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4 月30日、教科書を書き換える大発見、という表現を、ときどき新聞で見かける。生物学では、どんどん、そんな発見が続いているようだ。確かに、我々が習った時は「動物・植物」という2分類だったのに、今では「5界説」を標準として学習することになっている。そのうち、また分類が変わって来るんだろうか。目を転じて、物理学の教科書を開くと、実に昔の通りだ。ちょっと変わったのは、クォークとかヒッグズなんていう記述が入った程度。数学はどうだろうか?実は、数学には「教科書を書き換える発見」は、原理的にあり得ないのである。ピタゴラスの定理は、平面幾何学を相手にする限りにおいて、未来永劫ずーっと正しい定理なのである。数学の場合は「教科書に書き加える大発見」しかないのである。その数学にしても、実数という、いや整数にしても、その構造の全貌がよくわからないものを相手にしているのだから、自然科学というのは面白い学問分野だと思う。

4 月29日、今日は祭日。うっかり、論文のプレプリント検索を忘れる所であった。日本は祭日であっても、世界は動いているのである。夜になってから、大慌てで (?!) プレプリントリストに立ち向かう。けっこう、量が増えたなー、そろそろ、自動検索に頼ろうか?という悪魔のささやきが聞こえて来る。いや、まだ「人間の目」というものを信じたい。さーっとタイトルや著者名を目でなぞって行く中に、「これは?!」と、引っかかるものがあるのである。ありがたいことに、最近では、この検索に「漏れ」があると、親切に教えてくれる人が現れて来た。単に、自分の検索能力が落ちて、漏れを頻発しているからかもしれない。ともかく、20 年を超える努力は、いましばらく、続けることになるだろう。後を継いでくれる人は、たぶん、どこにも居ない。

4 月28日、Feynman Lecture の Vol. III の読み会、今日は4ページ進んだ。前回は2ページだったから、倍速になったことになる。大昔は、このような「読会」は、書いてある中身さえ理解していれば良いと考えていたけれども、曲がりなりにも物理学者として働くようになってからは「英文もちゃんと読まないとダメだ」と考えるようになった。物理で飯を食うならば、論文を読み書きして、また研究会などで英語を聞いたり話したりしなければならない。よく、日本の英語教育は英語でのプレゼンがダメだと聞くけれども、そもそも聞いて、読み書きできないものは話せない。言葉というものは、日本語でもそうだけれども、読んだもの、聞こえてきたものから、文意を正しく受け取ることが案外難しいのである。... ということもあって、「読会」では、まず英語で一段落音読してもらってから、その部分に書いてあることを説明してもらう。実は、その音読の様子をみていると、おおよそ、どれくらい理解しているか、把握できるのである。

4 月27日、先週末より、既に何となくゴールデンウィークの風が吹いている。新学期の、クラブ活動の勧誘合戦だとか、講義の履修登録だとか、健康診断だとか、そういった諸行事が一段落したからだろうか。これから先、いよいよ5月6月の勉学一直線の季節、その前に、一休みといった感じだろうか?でも、今週はちゃーんと、月火木金と講義があるのだ、ガンガン行きますよ〜。あ、幾つかの仕事が溜まっている、これを次々と蹴り出して行かなければ。以上、学生のことを書いているようであって、実は自分へのカツ入れなのであった。ゲホゲホ、風邪とは、ボチボチ、付き合いつつ。

4 月26日、たぶん先週の始め頃に感染したのだろう、風邪の諸症状とボチボチ付き合う休日。普段なら、気にならないような散歩中の日差しも、何となく体力を奪って行くような気がする。でもまあ、晴れているし、トボトボとメリケンパークまで行ってみると、サンバの練習をしていた。本番直前なので、衣装まで本番さながら。カメラを構えている人も居たのだけれど、たぶん家族とかお友達でしょう。肖像権放棄している場とは思えないので、君子危うきに近寄らず、早々に海へ向かう。さあ、海だ、写真を撮ろう ... おいおい、岸壁で二人寄り添って昼寝している姿がズラリ、カメラを向けられないではないか。あんな風に昼寝すると、後で日焼けに苦しむんじゃないだろうか?仕方ないので、またトボトボと歩いて、水上警察辺りにやって来る。クラゲが沢山、泳いでいた。プカプカと浮かび、流れに逆らわない。そこに悟りを見出し「散歩欲」を捨てて、帰途についた。

4 月25日、チューリップの季節は、そろそろ終わり。というのは日本の話。オランダとか旅で通り過ぎると「今植えても間に合います」と球根が売ってたりする時期だ。あそこは、パンジーが真夏でも咲いてるような気候なので ... パンジーが多年草とはびっくり ... チューリップが咲く時期も4月半ばから5月半ばと遅いし、けっこう幅があるのだ。一度でいいから、チューリップ花畑を、そんな時期に見てみたいものだと思いつつ今日に至る。新学期に、そんな観光モードで旅するのは難しい。そうそう、春といえばマテ貝も、そろそろ掘れるんだったっけ?あれはウマいんだ、なかなか市場に出てこない貝なのだけれども。

4 月24日、電磁気学の境界条件が、よくわからないのである。3次元トーラス、つまり周期境界条件がかかった宇宙だと、マクスウェル方程式を信じる限り、一様な電場または一様な磁場が全宇宙に満ちている状態は方程式の解なのである ... 少なくとも微分形の範囲内では。一方、そのような場を生み出す(ベクトル)ポテンシャルを考えてみると、一様な場の存在は「連続」という観点からは不都合であることがわかる。ホントにホントに不都合か?と言われると、不連続な(ベクトル)ポテンシャルの継ぎ目が、量子力学的には見えない条件というのもあり得るから、一概には判断できない。結局、ゲージ場で本質的な力学自由度は何なんですか?という、定番の問いかけに戻って来る。これに対する、確たる答えは、誰も持っていない。

4 月23日、新緑の季節。あちこち、緑が吹き出るような感じだ。緑を大切に、と、書くと都会の方々は首を縦にふるかもしれない。神戸は田舎である。緑は、格闘する相手なのだ。ちょっと放置しておくと、空き地という空き地に草が生え、鳥が運んで来た木々の種は芽吹き、ツルははいまわる。もし放置すれば数年でアッという間に藪が出来上がり、10年も経つと桐の大木が空を遮り、そしてカエデやら楠やら松やらクヌギやら、手堅い成長をする木々がだんだんと目立って来る。放置すれば、林に埋もれてしまうのだ。降水量が多い日本ならではの光景だろう。さて、緑は、この次期に刈り払わないといけないことも多い。花を咲かせていたとしても。

