←11月と12月の1行日記  

10月31日、パソコンを使っていて、思うこと: 「相変わらず遅い」。特定のアプリケーションを使っている間は、昔に比べて「とてつもなく」速く動くことを実感できるのだけれども、書類を開いたり、アプリケーションを切り替えたりする時には、相変わらず「待ち時間」が発生するのだ。CPU もバスも、随分と速くなっているにもかかわらず。OS の基本的な部分である darwin は、そこそこちゃんと応答するから、その上に乗っているサービスの設計がマズいのではないかと思う。こういう点は、銀行とか、券売機のシステムが、ずっと上手だ。まあ、割り込み処理に特化したマシンと比べるのが酷ではあるのだけれども。これからのコンピューターの進化は、こういう部分にも関心を割いてほしいものだと思う。目標はサクサクと、である。

10月30日、研究のディスカッションも英語でやりましょう、というのは、どうかなーと思う所がある。会話している中に、英語を理解する外国人が一人でも居たら、その時はサービスで英語を使うけれども、そうでない時まで、英語ってのはどうかなー。但し、適当な言い回しの訳語がないから、仕方なく部分的に英語を混ぜるということは、あり得る。一方で、文献検索するような時には、もう英語を使わない訳には行かない。みんな、苦労してかどうかは知らないけれども、英語を使って論文を書くから、最新の文献は英語ということが多い。いや、数学っぽいものだとフランス語に充実した文献があったりするし、苦労して得た公式がロシア語の文献に掲載されていたなんて話も聞くから、結局の所、世界中に網を張ってないといけない。その「世界」が英語かどうかという点は、考慮すべきだけれども。案外、ラテン語の末裔のスペイン語が、また盛り返してくるような気もする。あるいは、遠い未来、地球上が漢字で満ちている、そんなことがあるかもしれない。未来の歴史が知りたいものだ。

10月29日、今年もやって来ました、ガロア体とご対面の、乱数生成。既約多項式なんていう言葉、多分もう忘却の彼方なのではないだろうか?物理を学習する上で、既約か可約かということは、あまり重要ではないことが多い。ところが、コンピューターの世界では、これが大問題なのだ。応用数学というのは、応用するだけに、数学の中では、ひょっとすると、一番いろいろと細かくシビアなのではないかと思う。無限大に寛容ではない。有限であり、しかも多項式くらいに収まってないと許してくれない、というか、計算として実現できない。で、そのガロアさんとご対面、早速、みなさん、検索しました。ガロア様の肖像にヒットします。そこに出てくるのは、自分たちと同じ年齢の青年。ま、そういうのも面白いんじゃないかな、いい仕事は、若くして出るもんだ、と。ちなみに、時々「今度こそわかる量子コンピューター」をアマゾンで検索する。今日は、時間によっては、量子物理の 10 位以内に入っていたようだ。

10月28日、高校や大学の英語で習わないし、native の人に聞いても、あまり要領を得ない回答しかないのが「間接話法の間接話法の時制」というもの。例えば、こんな文章だ。「戦争の頃は大変だったと祖父は言っていたと、父はいつも語っていたものだ。」... そのまま google の翻訳に放り込むと、見事に破綻する。まあ、それはどんな文章でも同じように破綻するか。日本語だと、そもそも完了形しか存在しないので、時間の順番は誤解のないように言葉を添えれば十分だ。しかし、英語をはじめとして、ラテン語を源に持つ言葉には難儀な時制がある。それを厳格に守ると、上のような入れ子表現は直ちに破綻することがわかる。まあ、そんなことを厳格に定めようとすると、コンピューター言語の LISP みたいな、読めたものではない文章になることは明らかなので、突き詰めることに意義があるのかどうか、それもよくわからないものだ。

10月27日、拙書「今度こそわかる量子コンピューター」( ISBN:978-4-06-156605-7) ただいま本屋に並んでます。量子情報、量子コンピューター、その辺りの面白さが自覚できるようになる手助けをできれば、と思って執筆しました。笑い話で「専門書は難しいほどよく売れる」という珍論理があります。専門書を買う。よくわからない。仕方ないから次の専門書を買う。またよくわからない。また買う。そうこうする内に、本棚にずら〜っと専門書が並ぶ。素粒子理・宇宙論関係の本が、こうなり易いのではないかという噂あり。量子コンピューターも、その根元が量子力学で、また情報理論も受け継ぐ応用数学の世界、そういう捉え方をすると「高い位置の学問」になってしまう。なるべく、その垣根が下がればと。まあ、さまざまなコメントが付くことは覚悟の上で、世の中に書物を出す、それが論文であるか、教科書であるか、参考書であるかは問わず、これからも執筆者としての活動は続けることになるか。長い道のりだ。... でございます。(文体、一定せず。)

10月26日、音楽のジャンルによって、登場する楽器が異なって来るのは世の常、そして、それに挑戦する人々もまた次々と。まず、ロックにパイプオルガンなんていう組み合わせは、そもそもステージにパイプオルガンなんか持って来れないじゃんと思ってしまうのだけれども、ヨーロッパに行くと教会がウジャウジャしているので、祭りの日に教会が軽音のステージに早変わりすることも。音が出るなら、当然、オルガンも参加。ロックにバイオリンという組み合わせ ... カントリーミュージックでは基本の楽器であるバイオリンも、ロックとなると珍しい、あるいはバンドが限定されてしまう。エフェクターを通した時の破壊力は、ギターもバイオリンも変わらないように思うのだけれども、バイオリンは珍しい。単に、アマチュア層の人数の違いなのかもしれない。ロックに管楽器、これもまた、生音声にこだわらなければイケるんだけどなー。結局のところ、まだまだ、ビックアップやエフェクター、演奏法に工夫の余地があるということだ、ありがたくも平和な世の中だ。

10月25日、自分のことは、全部、自分で知っている …. というわけではない。小学校に入学した時の、最初のクラスが何組だったかなんて、もう忘れてしまっている。小学校について、調べれば残っている「だろう」記録は、たぶん入学と卒業の記録だけだろう。その他のものは、同窓生が互いに記憶をたぐって行くしかない。高校の同窓会で、意外なことに(?)、同じ幼稚園に通っていた人が何人も居ることが判明した。高校に通っていた当時ですら、互いに全く知らずにいたわけだ。こう言う場合、互いに覚えていなくても、その当時に遭遇したことは結構良く覚えているものだ。英語の歌を歌う授業があったとか、隣の高校の食堂でうどんを食べたとか。女優(?)の松本ナントカという方も、その幼稚園に、ほぼ同時期に通っていたというのは、オマケの情報。… こう言う昔のことを、ブログなんかに転がしておくと、詐欺師が読んで「おい、昔の …」と寄付を募る電話がかかって来るんだけど、まあ、いいか。

