← 9 月と10月の1行日記  

8 月31日、ガバッと起きたら、もう、こんな時間だった。慌てて朝食を軽く食べて、飲める温度になるまで冷えない紅茶は放置したまま、電車に飛び乗るのであった。まあ、余裕は充分にあって、定刻には仕事場に到着したのではあるけれども。その余裕の時間を、朝食の余裕にできるか?というと、そういう訳にも行かない。通勤道中で電車が遅れるかもしれないし、トイレに駆け込むことになるかもしれない、そういう余裕は最後まで残しておかなければならない。仮に遅れても「ごめんね」と謝った上で、その分は頑張って取り返す、という弾力的な仕事ぶり・心構えも必要かもしれない。遅れてはダメという、杓子定規な枠を自分にはめてしまうことは、自分にも周囲にも良くない。明日は、世の中で言う「新学期」なんだった、もう。

8 月30日、ドライフルーツが良く売れるという話を聞く。そういう目で、スーパーやらコンビニやらの菓子コーナーを見てみると、確かにドライフルーツって、こんなに種類があったかなーと思うほどに並んでいるし、ドライフルーツたっぷりの焼き菓子も沢山ある。昔だったら、オールレーズンくらいしか無かったのになーと。確かに、ドライフルーツはカリウム摂取には向いてる食品かもしれない。なにぶん乾燥しているので、重量あたりのカロリーは充分にあるだろう。そんなに沢山は食べられないものだから、心配ないか。なお、果物なら捨てるほどに実る日本で、ドライフルーツを作ると採算が採れないというのは、経済マジックそのものだなぁ。

8 月29日、サボテンの鉢を良く眺めると、サボテンの底が砂から浮いている。植え替えした時には、充分に接していたはずなのだけれども、水やりなどで、ガタガタと砂を揺らしている内に、だんだんと砂の「かさ」が目減りして来たのだ。これが、砂礫というものの不思議。同じような現象は、道路の舗装の下でも起きるらしい。ある日、突然、車道に穴があく。下には何もなし。舗装する時に、あんなに突き固めたはずの下地が、痩せるとはまあ、世の中に盤石の基礎ナシということだろうか。物理学もまた、究極の下地は「いまもって不明」なのである。調べれば調べるほど、妙な発見があるものだ

8 月28日、油断すると用事が溜まりこむのである。読むと決めたものは読まないといけない。書くと決めたものは書かないといけない。お願いすると決めたものは、お願いし忘れないようにしなければならない。元来、ひとつの事にしか集中できないタイプなので、いくつかの用事が重なると、ダウン寸前のパソコンのように応答が遅くなって、最後にはフリーズしてしまうのである。しかし、ここは、強い意志を持って諸事にあたらなければならない。FB を見ている場合ではない。しかし、今日では、研究上の連絡も FB などでやって来るから、気が抜けないのである。道具を使うか、道具に追われるか、そこが使いこなしの技の見せ所なのだろう。

8 月27日、だいたい、ひと月前には、おおよその予定を固める必要があるので、すでに10月からの新学期は始まったようなものなのである。講義はどんな風に進めて行こうかな〜、その合間合間に入っている会議は、どう運営して行こうかな〜など。会議は半年先から1年先まで決まってることも多いから、カレンダーを見るとポツポツと動かせない予定が並んでいる。楽しい教育、さて今年はどんな光景となるだろうか。教員業というと、毎年同じように授業を行うものだと、思われがちなのだけれども、実際はというと、毎年のように雰囲気が違って来るのである。何人かが切磋琢磨しているような年、一人がズバ抜けて良く質問して来る年、何となく静かに時が過ぎて行く年。いろいろなのである。さあ再スタート、夏休みはもう終わりだ。

8 月26日、日本語入力を行う時に、長文を変換せずに、まず入力するかどうか?という問題がある。ながーく全部書いてしまってから変換キーを押すと、パッと正しく変換されるのだそうな。実際に実験してみると、確かにちゃんと変換される。怖い物があるのだけれども、長々とひらがなを入力してみようか。←この文章のばあい「強い者」が最初に候補として現れて、「怖い物」に直すのに、少し手間がかかった。変換されるまで未変換のカナが並ぶというのは精神衛生上良くない。←この文章はちゃんと変換できた。うーん、どこまで未変換に耐えられるかな〜。と、しばし思案した後に、結局はもとの通り短く区切っての入力に戻った。ああ、この方がいいや。

8 月25日、未明にカレンダーとニラメッコしつつ、航空券を確保する。関西空港、伊丹空港、神戸空港は全て「大阪空港」のくくりになっていて、正規運賃は全く同じ。しかし、割引運賃となると、かなりの差がある。どこが安いかということは、結局のところ、利便性とか便数など、需給関係で決まる。大抵の場合、伊丹空港が一番安い。それだけ、競争が激しいということ。価格競争ある所に商売アリ。そこで頑張った分は、どこかで取り返すんだろうけれども。なにぶん、眠たい目をこすりつつの決済だったので、ひょっとすると便やら曜日を間違えているかもしれない。間違った時のキャンセル料は、けっこう大きいのだ、早割の場合。これは致し方なし。先物の商品のようなものだから。

8 月24日、増えた体重は消費して減らすしかない。そもそも増えた原因は、お盆休みで神戸大学への「毎日登山」が途切れたことにある。その分だけ、余計に登山すれば良いわけである。そういうわけで、阪急六甲から理学部までの登山を、ここしばらくは阪急六甲から法学部付近まで延長することにした。昔は、六甲ケーブル下まで登りつつ思索するなんてこともあったけれども、流石にそれは体力が追いつかないので、そこそこにしておく。継続は力なり、毎日のように軽く登ることが大切なのだ。もっとも、秋という落とし穴が待っているのである。美味しいサンマは別腹ということにしておこうか。