4 月22日、飛行機の塗装、色々とあるものだ。成田にやってくるエアタヒチ・ヌイの塗装、鯨みたいでなかなか面白い。ANA の機内誌の後ろの方に、運行している機種の一覧が掲載されていて、現在の普通の塗装を比べて見ることができる。飛行機は大きさも形もマチマチなのに、うまーく同じ印象に映るようデザインされているものだ。その、最後の端、右下の方に、シロナガスクジラが描かれている。この手の冗談は大好きだ。必要な「燃料」の量まで書き込まれているではないか。そのシロナガスクジラをジャンボジェットに描いた、マリンジャンボという飛行機もあったなー。

4 月21日、鍋の表面というものが、よくわからない。この点については、何度か書いたことがある。よく鍋を洗うと、水によく濡れるようになることもあれば、水をはじくようになることもある。完全に油をはいでしまうと、表面の、薄い酸化膜が出てくるはずだ。酸化膜は、ガラスの表面のようなもの。その状態で火にかけると、湯気のような、煙のようなものが表面から立ち上る。鍋が壊れるのを覚悟でもっと火であぶると、煙も出てくる。表面には、いろいろな成分が、潜り込む、しみ込むような形で存在しているのだろう。結局、その、何だかよくわからないものが、我々が目にしている表面なのだ。やがて鍋の表面が酸化した色になる。これ以上加熱しても、酸化が進むことはない。酸化膜が自分で酸素の侵入を防いでしまうようだ。酸化膜の中の酸素はあまり拡散しない ... 仮にそうでなければガラスコーティングなんて無意味か。そして、焼いた鍋肌を水洗いするとか、油を引いたりすると、結局は元の鍋肌に戻ってしまう。表面は、奥が深いなー。

4 月20日、用あって、某地区の朝を歩いている。統一地方選挙、某地区の選挙まっさかりだ。が、私がこれまで見て来た選挙とは全く様子が違う。まずは名前とカラーを覚えてもらうこと、それに尽きるような感じ。そしてポスターがすごい、まるで舞台俳優の公演宣伝ポスターではないか。あるいは、新曲のプロモーション。あれで、マイクを持って歌ったら、芸人そのもの。いやまあ、人の前に出て発言するのだから芸人と議員には共通する要素があるのだけれども、それにしても政治なんだから、訴えから入ってよネ、と、言いたくなる。ま、いいか、自分の選挙区ではない、某都市の某地区のことだから。ほっとこ。(←選挙中でもありますし、こういう場の書き込みなので、かなりボカして書いております。)

4 月19日、宝塚歌劇の俳優がテレビに出てる映像を眺めてて、ハタと思った。老眼鏡みたいに目がパッチリと拡大されて映る「瞳の拡大ディスプレイ」って作れないだろうか?と。確か、どこかの大学で、目を写すディスプレイのメガネが既に作られていた。あれを、目の動きに同期させるわけだ。できれば、自分の目の映像そのままがいい。何に使うのか?というと、文字どおり「貴方を見ています」という、視線送りのため。講義の現場で使いたいなーと。3倍くらいに拡大できるといいな。バレエメークが、だいたい2倍だから、それよりも大きい所を目指すのだ。見てるヨ、そんなメッセージ、後ろの後ろの座席まで、届けたい。

4 月18日、黒人参を調理してみる。名前のとおり、真っ黒である。皮をむくと、黒い汁で指が黒くなる。スープに入れると、黒いスープとなる。味は、普通の人参とはだいぶん違うけれども、人参は人参。どうせ黒くなるんだからと、冷蔵庫からナスビも取り出して、入れる。ますます黒くなる。しばらく火を入れて、黒いスープを賞味する。色は黒いけれども、野菜スープは野菜スープである。今度は、ビートでも買って来て、赤いスープにしてみようか。あれは美味しい。但し、あまり流通していない。芋みたいな形の、セロリの根っこみたいな野菜も、手に入れたいのだけれども、やっぱりなかなか売っていない。ああいう香りは嫌われるのかな〜。

4 月17日、ファインマンの QED のノートを読み始める。これは、正面切った量子電磁力学の教科書ではなくて、ともかく、誰でも、散乱断面積の計算くらいは出来るようになる、そこを目標とした一般の大学院生向け講義録だ。読んでみると、講義一回あたりのノートの分量が、かなり少ない。そのかわり、行間がかなり飛んでいる。講義の現場で、色々と解説して語ったに違いない。そして、文章は口語っぽい文語で記述されている。この辺りが、訳本が出ていない理由の一つかもしれない。(私が知らないだけで、誰かが訳しているかもしれない。)単位系も、この頃は「明示しない」のが常だったようだ。見たらわかるだろう、そんな感じ。いい時代の本だ。

4 月16日、財布の中にある小銭。1円玉を造って発行するのに1円以上の手間賃がかかるという話は、良く聞く。一円玉のアルミ価格は、まあおおよそ3分の1円だとか。この1円玉、時として財布の中に、うじゃうじゃと溜まり込むことがある。せわしい支払いだと、ついつい小銭を出さずに、お札を出しておつりをもらい続けることがある。どんどん財布が、物理的に膨らむ。20円くらい貯まると、財布を開いた時にアルミ色しか見えなくなる。さて、学問としてこの現象に注目するならば、財布の中の1円玉の枚数変化の時系列というのは、ひとつの研究材料になるだろう。どんな分布をしているのだろうか?その枚数変化と、財産や収入の間に相関はあるのだろうか?