10月24日、A4 サイズ 84 ページ、アート紙カラー印刷の冊子を受け取る。今年の幹事さんは頑張ったんだ、素晴らしい出来栄えだ。各方面に原稿依頼して、届いた原稿のひとつひとつを、印刷面の上に配置して行く、その作業は自問自答の毎日。原稿を尊重する、その中身が生きるように印刷する、それが編集者の使命。また、冊子全体としての、レイアウトの統一感も保つ必要がある。必要に応じて、寄稿者に意思確認することも、時々ある。かといって、何から何まで聞き直すというのも、失礼にあたるものだ、すでに完成された原稿として送られて来ているわけだから。この調整に「正解」はない。状況に応じて、尽くせる手は尽くし、手抜きするなら大胆に手抜きする。自ら傾注できるエネルギーの限界を知り、有効にエネルギー配分する。他人のエネルギーを使わせないように心がける。それを、今年の幹事さん、編集さんは見事に達成したわけだ。おめでとう。

10月23日、タンクに水をたっぷり入れておいて、タンクの側面に小さな穴を開けると、水が勢い良く飛び出す。この、水の速さを求めさせる問題は、流体力学の学習では定番の物だ。さて、では縦一列にたくさん穴を開けたら、どんな風に見えるだろうか?まあ、縦一列とは言っても、噴き出た水は互いにぶつかることなく自由落下するものだとしよう。従って、幾つもの放物線が重なった図を見ることになる。直感的に思い浮かぶかどうか、それは人によりけりだとは思うのだけれども、私にとっては意外なことに、「直線」が登場する。この「直線」より下に位置すると、上から水がジャブジャブと降って来る。直線の上に、水が到達することはない。高校数学くらいの知識があれば、この「直線」を求めることができる。ここからわかることは、崖からの落石は、以外と遠くまで到達し得るということだ。高さの平方根くらい離れろ、という説を鵜呑みにすると、血を見ることだろう。

10月22日、量子力学の教科書を見て、一瞬ギョッとする。粒子の入れ替えオペレーターが、波動関数に作用している。いやまあ、こういう書き方をしている本は結構ある。問題は、その書き方について、定義がシッカリとしているかどうか。例えば Dirac の場合、一見すると波動関数に何かが作用しているように見えるのだけれども、必ずその右側に Standard Ket というものがくっついている。あるいは、オベレーターは全て表示されたものとして解釈するという手もある。その、どれがどう、というわけではないけれども、やっぱり、定義がハッキリと頭に浮かばない状態で「数式だけが登場する」と絶句してしまうのだ。仕方ないから、もう、ブラ・ケット・オペレーターの、枯れた世界に戻って、講義で解説することにした。

10月21日、情報乱れ飛ぶ秋である。ちょっと、所用あって、昼間の少しの時間、ネットから離れていたら、何人かのメールのやり取りがボコボコに進んでて、夕方にまとめて見る羽目に。こう言う場合も、見た端から返答して行くことにしている。受け取る方にしてみれば、すでに決着のついたようなことにまでレスポンスが入るので、迷惑千万だろうとは思うのだけれども、途中で言えることは、言ってしまわないと、その次のロジックに入って行けない性分なもので、仕方がないのだ。明日もまた、講義で席を空ける時間が結構あるから、多分、そんな具合に、レスポンスがまた戻ってきて、ああ振り出しに戻る。ま、そんな日々が続くようなら、多分ハッピーなんだろう。

10月20日、ブルーバックスの「太陽ニュートリノの謎」は、復刻するに値する良い本だと思う。1977年の出版で、私は中学生の頃に、この本に出会ったことになる。よーく読んだ覚えがある。でっかいタンクに液体を満たして、ちょっとだけたまる気体の量を測るという、超地道な実験の結果から、まず科学的事実としてニュートリノが太陽の明るさに比べて、少なすぎるという観測結果がまとめられている。この実験の説明が、なかなか活き活きとしている。そして、中盤から最後は、そこから太陽の構造に関わる「あっても良いだろうという想像」について展開している。この部分は、今となっては首を傾げる部分もあるわけだけれども、結果として太陽シミュレーションなどの研究のモチベーションを引き起こした可能性が高い。何事も調べてみて、白黒つける、そういう、襟首正しい本であったと記憶している。古いからといって、廃盤にしてはならない本だ。

10月19日、都会のド真ん中に居ると、人々の多さが不思議に感じられるものだ。そこには、人口を支える田畑も、海もないのである。ただ輸送によって支えられているだけの人々。例えば戦車で主要な道路が封鎖されてしまったならば、都会は完全に兵糧攻め状態に陥るのだ。これは世界中の、どんな百万都市でも同じこと。そこに集まる人、物、金、その馬力だけで何とか均衡を保つ姿に、危うさを感じるわけだ。もうちょっと、牧歌的な世の中に戻らないものだろうか?と、思ったりもするのである。もっとも、牧歌的な世の中とは、みんな朝から晩まで働いて、ようやく食えるという、ハードな世の中なのではあるけれども ...

10月18日、今日も出版とか投稿の話。作品を仕上げて、出版する、あるいは投稿するという作業は、文章にするまでは自分の一部であったものを、公共のものとして公開するということ。ひとたび印刷物になってしまうと、もう、後からこうしようああしようと、いろいろと考えても手遅れなのである。書いた時点の自分の「かけら」は、その文章の上に残っているかもしれないけれども、今は切り離されてしまっていて、自分で自書の書物を手に取って読むとしても、それは読者としてであって、著者としてではない。研究者駆け出しの頃に書いた論文など読むと、ああ、説明が足りないなと思ったりもする。一方で、自分なりの熱意というものが、文面から読み取れる時には、ちょっと喜ばしかったりする。そういう熱意は、常に持って、著作に当たらないといけないな、そう思いつつ、また、色々と書き物をしてしまうのである。

10月17日、時々、アマゾンの「書評」など、チラチラと覗いて見たりする。これは、どういう作業かというと、自分の著書が、うまく想定した読者層に渡っているかどうかを確認する作業なのである。バッチリとハマることは珍しくて、大抵はズレがある。それが、書評として文面に出るわけなのだ。「今度こそわかる場の理論」では、場の理論では基本的な物の一つであるシュレディンガー場に着目して、量子力学と場の理論の関係が見渡せるように解説した。例えば、全てをハイゼンベルグ表示にしてしまって、交換関係で場を構築して行くという立場もあって、共変性を議論するには都合が良いのだけれども、いま量子力学はシュレディンガー表示で教えることが多いので、全てをそちらに揃えた。ここを学ぶ必要がある層は ... と、書いちゃうと逆に読者を限定してしまうかもしれない、後は購入者の選択に任せよう。

