← 11 月と12月の1行日記  

10月31日、ちょっと変わった格好で歩いている学生がチラホラ。今日はハロウィンか。先週にパーティー済ませたよ、という話も聞くけれど、せっかくの金曜日なんだから、夕暮れ時にはドンチャン騒ぎしたいのだろう。まああの、ハロウィンに関係ナイヨという方々に迷惑かけないように、うまく楽しんでネ、と祈りつつ眺めて通り過ぎる。さて、その主役であるカボチャは、冬の長いイギリスでは芋に並んで貴重な保存食であったに違いない。表面が緻密で、切る時には本気で立ち向かわないと刃物で大怪我する危険もある。実に印象深い野菜だ。丸のまま買って帰って、料理してみよう。

10月30日、ツワブキの黄色い花が咲いている。花を見ると、あれもキクの仲間だということが良くわかる。毎年、ほぼ同じ場所で同じように花を咲かせる。ちょうどその頃に、ツワブキが咲いている前の斜面に除草が行われて、どこからも見晴らし良く鑑賞できる。まるで、誰かが、そこから海を眺めているような、そんな気になる光景だ。今日は雲がなくて、日差しが強く、気温の割には暖かく感じる1日だった。こういう秋の日は陰影が濃くて、ボロいカメラでもちゃんと写る。さっそく、黄色い花を撮影。しかし、レンズがボロいので、コントラストが出ないのであった。やはり ED レンズにはかなわないな。

10月29日、日没がだいぶん早くなって来た。講義が終わる 16:40 には、もう太陽が低くたなびく雲に隠れてしまっている。今日の日没は、神戸で 17:08 なのだそうな。神戸大学では、冬の間は山影に陽が落ちるので、これよりも随分と早く、陽の光はなくなる。一方で、目前に広がる大阪湾や、対岸の泉佐野などは日没まで紅く染まることがある。その瞬間を狙って、カメラを持ち出して、ぶーらぶらと歩く。が、今日は残念ながら西側が曇りで、瀬戸内海に反射する光は空まで届かなかった。仕方ないから、落ち葉など撮影して、休み時間終了、撤収。

10月28日、箱の底にまず砂をひいて、その上に少し荒い砂利をしいて、もちょっと荒い小石を並べて、次に小さな岩を敷き詰めて、と、だんだんと粒子が荒くなる力学的積層モデルを考える。何となく、どっかで見たような --- MERA と呼ばれる --- 構造してるな、と、ボーッと思う。さて、摩擦が無視できる場合、箱の至る所の面には垂直抗力しか働かないのだけれども、その様子はどうなっているだろうか?どんな圧力分布してるんだろうか?これ、問われても即答できないのである。もともと土の圧力というのが奇怪であることは、よーく知られているけれども、どんどん単純化しても、なかなか直感が届くようにはならないのだ。さ、研究しよ。

10月27日、さて、積み上げておいた幾つもの仕事をどんどん片付けて行かないと。どういうわけか毎月のように出くわす研究会の準備もあるし、季節は進む、冬支度もしなければならない。そしてアッという間に卒業シーズンもやって来るから、そこでドタバタしないように、計画をシッカリと練っておかなければならない。今度は量子化学の方々の前で話をするんだったっけ、そこで食いついてもらえそうな話は、何だろうか?古典統計系のイジングモデルというのでは、良くないだろうと思う。こちらも、じーっくり考えて、現地で臨機応変に対処しなければ。

10月26日、ホットケーキにかける、カラメルシロップ、あれは簡単に作れる。そう思って、和三盆糖に水を加えてやり初めてみると ... ありゃ、水が少なすぎて、カラメルになる前に再結晶化してしまった。グラニュー糖では、あまりこういう事は起きないので油断していた。そこで、グラニュー糖を加えて、再加熱。今度はバッチリ。どれくらい濃い色と香りまで追い込むかは、好みの問題なので自由なのだけれども、今回は甘さを十分に残した甘い仕上げ。そして最後に湯を加えて、出来上がり。この、湯を入れる時点で、常々、溶けた飴の怖さを実感する。お菓子屋さんは、カラメルを作る量が違うから、安全には気配りしてるんだろうな。

10月25日、関西玉翠会総会本番。最後まで裏方に徹するのがプロなんだろう、けれども、私は悟りの無い人間なので、途中、適当に楽しむ。後で振り返ってみると、人々にもう少し声かけしつつ、笑顔が自然に出るような心がけを持っておいたら、更に良かっただろうと反省。そう、悟りが足りないと、後で反省が来るのである。こういう積み重ねで、段々と裏方に徹して楽しめるようになるんだろう。控え室に、そして受付にずーっと張り付いていたスタッフ達には後光が射していたなー。来年からは、しっかり楽しんで運営スタッフにも感謝するぞ!

10月24日、広い部屋で椅子を並べる作業を行う。けっこう難しい。縦の曲がりを直すと横がズレて、横を直すと縦がずれる。何回か、横に縦にと歩いて直して行って、ようやく、まあまあの感じとなる。イベントなどで、椅子を並べる人々は、どうやって揃えて行くのだろうか?広いホールに椅子やテーブルを並べる結婚式場なども、結構苦労しているのではないかと思う。そういえば、広い広場で式典を行う場合なんかは、どうなんだろうか?よく、軍事パレードなどが行き着く先が広い広場で、兵士がバチッと並んでいる写真をみかける。あれも練習に苦労するんだろうな ...>
10月23日、しばらく藤編みの椅子を使って仕事をしていたのだけれども、作業用としては座面の角度に問題があるような気がして来て、完全に水平な座面の椅子に交換してみた。当座のところ感覚的には、まあまあ良い。作業効率がどうなのか?ということについては、実際にしばらくの間いろいろとやってみないと何とも言えない。案外、立って仕事というのも効率的なのかもしれない。例えそれがデスクワークであっても。そもそも、人類進化で椅子に座る作業って、どれくらいの歴史があるんだろうか?