4 月15日、どこに住んでいるのかわからない人、生きているのかどうかわからない人、どうやって探しても見つからない人、居ないはずなのに戸籍がある人、ちょっと前に話題になって今も解決していない年金の問題。どうして、そんな事が起きるのだろうか?という疑問を持たれるかもしれない。ちょっと考えると、実は「どうして記載漏れの発生自体が問題になるのだろうか?」と書くべきであることに気づく。わずか数十人の名簿を作ろうとするだけでも、片端から「現実との不一致」が生じてしまう。何百万人にもなるデータならば、なおさらである。「記載と実態をなるべく一致させるように努力しよう」は正しい目標であって、「記載と実態の一致を最後の一人まで確認する」は無理な目標なのだ、そんな数になると。

4 月14日、ゴムは伸ばしたままにすると、すぐにボロボロになる。これはなぜ?ええと、統計力学的に考えると、どうなんだろうか?そもそも、ゴムがゴムとして伸びることは、1次元的な鎖の構造があって、エントロピーを稼ぐために熱的に折り曲げられている描像で説明される。それを強引に伸ばしているということは、その鎖がプッチーンと切れてしまう確率を増すか、あるいは鎖同士が絡んでいる部分がズレて行く確率を増すんじゃないかと邪推できる。そういう「ほころび」が重なると、結局はゴムとしての弾性を失って細く伸びて、最後は応力が集中した部分からブチッと切れる。そんな感じなのかなー。風船もまた、膨らましたままにすると、やがては弾力を失って、裂けてしまう。ちなみに、多数の浮かぶ風船やアドバルーンを手に持ったり、それで浮力を得たりしてはならない。飛ばされる事故が過去に何件も起きている。

4 月13日、金属に対する「安心感」は色々。いちばん無難なのが鉄だろう。中華鍋のような鉄の調理器具は、多かれ少なかれサビを出す。それを食べても、特に実害はないように思う --- 怪しい重金属を含むクズ鉄から作った鉄でも使っていない限りは。銅もまた、まあまあ安心感がある。銅のサビは有毒では?と、思われるかもしれないけれど、まず鉄のようにドンドンサビが出ることはないし、実は銅に含まれてい「た」不純物が毒の原因だったとか。卵焼き器とか、てんぷら鍋などが銅性だ。熱伝導がとても良いので、ヤケドに注意。アルミは、地面に幾らでも存在する元素なので、これもまあ大丈夫だろう … とは思うのだけれども、化学的な安定度は低いので酸性の強いものは調理できないし、溶け込んだアルミを摂取し続けると害があるとも書かれている。こういう事を気にするならば土鍋がいちばん確実なのだろうか?あれも、土だから金属元素は含んでいるはずなのだけれども。

4 月12日、解凍したエビを焼く時、まず背中を開いてドロの詰まった腸を取り、殻を身から離した後に(場合によっては油を塗り)殻に再び包み、オーブンへ。焼きあがったら殻を外して、中身を賞味する。さて殻は?そのまま殻だけを再びオーブンに入れてカリカリになった所で粉砕して、ワインビネガーにでも漬けておくとエビの味がしみ出てくる。漬け込む時間は、一瞬で良いのかもしれない、長く漬けても結果は大差ないので。(拡散現象や化学反応の促進には時間を待つよりも、温度を高くする方が効き目が大きい。)当然、酸っぱいエビ汁になるのだけれども、もともとエビは酸味に良く合うので、何も問題ない。料理に色々と使える。もちろん、これは目の前にエビがどれだけ積まれているかによりけりで、山盛りのエビがあるのであれば身だけ食べて後は捨てるのが正しい調理法である。漁師さんは、いちばん美味しい所しか食べない。

4 月11日、MacOS 10.10.3 にバージョンアップして、Lion 以来の「引っかかり」が少し取れた気がする。MacOS X の中で、いちばん軽かった(ように感じる)のが Snow Leopard だった。その後、iOS との「綱引き」が始まった Lion 以来、メモリーの要求は大きくなるばかりで、あらゆるソフトが奇妙に応答しなくなる瞬間が目立つのであった。もちろんこれは、GUI の操作についての感覚で、コマンドラインの応答という意味ではない。今回のバージョンアップは、応答の速さという点ではかなりの改善があった。何が違うのか観察してみると、実メモリーをかなり残した状態になっている事に気づく。Swap が上手くなったのかな?ともかく、少し古い Mac にも、再び快適さが戻って来たのは目出度いことだ。mail.app が不意に落ちるバグも治っている。よしよし。

4 月10日、このところハマっていること。夏みかんの皮むき。夏みかんは、夏みかん。味は、ハッサクやブンタンに比べると淡白というか、水っぽい。そして果肉も柔らかい。一方で、夏まで持つその皮はぶ厚い。この落差が、夏みかん独特の、皮むきの難しさにつながる。下手をすると、ぐしゃっと角が潰れてしまって、手もベトベトになれば、デザートとして提供することもできない。うまく皮がむけた夏みかんは、スッキリとしていて実にデザート向けなのだけどなー、なかなかハードルが高い。まあ、それでも、グレープフルーツよりはマシか。あれは刃物を使って、ザックリとむくのが定番だけれども、努力すれば、ひとふさずつむける。ただ、表面から農薬なのかワックスなのか、ともかくカスが出てくるので、むく時に、ちょっと気持ち悪い感じはある。何にせよ、国産のものは、安全と盲信するわけではないけれども、生き生きとした農産物が手に入るので、気に入っている。

4 月 9 日、新学期、学生向けのパソコンの設定に取り掛かる。そこで見た、エエッと思う光景が「ハードディスクの中身が空っぽ」というもの。確かに、全部消して卒業しいや、とは指示したけど、OS まで含めて全部消してる。うーん、ある意味、正しい行いではあるのだが、後の手間が半端ではないではないか ... 仕方なく、ネットから落としてやり直し。それはそうと、最近はタッチタイプができる学生が減りつつある。モバイルで書ければいいじゃん?という声も聞こえて来るんだけれども、修士論文とか博士論文、モバイルだけで書けるんだろうか?(うまくすれば、書けるとは思うけれども。)ひところ話題になった、ソフトウェア技術の「継承者消滅」という冗談のような話が、何となく実感できる今日この頃かもしれない。

4 月 8 日、飛行機の、いちばん後ろの座席ってどんなんだろうか?いちばん前は、プレミアムの付いた高価なシートなので、私には縁がない。そこで、いちばん後ろに着目したわけ。さて、今日の便は、737 が 777 に変更という大盤振る舞いで、一番後ろも含めてガラ空き。どっかの便が早々に定員オーバーしたんでしょうね、最終便まで 777 で飛ばしてご苦労様。うまく一番後ろを指定できて、搭乗。右、左にドアと、客室乗務員の座る席。どんな風に、客室乗務員が仕事をしているのか、つぶさに観察することができた。一糸乱れぬ統率の取れた軍隊的な行動、というのが率直な感想。笑顔で客席を往復する姿とは、全く別の仕事ぶりに接して、頭が下がるのみである。

