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12月 8 日、なかなか難儀な手荒れ。これに、強力な助っ人として活躍してくれているのが、オリーブオイルと、馬油。オリーブオイルは、台所にあるから、水仕事が終わった後で、チョイと手に垂らすだけで即効性がある。香りも悪くないし、ほとんど酸化しないので、何かについてベトベトになったり、臭気を放つこともない。馬油は、動物性油脂だけあって、少量で馴染んでくれるという長所がある。いずれも、ひび割れを未然に防いでくれる強い味方。手の皮が厚く感じるようになったら、既にあぶら切れのサインだ。昔は、ターップリ肉を食えば、それで治ったのだけれど、今そんなことしたら、一発で贅肉が付いてしまう。難しいコントロールだ。

12月 7 日、携帯使わない原始人の私。iPad mini は持っている。その辺りの free wifi を引っ掛けて、コソコソとメールを確認する程度の使用だ。そういうわけで、私を「コールする」のは不可能。さて、メールを使う場合、メールサーバーと、メールクライアントという「仕組み」を理解しておくことが不可欠だ。不可欠だ。不可欠だ ... いや、どうも、そうではない世の中になって来たらしい。メールサーバーと、メールクライアント(アプリ)に、同じ名称と、同じ「見かけ」(アイコンなど)を用意して、利用させるという「メールの囲い込み」が広く行われているのだ。ガラ携がそうだったと言ってしまえば、身も蓋もないけれども。もちろん、ちょっと苦労すれば、どんな設定でも可能なわけだけれども、普通そこまで凝らないことが多い。こうやって、世の中は便利で不便になって行くのである。

12月 6 日、蓮根を植えたら、芽が出るのだろうか?と、スーパーで買って来た蓮根を眺める。が、芽が出そうな部分はない。そうか、芽が出る、あの「くびれた部分」は、泥が食い込んでるし、どのみち切って捨てるから、最初から取り除かれて販売されているわけだ。では、節のある蓮根を買って来たら芽が出るのだろうか?これは試してみるしかないか。そもそも、植木鉢の土の中のような、比較的乾いた土で蓮根が栽培できるような気もしないし、泥を準備して「ヤブ蚊のお家」を庭に置くつもりもないのだけれども。ちなみに、ヤブ蚊は、自宅のすぐ裏の竹ヤブから、わんさか攻撃にやって来るので、庭に水鉢を置こうと置くまいと、大差ないといえば、大差ない。いや、更に自宅の脇の用水路からも、続々とヤブ蚊が攻撃して来る。夏場の話だけれど。神戸はやっぱり、田舎だ。

12月 5 日、ひらがなは、パッとは読めないものだ。「なかもり」と「かなもり」という名札を見て、どっちがどっち?と聞かれても「ナントカもりさん」としか答えようがない。もっと長い文章を、仮名だけで書かれたら、もうお手上げだ。これは、仮名文字を使って正書するという習慣がなかったので、書き方も、言葉の使い方も、「仮名文字仕様」では定着しなかった、ということなのだろう。と、書いてて、思い出した。昔、数学の専門書で、漢字を使わないものが本屋の本棚に並んでいたのだ。そんなものが、商品になるという、麗しい時代であった。あれは、一体、誰の本だったのだろうか?

12月 4 日、大阪大学ギタークラブの、OB会活動に顔を出させてもらった。今まで、こういう活動の存在すら知らなかったのである。さて、部活動のごくごく初期のことについて、何かお話を伺うことができないかなーと、思いつつ、恐る恐る問いかけてみると、あらびっくり、「私がつくりました」と。一番、最初のメンバーに声かけしていたのだ。ああびっくり。しかし、もっと驚いたのが、大阪大学でギターにハマっていた学生は、更に古くから存在していて、戦後すぐにフラメンコやら何やらを弾く面々がパラパラと居たのだそうな。いったい、どこからギターを仕入れたのだろうか?音楽というのは、ともかく、時代・場所を問わない趣味なものだと思った。

12月 3 日、大阪大学ギタークラブ定期演奏会へ行く。(神戸大学のギター部も、実は今日が定期演奏会だった。)アンサンブルが中心というのは、学生の音楽活動に共通するものだ。それでも、ソロの力は重要なものがあって、今年は誰が何をソロで弾いてくれるかなーと期待していた。今年はソロなしの舞台であった。その代わり、二重奏が頑張ってくれた。リベルタンゴの二重奏、なかなか良い出来栄えであった。全体を通して聴くと、やはり、阪大ギター部は、タンゴバンドが華だということが、再認識できたのであった。そんなことを去年も書いたような気がする。