10月22日、朝も夕方も霧雨の関東。傘を使うかどうか、微妙な天気であった。しばらく傘なしで歩いてみて、濡れる度合いと、蒸発して乾燥して行く速さを比べて、傘をささないことにした。大気汚染の酸性雨かどうか?は、チト気になるにはなるのだけれども、昨夜からずーっと霧雨だから、問題となるような成分は大部分落ちてるんじゃないかと、勝手に想像して、多少の霧雨に濡れても良いこととした。霧雨くらいの時には、地面もあまり濡れていないので助かる。実は、トレイルラン用の靴を都会で使っているので、ツルツルな面が濡れていたら、文字通りツルリと滑ってしまうのだ。転倒にまで至ったことは、幸いにも今まではないけれど、怖いことに変わりはない。

10月21日、ブドウの巨峰、皮をむいて食べるとか、粒ごと口に含んで皮だけ出して食べると、重量の半分くらいしか食べられない。皮の部分に、ブドウらしい(?)紫色の成分がたーっぷり入っているし、甘みも皮の辺りが強い。ジュースにしてしまうと、この問題は解決。カラカラになるまで、ブドウを絞ると、濃い赤紫色のジュースとなる。絞り終えた段階で、既に軽くアルコール臭が漂っているような気がするのは、単に気のせいだろうか?そのまま、直ちに飲まないと、実際どんどんアルコール発酵し始めてしまうのだそうな。パンの種づくりの目的などを除いて、1パーセント以上発酵すると酒税法違反だから、そうならない内に飲むべし。

10月20日、顔写真をアップで撮る時には、斜めから寄って近い方の目にピントを合わせよ、という指南を読む。なるほど、オートフォーカスに任せていては良くない理由がここに。ミラーレスを使う場合にも、ファインダーを信頼して、マニュアルフォーカスでパチッと撮らないといけないな。人物を主に考える時には水平線も、あんまり気にしなくていいのか、意図的に傾ける場合も含めて。絵を描く時にも同じこと、マンガをよーく見ると、おおよそ上に書いてあるような人物の描写、コマ割りとなっている。論文を書く時も似てるのかな?焦点をあてる部分には当て、そうでない部分には流れを呼ぶように斜め書きにする。この辺りの感覚を掴むには、自分で論文の構成を「読者の視線を勧請しつつ」考えることが大切だろう。

10月19日、自然を相手にしている自然科学という学問、相手は自然のはずなのだけれども、何か見つけたら、人々に説明しなければならない。いや、その前に、そもそも「何をみつければ面白いのか?」という価値基準を、誰かから学ぶことも多い。もちろん、それらは単に、誰かが面白いと思えば面白いという好みの問題ではなくて、面白さの価値判断は、地道にフォローしつつ読めば、誰にでも共通するものなのである。そうでなければならない。そろそろ何を書いてるのか訳わからなくなって来た。いやいや、これは、論文の書き始めの最初の段落に関係してくることで、客観基準のないものは、論じても無視される可能性が高いのである。ええと、さて、幾つか目の前にある論文、どうやって推敲して行こうか?

10月18日、朝露の正体は? 朝には気温が下がるので、空中湿度が結露して地に降る、まあそんな所だろう … と思ってたら、それだけではないようだ。下草の葉に「水孔」というものがあって、そこから水分を放出する結果、葉に水滴がつくのだそうな。そういえば、ブドウなどの葉にも、水やりの後には水滴が付いていることがある。植物は、どうやって水分のホメオスタシスを保っているのだろうか?という疑問に、半分答えてくれるような仕組みだ。まあ半分だろうか。根があって、気孔があって、水孔があって、光合成もできて、という複雑なシステムの中での釣り合いだけに、そんなに簡単には行かないだろうと、身構えてしまうものだ。本当の所はどうなんだろう?

10月17日、大事な仕事をしている時に、コンピューターの OS をアップデートしてはならない。そういうものは、どうでも良い時に行うのである。と、わかっていても、ついつい。はい、MacOS 10.10 を入れてしまいました。この、10.10 という番号なんだか妙なんですが、11 という番号を付けるには足りないという意味ならば理解可能。ぱっと見が変わってるので、一瞬これは!と思うのだけれども、しばらーく使っていると、慣れてしまって、使用法が変わった所だけが「面倒やなー」という感じで浮かび上がって来る。古いソフトは、だんだんと使えなくなって来たな、これは時の流れなので仕方なし。今のところ、管理している何台かの Mac は無事にアップデート完了。そういう意味では、移行はスムーズだった。

10月16日、会合の準備というのは、こういうものかと思う最近である。研究だと、何かプロジェクトが終了しても、研究そのものが終わるということはない。何かの会合の場合は、終わったら、会合そのものはそれでおしまい。あるのは、準備の長い時間と、本番と、短い撤収と。その後、何かが残って欲しいなーと思ったり、何も残らないのが美しいと思ったり。深く考えると燃え尽きかねないので、世の中そんなもんだと思っておく。またそのうち、違った形で全く関係ない会合のお世話をすることもあるだろう、そういう時のために、今回の経験を活かしたいものだ。

10月15日、Dirac 本の山場にさしかかる。そう、あの、(対称)群の指標が出て来る、魔の章である。群論を先に学んでいれば、ああ量子力学の中に対称性を持ち込もうとしているだけなんだなーと、落ち着いて読めるだろう箇所も、初学者にとっては絶壁のように感じられるのではないだろうか。いや、Dirac は親切に具体例を挙げてくれている。が、それは「魔の章」の後半部分。前半部分で沈没しては、元も子もない。ひとつ厄介なのは、群が既約なのか可約なのか、そういう言葉遣いではなくて非可換であるかどうか、そういう言葉で対称性の構造が述べられているので、単数形やら複数形やら、英文を地道に読んで行かないと思わぬ思い違いをしてしまうことである。アセらず、じっくり。

