← 1 月と 2 月の1行日記
12月31日、パソコンを久しぶりに再起動する。MacOS X は、というか、Unix はどれでも、滅多なことでカーネルパニックを起こさないので、ついつい、放ったらかしにしがちだ。しかし、段々と仮想記憶が増えて行ったり、開いたままのファイルが増えて行ったり、ボリュームを互いに使い合ったりして、「待ち」や「引っかかり」が生じるようになって来る。以前のバージョンの MacOS では、ファインダーが勝手にリセットしてしまう、あるいは、ファインダー自体の応答が無くなってしまうという自体に遭遇する事が時々あって、こうなるとネットワークからログイン出来ない限り、お手上げであった。(多分、OPENSTEP みたいに、特殊な窓は開けるんだろうけれど、開き方を知らない。)そんな事も思い出しながら、年末だし、このタイミングで一度、再起動してみた。想像通り、シャットダウンには相当な時間を要したけれども、難なく再起動。新年を迎える準備となった、かもしれない。
12月30日、生命保険に、意外な「ミクロ経済学」が潜んでいることに、気づいてしまった。もちろん、これは常識の範疇だろうから、非常識な私が、今頃になって気づいたという訳なのだけれども。生命保険の「死亡保障」というものは、自分では手にすることのできないものだ。終身保険の場合、この死亡保障が「死ぬまで続く」のである。契約する時に、このことは、誰でも知っている。しかし、年老いて、収入にも乏しく、明日の暮らしも立ち行かなくなった時に、(a)解約して多少の一時金を受け取る(b)そのまま契約を続ける、この2つの選択を迫られることは、想像の範疇だろうか?実は、この、解約できるという保険会社からの知らせは、意外と頻繁にやって来るのだそうな。昔の予定利率は高かったからなー ...
12月29日、ポイント還元という、何とも厄介なものがある。何が厄介かというと、まず毎回の買い物ごとにカード提示を求められる。あれで、一体どれだけの経済損失となっているのだろうか。それはともかく、そのポイントを使う時もまた、難儀なことに「税込価格をポイントから差し引く」のである。国税庁の見解では「代理通貨と見なせるポイントは課税が妥当」なのだそうな。よく考えると、ポイントの付け方によっては、軽微な二重課税になっている。家電製品など、20% のポイント還元があったりする。その場合、元々の買い物で「相当の売り値」よりも過大な消費税を支払っていることになるか、あるいはポイント利用時に支払う消費税の一部が二重課税になっている。(どっちの解釈を妥当とするか、統一した見解は得られないだろう、ポイントの実態は業種にもヨリケリなので。)結局の所、こういう曖昧さが無いように外税で始まった消費税が、計算が面倒だからと、内税になった時に、税抜き価格が見えなくなったのが諸悪の根元だ。いやいや、そもそも、ポイント付けるなら、最初から値引きしてほしいものだ。
12月28日、日曜日には、まだ何となくクリスマスのような感じが残っていた街頭も、どんどんお正月モードへと移行しつつある。帰省する人がスーツケースをゴロゴロと引きずっているのが、印象的だ。昔よりも、スーツケース率が高くなったような気がする。大きな荷物を担いで列車に乗って、長旅をする姿は皆無となりつつある。新幹線に乗るにしても、飛行機を利用するにしても、スーツケース。ゴロゴロ、ゴロゴロと、街中は何とかなるけれども、ひとたび路地へと出ると、荒いアスファルトの上で、雑音発生器となる。早朝に引っ張ると、近所迷惑となりかねない。手でブラ下げるには、重たいし、バランスも悪いんだよなー。エイッ、頭の上に乗せて。... 一度、やってみた事がある。傘の代わりになる。が、しかし、腕力が伴わず、100 m 進んでギブアップ。都会に似合うものかな、スーツケースは。
12月27日、ごく近くの2点を、ごく近くであると認識しない事が、時々ある。建物の入り口から入って、右に左に、くねくねと進んで、一室で仕事をする。実は、その部屋の窓が、通勤の途中で通る裏道に接しているのだけれども、スリガラスなので、そうとは気がつかない。そんな場合。都会の地下道で、ありがちな事だ。ちょっと思い立って、地上に出てみれば、あれ、こんな場所?駅から、すぐ目と鼻の先ではないか、と。上下階で接している事もある。真上の人、真下の人、さてだ〜れだ?そんな、不思議な、隔絶された立体構造の中で、日々仕事をしているわけか。昔の、木造校舎だと、もっと上下が近かっただろう。ミシミシと、上の教室の音が響く、そんな経験は小学校低学年でおしまいだったな。
12月26日、ポートライナーの神戸空港駅は、あそこが終着駅であるのだけれども、Port Airport Terminal ではなく、Port Airport Station と英語アナウンスで呼ばれている。ということは、あそこは Terminal 駅としての機能を果たしていない、と、されているわけだ。Terminal と Station の使い分けは「気分次第」という側面が強くて、路線として終着とは言えないような場所であっても、列車がそこまでの運行であれば Terminal と呼ばれることが多い。関西ではよく知られた千里中央駅は Station だ。阪急梅田駅は、あれは間違いなく Terminal だと思う。Terminal だったものが、Station に格下げになったのが、多分、阪急三宮 Station だ。ああ、面倒くさい ...
12月25日、あちこちから、クリスマスカードがメールで届いたのは、昔の話。最近は、届いても「seasonal greetings」である。ある意味、列強帝国主義の時代(なんて言葉遣いすると信条がバレバレになるのだけれども)に押し付けるように広がった価値観というものを、ようやく見直そうという機運が世に満ちてきたのではないだろうか。日本国内もまた、憲法に書かれている通り多様な価値観を包含する国家だけれども、まあ仏教はその中でも、コモンな宗教(あるいは哲学)の一つだ。この時期に「南無阿弥陀仏もうし上げます」という、季節カードを世界中に配ったりしたら、過激思想の持ち主だと思われるんだろうか?と、ふと思った。念のために言っておくと、あらゆる思想・宗教にリベラルから過激へと様々な立場があり、かの仏教ですら、武装集団として歴史に名を残す強力な寺院が出現した時期もあったのである。まあ、年賀状に南無阿弥陀仏と書くことは、今年はやめておこう。言葉の意味は、悪いものではないのだけれども、現代では、チト、違った意味で解釈されることが、間違いない。
12月24日、今年のクリスマスはいつのなだろうか?と思うような、曜日の配列となっている。明日、クリスマスの日も金曜日で、この日がクリスマスという方々も多いのでは?そこから後は、もう年末休みに入ったようなものかもしれない ... 特に教育機関の場合は。ただ、ここで長い休みに入るのは、大学の講義の場合、あまり都合が良くないのではないか?という気は、ずーっと前からしている。年末年始もずーっと講義で、旧正月辺りから冬休みに入る、そんなスケジュールもいいなーと、ふと、妄想。無理な事だろうと、思いつつも。論文のプレプリントサーバーを見ていると、お隣の中国大陸が、だいたい、そんな風に動いていることがわかる。この時期は、ホント、主に中国大陸で科学が進展しているのである。同じ「東岸の民」として、我々も正月に頑張るぞ?!
