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10月24日、ケーキ屋けんちゃん、いま映像として残っているのだろうか、当時の社会を封じ込めたような作品だった記憶が何となくある。もちろん、ほとんど何も覚えていし、後から上塗りされた記憶なのかもしれない。映画でも何でもそうだけれども、映像作品として残るものは、多分に「美化」されているというか、登場人物が全て俳優であり、カメラで撮影するために物の配置やら証明やら、進行やら、ともかくいじり回した上での画像なので、そのまま歴史の一部として信じてしまう訳には行かないかな。案外、ウルトラマンのような SF 作品の中に、風俗が収録されていたりもする。怪獣が街を壊すし、一見落着してから繰り出す街の光景など。そんな風俗ばかり、virtual に吸い込んでしまう技術も、そのうちできるかな?

10月23日、遠赤外線というキーワード、日常生活でも色々と目にする機会がある。調理器具や、それを使った調理品の解説では、既に一般用語として定着したようだ。ただ、遠赤外線が出る物理的な仕組みについては、とても怪しい記述が多い。黒体輻射を超えて遠赤外線が出るならば、何らかの物質学的な機構が必要だけれども、よくよく製品を見てみると、単に熱容量が大きくて温度変化が抑えられているだけ、という場合が多い。まあ、こういう点を指摘すると営業妨害だと言われるのが関の山だから、怪しいものは見て楽しむだけだ。より波長が長い領域の「テラヘルツ」は、まだ一般用語として定着していない。電磁波の呼称は、波長だったり周波数だったり、視覚的に表現したり、エネルギーだったり、本当にバラバラだ。歴史的な経緯が見て取れて面白いものだ。さて、テラヘルツをキーワード検索してみると ....

10月22日、オーストラリアから、ニョキニョキとアスパラガスが届く季節となった。夏場にも見かけるけれども、今が底値だろうか。あれは背丈を超える植物なので、広々とした場所がないと、まとまった収穫ができない。オーストラリアは広いからなーと、勝手に想像する。実際は、大陸のかなりの部分が砂漠だけれども。オーストラリアは赤道の向こう側、全てが空輸でやって来る。飛び立って、翌日には日本の市場に並ぶそうな。空輸されているものなので、重量あたりの価格を見ると、ボジョレーヌヴォより少し安い程度となる。その計算からは、空輸ワインは瓶を飲んでいるようなものだとも表現できるか。ワインはともかくとして、さっそく茹でて、頂戴することにしよう。

10月21日、生命の起源を探る研究にも、様々な「流行」があるらしいことを知った。ともかく何でもいいから二重膜構造を作ってみるという時代もあれば、高温にしたり放電したりして有機物を色々と作ってみるという、そんな時代もあったそうな。ただ、それで生命が自然発生するということは今の所はなくて、地球の歴史をたどることの難しさを思い知って今日に至るとか。まあ耳学問の伝聞だから、今の最先端(?)がどうなっているかは知らない。ちなみに、物理でもそうなんだけれども、最先端の研究と呼ばれるものは、おおよそ期待外れになるもので、かつ、それで良いのである。大抵は、意外な方面から、ひょっこりと新しい革命が起きる。テンソルネットワークを眺め直していて、いろいろな試みがドブに捨てられた経緯は、よく目立つものだと改めて感じる。

10月20日、電荷が電場を作る、という表現に誤りはないのだけれども、何となくシックリ来ない部分がある。電荷と、その電荷のある部分の境界条件が決まっているだけで、その近隣の電磁場はマクスウェル方程式に従う形で決定される。電磁場のダイナミクスと、電荷という境界条件の組み合わせとして電磁場が与えられているわけで、電荷が先に立つという意味合いはない。(そう解釈しても大きな問題にはならないけれども。)大昔には、遠隔相互作用の立場から電荷が電場を決めてしまっている、そう考えられていた事から、文章表現が固まって、伝統として受け継がれているのかもしれない。秋晴れの日に電荷を想う、ああ勿体無い。

10月19日、学位は何度でも取れる、ということに改めて気づいた。特に、論文博士を設定してある大学に、博士論文を提出するということは十分に現実的だ。自分の代表作で学位としたい、そんな需要があるのかないのかは知らないけれども、不可能なことではない。物理学分野で、同じ学位を二つ三つと持っていてもおかしくないわけだ。まあ普通は、別の分野でそれぞれ博士とか修士の学位を持って、ダブルディグリーと称するのだろうか。... と書いておいて何だけれども、学位は免許証のようなものなので、どこの大学で取得しても、その効力は大差ない。それぞれの人が、どんな研究業績を挙げたか?という事の方がずっと重視される。もっとも、研究は成果が得られる度に、立場としてはリセットされて、皆が平等にスタートラインに立つという、厳しい環境の下で進んで行くので、過去のことをとやかく言っても仕方ない。

10月18日、ゴーヤの季節もいよいよ終わりに近づいて、商品のサイズが小さくなって来た。これから先、不思議なことに真冬でも春先でも、ずーっとゴーヤが入手できる。どこで、どうやって栽培しているのだろうか。冬の間のゴーヤは、種が充実していないものが多く、植えても発芽率が低い。冬に発芽させてどうする?という突っ込みもあるけれども、ともかく室内で栽培というか、少なくともツルが伸びるかどうかくらい、実験してみるのは面白いものだ。問題なく生えては来るけれども、弱い苗はダニやら病気やら、色々とたかられるので、薬品に頼らざるを得ない。当然、何か実を結んでも食べられない。まあいいか、実験だから。

