←11月と12月の1行日記  

10月31日、ペースメーカー、この医療器機の名前は誰でも知ってる。でも、その動作について情報を得ようとすると、なかなか難しい。単純に、一定の間隔でパルスを送るだけのマシンだと、運動していようと寝ていようと、同じ周期で心臓が拍動することになるので都合が悪い。ということは、心臓がどのように動作するのか、そのダイナミクスを把握した上で、何らかの信号ををモニターしつつ、必要な瞬間にパルスを送るように設定されているわけだ。こうして機械で、ある程度は代用できるところを見ると、心臓の従う運動「の」方程式というものは、案外単純なものなのかもしれない。ここで、どんどん下らない方向へと思索を広げよう。カタツムリを意のままに操る、小さなコントロール器機は作れるだろうか?右向け右、とスマホで電波を送ると、信号を受信した器機が電気パルスを送って、カタツムリが右に動くのである。実用価値がないって?大統領執務室に、カタツムリが這い込んでるかもしれませんぞ、既に。

10月30日、ヨーロッパの古い楽譜の書き方に、ネウマ譜(四線譜)というものがある。線が四本引いてあって、主音となる高さに「黒電話の受話器」みたいなものがチョイと書いてある。ハ音記号の元祖だろうか。この譜の難儀な所は、旗がないこと。おおよその音の長さは、音符が黒いか白いか、四角いか菱形かなどで示されていて、しかも音符の位置がだいたいの発音タイミングを表してある。でも、パッとそんな物を渡されても読めるはずがない、楽譜は音符の間を読めとはまさにこのこと。音楽を伝えるという意味においては、タブラチュア譜の方がずーっとマシだと思う。日本の伝統音楽は?実に繊細にして緻密、「ちい〜ろり」なんていう文字と数字やら漢字が並んだ譜面を読み取って弾くと聞く。そんな譜面を検索して、チラリッと見て、その瞬間に「やっぱり遠慮しておきます」、と思った。

10月29日、研ぐ、という言葉、何をイメージするだろうか?刃物を研ぐ、という意味で使われることが多いけれども、わざわざ「刃物を」と断る必要がある所に「研ぐ」の万能さがある。日常的に、最も頻繁に行われる研ぎが「お米を研ぐ」作業だ。また、自動車の塗装などをコンパウンドで磨くことや、漆塗りの箱の表面を出す作業も研ぎ出しである。つまり、研ぐというのは、何か物の表面にあるものを、ザラザラしたもの「など」で取り除き、ピカピカにする作業を意味している。何と意味の広い言葉だろうか。「研ぎすまされた感覚」という用法もある。これが、転じての用法なのか、それとも元々の用法なのか、現代の日本語を観察するだけでは判然としない。さて、今日はこれから、黒板でチョークを研ごうか。「研ぎすまされた講義」... いや、ノラリクラリ、やります。

10月28日、サンマが出始めてもう2カ月が近くなろうとしている。出始めの頃のサンマは骨が柔らかくて、小骨もそのまま食べられる。季節が進むごとに段々と骨が固くなり、今頃のサンマは、さばいているとガリガリと骨を切る音がする。中骨も取らないと、場合によってはノドにひっかかる感じがある。ともかくも、サンマは家計の優等生、財布が空っぽに近くても立派なおかずになってくれる。中骨も乾かして揚げれば .... と書きたい所だけれども、実はこれ、真面目に計算すると原価がけっこうかかる事で、もう一匹買った方が安いくらいだ。ま、丸ごとにこだわらずに、食べられる部分だけをサラリと食べて、後は廃棄するのがエネルギー効率(?)の良い台所作業だろう。さて、今日もサンマにするか?!

10月27日、長い包丁を使う時に、みじん切りなどを包丁のどこで行うか、ちょっと考える。作業効率的に考えると、普通に手元に近い場所で切るのが良い。しかし、そうやって手前側を使ってしまうと、研ぐ度に包丁の刃が段々と細長くなって行ってしまう。そして最後は、物差しのように。こうなると使い道が限られてしまう。じゃあ料理屋さんはどうやっているのだろうか?と、よーく眺めていると、ちょっとした作業は全て切っ先でこなしていた。みじん切りも切っ先。刃がブレ易い切っ先を、まるで指先のごとく繰るのは見事。その秘密は、刃の根元を親指と人差し指、中指で挟み込んで(たぶん無意識に)強力に握っていること。こういう作業をしている人の切っ先の研ぎが、またなかなか面白い。そこに意識を集中して研いでいることがわかる。こうすれば、長い刃が段々と短くなって来るだけで、最後の最後まで包丁の機能を温存できるわけか。

10月26日、京橋のちょい隣まで行く。この辺りは、古い大阪が残っている場所。地図や航空写真を見ても、整然とした町並みを見ることができる。昔は水路が発達していたらしい。その辺りを散策して ... という訳ではなくて、とある式場に籠って黙々と、時にワイワイガヤガヤと時を過ごす。光学器機に詳しい知り合いと、暗い屋内で撮影会モドキを楽しんだり、人のつながりの輪を広げたり。日が暮れてから近くの店に場所を移して、こちらは最初から2次会モード。たーっぷり計画を練って、の、はずであった、が、飲み食いしつつでは緻密な話し合いは無理、ポンポンと虚々実々、そんな場でなければ出て来ない話題を楽しんだ。何事にも暴走したいのは未成年と同じ、ただ「それはヤバいんちゃうか?」というブレーキを言い訳にしつつ、実は体力が衰えているのが我々の世代かもしれない。

10月25日、焦点距離が 200 mm くらいのレンズの、望遠鏡向けの像面フラットナーが発売された。色消しレンズの像面が「どれくらい曲がっているか」は、対物レンズの設計にもよるので一概には言えないのだけれど、望遠鏡の場合は中心解像度優先で行くので、どのメーカーが作ったレンズでも「曲がり具合」はおおよそ同じくらいらしい。(もちろん例外は幾らでもある。)フラットナーを入れると、確かに画面の隅で像が流れることがなくなる。この改善点は、とりあえず適当にシャッターを押しておいて、後から面白く映った部分を切り出して加工するような場合には重宝する。一方で、レンズはレンズなので、ガラスを通して見たような感じが、画質に幾分か出るとか、強い光を浴びた時にあらゆる光の反射が増えて、像のコントラストが落ちたりする。そうならないように、光学系のあちこちに、絞りを入れたり黒塗りしたり。こういうマニアックな楽しみもまた、レンズの道。

10月24日、新しくなった Mac OS X、私が使っている環境に限って言うと「先祖帰り」が起きている。MacPro と MacBook Pro で、Safari を使用中に、ハングすることそれぞれ2回。往年の「爆弾マーク」とは違って、たぶん Unix の根幹部分は生きているはずだ。カーネルパニックに陥った時には、ちゃんと表示が出て停止するはずだから。しかし悲しいかな、GUI だけしかオープンにしていない普通の使い方では、リセットボタンを押すしかない。ただ、再起動の後にほぼ停止前の状態に戻って作業を継続できる点は、OS の進化(?)と表現しても良いだろう。Safari を使っている時に落ちるのだから、対処方法は「重要な仕事をしている時に Safari で息抜きしない」という、誠に真っ当なことである。サボるな、という有り難いお告げなのだろう。一週間くらいしたら、パッチが出るな、これは。