10月14日、台風が過ぎ去って秋風が吹く。前回の台風で落ちていたのは枝、今回は葉。秋の深まりを感じるのであった。しかし、紅葉はまだ。落ちているのは緑色から黄色の葉。カラカラと音を立てて、吹きだまりに集まって行く。自然の選別でもある。軽い葉はあちらに、重いものはその辺りにと。だいたい、このように適当に吹き寄せられたものは、掃除し難い場所にたまる。隙間すきまに、手を入れ棒を入れ、落ち葉をかき出して、堆肥の材料とする。まあ、都会は知れてるか。田舎に行くと、何十センチも葉が積もる場所もあるとか。

10月13日、台風らしきもの来る。かなーり温帯低気圧っぽい雰囲気もあったけれど、吹き抜ける突風は台風そのもの。さあ、台風が来る前に買い物しておこう、と思って近場をウロウロとしてたら、そもそも開店した形跡のない店、もう閉店している店、あれこれ。スーパーやデパートも、横並びで4時閉店。開けてても商売にならないのは明白か。JR も止まってるしね。神戸では、台風の中心が通り過ぎた後の北風が強かった。アメダスのデータを見ると、六甲おろしが平均風速20メートル。平均でコレだから、突風は30メートル超えてたかも。夜中なのに叫び声らしきものが聞こえて来る。強風時に出歩くとロクなことがないものだ。

10月12日、JR の車内放送で、なになに、台風が接近する予定だとか。予定ねー、予報か予想なんだと思うんですけど、まあ台風さんを擬人化したら予定でもいいか、目くじら立てないでおこう。さて、その台風接近で、気象条件を見極めつつ徐行か運休という「予定」であれば、まあ普通のことなのだけれども、今日の車内アナウンスやら報道発表では、最初から時間を定めて近畿圏で運休すると、断定的にも聞こえる表現での案内であった。近畿圏では私鉄が網の目のように走っているから、だーれも乗らない「空電車」を雨風の中でゴロゴロと動かすくらいなら、サッサと運休するというのも一理あるかも。体力のある私鉄は、ちゃんと電車動かしてましたね。

10月11日、大抵の庭木は、条件の悪い場所に生えている。それは当たり前で、自然界では条件の悪い場所に落ちた種は枯れてしまい、厳しいながらも生育条件にかなった場所だけで成長して行く。一方で庭木というものは、植える人の勝手気ままで、その場所に生えているものなのだ。(←この文章の構成はチトおかしい気がする。)従って、庭木というものは、植えてしまったら管理しなければならない。水をやり、肥料をあげ、剪定して、周囲の風通しも工夫して、あれやこれやと日々お世話。ナマけると、とたんに枯れ枝が出始めて、やがてシューッと勢いなく The end. そういう姿の直前のものを目にすると、思わず世話したくなるけれども、身がもたないから、黙って通り過ぎる。

10月10日、神戸も観光地と言えば観光地、海外からのお客さんもゾロゾロと歩いている。英語のガイドさんも、よく見かける。そろーっと、付かず離れず後をついて行くと、色々と面白いやり取りを耳にすることができる。多くの日本人にとって、例えば歴史上の人物がクリスチャンであるかどうかは、あまり関心のない事項だと思うけれど、大多数がクリスチャンという国からのお客さんにとっては、親近感を覚える材料となるらしい。また、歴史や宗教については、言葉は聞いたことがあっても意味はよくわからないという、そんな単語も少なくはない。菩薩って何じゃ? まあ調べればゾロゾロと文章が出て来るけれども、これまた長い。ここを、うまーく的を得た説明で観光客に納得してもらうのが英語の通訳ガイド。流石だなー。(「そうかい?」と思うような所もあるけれども、短い説明では仕方ないものだ。)

10月 9 日、ノーベル賞が出たら SNS がノーベル賞一色、月食になったら SNS が月食ばかり。確か、SNS というものは、画一的なマスメディアを嫌って発生して来たものではないかと思うのだけれども、結局は何か、支配的な情報に埋め尽くされてしまうのである。思うに「拡散しない SNS」というものが、メールと SNS の間をつなぐ道具として出現しそうな予感がある。既に存在しているかもしれないし、SNS も上手く設定すれば、そんな使い方になるかもしれない。

10月 8 日、集中講義の先生がいらっしゃる。今回は、普段は「いい加減に」何となく理解しているモンテカルロ計算について、専門家に鍛え直してもらえるという、実にありがたい講義内容となっている。世の中、何でもそうだけれども、世界一を目指すには、ちゃーんと基礎から吟味しておく必要があるという、当たり前のことについて再認識した。画期的な進歩も、実は地道な一歩ずつの積み重ねがあってこそ、ふと得られるもののようだ。探索の枝切りがうまく出来る状態になるのだろう、多分。早起きして集中講義を聞いて、ちょっと、いやいや、だいぶん得をした。

10月 7 日、テレビドラマの映像、何気なく見ているけれども、撮影現場を見るとゾゾッとする。カメラと俳優の距離が、ものすごく短いのである。照明やらマイクやら、ぞろぞろぞろーっと人が居る。舞台とは全然違う環境だ。映像として切り取られたもので勝負する、カメラを扱うのだから、写真と似たところがあって当然か。写真の場合は、さらに「時間の一瞬だけを切り取れる」という自由度があって、もう一段、現実離れしたものを撮る余地があるにはある。もっと自由度を求めるならば、映像やめて、講談やら小説やらに … 結局はハートの問題に到達する。論文を書く時も、データの全貌は見せられないので、論拠の芯だけを、読者のハートに届くように、地道に、大胆に執筆するのである。地道に、緻密に、大胆に。