12月 2 日、三角形の頂角の二等分線は、底辺を残りの二辺の比で分割する。この事実は、補助線を引けばユークリッド幾何学で証明できる。が、ピンと来ないのである。何となく、そのような比にはならない、そんな直感を持ってしまうわけだ。物事は、2つ以上の方法で説明できた時に、本当の理解へと至る。... と、Feynman も書いている。三角関数を使うと、幾何学と代数の接点としてこの事実を計算で導出できる。まあ、これも、直感には程遠いのであるが。となると、ええと、どうやって「ああそうだ!」という直感へと結びつけるのか、そこが問題となる。似たような、いや、にてないけれども、量子力学で取り扱うコンプトン散乱もまた、直感に押し込めるのは、ひと苦労なのである。

12月 1 日、大学入試の問題、あちこちに転がっている。数学や科学の各教科を、試しに解いてみると、なるほど、色々な背景があって、無駄に難しい出題というものは、あまり見かけない。「あまり」見かけない、で、あって、「全く見かけない」では、ない。高校の入試問題はどうだろうか?私見に過ぎないのだけれども、限られた知識の中から、解きごたえのある設問をという要請からか、単に難しいだけの問題を良く見かけるのである。その複雑さは、大学入試を遥かに超えるものがある。こういうものに立ち向かえるのが中学生であって、ひょっとすると、高校生になる頃には、もうエネルギーの源が落ちて行きつつあるのかもしれない。では大学教員はどうなのかというと、もう、すでに、ガス欠なのである。

11月30日、ウロコの付いた魚の切り身が、そのまま食べられる調理方法を、目の前で見てびっくり。ウナギやドジョウや小魚のように、ウロコが小さいのであれば、もちろん、そのままで食べられるのだけれども、結構大きな魚となると、そうは行かない。ウロコの付いた皮だけをカリカリに揚げて食べるという調理なら、「何とか尽くし」でよく遭遇する。でも、そうではなくて、ウロコの付いたままの、魚の切り身。まず、そんなものを、どうやって切り出すのか、それがそもそも問題だ。魚を三枚におろす時に、ウロコがあったら刃が滑って、切り始めが難しい。調理のプロは、飽くなき探究心があるものだと、感心した。

11月29日、新幹線の、新神戸駅。乗客として利用する部分は、非常に限られたスペースにすぎない。地図を開いてみると、実に広いことがわかる。もちろん、立ち入れない場所がほとんどだ。その、新神戸駅を囲む道路にも、いろいろな穴場がある。もともと、布引の谷に一瞬だけ線路を地上に導くという、ちょっと強引な駅の作り方をしているので、幹線道路から離れた場所に駅がある。そのため、連絡通路・連絡道路が、かなりの面積を使っているのだ。そういう場所を、意識して歩くことは滅多にない。けれども、ひとたび「ここは布引の谷の下の端なんだ」という意識を持てば、実はいろいろな view spot が点在していることがわかる。... お客さん待ちの間に、あちこち歩いてみて、気づいた次第。

11月28日、4回転ジャンプの話。スケートのジャンプ、3回転のものは「何をいつ跳んだか」が、ハッキリ見てわかる。サルコウ以外のジャンプは、スーッとエッジに乗って、そのままパッと飛ぶので、実に明快なのだ。このように跳べるのは、どうやら3回転が限界らしい。3回転半のトリプルアクセルは、パッと前に踏み換える時に若干の回転力を前もって得ている。4回転になると?滑りながら、コーナーでクルリと飛ばずに1回転して、場合によっては2回転した後で、パッと踏切り足を「作って」跳んでいる。最初に見た時には「エッ、いつ跳んだ?何を跳んだ?」と、騙されたような気分になったものだ。見慣れて来ると、選手それぞれに入り方が決まっているから、「このタイミングで飛ぶな」というのが、わかって来る。こうやって、角運動量を稼ぐのは、何だかインチキのような気がしなくもないのだ。もちろん、そこに技量の分かれ目があることは良く理解できるのだけれども。

11月27日、そのあたりを飛んでるスズメ、まだまだ、秋の実りは十分なようだ。昼頃になると、大学近くの空き地に実った、雑草のタネをついばんでいる。地面には、タネの外側の部分だけが残っているから、うまく選り分けて食べているのだろう。これから先、春が来て花や芽が食べられるようになるまで、段々と食物が減って行く厳しい時間を過ごすのだ、たっぷり食べるが良い .... と思って、ちょっと調べてみると、スズメは「食いだめ」ができないらしい。それはそうか、ニワトリみたいに、でっぷりと太ったら、空を飛べなくなるか。カラスが舞うと、サッサと居なくなるスズメ、身軽さが大切なようだ。

11月26日、氷の上で、今日は、飽きもせずに、片足で延々とウィグル。単純に、ウィグル、スネークと言っても、色々な方法があって、体を前に向けたままガシガシと前進するのは比較的簡単。厄介なのが、半円を描いて、また半円という風に、回転に入る動作を含むもの。どうしても、アウトエッジに乗る回転が、疎かになりやすい。逆に、インエッジは深く入りすぎないようにコントロールするのが難儀。こういう回転は、実はバックの方がやり易いんじゃないかと思うことがある。人間、つま先で踏ん張れる分量の方が、カカトよりも大きいのだ。これを補うためか、スケートのエッジは、カカト側に少し伸びている。ともかく、延々、この練習の繰り返しで一日を終えた。

