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11月17日、アンデルセンの童話に、クリスマスツリーの物語がある。どういう話か、ここで3行書くだけで、尽きてしまうほどの短い童話(?)なので、中身については皆さんに読んでもらうとしよう。さて神戸に、とても大きなクリスマスツリーがやって来たと、話題だ。あの大きさの樹木は、たぶん、移植できない。何とか移植して根付かせようと思ったら、根を小さくした分だけ、枝葉も減らして様子を見る必要がある、そんな気がするのだ。大きさはともかくとして、最近、古木を強引に街中や建物の中に飾り付けるイベントによく遭遇する。樹木の中には、桐の木のように憎たらしいくらい再生能力のある物もあれば、移植しようとするとアッサリ枯れてしまう物もある。まあ、樹木を生花のように使って何が悪いという意見にも一理あるか。山林の管理は大抵、切ることで育つ空間を空けることが仕事だからなー。

11月16日、グラフ用紙をどう使うか?という質問をよく受けるのだけれども、実は私は「グラフ用紙は何を持って来ても構わない」派。もちろん、図に描いて示したい、あるいは発見して行く関係式から、自然な縦軸と横軸の選び方というのは、厳然として存在するはずで、それに見合ったグラフ用紙が手元にあれば、それに越したことはない。しかし、その「最も似つかわしいグラフ用紙」だけを尊び、それ以外の紙について不適切であると言い切るのは、ちょっとマズいように思っている。というのも、関数電卓の機能が付いたスマホやタブレットはゴロゴロしているので、普通のグラフ用紙の横軸や縦軸を対数に取ること等の工夫は容易だからである。マズさを感じるとすれば、描き方よりも、むしろ点を打つデータの取り方にある場合が多い。示したい関係式が綺麗に見える訳ではない範囲でデータを取っていれば、いくら数多く点を打っても、何も見えない。何も見えなかったら立ち止まって、データの取り方や図の描き方を検討するという、ステップこそが大切なのである。

11月15日、昨日、通常よりもプレプリントの数が多い魔の火曜日に、プレプリントサーバーが落ちた。これはエラいこっちゃ、と、見守っていたら、今日の昼前になって、火曜日と水曜日の分量が合体して、公開となった。2日分くらいのプレプリントの題目を目でなぞって行くだけで、1時間は軽く消費する。それだけ研究学習が深まるというわけではなくて、単に、新聞を読んでいるに等しい作業なのだけれども、もう惰性で 20 年間も続けているから、今更後に引けないのだ。Tensor Network の文献スタックに、どんどん、論文を放り込んで行くこの作業、あと、どれくらいの間続けることができるだろうか。何事も健康あってのこと。養生しないと。

11月14日、雨の日があれば晴れる日もある、季節の移ろいを感じさせるのが11月の気候だ。朝方は三歩あるけば濡れてしまう強い雨であったけれども、昼過ぎにはおおよそ降り止んで、薄い霧が棚引く曇り空のまま夕刻を迎えつつある。山は色づき始め、様々な野鳥を養って来た柿や木の実もだいぶん少なくなったようだ。道を歩くと、この時期に咲くツワブキの黄色い花や、野菊の薄紫色が目に入る。このような自然の営みの一部として、人々の世界があるのだろうか。大阪湾に視線を落とすと、今日は霧が濃くて、瀬戸内海への入り口となる明石海峡大橋までは見えない。その先には、陽のあたる穏やかな海が広がっているだろうと想像しつつ、静かに時を過ごす。

11月13日、統計力学を学習してもらう段取りについて、最近、考える所がある。大抵の教科書は、まず孤立系のミクロカノニカルアンサンブルから記述が始まる。等重率という、それほど厳格に認める必要はないけれども、一応信じておけば正しい熱力学関係式へと到達する、一見するともっともらしい考え方から入るわけだ。しかし、孤立系というのは統計力学で「一番考え辛いもの」の一つであって、色々と誤解を招くことになる。カノニカルアンサンブルから入ると、天下りにはなってしまうのだけれども、体系としての無矛盾性はすぐに示せるし、ミクロカノニカルアンサンブルへの帰着も容易である。何より、ボルツマン因子さえ丸暗記しておけば、様々な問題解決に即刻役立つという長所がある。今度は一度、カノニカルアンサンブルから始めてみようか。

11月12日、洋梨をもらったら、どうするか?という、長年の課題がある。最も自然な食べ方は、少し柔らかくなって、香り漂う頃に皮をむいて、そのまま食べる、だろう。それ以前に食べようとすると、カスカスの食感で全く美味しくない。但し、よーく味わってみると、カスカスな時でも糖度は十分にある。今日、とあるお店で、解決方法を一つ知った。コンポートにして食べれば良いのである。芯のあたりまで美味しくいただける。そうと知って、よーく思い出してみると、フルーツ缶詰に入っている四角いジャリジャリしたフルーツは、洋梨だ。なーるほど、大昔から、加工食品向けには、どんどん使われていたわけだ。特に、舶来の缶詰にはゴロゴロと入っていた。懐かしい思い出だ。

11月11日、マクスウェルの気体分子運動論、どうしてマクスウェルがそこに興味を持ったのか?ということを、今まであまり掘り下げたことがなかった。実は、熱力学が大成しつつあった頃の研究で、クラウジウスなど、記録に残っているだけでも幾人かの研究者が、原子論に基づく気体の研究をしていたのだ。そういう時代の中で、分布関数というものにいち早く目を付けたことが、その後の統計力学の発展に大きく貢献することになった訳だ。この仕事だけでも、十分に歴史に名を残していたであろうマクスウェルは、電磁気学の総まとめにも寄与しているのだから、天才以外の言葉が見つからないのである。

11月10日、明日から学祭ということで、学内が何だか騒がしい雰囲気に包まれている。単に、普段より学生の数が多いというだけのことかもしれない。日付が変わる頃から雨が降って、明け方には止むのではないか、という所で、今年の天気はまあまあだ。学祭で何があるのかというと、はて、何が?というのが傍目からの実感。あれは参加することが楽しいのであろう。... あろう、と、書いているのは、私自身、大学祭に参加したことがないから。音楽系の部活動をやっていたので、学祭の時期は、いつも秋合宿と称して集団で山に篭っていたのだ。というわけで、今年もまた海辺から大学を見上げて、ぼーっと過ごすことになるだろうか。

11月 9 日、原子がいっぱい飛び回っている絵、思い描くのは簡単なのだけれども、実際に描こうとすると、なかなかしんどいのである。図が大きいと、余裕で千個くらい描くことになる。こうなると、もう手では描けない。ベクトルデータを乱数発生させて、まずファイルに落としておいて、図へと吸い上げることになる。いや、ひょっとしたら、手で何とかする方法があるかもしれない。タイリングというズルは、比較的見破られやすいので、拡大したり、縮小したり、回転したり、色々とバレないように工夫して描くと何とかなるか。... と言う風に、相反する思考をズルズルする内に、時間が過ぎて行くのである。思考に溺れるくらいならば、どちらか一方を選んで、サクサクと作業に取り掛かる方がマシだ。

11月 8 日、紅葉の季節なのだけれども、木々に葉無し。最大瞬間風速 50 m が吹き荒れた台風で、かなりの木々が枝葉をもぎ取られてしまったからだ。残った葉も、紅葉を前に、チリヂリに痛んで茶色くなり、気がつくと地面の堆肥原料と化している。よーく見ると、場所によって風の影響にかなりの差があることがわかる。建物を風が通り過ぎて行く場所に立っていた木は、そもそも台風の翌日には葉がなかったし、倒れているものもあった。そんな中、以外とシブトイのが桜の木。緑の葉は落ちずに残り、今きれいに赤くなって、秋の姿を楽しませてくれている。台風で倒れる可能性があると言われて、伐採予定だった桜の木はというと、台風で倒れなかったけれども、予定通り今月中には伐採だとか。

