← 5 月と 6 月の1行日記  

4 月30日、Mac の DTP を、できるだけ安価なソフトでこなそう、と色々とジタバタする。Pages は、まあオマケで付いて来たこともあって、時々使ってはいる。断ち切り印刷できるんだろうか?見開きの edit は?お絵描きソフトを使うという手もあるか。ページ毎に違うソフトを使うと見栄えがマチマチになりかねないから、どうしたものか .... と、努力すればするほど、indesign CC にしなさいという内なる声が育って来る。その方が結局は時間も節約できていいんだろうか、うーん。大切なことは、仕上がりが良いということではあるのだけれども。湯水のごとく資金があるならば、いくらでも外注すれば良いのだけれども、得てして貧乏なのが我々の日常。

4 月29日、湿気を含んだ風が南から吹く季節となった。このまま、毎日のように湿気があれば、植物の生育も速いだろう。が、梅雨前の初夏は、場合によっては真夏よりも過酷な乾燥が待ち構えている。うっかりしていると、根の張りの浅い苗が全滅ということも。晴天に要注意なのが、この時期の園芸のポイント。また、急に育つ植物は水分を土からドンドン奪って行くので、芽吹いたばかりの樹木などはジャンジャン水やりしないと、芽がしおれたりもする。冬の間に芽欠きしておかないと、そうなり易いものだ。少し伸びてから切ると、結局は樹勢の無駄遣いになる。ヒコバエなどは、今のうちにガリガリと欠いておこうかな。

4 月28日、粗い、つまり摩擦力のある斜面に四角い物体を置くと、静止した。働く力を書き込みなさい。... そんなの、物理を学んだ人なら、簡単じゃないか! ... と、アホウにしてはいけない。画像検索してみよ、いかに正しい --- 教育的な意味で誤解を招かない --- 図が少ないことか!まず、重力は重心を力点として書き込みたいものだ。「力は作用線上のどこに書いても良い」という説もあって、それはそうなんだけれども、重力は地球との相互作用の結果だと思うならば、物体を構成する原子のそれぞれが力を受け、その合力として重心に働く力だと描くのが良心的だ。問題なのが斜面の抗力。さっきの重力と、同じ作用線上に、真逆の方向に同じ大きさで描くのが正解。できれば、斜面と物体が接している面上に力点を置きたい。重力と抗力の作用線が重なっていないと、物体を回転させるモーメントが生じてしまい、物体は静止していられないはずだ。そんな図は誰も描かないだろう ... なんてタカをくくってはいけない、世の中にゴマンと、そういう図が出回っているのである。どうやったら、そういう「不親切な図」を駆逐できるだろうか ?!

4 月27日、真耶埠頭の辺りを眺めると鯉のぼりが見えるよー、という情報をいただいたので、神戸大学から南西を望む。ええと、ああ、肉眼で見えました見えました、確かにクレーンが立ってて、シシャモみたいに連なった魚が泳いでいる。肉眼だとシシャモなのだけれども、望遠レンズを通してみると実に巨大。普通の鯉のぼりでも充分に大きいのに、更にその数倍の大きさのものが悠々と泳いでいる。こうやって眺めてみると、鯉のぼりにも流体力学的な制約があることに気づく。それは空力と自重の関係。大きな鯉のぼりほど、強度が必要で加重も増えて来る。その増加分に空力の増分が追いつかないので、大きくなるほど強い風が必要となるわけだ。... と、ここまで書いた時点で、妙なキーワードが頭に浮かんだ。「超音速こいのぼり」である。これはオリジナルではないな、きっと何処かで耳にしたことがある、ええと、検索すると F-100 だとか Mig-15 などが引っかかって来る。なるほどね。

4 月26日、研究室とは何か?と問われると「何でもない」というのが正しい答えだと思う、少なくとも「私が噛んでいるような」理論物理学の分野では。そこに出入りする人々が、それぞれ違った技を持っていて、しかし少しづつは共通の言葉や認識を持っている、そんな感じだろうか。そこへ新たに加わるようになったら、まずは周囲が何をしているのか、日頃のセミナーや研究発表の機会を通じて、少しずつ吸収して行く。いや、見ている内に覚えて行く。何かを教えてもらうというよりは、見て覚えるか、自分で考えて工夫するか、あるいは自習する。自分で何か頭を使わない限り、何も前進しない、そこに気づくことができれば、研究室に所属した甲斐があったと言って良いであろう。

4 月25日、今日は、量子力学の出発点にたどりついた。ケットの時間発展方程式。4月の内に、ここまで到達できて良かった。シュレディンガー方程式を使うと、どうしても離散自由度の問題では「波動関数って何」という疑問に沈没しがちなのである、初学者の場合。そこで、ゴリゴリのガリガリ、最初からブラとケットの1カ月であった。ここから先は、かなり何でも余裕を持って説明できる、はずである。飛び石のゴールデンウィークは、講義の進め方を練り直すのに使おうかな。

4 月24日、最先端の研究をするには、今までに習って来たことが充分に身についていなければならない。ちゃんと勉強しておくんだヨ。... ウソである。人類が手にしている知識なんか、自然の奥深さに比べたら、幼稚で雑多なものに過ぎないのである。そんな薄い薄い知識をもって自然に立ち向かって研究しているのであるから、持ち合わせている知識が疎末であったとしても、それに臆することはなく「それぞれの」最先端を目指すべきなのである。物理学の分野で、いや理学一般でそうだろうか、大学で学ぶのは細々とした知識の集合ではなくて、「必要になった時に、どうやって必要な知識をカキ集めて来るか」という方法を会得することに重点があるような気がする。その一環で、他者との接触が生まれ、discussion が生じる。こうなればシメたものだ。すぐに何かを得るだろう。その先は「カキ集めたものと、自らの寄与を区別して話す」ことの訓練だ。こういう経緯をもって、グローバルな人間教育だと公言するべきだと思うのだけれど、どうなんだろうかなー?