10月23日、OS をインストールする時には、まずバックアップを取れ、再起動してからにしろ、ハードディスクに異常がないかチェックしておけ、これは長年の経験からも裏付けされた(?)システム管理の鉄則。今日は、自らに課した「はずの」これらの作業を全てスッ飛ばして OS X に飛びついてしまった。さてインストーラーのお告げは「ハードディスクに異常があります」であった。ありゃりゃ、ここでジタバタとする。インストーラーからディスクユティリティーに入って、修復ボタンを押すと「とりあえず」修復が終わって、インストールは終了。再起動も成功してやれやれ。念のために、再度ハードディスクを調べると、やっぱり異常なまま。ファイルの数が一つ合わないのである。シフトを押しつつ、セーフモードで再起動するも修復されず。仕方ないので、「コマンドS」を押しながら、シングルユーザーモードで起動、/sbin/fsck -sy で修復する。一見すると正常に戻ったように見えるけれども、何か時限爆弾を抱えていることは間違いない。用心しよう。

10月22日、ゆとりの時代終わる。と言っても社会全体のことではなくて、教育のこと。「ゆとり教育」と称して教科書が随分と薄くなった、その分、クラブや創作活動や、自分の好きな学問の探求など個人の力を活かした生徒・学生生活を送ってもらおう、そういう意図だったのではないかと思う。むかーしならば、そういう意図も活きて来たかもしれない。ところが、その「ゆとり」に割り込んで来たのがネット、とくにモバイル端末。余暇として生じた時間は、液晶画面を眺める時間へと転化してしまった。結局のところ、学習時間が実質的に減っただけとなったのでは?と万人が気づく所となり、ゆとりは「やーめた」となる。もちろん、何かを「やーめた」とは公の文章には書けないから「新しい取り組み」が始まった事になっている。ま、経緯はともかく、(学びたい人にとって)勉強時間が増えるのは、悪くないことです。

10月21日、天気図を見ると、台風の北東に「しぶとーい」熱帯低気圧がある。この雲の塊、かなり前から台風の東側にあって、消えるでもなく発達するでもなく、ゆっくりと北上して来た。ここ何日かの予報図では、常に「やがて消える」という予報であった、このように下層の現象は予報し辛いものなのだろう。今日の段階では、トラフの東端に渦度がある辺りまで到達したから、これからは前線の上の「擾乱」あるいはメソ低気圧としての扱いになるのだろうか、それとも粘り腰を発揮して熱帯低気圧のままで居るのか、リアルタイムで観察する楽しみが増えた。ええと、今日もアチコチへと飛び回る一日、これを書いたら、スタコラサッサとお隣(?)の大学へ。幾つか、返事をしなければならないメールや電話応答もある、対応は移動中に考えることにしよう。

10月20日、地上天気図を見ても、今日の雨のカラクリはあまり良くわからない。そこで高層天気図を見ると、なるほど、浅いトラフが西にあって、下層からの上昇気流を呼び込み易くなっている。気象予報士さんなら、更に色々な高度で温度やエントロピーを見たり、風向きを見たり、あれや、これやとデータを総合して行くのだろう。午後3時頃の地上天気図には、前線も解析されて描かれるはずだ。これだけ役に立ってる天気図と気象科学、ノーベル賞もゴロゴロと出て良さそうなものだけれど、同賞に「地学」の分野はない。地球物理学として、物理の諸分野と比較の上で、気象に関する研究が物理学的に価値のあることとして受賞対象となることは稀なのだ。ナビエ・ストークス方程式(と、それを繰り込んだ巨視的な大気の運動)の理解が画期的に深まる研究があれば、それは気象にも貢献するはずだし、間違いなくノーベル賞ものだろう。と、書いてて、何かおかしいな、別にノーベル賞じゃなくてもいいじゃん?!、と。

10月19日、たまねぎは球根だから、風通しの良い場所に置いておくと次に植え付ける季節まで保つ ... というのは大玉で、条件が良い場合。乾燥しているにもかかわらず、芯の所から腐ったり、根が底から伸び出したり、カビが取り付いたり。小さな玉は、全体が乾燥してカスカスに軽くなってしまうこともある。選りすぐられたものだけ、あるいは運が良かったものだけが、次に芽を吹くことができる、厳しい自然なのである。栽培用の中玉を買って来て今頃植えておくのが家庭菜園の常、ああして売られるものに「至らなかった」ものは堆肥になったか、それとも生産者の口に入ったか?(食べ切るには多すぎるという気もする。)さて台所には美味しそうなタマネギが転がっている。包丁を研いで、奇麗にカットして、カレーにしてあげましょう。

10月18日、ワークショップが終わって夕刻に「残った議論」を済ませた後、夜遅くに海外からのお客さんを飲食店に案内する。何を召し上がっていただいたかは置いておいて、シェフからボソッと日頃の苦労を伺う機会もあった。カウンターに置いてある色々な容器が持ち帰られてしまったとか、何人もやって来て座敷に入ったのに、一人前しか注文が無かったとか、勘定にケチがついたとか。誰がやって来るかわからない、来たら容易には追い返せない、これは色々な職業に共通する話だ。一見さんお断り、という習慣がある地方では、きっと昔々に、荒れた時代があったのだろう。教育現場では、学級崩壊とか、荒れる少年だとか、色々な話があったなー、ふと「人物重視の面接試験」というキーワードが頭の中に浮かんだ。だからどうしたって?他意なし。キーワードが浮かんだだけ。

10月17日、公共料金の支払いのために銀行へと行く。番号を呼ばれて窓口へと行くと、とても若い担当者が座っていた。研修中の札を胸につけていた。周囲を見渡すと、鋭い視線が。すぐ後ろで、じーっと作業を注視している、指導者らしき方が居るのである。その様子が面白かったので、待ち時間の間、ずーっと「奥の方」を観察していると、こちらの視線に気づいたようで、スーッと消えて行った。職業柄、人に何かを教える立場の人についつい関心が向くのである。え?、若い方に視線を送らなかったかって?いやもちろん、支払い手続きの時には窓口でやり取りすることになるのだけれども、若いキラキラ視線にドギマギしてしまう小心者の私は、早々に退散するのであった。さて、大学でひと仕事の後、神戸市街に戻り、ちゃんこ鍋に外国のお客様たちを案内する。最初に出て来るのは、鍋にテンコ盛りにされた具。白菜がいーっぱい入っているので、見た目のインパクトが大きい。ダシを贅沢に使って、野菜をどんどん食べる料理だ。途中、色々と相撲の話が聞ける。これを通訳するのは難しい、相撲を見ていないと、有名な力士が何処でどうした、というエピソードを聞いても、ピンと来ないからだ。力士が毎日どれくらいの量の酒を飲むか?という話題には、けっこう興味を持ってくれた。1人でビール2ケース飲んだ、一升瓶が4本、そう聞くと「一時間ごとに何本飲むんだ?」という計算をしてみて、普通に考えて無理ではないか?という結論に達する。いや、それは、力士を近くで見たことがないからではないか?など、色々と議論があった。ちなみに、飲めない力士も居て、全く飲まないのだそうな。