11月25日、草を抜いて、やれやれ、と、思って、抜いた場所をよく観察すると、まだ根が残っている。いや、根なら問題ないのだけれども、残っているのは茎の一部だ。つまり、根元で幾重にも枝分かれしていて、そのうちの一本だけが伸びて実をつけ、あとの芽は何かの時に待機しているのである。そして、育った茎を抜いて満足している人間の裏をかいて、すかさず、その地下のわき芽から再び伸び始めるわけだ。これを手で抜くのはとても手間がかかる。尖ったもので土を掘り返す必要があるのだ。そこで登場、飛び道具のペンチ。土ごと、ぐいっと挟んで、ひっこ抜く。いや、慌ててはいけない。ゆっくり抜かないと、再び取り残してしまうからだ。じわじわっと抜いて、どこもかしこも全て抜けたら作業完了。さて、見渡すと、まだまだ、そんな地下の芽だらけなのだが ....

11月24日、中国のお茶のいれ方を思い出す。改まったような席で、お茶をお願いすると、耐熱グラスに茶葉が入っていて、そこにお湯を注いだものが出て来た。緑茶を飲む日本の習慣からすると、茶葉が飲む邪魔になるのだけれども、よくよく思い出してみると、最後は綺麗に広がった茶葉がグラスの底に残った。「何も誤魔化してませんよ」という、証拠がそこにあるわけだ。じゃあ、日頃飲んでるお茶は?ええと、まずクズになった葉を集めた粉茶は、そこそこ良いお茶です。一度しか出ないけれども、まあまあ美味しい。茎茶も悪くない。抹茶ブレンドのお茶も、特徴を知って使うのであれば、問題ない。番茶は定番。アミノ酸添加のお茶も、結構あって、これは「昆布茶ブレンド」のような味がする。お茶漬けに向いているお茶かもしれない。どれも、ありがたく頂戴するお茶なので、どれを取っても、何も悪くはない。ただ、お客さんに自信を持って出すならば、茶葉の時から美しい煎茶を選ぶ。そのもてなしを、見える形で提供するか、それとも見せないか、その違いが文化の違いなのだろうと感じている。

11月23日、トマトやナスや唐辛子やピーマンが多年草と書いてある書物は沢山あるものの、じゃあ何年くらい栽培できるのか?ということになると、どこにも書かれていない。普通に室内で冬越しさせると、まあ冬を越すには越すのだけれども、条件の悪い冬にはウィルスなどに侵されやすく、翌年はあまり収穫できないことが多い。本格的な温室や、温暖な地域で栽培すると、果たして何年くらい元気に育つのだろうか?一度、インドで、大木にナスビが成る姿を見たのだけれども、あんな風になるのだろうか?

11月22日、機械学習というキーワードが、世の中に満ち溢れている。これは、機械が自ら何かを学習するというもの。その機械学習の話ではなくて、機械の仕組みを学ぶ「機械の学習」の話。コンピューターが、いやいや、携帯やら何やら、ともかく中身に半導体チップの入っているものが、どんな動作をしているのか、その根本的な原理について知る人の割合は、理系人間の中でも、どんどん減少している。学校で「プログラミング」を習ったって?いや、あれは架空のコンピューターを相手にした学習であって、「生身のコンピューター」の特性を知る足しにはならない。じゃあ、コンピューターって、実際はどんなもの?と質問されると、「タワーマンションみたいなもの」と答える。京コンピューターは?あれは、京都の街中だ。どっちも、ちょっと人や車が増えると、すぐに渋滞してしまう。実は、そんな渋滞が、手元の機械の中でも、いつも起きているのだということ、これが「機械の学習」なのである。ああ、また、旧人類のグチが出てしまった。

11月21日、またまたスケート競技の話。スケートは、競技できる場所が限られているスポーツの1つで、特に選手が練習している「夏場も営業しているリンク」では、オリンピックで良く見かけるような一流の選手や、コーチとして働く、かつて活躍していた選手、また、これから選手として活躍するジュニアなど、ともかく「雲の上の人々」がゴロゴロしている、そんな場所で、初心者もまたヨチヨチとスケートを楽しむのである。←半分壊れた、長い文章だった。夕方からの練習では、トリプルジャンプをポンポンと披露してくれるのである。なお、一番信じがたい練習が、ごくごく狭い場所でクルクル、片足で延々と八の字を描く寡黙な動きを繰り返すもの。あれこそ、フィギュアスケートの原点だ。

