。これは、農家が葉物野菜などの収穫に使う「収穫包丁」や、江戸時代に使われた古い形の包丁に良く似ている。これを順手で振り上げるのが、なまはげの共通するスタイルだ。視覚的には、なかなか、怖くて、滑稽なポーズである。なお、なまはげの「不祥事」は、被り物を身につける商売全てに共通する注意点だ。可愛いからといって、無防備に近寄って行ってはならない。いや、その、特定の商売を妨害しようという意図は全くないのですが。
2 月 4 日、私の専門は、数値繰り込み群などを用いた統計モデルの数値解析である。この問題に興味を抱いている方から、様々な技術的な質問を頂戴する。全国アチコチ、いや、外国からの問い合わせも多い。可能であれば、より近い人々にも、この最先端の研究テーマの一端をお知らせしたいものだと、常々思っているのだけれども、なかなか、そういう機会は巡って来ない。今年は幸いにも、短い期間ではあるけれども、そういう「免許皆伝への道」に恵まれた、ありがたいことである。教えるとは言っても、半分以上は「研究」である、自分の専門職なのであるから。一方で、自分の専門からかなり離れたテーマに携わる人々にも、何か助言し申し上げなければならないような場合も多い。これは、いわゆる「道徳教育」というものだろう。このような状況の下では、科学的な文章の書き方や、講演の行い方など、いわゆるエチケットについて、可能な限りネチネチと指摘するのが商売となる。うるさいオッサンと化して、重箱の底ばかり突くのである。意識するのは、科学的な透明性である。まあ、画期的な何か、本質的な発見を誰かがすれば、その発見者の立ち居振る舞いが「その業界の道徳」と化すことも多いので、聞き流しておいてくれれば良い。
2 月 3 日、論文や著書を、幾つも書いて来たので、学生さん達から見ると、私は「スラスラと文章を書いている」ように見えるらしい。いや、実の所、文章を書く速さは地に落ちてノロいのである。書きかけたものを消してしまったり、順番がマズくて頓挫してしまった文章の半分を削って再配置したり、そんな非効率なことばっかりやってるから、遅々として筆が進まないのである。筆の速い人は素晴らしく高速で、一週間もあれば教科書一冊分の文章が出来上がってしまう。そんな神業は、私の能力では決して真似できない。原因は何か? とある小説家曰く「文才は生まれつきのもの」と。ジタバタしても仕方ないのである。今さら文才を得ることは期待できないので、労力を投入して推敲を重ねるのである。苦労した分、自分的には、文章が完成した時の喜びが大きい。読者的には、どう映っているのだろうか?可能であれば、著者としては、透明な存在でありたいものだ。
2 月 2 日、ふと思う、大学の良い所。予行演習がないこと。卒業式の予行演習なんて、存在しないのだ。一方で、大学の良い所は、予行演習があること。卒業発表の予行演習、修士論文発表の予行演習。これらは、科学者として研究発表を行うスタイルを習得してもらうために行う。研究は「中身で勝負」というのは事実なのだけれども、プレゼンの方法がマズいと、埋もれてしまう。(中身のない研究をプレゼンで何とかすると、どうなるか、かの大騒動を例に出すまでもない。)修士論文までは予行演習で仕込むとして、博士論文はどうだろうか?博士論文の発表については、大学や研究室によって、様々な意見があるのだと思う。私が学位研究をした研究室では、審査員立ち合いの下で行われる論文審査も、一般向けの公聴会も、本番だけであった。誰かが、予行演習の「予」の字でも口にしようものなら、即座に「本番で聞いて、その時に意見を述べます」と一蹴されるのが常であった。博士なんだから、一人でなんとか、しなさいよ。そういう覚悟が求められたわけだ。この「教え」は、その一部でも伝えて行きたいものだと常々思っている。卒業発表でも、修士論文発表でも、博士論文発表でも、発表の最中に講演者が受けた質問は、講演者が責任を持って答えるべきなので、脇から口をはさむこと、助言・ヒントなどは、厳に慎むのである。