8 月23日、撮影場所にやって来た、さあ望遠レンズで周囲を撮りまくるぞ! と、意気込んで筒をカメラに取り付けると、あれっ、焦点が合わない。よ〜く見てみると、あるはずの部品が、そこに無いのである。しまった、この前、別の望遠レンズを組み上げる時に、部品が足らなくなって、ちょっと貸してもらおうと「部品をむしり取って」縮めてしまってあったのだ。そのことをコロリと忘れで、マトモに組み上げたレンズだと信じ切って撮影現場まで持って来るという、大ポカ。仕方ないので、広角レンズでの撮影にスイッチ。写真たるもの、常に研究あるのみ、広角しかなかったら、それに合った構図を探し、撮影モードを探し、撮れるものを探し。まあ、クローズアップで撮る分には、どんなレンズを持っていても、それなりに何とかなるんだけれども。遠くのものは、望遠がなければ半ばあきらめるしかない。

8 月22日、サボテンの成長戦略というのは色々とあって面白いものだと思う。ひたすら伸びるもの、ひたすら子を吹くもの、全く伸びないというか、常に縮こまっているけれども、水もほとんど消費しなくて、ワンチャンスを待っているかのようなもの、葉もあって殆ど樹木のようなもの、湿気を好むもの。どれもサボテンなのに、あれほど違うというのは驚きだ。乾いている所に生えているサボテンでも、引っこ抜いてみると根の間はわずかに湿っていることが多い。街角でもよくみかけるサボテン、適所に植わっているものもあれば、あまり良くない場所に植わっているものもある。長持ちするのは、やっぱり前者だ。教育もそんなモンかなー。

8 月21日、物理学の教育ということについて、なにぶん本業なものだから、「効果が上がる教育方法」というものを見聞きすると、ついつい突っ込みたくなってしまう。効果があがるということについて、どういうデータをもとに、どういう母集団に教えるのか、またその方法はどうなのであるか?そして、結果は統計的に有意なものであるのか?ということ。その辺りも含めて、議論としてうまく噛み合っていなければ、定量評価できていないではないかと、突っ込んでしまうのである。そして、結局は本質的な物理の理解へと至る道筋を尊ぶ、専門的な物理教育と比較してしまうのである。物理の啓蒙と、基礎的な教育の間に、どんな中間点があるのだろうか ...

8 月20日、早朝の大阪駅に立つ。ぼやーっと辺りを眺めていて、気づくことあり。エスカレーターを歩いて降りる動作と、ファッションショーでモデルさんが歩く動作に、ちょっとした共通点があるのだということ。一段下に足を伸ばして、着地する直前には、伸ばした足の方向に骨盤が下がる姿勢になっている。この状態で、伸ばした方向の足に荷重がかかっているのが、モデルさんの平地での歩き方。これを、つまり階段歩きを写真の撮影に使えないか?と一瞬思ったけれども、それは危ないのだということにも気づいた。目線を真ん前に向けて階段降りる人は居ないもんね。やったら目立つかも。

8 月19日、量子情報の q-bit に関係して、ブロッホ球の絵を描くことが良くある。これが、けっこう難儀なのだ。大抵の教科書で、北極と南極の位置がおかしい。等角投影法にすると矛盾なく描きやすいのだけれども、普通は「うっかりしていると矛盾が生じてしまう」斜投影法で描くので、これが諸悪の根元となっている。うっかりしていると、というのが座標軸が球と交わる点の位置。北極と南極については、さっき述べたばかりだけれども、その他の軸も、正しい位置を作図で割り出すことは、そんなに簡単ではない。じゃあ、最初から 3D で描いてしまって、二次元投影すればいいじゃないかと言われそうだけれども、どうも、そういう図は頭に入りづらいものがある。これは、マンガと 3D アニメの違いと言うとピンと来るだろうか。ちなみに、ブロッホ球を描くと、ついついドラエモンの目を書き込みたくなるのだけれども、これはコピーライトによりアウト。

8 月18日、Research Gate は、まあ勝手に情報がスタックして行くから、放置しとけばいいか ... と思っていたけれども、どうも手を入れざるを得ない状況になって来た。SNS の怖い所がコレで、自分の情報はキッチリと自分で管理しておかないと、偽とは言わないまでも、不正確な情報が入ったり二重登録になったりしてしまうのだ。不正確だろうと何だろうと、閲覧されなければどうという事はないのだけれども、けっこう閲覧されているのである。5000 views なんて知らせが届いたりする。まあ九割方はロボット検索なんだろうけど。というわけで、doi が無ければ付け足したり、二重のものは消したり、あれや、これやと。よく見ると、研究ノートなども upload できるのだそうな。やってみようか。

8 月17日、花火を見て思うこと: その内、花火プリンターというものが登場するだろう。今は、どちら向きに爆発するか、あまりちゃんとは決められない構造の花火だけれども、三軸制御が無理というわけではない。コストの問題だ。三軸制御できるとなると、パッと開いた時に、正面から見てどんなパターンが、どんな時間変化で現れるかということが予測できるので、それに合わせて「こんな風に見える物を」と指定してあげると、火薬 3D プリンター(おお危ない!)で製品まで持って行ける、そんなシステムが登場することだろう。ひょっとすると、軍需産業は、そんな技術をもう使いまくってるかも。

8 月16日、エステルの合成方法を完全に忘れていることに気づいた。ええと、あれは分解すると悪臭のある酢のようなものになるんだった、だから合成もその逆を行くはずだ … と記憶をたどって酢酸とアルコール類にたどりつく。果物に限らず、日本酒なんかにも含まれているそうな。生物は、一体どうやって常温下でエステルを作ってるんだろうか、また何のために作るんだろうか?と、不思議に思う。そのエステルに引き寄せられて、香りがいいの悪いの、旨いの不味いのと品評する人間様もまた、自然の仕組みにガッチリとハマり込んでしまっているものだと思った。