10月 6 日、未明、台風も遠ざかって行くし、やれやれ、と、思った頃になって、突然猛烈な北風が吹き始めた。風の通り道とは、このことか。この風は、昼頃には「ほぼ」おさまったけれども、時々、思い出したような強風が通り抜けて行く。風の息と呼ばれる現象だろうか。そういえば、天気予報が目的で気象シミュレーションを行うときには、このような短時間的な現象は「起きないように」何とか工夫すると聞いたことがある。そうしないと、シミュレーションの結果として得られる大気の状態は、風の息だらけとなるとか。地面に目を移すと、あちこち、枯れ枝やら実をつけた枝やら、色々と落ちている。自然の剪定、風は庭師。なんじゃ?

10月 5 日、写真の印刷には「網点」を使う。もともと、インクというものは白か黒しか出ないので、むかーしむかしは、版画で絵を印刷した。木版だろうとエッチングだろうと、白と黒の間の灰色を出そうと思ったら、白線と黒線を細かく並べて印刷するしかない。この技法は、今でも「おさつ」の印刷に受け継がれている。時代は下って、写真製版が主流になって来ると、うまい工夫を考えた人も居るもので、光の強さに応じてフィルムの上に丸い穴か、あるいインクが乗る丸い領域を点々と作って、灰色を表現できるようになった。点が網のように並んでいるので網点。この技法は、今もプリンターでの印刷やコピーに活かされている。さて、この網点には泣き所もあって、「うすい色のマジックで描いた細かい文字」のようなものは、あまりキチンとは打ち出せない。そういう所は、どうしても目立ってしまうのだけれども、心の中で「目立ってない、目立ってない」と言い続けて、なるべく気にしないようにしてる。でも、目の前にそんな品質のものがあると、やっぱり気になってしまう。うーん。

10月 4 日、とある同窓会の「お世話団」の一員として、準備の打合せに集まる。同窓会なので、集まる時には昔の話もしたい所なのだけれど、3週間後には200名をこえる参加者をお迎えしなければならない、準備は詰めても詰めても、色々と「決めていないこと」が次々と明らかとなるものだ。おおよその事を話し合うと、もうお開きの時間となる。これがまあ、お世話を楽しむモードというものだろうか。昔話を交えての楽しみは、年末まで取っておくことにしよう。

10月 3 日、鉄鍋や鉄板には青黒い酸化膜が必須のものだ、と、ずーっと思い込んでいた。鉄に赤サビが出たものを「放置しておく」と、どんどんサビが進行して行くので、青黒い酸化膜があった方が持ちが良いには良い。ただ、赤サビがチョイと出ても、その場所を毎度丁寧に拭き取っておくと、やがてサビなくなって来る。ホントかどうかは知らないのだけれども、サビる鉄分が赤サビとして抜けてしまったら、表面にニッケルなどの不純物(?)が集まって来てステンレスのようになるとかならないとか。毎日使う包丁の肌が、そんな感じ。また、鉄板焼きの鉄板やら、良く使う中華鍋の底の方なども、同じように「銀色」になっている。そこはもう、ぶ厚い、青黒い酸化膜の無い場所なのだ。そんな、むき出しの鉄(?)で調理したら、サビっぽくなったり、くっついたりしないか?と、以前は心配したものだけれど、答えは No. 至って普通に調理できる。鉄は素晴らしいな、と、思う。

10月 2 日、疑似乱数の発生について、ボチボチ教える。色々な方法があるけれども、やっぱり、無難なのはM系列乱数。線形帰還シフトレジスターとも呼ばれる。ちょっと昔のシンセには、この乱数発生器が搭載されていた。ホワイトノイズを発生させるには、まあ、雑音を拾うという原始的かつ物理的な方法を除けば、最強の方法であったものだ。このノイズっぽい音、最近では電車でよく耳にするなーと思って検索をかけてみると「スペクトラム拡散」とか呼ばれる技法にも、疑似乱数の活躍の場があるようだ。そのまま乱数を持って来ると、稀に(いや頻繁に)0ばっかしとか1ばっかしとか出て来るから、多少の調整はしているのかもしれない。そんなこんな、色々と乱数については語りたいものがあるのだけれども、まあ、短い時間の実習では、そうも行かないか。

10月 1 日、今日から新学期。例年、キンモクセイの香りが強くなる頃に新学期なのだけれども、今年はキンモクセイの方が少し早かったようだ。学生が戻って来て、大学が賑やかになった。さて、昨日から続くテスト製本の話。トンボ付き原稿が印刷できたので、裁断して、製本 ... ここでまた順番を間違った。まずは製本してから裁断すべきなのである。やり直し。日頃行わないことを、いきなり行おうとすると、色々と失敗するものだ。料理と似たような所があるかな?魚のさばき方なんか、どこに骨があるか、経験して知っているのと、知らないのでは、仕上がりに大きな差が出て来るものだ。さ、今日もサンマと勝負しようか??

9 月30日、さあ割り付けも終わった、テスト製本するぞ、テスト製本、まず原稿をプリンターに流し込んで両面印刷して。よしよし、出て来た。... ここで、シッカリとチェックしなかったのが手抜かりであった。ふつうの両面印刷は「長編綴じ」で行う。何枚か印刷して、重ねて左端か右端をホイッとホッチキス止めすると冊子が出来上がる。が、いま印刷しようとしているのは割り付けた原稿だ。まず各ページを半分に折ってからのホッチキス止めとなる。従って、両面印刷は「短編綴じ」で行わなければならない。よし、失敗にクヨクヨせずに、再度トライ! ... あ、トンボまで印刷しないとイケナイのを忘れていた。トンボなき印刷物は、裁断できないのである。トホホ。失敗にクヨクヨせずに、再度トライ ...