4 月 7 日、さあ新学期だ、物理学の実験も始まる。ここで爆弾発言をしよう。私は有効数字が嫌いだ。まあ、まず、物の長さを物差しで測定する場合から話し始めると、最小目盛りの 0.1 倍までは「目分量」で読み取れる、その事実には首を縦に振る。しかし、2 のものに 1.9〜2.1 くらいの測定誤差があるという場合と、8 のものに 7.9〜8.1 くらいの測定誤差があるという二つの場合を、ともに「2桁の精度」と呼んでしまうことは、便法以外の何物でもない。おおよそ、それくらいの誤差は覚悟しておきなさい、そういう目分量の指針を与えるに過ぎない。もちろん、何の指針もないより、遥かに良い。しかし、この「誤差」の範囲は、物差しの単位をセンチからインチに変えるだけで変わってしまうという、何とも心もとない状況なのだ。やっぱり、統計誤差とか検定について、ちゃんと一度は教えるべきかなー。

4 月 6 日、企画書を練る。そもそも世捨て人の私、何かを背負って企画を練るという経験があまり無いので、今回は学習しつつの作業となる。取りまとめ役というのは、本来、奉仕するのが仕事であって、自ら楽しむという要素は表向きは無いとするのが良いのであろう。但し、どんな作業であっても、楽しみが無いよりは楽しんで事にあたる方が、ずっと効率が良い。そういう訳で、楽しみながらの提案づくり。もちろん、この楽しみが全員で共有できるように、うまい落とし所を見つけないといけない。関西のお笑いは、この辺りの配慮が行き届いていて、安心して見ることができる。着地点をよく見た上で、空中戦を楽しむ、そんな感じだろうか。さて、この企画の着地点はどこにあるのだろうか、実は私も知らなかったりする。アブナイものだ。

4 月 5 日、国内で飛行機を利用する時に、エアバスに遭遇すると「ラッキー」な気分になる。単純に珍しいだけ?いや、ボーイングとは明らかに設計思想が異なっている。旅客機のために造られた飛行機、乗客に快適な空間を提供すること。この辺りにキメの細かい配慮が行き届いていて楽しい。ボーイングの「機長が操縦している」という感じの飛び方も悪くはないのだけれども、スーッと上がって行って、ある時、パッと降下に入ったらそのまま降りる、そのスムーズさは乗っていて安心感がある。また出会えたらいいな、そんなフライトを楽しんで、さて仕事。頑張らないとね。

4 月 4 日、今日は月食の日。天気が悪いので、21時過ぎに飛行機で移動している人でもないと、観測できないかもしれない。月食の「食」は、天体が別の天体によって隠される現象一般を指す言葉で、例えば小惑星が背景の恒星を隠すなんていう現象も「食」である。ヨーロッパの言語では、おおよそ eclipse と綴る。ラテン語を経由する形で、ギリシア語から来た言葉だ。(大昔に語頭の「e」を「へ」と読んだか「エ」と読んだか、もうちょっと調べる余地がある。)さて、その「食」の文字、古文どころか、戦前でも「蝕」の字が使われている。そうか〜、虫が葉を食べるごとく欠けて行くから蝕なんだと、納得。神を「ネ申」と書く真似をすると蝕は「食虫」か。なお、虫の文字も、うじゃうじゃしてる「蟲」があって、「食蟲」と書くのかなーなど、どんどんしょ〜もない方向へ思索を巡らせる、花の土曜日であった。

4 月 3 日、桜の花が、雨で散って側溝に流れている。美しいものだ。一句読もう、「ドブ水も 杯に汲めば 花」、自由律俳句になってしまった。このように雨に流れてしまうのもまた、桜の見所なのだ。但し、ソメイヨシノは散り際が美しくない桜のひとつだと、毎年のように口にする私。若葉が緑色なので、花が終わる頃には、花の色を打ち消してしまうのだ。その点、山桜は葉が赤いので、散った後も桜らしい紅色が残って、段々と緑色になって行く美しさがある。それならば、ポインセチアのように赤い葉の桜をつくれば?と言われそうだ、うまく造ることができれば、桜餅が更に赤くなって目出度いことだろう。そういえば、外国のお客さん曰く「桜の花の香りは強い」のだそうな。あの桜餅のような香りそのものを、とても強く感じるらしい。我々は、慣れ過ぎていて、強い香りとは思わない。不思議なものだ。

4 月 2 日、学内で、クラブ活動の新入生歓迎祭が行われているそうな。昼頃に、少し散歩して眺めて来た。ちょっとソフトイメージなのかなー、というのが見た感じ。だからといって、クラブとして対外的に弱くなっているという訳でもないんじゃいか?というのが、私の推察。昔のクラブ活動は、ともかく「同じ時間を共有する」という濃いものであったので、高い技量・実力があるものの、その「つき合いの濃さ」を嫌ってクラブ活動から去って行った人々がチラホラと居た。曰く「時間の無駄」だそうな。足を引っ張られるくらいなら、自分で楽しんだ方がマシという感覚だったのかもしれない。クラブ活動にしてみれば人材の取りこぼしでもあって、ちょっともったいないなーと、当時思ったものだ。まあ、皆さん、楽しんで下さいな。

4 月 1 日、遠来の来客あり。かねてより問題となっていた相図の確定と、相転移の次数について議論する。そんなもの、簡単にわかるんじゃないかと思われるかもしれない。いや、実は、見かけが簡単な模型でも、相転移が何次なのか、また、どのようなユニヴァーサリティーなのか、その判定は容易ではない。ここが物理というものの難儀なところで、数学的にはユニヴァーサルなものが知られていても、実際に目の前にホイッと出された模型が、その内のどのカテゴリーに入るか、その間を接続する論理というものが「あまり」存在しないのである。結局、今回も、数値計算という馬力に頼って示すこととなった。この場合、充分な状況証拠を集めないとイケナイので、それを整理して論文に落とすという作業に手抜きはできないのである。

3 月31日、ホームページ管理する時、もちょっと正確に言うと web page をいじる時、どういう風に書くか?ということが問題となる。昔からのタグを使って書くか、それとも万能(?)の div タグを使うか。ひとたび div タグの使い方に慣れてしまうと、p とか li とかを使うような場面でも div で済ませてしまうような使い方が増えて来るのである。急進派的に言うならば、見栄えに関しては css に任せてしまって、html ファイルには div タグで囲われた文章や写真のみが含まれている、そういう方向である。じゃあ、完全にそうするか?というと、これまた煮え切らない所があって、ホンの一文字だけ少しスタイルを変えたいような時に、いちいち css を記述するのも何だなーという所もある。ともかく、hyper text って何だ?ということについて、ここいらで見つめ直す時期なのではないだろうか?