10月16日、大学の近くで、邸宅の跡地がマンションに建て替わる。その現場を見てみると、石垣の石一つ一つに番号が振ってある。これは珍しいことだ。大抵は、石垣は崩してしまって、石を活用するにしても、敷地の一角にモニュメントとして置く程度でそのままの石組みを残すことはあまりない。あるいは、御影石は珍しいから、適当な大きさのものであれば、いい値段で売れるという事情もあるのかもしれない。今回は番号を振ってあるくらいだから、一度崩して、また組み直すのだろう。完成予想図を見てみると、確かに、一部の石組みを加工した上で、再利用してある。マンションの石垣ならば、改修の旅に定期的に修繕するだろうから、長持ちするんじゃないだろうか?なお、大学の近辺は、石がゴロゴロしている地盤で、大抵の建物は直接基礎で建築可能だ。ボーリング調査は、一応はするだろうけれども、石を削るのがオチだ。

10月15日、デジカメの仕組みについて、質問してみる。何人かに聞いてみる。結構、返答が怪しいことが多い。特に、レンズがセンサーの上に像を結んでいることを、フィルムカメラほど気にしていないような気がする。昔のカメラは、ネガフィルムに光を当てて「感光」させる仕組みだったので、全て見ようと思えば見ることができるプロセスばかりであった。カメラの裏側のフタを開けることが出来た点が大きい。そこに、ちゃんと像が結ばれることを、見て確かめられた。が、フィルムの代わりにセンサーというものが入った今、センサーなんて見た事ないし、カメラの裏側のフタなんて無いのである。結果として、カメラはブラックボックスになってしまった。世の中の進歩というのは、全て、このように、原理から人々を遠ざけてしまうものなのだろう。

10月14日、ケイリー樹という図形がある。根元から二股に分かれて、枝がまた二股、その枝もまた二股と、どんどん分かれて行く、そんな図形だ。海藻の「ミル」というやつが、こんな形をしている。そのケイリー樹には特徴があって、どんなに大きくなっても、枝先の部分の割合が、全体に対してほぼ一定の割合を持つのである。これは、海藻のように、周囲から養分を得て育つものにとっては理にかなった形状だと言える。さて、このケイリー樹の内側の部分を、別の名前でベーテ格子と呼ぶ。全体に占める割合として、ベーテ格子は小さいものなのだけれども、それを考え、観察することには一定の意義がある。その一定の意義とは何かということを説明するだけで、今日は時間が尽きてしまった。枝葉末節を大切にする、私の「木を見て森を見ない講義」らしい終わり方だ。森は、教わる側が勝手に思い描く、その自由度は残しておきたいものだから。

10月13日、Tensor Network Renormalization (TNR) について話す。と、言いたいけど、まずは Ising Model から始めないといけない。大学院生のほとんどを置き去りにするのは仕方ないかなーと思いつつ、無理無理、Tensor Contraction にまで話を持って行って、disentangler を形式的に入れてしまってTNR に持ち込んだ所で時間切れ。まあ仕方ないよね。しかし、こういう形で、解釈も何もヘッタクレもなく、自然に繰り込めてしまうこと、それはこれから先の物理を大きく変えてゆく原点となるのだろうと思う。まあ、そんな夢と希望を語ることが、むしろ必要なのかもしれない。また、これを機会に、(超)多時間理論というものが、またムクムクと復活して来るんじゃないか?という、そんな予感もある。量子論は、今、ようやく力学の19世紀のような発展をし始めたのではないだろうか?

10月12日、列車の車内放送を聞いていて、ハッと思ったのが、terminal という用語はターミナル駅のみに用いられる訳ではないということだ。広島止まりの列車であれば、目的地の案内は Hiroshima Terminal となるけれども、博多行きの新幹線が広島に止まる場合は We will be stopping at Hiroshima Station. と放送される。ちなみに、この will be stopping も、「止まります」からの英訳がスンナリとは行かない表現だ。こういう、英語の謎は至る所に転がっていて、any suspicious items and unattended baggage の any がどこまで係るのか?とか、itemS が複数形で baggage は単数形で無冠詞なのは何故かとか、crew は可算名詞なのかどうかとか、考え始めるとキリがない。こういう、細かい所は、要するに、長い時間かけて慣れて行くしか手が無いものだろうと思う。

10月11日、新幹線に乗車して来た青年、一瞬固まる。はて、何してるんだろう?と思ったら、スタスタスタと隣の車両に歩いて行って、消える。やがて、車掌さんがやって来て、座っていた外国人2名に声をかけて、自由席車両へと導いた。あ、なるほど、その外国人は自由席と指定席の違いが良く分からずに、指定済みの座席に座ってしまっていた訳だ。こういう場面に遭遇した場合、どういう風に声をかけるのが良いのだろうか?と、しばし考えた。まず、英語を使ってみるしか手はない。運良く車掌を呼んで来れたとしても、英語以外は、良くて iPad や iPhone 通訳だろう。さて英語を使うとしても、まずは婉曲に表現したいものだ。何事もハッキリと宣べ伝えるのが国際的というのは、その通りなんだけど、同じ内容を伝えるにしても、やっぱり、英国風婉曲表現の数々は覚えておくに越したことは無い。思い出してみると、インド旅行で、たくさん、そんな表現を耳にしたものだ。

10月10日、ぷら〜っと歩くだけで、何かに出会う、神戸の秋。元町ミュージックウィークは、本当に音楽だらけ。まあ、元々、ストリートに立つ芸人には事欠かない街なのだけれども、ブラスがズラ〜っと並んだり、コーラスが出てきたりと、演奏者が揃う催しがストリートに出てくることは稀。あ、警察の音楽隊が行進ってのはあったっけ。さて、今日は、音楽だけじゃなくて、ファッションショーもやってた。モデルさんを10人も呼んで来るとは、なかなか贅沢だ。小さいファッションショーだと、3人くらいで何とかなるモンだ。見た感想はというと、どことなく能に似ている所がある。すーっと出てきて、服という役柄を見せる、そんな感じ。来年も、やってくれるかな?