10月17日、雨の一日。雨がそのまま夕方まで降り続くか?と思っていると、夕方に一瞬、すごい夕焼けになった。晴れ間から夕日が雲に差すという、気まぐれな現象だ。こういう偶然をカメラに納めるには、気長に毎日のように、待ち受けなければならない。今日こそ夕焼けになりそうだと、撮影スポットへと出向くと、何も紅くならず、不発ということを繰り返すのだ。また、不意に現れた夕焼けは、その場で撮影するしか手がない。少しでも条件の良い場所へ移動して、と、歩き始めたら、もう光が消えてしまう。日本の緯度が低いと実感する瞬間だ。高緯度の国々の場合、夕焼けの時間は、もう少し余裕がある。北極圏に近くなると、1時間も夕焼けということがあるそうな。

10月16日、秋晴れ。キノコ狩り日和。山にはキノコが沢山生えているものだ。ただ、人々がわけ入れない場所に生えているだけ。標高の低い場所は藪で覆われていて立ち入りようがないし、標高が高い場所へは到達する道も体力もない。アルプスやヒマラヤで、いや日本の山々でどれだけキノコが生えて、単に腐ってしまっているのかと想像すると、勿体ないような気もするし、自然はそれで良いとも思う。キノコの判別は、よく知っている人が見て、ということになっている。それを信じて毒キノコに当たることもある。将来的には、そのキノコの DNA をパッと判定する技術も獲得できるのだろうか?同じ DNA のキノコでも毒だったり、毒でなかったりするかもしれない。菌類へのイノベーションは、これからまだまだ発展するかな。そして山々を見守る AI も。

10月15日、教育を丁寧に丁寧に、毎年のように新しい取り組みを導入して、よりサポートを充実させて ... という改革を試みてはならない。科学の歴史は、先人が苦労して獲得した概念を、いかに整理圧縮して学び易くして行くか?という省力化の繰り返しの結果、ようやく今日のように知識を組み合わせて応用できるところまでやって来たのであって、目指すべきは「いかに少ない労力で教育効果を上げるか?」である。必要のないもの、必要になった時に学べば良いものは、資料として転がしておくだけで良い。基本概念を理解してもらう事が、まず大切だ。そして、そこまでで充分。あとは放置しても、自然と獲得できるものなのだ。昔の大学の講義って、そんな感じだったかな、今も同じだとは思うけれど。

10月14日、遠隔講義の影響は?ええと、光熱水量は確実に減っただろう。交通費も、減っている。集中講義も遠隔になると、遠隔地からわざわざ神戸までやって来てもらう必要もないし、実は選択肢が広がる。地球の裏側からでも、集中講義をお願いすることが可能だ。但し、謝金の振り込み口座は国内にある方が手続きが楽だろう。経済学では、関税というものがエネルギー消費を抑える働きをしていると説かれて久しい。今は税金ではなくて、渡航ルールによって人々の移動が制限された結果、航空機のエネルギー消費が消えてしまっている。世の中の仕組みが、物流や人の移動についてはブロック化して行く予兆だろうか?世界中が同じように開発され尽くす時、そのような社会になるのだろう。今はまだ途上、遠隔講義の取り組みもまた、いきなりの実証実験段階である。秋晴れを眺めつつ、ふと考えてしまった。

10月13日、ダニにカイガラムシにアブラムシ、あの小さな虫たちが葉に取り付くだけで、随分と植物の成長が遅れてしまう。何気なく薄汚れた葉を、よく見るとビッシリと虫がついていたり、葉脈のような栄養を運ぶ部分に待ち受けるように取り付いていたりする。濡れた布で綺麗に拭き取ると、しばらく後に新芽が出始める。そんなに沢山の栄養を吸い込んでいた、そして捨てていたのかと驚きを交えて実感する。駆除する時にはまず、ムシだらけになる素地から取り除く。風を通し、光が当たるように剪定なり葉の取り去りなり行って、上から下へと幼虫が渡って来ることのないように、上の方から駆除して行く。薬物も有効なのだけれども、使い方によっては人間の方が先に駆除されてしまう。バランスが難しいものだ。

10月12日、スーパーマーケットに、ハロウィンのお菓子が並ぶようになった。今年はどういうハロウィンになるのだろうか。お菓子をもらって回るというのは、何だか「自粛されて」しまう気がする。実施しても問題ないと思うんだけど、自粛のご時世という流行(モード)に、今年は完全に入り込んでしまっている。袋詰めしたお菓子を配るのが関の山なのかなー。なお、お菓子は並ぶのだけれども、例年に比べると飾り付けがシンプルだ。カボチャとか、誰でも触るようなものは目に入れない、消毒が厄介、そんな所だろうか。クリスマスも、そういう流れになりそうな予感がする。今年はサンタクロースの代わりに、防護服に身を固めた白い人々がプレゼントを配るなんてね。

10月11日、ガラクタの整理をしていると、インクジェットプリンター専用のコーティングされた用紙が出て来た。スマホの登場で、写真というものが使い捨て、あるいはクラウドに置いておくものになった現在では、もう使い道のないものだ。昔はカラープリンターの需要もそこそこあって、プリンターも用紙も高価だったし、プリントに失敗してはカタルシスを得る日々だったなー。今となっては夢のまた夢。インクジェットプリンターは、現在ではどちらかというと、製造の現場で使われる道具となった。食品に絵や文字が印刷してあるのは目に見える使い方で、回路基板や様々な部品を造る際に必須の道具として社会を支えている。で、使わない用紙はゴミ箱へ。このようにして世の中の経済は回って行くのである。