11月 7 日、気体の気の字、もともとの旧字が「氣」で、中に入ってるのが米になっている。中国の簡体字では「气」で、これはエラく簡略化したものだと思っていたら、実は象形文字の頃の気の字体は三やΞみたいな三本の線で描かれ、气の方が本来の文字だということを知った。そういえば、汽車の汽の字には何も入っていない。いつの間にか米が入って氣と化した、不思議な歴史がある。まあ、漢字は「どんどんくっつく」性質があって、旧字の世界では闔閭とか蟲とか、いやいやもっとトンデモない文字が沢山あるから、ちょっと米が飛んで来たからと言って、いちいち気にしない方が良いのかもしれない。でも氣になるなー。

11月 6 日、ヘッドフォーンのハウジングが、樹脂だろうと皮だろうと、聞こえさえ良ければ関係ないや。と、昔は思っていたのだけれども、長く使っていると樹脂製のものはボロボロに崩れてしまうのだ。ハウジングを買って来て取り付ければ良いのだけれども、新品を買うよりも高くつく。新品を買ったら良いのだけれども、まだ使える古い方は .... と、しょうもない貧乏経済学に取り憑かれて身動きできなくなるのである。皮の方はというと、中のウレタンがクタったら詰め替える必要があるにはあるのだけれども、長持ちである。結果として、ランニングコストが低いかどうかは別問題として。

11月 5 日、またまた、ノンビリと物理基礎の教科書を眺めてみる。高校理科の基礎科目の教科書には A4 の「大判」と、通常の B5 判のものがある。大判の方は、記述内容が指導要領そのままで、章末に科学史物語などが記載されている。B5 判の方は、「発展」と称して、昔々は最初の年に教えていた内容が、かいつまんで記述してある。本気で理科を教えようと思うならば、B5 判を使って、発展の内容まで取り扱うことになるのだろうけれども、それぞれの教育の現場で可能なことかどうかは、わからない。科学の裾野が広がるのであれば、大判の採択も十分に歓迎されるべきものだと思った。アマチュアが沢山居ないと、専門家も出てこないし、食いぶちも乏しいのである。

11月 4 日、連休2日目、今日も一応は雨が降らないという予報だったけれども、寒冷前線が通過する時に、いや、前線が通過した後で寒気が入り込む時に空が暗くなって、パラパラと雨が降った。時雨のようなものだろうか。遠く南には、寒冷前線本体の積乱雲が見えた。その後、北風が吹いて気温がやや下り、夕暮れが早く訪れた。空の低い所に雲が棚引き、夕日を隠してしまったのだ。夜は無料のギターコンサートへ行く。ギターの合奏というのは、収益が見込めないところもあって、必然的にアマチュアの公演となる。そのレベル、結構高いものが「混ざっている」ことが多い。玉石混交とはこの事で、時々でも素晴らしい響きがあれば、十分に満足なのである。

11月 3 日、穏やかに祭日、とは言っても祭日なのは日本だけ -- かどうかは世界中を検索してみなければ判定のつかないことだけれど -- なので、プレプリントサーバーにアクセスして、論文を読む、というか、タイトルを見る。この作業、結構時間がかかるので、何らかの手段により自動化すれば良いのだけれども、やっぱり、タイトルやらアプストラクトの端が目に入ることは重要で、時々思いもよらぬ文献が目に止まることがある。そういう経験もあって、いまだに目を通し続けているのである。午後には、チラリと物理基礎の教科書を眺めて、力の単位が N (ニュートン) であるという記述が目に止まってしまった。基本単位で kg m / s^2 と、積極的には書いてくれないのだ。うーん、教育現場では、どう教えているのだろうか?

11月 2 日、最近、あちこちで空き地が目立つようになって来たのである。空き地というよりも、建築予定地と表現した方が良いかもしれない。不動産の一部である土地の価値が、まだ保たれていることの証なのだろうか。まあ、誰も住んでいない古屋が解体されるのであれば、それはそれで新たに利用されて、経済的価値も生まれて行くのだから納得もできるのだけれども、建ってからまだ30年も経たないビルまで、どんどん解体されるのだから、いよいよ来たか?と思う所もあるのである。解体の憂き目に遭うのはというと、塩漬け状態に陥った贅沢な造りのビルだったりする。コスト感覚というものから外れると、使い辛くなるものかもしれない、建物は。

11月 1 日、文章を定められた長さに収めるということ、結高面倒な作業だ。まず、読者が持ち得る時間を想像しなければならない。その辺りに転がっている文章を1分間も読むことが、そうそうあるだろうか?新聞記事でさえ、社説や特集でも無い限り、1分はかけない。連載小説は、その辺りを上手く狙っていて、味わって読んで1分、そして「つづく」となる。論文という厄介な書き物にも、こういう要素は必要なもので、上手く段落を接続しないと「次を読んでもらえない」悲劇に遭遇する。そういう、忙しい人向けに、文章の最初の方に総まとめのようなものを書いておくことも大切だ。さて、書き物、書き物。

10月31日、分子の動きをシミュレートするのが、分子動力学という手法。量子力学が支配する分子の世界を、古典力学で見てみようという趣向だ。このシミュレーションが、何を行なっているのか?について、真面目に議論した文献があるかどうか、私は知らない。分子が衝突して散乱される量子力学過程から、古典的に対応する軌道を選んで次の散乱へと計算を進めるわけで、ある意味で「量子統計系の古典サンプリング」となっている。経験的には、これでマクロスコピックな熱力学量を正しく得ることができる。ブラウン運動はというと、ガイガーカウンターと同じで、量子力学的な観測過程なのではないか?まあ、こちらはもう、散々議論されたことだろう。

10月30日、「ほんとうですね」と、外国人向けの日本語教科書に書いてあった。この表現、おそらく滅多に使われないものだ。関西では耳にすることもない、「せやな」など、もっと軽い表現が幾らでもあるからだ。仮に使われたとしても、末尾の「ね」は超クセ者で、確認の意味であったり、強調であったり、暗に否定する意味だったり、受け流したりと、様々な使われ方があるので、日本語の初学者に安心して教えることができない。あ、そうか、一つだけ使われる場面をイメージできた。「もうしません、ごめんなさい」「本当ですね!」... 初学者には使って欲しくない言い回しだ ... これすら、関西では「ほんまやな」かもしれない。

10月29日、台風の雨風はそれなりに強く、一時は傘をさすことができない風雨が吹き荒れたけれども、早々に止み、日差しが戻って来た。遮ることのない夕日が、濡れた地面を照らし、やがて夕焼けが空を紅く染める、何とも言えないヘンテコな夕暮れとなった。無灯火の自動車が全く見えない、怖い光の具合でもある。そんな道端を歩く自分もまた、自動車から見えていないものだと思って、左右をキョロキョロしつつ歩いて、海辺を散策した。波はまあまあ、高かった。

10月28日、ハロウィーンの夕暮れ、街はどんな賑わいだろうか?と、一瞬だけ歩いてみるも、雨傘をさした人々が街をうずめる状況が目に入るだけで、面白くも何ともないのであった。もっと夜更けまで粘れば、色々と出て来るのだろうけれど、仕事も抱えているし、早々に退散した。電車で戻って来る、その車内に、むしろモンスターが多かったくらいだ。大抵は、猫耳が付いてるとか、顔にシールを貼ってるなど、ちょっとした仮装で、根性を入れてるのはそんなに居なかった。自分の姿はというと、単純にいつもの通りのカラーで、何も特別ということはないけれども、いつもと同じように浮いていたかもしれない。

10月27日、職場にストレステストなるものが届いて、これ、開いて回答するのが面倒くさくて、封筒をそのままにしておく。すると、毎日のように封筒が目に入って、ストレスを感じるというわけである。さてそのストレス、物理学を学んだものがストレスというと、これは応力のことであって、ストレス・テンソルなるテンソル量で変形と結びつけられるのである。では他の分野では?会計関係でストレスというと、要するにお金が足りない状態のことらしい。分野ごとに、様々な使い方のある、このストレスという言葉、西欧の言葉ではラテン語の strictus まで遡れるとか。ただ、途中で色々と混ぜこぜになって、今の英語の用法になっているらしくて、全貌を理解することは難しい。ストレスがなければストレスレスかい?いや、それは、ストレスフリー。