3 月30日、4月1日に、パッと新年度になる。この切り替えタイミングが、年々、シビアになって来ているような気がする。4月には、人々の移動や所属の異動もあるので、正月よりも難儀なのだ。昔だったら、前後一週間くらいは「工事中」で何の問題も無かったのだけれども、何もかもが情報を頼りにする時代、4月1日が週末でもなければ、ホントにそこでパッと切り替えないと「あそこ、書き換えまだですね」と、指摘のメールが舞い込んで来ること間違いないのである。そういう事もあって、今日明日で、新年度用のホームページを用意しておいて、ゴソゴソッと年度切り替えの時に入れ替えてしまおうという計画で、作業中なのである。うまく行くかなー?

3 月29日、植物の茎や幹から「新芽」が出る時に、導管や師管がどんな風に新芽に届くように造られるの?と問われて、沈黙。そもそも形成層という、おおよそ2次元的な組織が、どういう仕組みで縦に伸びる細胞の列を造って行くのか、皆目見当もつかない。動物の血管や神経みたいに、にゅーっと (?) 伸びて行くという訳には行かないのだ。植物の精緻な仕組みには、動物とは違った驚きがあるものだと思う。この仕組みもあって、大木が枯れて倒れたような時に、根元から新芽が出てきて再び木になることも珍しくない。特に、桐の木は何度切っても、出て来る。しぶといのだ。

3 月28日、栗林公園へ行く。今日から、夜桜のライトアップなのである。昼間の栗林公園とは、全く違った光景となるのが面白い所。こうして、夜にやって来てみると、なるほどこの場所は、殿様が昼でも夜でも楽しめるように造られていたことがわかる。紫雲山がすぐ後ろにあるので、屋外ながら音響も悪くないような気がする。ついでに、夕日は早い時刻に紫雲山に隠れてしまうので、夜が早くやって来る。香川県では、瀬戸内を東西に吹き抜ける強風が難儀なのだけれど、これも山に遮られる。なるほど、立地がリッチなのだと、納得して、神戸までトンボ帰りして来た。

3 月27日、コンピューター言語の「変化」の速さは、使い道によって色々なのだと思う。ながーい道のりを歩んでいるのが fortran や lisp など、初期の言語で、構造化の概念を入れてみたり、オブジェクト指向になってみたり、開発環境に乗ってみたりと、今となっては他の言語の変化をゆっくり取り込んでいる最中である。一方、と〜っても速いのが html で、ちょっと前(?)に書いたコードが、そろそろサポート切れになろうとしている。誰だ?フレームなんていう、モバイルにとっても何にとっても都合の悪いものを流行らそうとしたのは?そういう訳で、昔の html コードを何とかしよう、とジタバタしていて、気づいたことは「同じみかけのものを1から書いた方が速い」ということ。最初はバリアが高いように思えるのだけれども、結局は css で見栄えをコントロールするのが楽チンなのだ。生産性ゼロの作業だけれども、まあ、仕方ないか。

3 月26日、電車のドアに、Be careful of the door. と書いてあった。あっ、今の今まで忘れていた、be careful to は、最後が to do となる場合なんだったと。現在分詞が来る場合には前置詞を落としても良いのだとか。また、名詞が来る場合には of とか with とか about なんかが付けられて、ニュアンスが異なるのか、ふむふむ。この辺りの、前置詞の使い方の多様さはラテン系の言葉から輸入した英語の表現なんだろうか。ゲルマン系(?)の言葉から格変化が抜けた英語は、そういう意味では、もうラテン系の言葉だと言っても良いのかもしれない。もっとも、動詞の性数変化もほとんど消えてしまったので、主語を文中から抜かすことができない。こういう意味では、現代語と表現するのが適当に思える英語の不思議だ。

3 月25日、道から眺める夕日が綺麗だ。これには理由がある。春分の日の前後は、真西に日が落ちる。大抵の街には、東西方向に道が伸びている場所があるので、道に反射する太陽光が眩しく、またビルの反射なども美しく地面に落ちる。カメラを抱えた、悠々自適の方々を良く見かけた、とても良い天気の夕暮れであった。既に、桜をターゲットとした外国人観光客がドンドン神戸の街にもやって来ている。これは、ある意味正解である。早咲きの桜は、既にアチコチで咲いているし、周囲に咲くものが無い中で、あそこにも、ここにも、と、可憐に咲くので見ていて美しい。ソメイヨシノが一斉に咲く頃になると、葉桜も混ざっていたりして、どうも、華やかではあるのだけれども、ここぞという美しさには欠けるようになるのである。桜は、こっそり咲くのが良い。これ、私の美学。

3 月24日、東京タワー、その魅力は今も褪せない。スカイツリーが出来たので、観光客はそちらに流れているようだけれども、周囲との調和という意味では、東京タワーの方が何枚か上手なのではないか?と思う。勿論これは今の時点での話で、スカイツリーがそこにあれば、その周囲はやがて、調和が取れるように開発されて行くだろう。ともかくも、芝公園辺りから東京タワーを眺めると、絵になるのだ。カメラを抱えた人が何人も、この角度から撮影して行く。なお、周囲との調和という意味では、通天閣を超えるタワーは無いのではないかと、個人的には思っている。あの、独特の、ぶっちゃけて言うとボロっちい姿が、その下のめちゃくちゃな状況にマッチしているのである。もちろん、これらの「最低な」表現は、関西ではホメ言葉なのである。この辺りの感覚は、関東の方には、なかなか理解してもらえない所かもしれない。