10月 9 日、身の回りにあるものでも、物理的に考えて、これなんじゃ?と不思議に思うものが幾つもある。ちょっとお茶やコーヒーを飲むマグカップ、あれは焼き物。焼き物には陶器と磁器があって、原料や焼結温度が異なると解説されている。その焼結温度というのが、謎なのである。石英の融点は 1600 度以上なので、磁器の焼結温度 1300 度くらいでは溶けない。となると、焼結温度で溶けているのは、金属を巻き込んでガラス化した部分だろうと推測される。その融点は不純物が少なくなるほど高くなるので、一部がガラスとなっても、石英の粒を全て溶かしてしまう事はないのだろう。と、まあ、いい加減な推測は横に置いておいて、焼いてる途中の陶磁器の硬さがよくわからないのだ。釜が最高温度になった時には、ちょっと触ると変形するくらいフカフカになっているのだろうか?それとも、冷たい時と同じように、硬いのだろうか?叩くと、どんな音がする?... 謎だ。

10月 8 日、携帯はパソコンよりも便利な道具らしい。そう感じる光景を目にした。パソコンの実習の際に、何か調べ物をする必要に迫られたら、どうするだろうか?パソコンを使い慣れた人ならば、ブラウザ画面を開いて、キーワード検索を行う。しかし、これには、キーボード操作に慣れている必要がある。パソコンを普段使わない人にとっては、パソコンが転がっていても、無益なのである。検索は、スマホで行うことになる。その方が、キーワードの入力など、スムーズに進むという訳だ。あの狭い画面でねー、と、思わないこともないのだけれども、使い慣れたものを、ともかく使うということは、情報機器を使う上での鉄則なので、選択はユーザーの自由だ。結局は、習熟に要する時間と手間の問題になって来る。パソコンは、すでにバリアが高いものとなってしまったのだろうか。こういう場面を目にすると、そのうち、キーボードが絶滅して、スマホ入力という新しい使い方が主流になって来るんじゃないかという、予感もする。

10月 7 日、中年のあなたは鉄棒に何分間ぶら下がれるだろうか?まず、高鉄棒にパッと飛びつく時点で、既にアウトかもしれない。頭の中で思い描くジャンプのイメージと、実際に飛べる高さが異なっていて、鉄棒を握ろうとする手が空を切るかもしれない。あるいは、飛びついた瞬間に、肩や腕を痛めて病院送りとなるかもしれない。運良く鉄棒に取り付くことができても、それから3分間ぶら下がっていられるだろうか?仮に、体重が昔のままであれば、大丈夫かもしれない。しかし、知らず知らずの間に贅肉がたっぷり付いて重たくなってしまっているのである。昔の自分に、ン十 Kg の重りを取り付けたようなものだ。これでは、鉄棒もヘッタクレもない。ファイト、一発、あの場面に遭遇したら、見事にカッコ悪く、谷底行きである。さて、日々、鍛えないと。

10月 6 日、外国からの留学生が沢山歩いている。なるほど、彼らにとって、秋入学が可能であるということは、大切なことなのだと思った。秋入学用のカリキュラムを用意する必要はあるか?と問われると、必要なような気もするし、半年分くらいのことであれば、ちょっとした入学前自習とか、入学後の補講で十分に対応できるような気もする。純粋に学問のことだけを考えるならば、入門から半年くらいの差は、簡単に追いつけてしまうものだ。学業のこと ... となると、ここに「業」の時が着くところに微妙な差が生じる。レポート提出が必要であれば、半年の間に15くらいのレポートを出すことになるので、それを一気に書いてしまうことは不可能だ。まあ、この辺りは「運用」の問題になるんだろう。

10月 5 日、1にライブ、2にライブ、3、4は抜かして5にライブ、だいぶん、ライブ変換に対応できるようになって来た。1度行った文節の区切り方の指定は、記憶してくれているようだ。それから、邪道ではあるのだけれども、1度うまく行った変換は、後からの入力で覆らないように、エンターキーを押して確定しておくのが良いようだ。右手の負担は、少しだけ増えるけれども、イラッと来るよりはマシだ。それでも、変換を目的としてスペースキーを押す回数は、随分と減った。エンターキーを押す回数は、少し増えたような気がする。そんな事はどうでもいい、早く文書書きを仕上げてしまわないといけない。今日も書き書き、明日も書き書き。結局、大学の仕事というのは、文書書きなのである。文部科学、という字が示す通りなのである。

10月 4 日、MacOS を El Capitan にしてから、バックアップの作成に失敗し続けて来た。そこで、ディスクユティリティーの登場。あら、このソフトウェアの見かけと使い方も、かなり変わっている。起動ディスクも修復可能ではないか。ともかく、バックアップディスクを First Aid で検索してみた後にバックアップディスクとして復帰させると、あら不思議、ちゃんとバックアップを開始してくれる。面倒なものだ。なお、このような、バックアップ元に直結したバックアップというものに、あまり信頼を置いてはならない。親亀コケたら子もコケた、と、昔からよく言われるように、親に妙なウィルスでも取り付いて、マウントされたバックアップを食い荒らされたら、バックアップとしては用のないものとなってしまう。そうなったら、一巻の終わり。何だいもバックアップを用意して、順繰りに、接続して行く、それくらいの用心深さが必要かと、思う、思う、思いつつ、怠けて、やってない。

10月 3 日、「古い曲」の名前で、「誰それのナニナニ」というものは結構一杯ある。アルビノーニのアダージョとか、バッハのトッカータとフーガなど。バッハに関して言うと、トッカータとフーガは何曲作曲しているか数えるのも大変くらいだけれども、一番有名なのが「チャラリー」で始まる例の曲。その、一番有名なやつが、「偽作」ではないか?という疑問はかなり昔から延々と議論されて来た所だ。まあ、偽物でも本物でも、どっちでもエエんじゃないか?というのが、誰もが納得する落とし所ではないかと思う。数学に出てくる、オイラーの公式とか、物理学というか哲学に出てくるアルキメデスの法則も、オイラーやアルキメデスの発案なのかどうかは、確か、怪しいのであった。毎日のように使う我々にとってみれば、どうでもエエやんか、というのが率直な感想。理系はいいものだ、科学的真理というものは、誰が作ったかには寄らないものなのだから。... 今日もライブ変換で頑張ったぞ。段々と文節の区切りに慣れて来たかな? Mac の方が。