12月23日、何だか風邪をひいた感覚がある。嗅覚が、ちょっとおかしい。息切れするはずのない状況で、急に息切れする。一方で、妙に運動のウォーミングアップが早い。夕方には、予想通り、風邪の諸症状が出始める。日曜日に梅田まで出かけた時に、感染したのだろう。潜伏期間2日ちょいか?しばらくは、免疫に戦ってもらうほかない。その間は、開店休業宣言 ... と言いたいのは山々だけれど、仕事はたまっている。さて今日は何から手をつける?と、「やるべき事リスト」を眺めて、うーんと考え込んで、眠気が差して、1日のおしまい。これでは、仕事が更にたまって行くだけだ。順序はどうでも良いから、ひとつひとつ、クリアして行かなければ。
12月22日、定時に通学・出勤することの意義、これを理由付けることは、かなり難しいのである。もちろん、決まった時刻に対外的なサービス業務を開始すること、これには(合理的である場合において)サービス業としての意義がある。例えば百貨店が10時か11時に開店。一方で、サービス利用者は、その時刻に来る・来ないは、裁量の範囲内となる。業務と利用をゴッチャにするな?と指摘されるのがオチのようにも見えるのだけれども、その区別も、真面目に考え始めると、なかなか線引きできないのである。会社の中にも、あらゆる業態の人々が、それぞれ活動していて、勤務管理側と労働者側、そして開発者、それぞれ、違った観点から動く。さらに、その周辺に関係者が居て、取引先があって ... 様々な「決まり」というのは、一見して常識に見える場合も、実は業務の合理的な都合や経済性から自然形成されたものであることに気づいて来る。「決まり」を見かけたら、まずは、それが本当に必要なものであるかどうか、一度は塾考してみる必要がある。選択・裁量の範囲を広げて活動するか、それとも「決められた」ルールに従って行動するか、そろそろ、ちゃんと考える時期なのではないかと、密かに思う。
12月21日、量子力学的な、いや、古典力学でもそうなのだけれども、散乱問題を扱う時には、漸近状態の定義が問題となる。また、散乱の過程で、散乱を引き起こす物体の状態変化を考えるか、考えないかによって、取り扱いの難易度が違って来る。単純な反射現象であっても --- 例えば鏡を覗き込むような作業を行っても --- 鏡に影響を与えてしまっているのである。ちゃんと、ニュートン力学で、作用・反作用の法則を習ったではないか、光が反射したら、その「反跳」はキッチリと鏡に及ぶのである。端的には、鏡の表面の電子が「全体として」入射光に応答して状態を変えているのだ。電子が「個々に」反応するわけではない、この点は、ちょっと難儀なのだけれども。散乱問題でも、この「反跳」はバカにできない。メスバウアー効果のような、特殊な事情が無い限りは。
12月20日、朝、日の出とともにガバッと起きて、阪神甲子園球場へと向かう。今日は、高松高校野球部 OB が、初回の高校野球の歴史的再現で戦う日だ。私はカメラ班。朝の甲子園は寒いなーと、思いつつ球場へ。観客席に座ってみると、あら不思議、風が全くなくて、日差しがきつく、暖かいを通り越して、暑い。上着を少し緩めるくらいで、丁度よかった。球場で望遠レンズを構えるのは、初めての経験。最初は、うっかり F 値の大きなレンズを使ってしまって、ブレブレに。途中で気づいて、F 値の少し小さな望遠に切り替えてみる。太陽の照りが更に強くなって、なかなか良い感じ。打球を望遠で追うというのは、とても難しい作業であることが、よくわかった。応援団も、ちと撮影。
12月19日、ハーバーランドのスケートリンクに降り立ってみる。というのも、ポートアイランドのリンクは、短縮営業で夕方には閉場都なってしまったので。大きさは、普通のスケート場のサブリンクぐらい。但し、周囲は港神戸の風景・夜景なので、思ったよりも広く感じる。整氷が手作業で、製氷後にお湯をモップ掛けしないので、氷は基本的にガタガタ。アイスホッケー部の練習後のリンクを滑っていると思えば、まあ、そんなものだ。氷は本物なので、滑る感覚は、まさにスケートリンク。特に気にしていた、屋外リンク特有の砂ぼこりの問題は「あまり」顕著ではないようだ。プロを呼んで来たら、ちゃんと、この場で演技してもらえるだろう。ただ、やっぱり狭いので、四六時中ターンを繰り返すことになる。ターンの練習リンク、そういう見方があるかもしれない。
12月18日、インド恐るべし。この秋に神戸で催された、インドのお祭りで購入した袋入りの紅茶の封を切って、早速、賞味。箱に 250g も入ってて、500 円。缶入り紅茶の、大きい方の缶くらい入っている。その味と香り、とっても良いのである。(少なくとも書面上は)イギリス経由で入って来る紅茶には、もうサヨウナラしたいくらい、美味しい。まあ、お茶が取れるならば、世界中のどこでも紅茶は作れるわけで、日本の国産紅茶というものも、最近ではチラホラと見かけるし、これまた美味しいのだけれども、これだけ茶葉が入って市販価格が 500 円とは、恐れ入りました。取引はもっと、めっちゃ安いんやろうなーと。美味しいものは、やっぱり、自然豊かな所にあるものか。
12月17日、微妙な「国際会議招待」が届くことがある。微妙な、の、前に、ダメダメな物は沢山あって、大抵が「総合会議」みたいで主題がはっきりしない物だ。これらは、実際に開催されるのかどうかも怪しくて、大抵は登録料稼ぎの詐欺みたいなものだ。たとえ会議があったとしても、中身に乏しい物になることは、まず間違いない。微妙なというのは、おおよそ分野も限定されるし、チラホラとマトモな学者も invited speaker にリストアップされてはいるものの、全体としてプログラムや参加者にまとまりがなく、招待・招聘と断りつつも時間枠が空けてあるだけで、旅費も滞在費も参加費も、特段の補助がないもの。金銭の問題というよりも、やっぱり、参加するモチベーションがゼロに近いというのが、この手の微妙な国際会議の特徴だ。(専門分野の重要な会議であれば、全部手弁当でも、万難を排して駆けつける。)ある種の「会議ビジネス」なんだろうと思う、この手の国際会議は。過去の参加者の、会議レポートなんかを見ても、やっぱり総花的で、「グレーゾーンの会議ビジネスなんだろうなー」という感じだ。いや、まあ、参加する方々には、それなりの目的があるから参加するので、外野から揶揄するわけではない。私は、微妙なモンには手を出さない主義。Invitation Letter に喜んではならない。