10月10日、台風が去って、北風がやって来た。ビュービューと音はするものの、地上では大した風にならない。北風の時は、概してそんなものだ。神戸で強い風になるのは、海が開けている西からの風か、南からの風の場合だ。四国そして淡路島の存在は実に大きくて、大阪湾は風から守られた海となっている。大学から眺めていても、白波も何も立っていない状況で、数多くの船が錨を下ろしてジッとしている有様は、むしろ「行き先がない」状態から生じているのかと思う。神戸に集結していた実習船も、瀬戸内などの各地で停船中。関西空港の周辺だけ、レーダー画像の空白が。一昨年?に橋が破壊されて、少し改められた停泊のルールだ。

10月 9 日、台風は四国の南にあって、秋雨前線の北の端がずーっとかかって、冷たい雨が降り続く1日。秋台風は季節を進める、そんなイベントだろうか。スーパーマーケットでは、栗が出回るようになった。栗は種なので長持ちしそうな気がするのだけれども、放置すると水分と甘さが抜けてしまって、単なる縮んだ種になる。入手したら、サッサと処理しないと、美味しさが飛ぶのだ。韓国では、甘い栗を生食することもある。栗は渋皮まで完全にむくと、重量が半分くらいになる、そんなものだと考えて作業を進めるのが良い。皮の部分は、大昔だったら燃料になったんだろうなー、今は廃棄物だ。ゴミ火力発電くらいには役立つのだろうか。南に離れた台風を眺めながら、今日も書き物だ。

10月 8 日、キノコの季節が再びやって来た。パック売りのキノコも安い値段になっている。工場というか、小屋の中でキノコを造るにしても、温度管理などが楽なのだろう。さて大量にキノコを買って来たら、ひと晩、紙の上に広げて水分飛ばし。すぐに調理に取り掛かると深夜になってしまうから、ちょっとした時間稼ぎ?でもある。そして、掃除して鍋に入れて、味醂と醤油と砂糖を加えて、ゆっくり火を通す。急ぐと、あまり美味しくないものになる。松茸が安売りになっていることもあるので、入手できたら、使える部分だけを細かく切って、煮物に加えると香りが増す。貧乏人の松茸は主役ではなくて、隠し味なのである。全然、隠れてないけど。

10月 7 日、今年は前期にバタバタと遠隔講義の対応をしたので、後期がスンナリと普通に始まったのを見届けて、何だか一年がもう過ぎ去ったかのような気分になってしまう。但し、対面授業はごくごく限られた数だけが開講なので、キャンパスで見かける学生の数は非常に少ない。特に、夕方以降は居残りの大学院生を除いて、誰も居なくなる。これが一時的なことか?というと何とも言えない。教室を使わなくても講義できるではないか、わざわざ交通費を払って同じ場所に寄り集まる必要はないではないか、というと、確かにそうだ。来年度以降も継続して、一部の講義は遠隔で行われるか、あるいは遠隔での参加が可能となって行くだろう。ある意味、バリアフリーな世の中へ移り変わる訳で、必然の変化なのかもしれない。

10月 6 日、ヤシの木、よく学校や公園に植っている。実ができると落ちて来る危険もあり、台風で倒れるかもしれないので、街路樹などには適さない。ヤシの木とよく似ている、ココスヤシというヤシの木もよく見かける。葉の様子が少し異なるけれど、遠目にはヤシの木だ。パッと見て一番異なるのが実で、ココスヤシは小さな実がたくさん成る。これを少し大きな鳥が食べて、種をポイっと糞に出すので、これは何だろう?という小さな子葉が地面から生えて来ることがある。このココスヤシ、どうも通称名あるいは商品名らしくて、学名とか分類名を探すと yatai という名称がヒットする。ヤタイヤシじゃあ売れないだろうという事だろうか?

10月 5 日、1日につき1分以上、日没が早くなって行く時期なので、太陽を手掛かりに時間を測ろうとすると、誤差が大きなものになってしまう。暗くなったから、もう帰ろうと思っても、まだ5時前だったり。そうそう、秋冬の4限目というのは、暗くなる頃に終わるのだ。5限目になると、もう真っ暗というか、完全に夜。天体観測には好都合だ。ただ、まだヤブ蚊が飛んでいて、夕暮れになって辺りの気温が低くなると、周囲よりも温度が高い人肌にまとわりついて来る。ブンブンと、そしてチクリと。秋の蚊も、夏と同じように痒いのである。相手は節足動物、ずいぶんと大昔に進化の枝分かれをした動物だ、敵ながら素晴らしい能力を持っているものだと思う。人間が造ったドローンなど足下にも及ばない ... 少なくとも現在は。

10月 4 日、庭づくりで一番楽なのが、真四角な日当たりの良いまっ平な地面に、一週間に一度、芝刈り機をかけるだけの草庭。春先には一面に小さな野の花が咲き、その後は芝とも雑草ともつかない、ともかく何でも生えてる緑のカーペットとなる。樹木が生えて来ても、芝刈り機にかかって、切り取られてしまう。狩る間隔は長いのだけれども、公園の芝生などが、こんな感じで管理されている。最初は芝生だったのだろう、何年かすると、芝生というよりも雑草のカーペットに。ただ、世の中、そんなに都合良い土地ばかりではないので、日陰には何を植えて、日向は何にしようか?など、あれこれと考えて庭づくりに手をつけるのである。手を広げ過ぎると管理が追いつかなくなる。控えめが大切だ。