4 月23日、「林の飛行場」には YS-11 が飛んで来ていた。林の飛行場?それは、今の場所に移転する前の、昔の高松空港の通称名。いつの時代の話やねん?と言われそうだ。記憶に残る YS-11 は全日空の「水色の」塗装のものと、東亜国内航空の「赤と緑」の塗装のもの。特に水色の方が強く印象に残っている。神戸空港に、時々、この水色の塗装をした B767 便がやって来る。ジェット機の垂直尾翼に、ダビンチのヘリコプターの絵が描かれているのである、懐かしいなー、昔もこんなのだったなー、と。YS-11 は細身の飛行機だったから、ズングリした B767 にそのまま塗装すると印象が変わるような気がするのだけれど、うまく昔のイメージを引き継いでいる。塗装が昔のだと、何となく中身も古いような気がするから不思議だ。

4 月22日、同業者がアルゼンチンとブラジルに居る。訪ねてみたいものだけれども、どう接続しても旅だけで2日仕事なのである。そんなこともあって、なかなか相互の行き来は実現しないのである。今まではヨーロッパで会うのが関の山であった。そろそろ本気で考えてみようか、ええと、まずは、アムステルダムに飛ぶのかなー、世界一周チケットだったら、そこからアムステルダムに飛んで …. あ、それでは太平洋回りで戻って来ることになるではないか。うむ、ちょっと冷静になろう、そこまで苦労して手に入れるものが何であるか、よーく考えてから、交流計画を立てなければならない。時間はあるから、シミュレーションを重ねておこう。

4 月21日、京都の和菓子と神戸の洋菓子は、どうも土産物にならないのである。大抵、行く先々のデパートで売っている。バウムクーヘンのような、手のかかるものでも、どういうわけかアチコチで販売されているのである。まあ、売れる物は製造される、これ経済原則。従って神戸から何か手みやげを、と思ったら、マイナーな道に走らなければならない。神戸のお菓子屋さんも心得たもので「神戸限定商品」というものを、ちゃんと造っている。但し、受け取る側が、その意義を理解してくれるかどうかまでは推測しかねるのである。そんなこんなもあって、ありがちなのが生菓子で生計を立てているような、小さなお菓子屋さんで、副業の(?)焼き菓子を仕入れて、珍しい(?)土産とすることが多い。さあ、今度もあの店で仕入れようか?と思って訪ねてみると、潰れていたり移転していたり。自営業は厳しいものだ。

4 月20日、ブドウの病気、べと病はなかなか手強い。葉の裏側に白いカビが生えて、生育を阻害してしまう。タチが悪いことに、これはけっこう伝染し易い病気で、ひとつかかると、隣の株にも。ついでに、完全に樹を枯らすこともないという、何とも言えない意地きたないシブトさも持ち合わせている。これを防除するには、1に薬剤散布、2に土壌の改善。その薬剤散布の頻度がこれまた短く、なかなか片手間仕事とは行かないし近隣の迷惑もある。要するに、この病気にかかり難い品種を育てなさいということだろうか?昔はどうやってたんだろうか?もっとまばらに栽培していたのだろうか?それとも品種を色々と混ぜて、ひとつ枯れても隣が残る、そんな農法だったんだろうか?色々と考えるのである。

4 月19日、新聞報道に GM という用語がチラホラと出ている。船舶の重心 G と言われると、まあ物理を知る人なら誰でも容易に想像はつくのだけれど、もうひとつ「メタセンター」なる概念があるということを初めて知った。これは(工学というものが常にそうであるように)良く出来た近似的な考え方で、実験的にも掴み易いし、物理屋という素人の目から見ても判り易いものだ。この間の距離が縮まると転覆し易くなるわけか。ちなみに、これは停泊している時のバランスで、航行している場合は動力学も考えなければならない。水中翼船の類いの場合、速度が適切である限り、安定性は負でも良いという考え方もある。航空機にもそんなのあったな、人かコンピューターが制御してないと、すぐに墜落してしまうという不安定なやつが。そうそう、思い出した思い出した、それは大学生の頃、音楽クラブの友達と合宿中に湖でボート遊びしたっけ、仲間の1人がスクッと立ち上がって、小舟があわや転覆という所まで一瞬傾いた、あれは危なかったな。

4 月18日、水道水をガラスに垂らして、ジーッと待つと、やがて乾燥して跡が残る。これは、色々な場所でやってみると面白いものだ。真っ白に石灰が出る地域や国々もあれば、塩が出て来る所もある。また、ビルによっては貯水槽でサビを防ぐ薬物を投入していることがあって、それが原因で析出物が増えているのでは?と思える場合もある。簡単に条件を揃えて、全国的にうまーく実験の輪を広げて行く方法はないものかと思案中。それはそうと、研究室にある湯沸かしポットは、ずーっと水を投入しているばかりなので、底の方に見事な結晶の層が出来ている。この状態では加熱効率が悪くなるとも言われているけれど、ホントかどうかは知らない。この結晶は、析出したものだから、(目立った量が)湯に溶けて戻って来ることはない。主成分は、ええと、炭酸カルシウムだったっけ、まあ少量食っても無害だ。他にアブナイ成分が混ざっていなければ。

4 月17日、修学旅行生を乗せた船が沈む、そう聞いて紫雲丸の名が浮かんで来るのは、高松の人々であり岡山の人々であろう。宇高連絡船が濃霧の中、沈没したのだ。当時の写真を見ると、沈没しかかった船の周囲が、人だらけになっている。それだけの人が乗っていて、また周囲から駆けつけたのだ。それでも数多くの犠牲者が出た。昨日、韓国の船が沈没した、同じように高校生を多数乗せて。韓国の新聞やテレビを見ると、周囲から民間・軍用を含めて船舶や航空機が集結して救助に当たっている場面が数多く掲載されていた。どちらの場合も、これだけの人員が集まれる、その体制を維持するのは大変なことだろうと思った。

4 月16日、私の専門は理論物理学、その看板にはデカデカと「数値計算による物理解析の専門家」と書いてある、はずなのだ。しかしこの看板、なかなか引き継いでくれる人が、(距離的な意味で)身近には居ないのである。理論物理学というと、やっぱり数式と格闘してナンボのモンや、という認識が一般的にあるだろうし、確かに数学を疎かにしてはいけない。しかしながら、その数式が及ばない所、例えば単純に(?!)コップの中の水の運動でも、実験に並んで数値解析は豊富かつ重要なデータを提供してくれる。物理というのは「ひとつの学問」なのだから、理論屋さんが、ある日突然、コップの水に光を当てて実験始めてもおかしくないハズなのである。おなじく、数式ゴリゴリいじった上で、何らかの仮説が立ったら、サッサとシミュレーションで確かめてみる、これも実に自然な流れだ。海の向こうからは、計算技術教えてくれ、そういうメールが届くんだが ...

4 月15日、なんだか、半年先、一年先、一年半先の予定を今の時期に見ることが続いている。カレンダーがドンドン埋まって行くこと、良い悪いと感慨を持つまでもなく、ともかく日々の営みが続くという仮定の下で、埋まる予定は入れる。まあ我々の予定というのはノンビリしているんだろうな、議員さんなんか1日に両手の指よりも多いスケジュールが入ってたりするそうだ、少なくとも本人にとっては滅私奉公以外の何者でもないだろう。もちろん、突発的なことは必ず生じるので、その際には予定の組み直しとなる。少しは余裕を見ておかないと、修羅場と化すこと間違いなし。週末だけは、とりあえず空けておこう。もう既に、そこが仕事で埋まりそうな予感がある。研究は、歩きながらするか?