10月 2 日、思い直して、ライブ変換をONにしてみた。慣れてみると、まあまあ上手く変換してくれることがわかる。確かに、タイピングが随分と速くなることがある。ただ、上手く変換できなかった場合に、カーソルキーへと手を伸ばす必要がある。これが、慣れるまで結構うざく感じるのである。極意は、なるべくスペースに手を伸ばさないこと、エンターキーもなるべく押さないこと。ああ、いけない、もう我慢の限界だ。いやいや、新しいことに慣れるには、我慢を重ねる必要があるものだ。という訳で、今日はライブ変換ONの日とする。右手の負担が随分と軽くなった気がする。ただし、頭の負担が結構増えているので、文章の調子が少し変化している気がする。マトモに変換できないだろうな、という文章をあまり入力しなくなったような気がするのである。特に、方言にはめっぽう弱い。大阪弁は全然入力できまへん。あ、ちょっとなら大丈夫みたいだ。段々気づいてきたのだけれども、ライブ変換も、従来通り切れ切れに入力できるようだ。物事には慣れが必要なものだと、つくづく思った。

10月 1 日、MacOS を Update する。真っ先に行ったことが、漢字かな変換の「ライブ変換」を停止すること。慣れの問題だとは思うのだけれども、平仮名とカタカナの選択まで、強制して来るので、イラッとなって、一瞬で使う気がなくなった。「ことえり」を放棄してから、どうも日本語変換は「私にとっては」マズい方向に向かっている気がする。打ったものが、そのまま文章に現れるのが素直な変換という、全ての文字を打つことを前提としたタイピングの回路が、脳に出来上がってしまっているから、その通りに出てこないものには拒否反応を覚えるのである。ただ、時々は、ライブ変換も使ってみみて、慣れてみる必要もあるのではないかと思う。世の中、特に携帯端末では、そういう方向へと入力メソッドが移りつつあるので。

9 月30日、事実とは異なることが噂として定着してしまう、よくあることだ。そのような現象が伝聞を中心として起きていた頃は、伝聞と報道の間に、かなりの距離感があり、人々の目に触れる誤った情報もまた、機会が限定されたものであった。しかし ... もはや、このような麗しい区別はなくなり、検索すると玉石混交のものを食わされてしまう世の中となった。「余命1ヶ月の花嫁」で検索をかけると、かなり上位にヒットするものの中にも、何とも残念なガセネタが転がっているのである。収録したものの中から、意味深く美しく編集していることは確かだとは思うけれども、そういうフィルターがあったとしても、元々の現実に無いものは集められない。どの場面を見ても、思いやりを感じない箇所はない。そう、素直に見れないのは、映像を見る側が試されているのだと思う。

9 月29日、緑茶は澄んでいるのか、濁っているのか、さあどっち?と問う。こういう、問いかけ、アチコチに満ちている。日常的に、よく飲まれるお茶、それについて二者択一で問うわけだ。関心を持つように、うま〜くできている質問だ。ついでに、答えは、どっちでも良いという、これまた何とも言えないもの。葉そのものの、手揉み茶だとか、粉茶を風で飛ばしてしまったお茶だとか、番茶、茎茶、これらはいずれも澄んだ緑色をしている。一方で、粉茶を加えたもの、あるいは炒った後で粉を飛ばしていないものは、うすく濁る。どっちもお茶。議論するほどの大差なし。なお、ペットボトルの茶飲料、なかなか難しい漢字を使った名称を使っているものだ。緑茶には漢字が似合う、これは、どうでも良いというものではないらしい、漢字でないと売れないのだろう。

9 月28日、「創生」あるいは「創成」という言葉、最近の予算申請で、よく使われる言葉遣いである。但し、文章中に単独で現れることは稀で、大抵は漢語のどこかに「くっついて」いる。まあ、何となく、これから作りますよという感じの言葉らしい。こういう、意味のあまりよくわからない言葉を使うと、それを「英語に訳して下さい」と言われると、難儀なことになる。そもそも、日本語で怪しいのだから、英語での対応物を探すことにも困難が付きまとう。国際化という、よくわからない目標を耳にする昨今なのだから、用語もまた、英訳(あるいは各国誤訳)を意識して、言葉の壁を超える普遍的な意味を持ち得る文書表現を目指すべきではないのか?と、チト思った今日であった。

9 月27日、冷凍ホットケーキなるものと対面する。裏の調理方法を見ると、電子レンジで温める場合、オーブントースターで温める場合など書いてある。いや、それでは、たぶん美味しくならない。ホットケーキの生地は、フライパンで加熱された部分が少し硬く、カラメルっぽい香りになっている方が良い。そこでまず、電子レンジで、少し暖かくなるまで解凍。その後、パエリアパンで、一枚ずつ表面を焼く。火は既に通っているのだから、表面だけでいい。気楽なものだ。そうこうする内に出来上がり。そして、ふと思ったこと。どうせ、ここまで凝るならば、自分で生地から作った方がいいではないか?と。まあ、それは、それ。

9 月26日、論文を書いていて思うんだけれども、査読付きの論文と、査読なしの解説記事というもの、この差は、一応のところ記事内容の透明性について、誰かが見届けたかどうか、また、誰に見られても透明ですよという覚悟を持って執筆したかどうかと、いうことなんだろうと思う。するとまあ、報道の記事・放送内容というのは、査読アリと査読ナシの中間くらいの立ち位置にあるのではないかと感じるのだ。SNS でシェアされて流れて来るような記事は、見て面白いことは面白いのだけれども、信ぴょう性があるとは、ハナから考えていないし、投稿者自身の言葉でない限り、コメントを書き入れる気も起きない。人々が「掲示板」に寄ってたかっていた頃は、玉石混交の混沌が当たり前だったのだけれども、SNS はアカウントのブロックや削除という、陶片追放ができる関係もあって、妙なことになりつつあるんじゃないか?という気がしているのだ。混沌は混沌でも、バイアスがかかりすぎている気がするのである。いやまあ、どうせ信用しないんだから、放置していれば ... いつか歩んだ道への罠か?

9 月25日、銅鍋が欲しくなってしまった。急いで調理する時には、ステンレス鍋では熱伝導が悪くて具合が悪いのだ。ぶ厚い鉄鍋でも良いのだけれども、なかなか手頃なものは売っていない。特注するという手があるかもしれない。いやまあ、そこまでしなくても、銅鍋ならけっこう売っている。銅の熱伝導率は、なかなか感動もので、焼く煮る炒める、色々と短時間でカタがつく。そのかわり、熱い部分に触ると、間髪を入れずにヤケドする。鉄鍋だと、ちょっと熱くても、短時間指に触れる程度ではヤケドしないから、その違いは歴然としている。... でもなー、台所には鍋がすでに、いっぱいあるしなー、いまさら買い足すのも「ガラクタを増やす」だけなのかなーと、そう思ったりもする。