11月20日、スケートリンクが霧の中。半周すると、向こう側が全く見えないのである。天井が高いスケートリンクでは、暖かい時期によく起きる現象だ。この霧は、夏場のスケートが「陰気なスポーツ」である、原因の1つでもある。霧で見えないだけなら、さしたる問題でもないのだけれども、伏兵が居た。天井からの、水の滴り。結露した水が、天井から降ってくるのである。たくさん降る所では氷に穴があき、少しだけ降る場所では逆に氷が盛り上がる。どっちが、より怖いかというと、盛り上がる方。こんなコンディションなので、本気で体力づくりする事は早々に諦めて、延々と片足のウィグルを練習した。

11月19日、卵の「お尻」にある、わずかな気室、ここを正確に探り当てる方法はないものだろうか?気室の部分に小さな穴を開けて、熱湯に放り込むと、綺麗に丸いゆで卵になる。穴が気室から外れると、茹でる途中で白身がハミ出して来て、また、気室の部分が膨らんでしまい、かえって窪みの大きなゆで卵になってしまう。というわけで、気室探しの方法を思案。叩いた時の音がわずかに違うのではないかとか、あれこれと試してみるも、今日は何も確証を得ることができず、ひとまず撤収。穴を開けた時に、気室でなければ、気室に行き当たるまで穴を開け続けるという、原始的な方法で、とりあえずの対処とする。

11月18日、コーヒー豆を、丸のままタップリ急須に入れて、熱湯を注いで待つ。コーヒーっぽい、何かが出来上がる。飲んだ感じは穏やかで、コーヒーっぽくない。しかし、カフェインは十分に抽出されているようで、コービーを飲んだ後のホットな感覚が体に満ちる。じっくり抽出されるので、丸一日、お湯を継ぎ足して飲むことができる。あ、そうか、これは、あの西部劇に出て来る、ヤカン入りのコーヒーなんだ、と、一人納得。なお、たとえ薄くても、結局は出がらしの豆になってしまうので、十分にタップリとコーヒーを飲んだことになる。カフェイン中毒にはご用心を。

11月17日、広島からの帰り際に、原爆ドームまで足を運ぶ。川が流れる、広々とした場所で、毎日でも散歩したいような、そんな場所だ。そこに、地域の小学生がやって来る、修学旅行もどんどん来る、海外からも人々が訪れる。普遍的なものが、ここにあることを感じた。また、生き証人として体験を語る方々がまだまだ活動していることにも驚いた。さて、ドームの写真を撮ろうと、あちこちから狙うも、なかなか構図が描けない。平和なのである、どこもかしこも。しばらく考えて、平和な風景をそのまま撮れば良いのだと思い直して、シャッターを切った。

11月16日、広島駅から西条まで、36 分。距離の割には、短い時間で到達できる。そこから先、広島大学までは、直通のバスならば 10 分くらいだろうか。普通でも20分で駅まで到着。バスと列車のダイヤは、ちゃんと接続するようになっているから、1時間もあれば、余裕で広島・西条間を移動できる。最初、地図を見た時には、もっとかかるのかなーと心配したけれども、電車と交通機関の連絡は、なかなか良い。ただし、うっかり売店で買い物したりして、その目の前で電車が発車して行くのを目にすると、結構がっくり来る。次は 20 分後、なんて、そんな。

11月15日、広島にやって来る。まず気づくのが、自転車の文化。ともかく、乗っている。平地ならではの文化なのだろうかと思いきや、山間部でも乗っている。故郷を思い出すものがあった。どどどーっと前から自転車がやって来ると、何と表現したら良いのだろうか、まず目のやり場に困る。丈の短いお召し物で自転車に乗って、時に立ち漕ぎ。同じように外国人もまた、自転車に乗って観光しているのだけれども、こちらは完全防備だ。そう、二輪車はどんなものでも、転倒の危険があるから、肘や膝を出したまま乗るのは、あまり推奨できないのだ。ま、いいか、自分のことじゃないし。

11月14日、11月の今頃は、先にも書いたように、日没が一番早い時期だ。また、曇天の合間に時雨がやって来る、そんな日が続く。そんな日々を思い起こして、ここ数年の11月を振り返ると、様々に考えることがあり、教育の中で何か改善をはかれたかどうか、自問する。大学の教育は1対1の要素が大きい ... と良く言われることもまた、本当かどうか、よーく考えるべき所がある。高校の先生の方が、生徒のことを、より明確に把握しているのではないか、そんな気もするのだ。成人と認めた上での、付き合い方、これを模索する日々は続くのである。

11月13日、荷物の「荷」の字を見て、中に入っている「可」の部分を「荷」と書いても、何となく荷の字に読めてしまうことに気づいた。再帰的文字構成と言う一群の新しい漢字を知る大発見である ... なんちゃって。漢字の中には、既に「回」のように、再帰的な構造を持つものがある。内側の口の中に、また口を書いて、ぐーるぐると、何個も四角を重ねる、そんな遊び心が、もともと漢字に内在されているのだ。旧字体は恐ろしいまでに複雑で、100画を超える文字もゴロゴロと存在する。こういう文化は、ちゃんと (?) 現代にも受け継ぐ価値がありそうだ。絵文字を漢字化する、そんなこともできるぞ?!