4 月14日、パソコンの性能がどんどん向上して、さて今問題となるのは何か?というと、それは静けさだと思う。思い出してみると、パソコンが入って来る前の研究室というのは静かなものだった。なーんにも音がしない。ノートに鉛筆を走らせると、カリカリと音が響くくらい静かだった。現在はというと、ファンの音がずーっと何処かから聞こえて来る。あるいは、ハードディスクのカリカリという音。ディスクは、少なくとも小容量の場合には固体記憶装置に置き換わりつつあるから、主な問題はファンの音だろうか?プリンターも、仕組み上仕方が無いとは言え、インクジェットにしてもレーザーにしてもウルサイには変わりない。... いま、古いパソコンのメンテ中で、ブンブンブンと音を聞きながらの執筆。

4 月13日、石器時代に、刃として使われていた石に、チャートという硬い堆積岩や、瓦の代わりにも使われる、薄く割れるスレートなどがある。刃を磨いて切れるように工夫したのが磨製石器。磨いたということは、何らかの意味で砥石を使ったということだ。同じ質の石で研いだのか、それともより硬い石で研いだのか、興味津々。これらの、泥が混ざったような堆積岩は、青銅や鉄などの金属が出現した後も砥石として長く使われて来た。(もっと目の粗い砂岩なども使われた。)さて現在では、硬い砥石を人工的に造ることができるので、これら「天然砥石」はあまり採掘されなくなった。結果として、希少となった天然砥石は価格が上昇している。こういう現象を目の当たりにして、密かに思うのである。砥石になる堆積岩は、場所が知られていないだけで、地球上のあらゆる場所に眠っているのだと。探しに行こうかな?

4 月12日、研究ノートが何年間かで「たったの2冊」という話題、ええと、私の研究ノートは … ゼロである。理論屋にも色々なタイプの研究者が居ると思う。ノートつける人も、つけない人も、まあ色々ではないだろうか。昔だったら、頭に入れておけない長い計算は紙に書いて、ときどきファイルに綴じてという作業は必須だった訳だけれども、今は数式も LaTeX で書いてしまうか、あるいは数式処理ソフトで書き下してしまうか。最初は手間がかかるけれども、再利用のことを考えると、ソフトに詰め込んでおく方が後々都合が良いし、論文にも使い回しが効く。有り難い事に、「博士論文と同じ数式が、最新の出版論文に載っている」という事があっても全く問題はない。ついでながら、理論物理学で「ねつ造」というのは、あまり聞いたことが無いのである。論拠に乏しい主張というのは頻繁に目にするけれども、そういうものはどの道 reject されるから、まあ気にとめない。

4 月11日、今年もやります、量子力学の講義。この講義を受け持った頃は、古典力学の考え方から、なるべく自然に量子力学へと入れるよう、色々と工夫しようという気があって、あれこれ試みてみた。しかし実のところ、それは学習効果の向上にはつながらない、ということが薄々判って来た。そこで去年はガンガン進む方針に変更してみた。最初からブラケットで行きますよーと。余分なことが落とせて、後半のややこしい部分に説明時間を費やすことができた。この方法のマズい所はというと、しばらくの間は内積の計算ばーっかり出て来て、物理との対応を議論している暇がないこと。スキを見て、Feynmann を見習って、物理に触れて行かなければ。で、夕刻から通常業務に復帰。あれこれと新学期の雑務をこなすと、もう日付変更線手前なのである。バタンキュー。

4 月10日、携帯電話で動画撮影できる。手に石でも持って、静かに手を離す動画を撮影して、パソコンに転送する。画面の中に、大きさの標準となるものがあれば、なお良い。これを画面上で大写しにして、コマ送り再生する。物差しでも使うと、物体がどこに居るか、だいたいわかる。画像がボケて写るじゃないか?と文句いわれそうだけれども、そういう時には、まず縦に伸びてボケた画像のド真ん中を「物体の位置」として測るのである。そうすると、自由落下のダイナミクスが、数値データとして得られる。コマ送りの時間は30分の1秒だ。ここから平均速度を出して、等加速運動というものを理解して行くわけだ。実は、縦に伸びてボケた長さに「等加速」が表れている訳だけれども、最初からソレをバラすのは教育的ではない、と思う。なお、画像のデータ解析において、レンズがボロいと画像に「ゆがみ」が生じる。これが影響を与えないように、白紙に横線を何本も書いたものを、予め背景に置いておく方が良いし、撮影も、なるべく水平に行う方が良い。

4 月 9 日、「記者会見」が行われたそうで、アチコチから SNS メッセージが飛んで来るから、チラリとビデオを見た。あら、画面の右下に「フラッシュにご注意下さい」とある。凄いフラッシュの嵐であった、あの写真の出来映えはどうだったのだろうか?というのが、今日の主な関心事。室内なので撮影条件は悪い。フラッシュ焚けばいいじゃん?と思われるかもしれないけれど、影はできるし、不自然に平面的な写真になるし、大抵はロクなことがない。夕方頃になると、「厳選」した写真が新聞各社から上がり始めた。おお、素晴らしい、うまーく前景のボケを使ってみたり、敢えてフラッシュを焚かずに他人のフラッシュを斜めから捉えていたり、記事に合う様な瞬間を切り出して来たり。ちなみに、悔し涙を被写体にしての撮影って、素人的には滅多にないことなのである、職業カメラマンさん達って凄いなー、のひとこと。

4 月 8 日、桜が舞う。神戸大学は、少し標高の高い場所にあるので、今が満開から花吹雪。今年は、ちょうど入学式の頃にパッと華やかになった、週末の花冷えが開花期間を伸ばしてくれたようだ。ともかくこの時期、予期せぬ時間帯に予期せぬ場所で新入生が「団子」になっている場面に遭遇する。手続きの窓口であったり、オリエンテーションであったり、健康診断であったり、単に(かなり時間的に早い)昼食の食堂前だったり。どこかにボトルネックができると、そこに人が詰まって行くということらしい。さて当方は、金曜日から講義開始。前期は何かと長丁場である、過労にならないよう注意しながらボチボチと進めて行こう。