10月16日、生活圏にある「珍しいもの」は、なかなか見に行かないものだ。今日は、初めて「京コンピュータの設置されている建物」の中に入った。とは言っても、京コンピュータを見た訳ではなくて、その片隅の研究棟みたいな場所。上層階に登ると、眼下にズラリと並んだラジエーターが見える。その一部から「かげろう」が立ち登って、遠景が揺らいで見える。なるほど、これがパソコンとは桁違いの電力消費の証か。さて、その建物の一室で数値計算に関係した講演を幾つか聞く。「スパコンを使いました」という成果報告ではなくて、計算技法を開発しつつパソコンやクラスターで検証するという数値実験的な内容が盛りだくさんで、とても良かった。さて、今日色々と目にしたもので、私的にいちばん珍しかったのは、三宮駅を発車して行く2両編成の阪急電車 8200 系。いいモン、見た。

10月15日、台風は遠くにありにけり、と思ってたら、昼過ぎから風が強くなり始めた。冬の強風とは趣が違う、休んだかと思うと突然強くなる湿っぽい風。飛行機は、今のところ平常ダイヤで飛んでいるようだ。航空機向けの天気図を見ると、日本の上空は雲の印。少し北の日本海には乱気流の可能性を示すマーク。こういう時に、航空機の位置を示すレーダーを見ると、普段とは違ったコース取りになっている。傍目には危険そうに見える荒天だけれども、飛行機に乗っている時には、少々揺れても、概して何も気にならないものだ。今朝はもう、関西空港にお客さんが到着し始めている。神戸までは船旅を勧めておいた、今のところ船も平常に運行中。明日の朝は、さて、どんな風の中の国際会議となりますやら。

10月14日、とーっても天気の良い秋の一日。神戸の街中では、音楽週間だ、ジャズだ、期間限定カフェテラスだ、豪華客船の入港だ、祭りだ、ステージだ、市が立っている、あれや、これや。全部付き合うと身が持たない、それに、今週は外国のお客さんに神戸を案内して回る機会が色々とあるだろうから、いま神戸の市街を巡るというのは疲れをためるようなものだ。というわけで、今日は良い天気だから働く。ええと、傍目から見ていて、働いているように見えるんだろうか?文章を書く時には、じーっと考える時間も大切なのだ、書くことさえ決まれば自然と指が動く。決まっていなければ、10文字入力して11文字削除する。そんなわけで、天気の良い時に「その辺り」をブラついているのもまた、仕事なのである。周囲から見て不自然であれば、たぶん何か考えているのである。何も考えていない時も、不自然に見えるではないか?と指摘されれば「その通り」としか答えようがないのだけれども。

10月13日、帯分数という妙なものがある。理工系の立場からすると、こんな物は放逐して、仮分数に統一するのがスッキリとしていて、初等教育からも日常生活からも駆逐してしまうべし、そう考えていた。いや、今もそう思っている。でも、ちょっと待てよ、算数や数学の教科書というものは、必ず専門家が何人も集まって、検討しながら作るものだ。その上で残っているのだから、何らかの意図があるはずだ。まず、仮分数に「おおよその大きさ」とか「整数を差し引いた余り」のような概念を持ち込む意図は明白だ。つぎに、仮分数と帯分数を行ったり来たりすることで、計算の演習問題を何パターンも準備できるという教育上の効果がある。そして、工学的には2進数で分数を取り扱う時に役に立つ。ついでに、純粋数学的にも何らかの意味があるらしい。うーん、そうだったのか。深いものだ。と、前置きしておいて、やっぱり「今の私」には全く必要ないのだ、帯分数は。

10月12日、大学の構内に柿の木が植わっている。今年はいっぱい実っている。鳥が見向きもしてないから、あれは渋柿なんだろう。渋柿とはいえ、干せば食えるようになる。そういう食料が、誰でも手が届く所にあって、盗まれることがないのだから、社会に「目立った飢餓」は存在しないんだろう、などとボーっと考える。道端にキノコが生えているという話も、facebook などで良く見かける。これは毒が怖くて、手で触ることもできない。食わなければ害がない、という生易しいものではない、毒キノコに触れるべからず。いくら飢えても、道端のキノコには手が伸びない。大学の周囲を散歩していると、クヌギのドングリに出会う。これは渋がキツくて、アク抜き3回してカスカスにして、ようやく何とか食える程度。美味しくない。これを食ってた縄文人、季節によっては飢えてたんだろう。そうそう、イノシシが出没するのが、社会に飢えが蔓延していない最大の証拠。あれは肉の塊だからなー、街中に来るヤツはゴミで育ってるんだろうけれども。

10月11日、ええと、何だか大学入試の周辺で、色々とニュースが流れている。確かに、大学入試を「いじる」のは教育効果を(誰にとって?)「上げ下げする」レバーみたいなものの「ひとつ」だ。他にも、似たような効果を(誰にとって?)持つものが色々とある。単位認定だとか、卒業の条件だとか、科目の履修の順番だとか、1単位の履修に必要な勉強の時間だとか、数えだすとキリがない。一旦導入されて撤回となった「ゆとり」という概念もまた、その1つである。今回の話題もきっと、「総合的に考えられた青写真」がどこかにあるのだろうけれども、報道に流れるのは一部分のみ。そして、脈絡なくキーワードが一人歩きし始めるのだ。今日流れて来たのは、面接による人物評価というもの。コミニュケーションが取れる人をじっくり見極めて大学に集める、確かに説得力がある。他方、この「面接フィルター」が不利となるグループの人々も存在するわけだ。頭は良く回るかもしれない(そうでないかもしれない)けれども、人前で話すのは至極苦手という人々が、まず思い浮かぶ。それも、理系には、けっこうな数が居そうな気がする ...。結局は、どういう人材を集めて、どう教育して、どう社会に出てもらうか、そこの所をそれぞれの教育機関でハッキリとさせた上で、面接フィルターの効用(あるいは負の面)について考えて行かなければならないのだ。

10月10日、少し涼しくなったから、そろそろ球根を植えても良いだろう。今年は何にしようか、スイセンは1度植えたら何年も律儀に生えて来てくれるから、花壇の決め所に良し、背景に良し。チューリップは1度でおしまいだから狙いを付けた場所に、クロッカスとかサフランは余興で。タマネギという実用的なものも、鉢植えのどこかに仕込んでおこう。ネギは大した病気にならないから、室内で栽培しても良いかな。自然は奥が深いもので、タマネギはスクスク育って病気にも強いのに、天然のタマネギ広場というのは見た事がない。あったらいいなー、楽しいだろうなー、そういう夢(?)を実現するのが偏屈の庭造りなのである。それは庭ではなくて畑ではないか?いや、畑は収量を上げるのが使命、庭は見て楽しむもの、目的が違うのである。ところで、同じ玉の数だったら、チューリップとタマネギ、どっちが高価なんだろうか。チューリップの球根、とても安価なのである。