12月16日、文屋であることを忘れてはならないのであった、そろそろ、諸般の物書きにケリをつけて行かなければ、年明けになってしまう。というわけで、泥縄の執筆。短いのもあれば、長いのもある。「雛形」があるような文章は、いくら舞い込んでも簡単だ。二、三箇所、チョイチョイと書き換えて完成。しかし、毎回のようにスタイルを変えて書くような文章となると、それが続きものであれば、段々とネタ切れになる可能性が高くて、難易度が増す。長い文章は、それぞれの部分に分けて執筆するわけだけれども、分けてとは言っても互いに相関があるので、あちらを書いて、こちらを直してという作業が続く。ちょっとした言葉遣いの変更だけで、1時間もかかったりする。その努力が読者に届くかどうかは別として。執筆者の意地なのかもしれない。
12月15日、姫路に、ひょっこりお邪魔する。今日の講義の主題はモード。まあ、色々と実習をやってもらうということで、うまく時間が使えたかどうか、よくわからないけれども、物理って、こんな風に考えるんだヨ、ということが、少しでも伝わったら有り難いことだ。姫路城は今までにも訪れたことがあるけれども、姫路の駅に降り立つのは、実は初めてなのだ。これまで、駅のホームから街を眺めたことしか無かった。その時の雑然とした印象が残っていたのだけれど、今日、駅からお城まで歩いてみると、なんとまあ立派に整備された道だろう、びっくりした。新幹線の駅を降りると、もうお城が呼んでいる。導かれるままに歩く。道中の警備も、抜かりがない。外国人が、多く往来していた。あらゆる人々が、観光を、そして町並みを大切に育てて行こうとしている、そういう熱意を、感じたのであった。
12月14日、グローバル教育なのだそうな。よし、失われつつある人類の隠れたる才能を、次の世代の人々には獲得してもらおう。それは、多言語の話者となること。インドからやって来たお客さんに、幾つの言葉が話せる? (do you speak と問う。can you speak ではない。) と聞くと、指折り数え始めるのが普通なのだ。素晴らしい、というか、昔は、山の向こうに違った言葉を話す人が居るなんてザラだったわけで、大昔からの人類の才能が、段々と消え去って行って、今日のような「一つの言葉しか話せない」状態に陥ったんじゃないかと ... 本当かどうかは知らない ... ともかくも、英語教育一辺倒はそろそろおしまいにしたいのだ、さあ、どこの言葉にしようか?ケチュア語なんか、面白そうなんだけど?!
12月13日、ニュートンの時代というと、長く続いた英仏の戦いに、一応の決着がついた後で、イギリスはアイルランド、スコットランド、イングランド、ウェールズの組み合わせが今日まで続くという安定した時代に入った。まあ、小競り合いだとか、一時期の革命なんかは別として。どっちにしても、一般人を巻き込んだ大きな戦争は、世界大戦の時代になるまで、やって来ない。さて、ニュートンとボイルは、そんな頃の科学者で、ニュートンからボイルに宛てた書簡も残っている。この頃の郵便というのは、要するに、旅人に文を託すという形式だったようだ。さてそのニュートンの英語、文体はサラリとして文法的には単純なのだけれども、知らない言葉がバンバン出てくる。知らないというか、今日的には、使われなくなった「科学的曖昧語」が沢山出てくるのである。うーん、まあ、辞書引けばいいんだけど、言葉というのは、変化してゆくものだと思う。
12月12日、熱力学の形成を、その頃の歴史から眺めて行こうという事を思い立って、アレコレと浅く調べてみると、お国柄というものは昔からあったのだなーと思う。産業革命で一歩先んじたイギリスは、今日のアメリカがそうであるように、特許というか、パテントにうるさい気配がある。フランスとドイツは、あれだけ文化が違うように見えるけれども、元々は兄弟国のようなもので、無名の田舎者が画期的な発見をしても、学会に受け容れられるには時間がかかった。イタリア人は … サルディニア出身のアボガドロを除いて、あまり熱力学には名前が出てこない。そんな事を言うと「フェルミが居るじゃないか」と、怒られるかもしれない。フエルミ・ディラック統計のフェルミは、確かに熱力学の大家でもあるし、有名な「薄くて学びやすい熱力学の教科書」の著者でもある。でもまあ、熱力学はドイツ、オーストリア、フランス、イギリスあたりが主流だった。このオーストリアが歴史的には曲者で、昔は中欧で最も栄えた大国の一つだったから、今の国境を思い浮かべると大間違いの原因となる。まあ、そんな、よもやま話を組み立てようかなー。
12月11日、ブラウン運動、ええと花粉が動くやつ ... というのが誤解であることは、結構広く世に紹介される様になって来た。正確には、花粉から出た、もっと小さな粒が動く、だ。さて、このブラウンさん、お名前は「ロバート・ブラウン」だ。実に一般的な名前で、検索すると現代人にもぞろぞろと同名の方が居る。それはそうと、このブラウンさんは、顕微鏡を覗き込む研究者で、その対象は主に植物の観察。はい、植物学者だったわけです、昔の分類では。今の分類では?顕微鏡で見えるものの中には細菌やバクテリアもあって、バクテリアは現在の分類では植物ではないから、バクテリアばっかり見る人はバクテリア学者と呼ばなければならない。細菌学者でもいいか。ブラウンさんは細胞核も発見しているから、植物「も」見ていたには見ていたわけで、結局は顕微鏡生物学者? とでも呼ぶのが適当なのかもしれない。こういう、手法から学問に入る人は、現代にも、時々居る。強磁場なんていうのは、その典型ではないかと思う。
12月10日、コーヒー豆、表面と内側で味が違うのである。試してみると良い。ローストした豆を、そのまま湯に入れて、しばらく待って引き上げると、苦味が良く出る。表面だけ、ヤスリで削り取ったものを何個か用意して、慎重に潰して抽出すると、ふんわりとコーヒーになる。察するに、要するに、表面は幾分焦げているわけか。まあ、コーヒーは中まで焦げているに違いないものなのだけれども、それでも、焦げ具合に差があるということらしい。こういう事があるならば、表面を削り飛ばしたコーヒー豆も「吟醸」とか何とか題して売ってるに違いないと、検索してみると、確かに売っている。但し、どうやらローストする前に削るらしい。いや、ローストした後で飛ばさないと、表面の焦げは無くならない。この研磨用のドラム、開発してみようかしら???