3 月23日、東京臨海高速鉄道臨海線、もう一回、トーキョーリンカイコウソクテツドウリンカイラーイン、山手線に乗っていると、この案内に良く遭遇する。関西人には「い〜っと」なりそうに長ったらしいのだ。阪急とか近鉄とかと比べてみい?それはともかく、この東京臨海高速鉄道臨海線、どこに連れて行ってくれる電車か、ずーっと疑問に思っていたのだ。そこで車内の路線図に目を凝らす。ええと、JR 埼京線に直結してて、お台場に通じる第三セクターの路線なのか。新宿や渋谷から海を渡って、いや海を潜って、あんな場所まで直結してたのかー、時間があったら一度、行ってみようかな。

3 月22日、学会期間中は学会に集中する、とは思っても、なにぶん年度末なので、いろいろなことが頭の中にあって、適当に時間配分しなければ、そして適当に内職しなければ、帰ってから死ぬことになる。まずは、ホームページの書き換えという、作業が直ちに目に見える部分から考え始めよう。HTML の考え方も、ずいぶんと変化したものだ。フレームが流行ったり、テーブルで何でもタイル状に表示してみたり。今では、先祖返りというか、HTML 自体はコンテンツの内容か、あるいはそれへのリンクであって、見栄えはスタイルファイルという、少しだけオブジェクト指向的な考え方の芽が入りつつある。もちょっと過激に、サーバーが動的に html を生成するという考え方もあるにはあるんだけれども、サーバーの管理が付いて回るので、常にクラッキングと戦う必要が生じる。何がいいんでしょうねー。あ、あかん、ともかく HTML で作業完了しないと。

3 月21日、早稲田大学という所にやって来る。大きな大学の例に漏れず、早稲田大学もタコ足大学なので、早稲田にあるキャンパスにやって来たと表現しなければならない。地下鉄を出て、さて大学はどちら?学生らしき人について行けば、きっと行き着くだろう、と、人の流れに乗ってボチボチ。やがて鳥居が見えて来た頃、前を行く女子学生のジャージに、学習院と書いてあることに気づく。いけない、このままでは、学習院の、いずれかのキャンパスに行き着いてしまう。そこで周囲を見回し、物理屋らしき人々の流れを「確認」し、そちらに方向を転ずる。何とか無事に、早咲きの桜が咲く早稲田大学に到着。久々の学会、さて今はどんな雰囲気なのかな?

3 月20日、「シミュレーション」という片仮名語がある。わざわざ、片仮名語と書いた理由を説明しよう。この言葉は、日本語的には発音し辛いので「シュミレーション」と発音されることも結構あるし、検索してみても「シュミレーション」が3パーセント程度ヒットする。じゃあ、英語だとどうだろうか? sImulation が正しくて、sUmilation や sHUmilation は 0.01パーセントもヒットしない。どうして、こんな違いがあるのかというと、その原因は「シ」の発音にある。「シミュレーション」と片仮名で書くと、頭が Shi の発音になるので、その直後に mu と続けようとすると、現代日本語(関東標準)では i の母音が吸収されてしまうか、その勢いで後ろにある母音の u が m の前に出てきてしまうわけだ。こんな所にも、日本語の「サ行の混沌」が隠れているのである。

3 月19日、花見が「いま」できる場所はないのか?と尋ねられたら、さてどうしよう?梅の花なら、あちこちで咲いている。スイセンの花だとか、プリムラやパンジーも満開である。いや、花見と聞かれたら、桃の花や梅の花では許してくれないだろう。桜でなければならない。南向きの斜面に山桜が植わっていれば、今の時期に開花している可能性がある。しかし、そこまで行くのが大変だ。もっと近くに、桜が咲いてる場所ないかなーと検索してみると、なんと、散り始めた桜があるんだとか。オカメザクラという、濃いピンク色の花の桜。そういえば、何年か前に見たことがある、植えられたばかりでヒョロリとした桜の木が、とても早く花をつけていた場面を。ポツンと、一本だけ花をつけてる桜というのも、まあ良いか、尋ねられたら勧めてみよう。

3 月18日、Dirac の教科書・原書第4版、有志学生若干名が読破した。彼らが、英文はもちろん物理的な中身まで含めてちゃんと理解していることについては、間近で見ていた私が保証する。繰り返すと、ありがちな「文字だけ読んだバージョンの読破」ではなくて「内容が身についた読破」なのである。(朝長訳の付録を多少はカンニングしたけれども。)さて、我々が手に持っていたのは、みすず書房の第4版だ。ネットには、その増補版が転がっていて、最後の量子電磁力学の章が、特にその終わりの方が若干変更されている。読み比べてみると、増補版の変更部分はちょっと残念だなーという気分になる。Dirac 特有の尖った所が影を潜めて、なんか、白旗揚げたような、あきらめの境地にも似た表現が見受けられるのである。もともとの第4版を書いた時点では、繰り込み理論に、もっと抵抗していた雰囲気があったのだ。こういう変遷を訪ねるのも楽しいから、一度は第1版や第2版も読んでみようかなー。実は第3版が一番良いという人も多いのだ。

3 月17日、自分が齢を重ねている関係か、最近、「若い人」が、かなりの年季を積んでいることに遭遇することが多くなった。若い人だなーと思って年齢を聞いてみたら、今日は39才だという返事が返って来た。もちろん、若いというのは相対的な関係なので、いま述べている「若い」というのは「思っていたよりも年齢が低い」という意味だ。人々が働き始める年齢はマチマチなので、年季というものを単純に年齢では推し量れない部分もある。15才で料理の道に進むと、40になる頃には25年も働いていることになる。一方、「大学院博士課程なんか」まで学び進んでしまうと、40才でも職場経験は10年少し。ここで、まあ、大学院の修士や博士課程を職業経験に入れるかどうかは考えるべきなのだけれども、それらを含めたとしても仕事の経験年数としては短いものとなるだろう。その先、研究者にリタイアがあり得るかどうか、という話は横に置いておこうか。

3 月16日、いつも利用している電車にも、新しい「気づき」があるものだ。例えば阪急三宮駅。3番線に下り電車が入ろうとしている時には、4番線の上り電車が発車できない。どうしてかというと、そもそも3番線4番線は上りの線路に直結しているホームで、そこに下り電車を入れるには、ひとたび上りの線路に下り電車を入れる必要があるから。ターミナル駅には良く見られる運用だ。阪急はそのまま神戸高速に乗り入れてしまうので「ターミナル駅」という感覚に乏しいのだけれども、よくよく見れば今なおターミナル駅といって過言ではない。今日の夕方にダイヤが乱れて「特急が普通の到着を待つ」というヘンテコな場面に遭遇して、この事実に「気づいた」のであった。