9 月29日、今日は朝からエネルギーに乏しいし、ポチポチ歩いて職場に向かおうか。と、ポチポチ歩いていると、女子学生に追い抜かれてしまう。男子学生だろうと、女子学生だろうと、抜かれたものは抜き返すしかない。但し、女子学生の場合、後追いは禁物。ヘンタイと後ろ指を指されるのがオチである。そこで、信号の待ちを上手く利用して、そこで抜いて後は「加速スイッチ(←??)」入れたまま丘の上の校舎まで気を抜かずに登り続ける。なお、日々のことだけれども、抜かれた時ニ「コイツには絶対かなわん」という感触がある場合もある。おおよそ、足が地面を離れる瞬間の蹴りの具合で見当がつくものだ。そういう時には、もう無理しないことにしてる。こういうヒヨった所が、本職の物理研究にも現れているのかもしれない。

9 月28日、印刷原稿のつくり方は色々。雑誌などの場合、大きな紙に、大きな輪転機でドンドン印刷して行って、その後で裁断する。従って、原稿も、何ページにも渡って縦横に並べたようなものになる。少し小規模な、同人誌のような部数になると、A3 の紙に両面印刷して、それを2つに折って冊子にする。この場合、真ん中でホッチキス止めする製本と、折ったものを積んでおいて背をのり付けする製本があって、印刷時のページの並び方が異なって来る。どちらにせよ、原稿を見た時には、ページの順番には「並んでいない」ので、注意が必要だ。製本してみて「あれれー」という事にならないよう、入念に確認しなくてはならない。さあ作業。

9 月26日、今日は中層の雲の流れが速い。上層の天気図はどうなってるかなーと見てみると、何日か前まで大きく蛇行していたジェット気流が、南に広がった形で東西に吹いている。そこにジェット気流があるということは、高度が下がるにつれて、前線っぽい構造が段々と南に延びて行く、そして神戸辺りでは中層の雲、たぶんそんな感じだろう。ずーっと天気図やら、衛星画像やら、そんなデータばかりに目を凝らしていたけれども、やっぱり雲を見ることが気象の入り口、よくよく毎日、目を凝らして見ておこう。ただ、ボーッと眺める青い空に、あんな大気の複雑な構造が隠れているということは、雲が幾重にも見えない限り想像もつかないことだ。飛行機で上空から眺める機会、あれは貴重だ、よくよく勉強させてもらおう、自然の雲に。

9 月25日、トイレットペーパーの話。トイレットペーパーの一端をどこかに固定させておいて「落下実験」を行うと、どんな運動をするのだろうか?まずは真空の場合を考える。ええと、振り子のように振動する可能性は、いちおう排除しておこう。その場合、紙が垂直になるか、それともロールの重心が紙を留めた支点の真下に来るか、この辺りが第一の議論となるだろう。次は、段々とロールが軽くなること、また段々とロールが細くなることに対して、落下加速度がどう影響されるかを考える必要がある。そして、物理屋さんへは、もう一つの質問を。「ロールが獲得した角運動量は、最後は全てロールの芯が受け持つのか?」どうです?なかなか直感では答えられないでしょう???更に空気抵抗だとか、伸びた紙の運動だとか、そもそも加重はどうなってるんやとか、ホンマ、工学に手を出す人は怖いもの知らずだと思う。

9 月24日、共同研究の続き。色々と議論していると、時として、データの扱いに、埋め難い意見の相違が生じる場合がある。今回は、私がデータの品質に満足できないという事例。「そのレベルのクォリティーのもの」に自分の名前を付して世に問うことは(自分的には)不可能であるので、結局、著者から降りることにした。いや、品質がマズいというよりも、データ整理の方法を巡って、どのように見せれば結論に至る道筋をハッキリと主張できるか、そういうプレゼンの選択について意見の相違があったと言っても良いかもしれない。結論としての主張に変わる所はないので、著者に入っとけばいいじゃん?と、思われるかもしれない。いや、そんな事をしていると、結局、行く行くは自分の足元を危うくするのである。どこか「近く」で聞いたような話だけど。

9 月23日、イモムシの話。イモムシ、最初は卵の大きさなのである。小さい。育っている最中も、ごくごく小さい。ところが、終齢幼虫になると、急にググッと大きくなる。この経過では、体重の伸びが指数関数的になっているのではないか?と、ふと思った。脱皮するたびにアゴが大きくなるから、どんどんエサとなる葉っぱを多く食べられるようになるのではないか、そういう単純な考えに基づいての、第一近似的 conjecture である。実際はどうなんだろうな?

9 月22日、包丁の研ぎ方を「間違っていた」ことに気づく。今まで、どうしてもアゴ、つまり手元の部分の刃が「ダレてしまう」現象を防ぐことができなかった。原因は2つ。砥石の平面を保つ努力を怠っていたことと、研ぐ時に柄を強く握っていたこと。柄というのはテコのようなものだから、そこに強い力を入れると、常に刃が曲がった状態で、妙に浮くこととなる。そんなんじゃ、マトモに刃が砥石に当たるはずないよね。これに気づいてから、台所のあらゆる包丁の研ぎが気に入らなくなる。仕方ないから、ボチボチッと研ぎのやり直し。使うたびに、すこしずつ作業して行くのが良いようだ。

9 月21日、蜂蜜を仕入れる。純蜂蜜だそうな。確かに、それっぽい、少し濁った色をしている。どこの蜂蜜か?というと、宇和島のもの。みかん園で採取したものらしい。ネットを叩いて価格を調べてみると、養蜂業者から出荷されるネット価格がキロ三千円くらいから。なにせ重たいものだし、清涼飲料水みたいにバンバン売れるわけでもないので、企画物の対面販売となると、おおよそ倍額になる。ま、そんなもんでしょう。海外のハチミツ、ものすごー安いのがある。ハチミツ採る手間はどこでも一緒なはずなので、この差は経済マジックそのもの。経済って、何なんやろな ...