2 月 1 日、日銀の目指す金融政策、珍説を一つブッ立てよう。昭和に発行された、純金の 10 万円金貨、あれが「ターゲット」である。発行された当時から長らくの間、純金としては半分の 5 万円程度の価値しかないと、叩かれて来た。そして、その差を突く偽造事件もあった。しかし、国際的に金価格が上昇した上に、円の価値がどんどん落ちた結果、円から見た金価格はうなぎ登り。もう少しで、10 万円金貨の 20 g 純金が 10 万円に達するのである。その X-day が、カタストロフの始まりでないことを祈る。なお、10 万円金貨は通貨なので、お店や銀行で通貨として使うと 10 万円以上でも以下でもない。ただ、国際的には、やっぱり金という金属に過ぎないのだろうと思う。
1 月31日、物理屋が「念力」について語るとは何だと言われそうだけれど、あえて「念力」について。もちろん、当然、信じてないし、科学的に検出しようとしても、何も出ないだろう。あくまで、SF の世界の話としての「念力」、又の名称がテレキネシスである。昔はずーっと、テレキ・ネシスだと思っていた。この間違いに気づいたのは、いつの頃だっただろうか。当然、テレ・キネシスが正しい切り方で、キネシスもキネ・シスと分けられるだろうから、テレ・キネ・シスという分割になのだ、たぶん。そういえば、ピタゴラスイッチにも、テレビのジョンという冗談があったっけ。テレビ・ジョン … 当然、テレ・ビジョン。こう言う言葉遊びも面白いものだと、ふと思った。
1 月30日、鉄の密度は水の 8 倍くらいある。30 cm x 30 cm の、厚さが 1cm の鉄板は、何と 7 Kg もの重さになるのである。でも、分厚い肉を焼く鉄板焼きのステーキでは、それでも熱伝導が足りないらしく、2 cm とか 3 cm もの厚さで焼くのだそうな。これが本当に必要な厚さなのか、熱伝導シミュレーションしてみたい所だけれども、まあ調理師さんの勘には間違いがないだろう。となると、チョイとコンロに乗せて焼く鉄板が 20 kg にもなってしまう。少し広い鉄板にしたければ、もう人間の体重並みだ。となると、コンロから設計し直さなければならない。家庭でステーキハウスというのは、やっぱり難しいのかなー、そんなキッチン、欲しいなー。鉄の厚板は、1トンあたり 10 万円くらい。そんな、めちゃめちゃ高価なものではない、鉄工所で切ってもらって帰ることができさえすれば ...
1 月29日、大学の教員は、その氏名と連絡先が表に出てることが多いので、見ず知らずの方から突然メールが舞い込むような事も、しばしばある。このような場合、不用意にレスポンスを返すと、「ナントカ先生からのお返事をいただきました」と、使い回される事がある。外国人から根拠のはっきりしない科学論文についてのメールが舞い込んだ際に、「そんな考えは間違ってる」と書いてしまったが為に、その主のダメダメな論文の最後に「西野先生との議論は参考になりました」なんて書かれて勝手に投稿された、ニガい経験もある。従って、素性の明らかでない相手からの連絡については、原則として、読まなかったことにしている。もちろん、自己紹介から始める方、自分の情報を SNS で充分に公開しているなど、所属の明らかな方には、必要に応じてのこだけれども、礼を失しないようにお返事申し上げる用意はある。用意がある、と、思っているだけで、実は、礼儀を尽くす事だとか、信用ある振る舞いなど、全くできない私なのであるが。