8 月15日、英文を読む読む、二つ三つ合わせて読む読む、そして推敲。日本語の文章も控えておるぞ、暇なし。どんどん、片端からこなして行かなければならない。Native じゃない言葉というのは、何回見直してみても、どこかしら、いや、どこもかしこも妙なことになっている。文学や音楽や商業の世界だと、そういうのはアウトだろう。工学でも問題あるかもしれない。理学だから、辛うじて許されている、そういうコンピュータープログラムのような言葉遣いをしているんだと思う。そもそも、共通語というのは、そういう宿命を背負った言葉なのかもしれない。

8 月14日、最近、あまり「はがれたベニヤ板」を見かけない。昔は、よく、フカフカになってバラバラという状態の家具なんかを見かけたものだけれど、最近あまり見ないのだ。もちろん、雨に濡れたりして木の部分がボロボロになってしまうような状態だと、必然的にフカフカになるのだけれども、単に古いだけでは、なかなかバラバラにならない。接着剤の耐候性が増したのか、それとも木の下処理が上手になったのか。木を取り扱う人々は、その分なのかどうかは知らないけれども、木屑には要注意と言う。どういう処理がなされているのか、想像もつかないのだとか。昔はせいぜい、塩水につける程度だったわけだけれども。

8 月13日、冠詞の使い方は難儀なものだ。もちろん、冠詞があるからこそ紛れなく表現できるという便利な面は非常に大きくて、英語や西ヨーロッパの諸言語 (?) から冠詞を抜くと意味が通らなくなることも多い。その上で、意図したとおりに意味が伝わるように冠詞が選ばれているか?というと、その「意図した所」が既知なのか未知なのか、言及したかしないか、常識なのかどうか、そういう背景も含めて考えて行くと、結局の所は「書く人によりけりじゃん、読む人によりけりじゃん」ということになる。そういう、曖昧さを避けるには、文章の構成や、言及する内容を吟味することになって行く。たかが冠詞の問題に、文書構成がかかわって来るのだ、ああ、めんどくさ。

8 月12日、夏休みですか?と良く聞かれるのである。大学人 (?) の夏休みは、実は 8 月ではなかったりする。8 月の第 1 週は、試験の期間がまだ残っているし、お盆以外の 8 月というのは、案外予定が立て込んでいるものだ。どちらかというと、9 月の方が夏休みらしいのではないかと思う。しかし、悲しいかな、お盆を過ぎると、もう「夏」という感じではないのである、世の中が。気温だけで考えると、まだまだ暑い盛りなのに。そのお盆を前に、セコセコと執筆業に励む。何やかんやで、4つくらいの文章に、交互に手を入れることを繰り返している。ただ、仕事の切り替えが下手な私は、1日ごととか、半日ごとくらいの単位でしか「つぎの仕事」に移ることができない。ま、それで十分か。

8 月11日、色々と忙しい日々であったこともあって、日常的に使う包丁すら研がずに放置する日々を過ごし、「だましだまし」料理していたけれども、もう限界。調理の味、食感にハッキリとわかる影響が出てきたので、研ぐ。研いでみると何のことはない、一瞬で切れ味が戻って来る。念のために付け加えておくと、研ぐ前の状態でも舶来の安ステンレスよりはずっと良く切れた。あれはそもそも設計思想が違っていて、使う前に研ぎ棒でカシャカシャと研いで使うように出来ているから、単純に比較するのは不公平か。ともかくも、研いだ後からの調理は、日々にも増してとても楽しいものであった。

8 月10日、キャッシュメモリーというものがパソコンの中に埋まっている。このキャッシュ、cache と綴るということを、今の今まで知らなかった。お金の意味の cash だと思い込んでいたのだ。広い世界には、このように誤解している人も沢山居るようで、cash memory で検索すると、ゾロゾロとデジタル機器の文章やら写真が引っかかる。あるいはこれは、cache なんて単語は滅多に使わないから、勝手に cash に自動変換された結果なのかもしれない。綴りは違っても、発音はおおよそ一緒。現代の英語になる前の段階では、違っていたかもね。

8 月 9 日、お盆になると、大学もお休みなのだそうな。とするならば、その間の仕事は週末だろうと夜だろうと、時間のある時に仕上げなければならない。並列処理すべきことが3つ4つ。外を眺めると、木々の葉が揺れていない。今日も、恐るべき「凪」がやって来たようだ。道行く人々から、ファッション感覚が完全に抜け落ちている。なるほど、昔の稲作に「ため池」が必要であったはずだ、こんなにもカラカラでは、どんな植物も、根が浅いものは干からびてしまう。その、枯れ草のようにならない為にも、ここは気を抜かずに仕事をして、根を張っておかなければならない。なんせ、ウンエイコウフキンは年々減るそうだから。

8 月 8 日、鳥肉を焼くだけだと、ジックリと下味を付けておかない限り、なかなか隅々までバランスの取れた味に仕上がらないので、ひとまず煮て味を含めてから焼くことにした。煮汁の方に味が幾分は抜けて行くから、その勘定も難儀なことではあるのだけれども、ともかくやってみた。適当に煮上がったところで、オーブンに入れて、皮をパリッと。あまあの仕上がり。さて、煮汁の方はどうしたもんだろうか、とりあえずスパイスを放り込んで少し加熱してからストックしておいたので、何かの折に再登場することとなるだろう。

8 月 7 日、ゴーヤを真っ二つにして、種を取る ... 時間があれば、種だけを取る。種のまわりのワタは、あまり苦くないし、充分に食べられるので、種だけを選り分けておけば、ゴミの量も減って後が楽だ。さて、その種は .... 炒ってゴーヤ茶にするとか、割って中身だけ食べるとか、色々と使い道はあるらしい。毎日ゴーヤという台所ならば、相当な量が溜まるから、こういう楽しみもあるのだろう。まあ、その辺りの土に撒いておくと、芽が出て、時として水が合って成長して、身をつける。農家が、いかに水と肥料を絶やさないように育てているかは、その実を見るとよくわかる。手をかけないと、小さなものしか収穫できないのだ。