10月 3 日、講義室で、どのように講義するか?という、スタイルの選択は、かなり自由度がある。講義の効果がどれくらいあるのだろうか、大学で学ぶ教科・学問にもなると、教科書という文章から吸収することが重要であり、講義はどちらかというと、その読み物を助けるキュー出しのような役割と、質疑応の意味合いしか持たなくなる。あるいは、何かをまとめて伝えるという技術について、学習という形で受講者に移転しているのかもしれない。あまり良くないと思われるスタイルが、延々と講義の心構えを語るような、どちらかというと義務教育的な授業形態だ。最前線にもなると、道徳もヘッタクレもなく興味のままに人類未踏の知識へと挑むので、学問の理解についてトウトウとウンチクを傾けても仕方ないと、思うのだ。これは教育のことであって、いわゆる研究者倫理とは、また別の問題だと思う。

10月 2 日、とても良い秋晴れの日になったので、昼間から遊びに行こう ... とは進まない、金曜日も土曜日も日曜日も作文だ〜。作文が仕事になってかれこれ何年になるのだろうか、もっと色々な論文を読んだり書物に目を通したり、あれこれとやってみたい気はするのだけれども、溜まり込んだデータやら結果やら、出版に至らずに手元にある論文のカケラなどを再編集して、何とか形あるものに持って行かないと、それぞれの時期に共同研究していただいた皆様に顔向けできない。arXiv に乗せたままというものもあるな〜。というわけで、日没の辺りだけカメラを持って散歩するだけにしよう。

10月 1 日、工作に大切なものは、工具とともに治具。物をつくりあげる途中で、完成品でない状態のものを、形を保って保持しておく道具や、工作の支えとなる下地を整えるもの、工具を当てる角度を決める平面を出すもの、工具による危険を防ぐもの、ともかく治具を十分に準備しておくかどうかは非常に大切なポイントだ。必要な治具が途中で見えて来た時には、面倒でも治具から先に作った方が、後々の手間を減じることとなる。それで、工作が終わった後に残る治具をさて、どうしたものか?と。そのままでは、単なるガラクタだし、同じ作品をまたいつか作るとは限らない。やっぱり捨てようかな。

9 月30日、大学に活気が戻って来た。いよいよ明日から対面授業の一部実施ということで、キャンパスへの立ち入り制限が実質的には解かれた(??)こともあって、ガイダンスをはじめ、施設の下見など様々な必要に応じて、学生が通学し始めたのだ。この半年間、いや8カ月間は、キャンパスが閑散としていて、さびしかったことこの上なく、大学の主は学生であるということを再認識した。教員は? まあ教員は添え物くらいの存在で良いのではなかろうか。教員がまず先頭に立って学生を引っ張って行くようでは、大学が潰れる、社会が潰れる。食堂の利用が増えれば、生協も潰れなくて済む。昨年度くらいまで利用が戻ることは、近未来では考えづらいので、何らかの方策が必要だけれども。

9 月29日、今年、2020年は、W. Lenz が Ising Model の着想を得て ... 少なくとも論文として発表してから ... ちょうど 100 年目にあたる。Lenz は他にも色々と業績があるので、模型の名前は弟子の Ising の名前で定着してしまった。こういう事は、よくある事で、後世の人々にとっては、誰の名前でも全く不都合はない。区別が付けば良いのである。そういう意味で厄介なのが「ローレンツ」という、ドイツ人のコモンネームで、しかもドイツ系の移民も含めて綴り字が一定しない厄介な名前。ローレンツ変換、ローレンツゲージ、ついでにローレンツ - ローレンツという、人を試すような面倒なものまである。Ising が、世界的には割と珍しい名前でよかった、よかった。

9 月28日、重い物が、時として必要になることがある。漬物石だとか、押し豆腐の重りだとか、木工用の圧着に使ったりとか。が、重い物は得てして、不用品の代表格でもある。気がつくと、身の回りに重い物はなし。洗面器に水を張ったり、バケツに水を入れるという手はあるのだけれども、例えば漬物石に使う場合だと、だんだんと傾いて来るという事もあって、バケツと水では、ちょっと心許ない。重りを置いた状態で、ずっと見守らなければならない。地震でも来たらおしまいだし、こぼれたら後片付けも大変だ。というわけで、さて、と、探し歩いていたら、実は自分が一番重い事に気づく。仕方なく、しばらくの間、上から押さえて、じっと我慢したのであった。

9 月27日、グリーン車、何のためにあるのだろうかと、ずっと不思議な存在だったのだけれども、駅を眺めていると、お金持ちという風情の方はまあ使われているとして、電源確保のためにパソコンを構えている方の利用もままある。そして、ご高齢の方の利用というのも少なからずあるのだと理解した。おおよそ、駅の階段やエスカレーター、場合によってはエレベーターから近い位置にグリーン車の車両がある。その短い距離を、小さな歩幅で少しずつ歩いている、それもじれったいくらい遅く。そんな光景を目の当たりにして、なるほど、これは大変だと感じた。バリアフリーというのは、何も車椅子だけの問題ではないのだな〜。