10月26日、中庭を見ると、植え込みが大変なことになっていた。まず、ツル植物が夏の間に伸びて、土のある部分からタイルの部分へと脱走した状態になって、そこへ土ぼこりが溜まり、「領土の拡大」を行いつつある。その状態に、上から落ち葉が積もり、知らない間に腐葉土の山が出現。葉っぱならまだ良いのだけれども、コンビニのオニギリの容器だとか、紙くずなどが投げ込まれている。うへっ。これでは、来たるホームカミングデーの日に、卒業生に見てもらえる状態ではない。まず、ツルを切って、目立つゴミを拾い、腐葉土をかき出せる隙間を作った。一気には作業できないので、乾かしつつ、順に進めて行こう。

10月25日、台風の影響が、少し遅れて、木々の葉に現れて来た。風で葉が飛び、スカスカになった木も、葉が残った木も、よーく眺めると残った葉が引きちぎられていたり、枯れ始めていたりする。枝葉だけでなく、根や幹も傷んでいるのかもしれない。木々を見渡すと、てっぺんの、樹冠の部分で、このようにスカスカになってしまっている。流体力学で習う通り、粘性がある空気の流れは、地面や障害物から離れるほど、強くなって行くわけか。ただし、どんな割合で増えて行くか?というのは、難しい。渦があると、その渦よりも大きなスケールでの粘性を変えてしまうし、台風の風が定常流であるはずもないし。(流体力学は、やっぱ、役に立つ学問だなー。)

10月24日、別の場所では、桜の木が倒れていた。桜の木はというと、乾燥した材木は結構硬い。太い枝なんか、絶対に切れないだろうと思いつつも、試しにノコギリを入れてみると、あっけなく切れた。生木の状態では柔らかいのだ。ススキのような雑草でも同じことか、生の状態だと鎌で狩れても、ひとたび乾燥してしまうと、なかなか刃が入らない。ともかくアクセク働いて、道路を半分だけ開けて、自動車が通れるようにした所で作業終了。夕方になっても残っていたので、もう少し切ろうか?と思って眺めている最中に、業者さんがやって来て、瞬く間にチェーンソーで切って取り除き、去って行った。作業中に撮影されていたかもしれない。

10月23日、大学にやって来ると、ありゃりゃ、とある所に生えている木が傾いているではないか。根元を見ると、根の伸びた部分の土が盛り上がっている。何度も強風で揺られ、柔らかくなっていた土が根とともに持ち上げられてしまったのだ。木が傾くと、当然、通行を阻害するし、不意に倒れて人を傷つけるかもしれない。というわけで、枝分かれしている部分から上の 2m ほどを、ぶった切ることにした。その部分の幹の太さは 10 cm ほどもある。根元なら、どうということのない作業も、背伸びしてとなると別だ。慎重に切り目を入れて、最後に倒れる時に人が通らないよう、周囲に目くばせしつつ、ノコギリを引いた。結構、大変だったなー。切った後は、当然、不恰好な木になってしまう訳だけれども、また来年以降、ボチボチと伸びてもらおう。

10月22日、台風の接近で、週末に大学で仕事をすることができなくなり、海辺の自宅に篭って暴風雨に備えた。今回は北風だったので、潮風に悩まされることは、幸いなかった。が、しかし、風は予想外に強く、長く荒れ狂った。気象庁のベージでアメダスを見ると、どういうわけか、神戸市だけ特別に風が強い。なんでやねん?というのが率直な感想。山の方から飛ばされて来たような、屑ともゴミともつかぬものが、宙を舞って海へと飛び去って行くのであった。投票を朝に済ませていて良かった。暗くなってから、SNS に「投票に行きましょう」と流れて来た時には、流石にそれはマズイのではないだろうか?と、思うほどに、強い嵐であった。

10月21日、毎年恒例の、高校の同窓会に顔を出して、旧友と、それに加えて同窓会の付き合いで知り合いとなった人々と、長い時間を過ごした。同じ高校で同じ時間を過ごした人々とは、当時は知り合いでなくても、何かと話が尽きないものだ。バックグラウンドを自然と共有しているということ、これも財産の一つだと思った。二次会もハネて、駅に戻って来ると午後8時よりも少し前で、とある政党が演説をしていた。これはもう、応援するしかないので、囲む人々の後ろに加わって、拍手。いや、そこの選挙区の住人ではないのだけれども、まあ、比例代表は同じ近畿ブロックだから、応援してもバチは当たらないだろう。

10月20日、アリとハチは近縁の昆虫だと聞いた事がある。確かに、良く似ているし、アリも羽を持って飛ぶ個体になることがある。違いがあるとしたら、良く見かける種類のハチとアリでは、ハチの方が随分と大きいという事だろうか。空に飛ぶ方が重たいのだから、ちょっと妙な気もするのだけれども、アリがハチのように大きければ、地面に穴を掘ることもできないだろうし、巣穴の途中で詰まってしまう。軽いミツバチでも、アリに比べると随分と大きい。クマバチやスズメバチになると、カナブンくらいの図体になる。あれで毎日毎日、ブンブン飛び回るのだから、ドローンだと思えばとても効率が良い。... そういえば、ハチ型のドローンって、まだ見たことがない。研究し甲斐があるかも?

10月19日、この季節になると、天気図にもレーダーにも出ない、一時的な雨に遭遇する。レーダーに出ないというのは、ごく短い間の降雨だからかもしれない。時雨。この二文字を、どうして「しぐれ」と読むのか、見当もつかないので検索してみたけれども、判然としない。古文に、少し違う形で出てくるとか、単純に動詞の活用形の一つから来たとか。ついでに時雨煮も引っかかって、ああ、クジラの時雨煮は甘辛くて美味しかったなーと、しみじみ昔の味を思い出して、クジラ缶はあまり流通していないから、牛時雨煮か何かを買って帰ろうかなーと、余分な時間を費やしてしまう。その、時雨煮も語源が判然としないのであった。どこかの方言で使われていたものが、戦乱や参勤交代で「外来語」として標準語に入るなんて事が、あったのかもしれない。

10月18日、今日のセミナーで、学生さんから面白いモデルを教えてもらった。適当な格子の上に A, AB, B の3状態を取る「人」が立っていて、時々隣の人に話しかけるというもの。例えば選挙で、A 候補に投票するなら A 状態、B 候補になら B 状態、迷っていたら AB 状態なのだそうな。話す方の人は、A 状態なら「A をお願い」、B 状態なら「B をお願い」と話すのだけれど、AB 状態ならば半々の確率で、A あるいは B をお願いする。利き手の状態は3通りなので、全部で 12 通りの組み合わせがあって、話した結果どうなるか?というルールを与えておくと、これで確率過程が定義できるわけだ。イジングモデルのモンテカルロに似ている所もあるし、ちょっと違う所もある。これはまず間違いなく、相転移と臨界現象が議論できる系である。で、さて、どんなルールを設定すれば、より面白いんだろうなー?