8 月 6 日、六甲山の向こう側で、入道雲がモクモクと成長している。梅雨明け 10 日を過ぎて、夏が一段落する兆しなのだろうか。それでヤレヤレと思っている頃に、また暑さが戻って来たり、一筋縄では行かないのが関西の夏だ。七夕の始まった仙台は、今年は暑い夏のようだ。花火を待っている時に寒かったという記憶もある、そうそう、あれは米不足になった夏だった。さて、雷雲が見えた時に、どのように行動するかは、なかなか難しい判断だ。広々とした、逃げ場の無いような場所であれば、もうサッサと逃げるしかない。海もまた同じ。電位差が目に見えたら、危険度も定量的に判定できるのだろうけれども。うまい方法、ないかな。

8 月 5 日、歴史総合という科目が高校に出来るんだそうな。どこかで聞いた名前だ。そうそう、理科総合である。「旧課程」の高校理科に、理科総合という科目があった。今は、物理基礎、化学基礎、生物基礎、地学基礎に再編されている。もひとつ、科学と人間生活とかいうのがあるらしいけれど、どれくらい履修されているんだろうか?ともかく、歴史総合と聞いて「社会科教科よ、お前もか」と、一瞬思った。但し、社会科目に「基礎」とい名称は確かに馴染まないものだろう。どんなものが出て来るのか、ちょっと興味がある所だ。まあ、賛否いろいろとあると思うけれども、いじってみて、やり易い物が残って行くのなら、それも実験的にやってみる価値はあると思う。誰かが実験台になるわけなんだけれども。

8 月 4 日、列車が通過します。という音声を聞いて、さあ、どんなのがやって来るか?と身構えていると、スーッと電気機関車がやって来て、通り過ぎたらそれっきり。貨物列車の、貨物が無い版。もちろん、よく目にする光景ではあるのだけれども、毎回のように肩透かしを食うのである。そして、通過風景の軽々としていること。(実は 100 t を超えているのだが。) 都市の中央の駅であっても、全く関係なく通過して行くという意味では、特急列車よりも格が上であると表現することが可能かもしれない。もちろん、スジがカチ合えば特急に道を譲りはするのだけれども。

8 月 3 日、地動説のことを調べていて、コペルニクスとガリレオでは、その考える所がエラく違うことに気づいた。なるほど、物理学にコペルニクスが出てこないはずだ。ニュートンのプリンキピアも、久々に閲覧してみた。相変わらず、ゴリゴリしている。ただ、この本の素晴らしい所を解説する文章というものが、あまり無いのが残念な所だ。ファインマンのミニ解説は、なかなか面白みがあって、天才が歴史を超えて相通じる所が見えて面白い、ああいうものの続編を、と、思う所がある。ただし、やはり文章というものは何事も原典にあたるべきで、そうなるとまずはラテン語から学ばなければならない。面倒なことだ、やっぱりやーめたっ。

8 月 2 日、専有部、専有利用権(専有使用権)のある共用部、そして共用部。区分所有している建物の場合、この区別が重要だ。保険をかける場合にも、どこに原因があって、どこに災難が及ぶ場合に保険でカバーされるのか、その割合は何割なのか、よーく約定を読んでおかなければならない。マンションを購入しようという方々は、新しい建物ばっかり比較しがちなのだけれども、朽ちかけたマンション (?!) を見て回る方が、後々のためかもしれない。築何年で、そんなボロボロになったのか、なぜボロボロになったのか。あるいは、年月を経ても美しい建物はなぜそうなのか、その理由を見て行くのだ。大抵は、修繕積立金の額に「その違い」を見つけることができる。もっとも、最初から造りが雑であれば、長持ちしないのは当たり前なのだが。最近は、そういう酷いものは、滅多に無い ... と信じたいものだ。

8 月 1 日、暑いとしか言いようがないのである。気温を見ると、夜の間も 29 度なんていう、そんな暑さのままなのである。海が近い神戸、山が近い神戸、涼しいはずなのだが .... 風が吹かないのだ。昼間は海風、夜は谷風という、教科書に書いてあるような風の流れがピタッと止まって、避けようのない暑さだけが漂っている。そういえば、昨日はデパートの入り口で倒れている方が居た。暑い所で何とか平衡が保たれていた状態から、一気に冷たい空気に触れて、くら〜っと来たのだろうか。この、建物の内外の寒暖の差もまた、要注意の日々なのである。

7 月31日、神戸空港に近い、ポートアイランドの京コンピューターと、その周辺の施設。積み重ねというか、歴史というか、竣工から時を経て出てくる風格というか、段々とそういうものが出てきたように感じる今日この頃の風景である。最初がピカピカすぎたのかもしれない。周囲を見渡すと、まだまだ広大な更地が広がっている。ポートアイランドが、研究に特化した都市へと変わって行くのかもしれない。その対岸には神戸空港の更地も広がっている。更地なので、結局いつかは負担が表に出てくるとは思うのだけれども、それが研究に有効利用されることを祈り垣間見るのである。

7 月30日、優雅なお昼ご飯は、1時過ぎから。それまでの時間帯は、特に新学期や試験期間は、「何らかの目的で」混雑を楽しみに行くなら別として、タイムシフトしての昼食が良い。が、しかし、夏休み期間も近くなると、要注意なのである。お客さんの来ない食堂は、早々に閉店となる。行ってみると、閉まっていた、ということが時々。工学部の食堂だけは、ずーっと開いているので、暑い所をボチボチボチと歩いて行くことになる。また、閉店前にはメニューも残り少なくなっているので、夏休み期間中だけは、12時過ぎからの飯を推奨することになる。さて、そろそろ、ご飯。