9 月26日、木材には、適当な加工性という長所がある。材料を確保しておけば、削るなり切るなりして、自在に様々なものが形作れる。木造の建物に囲まれているからだろうか、木工には生まれながらにして慣れ親しんでいる気がする。石工だとか金工だと、こうは行かないし、粘土は乾かしたり焼いたりしている内にサイズが変わってしまうので、精密加工が難しい。ともかくも、木工である。今回は、ちょっとした小物を造る目的で、まず材木のストックとしばらくニラメッコ。ホコリをかぶっているので、それを雑巾で綺麗に拭いてから、さてノコギリを握って、加工加工。ガルニエ先生曰く「ノコギリは軽く引け」との言いつけを守りつつ。

9 月25日、気がつくともう金曜日だ。今週は秋の中にも夏の熱気がこもった、曇りがちな一週間だった。まだジェット気流が弱くて、しかもブロックされたまま動かないので天気の移り変わりがゆっくりしているのだ。こう書くと天気が上層からやって来ているような印象になるけれども、そもそもジェット気流は主に下層からのエネルギーで流れが支えられているので、どちらがどっちとも言い難い。強いて言えば、下層は短期的な変動が激しくて、上層は積分的に少し長い時間のスパンで物事が考えられるという違いがあるだろうか。昨日ぐだぐだと書いた、短期金利と長期金利のような、互いに相互作用し合う現象の一つかもしれない。来週は、晴れの週になるだろうか?

9 月24日、長期金利と短期金利という言葉がある。少しだけ先のことの準備と、十年百年先のことの準備は、違った考え方で臨む必要があるということだ。もちろん、この区分けは連続的なものであるはずで、物理学の視点から眺めると「金利の時間に対するスケーリング則」のようなものがあるのだろう。また間違いなく、金融工学と呼ばれる学問分野で既に様々な議論が行われていることだろう。ここまでが前置き。商売の才覚がある人は、人々よりも少しだけ先を読むらしい。お客さんの来ない神戸港で新しい観光船を導入するとか、お客さんの絶えた夏前の時期に店舗改装するとか。教育機関にも、きっとその才覚は必要だ。大学生活を楽しめる大学を早々に打ち出している所と、最後まで自粛そして自粛の所、行く行くは大きな差がついて行くのではないだろうか。

9 月23日、台風がやって来て天気が崩れるという予報は、運よく?外れて、まあまあの天気となった。上空にジェット気流が流れていることもあって、薄曇り。まあまあ暖かくて、連休からこちらの良い陽気だ。もっとも今日は、週明け。今週は短いので、あらゆる雑用が、この短い4日間に詰め込まれている。それを予測して、既に月曜日から仕事のメールが舞い込んでいる、それはそれで、ありがたい事だと思う。週末や夜中に仕事のメールを送るなと、怒る人もたまにいるけれども、それは単にスルーができないだけなのだと思う。レフリーの依頼なんて、真夜中どころか未明に飛んで来ることもある。即レスして驚かれることもしばしば。地球は丸いのだ。

9 月22日、植木鉢の植物が根腐れ。原因は?と、土を見てびっくり、水が張っている。底の穴が目詰まりしてしまって、水が通らなくなったのだ。こんな状態で大丈夫なのは水草くらいだ、鉢をひっくり返してメンテナンス。そもそも、この鉢は堆肥を作っていた鉢で、土の中に半分くらい、刈り取った草木がそのまま入っている。ヤスデやミミズの力を借りて土に戻すつもりが、水浸しでは進まない。それどころか、今の季節でもヤブ蚊が繁殖する恐れがある。なるほど、堆肥になる途中の草木が網目のように積み重なって、その間に粘土が入ったか。全体をかき混ぜて、少し新しい堆肥も入れて、詰め直し。余った土は、その辺りにバラ撒いておいた。

9 月21日、卒業生から結婚の知らせが入る。自然に愛が育ち、一緒に暮らし始めるというのは、実におめでたい事だ。もちろん、一生を独身で過ごすというのもまた素晴らしいことで、与えられた時間を自分の好きなように使う自由は、とても素晴らしいものだ。婚姻ステータスに関わらず、人生を楽しめれば、それで良いのだということになるだろうか。断り書きが長くなってしまったけれども、幸せに結ばれる縁に自然と巡り会うという、そんな場面を目にするのは、傍目にも喜ばしく感じられる。ジジイと呼ばれる年になってしまったからだろうか。山あり谷ありか、それとも平穏にか、これから時を過ごして行くことになる、羨ましいな〜と。

9 月20日、今日は午後から曇りだし、大した夕焼けも出ないだろうとタカをくくっていたら、最後の最後、日没直後に反射夕焼けが出た。うまく、西側に雲の隙間があって、海に差し込んだ光が反射したのだろう。こういう事があるので、夕焼けのハンティング(?)は気が抜けない。理想的には、澄んだ空気、抜ける青空に一部だけウロコ雲が出て、そこが真っ赤という状態を期待するのだけれども、そんな日は年に何度も訪れない。今日くらいの、少しドンヨリした大気の夕焼けでも、十分に満足するべきだろうか。いい写真が撮れたら、それはそれで嬉しいのだけれども、SNS に投げると、みんな同じように夕焼けだったりする。独自性がない投稿はしたくないので、今日の夕焼け写真は封印だ。

9 月19日、彼岸の頃から後になると、そろそろ野朝顔の花がつき始める。暖かい南向きの石垣などであれば、そのまま11月の初めまで花だらけとなる。そして冬が来ると地上部は枯れてしまって、地下茎からまた生えてというサイクルで翌年も楽しめる。寒い冬に土の中まで凍ってしまうとリセットされるので、神戸あたりで野朝顔が自生している場所は見かけたことがない。鹿児島を巡った時に、いたる所で野朝顔を目にしたのは印象的だった。そんな思い出が、ふとよみがえって来る秋の一日。そろそろ、どこに出かけてもいいんじゃないか、コロナもインフルエンザと同等くらいに感染を避ければいいではないか、と、思える日々となった。