1 月28日、とあるドアに、べっとりと液体がついていた。寒い日だから、内側で暖房したら結露してこうなるんだ、と思ったけれど、何だか様子がおかしい。結露を繰り返して、汚れを呼び込んでしまったのだろうか?とも考えたけれど、そんな大量の汚れが残るというのも妙な話だ。視線をずーっと上に向けると、ドアの油圧装置が目に入った。バネと油圧がセットになって、ドアが一気に閉まらなくなるようにする、あの機械、ええと、名称は、知らない。... 調べてみると「ドアクローザー」と呼ぶのだそうな。油圧装置なので、故障すると「油漏れ」することがある。今回の、ベトベト事件は、まさにソレ。意外と厄介なものが身の回りにあるものだと思った。毎日のように開け閉めされる、過酷な環境の下で用いられるものは寿命も短いらしい。家庭の玄関ドアに使うものは、開け閉めの回数も知れているから、まあ、そんなに心配する必要はない。あの中にオイル入ってたんだ、というのが、今日の発見。
1 月27日、賞味期限の切れた物を「そうとは知らずに食わされる」のは、まあ、良くない事だろうと思う。一方で、賞味期限の切れたものを「売ってくれない」のは、はて、どうしたものだろうかと、思う部分もある。塩や砂糖の袋に、賞味期限が印刷されているのを見ると、何とも言えないものがある。糖度の高いものは、まずカビることが無いので、よほど精製度が低くて、細かい粉となっていて表面に出た不純物が酸化されるような事さえ起きなければ、来世紀に封を切っても大丈夫ではないだろうか。潮解しないという条件付きで。ただ、ありがたい事に、ナチュラルチーズの箱にも賞味期限が打ってある。カマンベールなどの場合、賞味期限が切れる頃に、ちょうど中身がトロトロになっている事が多く、食べ頃だ。時々、カビっぽい辛さが強くて、ロックフォールみたいになっている事もあるけれども、それでも食える。青カビが出ていたり、汁が出て赤いカビが生えていたら、さすがに、それはアウトだけれども、売っている状態で、そこまで悪くなる事は滅多に無い。そして、その、賞味期限の直前には、有難くも半額になるのである。半額でも商売になってるんじゃ無いか、という話は別として。
1 月26日、ピカピカに磨いた自動車の展示、なかなか美しい。カメラを構えて写真を撮ってたら、ミニスカートのお姉さんが出てきた。なるほど、単純に広告として展示してあるだけではなくて、あらゆる手段を駆使して顧客の確保というわけか。しかし、大学教員のン年分の年収の自動車、商機はゼロなのである。知らーんぷりして、お姉さん方に背を向けて展示自動車の撮影していたら、いつの間にか姿が消えた。ふと思うに、この自動車を購入する人は、多分に、こう言う形の人件費を負担しているに違いないのである。それが、富裕層から貧乏人への、資金の還流になるのであれば、まあ良いか。展示してたのは輸入車だけれども、半分くらいの購入資金は、国内に還流するんじゃないだろうか?
1 月25日、凍る、降ると、散々報道された割には、何事もない首都圏であった。先週の降雪の方が、大変だったんじゃないだろうか。ただ、地方から東京に来れないとか、逆に帰れないという話がアチコチから聞こえて来た。雪で滑走路が閉鎖されたら仕方がないか。そんな場所に、航空機が足止めを食った小さな航空会社は、それが原因で他の便も欠航となったとか。こう言う場合、翌日の振替え輸送は絶望的で、何日も後の便になる事もあるらしい。そもそも、航空券で確約されている事は、行き先まで「いつかは」連れて行ってもらえるという約束のみ。空が相手だけに、時間までは確約できないヨ、という事らしい。
1 月24日、港区に「肉芝うどん酒場」という、うどん屋がある。ずーっと前から知っていたのだけれども、酒場だから、私には縁がないやーと、無視を決め込んでいた。港区に長く住んでいた同窓生らから「行かなあかん」と指南されて、訪問。夕食だけも OK だそうな。店の兄ちゃんは愛想がいい。肉汁つけ麺の大盛りに卵追加で注文する。釜玉みたいにして食べたかったので、熱い麺に生卵を割りかき混ぜて、それを肉汁につけて食す。これはうまい。ちょうど、讃岐で甘い甘いスキヤキを楽しんだ最後に食べる、あのうどんの味だ。大盛りの麺も一気に胃袋に納まり、完食。繁盛している店で、続々と予約の電話が入り、お客さんもやって来る。よし、翌日もここで食べよう、と、店を後にした。日曜日はやってないと、友達から教わって、ガクっ。