11月12日、ルミナリエが、もう、だいぶん組み上がっている。もちろん、まだ光っていない。が、電球は電球なので、太陽光が当たると、キラキラと輝く。背景が暗い所に、うまく太陽光が当たると、本当に光っているのではないかと思うほど、キラキラしているのだ。もチョット科学すると、その太陽光による電球の反射光や透過光は、夜に LED を点灯した時の輝きよりも、強いものだ。周囲が明るいから目立たないだけであって、光るものは昼でも夜でも、ちゃんと光っているのである。

11月11日、ここ数年、大学祭の週末には、必ず雨やら嵐やら、ともかく降水があるのが通例だった。時期的に、時雨がやって来易い頃合いなので、2日間も開催すれば、どこかで雨を引っ掛けてしまうのかもしれない。ともかくも、今年は好天なのだそうな。ところで大学祭ってなに?というのが、現役の大学生だった頃には大学祭に参加しなかった私が、長年持っている謎。音楽系の部活に勤しんでいたので、毎年、学祭の時期に合わせて合宿へと出かけていたのだ。定期演奏会前の、この時期の合宿は、本気。最後の日には、時間を測ってのリハーサルもやってみる。色々とボロが出て、必死にまた練習する、そんな日々。帰ってくると、もう学祭は終わって、大学は閑散としているのであった。うーん、学祭って、どんなんだろうか?

11月10日、計算機のプログラム実習というのは、ちょっと前までリスキーなものであった。自分のことは差し置いて、オタクというか何というか、ともかく計算機に詳しい学生が必ず居て、実習の内容なんかは、ものの10分でおしまい、ついでに周囲に「指導」して回って、2時間の実習内容が「あっという間に」終わってしまい、さてどうしたものかと、思案するような事態が起きるので、色々と「高度な内容」まで用意しておかなければならなかったのだ。ああ、長い文章だった。でも、昨今では、パソコンの中身、コンパイラなど誰も見向きもしないのである。枯れた技術として、ごく限られた人だけが、ソースコードを読む、そんな時代になった。いつか「誰もパソコンのことがわからない」時代が来るぞ。知ってるのは、機械だけって。しーらないっ。

11月 9 日、草が枯れ込んでしまって、根がどこにあるのか、わからなくなってしまった。この秋の除草作業は、ひとまずおしまい。今年の経験から、春先に芽が出てきた所をペンチで掴んで、周囲の根とともに抜き去ってしまうのが、効果的だとわかったので、来年の春には、もう少しマシな作業ができるだろう。草が止まったら、やっぱり、考えておくべきは、松とヒノキである。まず、ヒノキは根元から他のツル植物に巻きつかれて、訳のわからない状態になっている。根元を少し、風通し良く整理しようかな。そして松。ブチッと切ってしまって、盆栽のように仕立てるか?あの場所で大木になったら、倒れてケガ人が出るぞ?!

11月 8 日、毎朝の通勤に使う阪急電車、日々少しずつ変化がある。ちょっと前に登場した、永久磁石を使った交流モーター搭載の、リニューアル 7000系はクセ者の1つだ。普通の 7000系車両は、低速での加速が「カクカク」しているけど割と力強くて、速度が上がるにつれてモーターの音が高くなる割には(?)加速しなくなる。これに対して、リニューアルした方は、中速での加速が良くて、立っている時には、ずーっと足で踏ん張っているような感じになる。ついでに、回生ブレーキの効きも抜群で、止まる直前まで、これまた「腰のある」減速を披露してくれる。この乗り心地は、豪華絢爛な 9000系にも通じるものだ。1000 系はというと、車両が軽すぎて、何だか落ち着かない。バスのようにフワフワとした乗り心地。じゃあ、何系が一番好きなのかと問われると、また 3000系の特急に乗りたいなーと、思ってしまうのである。あれはもう、退役間近かな。

11月 7 日、どんぐりが沢山落ちていた。そう、そもそも、この辺りの植生はというと、どんぐりなど、実が沢山成る木ばかりなのだった。舗装道路の上に落ちたどんぐりは、踏み潰されるだけの運命。まあ仕方ないか。動物が食べるにしても、そんなに野生動物が多い場所ではないし。あ、イノシシが食べるかもしれない。確か、イベリコ豚はドングリを沢山食べて、あの香りを身につけるのだとか。イノシシがどんぐりを沢山食べたら、あんな香りになるのだろうか?いや、普段は花壇を掘り返してるから、ロクでもないモンばっかり食ってるに違いない。どんぐりはリスにあげよう。... と調べてみると、リスが好むドングリと、好まないものがあるそうだ。誰からも見放される食い物は、やっぱりマズいのだそうな。