4 月 7 日、マウスの電池残量が僅少、という表示がずーっと3日間くらい出っぱなしなのである。僅少なんだったら、バタンと落ちそうなものだけれども、最後の粘りがなかなか強い、ええと、電池の販売元は国内の有名な家電メーカーで、種類はアルカリ電池。画面表示の警告には「すぐに電池を交換するか、充電してください」とある。そんなん、落ちるまで交換するはずないやん?充電は微妙なところ。検索してみると、アルカリ電池の充電器というものが転がっているんですねー、確かに、少しは充電できる。あくまでも自己責任だけれども。統計力学的に考えると、逆過程があって当然。但し、その結果として「元の状態に戻る」かどうかは何とも言えない。似て非なる状態なのかもしれない。マウスに使う分には「たぶん」問題ないのだけれども、事故った時に液漏れ等で起こる被害と天秤にかけてでも充電するか?と言われると、何とも。ホントは、マウスを動かすくらいの微弱な力学的エネルギーで電子回路が作動すれば、何の問題も無いんですけどね。

4 月 6 日、糖度の高い生地は膨らまない、という事がわかっていて、糖度を上げた生地を作って膨らまない。こういう時にはクッキーにするのが良い、油脂と重曹を加えて練り直し、焼く。うっかり、分厚く作ってしまって、中が半生状態になったので、半分に割って焼き直す。ドタバタしたけれども、まあ出来上がりはクッキー。強力粉で作ってあるけれども、硬く焼いてしまえばグルテンがあっても無くても同じ食感になる。強力粉を使う必要あったのか?と言われそうだけれども、まあ、自分で焼くクッキーなんて安いものだ。「お米が無かったら、クッキーを食べれば良いじゃない?」という冗談は充分に通じる。自宅で作る限り、カロリー単価はクッキーの方が安い。まあ、どうしてこうなるのか?という話をすると、国防にまで話が飛ぶから、深くは考えないでおこう。

4 月 5 日、天ぷら屋さんに、小魚をさばくのに必要な時間を聞いてみたら、1分はかけられないとのこと。何十人分もの魚を、何種類もさばくには「ただ無心に」流れ作業のように魚を扱うのだそうな。それだけの数を毎日のようにこなしたら、いやでも上手にさばけるようになるとか。しばらく揚げると油を取り替えるのが大切なことのようで、揚げる鍋から香ばしい香りが漂ってきたら、料理人さんはサッサと鍋を奥に引き揚げて、新しい鍋を持って来た。家庭では、大量に油を扱うことは難しいでしょうとの事。案外、浅い鍋で揚げていたのが印象的だった。こういう軽い天ぷらには塩が良く合う。あまり使わない天つゆについて問うてみると、「ご飯物には良く合います」という返事であった、なるほど、それで天丼なのか。また、今度いろいろと教えてもらおう。

4 月 4 日、けっこう長い間、そう、かれこれ20年はスペインの研究者達と交流が続いている。でも、ずーっと、スペイン語には触れないでいた。大学で習った第二外国語はフランス語だから、スペイン語も近いはずなのだけれども、何となく距離を置いていた。でも、勿体ないことだなーと思い始めた。この先も、ボチボチ交流は続くだろうし訪問することもあるだろう、そういう事を考えると、そろそろ自習なり習いに行くなり、ともかくも与えられた機会を使って修得できるものは修得する、50の手習いとは、こういう心境だろうというのがわかって来た。ええと、まずは本屋さんへ行って、スペイン語講座のテキストを買って来て、ゴソゴソと読む。語彙がフランス語とは結構違うなー、というのがパッと見た感じ。

4 月 3 日、たまーに朝早くから出て行くと、ラッシュアワーに遭遇する。そこで、普通は混まない不便なホームの端まで歩いて行く。それで何とかなるか、と思っていたら、電車がしばらく止まっていたとのアナウンス。ホームはどこまでも人であふれている。あーあ、端の車両まですし詰めだー。日頃、六甲山で鍛えた足腰で踏ん張る。ドアが開くと、どどどどどーっと人波に乗る感じで押し出され、途中で車両とホームの間に足を突っ込みそうになる。なるほど、よくこの手の事故が報道されるはずだ。それにしてもよ、こんなに詰め込んで管理できる動物って人間くらいじゃないか?オモチャの電車に、マウスをすし詰めにするとか、遊園地の電車にサルを詰め込めるだけ詰め込んでみよ、何が起きるかは目に見えている。結論:人間は最も劣悪な環境に耐え得る動物である。

4 月 2 日、最近よく見て回るのがハチミツ。激烈に甘くて、もういいよと言いたくなるほど濃くて、薄く濁ってアッチが見えないのが、採ったそのままの蜂蜜。少しだけ温度を上げてろ過すると透明にはなるけれども、それでもすぐに糖の結晶ができて不透明になる。これが純蜂蜜。ブレンドしていないものが、なかなか個性があって良い。森の蜂蜜とか、甘露密というものもある。これも、なかなか美味しい。なにせ、蜂が森の中を飛び回ってペロリとなめるのが、アブラムシ。まあね、ハチミツだってハチのプレゼントだからね、大差ないかな。確かに、アブラムシが居る所には甘い蜜の霧ができて、周囲がベトベトになる。蜂の巣箱の前に砂糖水を置いておくと、砂糖原料の蜂蜜もできるらしい。確かに、蜂蜜だ、蜂が集めたら。で、まあ、それぞれ楽しめば良いのだと思うけれども、お目当ては純蜂蜜。あちこち、回って買い求めようかな。

4 月 1 日、こども達の話には、時として、いやいやい、いつ見ても面白い発想がある。札束から空から降って来たらなーという、願い事のような文句を目にして、うーん、しばらく考え込んだ。世界中を見渡すと、それに近いことをジャンジャンやった人は歴史上数知れず。最近の日本もそうなのではないか?と思わなくもない。結局は「お金の希少性」が減じられるだけ ― その過程に潤滑油的効果があるかどうかは議論があるけれども。経済学からサイエンスに目を転じると、鉄の塊は空から降って来ることがある。隕鉄と呼ばれる隕石だ。鉄は希ではない元素だから、どうせならば金が降って来て欲しいものだ。聞く所によると、金として精製されたものは世界中にプール何杯分かしかないのだとか。とすると、デッカイ金の隕石がひとつ降って来たら? ... 結局は「金(きん)の希少性」が失われるだけか。ああ、また経済の話に戻ってしまった。

3 月31日、ガサガサ、ゴソゴソ、机の配置換えなどが行われている。卒業生が去って、机がいくつか空いたこの瞬間が「玉突きごっこ」する、その準備のために掃除をする好機なのである。昔はパソコンの性能が、どんどん上がって行く途上だったから、この時にパソコンの乗り換えも発生しがちで、作業が煩雑だった。最近は、もちろん数字の上ではパソコンの発展は続いている訳なのだけれども、数年前のパソコンも許容範囲内、特に不満なく使えるので、パソコンについては「卒業するまで乗り換え無し」の原則で管理している。もちろん、研究が進んで、データの取得や整理にどうしても高性能パソコンが必要ということになれば、この限りではない。さて、ガソゴソと作業は続く。