3 月15日、スケートのクロスロール、つまり左右の足を踏み出す毎に交差させて進んで行くステップ、これには色々なパターンがあることに気づいた。フリーレッグを大きく振り出すならば、半円を描いている間にクロスすることはできないので、必然的にエッジチェンジする所で足を入れ替えることになる。この時、小さく足を交差させると見ていて綺麗。加速しようと思うと、大きく足が交差するまで内足を蹴るか、あるいは半円を回る間の上下動で弱く加速することになる。もう一つのパターンは、半円の途中で、体が傾いた状態のまま普通にクロスする方法。この場合、加速は強くて、ついでに片足でエッジチェンジする時にも加速できるから、全体的に運動が楽チンとなる。但し、素早い切り替えは無理。バックの時も、同様。さて、これらの選択、どのように実際の演技で使われているんだろうか、スケートを鑑賞する楽しみが増えた。

3 月14日、ディラックの量子力学の教科書、有志学生たちと読み始めて1年と少しになる。論理の進め方、英文での表現方法など、科学の基本が「ゴリゴリと」学べる良い本だと思う。但し、前書きにハッキリと書いてあるように「標準的な学生向けではない」本でもある。量子力学の深い本質を知る、その入り口となる知識を提供してくれるのだ。そんなの、線形代数と測定で尽きてるじゃん?というのが最近の「なんちゃって教科書」の簡便なスタイルなのだけれども、そこに漏れている自然現象との糊付け、すなわち物理の物理である部分が語られている、そんな本の一つがディラックの教科書だ。めでたいことに、もう一回のセミナーで読み終わる所まで来た。最後の最後は「繰り込み」を抜いた量子電磁力学で終わる。若い内に読破したことは、一生の宝として良い、そう言って過言ではないだろう。

3 月13日、バブル〜の足音が〜。そもそも、大学院生の頃、株価が2万円を超えたというニュースが流れたことが驚きであった。それまで、一万チョコチョコの時代が長かったのだ、プラザ合意が爆発的な消費を呼び込むなんて、誰が思っただろうか。それが、アッという間に驚異の4万。その間、生産力が急増したわけではない、そういうことは誰もが知っていた。大学・大学院の卒業生は金の卵となり、就職活動に交通費が出るのは当たり前、どこかの就職セミナーに顔を出すと謝金が出る、そんな享楽の時代。そんなに楽に就職したら、その後、企業も就職した方もひどい目に逢うだろうって?いやー、結構頑張ってるんですよねー、その頃の人々。バブル崩壊した後も会社を支え、いよいよ目処が着いた頃になって、20年も後になって、さあリストラ。それはないだろう?と思って問うと、実に充実した返事が帰って来る。やっぱ、団塊の世代は一味違う。

3 月12日、地図をボーッと眺めていて、厚木飛行場が厚木市には無いことに気づく。まあ大阪国際空港はどっちかというと伊丹にあるし、昔と今は行政区画が異なるから不思議でも何でもないのだけれど、ナゾナゾくらいのネタにはなるな。神戸空港は神戸にあるのか?というのも、ホントは「神戸が見える所にある」とか「神戸の海の上にある」と言った方が正しいのかもしれない。三宮からの距離で測ると、神戸空港は須磨や魚崎までくらい離れている。北に進めば谷上くらい。ちなみに、神戸大学からの距離でいうと、大阪空港までは神戸空港までの2倍の距離。しかし、交通機関利用料は大阪空港への方が安いのである。

3 月11日、教員にも時々、卒業式があったらいいな、と、ポツリと思った。毎年、学生の卒業を間近で眺めて、新しい環境へと向かって行く学生を見送る。一方、教える側はそのまま居残り。まあ教員には異動ということもあるから、退職まで全く移動がないという訳ではない。ただ、異動しようと移動だろうと、行先は教育研究の場。そういう意味では、楽しい休暇は退職してからのものと考えてしまうのも、自然なことかもしれない。ああ眠い、この文章を書きかけて、3回は居眠りしたぞ。

3 月10日、花粉花粉花粉花粉花粉花粉花粉花粉花粉花粉。雨上がりの花粉はめちゃめちゃめちゃめちゃ濃いのであった。ほとんど機能停止。こういう時に限って、花粉を浴びる行動が待ち受けている。元々が広葉樹ばーっかりだった、まあタマに松や杉が生えていたとしても、目立たなかった山々に杉を植え込んだのは誰だ?自然の植生というものに手を入れるとロクなことがない。平地の耕作地というのも自然の状況ではない訳だけれども、こちらは、ながーい歴史の下でゆっくりと開墾されて行ったのだろう。日本地図に「杉駆逐マップ」でも描き込んで、杉林撲滅運動でも始めようか。脱杉林、これが国政の話題になることってあるんだろうか?

3 月 9 日、多くの人々の目をスリ抜けて、妙なものが世に出てしまうことは、珍しくないようだ。今は春だから、春の季節にふさわしく SRING SEASON の話。その、SRING というのがスリ抜けの例で、正しくは SPRING なのだ。そんなの、一目瞭然じゃん?と思うでしょ?長い文章の中に紛れ込んでいると、SRING を SPRING と読んでしまって気づかないのだ。さて、スペルミスはともかくも SPRING は色々な意味があって、英単語としては要注意だ。泉だとか春だとかバネだとか。いずれも、ヒョイと顔を出すような変化が共通していると、その辺りを検索すると説明されている。まあ語源は、よくわからない物が多い。鍋料理に入ってるハルサメ、あれ、どうして春雨なんだ?と聞かれても、答えようがない。別に「夕立」でも何でもいいじゃないか?