11月 6 日、日本で英語を教えている外国人は、どんな資格で在留しているんだろうか?と、調べてみて、なるほどなるほど、結構コマゴマと条件が付いている。一度、在留資格が取れたら、転職したり、大きなトラブルに巻き込まれない限り、更新するのは難しくなさそうだ。少し難儀そうなのが「思い立って、何か商売始めてみたい」という風な方針転換が、そんなにスムーズには運ばないこと。いわゆる、不法就労に問われかねないのだ。英語を教えるという事で在留しているならば、教えるのは英語であって、スペイン語ではない。たとえ、その人がマルチリンガルであっても。

11月 5 日、朝の7時は明るいのに、夕方の5時は夕暮れで暗い感じだなー、と感じる日々だ。神戸は山に日が沈むから、夕方が暗い?秋冬の夕方には雲が出やすくて暗くなる?それだけではない。実は、11月中の、太陽の南中時刻は15分ほど早まるのだ。当然、日の出も日の入りも、その分だけシフトする。結果として、朝7時と夕方5時では、30分ぶんくらいの「太陽高度の差」が出てしまうわけだ。というわけで、これからクリスマスまで、たーっぷり夕方の暗さを楽しめるので有る。暗いところには色々な光があるので、写真を撮る対象もまた色々とある。こういう、暗所の光は、焦点を合わさずに撮る方が綺麗に色が出る。さあ撮りに行こう!

11月 4 日、ポートアイランドにある、スケートリンク。ここの凄い?所は、夕方にやって来れば全日本クラス「となりつつある」若い選手が、トリプルジャンプをポンポンと飛ぶ光景が、いくらでも見学できることだ。また、助走ほぼ無しの状態でダブルジャンプをホイッと、いとも簡単に飛んでしまう、そんな光景も目にする。だいたい、小さい子供はサッサとアクセルを卒業してダブルまで飛ぶようになる、その成長過程も見届けられるのだ。これに比べて、我々スケート愛好家たる中年、いや老人達は、なーかなか上達しないのである。練習へのモチベーションもまた、低いのかもしれない。若いお姉様方がヨロヨロと滑っている所に現れて「教えてあげましょう」というのは、大抵、こういう愛すべきオッチャン達である。最も、この見え見えの行いも度を過ぎれば、スケートリンクから出入り禁止を申し渡されるのである。若い選手は成長すると、やがてリンクから姿を消す。プールなどに比べて「会社帰りにちょっと、立ち寄ろう」という場所ではないのだけう、スケートリンクは。

11月 3 日、朝がとても静かで、今日が祭日であることを知る。普段の朝は、自動車の音に満ちている。神戸という、狭い場所に人口が集中していることも、原因の1つかもしれない。海辺の自宅の、すぐ横に、とても若い番号のついた国道があって、信号も近い、もう、すぐそこは都会という、そんな場所に住んでいるのだから、仕方ないといえば、仕方ない。そういう、都会の真っ只中にあっても、やはり祭日の朝というのは、ノンビリとした空気が流れているものだ。普段はここから出勤して、阪急六甲駅で下車、そして登山となる。大学に到着すると、ああ、田舎に来たなーという、そんな感慨とともに、仕事を始めるのである。

11月 2 日、今年、梅田のスケートリンク「つるんつるん」は、本物の氷になるのだそうな。去年までの、プラスチックにワックスを塗ったものは、滑った人に聞いてみると「滑らない」そうで、評判が悪かった。曰く、幅広くエッジを表面に乗せるとダメだそうで、なるべく接触面積が小さくなるように、エッジの曲がった部分に乗るとツルッっと滑るんだそうな。これは、結構な高等技術で、下手をしなくても転倒が待ち受けている。ついでに、転倒すると表面に乗っているプラスチックの屑があちこちに付いて、難儀だとか。やっぱり、滑るのであれば、本物の氷でなければ面白くない。初日、26日の、お昼時に滑っていると、取材のテレビカメラ来るかもよ?

11月 1 日、文章を書くのはキーボードやら携帯やら音声入力で、だいたい紙の機能を代用できるようになった。数式は ... これはまだまだ、紙と鉛筆、百歩譲ってパッドとペンなのである。キーボードのようなもので、うまく数式を記述できないからだ。LaTeX があるではないか?と言われそうだけれども、あれには、「どうやって書くんだろうか?」と引っかかると、書き方を調べるだけで、何時間もかかる(?)という欠点がある。その場で、どうにでも書けてしまう紙とエンピツは、とても大切なのである。実験ノートというのもまた、物理では大切なものだ。別に、実験用携帯でもいいではないか?といえば、それはそうなのだけれども、神戸の何処かで起きた、例のアカデミック(でなかった)騒ぎでは「実験ノートに何も書いてなかった」ことが問題とされたことを、覚えているだろうか?