3 月30日、ここ 3 日ほど、こちら の宣伝ばーっかりしている。これはスロバキアの第2放送、日本で言うと NHK 教育だろうか、そこで放映された番組だ。出演は、かつて神戸大学に2年間ポスドクとして在籍したゲンディア博士と、いま同じように神戸に滞在しているクルチュマール博士、そして、どういうわけか私。3カ所の要点で、ポツポツと発言する、その姿、映像作家さんのなせる技というか、実物よりも良く映っている気がする。よく、科学ドキュメンタリー番組に、外国人研究者のコメントが突然ポンと映ることがあるけれども、私の出現も、そんな感じなのかなー。ともかくも、これは共同研究からコロリと出て来た「社会還元」の一貫でもあるわけで、少しは世の中の為になったかなー、と思うと、ちょっと嬉しい。ちょっとで良いのだ。「ノーベル賞級」などというアオリが付いたりするから、世の中おかしな事になるのだ。

3 月29日、陽光桜(ヨウコウサクラ)という、桃色の花が付く早咲きの桜を初めて(意識して)見た。桃の花かなーと思うような、花自体の派手さがある。強い品種だそうで、街路樹として植えられていた。山を眺めると、ぼーっと赤い桜が何本もポツポツと見える。葉が先に出る山桜だ。その本数は、里に降りて来るにつれて段々と増えて行く。人の手が入っている山なのだとわかる。この季節の山は、おとぎ話に出て来る爺さん婆さんの世界だ、山菜の季節でもある。山はいいものだ、と、言いたい所。但し、管理していないと、すぐに人の立ち入れない薮だらけとなってしまう。スッキリしている山は、私有地の山なのかもしれない。ともかく、ボーッと眺める分には悪くない風景を眺めつつ、一日を過ごした。

3 月28日、加法定理をユークリッド幾何学的に証明するには、どうすれば良いか?ええと、忘れてしまっていた。余弦定理が加法定理そのもので、余弦定理を頭に入れるには、正弦定理も知っておいた方が良くて、その証明には円周角の定理が必要で、そこに三角形の内角の和が平角であることを使うから、平行線の公準に到達する。ひとたびベクトル空間が頭に入ってしまうと、これらの「面倒な証明」は(日常的に使わないので)スコッと記憶から抜け去ってしまうのである。三角形の合同も、三つだったか、幾つだったか、互いに等価な公理の間を行き来できる証明を忘れると、全ての幾何学が「根無し草」になってしまう。平行線の公準が成立しない空間へと足を一歩踏み入れるような時には、この辺りをシッカリと押さえておく事が大切だ。物理と関係ないって?例えば、ロバチェフスキー空間で電磁気学を考える時に、ガウスの法則がどのようであるかは、そもそも電場とは何か、空間とは何かという事から考え始めないとマズいことになる。曲がった空間の場の理論というのは、とりあえず変換性を足がかりにして、この辺りをウヤムヤと乗り越えようとしては、毎度のごとく失敗する学問なのである。どうにかできんかなー。

3 月27日、半生のウルメ干しが半額になっていた。買う。そのまま焼いて食べるのが正統的な食べ方で、発酵してドロドロになったニガい腹の風味も少しだけ味わう。... いや、祖父が漁師だったこともあって、魚は一番美味しい所を食べるものだという意識がある。ニガい腹は、その基準に見合わないので捨てる。また、背骨の辺りは血の気が多いので、これまた捨て。つまり、ウルメ干しをまず手開きにして、骨を取りヒレを取り、ミリンに漬け込む。一日くらい経つと、ミリン漬けらしい色になって来るので、ここで焼くか、冷凍保存するか、干す。冷凍したものを、頃合いを見計らって晴れた風のある日に干すという手もある。漬け込んだミリンには美味しいダシが出ているので、ニンニクとトマトでもブッ込んでスープにするとイタリア料理と化す。イワシはいい魚じゃ。

3 月26日、来年の7月、人類は(たぶん)冥王星の素顔を知ることになる。観測機が冥王星の近くを通り過ぎるのだ。但し、なにぶん遠い所からのデータ転送なので、チョイとした画像を送って来るにも一日がかりとなるらしい。距離的には海王星と「あまり」変わらないから、ボエジャーの実績を考えれば、まあ心配するほどでもないか。ガミラス基地が写るんじゃないかという噂もある。天体の話題が出て来ると望遠鏡の売り上げが伸びる、と期待したいところだけれども、冥王星はちょっとハードルが高い。14等級なんて、取り扱いの簡単な(と言われている)屈折望遠鏡(の中でも財布と相談して買えるもの)では、絶海の孤島など条件が良くても見えるか見えないかギリギリの線だ。デジカメを組み合わせるなど、目に頼らない観測方法をアマチュアの世界にも広げて行く機会としたいものだ。

3 月25日、ご卒業おめでとうございます。今年のキーワードは、コピー and ペースト「ではない」業績を積み重ねての卒業でしょう、皆さん本当の実力、それを超える底力を発揮した証が、笑顔に表れています。これも、神戸大学理学部ならではの少人数教育のなせる技でしょう。(←宣伝し過ぎか?)理学は、現代では細かく分野が分かれてはいるけれども、こうして一堂に会すると、やっぱり同じ(ような)価値観の下で研究してきたな、ということがわかる。理学の「物の見方」は、これからの長い人生を過ごす基盤の「ひとつ」となることは、間違いない。どんな場面に出くわしても「理詰めで考える」ことは大切。但し、理学士(理学修士・博士)理に溺れる、そうならないよう、気をつけながら。

3 月24日、やや暗い室内で望遠レンズを使う時には、色々と考える。カラーが良いか白黒が良いか、感度はどれくらい?モードはどんなものを使う?ホワイトバランスは?ノイズとブレのどちらを嫌う?さらに、ブレた写真を没にしてしまうかどうかなど、保存するものの取捨選択や画像処理にも時間をかけることになる。条件が良い場合、こんなに色々と考えることはない、どちらかというと構図などに意識を持って行く余裕が出て来る。また、撮影の予行演習が大切で、写したい対象と同じような条件を満たす対象をまず撮影して、その仕上がりを確認して、設定変更にフィードバックする。ああだ、こうだ、と、頭をヒネっていると、それだけで時間が過ぎ去って行く、これぞ「ファインダーを通してしか世の中を見ない」状態の典型である。まあね、全体像ではなくて、狭い範囲に集中するのは天職ですからね、日常もそれで良いのだ。そういうことにしておこう。