12月 9 日、ギターで、アルゼンチン・タンゴばっかし弾いているバンドは、少なくとも国内では珍しい。(ギターとバンドネオンという組み合わせは、比較的よく見かける。)「ギター、タンゴ」で検索すると、引っかかるのは大阪大学なのだ。そして、もちょっと検索すると、その OB で、還暦を過ぎた面々がバンド再結成という情報もまたヒットするのである。本場、ブエノスアイレスに行ってみたいものだと、ずーっと思ってはいるものの、その夢はまだ実現していない。研究会が開催されることもあるのだけれど、その都度、いろいろな仕事が重なっていて、今まで行けずじまいなのだ。黒猫のタンゴをなんども聞かされたからだろうか、幼少の時期に。団子三兄弟も、そろそろ復活して良い頃だぞよ?
12月 8 日、欲しいものは何かと聞かれると、給電ワイヤーでつながったワイヤレスマウス、給電ワイヤーでつながったワイヤレスキーボード、給電ワイヤーでつながったワイヤレスパッド。3つも4つも、ワイヤレスデバイスがあると、画面の片隅に、常に「電池残量がありません」という表示が出て、目障りなこと甚だしいのである。そうそう、発電マウスとか、発電キーボードとか、ないんだろうか。圧電素子を充電に使うとか、弱い電磁誘導で力学的エネルギーを拾うとか。何も、そんなに大電力を生み出す必要はない、近くに電波を飛ばす程度でいいのだ。世の中、情報機器に電池電源が備わっているという時代は、そろそろ卒業なのである。大掃除を前に、乾電池の山を見つめつつ、これは難儀なゴミだなーと、しょーもなく思うのである。
12月 7 日、おかしい、フェルミの黄金律を導出してみると、遷移確率が 1/4 倍になっている。しばらく考えて、昼過ぎに原因を見つけた。摂動項の形が、V cos(wt) ではないか! 他書では、普通、V exp (iwt) を使う。道理で、振幅にして 2 倍、確率にして 4 倍の差が出るわけだ。この点の詰めを見過ごしていたのは、手抜かりであった。場の理論にも似たような落とし穴がある。気がついたら、結果が 16 倍になっていたとか、一度に出るはずのものが二度に別れるとか。古典クラインゴルドン場の変分でも、場とその共役を「あたかも」独立変数であるかのごとく扱えるのは何故か?という「あまり説明されることのない、積年の FAQ」がある。真面目に、x + iy のように分解して考えても良いし、空間をまず広げておいてもいい。でも、説明抜きに初学者には食わせたくないものだ。
12月 6 日、小石と小石をぶつけると、カチカチと音が鳴る。この音は、どうやって出ているのだろうか?幾つかの、いや、幾つもの説が立てられる。まず、石は丸いから、ぶつかる時に、接点で多量の空気を排除して、その空気のパルスから音が出ている、そんな説を立てることができる。いやいや、石といえども、強く押せば歪む「弾性体」であるから、衝撃を受けて表面が振動して、音が出るのだと説明することもできる。いやいや、石が全く歪まない剛体であったとしても、速度が瞬間的に変化すると、周囲の空気に津波のような一発波を生じる。これが石の音だと説明することもできる。さて、この3つの、どの効果が「主要なもの」であるか、あるいはこの3分類が適当なものであるか、これが論理の立て方と、実験的な検証の核となるのである。ここに系統的な解析を加えることができれば、その手法も含めて、充分に論文になり得るテーマだし、学位論文にまとめることも可能だと思う。ちなみに、電子に電子を「当てる」と、ピカピカと光が出ることもあるのだ。
12月 5 日、むかしむかし、阪大で修行していた頃、ギター部に所属していました。随分と久しぶりに、定期演奏会を聴きに行きました。計画から合宿から、舞台裏から表まで、全部見えるが故に、新しい感動は無いんじゃないか?なんて、事前に予想していたことは、見事にハズレ。バッチリではないですか、今年の3回生達。多いとは言えない部員をヤリクリして面白いステージを、これでもか、これでもか、と繰り出す。また、アップテンポで乗る時代に合わせて、パート割り当てや編曲も工夫して、最後は技量と努力と熱意で乗り切る。伝わりましたよー、部長さん。来年も期待してます。
12月 4 日、Dr と言う肩書きでメールを受ける時、ちょっと用心するのである。Mr は言うまでもなく。大抵は、機械的に生成されたメールなのである。ちょい、論文書いて投稿してみませんか、とか、誰でも発表できるような国際会議だったり。国際会議の invitation で、organizer にも speaker にも、知り合いが非常に少ない、あるいは居ないという場合もまた、警戒度 100% なのである。量子科学・分子軌道計算のように、それでも「近い」分野であれば、そろり、そろりと内情を伺って、参加してみることもある。意外と建設的に参加できる場合があるので、ハナから無視と言うわけでもない。マテリアルサイエンスの場合は、もう一歩「遠い」分野だ。Professor と呼ばれる場合は、大抵が知り合いの所の事務の方や、学生さん達から。これはもう、呼ばれたら、万難を排して出かけるのみ。また届いたなー、Dr 肩書きのメール。さて、...
12月 3 日、恒星の大きさは、光球の大きさで定義される、ことが多い。太陽の場合、ガス密度は光球の (適当な場所で) アボガドロ数 / m^3 くらい。地球大気密度の 1% くらいらしい。そこから中心核に向けて、ドンドン密度が上がって行き、比重が 150 くらいの場所で核融合が起きているとか。ともかく、恒星は良いのだ。では銀河の大きさは?アンドロメダ銀河が、どれくらい大きいか?という話は昔からあって、天体望遠鏡で写る範囲までが銀河の大きさという、平和な時代もあった。現在では、赤外線やら電波やら、色々な観測手段があるから、もっと広がった天体である事が判明している。いや、そもそも、重力というのは長距離力だから、その支配空間というのは、下手をすると隣の銀河までの距離の何割という所まで伸びる。銀河の大きさって、じゃあ、何?いや、まだこれはマシか。太陽系の大きさという、これまたトンデモナイものもある。カケラのようなものが、うんと遠い所に、かすかに (でも数からするとウヨウヨと) 浮かんでいるらしいのだ。それは、現在の観測手段では、把握する事ができない。まあいいか、これらは、自然科学の対象だから、まだ解りやすいものだ。「面接によって人物の能力を推し量る」という AO ナンチャラが推し進められているのであるが、果たして ....