1 月23日、今日も、アニメーション鑑賞の続き。昨日、第一部のクライマックスだけ見ていた「地球へ」を、最初から見てみる。やはり、アニメは第1話。ここで視聴者を引きつけなければ、翌週から見てもらえなくなる。それだけ、力を入れて作成してあることが良くわかる。超能力が、ひとつの道具にはなっているのだけれども、それが主題ではないということが、この第1話で良くわかる。原作と比べると、ソルジャー・ブルーが、ちょっと元気すぎるような気がしなくもない。まあ、いいか、アニメでは、原作よりも少しだけ長生きするのだから。なお、この作品で頻出する単語はミュー。ミュータントの省略だ。ニュータイプのニューと、対比してみると面白いかも。
1 月22日、竹宮恵子の「地球へ」は、雑誌掲載時におおよそリアルタイムで読んでいて、FM で放送された第一部のラジオ版を聞いたり、映画版を見たりしたものだ。ラジオ版は、今も印象に残っている。ソルジャー・ブルーの虚弱な所が声に出ていて、またフィシスの不思議さも美しく表現されていて、なかなか良かった。映画版は .... まあいいか。さて、今世紀になって、アニメでリメイクされたことは知っていたのだけれども、見たことが無かった。無料で部分公開されていると知って、見てみると、あら、良く出来ている。ストーリーは、それぞれのキャラクターの心の動きを把握し易いように再構成されていて、原作の荒削りな部分(が実は魅力の一つなのだけれども)が補われている。コンピューターが、エヴァの使徒みたいなのは、ご愛嬌ということにしておこう。セルアニメでは動かし辛い、竹宮恵子のキャラクターも、最近の技術なら、ここまで表現できるのかと思った。フィシスの金髪線の表現(による質感)は、まだまだなんだけれども。
1 月21日、生協で水を買って来る。もちろん、建物の中で、飲める水は手に入るのだけれども、お茶を出して美味しいかというと、微妙な所がある。ポットの内面が赤くなるので、鉄イオンが浮いているのではないかと思う。そこで、お茶、紅茶、コーヒーなどは、生協でボトル入りの水を買って来て、沸騰させる。軟水を買って来るので、ポットの中がゴリゴリに結晶だらけになる事はない。こうやって買って来た水は、沸騰させただけで飲んでも、飲める。妙な臭いがしない。さて、このボトル運び、欲張ると大変な事になる。ずーっとカートで運べるのなら、何本でもまとめ買いするのだけれども、実は、店舗を出たばかりの場所に階段があって、カートなど絶対に持ち込めないからだ。その後も、研究室まで山あり谷あり。良い鍛錬にはなる。かも ...
1 月20日、JR の車内で目につく、スキーの広告ポスター。目の輝きを見る限り、太陽光と雪の照り返し以外の光はない。雪というのは、素晴らしい光源となるものだと思った。この状況は、スケート場と、ちょっと似ている。スケートのコスチュームが、キンキラキンなのも、周囲に光源が沢山ある事に加えて、氷からもドンドン、光が「立ち昇って」来るからだ。それら光の束を周囲へと散乱させるには、キラキラ、ギラギラに限るわけだ。スケート靴に付いているエッジも、光ることがちゃんと計算されている。単に滑るだけだったら、あんなに鏡のように磨く必要はないのだけれども、エッジは光らなければならない。うまく光ったら、エッジが倒れていることの証でもあるから。
1 月19日、先週の岡崎の事を、ふと思い出す。道端の標識に何やら外国語が書いてあったっけ。それはスペイン語みたいだけれども、少しだけ違う。何が違うのか、よーく見てみると、アクセント記号のつき方が違うのであった。ええと、このアクセントは、そうそう、ポルトガル語だ。岡崎を含む中京圏にはブラジルからやってきた人が沢山居るんだった。その割には、道中であまりブラジルの方に会わなかったなー、とは思いつつも、辺りを見回すと地方自治体のオフィスがあったので納得。いろいろと訪問者がいるわけね、書類1つを作成するにしても。神戸は、やっぱり、アジアからのお客さんが一番多いかな?