10月 9 日、木工の仕上げは塗装。おっと、塗装の必要がない場合もある。木の根元など、充分に油っぽい木は磨くだけでツルツルになる。白木のまま使う用途であればカンナをかけておしまい。数日前に磨いたのは紫檀であった。これはギターの指板にも使われる堅い木で、軽くオリーブオイルで磨く程度でいい。もうちょっと、と、欲を出したのが良くなかった。酸化して硬化するオイルをたーっぷり塗ると、いつまで経っても乾かないのであった。同時にクルミにもオイルをかけ、こちらはカリカリに乾燥。紫檀の何かがオイルの乾燥・硬化を妨げたのだ。黒檀でも同じことに遭遇したから、それに懲りて止めておけば良かった。乾いていないものは、布でゴシゴシとこすれば、ふき取れる。ゴシゴシ、ゴシゴシ、拭き取れた。ああ、何をやっているのだろうか。こういう無駄を「油を売る」と呼ぶのである。

10月 8 日、平地を早歩きする人は多く見かける。走る人もよく見かける。平たい場所では、誰か速い人の後ろについて歩くと、人ゴミをかきわけて歩く労力が節約できる。やがて、坂道が目の前に迫ると、自らの心肺能力を信じて、ひたすら早足で登り続ける。こういう時に、後ろからタッタッターと追い抜かれたら、メラメラと燃え上がって、ともかく追いつき、それを維持する。ここから先は持久能力の問題となる。ターゲットが疲れて来たら、その横を軽々と通り過ぎて登る。こちらが先に脱落することもある。無理をしすぎない事が大切だ、こういう「人知れぬ競走」は、いつでも行える。疲れたら、また明日。

10月 7 日、お巡りさんは、どこでも同じ服を同じようにカッコ良く着こなすものだと思っていた。が、よくよく観察してみると、そうでもない。オシャレな都会に出没するパトカーは、新車のようにピカピカに磨かれていて、乗り降りするお巡りさんもパリッとしていて爽やか。目立たない所でネズミとりしているお巡りさん、真夏のあの炎天下の下、何時間も電柱の裏に隠れて待つ、尊敬しすぎる事はないのだけれども、ドロドロというかヨレヨレになっている。バイクも色々あるんだ、警察の大型車両もまた多種多様。これはマニアが沢山居るんじゃないだろうか? え?パリッとカッコイイお巡りさんが好きかって? いやいや、とことんヨレヨレ、覆面パトカーで待ち構えてる人々の姿が、私は大好きです。... 彼らも減給中か ...

10月 6 日、右手の親指に指紋が無い日。野菜のムキものなどをこなしていると、少しずつ親指の表面を削るようなことがある。指先の皮は充分に厚いので、削ったくらいでは痛ないのだけれども、まず熱に弱くなる。煮物を作りつつ鍋に手を近づけると、皮の薄い所だけ熱く感じるのだ。今回は、栗の渋皮をむく作業を延々とやっていて、指の皮が薄くなってしまった。ああいう細かいものは、まな板の上でササガキのようにササッと削り落とした方が効率的だと思うに至った。次からは、そうしよう。さて栗の方は、砂糖水で少し煮て、一旦火からおろして糖分の浸透、再び火にかけて、糖度を上げて、また浸透。最後に水を飛ばして出来上がり。いきなり煮る一方では、なかなか芯まで甘くならないので、こうする。但し、浸透作業中にバラバラになる栗も多い。バランスが難しい作業だった。

10月 5 日、包丁の柄を削ってナイフ風にするカスタム化が、おおよそ終わったのでヤスリをかける。何処がどれくらい凹んでいるのか、あまり良くわからない所もある。そこで1度、オイルをかける。木の導管のような、細かい凹みや隙間にはオイルが入って行き、目止めの効果がある。ダメ押ししたければ、オイルが固まりかけた時に、再びヤスリをかける。こうすると、木屑が隙間に入って行き、オイルと一緒にガチガチに固まってくれる。逆目に削った時に生じたような、大きな欠けは埋まることがないので、そういう場所には逆目にならないように、もういちどナイフを入れる。再びヤスリをかけ ... という作業が、この先ひと月ほどは続くだろう。電子レンジの発酵モードにナイフごと放り込むと、もう少し速く作業できるけれど、まあ、食品と塗料の扱いは分けておこうか。

10月 4 日、栗が店先に並ぶようになった。この季節はまた、ヒシの実の収穫時期でもある。ヒシの実を ... と話を続けようとしても、誰もあまり反応してくれない。都会でなくても、ヒシの実を食べる機会は滅多にない。わざわざドブ池に入って、ヒシの実を拾って来る、そして手を突かないように注意しつつ泥を洗って、茹でたり蒸したりして中身を取り出して食べるのは、手間ひまかかって得る所少なし。そしてやっぱり、栗の方が美味しい。そうとはわかっていても、ヒシの実と聞くと、故郷のドブ池を思い出すのである。立ち入るとツルに足がからまって溺れるから、絶対に近寄るな、と言われた小さな池だった。ところで、ちょっと似た名前の実で「シイの実」というのがある。これはシイの木のドングリで、これはナッツとして普通に美味しい。シイの木なんて、そんなに生えてないから、街中で普通に手に入るものではない。ネットでは売っているみたい。色々と思い浮かぶことはあるけれども、今日も栗をむいて食すのであった。

10月 3 日、新米の玄米を売っていたので買って来る。さて、どうしたものか。玄米モードで炊いて食べるという手はある。それでは雑穀を食べているような感覚になる(なんて言うとお米に怒られるけど)ので、芯のあるパスタだと思ってイタリアン風に味付けするか、それともスープの具に少しずつ使おうか、いや煎ってスープを取ろうか、色々と考えてみる。使う分量だけ瓶につめて、太い箸で突いて「皮付きの白米」にする手もある。ヌカの味になってしまうので、やっぱり白いご飯という感覚ではない、付け合わせの研究が必要だ。大昔のレシピを見ると、付け合わせにスルメのような歯ごたえのあるものが並んでいる。玄米をガシガシと噛みしめて味わい、付け合わせもまた噛めば噛むほど味が出るようなものだったのか。ああ、そうそう、時間はかかるけれども、玄米粥という手もあった、これならば現代の食卓にも合うな。

10月 2 日、電話の通話は1対1。特別に何人かで「電話会議」できるというサービスもある。あったら良いな、と思うサービスの一つに「警察への通話転送」が思いつく。例えば脅迫であるとか、明らかに詐欺であるような通話を受けたら、転送ボタンを押すだけで警察のサーバーに通話内容と、通話している両者の端末情報が記録されるというもの。振り込め詐欺の抑止効果があると思う。そんなサービスをしたら、警察がパンクする?いや、全ての記録に目を通す、いや耳を通すなどと考えてはいけない。記録の中から、何件も重複する「悪質な発信者」を発信端末や音声波形を足がかりにして自動的に割り出し、確実に潰せると判断できる件から捜査して行くのである。警察以外の第三者に「通話監視モード」を渡すというサービスも考えられるけれども、それは逆に悪用される危険が高い。こうやって警察に信頼が置けるのも、給与も雇用もシッカリと確保されているからだ、と、強調しておこう。教員もまた?!