12月 2 日、卒業生から知らせが入ることが時々ある。うまく行っている時には、現在について楽しく語っている事が手に取るようにわかる。着任、転任(異動)の知らせ、ご成婚、神戸訪問、あれや、これや、そんな機会に連絡を受ける事が多い。何から話しましょうか、そんな感じで、喜ばしいものだ。ぶっちゃけて言うと、神戸大学の在学中に、その方の学問的・人間的成長を(ひどく)妨げる事がなくて良かった、そういう安心感を覚えるのである。また、不思議な事に、いや、当たり前のことなのかもしれないけれども、そういう場合には、卒業発表の内容なども、良く思い出せる事が多い。もう10年以上も前のことなのに、忘れていない。当時から印象的だったのだろう、きっと。ただ、うまく行っている時に、連絡を受けることは稀であることも確かで、いま述べたような例は比較的珍しいものかもしれない。
12月 1 日、ススキは最強最悪の雑草だ、と言える。ちょっと隙間があると、何気なく生えてきて、最初の年は、こじんまりと目立たずに根を残す。次の年になると、ちょっと大きな芽を出して、まあススキらしいと放置しておくことがあるかもしれない。しかし、次の年には、沢山の芽が出てきて、大株になってしまう。ここまで来ると、株を全て抜いてしまうのは一苦労だ。上だけ狩っても、次から次へと芽を出してくる。狩った後で、ちょっとだけ塗っておけば株が全滅するという、恐ろしい除草剤もあるそうだけれども、ちょっと怖いので遠慮する。そして、以後、この戦いは永劫に続くのである。あるいは、根性出して、株を抜き去るか。そういう悩みを持つ頃には、この株の塊が、地面のアチコチにできてしまっているのである。ススキにだけは甘い顔を見せてはならない。
11月30日、9ページの論文の校正を行う。雑誌の英文の9ページというのは、結構な文章量になる。それだけ使って示す内容があるかどうか?ということが、まず検討すべき事項だ。よーく目を通してみると、重複している所、記号の定義がマチマチな所、論理の構造が壊れている所、色々とあって、そのままの形での校正は無理だということに気づいた。こういう場合は、バサッと赤入れするのが良い。おおよそ4ページまで削って、骨だけにしてみた。すると、骨の中に余分な骨があって、要するに2ページくらいの内容であることがわかった。まあ、それに、introduction などを充実させれば、また4ページに戻って来るか。さて、ここまで削ることに、首を縦に振ってくれるだろうか?
11月29日、黒にんにく、さあて何に使おうか?と、色々と試行錯誤してみた結果、やはり王道のソース系のものが一番似合っているという結論に達した。あの味は、ドライフルーツと黒酢とニンニクを練り合わせたような感じだから、塩とコショウさえ加えれば、それなりにソースっぽくなる。肉汁のようなものに足すのもよし、カレーにしてしまうも良し。食べた時に感じる味よりも、後から「黒にんにく食べたなー」という感じが強いかもしれない。似たもので、黒たまねぎというのもあるそうな。検索すると、黒ラッキョウも。こうやって、食文化というのは、少しずつ進化してゆくのだろう。中には、忘れ去られる調理法もあるのだろうけれど。
11月28日、ノートパソコンの前で1日を過ごす。半分くらいは、逃避行動の時間であったのではないだろうか。幾つかの英文を、校閲したり、書き足したり、コメントしたりと、まあ、次から次へと来るものだ。文章というものは、その人、その人の考えるロジックが、そのまま吐き出されるようなものだと思っていい。ただ、そのままでは、個人差が大きすぎるので、おおよそ誰でも読める所まで配慮してあることが多い。その配慮が足らないと「なんでこんな事が主張出来るんやねん?」という疑問を次々と生む事になって、都合が悪い。その手のボロが出ないように、影になり、あるいは表に立って、文章の推敲や校正に付き合うのである。この作業について、ある方は「結局、誰が文章書いたのかわからないよね」と、おっしゃっていた。時には、この「誰が書いたのか」を見破る技量も必要となる。腕を磨くには、やっぱり、日ごろから、文章に付き合っておくしか手はない。
11月27日、幾つかの仕事が一度にやって来ると、さて、どれから手をつけたものかと途方に暮れることがある。解決策はただひとつ。片端から片付けて行くしかない。優先順位をつけようとすると、それに時間を割かれてしまうので、目の前にやって来たものから、先にドンドン。師走は、忘年会なんかが詰まっているけれども、よーく考えると、それらも時間を費やしているに過ぎないので、実務にあまり関係ない場合には、宴会パスというのも現実的な選択だ。カレンダーをみると、1月がシジュウカラ状態ではないか、どないしてくれる! と、今気づいたのが、まあ良かった。対策を立てて、仕事の計画を立てて ... 結局、計画を立てるのに時間を浪費することになる、のであった。
11月26日、一瞬だけ空がオレンジ色に染まる。その瞬間を切り出そうとしても、なかなか上手く行かない。空を撮るなら空、地面に目を向けるならば地面と決めてかからないと、あまりにも明るさに落差があって、同じフレームに収まらないのだ。冬は、人々の活動している時間に、この夕闇が迫って来る。そして、イルミネーションの夜。神戸は、そもそも、街が天然の(?)イルミネーションなので、何も目立つ光を派手に出す必要はない。小さな光でいいのである。まあ、大きい飾り物は、それなりに綺麗なんだけれど。こうして光ある所にレンズを向け続け、街中に溢れる光で一番目立つものは何かというと、結局の所、iPhone の画面が目立つ世の中になってしまった。ま、それはそれでいいか。世界的な飾り物、iPhone の光、地球を覆う。
11月25日、静止という概念、どう考えるか?古典力学的には、まず、質点が「ある時間間隔の間同じ位置に居れば」それは間違いなく静止である。では、振り子の運動のように、一瞬だけ止まるというのは、そこで静止しているのか?と問うと、水掛け論争が始まる。じゃあ、古典力学は捨てて、量子力学にしようか。と、量子力学では、定常状態という概念はあっても、物体の静止という概念は(少なくとも直接的には)存在しない。そもそも、不確定性があるから、物体の位置がどこかに決まっているとか、その場所にずーっと居るということすら定義できない。また、目を空間から時空へと向けると、そもそも全ての事象は時間方向へと飛ぶように移ろっているわけだから、そもそも、静止って何だということになる。慣性系って何?という質問かもしれない。さあ、どう定義したものか ...