3 月23日、絶好の観光日和、朝イチで京都に向かう。目的地は基礎物理学研究所。あーあ、河原町から百万遍までの道中、色々と楽しそうだったんだけどなー。いやいや、研究会は「まれに見る楽しさ」であった。情報に噛んでる人々は発想が多彩多角的で、見ていて勉強になるなー。締めの統計力学の話が、特に良くわかるよう工夫された講演だった。本当は3日間、日月火の日程の研究会なんだけれど、色々と仕事もあって夕方で切り上げ神戸に向かう。が、チョイと遊び心が出る。河原町通りではなくて、東大路をバスで南に向かい、知恩院前で降りる。あれ、こんな時間なのに、観光客だらけだ。路がライトアップされていて、そのまま八坂神社へと抜ける路も奇麗であった。ついでに、舞台で踊りも奉納されていた。林立するカメラの列に加わり、しばし無心にシャッターを押す。疲れが吹っ飛ぶ感覚、良かったー、と元気になったのは一瞬。帰りの電車が眠かったこと眠かったこと。

3 月22日、氷に乗る。今日の収穫はスキップの飛び方とバックエッジの乗り方。まずスキップの方はというと、楽しそうに軽やかに、高く飛ぶ方法がようやくわかって来た。踏み切り足は膝を伸ばして伸びて行く時につま先を使って飛び上がり、逆の足と手はスッと上に持ち上げる。着氷したら、もう一度軽く飛ぼうとせずに、すぐに逆の足に踏み替える。それだけ。ついでに、楽々飛んでいるように、楽しい表情で滑る。こうして、楽しい空中散歩。でも、体力を消費するので、リンク一周したら息が上がる。バックの方は、トウでガリガリとこすらない方法が少しだけ身について来た。あまり大げさにやると、エッジが引っかかって転倒する。このわずかな間を、うまく感覚として掴むことが、これからの課題だ。もうそろそろシーズン終わるなー、神戸のリンクが閉まったら、大阪まで遊びに行かなければならない。

3 月21日、新大阪駅の東口を出る。ええと、新大阪駅の改札を出るのは、20 年ぶりくらいのことだ。そこで見たのは贅沢な建築。昔はコンクリートをたっぷり使って構造物を建ててたんだな、ということが良くわかるし、その仕上げにぶ厚い大理石のパネルを、これでもかと見せつけるように貼付けてある。今では真似のできないことだ。というか、真似する気さえ起きないだろう。最近の流行は、重厚さではなくて軽快な内装。ゴシックからロココへと転じた、そんな感じだろうか。大阪駅の大改装が、新大阪駅の万博的外見を更に目立たせているのかもしれない。駅を出ると、素っ気のない大阪の街。ここは来世紀に繁華街となるのだろうか、それとも ...

3 月20日、大学の合格発表風景、随分と変わったものだ。番号が掲示してあっても、訪れる人はまばら。自分の時はどうだったっけ?と思い出してみると、阪急石橋駅から坂を上がって、阪大理学部へと急いで到着したのが、掲示開始から30分後。その場に居たのはアメフト部員だけだったなー、番号を見つけてポンと手を打った記憶がある。賑やかな合格発表風景を傍目に見たのは、その翌年から。掲示板が上がると、一瞬だけ歓声が上がる。そしてまた声なくたたずむ人あり。今の世の中、苦労して大きな掲示を作ることも無くなって来たのではないだろうか、小さな紙に印刷してホワイトボードに貼り出し、そういう大学も多いことだろう。まあそうだよね、大学への入り口なのだから、卒業のように盛大に祝う理由ないよね。

3 月19日、学期末がやって来て、ボーッとしていると冬が終わって、もう入学シーズンが目前となって来た。もちろん、新年度の準備をしなければならない。春休み(?)は唐突に終わるのである。さて今日は、神戸港にクイーンエリザベス号が入港。深夜には出航してしまうのだそうな。皆さん、上陸されるのだろうか?神戸の街は船から眺めるだけでも充分に楽しめるし、街を歩くならブラブラしてるだけで良し。さてこの船、ポートターミナルの東側という、「近くからは」撮影し辛い場所に接岸している。デカい船は、神戸大橋の下をくぐれないし、神戸港側は狭いから、大抵このポートターミナルにやって来る。狙い目は出港時。うまくすると摩耶埠頭のすぐ向こうを悠々と航行する姿を捉えられる。その時に、モヤが出てないことを祈るのである。深夜だから三脚が必要かなー。

3 月18日、生暖かい風が吹く。さて今日も、Dirac の量子力学の中身を少し、学生さん達と一緒に読み返してみた。何度も読んでいるはずなのに、毎回何かの発見がある。用意周到というのか、何かを意図しつつ入門書だから書かないであるとか、そういう工夫や推敲の後が段々と見えて来るのだ。特に気になるのは、不確定性ということについて、Dirac はどう書いてあるかということ。よーく読んでみると、実は特定の実験に対応するような項目は無くて、抽象的なレベルで留めてある、らしい。「らしい」と断ったのは、単に「読めてないから感づいていないだけ」という可能性も排除できないからだ。もう古典文学の講読のような感じと言って良いだろう。さて、今回は、最後の方の QED にたどり着くだろうか?例年、なかなかあそこまでは行かない。

3 月17日、遅ればせながら阪急 1000 系に乗る機会を得た。注目していたのは、電流計、電圧計、そしてブレーキの気圧計。ブレーキをかける時の回生電流が明らかに大きい。渦電流の分だけロスが小さいのだろうか?回生の立ち上がりも少し速いような気がする。これは足腰から感じる主観的な感想だけれども。駅から出発する、駅へと減速して行く、その時のメーターを凝視して突っ立っているのは、周囲から見ると妙なものかもしれない。他にも、まあ色々と見所があって、天井を見て窓枠を見て液晶を見て、手すりの材質や傷の入り具合、ステンレス管の曲げ加工だとかネジの頭がどうのこうの、色々と見て楽しむ。楽しむというレベルの話であれば(?)実は古い車両の方が興味深いことが多く、どこを補修したり入れ替えてあるとか、昔のままの塗装でデコボコになった古い部分だとか、こまごまと観察して行くと修理の履歴も浮かんで来る。ああ、今日もしょーもない事に注意力を使ってしまった ...