9 月18日、勉強して知識を蓄えることには、負の側面もある。これは、演劇の型を学ぶとか、将棋や囲碁の定石を学ぶということに通じるもので、確たる意味や意義を考えずに、何となく定説を頭に入れていると、新しい試みや発展を阻害してしまうのだ。地理や歴史などにも、このような固定概念が散りばめられている。例えば西岸海洋性気候と聞いたら、ああ大陸の西岸の、と考えてしまうのだけれども、同じように大陸の西岸であっても、そこに開ける大洋の大きさや、海流の流れ具合で気候は全く異なって来る。観測された生データに目を通して、それぞれの場所の気候を理解して行かなければならない。目を物理学に転じると、基礎となる方程式との付き合い方が問題となる。実験的に実証されて来たものではあるのだけれども、持てる精度の限りにおいて検証を繰り返すという実験には常々、頭が下がる思いだ。

9 月17日、神戸大学の建っている六甲のあたりから東へ向かうと、川を渡って御影に入る。ちょうどその境目の、六甲側が高羽と呼ばれる地域で、その名の通り高羽小学校も建っている。辺りには南北を貫く道路が走っていて、これは元々、谷であった場所を埋め立てて造った平らな土地だ。その脇には、谷底を流れていた川が水路として整備されて流れている。さて、道路に大きな歩道橋がかかっていて、渡った場所にお地蔵さんが数体。阪神淡路大震災で、この地でも多くの方が犠牲となったそうだ。山を削った鶴甲の辺りは土地が頑丈で目立った被害がなく、埋めた場所から扇状地にかけて建物の倒壊が出たとも聞く。相関のあることかどうかは何とも言えないけれども、心理的に、わからないでもない話だ。静かに手を合わせて、さて今日も研究。

9 月16日、公園のサツキ、青々とした目に見える部分は表面のごくわずかな部分で、中は枯れ枝だらけとなっている。乾燥質量で勘定すると、枯れ枝の部分の質量の方が大きい状態だ。時々、これが原因で植え込みが虫食い状態に枯れ込むことがある。これをどうするか?いちいち、剪定ばさみを入れて枯れ枝を取り去ろうとすると、とても効率の悪い作業となる。厚い靴底の靴で、枯れ枝をどんどん蹴り倒す、踏み倒すのが手っ取り早い。ただし、怪我には十分に注意して。生きている枝は、間違えて踏んでも、しなって折れることはない。枯れ枝はバキバキと折れて行く。このようにして、ある程度の目処が立ったら、次は変な方向に絡むように伸びている枝の、思い切った伐採。こうして、十分に風も水も日光も届くようになると、隙間へと向かって根元から新しい枝が生えて来る。思い切った伐採、何も植物だけのことではないよなー。

9 月15日、9月も半ばとなって、ようやく暑さが一段落した。例年だと、この頃に運動会だろうか。運動会がなくなって、運動会の練習というバカバカしいものも消えた、というのはコロナの効用だろうか。一度消えたものは、容易に復活してはならない。教育が立ち上がった時に、それがどのような姿であったのか?を思い起こしつつ、ただの慣習としてダラダラと続いて来たことは、この機に整理しなければならない。大学の教育で考えるべきことは何だろうか?講義にしても実験にしても、モバイル機器や実験器具の進化、情報の入手経路の整備などに比べて、カリキュラムは昔のままという感じだ。何でもいじれば良いという訳ではないけれども、削れるものは削って、学習教育に余裕が生じるよう、整備して行かなければならない。

9 月14日、生活の中でだんだんと溜まって来るものの一つが、食器。お皿、カップ、グラス。かつては、景品の代表格であった。今は、粗品という概念が絶滅したのではないだろうか、ボールペンや付箋でさえ、使う機会がない。あ、脱線した、粗品ではなくて食器だ。日頃に使う食器は限られているし、来客があるわけでもない ... お客さんには、綺麗なレストランで楽しんでもらうのが一番楽だし ... ともかくも、いつの間にか増えてしまった食器をガサッと断捨離。もともとが土を焼いただけの陶磁器なのであるから、これが本当の「土に還す」ということかと思う。文明は石器と土器から始まって、今ではすっかり、ごくごく小さなシリコンとセラミックの世の中になってしまった。

9 月13日、ちょっと涼しくなったから、たまにはすき焼きでも食べようと肉を買い求めるも、日曜午後には売り切れ続出。特に、美味しそうな断面の肉から真っ先に売れて行くので、残ったのは切り落とし、奉仕品。少しだけお世話すると、普通に使える肉なので、まあ良しとするか。すじ肉は案外、売れ残っている。まだ、煮込み料理には向かない季節なのだろう。購入した肉は、脂肪の塊を取ったり、筋の所を切ったり、外したり。あまり触り過ぎると、手の熱が伝わって良からぬことになるので、手早く、ざっくりと。そのまま、割り下の配合で調味料を入れて、野菜と肉、豆腐など鍋に突っ込んで加熱するだけ。すき焼き風煮かな。