7 月29日、大学一年の夏休みは、何をする?ええと、この場所は、時々は大学一年生にも読まれているらしいから、ファインマン・レクチャーを読んだという話を、またまた、ここに載せておこうか。大昔に、大阪大学の大学一年生だった頃、長い夏休みの帰省中に何を勉強しておこうか?と思って、紀伊国屋の洋書コーナーへ行って、当時は物理の専門書も置いてたので、パラパラと見ていたら、ファインマン・レクチャーの3冊に遭遇した。その、いちばん薄い Vol. III を読もうと思い立ったのだ。理由はもちろん、いちばん薄いから。実際、この選択は悪くなかった。そして、夏休み中にざっと読んだ。英語を、あまり辞書を引かずに意味を取るという練習にもなったと思う。けっこう、色々と物理のエッセンスが散りばめられていて、いい経験となったように思う。大学2年の夏休みに Vol. II を読んで、そこでおしまい。大学 3, 4 年になると、もう色々と忙しくて、長い夏休みなんかなくなってしまったので、いまもって Vol. I を通して読んでいない。つまみ読みは、半分くらいしてるんだけれども。

7 月28日、あれあれ、電車に乗ってる、けっこうなお歳のお姉さんが、ずーっと昔のお化けみたいなマスカラたっぷりの、いわゆるガングロ(←死語)っぽい姿に厚底靴だ。けっこう、こういう「固定ファッション層」に遭遇することがあるものだ。ずーっと昔の「不良」の格好のままの、オジサンオバサンだとか、旧世代のルーズソックスをレッグウォーマーにはきかえた「だけ」の姿で歩いてる OL っぽい人だとか。きっと、居心地がいいんだと思う。世の中のことなど意に介さない、それは良いことだと思う。なお、私は、大学というとゲバ棒とヘルメットなんだと幼少の頃に信じ込んでいたんだけれども、大学に入学したら、どこにもそんなものがなくて、ガッカリした覚えがある。ギター持って渋谷駅に集まったりしないの?

7 月27日、1年ぶりに、川船に乗る。行き先は秘密。どうせ2時間少ししたら戻って来るし。行き先はともかく、水路で船に揺られる中、定番のてんぷら料理を楽しむことになる。これ、最初は良いのである、油もまあまあ良い状態だ。しかし、揚げる量が多いので、段々と衣が重たくなって来る。油の粘度が上がって行くのだろう。この辺りに、料理としての改善点があるような気がする。手間を増やさずに、船という限られた空間で、何とか飽きない味を出すには、どうしたら良いだろうか?年齢を問わなければ、一品ごとに段々とエスニック味に走るのも良いのかもしれない。もっとも、カレー揚げなどを一度してしまうと、辺りがカレーの香りに染まってしまうので、それもまた問題なのだが。

7 月26日、大阪空港を利用する。普段は神戸空港なのだけれども、夏休みで沖縄便が増便となったアオりを受けて、羽田便が減便となったのだ。いつもなら、優雅に海を見ながら搭乗を待つのだけれども、今日は伊丹で … もちろんココも良い所ではあるのだけれども … 搭乗待ち。大阪空港の良い所は、羽田までの所要時間がずいぶんと短いことだ。離陸すると、そのまま東へと向かう。神戸空港は、どうしてああなったのた?と言いたい事が色々とありはするのだけれども、離陸したら、一路西へと向かってから、ずいぶん大回りして羽田へと向かうのである。同じ料金だから、長く乗れる方が得だという意見もあるが ...

7 月25日、執筆業の日。久しく、このように執筆して1日を過ごすことを忘れていたので、なかなか楽しい。本来、文章に取り組むのは、とても心地よい作業、仕事なのである。が、ひとたび迷いが生じると地獄に落ちる。ながらく、このドン底で過ごした後の、久々の浮揚感である。作業というのは、やっぱり、始めた時からすでに「終わりを見越して」おかなければならないものだと、再確認した。それが、どれくらい先のことか、それは気の持ちように過ぎないのだから。

7 月24日、夕方になると、オフィスに太陽光が差すようになった。この光は、近くの建物の窓で反射された夕日だ。これが窓に入って来るのは、夏至の一ヶ月前くらいと、夏至を過ぎて一ヶ月くらいしてから。ということは、季節は秋へと向かっていることになる。確かに、盛夏はあと2週間ほどで終、お盆の後は残暑となる。西日本では、残暑も充分に厳しいのであるけれども。高原では、短い夏の間に下草が花を咲かせてお花畑となる。その特徴はというと、種を残すまでがとても速いこと。お花畑だと思っていた場所が、どんどん、秋の風情に変わって行く。下々の場所で、そのような変化が起きるのは晩秋になってからだ。季節感覚は、場所によって、ても変わってくるものだ。

7 月23日、素数がどれくらい密に分布しているかを考える問題がある。「素数定理」で検索すると、アレコレとヒットするだろう。意外と、素数の数は多いことがわかる。あれだけ素数があるんだから、大きな数は合成数ばかりだろうという気もしてくるのだけれども、電卓で表示できるくらいの桁数だと、まだまだ素数が密に存在していることがわかる。素数といえば、大きな素数を新しく見つけると売買できるらしい。たぶん暗号か何かの役に立つんだろう。その、素数を使った暗号方式、これが量子コンピューターの標的となって何年目だろうか、なかなか誤り訂正符号がうまく働かない状況が、これから何年かは続くのだろうけれども、その先に待ち構えている世の中はどんなものだろうか?