1 月18日、パイ電子について。化学式で表す、あるいは図示された分子構造に、パイ結合があった場合、そこは「レゾナンス」によって均一である、と、初等的な最初は教わる。そのまま、ずーっと、この歳になるまで、そんなイメージを持っていたのだけれども、実はそんなことはな。それはそうか、長くなれば長くなるほど、HOMO-LUMO の間隔は狭くなって行くから、あらゆる摂動が影響を与えるようになるわけだ。結果として、強いボンド、弱いボンドができて、CDW のような状況が生じることもあるわけだ。ポリアセチレンでは当たり前の CDW と、分子の中の電子が頭の中で結びついていなかったことを、認識したのであった。
1 月17日、分野が異なる研究者同士が出会う時、まず双方がどのような背景を持っているか、そのモチベーションを理解する所が大切なのだと思う。その根本的な部分さえ理解できれば、後はテクニカルな問題が双方の分野に横たわっているにすぎない。ことへ、どれだけの時間を費やして深く交流しようか?という選択の問題に帰着できるからだ。その最初の一歩を踏み外すと、難儀な、場合によっては不毛なことになってしまう。様々な領域から集まる研究会の場合は、よく気をつけておかなければならない。会議を企画するときには、その点について何度も釘を刺しておくことを、これからも忘れないようにしておこう。
1 月16日、仕事がハネてから、チョイ、某所のスケートリンクに見物に行ってみる。都会のスケートリンクは、往々にして人が多い。人が多い、というと、ちょっと語弊があるかもしれない。多いだけなら、神戸のスケートリンクだって、テレビで世界選手権なんかの放映があった翌日には、蒸し風呂のような人出となる。いや、そうではなくて、本気の人が多いのだ。まず週末は、朝からずーっと夜までレッスン枠でいっぱい。中央でジャンプしている。ジャンプを終わった子供達が、元の位置に戻るまで、人混みの中を高速ですり抜ける、その速いこと。そして、平日もいつでも、中年スケーターの個人レッスンがこれまた次々と。レッスン内容の復習は、延々と続くのである。結果として、初心者は隅へと追いやられて、コソコソと滑る。館内放送で、わざわざ「初心者の方にも場所をお譲りください」と、アナウンスするほどに。神戸のリンクは、実におおらかだなーと、思った。いや、昔、高松国際ホテルにあったスケートリンクは、もっとノンビリしてたぞ?
1 月15日、接客業をしている方は、自分の見え方というものを良く研究しているものだと思った。客室乗務員の女性の方、機器のチェックなどをしている時は、普通の感じなのだけれども、何かを話しかける時になると、急に目が大きくパッチリ開くのである。この傾向は、どの乗務員にも、共通している。多分、働き始めた頃には意識して、そうしていたのだろう。段々、それが無意識の動作となる。さて、客室乗務員にバトンタッチするまでのお世話が、地上係員。新人さんが訓練していた。その後ろに、チェックばかりしている、鋭い目つきの「先輩」が。見ていて面白いので、じーっと見てしまった。こちらが見ていることに気づいて、ちょっと、目つきがソフトになったのが、面白かったのである。接客している後ろに、渋い顔で立っていたという事に、気づいてくれただろうか?