11月24日、朝起きて、水飲んで、健康診断へ。ボーっとした頭のまま、血液検査だとか視力検査だとか、X 線撮影だとか。身長体重とか腹囲とか心電図もあった。全部で 10 項目くらいあったっけ?もっとかな?ともかく、ボーっとして血圧検査に参る。これが、毎年のようにクセ者。血圧計が置いてある椅子の高さが、自分に合っているとは限らないのだ。不自然な姿勢で座ると、必ずどこか緊張してしまって、結果として血圧をハネ上げてしまう。あっちの装置、こっちの装置と、渡り歩いている内にシックリ来る物に出会う、そういう試行錯誤を経て、やれやれ、正常値が出る。思うに、この血圧測定という仕組みは、測定技術の進歩から取り残されているのではないだろうか?たぶん 200 年くらいは変化していないのだ。非接触測定は無理にしても、もちょっと、被験者に気づかれない測定方法は無いものだろうか?
11月23日、球根が食べ物、ええと、例えばタマネギとか、ゆり根とか。… それで尽きてるか。芋類は球根じゃないし、ああ、ラッキョウを抜かしてた。ニンニクもそうか。これらは、球根だから、植えれば芽が出るし、大抵のものは結構な耐寒性を持っている。ちょい買って来て、植木鉢に植えておくと、ヒョロリーっと伸びて、うまく行けば花が咲く。咲いた花が、キレイなことは、あんまりないけど。ユリは例外で、梅雨頃にキレイな花が咲く。ただし、ものすごーく背が高くなるので、ちょっと大きな植木鉢に深植えしなければならない。ユリ根のいいものは、これから正月にかけて出回る。買ったら、さあ、食べるか、花を観賞するか、ちと、迷うのである。タマネギは、迷わずに食べる。
11月22日、音波の量子化、どれだけ意味のあることだろうか?まず、弾性体の音波は、復元力が原子間力なので、どんな温度でも存在する。そして、phonon という、量子化された音が、低温での固体の熱的な性質を記述する。液体ヘリウムの中の、幾つかの音波も似た様な性質を持っている。さて問題は常温の気体。これは熱現象だから、量子化なんて意味がないという、乱暴な議論が巷に溢れている。ちょっと待った、慎重に議論しよう。まず、空気中の音は、ほとんど断熱過程であるという理想化の下で考えるならば、断熱されたシリンダーに理想気体が入ったものを用意して、質量 m の重りを付けて振動させる、これが量子化して考えられるかどうかを、検討しなければならない。この問題は多分、アンサンブルによって結果が違って来ると思う。ミクロカノニカルアンサンブルに立つか、カノニカルアンサンブルに立つか、それで life time が違ってきそうだ。そして、完全には断熱でないという点に考察を映して行くか。「常温量子現象」は、今後の大切なキーワードになるんじゃないかと思う。ともかくも、quantization of sound とか、音の量子化というキーワードで検索すると、ロクなものがヒットしないのだ、情報理論でも同じ語句を違う意味で使うので。
11月21日、物理学を教わるメソッドは有るのか?というと、有ると言えばあるし、無いと言えば無い。まず、有ると言えば有るというのは、小中学校の理科で物理の初歩を教わるし、高校になれば晴れて「物理の授業」もある。そして、物理を中心に教える大学の学部まである。それぞれ、物理の学習メソッドを提供しているわけだ。しかし、物理的な物の考え方そのものが、その一連のコースで得られるのか?というと、そうでもないような気がしている。ある程度、生まれついた時から、ごく幼い頃に自分を囲む周囲の認識を行った時点で、理学的に物を眺めるのか、工学的に眺めるのか、芸術的に眺めるのか、etc. といった、世の中との関わり方が決まってしまっているのではないかと、最近、特に最近、思うのである。学習して伸びるというのは、この、持って生まれた才能が伸びる道筋を与えて邪魔をしない、それに尽きる。そういう意味では、大学の教員は時として「何もお手伝いできない」ような状態に直面することもある。この場合、どのように「教えれば」良いのか、誰しも悩むものだ。ただ、メソッドを提供するのが仕事だから、迷わず、そのメソッド通りに行うのが良い、たぶん。
11月20日、会議から戻って来ると、留守録あり。が、しかし、2 秒でプッツン切れている。番号が残っていたので、調べてみると、某区の小学校からの発信となっている。が、しかし、小学校からの着信で無言というのも妙なものだ。うーん、電話番号の「偽装」ではないだろうか?そう考えて検索してみると、それらしい情報がヒットしたので、アチコチに問い合わせてみて、んな事実はないことを確認。大昔はあったみたいですねー、ナンバーディスプレイの偽装が。しかし、うーん、今では難しいとの事。とすると、あの無言電話は何だったのかなー、単なる間違い電話か ...
11月19日、聖書の中に、パッと見、神様が関係なさそうな部分がある。蔵言とかコヘレトが、それ。その「蔵言」、読み方が、まずわからない、「しんげん」と読むらしい。そこ、蔵言の 27 節に「明日のことを誇ってはならない」とある。前後を読むと、無い袖は振らないとか、皮算用してはダメという内容であるらしい。さて、予算申請という状況の下では「明日のことを誇る」ことを大合唱しなければならない。もちろん、これまでの実績を誇って ... 自ら誇るという事に強い違和感は覚えるのだが ... それを起点として、将来有望だから予算を組んだという論理になるわけだけれども、明日のことを明るく描く ... それを規定路線であるかのように語る ... というのが、まさにこの「蔵言」の諌める所なのだ。ちなみに、私はどの宗教を信じるわけでも無いのだけれども、聖書は便利なものだと思う。パッと開くと、こうやって日記に使い回せそうな名句が、ゾロゾロと転がっているのだ。きっと、どの宗教にも、同じように名句集が存在するに違いない。
11月18日、ハガキを飲み込んでしまう郵便物、というものがあるらしい。例えば、大きな角封筒を「二つ折りにして」使うようなことが、時々ある。二つ折りにすると、当然、折った部分の紙の分だけ重たくなるのだけれども、それが料金に反映されない程度であれば、わざわざ切り取ってしまう必要もない。そして、折った一端をペタッと、テープで貼ると「袋状の隙間のある郵便物」となる。ここが、ちょうど、ハガキが「滑り込む」隙間になるのだそうな。そういうわけで、配達の過程で、見つかり次第「隙間をテープ止めする」らしい。なるほど、これは気づかなかった。
11月17日、地図やストリートビューを見て、写真の撮影場所を同定することを、密かなる趣味としている。皆さん、SNS に次々と写真を投稿するけれども、それが何処で撮影されたものか、結構バレバレなことが多い。屋内で撮影されたものは、同定が困難だけれども、屋外で周囲の建物や電柱、信号などが写り込んでいたら、そこを足がかりにして、同定作業に入ることができる。ちょっと待てよ、人間が「見比べて」判定できることは、大抵の場合、自動化できるものだ。と、ここまで書いて、いや、そんな技術は、とっくの昔に「実用化」されていることにハタと気づいた。巡航ミサイルを飛ばすには、必要不可欠の技術だからだ。誰でも、瞬時に、場所の特定が可能となったら、ドローンや模型飛行機で爆発物を好きな場所に運べるわけか。物騒な世の中だなー。というわけで、今日もまた、地道に、趣味の同定作業をボチボチ。