3 月16日、とある外国の大学の学位論文審査に加わったことがある。論文提出者が、論文に添えて「誓約書」を出すことになっていて、代筆だとか無断引用だとかマル写しだとか、そういう事はないよ、と一筆書いてあるのであった。ちょっと断っておくと、代筆と共著は異なる概念であって、ほぼ 99% の文章を A さんが書いて、B さんが読んでコメントして、A さんが推敲して、B さんが … というプロセスを経たものであれば B さんも共著者なのである。こういう場合に、AB 連名で論文を発表するか、A さんの単名とするか、それは両人の裁量の範疇となる。あ、そうそう、それで「誓約書」の話だ。察するに、日本でも、そんな感じの書面を学位論文に添えて提出することになるのは時間の問題だろう。審査する側にとって見れば、それは「免罪符」でもある。贋作が出た場合に、それを造った側が悪いのであって、贋作を見破れない方は間抜け呼ばわりされはしても、責任は一等減じてもらえる、そういうもの。

3 月15日、今日も氷の上。夕刻になって、貸し靴で華麗に滑る方が現れる。まず前置きしておくと、スケート場の貸し靴というのは「おおよそ前進滑走しか考えられていない」靴で、ついでにエッジがあまり立っていないのが常だから、片足に乗った時に倒せる角度がとても小さい。バックは更に悲惨で、両足で何とか進める程度。片足に乗ろうとするとエッジが「抜ける」--- つまりエッジがスコッと横滑りして支えにならないのだ。従って、貸し靴で華麗に滑っているということは、超絶技巧の持ち主である証拠。昔の、コンパルソリーの靴も履いてた「最後の世代」の方なんだろうか?何とはなしに、アカデミックな雰囲気をお持ちの方だったので、大学院生さんかなー?と思いつつ声をかけてみると、学生さんではなかったけれども、大学法人にお勤めの方であった。意外と多いんですよねー、氷の上の「大学勤め人」って。

3 月14日、世界史を履修した私、ええと、西アジアから中央アジアのことも一応は勉強したはずなんだけど、赤点スレスレの成績が物語るように、何も頭に残っていない。検索すると、ええと、ウクライナの地は、ずーっと昔はスキタイで、その後は ....。大陸の国々というのは、本当に移り変わりが激しいものだ、今の時代と何かのかかわりが見えて来るのは、ようやくタタール人が活躍し始めた頃から。確かオイラートという広大な国があったよな、放牧民の国は突然東から西へと移動したりするから、時代を追って見て行くと地図がアニメーションのように動きまくる。その東の端が、ウィグル自治区と、それに連なるモンゴル。こういう調べ方をしていて、歴史の教え方は、もうしばらくすると大きく変わって行くのではないか?と思った。学生が iPad で Google Earth の世界史版を使う、そんな感じ。

3 月13日、共役、Adjoint これ、どう読む? もちろん意識せずに ad で舌を前歯の裏につけて、続けて (小さく小さく破裂させながら) j の発音に移れば良いだけのことなのだけれども、研究会なんかで耳をそば立てて聞いていると、幾つもの発音のパターンに遭遇する。ラテン系の方だと、ado joint と助動詞をくっつけたように分離して発音することが良くあるし、単に a+(声紋閉)+joint と一瞬の無音が入るだけのこともある。どんな風に発音されても、まあちゃんと耳に入るんだから言葉はタフなものだと思う。日常語ではないから、出て来る場所が限定されているのも、その理由かな。ちなみに、この adjoint の訳には「随伴」というものと「共役」という2つがあって、前者の方が広い意味で使われる。日本語に直しても、やっぱり日常用語ではない。

3 月12日、伊吹島のいりこを入手。例によって、3つに仕分ける。一つは銀皮付きの身。これは実に美味しい。噛み締めるだけでご飯のおかずにもなる。酢をかけて食べてみたり、オリーブオイルに漬けるなど、バリエーションも多彩。もちろん、良いダシが取れる。ふたつ目は、中骨とエラを取り去った頭。これはミネラル分タップリ、まあ食べられないこともないんだけど、普段はダシ取りに使っている。ちょっとニガ味が出るけれども、野菜などの煮物ダシにはコクがあって丁度良い。そして、3つ目は腹の中身とエラ。これは、鉄分タップリだけれどもニガくて食い物とは思えない。ダシを取って砂糖を大量に投入すると、消化剤のような薬っぽい味にはなるけれども、それは調味料の無駄使い。今のところ、肥料にするのが関の山。集めておけば、魚醤が取れるかもしれない、でもまあ、無理は禁物。肥料として撒いておくと、ときどき鳥が遊んで帰る。カラスだろうか?

3 月11日、以和為貴、和ヲ以テ貴シト為ス、ワヲモツテタフトシトナス、ちゃんと書き下せてるかどうかは知らない。Wikipedia を見ると和はヤワラギと読むとある。聖徳太子の十七条憲法が、誰の為に書かれたものであるかは、読んでみれば想像がつく。今で言う内閣と中央官僚くらいの身分の人々が、結束して国政にあたるように、と書いてあるように読める、一応は。日本史を履修したことがない私、その頃の豪族が、どれくらいの力を蓄えていたのかピンと来ないのである。いつでも国家転覆できるぞ、という勢力に囲まれていたのであれば、これは実にキワドイ世渡りの文章だ。そういう色々な事は過ぎ去って、最初の4文字だけが日常的に伝わる、平和は有り難いものだと思う。

3 月10日、都市は何が便利か?というと、行動範囲を広げなくても、毎日ずっと同じ2点間を往復するだけであっても、生活が成り立ってしまうという安易な所に尽きるのではないかと思う。色々なものが集積しているし、とりあえず暮らせるだけのものはその辺りにある。おしまい。田舎だと、なかなかこうは行かない。仕事によっては、定期的に都会とやらに出張しなければならないし、そこまで遠くでなくても、ちょっとした買い物でも近所になければ延々と街まで出かけて行き、一日を潰すことになる。それはそれで非日常的であり、楽しいのだけれども。教育もそうなのかもしれない。学生達は田舎から都会へと集まって来る。合格した人は今からが新生のスタートかな、これから何年かの間、どうぞ楽しんで下さい。

3 月 9 日、しばらく前から、眼鏡がどうもズリ落ちるようで、不思議だなー、顔の筋肉がとうとう重力に逆らえなくなって落ちて来たんだろうか?と思っていた。実は、鼻で支える所の小さなプラスチック部品が、片方だけ欠落していたのだ。これはどうしたものかなー、エポキシ樹脂でも使って形成するのが良いかなー。何もしないよりは、多少でも何か盛っておく方がマシだろう。結果として裸眼を使うことが増えたので、何というか、ボンヤリとしか見えないことに慣れてしまった。前からやって来る人が誰なのか、おおよそ10メートルくらいまで近づかないと、全くわからない。ひょっとすると私は最近「しかとする」と思われているかもしれない。いや、見えてないのである。反論も時々聞く。美女がやって来たら、百メートル手前からそっちに頭が向いてると。それはですねー、きっと、科学的には説明のつかない不思議な力のなせる技なのですよ、研究して Nature に投稿してみようか。(←掲載は無理!!)