1 月14日、新幹線、名古屋から京都への移動であれば、通勤電車に乗っているようなものだ、あっという間に着いてしまった。もうすこし早く名古屋に着いていれば、近鉄という選択肢もあったろうけれども、今回は日が西に傾いたので、名古屋経由になった。同業者と京都まで、あれこれとお話をした。次世代の人材についてのコメント。まあ、世の中、そういう事の繰り返しなので、平均的には良い方向にも、悪い方向にも、向かっていないはずだ。ただ、昔は気づかなかった事にも、一応は気が回るような年齢になってしまったので、あれはあれ、これはこれ、と、次々と話す事あり。周囲に丸聞こえだったかも。京都から新大阪に着いた時にも、さて、どうしたものかと一瞬思った。実は、新快速を使う方が、職場の神戸大学まで、速く到着することもあるのだ。うむ。
1 月13日、外国人のお客様を、蒸し物料理のお店に案内する。そこであれば、ベジタリアンだろうと、魚料理にアレルギーのある方だろうと、何でも調節できるからだ。さて、話が盛り上がって来た所で、論文のレフリーの話になった。「この論文には、これこれ、こういうコメントが帰って来た」「この論文には、何も書かずに、一行だけの support コメントが返ってきた」と、まあ、出る出る、うははは。ええと、同業者の場合、面と向かって話している人が、覆面レスラーの相手である可能性は無視し得ないのである。なんか、どこかで聞いたことのある話やなーと、思ったか、思わなかったか、さあ、しーらないっ。似たような状況として、「こんなレフリーコメントには、どう回答したらいいやろか?」と、そんな質問が著者からレフリー本人にメールで届いたりすることも、無いと言い切れる筈がない。ともかく、著者以外に、レフリーのことを話すのは止めておいた方が良い。意図的に、そうする場合は別として。
1 月12日、バンケットの写真撮り。途中から、白黒写真に切り替える。よく、色覚が「多数派の方とは異なる」方の、色の見え方を聞くことがある。酒に酔った顔が、あまりよく分からない、そんな話も聞く。白黒で写真を撮ると、まさに、そんな風になる。傍目には、もう真っ赤に酔ったオッチャン・オバチャンであっても、白黒にすると、紳士淑女なのである。いや、少し酔うくらいの方が、目に光が増して、良い写真となることもある。白黒の美しさ、これは光の魔術としか言いようがない。ホテルの会場には、色々な照明があるので、立ち位置ごとに表情も変わって来る。そんな面白さを、十分に楽しんだ撮影であった。
1 月11日、地図を見ると、一本道だ。よし、楽勝。歩き始めてみて …. 道に迷った。おおよその場所は分かっているので、強引に歩き回って目的地へと、三倍の時間をかけて到達。さて、どこで間違った?その原因は、浅く分かれる分岐点で、道の太い方向へ歩いて行ってしまったから。何となく、脇道のような、細い方が、本当の道筋だったのだ。明日は間違わないぞ。間違いは無駄にしないでおこう、あの辺り、普通なら歩くことの無かった路地を、少し散歩できたのだから、有り難いものだ。旅先では、ついつい、運動不足になりがちな、坂道の民の神戸市民には、ちょうど良い運動になった。いや、実のところ、もう少し高い丘でないと、チョイ物足りないのだ。
1 月10日、神戸大学を出てから、東岡崎駅に到着するまで、3時間かからなかった。速いモンだ。今回は、時間を節約するために、新幹線を利用。時間があれば、阪神の新在家までバスで降りて、そのまま難波へ行き、近鉄に乗って名古屋へという道筋になるのだけれども、今回は時間なし。名古屋から東岡崎の間の名鉄特急が、わずかに30分くらいだった事が印象に残った。途中の駅で、駅の構内にお寺があって、これまたびっくり。岡崎の辺りは、歴史的に重要な地域だった事が、来てみて初めてわかった。今回の出張先は分子科学研究所。分子科学には、物理学も深く関係している、まあそう考えて間違いはないわけだ。落ち着いた街だな、ここは。