9 月24日、個人に番号が振られるのだそうな。覚えなければならない番号は色々とあるものだ。ええと、職員番号は頭に入ってるぞ、研究者番号も空で言える。昔の人は偉かったなー、電話番号を何個も覚えていたのだから。自分はというと、最近は、記憶力も落ちて来たから、もうこのさい、新しく振られる個人の番号を腕の見やすい場所にでも入れ墨してしまおうか?なんて考えてしまうくらいだ。いや、ちょっと待てよ、しばらくして「あの番号の振り方はマズかった」なんてことになって、再度、新しい番号が送られるなんてことも、あるかもしれない。例えば、ドバッと個人情報が流出してしまったら、新しい番号を振るしかないわけだ。そんなことが、起きないとは限らないし、実のところ、かなりの高い確率で起こるんじゃないかと、私はニラんでいる。

9 月23日、電車のドア脇の広告スペースに「ママがおばけになっちゃった」という絵本の宣伝が出ていた。アオリ文句はともかくとして、2カ月で10万部売れた、という所に目が釘付けに。小説やらセミナー本など、広告をガンガン入れて売り切るようなパターンの「計画的宣伝本」じゃなくて、増刷を重ねて売れて行くというパターンで10万部も売ってしまったとは!一発当てるとは、まさにこのこと。まあ、百冊以上も絵本を出してきたという、努力あってのことだと思う。さて、こういう場合の印税は正確に「把握されてしまう」ので、納税額もパッと頭に思い浮かぶ。なんと国家に、納税という形で貢献した本であることか。こういった絵本の印税は、一般的には法人ではなくて、作家個人の収入となるので、必要経費を、そんなに捻出できないハズだ。パソコン買ったと申請しても、満額が経費として認められるかどうかは、微妙なのだ。執筆に必要な経費の査定は厳しいのだ。

9 月22日、よくよく考えてみると、大学教員というのは、名前と場所と連絡先が公になってしまっている、アブナイ職業なのである。タレントとかアナウンサーとか議員さんも、そうじゃないか?と指摘されそうだけれども、かの人々は飛び回るのが商売だから、大学教員のように「オフィスに行けば会える」というわけではない。一応、学問上の名前はペンネームで良いことになっているので、本名を出す必要があるかどうかは微妙なのだけれども、世界的に見ると本名で活動するのが、学者としては一般的だ。あ、女性の場合は、(日本など婚姻で性に変更がある国々では→)生まれながらの名前で活動される方も珍しくない。ひとたび論文を書き始めると、途中で名前を変更するのは、不利益なことが多いからだ。他に似たような商売があるか?というと、医師、弁護士などだろうか?いずれも、まあ、個人稼業的な所があるな。

9 月21日、フラクタルというものがある。名前くらいは、理系人間(?)ならば誰でも聞いたことがあるだろう。そのフラクタル上に乗ったイジング模型について、熱力学を計算してみた。論文はこちら。これは、ちょっと良くわからない類の相転移をするヤツで、非常に珍しいという訳ではないのだけれども、相転移点で比熱がピークを持たない。そこにあるのは、比熱の非解析性だけ。フラクタル構造があるから、相転移に関与しているのは粗視化した大きなスケールを結ぶ、ほんの少数のボンドだけなのだ。だから、比熱にピークを与えるほどの寄与が生じない、そういう事らしい。まあ、こんなの転がしておけば、そのうち、誰かが「ちゃんとした理論」を打ち立ててくれるだろう。

9 月20日、私、大阪大学ギター部に、その昔、所属していた。こういう過去の事実を転がしておくと、たまに検索で見つけて知らせが舞い込むこともある。あるいは、突然電話が鳴って「おい西野、昔ギター部で …」と延々とまくし立てられた後で「いま寄付を募ってるんだけど、もういっぱい集まってるで」と、金品を要求するようになる「同窓会詐欺」が舞い込んだりもする。区別は比較的容易だ。今日は、本物の同窓生から連絡があった。よし、他の方も、検索して調べてみよう …. なかなかヒットしないものだ。大学教員のように「名前と所属に関してプライバシーを捨てる職業」は、そんなに多くないのかもしれない。ちなみに、振り込み詐欺の場合は、口座番号まで聞いておいて、さっさと金融機関に口座を閉じてもらうことにしている。

9 月19日、「へらこい」という言葉は標準語だと、ずーっと半世紀の間、思い込んでいた。が、しかし、阿波・讃岐でしか通用しない方言だったようだ。おおよその意味はというと、ずる賢く立ち回るような、そして弁の立つような、憎まれる性格を指して「あいつ、へらこいやっちゃ」と表現するのである。語尾を変えると「へらこいのー」ということになる。「へらこげな」という形容詞形もあるぞ。阿波・讃岐は、班田収授が及んでいた地域で、昔からの言葉を残していることが多いと聞く。「へらこい」も、そんな中で、年貢を「へらこく」納める中で生まれた言葉なのだろうか?

9 月18日、検索してみた。「Z80 求人 アセンブラ」... 出る出る出る出る、幾らでも引っかかるではないか。冗談だろうと思いつつも、簡単なメカ制御には、あれくらいハードに近いソフトウェアがバランス的には良いのかとも思うのである。もっとも、これには日本固有の特殊な事情があるとも言われてはいるのだけれども。コンピューターに触っても、チップもゲートも知らず、それで良いのか?OS とはそもそも何なのかということを知らなくて良いのか?という気は、しなくもない。もちろん、詳しく知っておけという意味ではなくて、おおよその仕組みを頭に入れておくということなのだけれど。最近は OS というと、アプリの塊だと思われているフシすらある。いや、あれは OS の飾りにすぎない。OS を意識するのは、これらアプリの動作が「引っかかった」時かもしれない。

9 月17日、何回か書いたことを、いま再び。ごくごく幼い頃、祖母から「大学に行く?」と聞かれた時に「いや〜」と返答したことがある。何故かというと、その頃は 70 年安保の映像が毎日のようにテレビに流れていたので、「大学というのはゲバ棒持って、火炎瓶を投げる場所だ」と、思い込んでいたのである。さて、時は流れて大学に入学する頃になると、すっかり大学は静かになってしまって、逆に物足りなく感じたものだ。大学院を卒業して最初の赴任地に行くと、毎週のように学生集会が行われていて、拡声器の演説があった。冷めた時代に、あの気概を持ち続けること、その熱意は買いたいものであった。さて、昨今はというと、ゲバ棒がプラカードに、ヘルメットは携帯端末に、そして火炎瓶は SNS への投稿となった。(←どっちも「炎上」する。)ペンは棒よりも強し、そこに気付いたことが大きな成果なのではないだろうか。なお、映像を見ていると、相対する機動隊の方も、随分と軽装ハイテクになっている。かつてのジュラルミン盾を並べた「重装歩兵」から、攻殻機攻隊みたいに変身している。そのうち、ロボットやアンドロイドが出てくるんじゃないかと、用心しているのだが。