10月17日、昔々、安い生命保険に加入した頃、営業レディ?の説明では、控除と配当金を合計すると、年間の払込み額と同じになるとの事であった。実際、当初の10年間くらいは、そんな感じだった。やがて金融危機がやって来て、その保険会社が倒産。引き継がれて、保障内容がますます薄くなった上に、(超低金利の今なら当たり前だけれども)配当はゼロ。そして、控除の方法も変更となって、ますます減額となった。これは当然の流れなのである。社会に、控除の仕組みを十分に支える余裕が無くなって来ているのだから。リスクのない配当など、元から幻想だったのである。実は、現状維持でさえ、既に「現実無視バブル」なのではないかと、思い始めている、いや、確信しているのである。さあて、誰に投票しましょうかね。(と、書きつつ、投票する候補は、もう決めている。)

10月16日、「仮面浪人」でググると、252,000 件ヒットした。これは、いわゆる有名校だったら、気にしなくても良いものだろうと思っていたら、あらら、海外の有名な大学に落ちて、仕方ないから某有名大学に「仮面浪人してる」なんて記事も転がっているではないか。(もちろん、それが本物なのか、吊りなのかは吟味する必要がある。)そうかと思えば、仮面浪人歓迎とまでは書いてなくても、入学後の進路が色々とあるということを、暗に匂わせるような所もある。(それが、どういう教育機関か気になったら、探してみて欲しい。)ともかくも、表立って議論することが難しい現象の一つだと思う。ともかく大学に入りさえすれば、他の大学の講義も遠隔で一定数は受講できる、みたいな枠組みがあると、もう少し実を取ることもできるような気がするのだけれど、まだ時期尚早かなあ。

10月15日、放射線の管理区域を示す、三枚羽の赤い印、あれは何を図案化したもの?管理区域の空調の換気扇か何かかと、ずーっと思っていた。意外にも、あの三枚がそれぞれアルファ線、ベータ線、ガンマ線に対応していて、中央の線源から三種類の放射線が出ている図なのだそうな。あのマークは、管理区域に出入りできる場所に、必ず貼ることになっている。では、勝手にアチコチにベタベタ貼っていいのか?と思って調べてみたけれども、ハッキリしないのだ。公然とシールが販売されていたりするから、多分、三枚羽根のマークだけなら、自らの管理管轄の下にある場所であれば、どこに貼ってもいいのだろう。信号機や道路標識と同じように、公共の場所から見える所に貼り付けると、どこかから文句を言われるかもしれない。Tシャツに貼り付けて歩くのは、多分、問題ないだろう。そのまま飛行機に乗ろうとしたり、入国審査の時に着用していたりしすると、別室に連れて行かれるかもしれない。

10月14日、松茸が格別に美味しいか?というと、何とも言えないものがある。天然のキノコは、どれも、それなりの美味しさがあって、松茸だけが特別というわけではない。その中で、流通するだけの量が普遍的に採れて、そして商品としてやり取りしても、あまり急には痛まないもの、そして特徴的なもの、と、消去法で選んで行くと、松茸が残るのだと思う。その香りはどこから?キノコの生える松林に立ち入ると、四方八方から松茸の香りが漂って来る。そこに他のキノコが生えていても、生えていなくても。あれは松の枯葉の腐葉土の香り。では格別に美味しいのはというと、実はシメジや、ヒラタケ。その味が、人工栽培でも現在より「濃く再現」できたら、どんなに有難いことだろうか。

10月13日、昼食の時間帯に、食堂の前で演説している学生団体が居た。はて、どこの?大抵は、配布している「機関紙」から、ベースとなる考え方を知ることができる。今は、個人でも新聞を編集して印刷できる時代だけれども、毎週のように何ベージもの紙面を埋めて発行できる団体は、そんなに多くない。大学の学内で見かけるのは、大きな政党ではない方の、いくつかの支持母体のいずれかであることが多い。大まかに言うと、演説の内容は反政権であって、また反戦である。大まかに、という所がミソで、行動のスタイルや、細かい考え方の差異があることは確かなようだ。ともかくも、これも大学らしい光景の一つかなーと思いつつ、また職場に戻った。

10月12日、大学には、これだけの人が通っているのだから、ちーとは周辺で選挙公報してくれてもいいんじゃないかとは思うのだけれども、公報カーも何もやって来ない。静かな授業風景である。学生団体が何か演説をするという時代でもなくなって来た。どうして?というと、要するに、多勢に無勢で、少数派となった学生達が結託しても、多数の「年上人たち」の投票活動には対抗できないという意識があるのではと、推測している。もちょっと言うと、今や学生運動が成立するだけの学生が集まることの可能な都市はというと、首都圏か、よくいって大阪・京都・名古屋くらいまでだろう。思うに、一票の格差というものは、実は若年者に不利をもたらしているのではなかろうか?意図的であるのかもしれないのだけれど、これが。

10月11日、空港のラウンジ、貧乏人なので航空会社のラウンジには一度も入ったことがなくて、普通のカードで入れるラウンジ、大抵は居心地の悪い椅子が並んでいるだけなので、普段は利用しない。充電のために、無理無理利用することが、タマにあったのだけれども、今はそこかしこにパソコンデスクがあるので、そういう利用もあまり必要なくなった。... というラウンジの印象、羽田空港のパワーラウンジを見て吹き飛んだ。分厚い針葉樹のテーブルで色々と作業ができるのだ。あれは便利で、そして広々としている。今度から、時間があれば、あそこで過ごそう。もっとも、そういう場所から真っ先に、再び混雑するようになるのだろうけれども。

10月10日、体育の日である。(とりあえず、そういうことにしておこう。)この日が「晴れの特異日」と呼ばれているらしいのだけれども、これは単に、統計的揺らぎが消えて行くタイムスケールの中で「たまたま」の事だろうから、そこを強調するのは、科学的にどうかなーと思う。あるいは、特異日だ、特異日だと頭にインプットされてしまうと、気象観測がその言葉に影響されて、晴れに傾いてしまうのではないだろうか。と、言っておいて何だけど、今日も「たまたま」快晴に近い良い天気である。まあ、こういう日には、ボチボチ仕事をするのが良いのだ。

10月 9 日、横断歩道の白い線、車線を分ける線、いずれも、とても堅牢な塗装で地面に描かれている。どうやって描いているのか?と、まあ、問うまでもなく、誰でも知っているように、プロパンガスの炎で温めつつ、塗料を地面へと流し、瞬時に固めてしまう。ただ、冷却されるまでは、それなりに柔らかいようで、塗装作業の直後は、そこを歩かないようにガードマンから誘導される。横断歩道を渡らないように誘導される訳で、厳密には法的にチトまずい気もするのだけれども、そういう細かいことを言うと社会が回らなくなるものだ。何事もいい加減というのが良い。

10月 8 日、予習復習という言葉、あまり杓子定規に捉えてはいけないと思っている。予習で理解できたならば授業に出てくる必要ないし、授業で理解できたならば復習は必要ない。学習は螺旋のようなもので、いずれ同じような題材を、少し高い視点から眺める時が来る。これが、本当の意味での復習だと思う。(但し、理系科目、特に数学の場合、螺旋で戻って来るからといって、論理をスッ飛ばして教科書を単に眺めれば良いというわけではない。)予習をする時間があれば、明日や明後日に授業で習うことではなくて、現在の知識をベースとして、関連する項目を気の向くままに引っ掛けて行くような、遊びを心がけて欲しい、そんな気がしている。

10月 7 日、田町と聞いて何を思い出すか?は人それぞれだろう。恐らく一般的な地名で、全国あちこちにあるのだと思う。私が田町と聞いて思い浮かぶのは、讃岐の高松の、田町商店街だ。昔は結構コアな商店街だったのだけれども、最近は綺麗になっている、あの田町商店街。もっとも、田町で検索をかけると、最初にヒットするのは山手線の田町駅と、その周辺の施設だ。東京に近い割には、落ち着いた街並みの地域だったのだけれども、オリンピックの影響か、とうとう、アチコチで開発が始まってしまった。ちなみに、田町駅に一番近い地下鉄の駅は三田駅で、関西の人は間違いなく「さんだ駅」と読んでしまう。三田は「さんだ」としか読めないのである。

10月 6 日、ポスドクというポストについての、私なりの考えはというと、それは、とりあえず研究の自由を確保するポジションだ。もちろん、何らかの研究プロジェクトを進めるための人材として雇用されているので、その仕事は「てきとうに」こなす必要がある。でも、それに全身全霊を尽くしてしまうのは本末転倒で、色々なサイエンスに興味を持って、首を突っ込んでは勉強し、何か面白いことを見つけたら、「やっつけ仕事」は放っといて、それを進めて行くのが、学位を得て「独り立ちした研究者」となった者の本来の務めだ。新しい研究の芽は、そんな所から不意に生じるものだから。