1 月 9 日、スケートのエッジ、安定する部分を使えるかどうかが、まずスムーズに前進できるかどうかの、重要なポイントとなるのだけれども、エッジの前後にある、丸い部分、あの「そのままでは安定もへったくれもない」危険な部分に乗れるようになるかどうかが、次の課題となる。急カーブしたければ、スキーの如く強引にエッジをずらす手が無い訳では無いのだけれども、エネルギーのロスが大きい。うまく、丸い部分の入り口辺りに乗れたら、比較的スムーズに曲がることができるし、回転も容易だ。だが、最初は玉乗りしているようで、なかなか安定しない。しかし、練習しないと、いつまで経っても真っ直ぐに進むだけの滑りとなる。転びそうで怖い所に乗る。実は、飛ぶより難しかったりする。
1 月 8 日、地下核実験という、珍妙なものがある。ええと、地下に穴を掘って、核爆発を起こして、地中に空洞ができて、その後で上から土が落ちて、地面に凹みができる。それでおしまい。当然、地下に放射性物質が残る。地下水が出てくると妙なことになるので、砂漠みたいな場所のど真ん中で行う。いわば「ここに何でも捨ててください」と言わんがばかりの、誰も近づかない不毛の地。そんな場所があるんなら、海外からわざわざ買って持ってきた核燃料の燃えカスも、そういう場所に持って行きたいものだと思わないでもない。しかし、どこへ持って行こうとも、やがて再び、目の前に戻って来ることになるのが、地球上の七不思議。ずっと未来に、過去のゴミ、核のゴミに遭遇する人々の心中やいかに?
1 月 7 日、今日は水素原子のあれこれを。ええと、相対論的補正、同じく相対論的補正の一部とも考えられるスピン・軌道相互作用、ゼーマン効果、そして名前だけの紹介となるラムシフトと、超交換相互作用。ついでに、超超交換相互作用、えい、超超超交換相互作用。そんな細かい所まで見えてしまうのが分光の面白い所。そのような相互作用のハミルトニアンの形を紹介する。しかし、係数の計算については、あんまり熱が入り辛い所がある。そもそも、Dirac 方程式を解くことが本筋であって、そこから話すとスッキリと行くものが、ゴテゴテとした議論を経て、ようやく不完全な形で得られるというのは腑に落ちないからだ。さて、一応、これでおおよその量子力学のストーリーは語り終わった。後の細かい応用については、現場で必要になったら学んでもらうことにしよう。
1 月 6 日、昨日の書き込みとは別件。去年に戻って来たレフリーコメントへの、著者としての返事を年末に戻しておいた件。珍しいコメントというか、「Beef が充分ではない」という抽象的な指摘があって、これは主観の問題でどうにもならないから、その部分には「Chekin なら御座います」と丁寧に (?) 返事をしておいた。これが効果的だったかどうかは判らないけれども、ともかく、掲載許可がおりた。ちなみに、その部分、Fish にしようか、Rice にしようか、しばし迷ったのである。Rice という人名や、Fisher なんていう名前の方は居るから、レフリーがそういう名前だとマズいなーと思い直して、Chekin にした次第。しかし、まあ、Beef という辺り、やっぱりアメリカの方だったんじゃないかと。
1 月 5 日、新年のカレンダーを見る。幾つもの予定が重なるように配置されているではないか、これはエラいこっちゃ。いや、そんな事は昨年からわかっていたのだけれども、ついつい「来年の事だから」と、先送りに。でも、目前になると、もう、サボっている訳には行かなくなる。さて、どれから手をつけたものだろうか?ボランティアであるようであって、ボランティアだとも断言のできない、レフリーの仕事というのもある。論文審査の過程は匿名なので、互いに本性が出易い場になり兼ねないのだけれども、明確な根拠なく互いを揶揄するようなコメントの応報は不毛な事で、やりたくもない。何か妙な事があっても、その場で決着がつかない事は、よくあるものだ。次に遭遇した時の対策を、よく考えておく方が、健全だろう、たぶん。逆にと言うか、Author の立場から、無理矢理ネジ込むというのも、真似したくないなーと思った。