10月 1 日、今日は「波動物理学」の講義。引っぱりたいネタは幾つもあるんだなー、波動エネルギー、波動エンジン、波動コア、波動砲。どちらかというと地味(でかつ実用的)な波動という物理現象に、よくこれだけSFを詰め込んでくれたものだと思う。そういう華々しさはひとまず置いて、今日はまず単振動の復習から。波動では力学変数として複素数を良く用いるから、単純なバネ振り子であっても変位を複素数として扱うことに慣れておかなければならない。この段階で実数と複素数の関係を踏み外すと、後々に「場の理論」を勉強する時に必ずボロが出る。場の自由度がいつの間にか倍になってしまうとか、散乱断面積を計算した時にヘンテコな項が残ったりする。まあ、そういう場面で失敗を繰り返すのも勉強の内だから、入門編の内はあまり厳格に話を進めないでおこう。

9 月30日、サボテンの芽が伸び始めた。この芽は、去年か一昨年、1センチメートルくらいまでで成長が止まってしまい、これはもう育たないだろうと諦めていたものだ。どういう訳か、この秋になって膨らみ始めた。成長が止まっていた1年間か2年間は、親木が栄養を蓄えていたのだろうか。シャコ葉サボテンの小さな株も、夏にバタバタと葉(というか節)を落としてしまって、これはもう枯れたかと思っていたら、秋になって再び芽が出て来た。自然の仕組みはよくわからないものである。いま最も伸びているのが野朝顔。これは秋口までは花をつけずに、ひたすら茂るという難儀な「雑草」で、涼しくなって来た頃にようやく花芽をつける。サツマイモと同じような成長パターンだ。室内に取り込むと冬まで花をつける。そして、いつまでも枯れない。普通の一年草の朝顔は温室に入れても春前には伸びなくなって枯れるから、野朝顔は強いものだ。そんな植栽と付き合いたい秋。

9 月29日、パリから大阪への AF292 便、客室乗務員が色々と気配りしていた。パリという都を発着する航空便とあって、乗客の期待が高いのだろうと思う。ギャレの中では乗務員同士の会話も飛び交っていた。そこから伺い知るに、大阪発着便にはビールを充分に(大量に!)用意しておく必要があるようだ。食中酒を頼む時に、ワインではなくてビールということなのだろう、それは暑い暑い夏が長く続く大阪ならではの食習慣なのだと感じる。機中の短い夜はサッサと過ぎ去り、慌ただしく朝がやって来る。そして無難に着陸。さあ、着いた。関西空港のターミナルに歩いて行くと「ニシノ様」というマジック書きの看板が立っている。何が起きたか見た瞬間にわかった。実は出発時に、フランクフルト空港で手荷物預けカウンターのベルトコンベアーが停止して、カウンター裏に荷物の山が出来ていたのだ。予想どおり預け荷物は未着。翌日に到着後に「無料宅配」する手筈となった。預け荷物の中にスイセンの球根が入っていた事を申告すると、それは「湯につけて検疫した後、着払いで宅配」になるのだそうな。簡単な目視点検だけで検疫が終了するのは、チューリップとアマリリスくらいだと教えてもらった。

9 月28日、行きはアムステルダム経由、帰りは?何故かパリ経由。いや、そんな話よりも、まずマインツに来るのに、なぜルフトハンザを選ばなかったのか、説明しなければならない。理由は単純、予約を試みた日には「旅行日」の安い座席が全て埋まっていたから。仕方ないから使い慣れた KLM で予約すると、やっぱり帰りの便のエコノミーは満席。でもなぜか、秋のパリ旅行で人気のあるエールフランス (AF) は幾つか残席があった。そういう訳で帰りはパリ経由の AF となったのだ。可能だったら、アムステルダム経由にしたかった、球根やチーズがドカドカと安値で買える、あんなハブ空港は他にはない。もっと真っ当な理由を挙げると、フランクフルト空港やパリ空港は、チェックインからパスポートコントロールまで、人が詰まることがよくあって、通過時間が読めないのだ。「大国」というのは、混雑の芽がどこにでもあるものだ。まあ、アムステルダム空港は国際便に特化しているから、あんなにスムーズなのだ、と言えなくもない。飯については、KLM の味よりも AF の方が好み。これは単に、オランダ料理とフランス料理の文化の違い。サラダに限って言うと KLM の方がウマイと「私は」思う。(←全て「個人の感想」です。)

9 月27日、会議はミッチリ夕方まで続いた。それでも、日没前に終わったので、明るい内にマインツの旧市街をグルリと回ってみた。おおよそドイツの3点セット、教会、広場、そして石畳。そんなモンかなーと思って川の方へと歩みを進めると、パッと視界が開けて素晴らしくノンビリした光景になる。やっぱり水辺は良いものだと思った、神戸から大阪湾を眺めるような感覚だろうか。大阪湾は大げさか、神戸港にしておこう。カメラを抱えて右へ左へ、太陽の光線が尽きるまで水に浮かぶものを撮った。今日はもう、スーパーでパンでも買って食べて終りにしよう、そう思っていたら、街で呼び止められる。会議の参加者がビールを楽しんでいた。まあ、こっちのノンアルコールビールを味わってみるのも悪くない、ひととき研究生活の周辺を語って、その後で古い教会を改装したレストランへ。折角だから大きなソーセージと、ジャガイモの付け合わせを味わった。オリンピック候補地選びのニュースで、スペインの経済状況が報道されていたけれども、研究環境にも影響があるそうだ。テニュア(パーマネント)なポストの幾つかが、時限付き雇用に無理矢理戻されたのだそうな。日本でも、そういう動きがあると報道されているな、確か。

9 月26日、よーく地図を覚えて、バンケットの待ち合わせへと向かう。が、目的の広場が見つからない。妙だなーと思って、その辺りに立っている看板の地図を見ると、地形のスケールを把握していなかったことに気づく。既に目的地は通り過ぎていたのだ。少し戻ると、なんだ、最初にチラリと見た石造りの建物ではないか。歴史的な建物を補修しながら使い続けているらしい。会場に案内される。アチコチに妙な階段やアーチ型の通路が見える。鉄骨を使わないと建物の空間デザインが難しいのだということが、よくわかる。一方で石という建材の堅牢さに改めて感心した。こういう蔵のような建物は、教会のような「天を突く」建物よりも頑丈だ。バンケットは、始まりも終りもない淡々としたものだった。日本で何か会を開くと、ついつい、挨拶や締めをやってしまうものだ、そういう面倒がなくていいと思った。

9 月25日、珍しく朝5時に起きる。実はホテルのネットが信じ難く遅くて、夜は使い物にならなかった。早朝に勝負をかける。発表当日の朝までジタバタと講演ファイルを作って、さあ本番。まずはマインツ大学にたどり着くことから。鉄道の駅に行くと、居ます居ます、大学生だらけ。何の問題もなし。会議初日の朝、二番目という順番、いい所に配置してくれた主催者に感謝。だいたい、昼飯の後には聴衆の反応が鈍くなるものだ、自分の経験も含めて言うと。夕方に長々と話したら恨みさえ買いかねない。何とか初日は時差も無いような気分で過ごし、日没を迎えてから旧市街を歩く。店は閉まってて閑散とした街をひたすら歩いて、帰りの方角を一瞬失ってアチコチ試しに歩いてたら、まあまあ太い道へ合流する方法で駅まで戻れた。