9 月16日、この場を営利企業の宣伝場所に使うのは良くないので、場所や詳細は省略するとしておいて、今日から数日間、郷土香川、そして四国四県の産品を、とある会場でまとめて買うことができるので、イソイソと買い物に行くのである。もっとも、神戸には生鮮食料品も含めて、郷土産品はドンドン入って来るし、スーパーで探してみれば直ちにカゴ一杯になるほどの取り扱いがある。そういう事実は事実として、やっぱり対面販売というのがポイントだろうとおもう。あ、段々と「詳細」に入ってるような気がしてきた ...。ともかくも、讃岐三白も含めて、地域に根ざした産品はありがたいものだ。さあ行くぞ。おっと、その前に、仕事、仕事。

9 月15日、TeX や LaTeX には、使い難い所も多い。「ここを、ちょっとこうしたいんだけれども」という工夫を行おうとすると、とてつも無い労力を必要とすることが、往々にしてあるからだ。どうしてなのかな〜と思う所もあって、しばらく考えてみると、結局の所、関数型言語を無理して objective に使おうとしているからではないかと感じるに至った。もちろん、関数型言語を使えば「何でもできる」ので、オブジェクト指向を組み込んだ拡張を行うことは原理的に不可能ではない。調べてみると、遊んでる人々が沢山居た。こうして、言語レベルでオブジェクト化できるのならば、目に見えるものへとオブジェクトを持って行くことも可能なはずだ。... いや、この方向を突き詰めると、単なる文書ソフトと変わらなくなってしまうか。妙なものだ。

9 月14日、DTP の落とし穴、それはやっぱりフォントである。もちろん、最終的に PDF ファイルにフォントが埋め込んであれば、何も問題は起きない。ただ、全てを埋め込んだつもりでも、どこかに「こんなフォント無いよ」と Acrobat 様に怒られる漏れがあるものだ。そんな所だけ、妙な文字になったり、大きさが変わったり、別の字体で置き換えられたりする。海外で日本語の表示や印刷物を見ると、この手の「ヘンテコなもの」が散見される、いや、ほぼ全てに含まれている。日本語を見慣れた我々だから気づくことであって、海外の人にとってみれば「ガチャガチャ込み入った漢字と、くねくねした平仮名」なんだろう。平安時代の人々が、コンピューターに表示された文字を見たら、どんな風に感じるのだろうか?きっと「ロボット字体」に見えることだろう。

9 月13日、植物の緑は葉緑素が、活きて働いている状態の色。枯れたら色が失せる。ええと、漬物の緑色は … まあエエじゃんか、そんなに突き詰めて議論しなくても。血の赤い色は赤血球の中の色素が、活きて働いている状態の色。肉に火が通ったら赤みが失せる。ええと、ハムの赤い色はどうしてくれる? … まあエエじゃんか … とも言ってられない。どちらの例でも、色素を取り囲む環境を、何らかの塩類によって壊れないように工夫した結果だ。色素が残っているだけで、それが化学的な活性の輪の中に「あった」という、元々の状況まで保存したわけではない。こう考えてみると、食品加工の次の姿が見えて来る。なるべく、生きたままを、長く保存すること。そんな生き物を探すこと。何でも、乾燥状態から水を含ませるだけで生き返るトンデモナイ節足動物も居るらしいのだけれども ...

9 月12日、蚊取り線香というものがある。蚊を寄せ付けないのが、その役割だ。実は私、蚊取り線香みたいな(?)役目の人間なのである。私と連れ立って歩いている人、隣や近くに座っている人は蚊に刺されないのである。その蚊はどこへ行くのかというと、私の足首に向かって突進して来るのである。追い払えるような TPO ならまだ良いのだけれども、外国人のお客さんを接待しているような時には、刺されるがままにしておく他ない。以前一度、足首一周グルリと蚊に刺されて、輪のように膨れたことがある。30分くらいは、猛烈に痒かった。それを過ぎると、すーっと痒さが引くのが、まあ蚊の痒さの救いだ。ノミだと、2週間くらいず〜っと痒い。それはそうと、その辺りを歩いてるイノシシ、日本脳炎を媒介したりしないよね?

9 月11日、Mac で TeX を使う環境、長らく Shift-JIS で頑張って来たけれども、最近の潮流は UTF-8。そもそも、システムが UTF-8 を中心に動いているから、仕方ないものがある。まあ、ちよっとした事では化け難いという UTF-8 の長所もあるから、利点を取り入れるように、環境を再設定することにした。そこから先が、ちょっとしたイバラの道であった。新旧両方のやり方を混ぜるような事をすると、かならずエラーとなる。MacTeX の「マニュアル通りに」インストールするという、しごく正しい行いに到達するまでに、数時間を要した。やはり、読むべきものは「検索でヒットしたもの」ではなくて Readme ファイルである。さて、次はフォントの置換。ええと、これはどうすれば良いのだろうか ...

9 月10日、天気図に現れない雨は難儀だ。梅雨明けのすこし前に、神戸でも「その類の」雨が降り続いた。台風が通過した後に、風の通り道が残ってしまって、そこへ向けて南北に風が吹き続けたのだ。神戸の場合は、山に降っても、さっさと海に流れ下るので、水害が起こる場合には山崩れという形で起きる。7月のケースでは、幸い、阪神大水害のようなことにはならなかった。淀川水系でドップリと雨が降ったら、昔はたぶん、大阪のアチコチが水に浸かったのだろう。新淀川に流れを誘導してから後は、だいぶん改善されたらしい。それはともかくとして、アメリカのように天気図は「補助的」にしか使わない所もある。雨が降るかどうかに傾注する予報や実況解説というのも、あって良いものかもしれない。

9 月 9 日、徒歩でポートアイランド一周、というと簡単なようで、難しいことなのだ。なぜかというと、水際は、もともと人が歩くことを想定していないから。港湾設備のある所は、コンテナを運び込むトレーラーなどの車両しか入れない。工業用地の周辺には、緑地帯と防波堤があって、これまた立ち入り禁止の金網に遮られている。当たり障りのないように移動するには、自転車は必須の道具であるようだ。さてそのポートアイランドに何があるのかというと、何もない土地があるのだ。当然、空が広い。光も良く届く。自然たっぷり、鳥も居る。人口島の上の自然の楽園だ。次に訪れる機会があれば、今度は立ち入れる場所を事前に地図で確認しておこう。