7 月22日、今日は雨。雨が降っていて、これは梅雨の戻りなのではないか?と勘ぐりたくなるのだけれども、梅雨前線の姿はない。10 km くらいの上空の状況を示す 200 hpa の天気図を見ると、ジェット気流は北海道よりも北を流れていて、梅雨前線に対応するようなジェット気流が存在しないのだ。あるいは、ジェット気流が「ヒマラヤ山脈の北回りコースにスイッチした」と言っても良いだろうか。ということは、異なる性質を持つ気団の間での悪天候という訳ではないので、この雨は梅雨ではない、ということになる。それでは、この雨の正体は何か?と問われると、太平洋高気圧も含めて「サブハイ」と呼ばれる高気圧の「継ぎ目」にあたる部分で天気が悪くなっているのだ、と答えることになるんだろうか。まあ、今日は、ちょっとホッとする涼しさもある。

7 月21日、入道雲が、もくもく。ということは、大気の安定性が低くなっているということだ。下層に湿った空気が入って来ていることが、天気図からも読み取れる。こういう時には、雷雨がやって来る。夏ならでは?! の雷。当然ながら、雷雲が出ているような時に出歩くのは非常に危険なので、なるべく災難を避けるよう避けるよう、バスを利用してみたり、時間をズラしてみたり、高い木や電柱からは離れてみたり、広場のような場所には出ないように心がけてみたり。それくらい、雷はオッソロシーということだ。特に、海辺では遮るものが何もないので、ゴロッと来たら、サッサと避難しよう。

7 月20日、岡本は、神戸大学のすぐ近くの街。実は私、岡本を歩いたことがない。駅の北側は、甲南大学にお邪魔した時に、ホンの少しだけ歩いたことがあるけれども、南側は未踏の地であった。というわけで、ちょっと歩いてみた。駅の北側は、もう山の風情なのだけれど、南側にはオシャレな街が広がっていてびっくり。なるほど、特急が停車する駅であるわけだ。一方、職場のある六甲駅は、ひなびている。もともと阪急六甲駅は、特急が通過できるような構造になっている、阪急としては珍しい駅だ。通過しても良いよ、というわけで、いつまでたっても、田舎っぽいのかもしれない。そこがまあ、六甲の良い所なんだけど。

7 月19日、Research Gate という、なんだか良くわからないものがある。研究者のための SNS と言って良いだろう。最初はナンジャと思っていたのだけれども、プレプリントのアーカイブが大きくなりすぎて、毎日の閲覧に何時間もかかるようになった現在、どうも、この Research Gate のネットワークが「研究の口コミ拡散」として重要な役割を果たし始めたらしいのだ。これは足を向けて眠れない、サッサと今までの文献を上げることにしよう。雑誌社との間の著作権はどうなってるんじゃい?という話もあるのだけれど、どうも最近、その辺りの垣根が「なし崩し的」に壊れ始めているようだ。まあ、もともとは、雑誌の値段が天文学的になって来て、アチコチの研究機関が、負担を放棄せざるを得なくなったという理由もあるのだろう。論文誌のオープン化の流れは、もう止めようがないことだ。

7 月18日、職場の電話にナンバーディスプレイ機能を追加した。今までは、着信があっても、どこからの着信か判別がつかなかったのだけれども、これで録音に入らなかった着信も全て、相手の電話番号と時刻が記録できるようになった。職場には、仕事に関係のない着信もけっこう多いものだ。よくあるのが、賃貸マンション経営だとか、FX など金融商品だとか、あれやこれや。大抵はコールセンターからかかって来る。昔は男性が多かったけれども、最近では女性の担当者も増えて来たようだ。それらもまた、職業として電話をかけて来ているのだから、あまり時間をかけないよう、サラリとお断りすることにしている。業者によっては、公衆電話から通話という場合もある。こういう事もあって、公衆電話からの着信には、受話器を上げないことにしている。

7 月17日、ありゃ、台風は弱ってしまって、もう何の影響もないな、と、ヌカ喜びしていたら、全く「台風一過」にならずに、午後ずーっと強い雨が降り続く、夕方になっても降り止まないのであった。こういう雨が何日か降り続くと、六甲山のアチコチで、崖崩れが起きるというのが、これまでの災害で明らかとなって来たこと。今回は、そうならない事を祈りつつ、水たまりを飛んで歩く。いや、何回か水たまりに足を突っ込む内に、避けるのがバカバカしくなって、ズブズブと水を被りつつ歩く。思い出すに、むかーしむかし、田舎で川が氾濫するたびに、長靴をはいて、水の中をジャブジャブと歩いたものだ。しかし、怖い落とし穴もあって、ひとたび道路に水が出てしまうと、側溝のある場所がわからなくなるのだ。マンホールが外れているかもしれない。そういうわけで、今日もひとこと「水の出ている場所は歩くな」と、誰にでも強く勧めるのである。

7 月16日、Charon, カロンの姿を見る。それは、全く、梅干し。ある程度の凸凹があるけれども、激しい衝突の時期のクレーター跡は綺麗サッパリ、どこかに消えてしまっている。冥王星探査の「面白さ」は、二つセットの、オマケのカロンが、けっこう興味深い所にあるんだろう。こうやって、太陽系の色々な場所の事が見えて来ると、次のターゲットはどこじゃ?ということになる。遠くへ遠くへ、ということに興味を持つならば、セドナなんていう候補も出てくる。そんな場所へ、どうやって到達するのか?という工学の問題はあるんだろうけれど。準惑星が見たければ、海王星のトリトンでいいんじゃないか?という話もある。但し、あれは、海王星の潮汐力を受けているので、海王星に捕捉された後で、その姿が変わった可能性がある。ともかくも、探査というのは、税金を投入する価値あるものだと思う。

7 月15日、関東は夕焼けが美しかった。夏至が過ぎてまだ日も浅く、仕事が終わった頃にまだ空が明るいから、見かけ易いという話もある。また、夏の空は高い所まで雲があるから、幾層にも夕焼けが楽しめる、そんな気象上の理由もあるんだろう。カメラを向けていると、黄色、朱色、赤色、紫色、色々だ。日中の太陽光線は非常に強くて、色を感じる余裕もないと言って良いけれども、その中に、赤い光も隠れているということ、物理的には明らかなことなのだけれども、こうして風景の一部として赤い色を見ると、説明を超えた美しさがあるもんだと思う。ちなみに、カメラを通して見る色は、実際の色とは、また違う。3原色フィルターを通した光だから、元の色を再構成できるとは限らないのだ。人間と全く同じ受光特性を持たせようと思った大変だろうなー。