9 月12日、梨の季節となった。大昔は、二十世紀と長十郎、この話は毎年書く。香水が革命的な梨で、その出現により従来の品種は過去のものとなってしまった。香水とどう関係あるのかは、よく知らないけれども、その後は新水とか南水など水のつく新品種がどんどん出て来て、今日に至る。今も、もちろん品種改良は続いているのだろう。生物学的な観点から言うと、種から結実まで、ともかく短い時間で済ませる技術が確立したら、品種改良に大革命が起きる気がする。工場で、たっぷりと二酸化炭素と光を吸わせて、温暖な環境で。昼と夜のサイクルも、24 時間が良いとも限らない。あまり滅茶をすると枯れてしまうだろうけれども、種から一年でミカンが採れる木が育てられるならば、試してみたいものだ。

9 月11日、学会や研究会はリモートでできてしまう、という事実は実証された、されて来てしまった。セッションに参加している時に、電話がかかって来たり、対面での相談などが舞い込むことがある。これは判断に迷う所だ。学会に参加しているのだから、その間は何がやって来ても応対しないぞ、と決めてかかれるかどうか。メールや SNS での依頼であれば、未読スルー、既読スルーという手があるし、致し方ないことはメッセージを出した側も、ある程度は理解しているはずだ。一方で、実際に誰かが部屋を訪れて、そこで「また後で」となると、やはり角が立ってしまう。使える時間は有限であるという、当たり前のことを再認識する機会となった。

9 月10日、大学の近くで更地が売りのままとなって、もう何ヶ月経つのだろうか。売れないのは、売主の考えている値付けと買主の見た経済価値が離れているからで、そういう状況が続いていることが伺える。大学の近くのアチコチで、このような空き地があることから、社会状況なのかとも感じる所だ。大きな空き地には集合住宅が、というのが今までの常識だったけれども、駅から離れた場所では、段々と戸建ての分譲にシフトして行きつつあるようにも見える。将来的に廃墟となるような建物を作りたくはない、そんな雰囲気があるのだろうか。山の上に建っているマンションの幾つかが、既に ...

9 月 9 日、天気図を見ると前線が2本。これをどう考えるか?ジェット気流との対応を考えると、大気の中のどこかに速い流れがあれば、その南方に前線が居ると解釈できる。が、どうも、一本しかない。下層の収束が明確に見えるか?というと、それも何とも。しかしながら、雲の列は二列になっている。うーん、日本という陸地があることによって、前線が2分割して見えるのだろうか、それとも気団として本当に2段階に分かれていると解釈する方が天候と天気図の一致が良いのだろうか。850 hpa の気温も微妙だなー。前線の解析は天気図を描く最後の最後だから、まあ一本だろうと二本だろうと、その辺りに悪天候があるという事実に変わりはないのだけれども。要するに、ナントカと秋の空だ。

9 月 8 日、御影の山手に、その昔、信じられないほど広い敷地を持つ豪邸が幾つもあって、今もその地域の風格に影響を残している。まず、現代的な感覚で言う所の豪邸(?)が幾つもある。良く管理された団地 ... 団地と言っても、それぞれの住戸が庶民感覚を離れて立派 ... も散在する。パッと見て地中海やスイスの山奥にやって来たのでは無いだろうか?という風情の建物もある。これらが統一的に地域としてデザインされている訳でなく、バラバラと並んでいる雑然さはご愛嬌。眺めの素晴らしさ、細い山道を譲り合って歩く人々、時々見かける土着の外国人、この界隈は田舎的コスモポリタンなのだろうか?と、そんな訳のわからない感触を抱きつつ、散歩から戻って来た。

9 月 7 日、台風が朝鮮半島に去ってから、風向きが紀伊水道を通り抜ける方向となった。船舶の位置を見ると、神戸空港から、ある距離の内側に船舶はいない。過去の連絡橋事故を繰り返さないために、停泊禁止になったとか。風速 10 m くらいなので、大きな客船はおおよそ平常通り運行しているけれども、関西空港と神戸を結ぶ高速船は、普段とは違う場所で停泊したまま。一部の観光船も、営業中止。どうせ、このような天気では、お客さんも来ないということだろうか。神戸発着の有名なレストラン船は定時に出航。但し、神戸港から出る通常の航路ではなくて、湾内を2周するとコースで運行。海の上も空も、日頃とは様子が違っていて、安全と営業のバランスは難しいものだと思う。バランスと言えば、コロナ対策は、少しやり過ぎてないか?

9 月 6 日、かつらぎ町という町名に接して、それはどこだろう?と地図を見に行ってびっくりした、広いのだ。電車の駅の周辺から、ずっと山奥までが一つの町なのだ。かつらぎ町の公式 YouTube があるというのもまた興味深くて、色々な映像が up されている。有名な果物の産地で、今の時期になると美味しいものだらけらしい。さて、その映像の中で、ひときわ目立つのが「横笛の詩」というオペラ。全編2時間もある。どの自治体にもホールがあって、箱物行政などと揶揄されることもあるのだけれども、こんな風に活用されているんだと、しっかり情報発信している取り組み方は、見習いたいものだ。町という自治体に、こういう底力があること、これもまた国家の基礎なのだと感じた。

9 月 5 日、三宮の商店街でも、気がつけば閉店しているお店がアチコチという状況となっている。人通りはだいぶん戻って来たのだけれども、人々の消費のパターンが変わってしまったのかもしれない。名の通ったスイスの時計を扱うお店も、9月中に撤退なのだそうな。メーカーが、ネットショップで大々的に商売を始めてしまうと、実店舗での営業との間で利益を食い合うことは疑いようがない。店舗で見て、いいなと思ったら、さらに選択肢の多いネットショップで購入、そんなことも時々あるわけで、店を構えての商売はますます厳しい。大学の中であれば確実に利用しに来てくれると、そう考えていた生協の店舗でも、似たような状況だろうか。大学に宅配の食品・食事が届く?あまり考えたくないことだ。