9 月 8 日、サンマは、どういう味の魚なんだろうか?と、ふと思うのである。買って来てさばいてみると、血の気の多い魚なのだ。それは放血していないから当然のことなのだけれども、じゃあ海で採って、すぐに放血して、おろしてサクにしてしまったら、違った味わいもあるんだろうか?というのが、興味のある所。柔らかい魚だから、水分を抜かないと水っぽくて刺身にしてもおいしくないか?もともと赤身も多いから、あの部分を取ってしまったら食べる所がそもそも激減するのではないか?いやいや、実はサンマの味というのは皮の下の脂と赤身から来ていて、そこを取るとサンマらしさが消えてしまうのではないか?... いろいろと考える、証明するには生きたサンマを入手するしかない。... 普通、そんなもの売ってない。ちなみに、キュウリは、皮を全部むいてしまって食べると、完全に「瓜」になってしまう。集めた皮だけを細切りにして食べると、これが濃厚なキュウリの味なのだ。

9 月 7 日、モヤシは、一本一本、根を切ってチェックして、選別しておくと調理し易く美味しい食材になる。袋から出したばかりの状態とは別次元の食べ物であると言っても過言ではない。けれども、太いモヤシは別として、あの細いヤツを一本一本選別するというのは、なかなか根気の居る作業なのである。昔みたいに、テレビを見ながら、ラジオを聞きながら夜なべ仕事というのであれば、話は別たけれども、今は「クリックする手」が必要なのである。モヤシを選別しながら、iPad をタッチするという訳には行かないのだ。視線をキャッチしてくれるような、そんな仕組みが簡単に作れないかな〜。何でもいいけれども、モヤシは美味しくいただいた。今日も買おうかしらん。

9 月 6 日、にっぽんの未来は wow wow ... という曲が流れていた頃、密かに「これはヤバい」と感じていたのである。現実との乖離がある優越感を若い内に植え付けてしまうと、齢重ねてからの軌道修正が難しくなるのではないかと、そんな気がしたものだ。当時すでにバブルは去っていたけれども、精神的バブルというのは現在もまだ持続している最中なのではないかと思う。日本には技術力があるから …. そんな文句を耳にするたびに、技術というものは古いものが淘汰されて行く厳しい世界である、新しい技術革新が次々と世界各地で行われていることを、理解した上での発言なのかと感じてしまうのだ。一度、徹底的に自信を失ってしまうくらいの大騒ぎが起きても良いのではないかと思う。デザイン業界の次は、学問の世界だろうか?伝統的に強いとか、お家芸などという文句が聞こえたら、もうダメだ、逃げた方がいい。

9 月 5 日、マクスウェル方程式、英語で書いてみい?と質問されたら?まず、参考までに「ディラック方程式」は Dirac Equation である。よっしゃ〜、マクスウェル方程式は Maxwell Equation でエエやんか! と、意気揚々と答えると沈没する。答えは Maxwell's Equations なのであった。Google のヒット数は、Maxwell Equation が 183,000、Maxwell Equations が 673,000、Maxwell's Equation が 578,000 なので、そのうち Maxwell Equations に収束して行く可能性は充分にある。複数形となるのは、たぶん間違いないだろう。ゲージ場風に F テンソルを使ったり、数学の幾何学風に書き現わすと、一つの式にまとめられるから、将来的にこれらの形式が「教育現場まで降りて来ることがあれば」複数形が取れて単数になる可能性は、無いこともないだろう。ちょっとした事でも、言葉遣いは難しいものだ。

9 月 4 日、夏休みも終わって、ユーロ使う日本人も減って来たんだろうか、だんだんとユーロが安くなって来た。向こうで使う分には、都市部では1ユーロに百円の価値を見出すのは難しいことなのだけれども、田舎へ行くと1ユーロの価値がどんどん増して行く、要するにユーロ圏というのは内部に広大な格差を抱えた領域なのではないだろうかというのが、時々「一見さんとしてお参りに行く」身分としての、ユーロに対する感覚だ。一応、為替リスクをなるべく被らないように、研究者の間では「滞在費は、受け入れ側が持つ」という慣習がある。これはまた、滞在費サポートしてでもお迎えしたい人を、お迎えして議論を重ねるという意味も含んでいる。そういう場所に出向くことができるよう、日々研鑽を重ねておこう、そう思う秋の入り口である。

9 月 3 日、ANA の機内誌、翼の王国の「おべんとうの時間」は、じわじわーっと良い記事だと思う。入念な取材があって、その広がりを彷彿とさせる記事がA4で1ページだけ。構成も練られていて、しかも読んだ時に、その練った形跡を感じさせない。また、方言を含めて、登場人物の言葉を忠実っぽく文字に起こしてある。この、「編者としての透明感」は、もっと世の中へ広まって欲しいものだと思っている。SNS の「いい話」とかテレビ番組のレポートなどは「いじりすぎ」とか「ウケねらい」が目立って、見るに堪えないことが多い。読んだり見たりしたあとで、さめて「それで?」と問いたくなるようではダメなのだ。機内誌に戻ると、今月もじわーっと来たな〜、讃岐でのお話なのである。同郷の方は「読みまい」。ついでに、幻のエンブレムも印刷してある。

9 月 2 日、連続空間のボーズ場のゼロ点エネルギーが無限大であることを、なるべく直感的に導くにはどうすれば良いか?ということをボーッと考えてみた。フーリエ変換を使うというのは、場の大局的な性質を使うからアウト。フーリエ窓を開けるという方法はあるけれども、木に竹を継いだようで頂けない。場の経路積分表示が、たぶんシックリ来るのだろうと思うのだけれども、作用の足し上げをちゃんと行わないといけない。直感的に、不等式で押さえるにはどうしたらいいかな〜と。もっとも、この古典的世界からの直感というものが、どれくらいの意味を持ち得るのかは不明なことだ。理論物理学たるもの、どんな単純なことでも、また論文になるならないは関係なく、疑問に思ったことは真面目に考えてみなければならない。

9 月 1 日、白い杖を持って歩く若い方を見かけた。点字ブロックに沿って、杖を床に軽く触れさせて歩いて行くのかというと、全くそうではなくて、傘を持ち歩くように杖を立てた状態で体の少し前でホールドした状態のまま、目が見えているかのごとく、周囲の人と同じ方向へ流れるように歩いて行くのであった。空間をどうやって音で把握しているのだろうか?たいへん不思議なことだったので、その辺りで立ってみて、耳を澄ませてみると、確かに「わずかに」音の聞こえ方が方向によって違う。そのわずかな違いから、空間の定位を拾ってしまうとは、我々からしてみると神業なのである。
7 月と 8 月の1行日記