10月 5 日、緑色のカメムシが出没し始めた。このカメムシ、臭い時には臭いのに、全く臭くない時もある。臭いのと、臭くないのと、個体差があるのか、それとも臭い時と臭くない時があ流のかは、よくわからない。論文で、こういう書き方をすると「この短い文章の中に、臭い臭いと何回繰り返してるんや」と怒られるのであるけれども、臭いモンは臭いのだから仕方ない。あのカメムシの臭さも、パクチーを食べ慣れてから、何となく植物っぽい香りに思えて来たのである。床でじーっとしているカメムシは、踏まれるかもしれないので、手に取って、植木に逃がして、ええと、逃げない。指をぐるぐる回って、最後は木に移らずに飛んで行った。恩返しに戻って来るんじゃないよ! 臭いんだから。

10月 4 日、言葉は面白いもので、日常会話では、文法的に正しく閉じた文章を耳にすることは、むしろ稀なことである。「だから、...」と続けようとした瞬間に、会話の相手が突っ込んだら、そこで文章は切れて、閉じない文となる。漫才もそんな感じだ。一方で、相手が突っ込めない状況の下では、文法的に閉じた文をちゃんと喋ることが重要だ。政治家の演説は、この点では、結構訓練されている。では研究成果の発表ではどうか?うーん、この点が問題なのだ。ハッキリと言ってしまおう。中身が画期的であれば、発表形式なんてどうでもいい。中身が凡庸であれば、ちゃんとした発表をしなさい、と勧める程度のことしか、手助けできないので、発表の予行演習を繰り返すようなことに「なりがち」である。貴方はどちらを選ぶ?

10月 3 日、松の剪定をする。この松、中庭の花壇に自然に生えて来たもので、しばらく育ち放題に育っていた。従って、樹形もへったくれも無い、徒長した姿で、どうしようもない状態のところを、去年の冬から手入れし始めたのだ。でも、正月前に強剪定すると、寂しくなってしまうので、多少のことには目をつぶって、緑を残しておくと ... やっぱり残した所が、毎日のように目についてくる。これではアカンと思い、ついさっき、エイヤッと切って来た。本当のことを言うと、地面のすぐ上で妙な三つ又になって伸びている部分を一本にしてしまいたいのだけれども、今年も見送り。来年の今頃になって、芽がたくさんついたら、その時にまた考えよう。

10月 2 日、(軽い?)原子の 2s 軌道は縮退しているので、sp, sp2, sp3 混成など、量子力学的な重ね合わせが可能だ。もちろん、s 軌道を含まない 3 つの p 軌道の間での重ね合わせもできて、px, py, pz などが作れる。これらの混成軌道は、波動関数の値が0になる「節」を持っていて、外部から摂動が加わらない限り、その節も動かない。この事実は、定常状態の確率密度が時間的に不変であることから導ける。よくよく考えると、あの小さな世界に(原理的には)慣性系を見分ける力があるということだ。px 軌道が Z 軸の周りに、ゆっくり回転するような状態は、逆に回転する加速系に乗って原子を眺めるか、あるいは適当な摂動を加えない限り、実現できない。物理は面白いもんじゃのー。

10月 1 日、原子力発電に使うペレット1個の値段と、その再処理にかかるコストを調べてみよう、と、思い立ってアレコレと検索してみたのだけれども、なかなか、参照資料を含む信頼できる記事にたどり着かないのである。(最終的な保管料は、とりあえず不問にしておこう。)ウランの国際価格は公開されていて、最近はダブついているのか、値段が下降したままだ。さて、原子力発電のコストが火力発電と比べてどうか?という議論が良くあるのだけれども、そこに経済格差が関係していることは、あまり語られない。化石燃料は、経済水域を含む国土になければ、国際取引価格で買うしかない。ウランも事情は同じなのだけれども、イザとなったら海水から集める手がある。そんな手間のかかることを?と思われるかもしれないけれども、手間賃は国や地域によって、大きな差があるのだ。とすると、実は、原子力発電は「原油を買う外貨に乏しいほど、待望されるもの」ということになって来る。海を渡った場所での南北格差が、実はそのまま、原子力への依存度に現れているのではないかと、チラホラと感じるのである。

9 月30日、小麦の輸入価格は、高い時で1キログラム40円くらい、安いと20円を割り込む。米の国債価格は、50円ほど。国内で流通する米は、ええと、色々な銘柄があって、マチマチなのだけれども、200円くらいだったり、それより幾分安い程度。いずれも、玄米の状態での元値だ。一方で小売の価格はというと「お米」となった袋入りが1キログラムあたり400円くらいで、小麦粉はその半値くらいから、お米と同程度まで、実にマチマチである。(いずれも、おおよその値。)21世紀になる頃には人口爆発が起こり、国際的に流通する食物は急騰してという予測は、原油が掘り尽くされてしまうという予測とともに、一応、今日まで外れ続けている。インターネットの効用のひとつかもしれない。エネルギーを使わずに、こもって楽しみ、夜もまた、モバイル端末ばかり眺めて過ごす。世の中、先々のことは予測がつかないものだ。

9 月29日、周期境界条件というのが、どういうものなのか、実はあまり良くわからないのである。そんなもの、存在しないから、単純に計算の便法と割り切ってしまえば良いというのが、一番単純な立場。でもまあ、もちょっと遊んで見たい気分もあるので、例えば立方体に周期境界条件をかけて、その中に一様な電場があるという古典場を考えてみる。(量子場のことは置いておこう。)これは、どうやっても消すことができない電場なのだけれど、スカラーポテンシャルを一価関数として与えようとすると、破綻する。この空間に電荷を一個だけ置くことはできない。必ず2個ペアで置く必要がある。電荷が正反対の、ふたつの電荷は逆方向にどんどん加速して行く。やっぱり何かおかしい。要するに、電場も磁場も存在しない状態から作れる電磁場の配位しか、考えてはダメなのであろうか?

9 月28日、その辺りの空き地に生えている、猫じゃらし、の名で知られる、えーと、えーと、名前知らない草。検索してみる。「エノコログサ」だと教えてくれた。このエノコログサ、よーく見ると、ちゃんと穀物らしく、アワ粒のような小さな種が、びっしりと並んでいる。実際に、食べられるんだそうな。主食として集めることを考えると、途方もない量を刈り取って脱穀しなければならないので、農耕が始まった頃の人類が、これをアテにしていたとは、ちと、考え辛いけれども、まあ、秋の味覚の一つだったかもしれない。どっちかというと、集めるならばドングリの方が楽だ。... でも、品種改良の力というのはバカにできないので、本気で取り組んだら、バリバリと食べられる「巨大猫じゃらし」が作れるかもしれない。こういう趣味っぽい研究があってもいいではないか?!

9 月27日、MacOS 拡張フォーマット (HFS+) のディスクを、APFS に変換できる、と、報道されていたので、試してみた。ディスクユティリティーの、どこにそんな変換ボタンがあるのだろうか?と探したのが間違いの元。ディスク全体をフォーマットする時には、ちゃんとメニューが出てきて、APFS を選べるのだけれども、それを実行すると中身が全部消えてしまう。色々と探して、実はメニューの中に、変換の選択が潜んでいることに気づいた。早速実行。ディスクの中身が詰まっていると、結構時間がかかる。さあ完了。ここに落とし穴があった。タイムマシンで使う、バックアップディスクは、HFS+ でなければならないのだ。信頼性という面においては、20年も使い続けて来た HFS+ の手堅さには、まだまだ届かないということなのだろう。(HFS+が際立って堅牢かと問われると、答えは「普通」なのだけれども。)

9 月26日、MacOS のアップデート、色々な機能が紹介されているけれども、一番有り難いのは文字ばかりの画面のスクロールが、以前にも増してスムーズになったこと。(一応、MacOS の内側での比較ということにしておく。専用アプリだとか、ゲームのスクロールがどうこうと言い始めるとキリがないから。)もっと先々の MacOS で何ができるのか?を占うと、ウィンドウを傾いた状態で置くことができる、なんていう、どうでもいいような機能まで登場して、意外と指示されるんじゃないか?という予感がしている。どうも、画面の上に、縦線と横線ばっかしのものを一日中眺めていると、気が滅入って来るのだ。世の中は「ナナメ」に進化する時が来たのである。

9 月25日、自動詞「ばれる」、他動詞「ばらす」、可能動詞の形はえーと、「ばれれる」とか「ばれられる」は使わずに「ばれ得る」と、もう一方は「ばらせる」。受動態は他動詞にしかないから、「ばらされる」のみ。敬語だったら、ええと、「おばれになる」は苦しいなー、「ばらされる」「おばらしになる」「おばらしあそばれる」。ええ加減にせい!、と、言いたくなる。結局のところ、あらゆる言葉に共通する通り、あまり使わない表現は長ったらしくて、聞こえが妙なのである。この活用は、天気の「晴れる」と、ほぼ重なっている。元々は「パれる」だったのかい?と邪推したくなるのだけれども、そんな用法は、少なくとも高校までに習う古文では見たことがない。... ニセ古文でも作って、ばら撒いておくと、その道の研究者が引っかかるなんてことあるんだろうか?