11月16日、講義中に、ふと、ボールを超音速で投げるには?という話題を振ってみたくなった。「しなる棒」のような道具を使えば、これは比較的簡単なことなのだけれども、生身の人間が超音速でボールを投げるには、どうすれば良いだろうか?投げた先の領域を、おおよそ 30K 以下に保てば、超音速が達成できる。さて、そこで疑問が一つ。こうやって、温度勾配の下で生じた衝撃波は、外に伝わって出て行くのだろうか?衝撃波は、なかなか「波としての常識」が通用しない相手だけに、反射はともかく、屈折を考えるのが難儀だ。計算機実験するか?でも、衝撃波の計算機シミュレーションには、熱力学を組み込んだ上で、幾つかのパラメターを与えておく必要がある。面倒だなー、実験した方が早いかなー。
11月15日、冬の庭づくりは、ともかくリセット。春から夏にかけて、植物がどのように伸びて行くかを、よく考えて、その余裕を空けておくこと。これが第一に求められることなのだ。もちろん、冬に咲く花というのもある。まあ、冬に咲くとは言いつつも、実は年中咲くものだとか、春の草花なのだけれども日本の気候では冬に咲いてしまうものだとか、色々なパターンがある。パンジーは、涼しい地域では多年草で、年中花をつける。そういうものは、オマケであって、空いた隙間に小ぢんまりと置いておけば良い。それよりも、大変なのが背景となる空き地の刈り込み。天気のまあまあ良い日しか付き合えないから、また冬中かかっての作業となること、間違いなし。
11月14日、時間は、ひとつの方向へと流れ、速くなることもなければ、遅くなることもない。少なくとも、我々が訪れ行くことの出来る空間・時間の範囲内では。記憶の中には時間の順番がある。それが正しいこともあれば、後から順番が入れ替わったりすることもある。特に、因果関係の薄い事象は、その前後関係が怪しいものだ。あの頃、何が周囲で起きていたのか、という問いかけを、自分に向けてみても、「その頃」ほどには思い出せないものだ。これは不都合なことかというと、そうでもないように感じる。実は記憶を残すようになった生き物として、記憶が怪しくなって行くというのは、大切な能力ではないかと思うこともある。自然と、印象深いことが残って行き、それが強くイメージとして焼きつく。それを起点に、今を歩む。時間の外側から眺めると、今現在の自らの行いはどう見えるのか、それは少し先の楽しみに取っておこう。
11月13日、統計力学は、タフな学問だ。出発点を「結構いい加減」に取っても、最終的に得られる結果は変わらない。重率が等しいと仮定する等重律(等重率の原理 or 等確率の原理)で述べられている「等しい」という概念も、全部が全部等しくなくて良いし、適当に確率が凸凹していても良い。トンデモなく非現実的な状態密度にでも出くわさない限り、等重律から踏み出す必要がないのだ。また、出発点が複数設定できるというのも、統計力学に特徴的なことだ。その出発点が、量子力学的に保証されているか?と言うと、そうでもない。これは、統計力学の理解が、まだまだ浅いことを意味しているのだと思う。量子力学も、同じことか。学なりがたし、とは、こんな状況を指すのかもしれない。
11月12日、N 個の玉を 2 つのグループに分ける方法の数は、nC2 = N! / (N/2)! (N/2)! で表される。これは、2^N よりは小さな数であることを、二項展開から示すことができる。さて、この nC2 個の区分けに対して Entanglement Entropy を求めておいて、N サイトスピン系 (S=1/2) の量子状態について、何か確たることを得ることは可能だろうか?これは、医療で使われる CT などのイメージングに近い考え方だ。エンタングルメント・イメージングとでも名付けようか。MERA みたいな結合の図が、自然に得られると、なかなか凄いんだけれどもなー。というのも、任意の量子状態に、最適な MERA を与えることは、とても難しいからだ。
11月11日、ホテルの朝食、何やら、ガヤガヤとしている。コーヒーマシンの近くの席に座っていたのが、そう感じた原因だ。This is not coffee. なんて言葉が聞こえて来る。係員が、コーヒーはこちらです、と、案内しているのだけれども、そのコーヒーが究極的にマズいらしい。どれどれ、そんなにマズいんだろうか?と、試しに少し飲んでみた。あ、これは、ヨーロッパからのお客さんには、全くウケない、アメリカンコーヒーだ。それも、香りが抜けている。どうやったら、あそこまでマズいコーヒーになるのか、単にコストの問題とは思えないものがある。責任者の、味の好みの問題なんだろうか?なお、最近は「お粥が一発でなくなる」という現象も、よく目にする。お粥を、朝食としてたっぷり食べるのが、流行っているのだろうか?
11月10日、お弁当にお箸は必要ですか?と、聞かれて、一本と返事をしておいたはずなのだけれども、さあ食べようと開いてみると影も形もなし。あっはっは〜、楽しい、インドの時間の始まり。これは冗談ではなくて、インド旅行の折に、現地の人々の食べ方をよく見て、ちょっと真似してみて、ああなるほど、箸を使うまでもなく、美味しいものは、手で美味しく食べられるんだと納得していたので、さして抵抗なし。ご飯が固まっているから、パラパラのご飯をカレーで食べるよりも、弁当は楽かもしれない。まあ、手を洗える場所で良かった。いや、まあ、お茶で手を拭くという最終手段も残ってるから、まあ、どこでも同じことなんだけれど。
11月 9 日、気温はあまり下がらなくても、日照時間は確実に短くなって行く。やがて、帳尻が合うように北風がやって来て、冬になる。そのちょっと手前で、天気が遊んでいる。今日の気分は梅雨。ただ、降る雨は、霧のように細かい。街行く自動車のエンジン音も、何となく元気がない。飛行機はどうなんだろうか?ジェットエンジンは、燃焼室に入る段階までに水蒸気になってしまうので、普通のレシプロより雨に強いかもしれない。気化熱は、温度を下げる方向に働いて、悪くはないような気がする。影響があるとすると、酸素分圧の低下だろうか。でも、半分にもなることはあり得ないか。普通に離発着しているから、泥水でも吸い込まない限り、大丈夫なんだろう。
11月 8 日、物事を教えるメソッドというものは、どの世界にもある。スケートの教え方というのも、その一つ。自然に足を、つま先を広げて立ち、エッジを少し滑らせながら体重を左右に移動するというのが、定番の教え方。これは定番中の定番なのだけれども、教わる方は、どうも長続きしない。面白くないのだ。トウを使って、スーっと押すという教え方も、最近見かけるようになって来た。何でもいいから、エッジに乗って滑る感覚を先に身につけさせようという魂胆だ。どっちでも、まあ良いという気はしてる。最悪の教え方が「スキー教室」みたいな方法。ゼッケンを付けたスポーツクラブの子供達が、じーっと待って、先生の指示に従って、一人ずつ滑る。10 人いれば 1/10 しか滑る時間が回ってこない。かくして、スケート場には先生の指示する声だけが、声高に響くのである。ちなみに、こういう事をする先生は、あまりスケートが上手ではない事が多い。… ひょっとして、似たような事を、講義室で毎日、やってるんじゃないだろうか …?