9 月20日、ピーマンの種、あれ植えるとピーマンができるのか?アホな事を書くな!と言われそうだ、ピーマン種なのだから、何かが生えて来て、ピーマンみたいな実をつけるのが当たり前だから。ただ、市場に出回ってるのは F1 の種だから、そのまま、売っているようなピーマンやパプリカや唐辛子ができるのか?というと、実際に植えてみるまでわからない。この辺りの法律は ... ええと、固定種か F1 か、どっちでも、自分で鉢植えにして楽しむ程度は問題ないようだ。人に苗を配ったり、ピーマンを売ったりしたらアウト。そういえば、世の中に「ど根性ナントカ」という道端に生えてる野菜あるよなー、あの「ど根性大根の種」なんかは、本当に種苗法クリアしてるんだろうか?という疑問がチラホラと。→確認してみると、なるほど、うまく回避してますね。

9 月19日、共同研究をしていると ... という書き物で書くことは毎回同じ。計算の結果として上がって来たデータについて、誰もが納得できる形でグラフにプロットしたものが提示できるかどうか、そこが問題。「計算の結果、収束したんだ」と、データ収集者が主張した場合には、必ず「証拠を示せ」と問いかける。この問いかけに対する応答で、研究者としての資質に、おおよその見当がつく。「もちろん証拠はある、これを見ろ」と、涼しい顔でサラリと追加データを見せる者は、切れ者である。大成すること間違いなし。「めんどくさいなー、収束したんだ、オレを信じろ」という類いの返答が返って来たら、これはもはや科学ではない。後者の事例に遭遇すれば、歯に衣着せずに、足りないものをズバリと指摘する。ただ、どうして「オレを信じろ」ではダメなのか、納得してもらえるように指示しなければならない。これは教育者としての勤めの一つか。

9 月18日、10月の航空券価格を見る。別に、どこかへ渡航する訳ではなくて、お客さんをお迎えするのに、どんな経路があるのか調べてみただけ。往復で 10 万円切ってますねー、燃料代くらいしか出ないんじゃないかと思うくらい、安い。(もちろん、燃料代は別なんですが。)なるほど、「弾丸旅行」という企画が出て来るはずです。チーズがなくなったら?→オランダやスイスまで弾丸旅行で仕入れる→戻って来る。計算してみると、おおよそ、スーツケース一杯にチーズを詰め詰めで戻って来ると、税関の申告も含めて(同じ量のチーズを日本で購入するのと)トントンになります。でも、そんな沢山のチーズ、冷蔵庫に入らない。冷蔵庫をもう一つ買って ... なんて考えると、なるほど、輸入チーズが高価であることも納得が行きます。あ、チーズの話じゃなかった、お客さんをお迎えする話、ええと ...

9 月17日、スペインで仕入れたピーマンの調理方法、オイルタップリかけて、塩かけて、じっくりローストするだけ。... というまでもなく、既に定番か、イタリア料理でも使うもんね。現地で、タパスとして食べた美味しさを、自宅でも再現しようと、やってみると ... 小さく縮んだ。元々の野菜が、あんなに巨大だから、ローストした後でも、ちゃんと食べ応えのある大きさになったのだと気づく。カラーピーマンの栽培から行わないとダメかも。ドライトマトもやってみたいな。

9 月16日、仕入れたチーズを食べる。このチーズ、大きいままラップをして冷蔵庫に入れると、冷蔵庫内の温度差がもとで湿度に偏りが生じて、水気が多い所がカビることがある。毎日よく眺めて、カビが出たら削り取ってしまえば良いのだけれども、面倒なのでパラフィンの付いたまま冷蔵庫に転がしてある。時々、ひっくり返して、底がカビるのを防ぐ。そうこうしている内に、段々と表面が硬くなって来る。冷蔵庫内は、野菜室でもない限り、けっこう乾燥しているので、どんどん水分が抜けて行くのだ。硬くなったら、硬くなったで、それなりに美味しい。(表面のパラフィンを削り落とすのが、少し難儀になる。)けれども、まあ、柔らかい内に食べるに越したことはない。どんどん切って食べるのみ。さて、球根もそろそろ、植えられるようになって来たかな?

9 月15日、機中で日付が変わる。関西空港に到着して飛行機を降りると、隣に目立つ塗装のエアバス A340 が居た。尾翼に花のマークの、エア・タヒチ・ヌイ(タヒチ航空)だ。おお素晴らしい!何年か前に、関西空港から撤退したタヒチ便が、復活したのか!と、実は自宅に帰るまで勘違いしていた。実は、その機体、確かにエア・タヒチ・ヌイのものだし、乗務員も半分くらいがタヒチ航空の乗務員で運行しているのだけれども、実はエアカラン(ニューカレドニア航空)に乗員付きで短期間リースされている機体だったのだ。エア・タヒチ・ヌイ(もどき)に乗って、ニューカレドニアへ。まあ似たような(?)行き先ではあるんだけれども。帰宅したら、そこは勝手知ったる場所 ... のはずなのだけれども、勘が鈍っているというか、自宅のサイズを体が忘れてしまっているというか、ドアを蹴ってみたり、壁に体をぶつけてみたり。スペースシャトルで、宇宙ステーションに向かう飛行士も、帰宅した時にはこんな感じなんだろうか?