9 月24日、物理学の研究対象は、物理的に非自明であれば何でも良い。実は、ちょっと研究してみたい対象がひとつ。ヒゲはなぜ剃れるのか?ということ。まあ、通り一遍の説明はアチコチに転がっているのだけれども、定量的に、再現可能な形で論理をまとめるのが物理であって、その定量性が見えない説明は、いくら見ても心に響かないのである。髭剃りメーカーは、色々とノウハウを持っているんだろうけれども、できれば計算物理屋ならではのアプローチを考えたいのだ。ヒゲ剃りの物理シミュレーションである。どんなメッシュを切れば良いのかなー。刃物で物を切る所から、まずシミュレーションを始めないとダメか。やってみよか。

9 月23日、今日、祭日であることを、昼に教えられるまで気づかなかった。普段と、あまり何も変わらない土曜日。そういえば、バスが日の丸を掲げて運行している。そもそも、祭日とか土曜日とか日曜日は、研究者にとっては、特に年齢が高くなってしまった(!)研究者にとっては、まとまった研究の時間を得る、実に都合の良い日なのである。往往にして、週日に片付けられなかった日頃の業務の続きもこなす。場合によっては、週末に出没する学生に、ノンビリ時間をかけて研究打ち合わせをすることもある。「出没する学生に」であって、呼び出したりはしない。それはブラックへの第一歩。そういう感覚で日々を過ごしているけれども、さすがに、今日は大学の人口密度が随分と低かった。やっぱり祭日なんだ。

9 月22日、今年の秋は玄米ブームが再びやって来る! と、勝手に予想。玄米の何がいいのかというと、同じ条件であれば白米よりも長持ちする(確率が高い)ので、備蓄食料向けであること。また、プチプチの食感と、わずかばかり多いビタミン。まあ、白米とヌカを一緒に食べているようなものだから、好む人も好まない人も居るとは思うけれども。大昔の人々は、大量のモミを保管庫に入れておいて、蓄えがゼロにならないよう、古い方から玄米にして食べて行ったのだとか。新米は香りが荒々しくて、一年を経た古米の方が好まれることもあったとか、そんな文章を目にしたことがある。出典が付いてないものだったので、真偽の確認のしようがないけれども。関西風に婉曲表現で言うと「知らんけど」かな。

9 月21日、ひっつきむし、という虫ではなくて、植物のトゲトゲの種の話。ひっつきむしは、ひっつきむしなのであるけれども、その名前がオナモミ、またはオオオナモミであることを、今日初めて知った。後者は帰化植物なのだそうな。ともかくトゲだらけなので、中身がどうなっているのか、知ることなく過ぎ去った日はン十年。未だに何も知らないので、検索してみると ... あったあった。中に、二つの細長い種が入っていて、植えるとフツーに双葉が出てくるのだ。花はキク科の小さな花で、花びらが目立たないこととを除いてフツーのキク科の花なのだけれども、あれだけ花が集まっていてもタネは二つなんだ、というのが、ヒマワリやキクと随分違っている。こうして野山で手に入る植物は、育ててみる気があまり起きないのだけれども、この秋に少しタネを取っておこうか。

9 月20日、ニュートンの名著(???)プリンキピアの題名は Philosophiae Naturalis Principia Mathematica である。Philosophiae (女性名詞 Philosophia の単数属格) Naturalis (形容詞 Naturalis の女性単数属格) Principia (中性名詞 Principium の複数主格) Mathematica (形容詞 Mathematicus の中性複数主格) という構成なので、実は、語順をどう入れ替えても意味が通る。ただし、古典のように音の響きで語順を決めるという無茶なことはなく、フランス語やイタリア語と同じ語順になっている。ラテン語は冠詞と前置詞に乏しいので、何でもかんでも格変化を同定しないと意味を取れない。... って、日本語もそうだけど。数値計算で有名なソフトの Mathematica は、綴りは同じだけれども、女性名詞の単数主格だろうなー、恐らく。この「綴り字が重なっている言葉が稀ではない」のが、落とし穴だらけのラテン語の楽しみかもしれない。

9 月19日、脱皮したエビを食べる料理があるのだそうな。この、脱皮したエビだけを集めるという作業は、どんなものなのだろうか?じーっと水槽の前で待っていても、そんなに頻繁に脱皮してくれるわけではないから、沢山のエビを飼っていて、たまたま脱皮している光景を目にしたら、サッサと捕まえて凍らせるなり、茹でるなりして出荷するんだろうと推測したり、あるいは脱皮ホルモンでもエサで与えて、一斉に脱皮を始めたら一網打尽、そんなんだろうか?何か効率が悪い気がする。思うに、節足動物のイモムシが海水中で育つならば、そうそう、「海イモムシ」である、そんなものが養殖できたら、実は塩味が乗って美味しいような気がするのである。海から上がって、これだけ進化した昆虫でも、海に戻ろうとすると、敵ばかりなんだろうなー。自然界は厳しいものだ。

9 月18日、台風一過で、涼しい朝だ。いや、そんなことなかった。日中に向けてドンドン気温が上がって、日差しもキツくて夏に戻ったかと思ったぐらいだ。風があまり強くなかったらしく、街路樹が落とした枝葉も少なかった。雨が夜半早々に上がったので、道路も乾いて、要するに台風の爪痕なし。良かった良かった。夜にゴソゴソとレーダー画面を見ていた反動が、夕方にやって来て、しばらく意識不明状態に。ハッと気づくと、時計の針、じゃなくて画面のデジタル表示が何十分か変わっているのであった。若い頃のように夜更かしできないのは、仕方なし。スペインで仕入れたシエスタで、後半生をノンビリ過ごしたいものだ。

9 月17日、台風がやって来て、雨ザーザー ... となったのは、何時間かの間だけだった。海辺の自宅に高潮が迫るかと心配もしたのだけれども、近くの水路に濁流が注ぐくらいで、まあ安泰であった。特に、昼間はまあまあいい天気が続いたので、台風通過前の買い物を楽しんだ人々も多かったことだろう。台風が接近するギリギリまで粘って、半額セールの争奪戦に加わろうかとも思ったけれども、これは俗に言う「余分な消費行動」に直結する行いにも思えたので、自粛。アメダスを見たり、降雨レーダーを見たり、衛星写真を見たり、あちこちのツイートを覗いたりしつつ、夜更けを楽しんだ。

9 月16日、簡単なことこそ、間違えやすいものだ。よくニュースになるのが、調合ミス。点滴の濃度を半分にするのが倍になった、と言う類のもの。「ウィスキーを2倍」と聞いたら何を思い浮かべるだろうか?2倍の量のストレート?いやいや、そもそも、ウィスキーをそのまま飲むのは自殺行為に等しい。水で割る時に、2倍の量のウィスキーを入れるか、水を2倍にするか、どっちかの解釈で、さっきの言葉を受け取るだろう。大抵の人は前者で理解するだろうけれども、水を2倍入れる人が居ないとは限らない。酒だったら、まあ、直ちに命には関わらないけれども、薬は怖いのである。この手のミスを、傍目から見ていて気づく人はエラいと思う。大抵は、当たり前すぎて、誰も注目しないのだ。ミスを防ぐには、やっぱり、ちゃんとした手順が必要なんだと思った。