10月31日、正しい式を、あれ、どこかおかしいな、と、思い始めると、ドツボに陥る。正しいのだから、何回チェックしても、同じ結果しか得られない。そのまま計算すれば良いのである。が、どこか間違っているのではないか?と疑心暗鬼になった時に、計算を進められるか?というと、なかなか難しいのだ。常に正しい式は正しい直感の下で計算したい。数学者も、そんな感じかどうか聞いてみると、聞く人ごとに答えが違っている。豊かな直感が大切という人もいれば、そもそも直感に頼るから見つかるはずの数学の構造も見落とす、と、おっしゃられる方もいる。数学というのは、なかなか、メンタルにも奥が深いものだと思った。

10月30日、街中を色々な人が歩いている。よく見かけるのが、適当に絵の具を塗りたくった人。それで歩く所に、意欲を汲み取ってあげたい。ただ、そういうのばっかしだと、集合した時の面白さがないのだ。マトモにタキシードを着て、ステッキを持ってるようなのが混ざってる、その多様さに、ハロウィン「と称される」お祭りの、現代的な楽しみがあるのだと感じる私。赤いのが混ざってるから、というのは、手前味噌か。白いのや黒いのは、良く見かけた。金色もあったか。軽犯罪法違反みたいなのも居た。バットを持って歩くのは、普通はアウトだ。芸術という目的がある、そこのところをお巡りさんが黙認する可能性は高いのだけれども。

10月29日、電車の中に、色々、仮装した人が乗っている。ヨーロッパの春先に行われる祭りを、ちょっと彷彿とさせるものがある。朝から、白塗りのサラリーマンが通勤電車に乗っている、そんな感じの祭り。ときに、香川県に「ひょうげ祭り」というものがある。ヘンテコな、ひょうげ者が、街道を歩むという祭り。波照間にもあったっけ。仏教の儀式が、いつの間にか祭り行列になってしまったという民俗は、ハロウィンにも通じるか、元はと言えば万聖節の前の日の騒ぎだから。年中の祭りを、こうやって見渡すと、盆と正月以外は、何となく流行ってしまったという感じの祭りが多いなー。

10月28日、だいたい、何事でも直前にならないとエンジンがかからない性格の私。今もなお、白い紙に文字を入れる作業と格闘している。もちろん、ちゃんと読んでいただけるように、筋立てて書くわけだけれども、書きたいことへの入り口が、いくつかの興味に基づく時は困惑する。自分なりには、全部を盛り込みたい。しかし、そんなことをしたら読めない文章になってしまう。どないしよ、と。まず、一番大切なことからメインストーリーを打ち立てて、それに枝葉をつけるように、流れる文章になるように、なるように ... 結局、途中で枝がポキッと折れてしまう。どこか、重たい記述が入ってしまうのだ。どうしようかなー、推敲あるのみ。

10月27日、雨が降るという予報。ずーっと降るという予報。気象レーダーを見ると、あれれ、雲はスカスカ。但し、いつかは雨に出会うだろうなーという、難儀な具合のスカスカぶりだ。こういう状況になるだろうことは、きっと予報できていたのだろう。時々降ろうと、ずーっと降ろうと、傘の用意が必要なことには違いないので、雨が少しでも降るのであれば、雨マークを付けるわけか。そして、実は、ほとんどの時間、雨が降らないのである。雨が降っても降らなくても、今日は街中にモンスターが溢れている。そして、袋一杯にお菓子を買い込むお母様方も。ハロウィンの良い所は、基本的には、引きこもらない方向のイベントだということだろう。続くクリスマス、正月、バレンタインは、どれもこれも、恋人・家族というキーワードを思い浮かべる、どちらかというと閉じた行事なので、なおさら引き立つのだろう。

10月26日、博士課程で習得する技術の一つが「情報収集」だ。どの分野にも、それぞれ研究する最前線があって、しかもそれは科学が扱う題材なので実は非常に単純なものだ。人々が寄ってたかって研究しているのは、この単純さが「見えない」からであって、ひとたび真実が明かされると、それは科学的知識として常識扱いとなってしまうのだ。ともかく、この興味関心について自分の力で辿りついて、それを理解して研究に入ることが、大切だ。突き詰めるまでもなく、これは知っていることと、知らないことの境界線である。従って、研究の最前線というものは、業界という人々の間のみならず、「自分」の中にも必ずあるはずだ。日頃から、自分の知らないこと、理解していないことを意識して、「既知」の領域を少しずつ着実に広げる習慣をつけることが大切だ。私も含めて普通の人は。(←どこが普通やねん?という批判は甘んじて受ける。)なお、一部の天才は、この面倒な認識をスッ飛ばして、ポーンと跳躍するのだけれども。

10月25日、MacOS のアップデートが出た。今回の更新で、iMac から外付け display に接続した状態で起動すると、画面がブラックになってしまうという不都合が解消されている。実は、この不具合に長らく引っかかり続け、苦労していたのだ。なるべくシャットダウンしないとか、シャットダウンする前に外付けを切り離し、再起動したら接続して、という手間をかけていたのだけど、もうそんな苦労も昔話となった。さあ快調に作業だ! と、文章を書いている途中で、突然フリーズして、応答がなくなった。OS レベルでは、生きてるんだろうなー、恨むぞ、上の階層のアプリ達よ!