9 月24日、関西空港を離陸した後、いつものように北朝鮮横断コースへと向かうかと思いきや、今日はまず大阪湾をクルリと一周した後に岐阜、新潟、青森、札幌、そして北海道の北端辺りでようやく北北西に機首を振った。日本海に悪天候があったのだろうか。成田空港から離陸した飛行機のような経路をたどった。離陸の後、巡航高度まで一直線に昇るスタイルの運行は燃料に無駄があるのか、最近では離陸してしばらく後にエンジン出力をかなり落として、トロトロと上昇することが多い。燃料を持ち上げるのに燃料を使う、という辺りにコース取りの秘密があるのだろうか。ともかくも、北海道まで行くなんてエラく回り道したなー、と思った空路は、そこから先が速かった。着陸のために高度を下げる直前まで、ずーっと対地速度が 940 km/h くらい。西向きの飛行では、滅多にないことだ。後で高層の天気図を見てわかった、普通に南側を飛ぶと、ずーっと強い向かい風に出会うような気流になっていて、北極上空に「風の凪いだ道」が出来ていたのだ。結局、回り道の1時間分を越える時間の節約があって、アムステルダムに到着したのは予定よりも15分早かった。そのままスキポール空港で「その日のネット仕事」して、今度は Fokker 70 とかいうビジネスジェットのような小型機でフランクフルトに到着。列車でトコトコ、マインツまで移動する。

9 月23日、ブーンと芝刈り機のような音が頭上から聞こえて来る。ヘリコプターではないし、ええと、オスプレイでもない。プカプカと空に浮かんでいるのは、保険会社がチャーターした飛行船。優雅に飛んでいるように見えるけれども、よーく観察すると、常に揺れている。それも、相当揺れている。飛行機のように長い羽がなくて、全体的に丸っこい形をしているので、ロール方向のみならず、ピッチもヨーも安定があまり良くない。乗り物としての乗り心地はどうなんだろうか?と、思ってしまった。ずーっと巨大な、大昔のツェッペリン飛行船は、静かで乗り心地が良かったらしい。そんな事をボーっと考えている内に、飛行船はプカプカと飛び去って行った。

9 月22日、四角いものを削って丸くすること、案外難しい。計画的に、角を落として多面体に加工して、それから更に丸くして行くと多少はマシかもしれない。ただ、円筒や球といった幾何学的にハッキリした形のものではなくて、川底の石ころみたいに適当に丸くなっている、あの状態へと持って行く必要があると、一段と難しくなる。仕上がったと思っても、どこか元の四角が残ってしまうか、あるいはそれを意識しすぎて、もともと角だった所が妙に削り過ぎだったりする。ヤスリをかけてみて、適当に転がしてみて、やっぱり四角いという印象があれば、再びナイフで削る。こうやって、ようやく削り加工を終えたものを接着して、オイルをかけてみる。こうすると、面がシビアに浮かんで来る。大抵は一発で決まらずに、再び加工へと戻る。以下、繰り返し。木を削るだけでも、これだけ気を使うのだ、文章を書く時に「終りなどない」というのは良く知られたこと。でも、どこかで終わらせるのだ、文章は世に出してこそ意味があるものだ。

9 月21日、夕暮れ時の神戸港へ行くと、いかつい灰色の「鉄の船」が係留されていた。デッキが二階建てになっていて、ヘリコプター甲板らしきものの上で、誰かがひたすらジョギングしている。船主にデカデカと描かれた 405 という番号を覚えて帰り、検索してみると潜水艦の運用を手助けする、イザという時は小型の潜水艇を降ろして救援活動する艦船なのだそうな。深海からの生還、その技術は海洋の資源開発にも使い回しできるんだろう。珍しい船なので写真を撮ろうとしたら、夕日が陰ってしまった。日光がないのでは、ポンコツのカメラにはキツい、早々に退散、と歩き始めた頃に、雲の隙間から太陽が再び姿を表す。慌てて元の撮影位置までダッシュして、ようやくお気に入りの写真が一枚撮れた。目標があれば粘れ、ということを教えられた。

9 月20日、暑さも寒さも彼岸まで、ということになっている。今年はまさに、ちょうど彼岸を迎える頃に暑さも過ぎ去った。神戸の街中には水田やあぜ道があまりないので、彼岸花を見かけることはあまりない。その代わりかどうか、近くのお寺の塀の外で小さなニンニクのような花が咲いている。白い花だ。あちらの世界にも同じように咲いているのだろうか --- と物理屋が発言するのも何なのだけれども、物理は物理、人々の世の中は人々の世の中。心の中で手を合わせつつ通り過ぎる。今日を生きていることも、実に有り難いことだと思いつつも、今日もまた時間をどんどん無駄に使った。なんでも、壮年を過ぎると「社会のために」なんて考えるのは老害にすぎないのだそうな、それぞれ、好きなように日々を過ごすことが真に社会のため、そう言い訳して今日も勝手気ままに過ごす。

9 月19日、ドングが道端に幾つも転がっている。拾って来る。クヌギのドングリらしい。クヌギの木は材質もまあまあ良いし、払った枝にはキノコが生えるし、切り倒してもシブトく芽が出て再生する。ドングリも充分にデンプンを含んでいるから、手間をかけてアク抜きするか、あるいは砕いてデンプンにしてしまえば食べることができる。クルミの木もそうだけれど、もっと身の回りに生えていて良い木だ。そういえばクワの木やイチジクの木も、あまり見かけなくなったな。秋の楽しみは山に立ち入って ... と書きたいんだけど、山で何かを拾って来るというのは、入会地という概念がとうに消えてしまった今の世の中では、アカンという話である。海で何かを拾って来るのも同じ。じゃあ「拾いモン」というのは何処にあるのか?現代人が物を拾えるのは、たぶん燃えないゴミの日のゴミ捨て場だけだ。あ、じゃあ、今日拾ったドングは???

9 月18日、縦のものを横にしたような論文に出会うことがある。こういうものを、どう評価するかは難しいものだ。まず、論理的な間違いだとか邪推だとか、そういうトンデモさは無い。また、分野的にも、場違いな論文というわけではない。問題は、何か既知のものから一歩でも踏み出してサイエンスを前進させてくれているかどうか。大きな前進を含む論文は簡潔なもので、幾つかの式と短い説明を読めば充分に感動するものだ。前進の無いものに限って、得てして延々と講釈を垂れるものである。こういうゴネゴネしたものを英文で書くのは苦手な私、せっかくの機会だから「英文講釈の技術」でも勉強させてもらおうか。... いや、時間の無駄だ ...。問題は、こういう時に「意味ないよ」とハッキリと書いて返すことの難しさだ。価値が無いのかあるのか、解釈によって変わるようなものは、やっぱり価値がないのだとバッサリと返事しないと、後々に災いを招くことがある。やっぱり難儀だ。