9 月15日、北海道は、いい天気でしたか? という文と、 北海道の天気は良かったですか? という文の違いを問われる。文法的な違いは直ちに説明可能だ。少なくとも、悪名高き学校文法を使ってならば。関西弁では「北海道ええ天気やった?」と「北海道 天気良かった?」のように、語順の違いくらいにしかならず、「北海道の天気」と、名詞の属格(所有格)を持ち出すことは自然ではない。こういう、細かい所ではあるのだけれども、比べてみれば、やっぱり標準語と関西弁というのは互いに同系の外国語なのだと感じる。格助詞は、必要な時にだけ登場する品詞だったのだろう、元々は。今日の標準語では、これが何処にでも出没するから、同じ内容の文章の言い回しが、こんなに沢山あるのだ。まあ、腹芸の自由度が高い言語であるとも言えるのだけれども。

9 月14日、大学の図書館の横に、柿の木が生えている。この木は、当たり年と外れ年がハッキリしている木で、今年は当たり年。枝中がカキだらけで、カキなのか葉っぱなのか、よくわからないくらいになっている。この木が熟す頃、が、問題。これは国有財産であるから、勝手に手出しすることはできない。例年、羽のついた柿泥棒が現れて、甘く柔らかくなった頃に片端から突ついて行く。一昨年も、そうなるか?と毎日見ていたのだけれども、ある週明けに枝がバキバキに折られて、無残な姿となっていた。夜の闇に乗じて、ガードマンが巡回して来ない内に、急いで枝ごとカッさらって行ったのだ。それも、ほとんど全ての実を。今年はどうなるだろうか。あれは、国有財産だからねー。ホントかな?

9 月13日、大学の近くの道路で、白バイ2台に出会った。カッコいい、美しい、キラキラしている。普段、その辺りを巡回しているお巡りさんと比べるモンじゃないけれども、停車中の姿勢にまで気を配っているようで、華のある職業に見えた。夏場は(走っていなければ)炎天下で地獄のように暑いんだろうなー。今日はパトカーにも良く出くわす日で、辻々で出会う感覚だ。覆面パトカーのような自動車も、意味もなく停車している。あれは覆面か、それとも「民間の警備」か、傍目には見分けがつかない。かくのごとく、厳重に守られたこの近辺は平和そのものなのである。少なくとも日中は。深夜にはイノシシが出てくるから、そっちの方が要注意。

9 月12日、論文を投稿する時には、当然、著者全員の合意の下に投稿する。この、著者について、あまり明確な規定はない。ただ、幾つか「やっちゃダメ」と、一般に言われていることがある。研究に関係ない人の名前を並べること。例えば、アイザック・ニュートンを自分の論文の著者に並べてはならない。(これがやりたくて、わざわざ、アイザック・ニュートンという人を見つけ出して、「本当に」共同研究するならば、話は別。)研究の主要な部分を行なった人を著者にしないという、研究の搾取も良くない。資金提供しただけの人を著者にするのも、あまり ...。ただ、いずれにもグレーゾーンは広がっていて、研究設備を貸した人はどうか?とか、マウスに餌を毎日与えていただけの人は?とか、判定の難しい場合も多々ある。研究はできるけど、作文はからっきしダメという人が、プレゼンの達人と組んだような場合も、これまたグレーである。最近の論文は、どれもこれも、著者の数が多いなー。出版論文の数を増やそうと思ったら、何人かで手を組んで、常に共著論文にすれば良い、なんていう冗談とも本気とも思えない話を聞くこともある。たまには単著で勝負しよう。

9 月11日、阪急六甲駅で降りてから、大学に到着するまでの間の通勤路に、桜並木がある。ずーっと昔から ... とは言っても数十年くらいなのだろうけれども ... そこに植わっていた桜は風格があり、毎年、綺麗な花を咲かせていた。その木々に最近、赤いテープが巻かれている。倒木の恐れがあるので、近々伐採するのだそうな。うむ、確かに、幹の半分くらい皮がない桜ばかりだし、長年の無理な剪定によって腐った枝ばかりになっている。これが、河原にでも植わっていたならば、切り倒されなかったろうに。それぞれに、盆栽のような風情があって素晴らしいのだけれども、まあ公道で倒木が発生するというのは避けたいんだろうなー。来年の桜は寂しくなるな。

9 月10日、遺跡に残る文明が起きたのが、まあおおよそ数千年前。その下支えとなった農耕は、2万年くらい(のオーダーだけ)前に始まったらしい。1000 代前のご先祖様というわけだ。1代ごとに 10 Km ずつ移動すると、1000 代で1万キロメートルも動く。あ、それを言い始めると、1日に 10 Km 歩けば、3年でシルクロードを横断してしまうとか、馬に乗れば半年以下だとか、そういう話になるのだけれども、それはそれ。その 1000 代前の頃までは、ヨーロッパでネアンデルタール人が現役生活を送っていた可能性があるのだそうな。以外と現代に近い気がするのである。さて、電話や無線が使われ始めたのが18世紀後半から19世紀の初め。それから今日までの発展は、1000 代後の子孫には情報通信革命とでも呼ばれるのだろう。細かい年表で伝わることは、決してない気がする。あるいは、教育が行き渡る時期として後世に語り継がれるかもしれない。確かなことは、我々が「旧情報時代」に生きているということだ。

9 月 9 日、キーボードを使うのは、多分、石器時代の人間なのだろう。長〜い文章を入力する時に、キーボードの速さに匹敵する入力メソッドがあるか?と問われると、今のところは、それ以外の方法ではトントンが限度だけれども、ひょっとすると「考えるだけで文章が書けてしまう」トンデモな技術が開発されるかもしれない。まあ、それまでの間だけであっても、キーボードは貴重な道具であって、石器時代の石器である。その石器時代の石器が、実際にどのように使われていたのかは、不明な点が多いような気がする。いま、普通に切れる刃物を手にしても、どれくらい使えるかは千差万別だからだ。華麗な石器の使い手がいて、実は美味しい料理をみんなで食べていた、ということも十分にあり得るのである。包丁人が居るんだから、石器人も居たはずだ。どんな石器さばきだったのかなー。

9 月 8 日、いろいろな施設利用の後で、アンケートが届くことが結構ある。意見を求めてどうするんだろうか?という気がしないでも無いのだけれども、指摘されるまで気づかないことも、たまにはあるのだろう。ただ、「当○○を、知り合いの方に勧めたいですか?」と問われても、自分の好みが他人にも共通かどうかはよく分からないから、何とも言えないし「感動する体験はありましたか?」と来ると、もう読む方が恥ずかしくなってしまうのである。いや、まあ、それくらいならまだ良いか。「どこを改善すると、もっと知り合いの方にお勧めいただけますか?」というアンケート項目を見た時には、目眩がした。うーん、こんなんじゃ、アカン。と、他人が実施するアンケートには辛いのだけれども、自分がイザ、アンケート案なるものを検討する段になると、同じ類いの過ちを犯してしまうのだ。はっきり言うと、アンケートなるもので人々の貴重な時間を費やすのは、労力と費用の無駄なのである。

9 月 7 日、カボチャの煮物、水気をあまり使わない方法が、割と気に入っている。蒸し器で蒸して、サッとダシをかけて食べるのが一番のような気もするのだけれど、ちょっと道具が大きくなるので、ごく少量の味醂とダシを鍋底に入れておいて、切ったカボチャを加え、無水調理に近い形でゆっくり加熱する。この時、カボチャが水を出すか、吸い込むかによって、その後の対応が違って来る。野菜だから、加熱したら水を出すモンだと、タカをくくっていると、加熱とともにダシを吸って空焚きになってしまうことがある。焦げてしまったら、調味料の無駄。ただ、真っ黒焦げにならない限り、焦げ臭が全体に回ることはないので、食べられる部分は十分に残る。ともかく、仕上がる頃には鍋から水気がなくなるようにして、煮上がったらサッサと容器に移す。これで、水っぽくないカボチャの出来上がり。冷やすと、サラダにも使えて便利だ。カボチャは、量の割には安い野菜なので、冬が来るまで、ドンドン使って行こう。