3 月 8 日、日頃の無精というものは週末に向けて積み上がり、結局は自由時間というものを潰してしまうのである。よく、研究職というものは必然的にブラックである、つまり過重な労働であるという言葉を聞く。うーん、そういう言われ方は無いよなー、料理人だってトンデモない時間を料理に費やすわけだけれども、だから楽しくないのか?というとそんな事ないように見える、少なくとも客の前では、豆ひとつ剥くだけでもたのしそうにやってる。科学もまた同じ、ホントは世の中の秘密を幾つも幾つも知りたいのだけれども、人に与えられた「秘密の扉を開けるチャンス」はそんなに多いものではない、いつも準備して、待つだけではなく探検して回る。ああ楽しい。但し、この楽しさを人によく理解してもらえる形で述べることは、なかなか難しいのである。料理だったら、食べればウマいかどうか、おおよそ誰でも一発でわかるのだが ….

3 月 7 日、どんな文章でも、大抵はプリンターでホイッと出力すれば、それでおしまい。手で書くのは、日常的には住所氏名くらい。いや、板書も時々はやってるか。でも、時として書き慣れない文字に遭遇して困惑することがある。推薦状がそれ。密封して、表に「推薦状」と書かなければならない。「薦」の字が大問題なのだ。もちろん、こんな文字を覚えているハズがないので、まずはパソコン画面を見ることになる。しかし、パッと見ても漢字の成り立ちがよくわからないので、手が自動的には動いてくれないのだ。結果として、妙なバランスの妙な漢字で「推薦状」と封書に表書きすることとなる。そこに人名を添える時には、更に高いハードルが待ち構えていることも多い。お願いだから、書き易い文字で名前をつけて、新しいパパさん、新しいママさん ...

3 月 6 日、海老の殻を油で揚げてみる。最初は柔らかくて、こんなんで何かできるのかなーと思っていたら、段々とカラリと揚がって、エビらしい香りが漂って来た。カリカリになったものは、まあ海老煎餅の中身のような感じ。作ってみてわかったことは、油の中にかなりの香りが溶け込んでしまうということ。アメリケーヌソースを作る時には、この油もソースに戻すわけか、なるほど理にかなった調理法だと納得。さて油の方はどうしたものか、普通に天ぷらを作ってもエビ天になってしまうではないか、炒め物などに少しずつ使って行こうかな。

3 月 5 日、わーい雨だー、嬉しいな!この時期、雨の日だけは散歩が楽しい、花粉が飛んでいない、空気がしっとりしている。気温がまあまあ低い雨の日だから、六甲山の上は雪だろうか?と思ったら気温は5度くらい。もう春分の日も近い、日照のエネルギーは冬の寒さ(というのは「宇宙の寒さ」でもある)を追い出しつつあるのか。いま頃の北極点はいつも夕暮れ時、その上空には既に太陽光が届いているはず。卒業旅行で欧州に飛ぶ学生さん達は、そんな光景を目にするのかな?私もどこかへ長々とフライトしたい気分だけれども、カレンダーをめくると、全くその余裕なし。飛ぶだけなら弾丸旅行 ... いや、それもあまり実現しそうな暇なし。しばし、大人しくしておこう。

3 月 4 日、杉花粉がすごーく飛んでいる。戦後に税金で植えた杉の木が、こうして人々を苦しめるのであるから、公害以外の何者でもないのである。その辺りの空き地を放置していると何が生えて来るか?というと、クスノキや松や、クヌギの仲間などが目立つ。鳥が実を運んで来るのだろう。ヒノキは何度か目にしたことがあるけれども、杉が生えて来たことはない。杉の木をブッタ切って片端から材木にしても、売値が安くて商売にならないとも聞く。そういえば、鉄クズが盗まれたという話は時折耳にするけれども、杉林を勝手に伐採されたという話は、少なくともニュースで聞いたことはない。自然に対して急激に手を加えると、世代が移り変わった頃に、こうしてトバッチリがやって来るのである。そもそも、国有林というのが妙な名称ではないかと思い始めた。本来、誰の物でもないのだ。

3 月 3 日、ちょっと務署に立ち寄って戻って来る。年に1度の税務署通い。本業以外にとりたて収入が無い場合でも、何でも言ってみる価値はあるらしい。パソコンを買い替えたら「本の執筆のための必要経費」、スーツを買ったら「講義のための必要経費」、本を買ったら ... など、何でもかんでも申告しなさいという節税(というか当然の申告)の指南がアチコチに転がっている。全て真に受けるかどうかは別として、税金というシステムについて、少しは考える時間を使うのも無意味ではない。税務署には「税金は何に使われるの?」というポスターも貼ってある。ええと、はい、その、有益に使われています、たぶん。そう答えておきましょう。

3 月 2 日、道を歩いていると、何かを蹴った。その時に聞こえたのは、小判が転がるような音。ほら、時代劇なんかで小判が飛んだり、千両箱をひっくり返したりする時の、あのチャラララランという音。本物の小判はあんな音がしないのだとか、いやいや、改鋳して品質の悪くなった小判は硬いから良く響く音がするのだとか、色々なことが頭に浮かぶ。夜道の暗い中、足下の小判を探してみると、そこに有ったのは U 字の鉄片。鎖が半分になったような感じのものだ。なーんだ、小判じゃないな、面白くない。そういえば、別のとある日に、横断歩道のド真ん中に小さな六画レンチが落ちていたこともあったっけ。あの時は、自動車が跳ね上げたら危ないと思って、横断中に蹴ったら目立つ音を立てて中央分離帯に消えて行ったなー。金属片は、ともかく派手な音を立てるものらしい。

3 月 1 日、普段着だけれども、何だか足が長いなー、というお姉様方が何人も円陣を組んで作業着のおっちゃん達と何か話していた。何の打ち合わせ?と思って、そこの看板を眺めると神戸コレクションと書いてある。ああなるほど、たぶんあの人々はモデルさん達などだったのだ。曇った日の午後に、路地に突っ立ってると、モデルさんも普通の人なんだー、ヒールをはかなくても足が長いことを除いて。良く似た状況はスケートリンクでもある。氷の上に立つと、ひときわ目立つ人々がポチポチと居る。彼女ら、彼らは、氷の上では素晴らしく輝くのだけれども、帰り際にその辺りを歩いている姿を見ると、普通の人々だ、ちょっとスリムである点と、ピョンピョン跳ね気味の身のこなしを除いては。物理学をやる人は、えーと、物理の話をしている時には普通にちょっとカッコ悪い人、スーパーマーケットに行けば半額セール狙いの近寄りがたい変人、それくらいを目標としたい。

1 月と 2 月の1行日記