9 月17日、アチコチに強風の跡が。ツル植物がバッサリと倒れていたり、街路樹から大量の枝が落ちていたり。自然の木々にとっては、このような強風も「利用している」のかもしれない。落ちている枝をよく見ると、もう枯れてしまったものばかりだ。台風や木枯らしが剪定の役割を果たしている、自然は上手く出来ているものだ。山の中であれば、落ちた枝葉は腐葉土となるのだけれども、街中で落ちると単に側溝を詰まらせるゴミにすぎない。掃除してはゴミ袋に葉を詰めて行く姿を、そこここで目にする。どこからともなく流れて来た砂も歩道の上に見える。都会でこういう砂は不気味だ、知らず知らずの間に、どこかに隙間を作っている可能性があるからだ。色々と、普段は目にしないものを横目に、さて今日もひと仕事。

9 月16日、未明に強風が吹き荒れる。特に神戸は、南北に吹き抜ける風の道筋にあたって、周囲よりも風が強かった。吹き飛ばされた物体が窓に当たったら、ガラスの雨が降り注ぐという危惧もあって、なるべく窓に足を向けるようにして部屋の片隅でウツラウツラ。最近、台風の速報は「気圧を低めに発表する」傾向があったけれども、今回はその逆。975 hpa くらいかなー、という予報に対して、中京地方の実測値は 967 hpa。まあ、これくらいは予報誤差、測定誤差(と測定方法の定義)によって変わって当然か。誤差、というか標準偏について考え始めると、あらゆる気象データにそれは存在するはずのものなのだけれど、手短かに広報する便法は無いんだよなー、と、余計なことを考え、風がおさまってから昼寝するのであった。

9 月15日、ロリエの小枝の工作の続き。エポキシは1日で硬化。速く固まるエポキシ樹脂よりも、仕上がりは良いように思う。ガリガリと木口を削る。最初は刃をあまり受け付けない木も、削る方向がわかって来ると大根のように (?) ガシガシと削れて行く。調子に乗ると削り過ぎになって、全体のフォルムを崩すので、もう少しかな?と思うくらいの所で刃を止めて、すこしずつ形を整えて行く。木と木の接着で使ったエポキシが断面に出て来ることもある。昔は、こういう「接着の下準備の粗い場所」は嫌っていたのだけれども、ナイフにしてみると案外良いアクセントになってくれる事が多いので、最近では気にしなくなった。長い間使うには、どっちの方が良いか、そういう耐久性の方がむしろ大切だ。まあ、それならば、柄を全て石で造ればいいんだけど ...

9 月14日、ロリエの枝がナイフの柄として良材であるかどうか、あまり考えずに、ストックしておいたロリエの枝から材を切り出して、エポキシ接着剤でナイフの刃にくっつける。刃が付いた状態で柄を削るのである。これはチト危ない作業なのだけれども、刃がそこに付いているのでフィギュアを確かめながら削れるという長所がある。もう少し安全に作業しようと思えば、二つ割りにした材に溝を掘った後に接着するとか、もともと1つのブロックである材を整形した後で穴を掘るなどの作業も可能だ。でもまあ、今回は刃が付いた状態で作業することにした。もちろん、削る最中はテープで刃をグルグル巻きにするのだけれども、それでも「そこに刃がある」と思って、刃が肌に触れるような持ち方をしてはならない。削ってみて、あまり性質の良くない材料であるとわかったら、エポキシで固めてしまって、上からカシュー塗装でもしてみよう。

9 月13日、讃岐の出身ながら、讃岐うどんの事をあまり知らない私。うどんは、最低限うどん玉があれば成立する食べ物で「そこにあればスッと食べる」ものだから、あまり気にせず、どんなうどんでも有り難く、即刻いただく。30分くらい時間があれば、小麦粉から麺を打つと充分に美味しい。そんな訳で、昔は有名だったうどんチェーン店が倒産してついに破産となったとか、とある讃岐の地方の名前を冠したチェーン店が全国展開中だとか、そういう話題にはうといのである。つい先日、三宮にある讃岐うどん屋が突然店をたたんだので、どうしたのかと思いきや、ごく最近になって破産した食品会社が出した店だった事実に行き当たる。いや待てよ、同じ名前のうどん屋が関西のアチコチで今も営業しているぞ?更に調べて納得、看板に出ている名前が一緒でも、実はいくつかの違った会社がそれぞれ独自に店舗展開しているのだ。蕎麦で言うところの「薮」のような、コモンネームがうどんの世界にもあった、と、遅まきながら気づいたのであった。

9 月12日、引き続きコヒーレント状態の計算。あれは、基本的には基底状態と同じ物なのだ、ということを何とかして一般的に証明したいと考え始める。つまり、minimum uncertainty を保ちつつ波束が運動する一般的条件は何なのか?ということである。例えば、古典力学的に考えると、一定加速度の加速下では調和振動は調和振動のままなので、その場合には量子力学的にもコヒーレント状態が実現されるはず。では回転運動だったら?いちど崩れかけた波束が、時間反転のような仕組みで再び元に戻るのは?(そういう話は波束の伝送でよく議論される。)よし、こういうネタで研究の申請をしよう、題目は「量子力学的パチンコの原理」だ。あ、役所に提出する文章に、遊戯関係 (?!) の用語を使うとダメなんだろうか?! ピンボールではピンと来ないし、ボーリングは玉が一方向に転がるだけだし、何かいいものないかなー。

9 月11日、和牛が食べたい、と贅沢な願いを持ってしまったら、まず夜がフケるのを待って、半額セールにノソノソと出向く。もう色が変わり始めて、誰も手を出さないような肉でも、よく火を通す調理の後に「新しい(?)肉」と区別がつくものではない。それでも用心して、焼き肉とかシャブシャブで食べるのではなく、ショウガや調味料を加えて「しぐれ煮」にする。この調理、最初は放置するだけで良いのだけれど、段々と水分が飛んで来ると要注意。和牛は油が多いので、自然に「てんぷら」状態となる。放置すると、全体がカラメルのようになり、最後は油の中にコゲが浮かんでいるようになってしまう。そのまま放置すると、もちろん発火!従って、最後の30分くらいは付きっきりでお世話することになる。少々水っぽい辺りが美味しい。でも、保存を考えるとカリカリに近い方が持ちは良い。和牛らしい所は、ちゃんと油に残っている。こうやって水分を飛ばしてみると、実は半分以上が脂肪分だとわかる。まあ、ちゃんと美味しい。なお、時として、本当に食えないような「見切り商品」もあるので、その辺りはキッチリと自分の目で確かめなくてはならない。

9 月10日、ふと思いついて、調和振動子を軸に古典力学から量子力学まで、10ページくらいの短い読み物を書くことにした。これは「使い回しができる」もので、色々な場面に、必要に応じて持って行くことができる。... はずだ。書き始めてみると、色々なことを思いつくものだ、コヒーレント状態ってなんじゃ?という疑問も、動的に座標変換してみると当たり前なのであった。これは、量子力学における (?!) ハミルトンヤコビ方程式の導出と言える。そんな事は経路積分やれば、すぐわかるではないか? と指摘されそうだけれども、波束が壊れない条件など、色々と突っ込みどころがあるのだ。そうこうしている内に10ページでは足りないことがわかって来た。えーと、拡大版も造ろうかなー。

9 月 9 日、我々が量子力学的にどういう存在なのか、それを記述し終えた時に量子力学は「たぶん」完結する。いや、我々がと、対象を曖昧にしているのは良くないかもしれない。物理的に記録を残せて、記録に従って動作を変える主体のモデルを量子力学的に造るのが良いだろう。そんなもの、どれくらいの自由度があればできるんだろうか?量子チューリングマシンでいいじゃんか、という声も聞こえてくるけれども、それではエネルギー的にプロテクトされた古典情報には取っ付き難い。もう少し問題を簡単な (?) 方向へとシフトするならば、古典コンピューターを量子力学的に造ってみよ、そんな所まで問題意識をスリ替えることも可能だろう。今の時代は、このような観測理論が「世捨て人の楽しみ」呼ばわりされずに済む。学生さん達もトライしてみるかい?