11月 7 日、「求める」という言葉を辞書で引くと、欲しいと望むとか、欲しいと要求するなど、いわゆる「求める」ことが語義として掲載されている。我々、教員が使う「求める」に、この意味を当てはめると、冗談になってしまうのだ。「ピタゴラスの定理を使って、対角線の長さを求めなさい」と書いてあった時に「ピタゴラスの定理というものを使って」「対角線の長さが知りたいです、と、一心不乱に祈りなさい」と解釈するならば、正しい行いはというと、ピタゴラス像にひざまづいて、対角線知りたいです、対角線知りたいです、と、日夜祈るのが正解ということになる。それくらいの努力をするならば、まあ、丸をつけても良いかと思わないでもない。ちなみに、この「求めなさいジーョーク」で笑わせてもらったことは、私の教員生活では、まだ一度もない。
11月 6 日、不正研究と、不正確研究、一文字の違いだ。不正ではないけれども不正確な研究というものがあるのか?というと、あるとも言えるし、無いとも言える。そもそも、論文に「正確である」と書き加えることはあり得なくて、測定値に対する誤差、あるいは標準偏差が定量的に示されているだけだ。その、誤差評価が見当たらないものは、実は不正確・正確という概念を超えて、不正なデータ、あるいは信頼できないデータである。アホと、ドアホウの違いもまた、無意味なことである。バカと大バカの違いも同様だ。ホッコとクソボッコの違い、ええと、これは香川県の人しかわからないか。で、私は、どっちを評価するかというと、クソボッコであることを、何よりも大切にしたいのだ。
11月 5 日、素晴らしい秋晴れの1日、こういう日はサボるに限るというのが信条だけれども、講義はサボることができない。研究だったら .... もちろんサボれないのだけれども、タイムシフトは可能だ。というわけで、窓を眺めて、空気を吸って、夕暮れに戯れて、ぶーらぶら。仕事の合間に、息抜きする。何と言うか、春から初夏にかけての、浮いた雰囲気のある1日だった。ぶーらぶらと歩くと、不思議といろいろと人々に出会うもので、あちらで挨拶、こちらで挨拶。今日は、夜も楽しめそうな雰囲気だ。といか、アチコチのベンチで、すでに「いい雰囲気」になっているではないか。いいなー、若いって。物理に打ち込んだ我が青春に悔いなし ... と、書く人は、大抵、悔いを持っているゾ?!
11月 4 日、流体力学に出てくる「流管」という考え方は、なかなか秀逸だ。定常流で最も効果的に使うことができる、この流管、誰が最初に思いついたんだろうか?力学の初歩的な知識さえあれば、流管に沿って何が起きるか、定量的に導き出すことができる。ただし、どのような流れができるのか、また、流管がどんな形をしているのか、それを導くには「対称性でも存在しない限り」なかなか難しいものがある。まあ、流管は、そんな道具だと思って付き合うのが良いだろう。なお、流管に沿った流れでも、圧縮流体の時は、熱流まで含めて定常かどうか、用心しておかなければならない。初等的に取り扱えるのは、従って、非圧縮流体のみだ。まあ、それでも、やっぱり、素晴らしいな、流管は。
11月 3 日、唐揚げ、なかなか奥の深い料理だ。買って来た鳥肉に、唐揚げ粉を振って揚げるだけでも美味しい。油などを取り除いて、調味液に漬け込んでしばらく待つと、それぞれ、カレー味になったり、醤油味になったりする。冷えても美味しいという所を目指すのか、オカズにするのか、それとも主食にするのか、それぞれ、衣の付け加減が変わってくる。カラリ、しっとり。肉に焦点を置くか皮か。そして、一番大切なことは、食べたい時に、そこに唐揚げがあること。前菜で唐揚げ。いいんじゃないだろうか?デザートに唐揚げ、いいんじゃないだろうか。先入観を排して、唐揚げに凝る。ちなみに、この文章、唐揚げを「プレゼン」にしても通じるんじゃないかと、書いてて思い始めた。
11月 2 日、物理学者や数学者が matrix と口にするのは、その言葉を行列という意味で使う場合だ。でも、辞書の上では、これはマイナーな用法で、科学の諸分野に話を限ったとしても溶媒とか母体とか、そんな意味で使われることの方が多い。この matrix の ma の字に「母」という意味が隠れている、そう考えるのが言語学では自然なのだそうな。確かに mother の mo と似ている。もちろん、歴史的な文献やら、言語間での比較など、証拠は必要だ。(←この辺りが、一昨日の「物理屋ウンチク」の一端である。)よくよく考えると、行列なんてものが、世の中で認知されるようになったのは、ホンの百年くらいのものだし、行列が数学に登場したのも千年前くらいのことだ。それ以前から matrix という言葉の元はあったのだから ... あったのだろうか ... 怪しくなって来た。やっぱり、専門じゃない事は、話せないものだと実感。
11月 1 日、紅葉というと、モミジというのが世の常か?いやいや、大学の構内にモミジなし。その代わり、桜が紅くなって、次々と葉を落としてくれる。この、桜の葉の場合、赤さは1日しか保たない。すぐに、茶色になって、枯葉と化してしまう。どうして葉は緑なの?どうして紅葉するの?どうしてすぐに茶色になるの?こういう質問は、生物学者か化学者の、分子生物学を相手にしている人に投げるのが良いだろう。間違っても物理屋に質問してはいけない。どうしてイケナイのかというと、単に「わかりません」と答えるだけではくて、「それは面白い問題だ」と言って、余計な議論やら勉強を延々と開始するからである。どうも、物理屋というのは、他の分野の「研究成果」を、素直には受け入れない習性がある。必ず、疑い、納得するまで考えるのだ。
9 月と10月の1行日記