3 月 8 日、民族大移動の始まりなのだろうか、夕刻の羽田空港は大混雑であった。どんなに混んでも、第2ターミナルにある4つのゲートのどれか一つくらい、普段は空いているゲートがあるものだ。今日はどこも行列。あ、もちろん VIP 対応のゲートはガラガラ。時折、スッと入って行くのは、いわゆる富裕層なんだろうか、それとも、1分が一般人の1日の稼ぎにも匹敵する要人ビジネスマンなんだろうか。ま、確かなことは、どんな富裕層の人でも、胃袋に入る分量は一般人の倍も無いことだ。ワシは、さぬきうどんの大盛りさえあれば、満足じゃ。さて、空港は学生さんの親子連れが多かったな。受験なのだろうか、それとも合格して、新生活の準備なんだろうか。楽しい未来があることだけは確かだ。

3 月 7 日、雨の日。ホッとする、調子の良い日である。というのも、花粉が飛んでいないから。雨が上がった後も、しばらく曇っているような天気が続くと、なお良い。雨上がりの急な晴れと強風が最悪。そもそも、なぜ花粉が飛びまくるのかというと、明治維新の後から戦中までの時代に山林の伐採が進んだハゲ山に、杉を植えまくったからだと聞く。世の中、何でも急に変えようとすると、おかしな事になるものだ。この時期、北国や離島に旅行する機会があると、実に楽しい。花粉が飛んでいないのだ。残念ながら、今年はそんな機会がない。

3 月 6 日、就職活動解禁の金曜日、あちこちで動きが。卒業生の先輩方も、リクルートで動いているのかしら?(←と、ボカして表現しておきます。)こうやって、大学を訪問してくれる先輩方は、良く覚えていることが多い。講義室に座っていた頃から、周囲や教員とのコミニュケーションが良く取れていた人々だ。下手に目立つわけでもなく、成績が一番というわけでもない、その調和の取れた姿に「人間」つまり人と人の間を感じる、そんな人々だ。就職して社会に出てからも、たぶんそんな感じだったのではないかと思う。もちろん事業というものには「とんがった人」も必要であれば「臆病な人」も居る方が良いこともある。そうは言っても、やっぱり調和の取れたコミニュケーションに美しさを見出す、今日この頃である。

3 月 5 日、仕事場で飲む紅茶の味がイマイチやなー、と思うことがあって、ポットで入れてみたり時間を工夫してみたり、バタバタするも改善なし。茶葉なしで、水だけで飲んでみるか。うっ、マズい。そこで、水はもう、水として購入することにした。水だけで飲んだ結果は、目隠しテストしても容易にわかる違いがある。茶葉を入れてみる。とりあえず、良くなった、ような気がする。良い水を使っているんだ、という心理的バイアスがあるような気もするんだけれども、それで幸せな気分になれるのであれば、お布施を払っておくのも悪くはないような気もする。但し、ガソリンよりも高価な水は遠慮したい。実は、その辺りで百円程度の価格の水も、同じブランドのものを海外で買うと結構高価なのだ。純粋アルコールよりも高価。それでも、売れてるのが、これまた興味深いことだ。

3 月 4 日、ノンビリと文献を読んで、と、思いたいのだけれども、細切れに幾つかの用務をこなすので精一杯であった。3月4月は、人が入れ替わる時期でもあるので、夏休みとは違った忙しさがある。なるほど、企業に「人事部門」というものがあるわけだ。高等教育を担当する教育機関の場合、入試はあるけれども、それをもって「人事」とは呼ばない。これから先、人物を見て、学業の達成度も複数の機会でチェックして、そういう入試が導入され始めると、「スカウト専門部隊」が必要となって来るのだろうか?実際、あの国、この国(と、国名は伏せておくけれど、ごくごく近い国々、)では、大学に面接の専門グループが居て、いつも何らかの活動をしている。そういう仕組みも、導入することになるんだろうかというのが、昨今の雑感。これは、科挙に源を発する、東洋的(?)受験競争とは発想が異なる仕組みだ。どちらにせよ、入った後を担当するのが、現場の教員の勤め。

3 月 3 日、今日はプレプリントの投稿数がメチャ多い。しばらく、旧正月を祝っていた国々から、ドカッと投稿されているに違いない。チェックは今日の場合、1時間ほど。数の割には少ないかもしれない。タイトルなんかを流し読みするだけだから。そういう、人力に頼ったフィルタリングなので、よく、大切な論文を拾い落とす。ありがたいことに、落としたというコメントを連絡してくれる方々もボチボチ現れ始めた。research gate のネットワークのお陰かもしれない。かれこれ20年くらいになる、このプレプリント収集、これからも毎日続けることは間違いないだろう。論文の投稿数が今の10倍になったら、そろそろ考えなければならない。そんな時代が来るんだろうか?そもそも、論文という発表形式は、いつまで続くか、それでさえ定かではない。

3 月 2 日、ブラジルの、大西洋に出っ張った所で研究会があるのだそうな。そこまでのチケットを手配する。最短のアメリカ回りよりも、案外、ヨーロッパ経由の方が連絡が良かったりする。欧州の航空会社は経営統合されている所もあって、そういう場合には行きと帰りで違う航空会社も選択できる。乗り継ぎの都合など、よーく勘案して、行きはA社、帰りはK社とする。さあ、経路も定まった、決済。と、いう所で WEB 画面に、システムエラーとの表示が。指示どおり、オペーレーターに電話する。すると、何でも、帰りのブラジルの国内便のコンファームが出来なかったので、オペレーターが手動で便を確保したとのこと。結構な時間を取って作業してもらった、感謝である。人件費にして、何千円分かは使ったことになるけど、それは先方の負担となる。世の中、感謝するべきことに満ち溢れている、そう感じた。まあ、行き先が行き先だけに、定刻に荷物も揃って到着できるかどうかは、何とも言えない。少々、半日、いや何日か遅れることがあっても気にしない、それくらいの感覚でないとダメかな。

3 月 1 日、諸行事をかいくぐる2週間を何とかやり過ごし、ボロボロ。日が高くなるまで起き上がれず。いや、曇っていたから日は出なかったんだろうか。何とか復活?して、来日する外国人のお客さん向けのプレゼントの品定めに行く。こんなのはどうかなーと、色々と思案する。いつものように鋼の刃物という案も考えはしたのだけれども、色々と過酷な使い方、例えば流しに放置するような使い方も考えられる。こういう場合には、鋼をステンレスで挟んだ物であっても、どんどん錆びが進んでしまうから、どうしたもんかなーと、そんな思案をしつつ、結局は一度、計画の練り直し。そうして、戻って来て、鍋に油を入れて加熱し、粉に水を入れて、小さな「てんぷら屋」風に夕食を作る。何となく、おいしくてんぷらを作る要領が会得できた気がする。
1 月と 2 月の1行日記