9 月 4 日、量子力学の状態という概念と、その時間発展の方程式は、ちゃんと(?)閉じた体系になっている。量子力学的な世界だけがこの世の全てという立場と、何ら矛盾しない。量子測定とか観測とか呼ばれる部分に、古典世界が絡んで来ると、公理的には閉じていても、物理学としては「何だ?」という問題意識に突き当たる。何だ?というのは、決して量子力学的世界を疑う訳ではなくて、古典世界と呼んでいる観測者を量子力学的に構築し難い点にある。量子コンピューターは、この古典的な世界からの設定と読み出しが必須で、情報システムとしてはほとんど古典的かつ一部量子的という、ハイブリッドな技術となっている。この辺りが、流行の秘訣だろうか?

9 月 3 日、台風一過、いや通り過ぎたのは、遥か西の海、チェジュ島と対島の間。今日は南から湿った空気が入り、どんよりした空だ。時折、熱帯の強風が吹き込む。秋台風らしからぬコースで、日本の東から張り出す高気圧の勢力がまだまだ健在であるらしい。強い日照が今日はお休みとなったのは、ちょっとした幸い。昔だったら、9月から新学期で、夏が終わって曇ったなーと感じたかもしれない。今年は夏の高揚もなく季節感もなく、そのまま秋へ。ハロウィン辺りにエネルギーが集中するだろうか?仮装感覚の気味悪いマスクが流行るだろうか、クリスマスはやって来るのだろうかと。先々のことを考えても仕方ないので、味覚だけでも秋を楽しむ。今頃にしては松茸もサンマも安いし。

9 月 2 日、ゴミ箱を見れば、燃えるゴミ、燃えないゴミ、ペットボトル、それぞれどのように処理されて行くのかは不明だけれども、ともかく分別されての収集だ。燃える、燃えない、下一段活用だったっけ?他動詞になると燃やす、燃やさないと上一段、ちゃうちゃう、国語文法だと五段活用になる。語幹が変化すると見るわけか。燃やす、燃やさないと Y の発音が入る仕組み、経緯など、ふと気になる部分がある。元々は燃えるの方にも Y が入っていて落ちたのか、後から燃やすに入ったのか。こういうことを、逐一考えるのがアマチュア学問の面白い部分で、言語学者はずっと多くの事例が頭の中にあって、普遍的に論じて行くらしい。アマチュア音楽とプロの演奏家の違いと、少し似てるかもしれない。

9 月 1 日、歩行者から見て「怖い車」は?消去法で語る方が手っ取り早いかもしれない。まずスポーツカーとかオープンカーは除外。みんな、街中をトロトロと「展示走行」してて、どちらかと言うと周囲に良く目が届いている。そもそも低い回転数では馬力が出ない。大型車も、一般的には除外。視界が良くて、左折の巻き込みと下りの坂道で急停車しかねる点にさえ注意を払えば、実に物理法則に忠実に動くので予想が立ちやすい。で、本題の怖い車は、少しばかし車高の高い大き目の自家用車。狭い路地にどんどん入って来るところが怖い目に遭いやすい理由だろうか、歩行者から見て「安全な間隔」がなくても、結構突っ込んで来る。それはサードギアだろう、と言いたくなるのは大昔からのペーパードライバーだからだろうか。


2019
7 月と 8 月 (映像収録編)
1 月と 2 月 (暖冬珍病編) 3 月と 4 月 (在宅勤務編) 5 月と 6 月 (遠隔講義編)
2019
7 月と 8 月 (夏空日傘編) 9 月と10月 (残暑熱帯編) 11月と12月 (讃岐行脚編)
1 月と 2 月 (ダイエット編) 3 月と 4 月 (平成令和編) 5 月と 6 月 (講義出張編)

2018
7 月と 8 月 (酷暑昼寝編) 9 月と10月 (神風来襲編) 11月と12月 (国際会議編)
1 月と 2 月 (教務調整編) 3 月と 4 月 (早桜花見編) 5 月と 6 月 (方向解釈編)

2017
7 月と 8 月 (東西行来編) 9 月と10月 (台風暴風編) 11月と12月 (胃痛通院編)
1 月と 2 月 (朝オムレツ編) 3 月と 4 月 (激戦挑戦編) 5 月と 6 月 (研究員待編)

2016
7 月と 8 月 (研究行脚編) 9 月と10月 (技術鍛錬編) 11月と12月 (SLOVAKIA編)
1 月と 2 月 (共形情報編) 3 月と 4 月 (朝型昼型編) 5 月と 6 月 (昼夜逆転編)

2015
7 月と 8 月 (机前執筆編) 9 月と10月 (講義ゼミ編) 11月と12月 (懐古探訪編)
1 月と 2 月 (赤筆修正編) 3 月と 4 月 (客人来神編) 5 月と 6 月 (地球半周編)

2014
7 月と 8 月 (離陸着陸編) 9 月と10月 (玉翠準備編) 11月と12月 (テンソル編)
1 月と 2 月 (雪面滑降編) 3 月と 4 月 (花粉飛散編) 5 月と 6 月 (東奔西飛編)