7 月14日、ビアガーデンに行く楽しみができてしまった。昔は、ビアガーデンに呼ばれても、しぶしぶと、ウーロン茶を飲むくらいしか選択肢がなかったのだけれども、最近はちゃんと、アルコールフリーなビールを置いてある。ありがたいことだ。よく、本物のビールと比べて美味しくないというコメントを聞くのだけれども、それはたぶん、アルコールによって騙されているのだと思う。実は私、比べて飲むと、フリーの方が美味しく感じるのである。苦労して創り込んであるという、工夫を感じる。一方、アルコールが入っている方はというと、かなりの香りがアルコールに負けてしまっている。これは、ワインなどに比べると、ビールは香りが弱いということだろう。ちなみに、日本酒はというと、その味と香りの多くがアルコールに支配されているので、アルコールフリーな日本酒というものは、ホントにス抜けたものになるんじゃないかと思う。なお、ウーロン茶も、ちゃんと美味しいものが出て来れば全く問題ないのだけれども、大抵は、自動販売機の茶と大差ないのである。中華料理屋にでも行かない限りは。

7 月13日、電車に乗る時、吊り革を持つことが減った。それは危ないのではないか?いや、あれはユラユラとしていて、どうも安定感がない。背伸びをしてでも、その上にあるステンレスパイプを持つようになった。それで、今までよりも揺れが少なくガッチリ固定できるようになって … 実はマズいこともある。周囲とは動きが異なるので、急に揺れたような場合、周囲からぶつかられてしまうこと再々。以来、混雑時には、周囲に揃って揺れることを心がけるようになった。これぞ本末転倒か。なお、電車に乗って座ることは滅多にない。昔、新幹線で仙台から岡山まで乗って帰ったような時にも、実はずーっと出入り口付近で立っていた。どうも、座ることに性が合わないのだ。

7 月12日、空港ラウンジというもの、どうもしっくり来ないのだ。それはなぜかというと、空港という広々とした場所で、あちこち歩ける自由があるのに、狭い部屋に閉じこもっていなければならないという、不自由を売っているように見えるから。何度か、利用する機会があったけれども、それっきり。自動販売機代わりに、一杯のお茶を飲みに行くようなことはある。航空券を見せて、登録して、お茶のコーナーでチョイと飲んで、5分もしない内に出る、そんな感じ。それで充分。充電のために、仕方なく利用することも以前は時々あったけれども、今では電源コンセントもだいぶん増えて来たので、充電の必要も薄れて来た。まあ、そんな所か …. どうせオマケみたいなものだし。

7 月11日、ドアを開けると、閉じるドアの安全に責任が生じる。100 パーセントの責任かどうかは、場合によりけりだと思うけれども、もし閉じるドアが原因で後ろの人が怪我でもすると、全く責任ないとは言えない。特に、小さな子供、ご高齢の方は要注意だ。この辺りは安全が絡むだけに、疎かにできない。一見すると親切心でドアを持っているかのように見えるかもしれない。そういうことが、あるかもしれないけれども、閉じかけたドアほど危ないものはない。後ろから来る人が、完全に閉じるのを待ってくれていれば、危険も生じないだろうとは思うのだけれども、常々そうとは限らない。冗談だろうと思ったら、その辺りでパタパタと開閉しているドアを眺めてみると良いだろう。時々、ひやっとする場面に遭遇するだろう。

7 月10日、晴れる。夏の焼けるような晴れ間ではない。海から来た風という感じの、じめじめーっとした空気の下での晴れ。この時期、湿気を感じるのは、単純に湿度だけの問題ではない。コンクリートの建物は、まだ温まり切っていないのだ。つまり、建物の内部は外部よりも気温が低い。すると、どんどん湿度が上がり、場合によっては結露する。結露するようになると、その分だけ次々と外部から湿気が補給されて、結果として辺りが水浸しとなる。こういう、コンクリートの建物特有の湿気が、梅雨の時期には問題となり易い。対策は、閉め切ること。一階や地下室では、あまり換気しないこと。最近ではエアコンという文明の利器があるから、そんなに気にしなくても良いのかもしれない。エネルギーさえあれば、の、話だけれども。

7 月 9 日、水素の同位体を調べていて仰天した。水素、重水素、三重水素、これでおしまいだと固く信じていたからだ。確かに、普通の意味で化学結合を持てるのは、ここまでなので「同位体は3つ」で全く問題ない。原子核として、準安定(の定義はともかく)であるものを含めると、中性子リッチなものがあと4個は知られていて、合計7個とカウントする場合もあるそうな。但し、寿命が非常に短くて、その4個は電子軌道を考える化学とは無縁の存在だ。核軌道を考えると、それなりに意味があるということだろう。(どっちかというと、負イオンみたいな軌道が広がってるらしい。)そんな物に何の意義があるのか?というと、原子核という環境の下で、それぞれの構成要素に働く力を、より詳しく知る、そんなご利益があるとは思う。それにしても、あの小さい核を、よく調べようと思うモンだなー。

7 月 8 日、今日は有給休暇をいただいた。で、何をしていたかというと、結局は一日中、パソコン端末に張り付いて、書き物など。どういう書き物かというと、結局は論文であったり、物理の解説であったりなので、自宅研修で問題ないといえばないのだけれども、やっぱりオフィスに足を運ばない事には変わりないし、職場で生じるかもしれない緊急事態には対応できないので、休暇ということにした。色々とあちこちで見聞きする所によると、有給休暇というものを取らないというのも、職場のシステムとして一般には良くないのだそうな。つまり、休暇を取ってもいいよ、という条件で職場の設計が行われているから、取ってもよい休暇は取れという論理だ。あるいは、休暇を全く取っていなくて体調でも崩すと、第三者から「休暇も取らさないで」と揶揄されかねないという事かもしれない。物理学の研究者にしてみれば、どうでも良いことなのである。ひとたび、物理というものに触れてしまったが最後、休暇というものは「形だけ」取っていたとしても、頭の中身は常に物理の考察なのである。研究職はブラックであると指摘する方もいらっしゃるけれども、そのブラックさを楽しむのが研究職なのである。... ヤバいこと書きすぎたかも ...