9 月14日、空港のホテルで朝食、今回もハモン・セラーノをどんどん食べる。さて空港へ行くと .... 荷物預かりカウンターの前に、人がドドッと居て、ついでに「列になってない」のだ。前の方に、とあるアジアの国からの団体さんが大挙して待っている。それが掃けるまで、後ろの人はカウンターに到達できない ... はずなのだが ... 欧米系の人が来ると、係員がどこからともなく現れて、素通しでカウンターへ案内する。自分の後ろに居たインド人が、業を煮やして突撃しようとするから「おい順番を抜かすな」と声をかける。色々と話したけど、ともかく妙なことになっているのは自明だと、お互いに確認。しばらくすると、段々と後ろに人々が集まって来て、後方では「行列」になって来たので、事態は好転。まあまあの時間を残してチェックインを完了できた。乗り換えのアムステルダム空港では、恒例のチーズを仕入れる。薄くパラフィンをかけてある、お誕生ケーキくらいの大きさのチーズが美味しいのである。結構な重量になる。さあ帰国便へ。

9 月13日、スペインへは、一体、何回やって来たことだろうか?マドリードを訪れる回数が多いので、スペインのイメージは、一言で言うと「カラカラの大地」だ。そうでない場所を訪れると「?」という感じになる。北西の端に近い、アコルーニャへ行った時は、あそこホントにスペインなんだろうか?と思った。湿度たーっぷり、例えて言うならばベルギーやオランダのような感じ、料理も海のものが中心。行き帰りにチョイと1日づつ、旅の道中となるバルセロナもまた、海を感じさせる街だ。以前は神戸に似ていると思ったけれども、どちらかというと横浜に近いだろうか。空気が濃い。日本に帰って、空港を出た時に感じる空気は、どうなんだろうか?と、今から気になるのである。もっと濃いんだろうか???

9 月12日、山道は、登りよりも下りがしんどいものだ。若かりし頃に半月板を痛めて以来、膝を何度も曲げ伸ばしすることは禁物。従って、坂道を下るような時にも、足首のクッションを多用する。当然のことながら、筋力を使うので、下り坂でもどんどん、ふくらはぎなど局所的に疲労蓄積する。但し、全身のエネルギー消費は小さいから、下手をすると冷えた体で、体の一部だけを酷使することになる。まずいなー、という事にならないように、大きな一歩はなるべく小さな一歩に、小さな一歩でも油断のないように降りて行く。ようやく平地に到達、やれやれ、いや、そこここに石ころが転がっているではないか、帰り着くまで用心、用心。

9 月11日、宇宙論というと、宇宙のことだから望遠鏡使って宇宙を見たことのある人ばっかりかというと、どうも、そうではないらしい。幼少の頃に望遠鏡を通して宇宙を見る、そこでハマる人はエラいと思う。実際に見てみると、あれは忍耐の要ることなのだ、パッとのぞいただけでは、ハッキリとは見えないのだ。じーっと目をこらして、神経を集中して、しばらーく待つと、ようやく見えて来るのだ。そんな、回りくどいことをしなくても、最近ではボタン1つで、カメラが天体の方を勝手に向いて、そしてディスプレイに画像が写る。それで満足、ま、そういう楽しみ方もあるか、何事も否定から入ってはいけないな。で、宇宙論の研究者、隣の会議室で、延々と何やら真面目に議論してる模様。

9 月10日、論文に掲載するデータを「フリーハンドで描く」、いや、描こうとするなんて信じられないかもしれない。しかし、共同研究していると、フリーハンドで描いたとしか思えない図表が届くことがある。なんか怪しいな、と、思った時には、根掘り葉掘り、「どうやって、その図を描いたの?」と聞くのである。この作業は怠ってはならない。共同研究者の間で疑念のあるデータというものは、レフリーはもちろん、読者一般にとっても大変な疑義のあるものなので、確認の取れないようなものは世に出せないのである。「なんでそんなこといちいち聞くねん?」と険悪な返事をもらうことも多いのだけれども、物理に私情を挟んではいけない。自らをなるべく透明に。

9 月 9 日、こちらの研究会で会っている人々のうち、何名かは晩秋に神戸で開催される研究会にやって来られるそうな。私は、チョイ用事があって、地元ながら参加できないのだけれども、ともかく、神戸という風光明媚?な場所で国際的な研究会が開催されるのは良いことだ。ところで、しばらく留守にしている神戸の方でも、色々と物事が動きつつある。学振の外国人ポスドクの滞在期間がそろそろ終りになるので、アレコレと考えなければならない。日本人だったら、賃貸物件の契約をひと月重ねて「コストを払った安全策」を取ることができるのだけれども、背景となる慣習が異なる場合には、このコストは説明し辛いものでもある。まあ、そもそも、敷金とか礼金とか、これ、外国人に説明してきた事を思えば、大したことないか?!

9 月 8 日、今週は、会議場でもうひとつ、宇宙論についての研究会が開催される。そこに、なんと、日本人が5名も参加しているのだ。我々、物性側では現在3名の日本人が居るから、合計8名。ひょっとして、これは Benasque 記録なんじゃないだろうか?ついでに、あと3人、日本語が使える外国人が居る。全部で11人か。ちょっと、スキを見て?ちょっかい出しに行こうかな?宇宙論の研究会にも。さて、全部で3週間の滞在も、残りの日数を数えるようになった。なんか寂しい気分もある。そういうわけで、残りの機会を大切にして、美味しいレストランを探しに行くという計画、あれやこれや。いや、滞在している Hotel Ciria ではネットが使えるから、メニューをパソコンで訳しながら、じーっくり選んで食べる方が、結局は美味しいものにありつけるかな?どっちにしても、ともかく、量が多いのだけは、注意しないと。ほんと、日に一食で充分。