1 月 4 日、メールの送信が、突然できなくなる。サーバーの調子が悪いんだろうと、待ってみるものの、改善なし。何かがおかしい。そこで、アクティビティーを見るとメールが CPU の 98% も占拠している。マルチ CPU なので、これくらい占拠しても、全く問題なく OS は動いていたわけだ。でも、その原因は?どうも、その送信できなくなった時に送ろうとしたメールに問題がありそうなので、即刻、その引っかかったメールを削除して、再起動。テストメールを送ってみると、問題解決。ということは、何か、さっきのメールが悪かったんだ。その問題を掘っても、あまり得る所は無いだろうと判断して、これにて調査終了。これで、1時間を捨てる。まとめて書くと、なんか、しょーも無い作業に見えるけれど、いや、実にしょーも無いんだけれども、途中で、英文の FAQ に目を通してみたりとか、そんな無駄な検索時間を延々と費やしたわけなのだ。
1 月 3 日、3日とも暖かく穏やかな正月となる。まず、周囲が静か。自動車もあまり走っていない。お巡りさんもあまり見かけない。しかし、風邪をひいて体調はイマイチ。鼻をかむと、どこにこんな隙間があるのだろうか?と思うようなネバネバの塊がべっとり。そこで検索、ふむふむ、風邪をひくと副鼻腔も炎症を起こすわけか。そして、鼻の中を速い空気が通り抜けると、ベルヌーイ効果によって陰圧となった鼻腔側へと副鼻腔の中身も移動して、最後はその粘性によって芋ヅル式にドボッと塊になって出てくる訳だ。副鼻腔の体積は左右とも 10 cm^3 くらいあるのだそうな。ということは、あれくらいの量なら、まだ可愛いわけだ。ま、あと数日は養生あるのみ。
1 月 2 日、正月ということで、近隣に居る、高校の同窓生が集まって宴会。去年に仕入れた Canon FD 50 の試し撮りもバシバシと。暗い場所でも、F1.4 の威力は素晴らしく、素早くシャッターが切れる。ここまで絞りを開くと、焦点深度が浅くなってしまうから、マトモに写らないんじゃないか?という心配は杞憂だった。目の光など、焦点が合って欲しい所に照準を合わせて、あるいは少しだけソフトにしておく。そしてシャッターをきると、あまり焦点が細かく合って欲しくない所が適度にボケてくれて、都合が良い。ああそうか、モノクロの映画で、少しボケたようなシーンは、こうやって撮ったわけか。機材のことばかり書いていてはイケナイ、何と言っても、被写体に魅力があった。同窓会という場所では、みんな、子供に戻ってしまうんですよね、不思議なもんです。それが表情にも現れる。普段は何重にも仮面をかぶってるわけか、大人って。
1 月 1 日、有名な歌、サンタ・ルチアの謎。最初から見て行くと、Sul mare luccia, l'astro d'argento. まず、歌にありがちな「動詞のない文」から始まる。次は Placida e l'onda. Prospero e il vento. と、曲に合わせて発音できるように倒置文が続く。問題が次。Venite all'agile, barchetta mia, Santa Lucia. これ、どこで切れてるのか、まず判断に苦しむのだ。barchetta も Lucia も単数の名詞なので、二人称複数の活用形である Venite の主語にはならない。イタリア語で主語が出てこないのは、むしろ普通なので、さて、どなた方に「来なさい、いらっしゃい(行きなさい)」と呼びかけているのか、謎なのである。ロマンス諸語に前置詞が果たす役割は大きいと、つくづく思う。今度イタリアの方に会ったら、意味を聞いてみよう。もっとも、イタリア人がオペラを聞くのも、日本人が文楽を聞くのも、同じように、そのままでは何を言ってるのか判らないらしいのだけれども。
11と12月の1行日記