9 月 8 日、何を思ってか、突如、三宮から神戸空港へ向かって歩き出す。いつも、ポートライナーの車窓から、脇に見える空中歩道を歩いている、あるいはマラソンしている人々が目に入るものだから、時間がある時に歩きたいなーと思ってはいた。それが今日だとは、自分にも予測できなかった。さて、道中うつくしい光景があったか? あったか? あったかも ... いや、どちらかというと美しい光景はポートライナーと車道に横取りされている。それでもまあ、8キロメートルを歩いて、三宮から神戸空港まで「歩けるようになっているのだ」ということを確認したことは、自己満足を与えてくれた。計画では、空港から先、人工浜まで行く予定だったけれども、神戸空港でタイムアウト。あそこの浜は、季節にもよるけれども、5時になると閉め出されてしまう。それから後は、神戸空港でボーッと夕日を眺めていた。いや、その、夕焼けの素晴らしかったこと。時を忘れてしまった。

9 月 7 日、飛び込まない時に、プールの端っこからどうやってスタートするのか、水泳教室の子供達をよーく観察。なるほど、いちど沈んでから壁を蹴って、浮かび上がりつつ「ひとかき」するんだ。あれで10メートルくらいは軽く進んでしまう。残りの15メートルを泳げば向こうの壁にタッチできるわけか。真似をしていると、段々と目が痛くなって来た。やっぱり、あれだけ塩素が入っている水の中を泳ぐには、競泳用のゴーグルが必要か。今度、仕入れておこう。スタート以外では、今日もタイムが伸びなかった平泳ぎ、帰ってからよーく「お手本」を見てみると、足を広げ始めるタイミングが早すぎるので抵抗を増しているらしい。手をかき始める時に、同時に足を引き寄せてはいけないのか、今度は遅めの足動作をためしてみよう。

9 月 6 日、最近、よく「バカな投稿」が相次ぐ SNS が話題になる。最近になってバカな行いが増えて来たのか?いやいや、そうは思わないのである。大昔から、人々は次々とトンデモナイ行いを繰り返して来たのである。若気の至りという言葉もある。その現場を見ていた人が顔をしかめたり、(厳重)注意したり、シレッとしたり、それで終わっていたものが「その場で投稿できる」ようになったから「バカ発見器」と呼ばれる現象となったわけだ。では将来的には?もう覚悟しよう、生まれてから死ぬまで、貴方の行いは四六時中記録されるようになるのだ。正統な理由なく店員さんに無理難題吹っかけるような行いは慎み、何かに怒りを覚えることがあっても一息入れる。貴方が笑い転げる場面、怒りに身を任せる場面、即刻撮影されて、世に拡散するのである … なんか、法律が追いついてないな ...

9 月 5 日、葡萄の枝、一見すると何処も枯れているような色をしているけれども、切ってみると中は緑色。枯れてしまった枝は、全体的に細くなって、黒い色をしている。ようやく、この見分けがつくようになって来た。しかし、枯れてはいないけれども、弱っている枝というものもある。これは判別が難しい。芽の伸びを見て判断するしかない。弱っている枝は、枝の先端から段々と葉が黄変したり落ちたりする。健全な枝は先へ行くほど成長の勢いがある。葡萄は、弱った枝から栄養を撤収しているんじゃないかと思うほどだ。(実際はどうなんだろうか?)そんな状況をよく見ておいて、冬になってからの剪定を決める。どこも良くない状態であれば、思い切って根元までチョキン。これでも、次の春にはまた伸びて来てくれる。但し、花芽はつかないけれど。

9 月 4 日、イワシと小アジを拾って来る。イワシのさばき方を会得してみると、小アジの方がチマチマとした作業が多くて難儀なように思えて来た。あまりに小さいものは、やっぱりマジメにさばくのではなくて、大名おろしでエイヤッとやるくらいの気構えでいる方が良い。どうせ安いものだから、エイッ、エイッと小さな半身にしてしまって、ちょっとくらい肉が残っていても生ゴミになってもらう。時間があれば、中骨もちょっと干してから揚げると美味しいんだけど、油とガス代もかかる、手間賃も、と、真面目に考えると、堆肥か生ゴミが良い所。堆肥は堆肥で、近所に迷惑かかるしなー ...

9 月 3 日、プラスチックで切れる刃物を「インスタントで作る」方法を考えてみようか。果物をひとつ、ふたつ、むいて食べるくらいの間だけ刃が保ってくれれば、それで良い。機内食に出て来る、カーボネイトか何かの食器のナイフ、あれもヤスリで研げば、まあまあの刃がつく。但し、削り屑がすごく出るので、うっかりあんなものを吸い込んだら体に悪そうだ。じゃあヤスリで削らずにナイフで削る?いや、金属製のナイフが使えるくらいならば、それを持って行く。うーん、荷物を預けずに飛行機に乗る場合に、日常生活に使える刃物を持っておくという事の難しいことよ。いや、検査をスリ抜けるような刃物を持ってたら、かえって怪しまれるんだろうか ...

9 月 2 日、2日遅れてやって来るのがン十代の筋肉痛。泳ぎというのは水の中で足を蹴る動作だから、陸上に比べたら筋肉を使わないだろうと思ってしまうのだけれど、筋肉痛なのはつま先立ちに必要な筋肉。日頃はあまり行わない、つま先立ちに近い形のまま足に力を入れる動作を繰り返すので、普段とは違った疲労もたまるのだろう。そういう時には使って治せ、きょうも坂道を歩く。なんか、お巡りさんが沢山、バスに乗って移動しているのであった。まだまだ暑い日中に、重装備でおでかけ中、公務員は大変な職業だなーと改めて思う。当方は公務員やめて、何年になるんだ?

9 月 1 日、飛行機に乗ると必ず受ける「安全のための案内」、最近は機内のスクリーンに映るだけで味気ないな、地方路線で小さな飛行機に乗る時だけしか、客室乗務員のデモンストレーションは見れないな、と、思っていたら ... 「一部のスクリーンで案内が再生されませんでした」という機内放送があり、誘導路上をトロトロと進む間に久々の実演。マイクからの生音声に合わせて、余分な動きなくピッタリ実演できるのはプロの技。普段は目にしないような場面でも、色々と訓練を積んでいる一旦を伺い知ることができた。もっと知りたい?!いや、聞く所によると、訓練の多くの時間が非常事態に割かれるそうな。そういう場面は目にしたくないものだ。

7 月と 8 月の1行日記