7 月 7 日、七夕である。そういえば、仙台に居た頃には、七夕は旧暦であった。ちょうど、その頃には梅雨も空けて、夜空が綺麗に見えることが多いので、理にかなっている。暦が西洋のものを利用することになった時に、古くからの慣習と、どうすり合わせるか?という事を、どれくらい考えたんだろうか?とも思う。まあ雨が降るのも悪くはない、日本は「全国的に」雨の多い国の一つだ、狭い国土で水が何とかなっているのも、この雨のおかげ。夜空は雨雲の上に。飛行機に乗れば、すぐに見える高度まで上がることができる。星空を想像することを楽しむ、そんな一日でいいかと思う。

7 月 6 日、時間は幾らでもあるように感じるけれども、そうなのかどうか、よくわからないのである。宇宙の時間というものは、限りなく続くと思われていた、おおよそ百年前くらいまでは。宇宙に始まりがある「らしい」という話になって来て、実は過去は有限なのではないか?そういう理論が現代物理では支配的だ。未来はどうかというと、未来を観測する技術は今のところ皆無なので、よくわからないのだけれども、ひょっとすると、有限の未来までしか時間がないのかもしれない。そんな、大枠の時間の中で、生物というものは、おおよそ非常に短い時間だけ生きることを許されている。その中で、楽しむことがまず大切であって、何を残すとかいうのは考えない方が良いのだと、最近は思うのである。周囲の人々が、後々に思い出して笑顔を思い浮かべる、これが理想なのかもしれない。

7 月 5 日、冥王星を手前にして、探査衛星・ニューホライズンズがセーフモードに入ったとか。時間も予算も投入したし、世間の注目も高いわけで、一大事であることは間違いない。それはそうとして、探査衛星が予期しない作動に入ることや、一時的に音信不通になったり、最終的に行方不明になってしまうことは、珍しいことではない。予期せぬ作動が生じた理由をハッキリと把握することが後々のために非常に大切であって、経験は蓄積されて「次の機会」に活かされることになる。なお、科学の実験や観測は、ふつうは「失敗に次ぐ失敗」のあげくの果てに何かが得られるものであって、最近の宇宙探査の成功率 (?) は、我々、地べたで活動している物理学者にとっては驚異的な高さと言っても過言ではないのだ。

7 月 4 日、楽譜は、ネットで掘れば手に入る時代になったのだけれども、今もって、楽譜売り場に時々行くのである。何となく。書棚を整理している人のセンスが出るというか、売れる楽譜がどんな物か知り得るというか、売れなくて陳列されたまま何年も書棚に立ち続ける楽譜を見届けてあげるというか、ともかく観察なのである。今日は、ヴィラロボスの楽譜でも転がってないかどうか、さがしてみたけれども、田舎の楽譜売り場に置いてあることは期待できないし、事実、なかった。バリオスの楽譜がシリーズで並んでいたのは、けっこう驚き。そして、偶然目にした「タンゴ名曲集」というギター編曲楽譜に目が止まってしまった。エル・チョクロの編曲が入っているではないか。これは買い。ネットで掘れば転がっているとは思うけれども、エル・チョクロについて思い起こしてくれた、有難い楽譜である、購入。運指はそんなに難しくないけど、タンゴらしく強弱はっきり、キレよく弾くのは練習しないとダメだな。

7 月 3 日、ナスビは、どう調理すれば美味しいのだろうか。一般には、柔らかくなるまで火を通して提供されることが多い。柔らかければ柔らかいほど良い?まあ、最終的に、どんな味を目指すかにもよりけりだろう。一方で、漬物は生。但し、その場合は塩分により細胞壁の浸透圧バランスを崩して柔らかくしてある。結局、柔らかくないと食えないのか?というと、そうでもない。水ナスは、切ったらそのままタレでも何でもつければ食べられるし、ごくごく小さなナスビは、塩か醤油でも垂らせば漬物のように食べてしまえる。生野菜の特性として、生では大量に食べられない、というか、バリバリ食う気が起きないという事はあるかもしれない。熱湯に一瞬くぐらせて、皮に火を少し通して、中身は生という調理法もある。焼きなすも、この仲間かもしれない。体積があるだけに、色々と楽しめる野菜だ。今日も食べよう。

7 月 2 日、サッカーのオウンゴールの件、イギリスの新聞はどのように報じているんだろうか?と思って、何件か見て回った。日頃から論文を英語で読んでいても、新聞の凝った表現や冗談交じりの文章を前にすると、読解の努力が必要だ。特に、見出しやダイジェストは「何が書いてあるのか、よーわからん」という事も多い。常識も問われるので、バンクーバーとかヒースローへと書いてある地名から、そこにあるものが思い浮かばなければ即刻アウトなのである。ザンコク〜っという表現が多かっただろうか。その辺りは日本の報道と同じような感じ。島国同士、相通じる所もあるんだろうかと思った。それにしても、英語は、チト、勉強し直さないとダメだな、こんなんじゃ、全く歯が立たないや。

7 月 1 日、神戸大学へと「登山」する。10日間も、この登山を行わないと、足がなまってしまって、切れ味よく登れないのである。心肺能力は、そんな急には衰えないようだ。それでも、悪条件と戦いつつ、阪急六甲駅から法学部まで一気に登る。達成感〜な毎日なのである。時間がなくて法学部まで行けない場合には、理学部に直接足を運び、帰る時に法学部まで登ってから阪急六甲へと降りて行く。ともかく、毎日、丘を登るので「毎日登山」と表現しても良いだろう。... と書いてて、一瞬、目の前に別の光景が見えた。頭が睡眠に入って、夢を見ていたのである。時差ぼけとの戦いは、あと何日か続くのである。
5 月と 6 月の1行日記