9 月 6 日、あれー、久しぶりに gfortran と叩いてみると、通らないではないか。原因は何?迷路に入ったのは、そこで表示されたメッセージを真に受けた事だった。あれこれと1時間くらい調べて、辿り着いた結論は「改行コードの違い」であった。プログラム全体が、なが〜い1行だとみなされていたわけだ。これでは動くはずないのである。さて、調べていたのは行列同士の積が、目の前の iMac (Late2015) で、どれくらい速く動くか?ということ。gfortran の -O3 で、1000 次元行列の積が、組み込み関数の matmult で 0.5 秒くらいだった。4 Gflops くらいかなー。i7 のスレッドは 8 個まで立つから、並列に投げると 32 Gflops か。まあまあの値だろう。アチコチ見ると 80 Gflops くらいまでは optimization の範疇で行くらしい。BLASS は 130 Gflops くらい行く。GPU を使うと、更にその何倍かの performance が得られるとか。あ、いかんいかん、自分で考えたらアカンのよ。これは宿題として提出する、レポート問題なんだから。

9 月 5 日、計算機の能力を活かす、という言葉は何通りにも解釈可能なので、何をもって良い計算パフォーマンスと呼ぶか、その評価は難しい。とりあえず、誰の目にも明らかな指標として、FLOPS と言うものがある。浮動小数点演算を一秒間に、どれだけこなすことができるか?という速さを示すものだ。それぞれの計算機ごとに、最大の FLOPS 値があって、これをフルに使うことは困難なのだけれども、まあ1割くらいは使って欲しいものだ。(昔のベクトル型計算機だと、実際にフルに使える場合もあった。)計算を速くこなすには、その辺りの CPU でも、結構深いパイプライン処理を乱さないよう、プログラムする必要がある。実は、これが結構、計算の初心者にはとっつきにくい題材なのだ。数を入れたら、後は計算してくれるもの、これが計算機だという認識から、計算機の内部構造を意識したプログラムが書けるようになるまで、しばらく時間がかかる。早い人で1日(^^;)、遅い人は永遠(^^;;)。結局の所、この職人芸に、どれだけの価値を見出すのか?という、選択の問題になるのである。ただ、遅い計算プログラムの為に、高価なハードウェアを購入するモチベーションは、なかなか浮かんで来ないのである。

9 月 4 日、大学の中庭に生えて来た松、軽く3年間は徒長させていたので、大木コースで成長している。要するに、新芽が伸び放題。あれは放っとくと、年に20センチから30センチも伸びることがある。徒長させてしまうと、その間からは枝が出て来ない。庭木として、それらしく育てるならば、幹をバサッと切り詰めて、やり直す必要がある。けれども、それをやったら、3年間くらいは更に不格好になる。庭は愛してもらってナンボのもんだ。そこで、幹の長いのはもう観念して、枝の張り方で松らしい風情を出すことにした。これとて、ちゃんと見えるようになるまでに数年はかかる。それでも、松の手入れは楽しいものだ。一番難儀なのは、松の根元にビッシリと生えているイネ科の雑草。いっそのこと、除草剤を撒いたろか、と思うくらいだ。まあ、ヤブ蚊が去ったら、また考えよう。

9 月 3 日、山田さんを訪ねます。山田さんに尋ねます。声に出して読むと、一文字しか違わない。イントネーションが変わる地方は多いかもしれない。訪ねる、と、尋ねる、の、音が重なっているのは、ともに、あまり使われない言葉で、主に書き言葉で使われるからだろう。訪ねるではなく、行くとか、訪問する、を使い、尋ねるではなく聞くとか質問しますとかを使う。日本語を習っている人に「今日、下田さんを訪ねる、山田さんに尋ねます」という文章を読んで聞かせたら、まず沈没するんだろうなー。日本人だと、引っかからなだろうから、もう一捻りして「今日、山田さんを訪ねる、山田さんです」なんていう意地悪をしてみようか、訪ねる相手が同性というのは珍しくはないのだけれども、これを聞いたら「えっ?」と変な顔をするだろう。何でも文法だけで解決できると思うな、という戒めかもしれない。表現こそ文章には必要なものなのだろう。

9 月 2 日、電離層について、最近ではあまり、学ばれなくなったのではないだろうか。昔は、短波放送などで、「フランジャー効果のかかった」妙な海外のラジオ放送を聞いたものだし、それを受信するラジオも身近にあった。あの揺れるような音は、電離層が安定した存在ではないことを如実に示しているのだ。時間的にも空間的にも不均一な電離層を電磁波が進む時に、幾つかの異なる経路を通って受信アンテナに電波が届くことがある。当然、近道した方が先に届き、回り道すると後で届く。これらを積分すると、櫛形の音声フィルターになって、受信音声にエフェクトがかかるわけだ。... と、定性的には言えても、これを定量的に説明・再現することは容易ではない。あ、そんな重箱の隅の話ではなくて、電離層そのものの話に戻ろうか。電離層は、上層大気について学ぶ良い題材なのに、学校理科では触れることが、滅多にないんだよなー。学習のために、実験してみるか?無線の免許を取らないといけないけれども。

9 月 1 日、昔を思い出してみると、田舎の小学校だったから、時々「脱走」が起きた。登校は毎日、集団登校だったから、欠席しない子供達は全て、校門をくぐるわけだ。でも、しばらくすると、あれ、どこへ行った?、○○君は。という騒ぎになる。今だったら、すわ誘拐事件、SNS で拡散してエラいことになってるだろう。いや、何のことはない、近くの裏山に一人で、あるいは何人かツルんで登って、授業をサボっていただけ。そうそう、クラスの男の子たちが、集団で廊下に机を出して、授業拒否したこともあったっけ。いずれも、最終的には「制圧」されるわけなんだけれども、子供だからってバカにするな! という意図は、先生方には十分伝わったと、確信している。時は少し流れて、高校の英語の先生を、本屋で見かけた時の話。成人図書(?)を手にしていたので、ことさら大きな声で挨拶したけれども、全く動じず、堂々と「品定め」していた事なども、なぜか思い出したぞ。


2017
7 月と 8 月 (東西行来編)
5 月と 6 月 (研究員待編) 3 月と 4 月 (激戦挑戦編) 1 月と 2 月 (朝オムレツ編)

2016
7 月と 8 月 (研究行脚編) 9 月と10月 (技術鍛錬編) 11月と12月 (SLOVAKIA編)
1 月と 2 月 (共形情報編) 3 月と 4 月 (朝型昼型編) 5 月と 6 月 (昼夜逆転編)

2015
7 月と 8 月 (机前執筆編) 9 月と10月 (講義ゼミ編) 11月と12月 (懐古探訪編)
1 月と 2 月 (赤筆修正編) 3 月と 4 月 (客人来神編) 5 月と 6 月 (地球半周編)

2014
7 月と 8 月 (離陸着陸編) 9 月と10月 (玉翠準備編) 11月と12月 (テンソル編)
1 月と 2 月 (雪面滑降編) 3 月と 4 月 (花粉飛散編) 5 月と 6 月 (東奔西飛編)

2013
7 月と 8 月 (大橋渡海編) 9 月と10月 (激変日常編) 11月と12月 (印度華麗編)
1 月と 2 月 (感冒養生編) 3 月と 4 月 (東西奔走編) 5 月と 6 月 (枯野夢旅編)

2012
7 月と 8 月 (高空気流編) 9 月と10月 (次々行事編) 11月と12月 (入国管理編)
1 月と 2 月 (厳冬感染編) 3 月と 4 月 (電圧発光編) 5 月と 6 月 (渡西来鴨編)

2011
7 月と 8 月 (飛行少年編) 9 月と10月 (鮮魚包丁編) 11月と12月 (場論執筆編)
1 月と 2 月 (鳥撮光学編) 3 月と 4 月 (日々激震編) 5 月と 6 月 (研屋鍵盤編)

2010
7 月と 8 月 (転地養生編) 9 月と10月 (研磨没頭編) 11月と12月 (涅槃煩悩編)
1 月と 2 月 (蛇行氷上編) 3 月と 4 月 (桜花観光編) 5 月と 6 月 (屈折望遠編)