9 月 7 日、スペイン滞在2週間経過。だいたい、生活のパターンが固まって来た。最も大きな変化は「日に2食」というもの。朝飯食ったら、少し遅い午後にたーっぷり食べて、それでおしまい。夜は、クッキーをかじって水かコーヒーを飲むくらいでいい。夕食にデカいのを食うと、胃袋が重たくて眠るに眠れないからだ。但し、これは午後に充分なシエスタ時間があるから可能なことで、日本でコレをやると一日を棒に振る。じゃあスペイン人はいつ働いてるんだ?と思われるかもしれないけれど、午後4時くらいから午後9時くらいまで、しっかり働いている。途中でコーヒーに抜ける時間はけっこうあるけど、ON と OFF がハッキリしていて、仕事には集中している、そんな感じ。

9 月 6 日、隣町で昼食を採った後の帰り道、段々と雲行きが怪しくなって来る。みんな物理屋だから、口々に雷について語る。スロービデオで撮ったら、どんな風に雷が進んで行くかとか、落ちるとしたらどんな場所だとか、人々が集まっている所で落ちたら、だれか1人だけがイチコロで、その周囲の人は大抵の場合は怪我で済むとか、物理屋ならではの理屈付けを用意しつつの怖い会話となる。でも、だーれも知らないのである、実際のところ、空気というものがどんな風に電離して行くのかとか、プラズマを含む複雑な流体と電磁気学の関係だとか、そういうものを専門にして来なかったのだから、直感も何もヘッタクレもないのである。従って、物理談義というよりは、物理屋の「にわか知識のぶつけ合い」と言った方がいいか。え?本業と、どこか違う所があるかって?そんなん一緒に決まってるやん!

9 月 5 日、高山に特徴的なこと。いろいろあるけれども、ハエが多いのは万国共通らしい。まず、雪解け水やら雨水やらが豊富にあって、それだけで昆虫にとっては暮らし易い環境となる。次に、草が生えると草食動物がやって来る。ネズミみたいなのもいれば、シカやヤギみたいに大きなのもやって来る。そうすると、こやしを次々と落として行くから、これはもうハエの天国である。従って、夏の間はブンブンブン。すこーし大型のハエなのか、動きが鈍いような気がする。何にでもたかって来るので、コップの水でも油断がならない。あ、そんな事を書いている内に、ネットが落ちた。天気の悪い日には、どっかで落雷・停電となると、容易にネットが落ちる。これも山間の町ならではの現象かも。

9 月 4 日、日本の新聞サイトではテング熱が関心事な模様。こちらスペインでは、新聞の一面はエボラ熱。現地で活動しているスペイン人が居るということで、感心が非常に高いことがわかる。所変われば関心事も違って来るものだ。アメリカで働いている人と食事のテーブルを囲むと、よく出て来る話題が世界中に(?)展開している米軍の関係した政治・軍事の話。なーるほど、アメリカの小学校では、まず世界地図から習い始めて、地元まで段々と細かく見て行くと聞いた事がある、その感覚そのものだ。平和な場所については、何も話題に登らない。あ、これはどこの国でも同じか。

9 月 3 日、お勘定おねがいしまーす、あれ、聞こえたハズなのに、ウェイターさん振り向かない。もういちど声をかけると「会計別々だろう、レジまで歩いて」と。あ、なるほど、某国のグループと同一視されてしまったわけか。国際会議に参加すると、色々な国々のシステムを垣間みることができる。食事のひとつひとつにレシートを取って来いという国もあれば、定額支給の国もある。なので、会計を一緒にとは行かない場合がある。でも、一人一人の勘定を行うのは、そこで働く人にとっては面倒なことだし、オツリもキッチリ出るからチップも期待できない、その辺りの上がりで日銭の稼ぎが違って来るウェイターにとっては「別々に払うなら歩け」は当然のことか。「Junta (会計一緒だよ)」と告げると、「あ、そう」と突然態度をコロッと変えて勘定を持って来た。憎めないオッチャンだ。

9 月 2 日、昼食は、軽くオニオンスープで。ソパデセポラ、と頼むと、顔見知りのウェイトレスがニヤっと笑って「セ・ボ・ヤ」と。あっ、しまったー、スペイン語の、エルが2つの ll は「ヤ」とか「ジャ」と発音するんだった。(単語を縦書きする時には、この ll はくっつけて1文字として扱う。)ついでながら、こっちの人のアイウエオは、母音からして子音のように喉を狭めて発音する。日本語の緩い母音の発音では、声が届かないことがある。そのせいか、お爺さんお婆さんくらいの年代になると、声そのものがハスキーになってる方が多い。思い出してみれば、スペイン映画に出て来る老人は、ダミ声の人が多かったっけ。道行く「男ども」は、本当にドスの効いた声でお互いに叫ぶように名前を呼び合って挨拶する。ここは田舎だからかもね。

9 月 1 日、昨日までと、少し町の雰囲気が違う。そこかしこに観光客がくつろいでいる光景が一変して、どこのテラスもガラガラ。日本でいうと4月1日の雰囲気なんだろうか、こちらの新学期・新学年は今日から始まる。昼間に町を少し散策すると、住んでいる人の気配は充分にあるのだけれども、通りに出歩く人々はチラリ、ホラリ程度。風景の写真撮影には向いているかもしれない。ゼラニウムは、今まさに花盛りで、窓が美しい。夜になっても同じ、喧噪と音楽に満ちていた通りは何処へやら、静寂が支配する閑静な田舎町に戻って行く。この Benasque が再び賑やかになるのは、すぐ上の Cerler のスキー場が始まってから。一度は、冬にも訪れてみたいな。

7 月と 8 月の1行日記