10月24日、スピン角運動量は、量子力学の量子力学らしい部分への入り口。井戸型ポテンシャルなど、古典力学とはガツンと切り離された(かのような)題材を扱った後で、古典力学との整合も比較的容易に見えるし、かと思えば量子力学らしい離散的な世界でもある、そういう物理学の多面性を、バッチリ学習するのに、良い「ミニマルな系」が、スピン 1/2 の角運動量だ。ここぞとばかりに、色々とリキを入れて教えたいと思う所だけれども、あまり深入りすると、他の題材を講義する時間がなくなってしまう。まだまだ、クーロン散乱まで長ぁあい道のりがあるのだ、時間を節約しないと。

10月23日、京町筋の北の端に、三宮プラッツという、小さな広場(?)がある。もともと、どういう意図で設計されたものかは、よくわからないけれども、ともかく、目立たない場所だった。そこにステージが出現。BIBA というバンドが、文化祭やってた。ビッグバンドのサブセットみたい、あれはどういうジャンルになるんだろうか?注意して聞いていると、いや、注意するまでもなく、エレキベースが、良かった、良かった、バンドのレベルをぐっと底上げしている。どこかで、また聴きたいものだ。

10月22日、京都、河原町の雑踏は、狭い。ともかく狭い。もともと、あの広い道路は人々が歩く、あるいは、せいぜい牛車が行き来する程度の為に設計されたものだ、そこにドンドン自動車を通すから、歩行者があんな風に、せせこましく歩く羽目に陥っているのである。年中、時代祭や祇園祭のように、ホコテンにするが良い。そうでなくても、大阪のように一方通行を導入すれば、多少はマシになると思うんだけどなー。しかし、まあ、これから先、段々と人口も減って行くし、あまり気にするべきことではないのかもしれない。

10月21日、会議の真っ最中、携帯電話から「地震です」と。きっと、何処でも同じ光景が起きていたのだろう。聞くところによると、携帯持ち込み禁止の教室やら、部署に、コッソリと持ち込まれていた携帯電話が、全てバレてしまったとか。身構えて、来たぞ、来たぞ、結構揺れた。こういうのを「近未来的光景」というのだろうか。きっと、そのうち「悪魔がやって来ます」とか「ミサイルが落ちます」とか、どうしようもない状況を携帯電話で知らせてくれる、そんな時代が来るのだろう。あ、ふと、ドラグナーというアニメーションを思い出した。最初が、そんな光景だった。

10月20日、昼過ぎまでは真夏の雰囲気。ホントに、再び夏を楽しもうという、そんな服装の学生でキャンパスが華やいだ (?) 一日であった。夕方になると気温がぐっと下がり、きっと寒かったのではなかろうか?と、まあ、心配するまでもないか、若いのだから。中年を過ぎると基礎代謝が落ち、また日焼けにも弱くなる。小さな頃は、直射日光が背中に当たっても、何も感じなかったのに、最近では本当に、焼けるように感じる。きっと、皮膚の下の血行が悪くなって、ラジエーターとしての血流の機能が失われているのだろう。ダース・ベイダーが、かなりのお歳だったのも、多分、そんな理由なんだろう。

10月19日、5択マークシートの試験問題は受験対策が評価を歪めているとか、論述式であれば個人の評価を的確に行えるだとか、そのような空論を聞く度にデータというものは指標に過ぎないということを忘れているのではないかと、感じるのである。基本的な学習内容から、かなり高度な判定まで、5択、いや2択でもいい、そのような選択問題は、かなり習熟度を細かく表してくれるのである。下手に論述式で回答させると、母集団がわかってから、採点の基準を設定しなければ、全部0点などという悲惨な結末が待ち受けているのである。こういう細かいことは、個別試験に任せてくれないかなーと、ふと思うのである。もっとも、一枚採点すると 100円頂戴できるというのであれば、話は別なのであるが。

10月18日、人間によく似た、癒しロボットというものが、あちこちで開発されているそうだ。うーん、落とし穴がきっとあるぞー。姿形が人に似ているかどうかは別として、人に近くなれば近くなるほど、ユーザーの好き嫌いがハッキリと出てくるだろう。「あっち行っといて」「ほっといて」と命令された時に、さて、どのように振る舞うのだろうか、その辺りも機械学習することになるわけだろうか。ユーザーにすかれ過ぎたら過ぎたで、今度はユーザーの性格が曲がってしまうかもしれない。こっちは、本物の (?) 学習効果だけに、結果が手に負えなくなるぞ。まあ、その、人間というものに価値を見出して、機械に見出さないという固定観念から見た危惧に過ぎないのだけれども。それはそうと、素晴らしい癒しがテレビゲームで色々と提供されつつあること、なぜ、マスコミは無視してるんだろうか?!

10月17日、朝、すごーい雨が降って、これは何じゃい?と、降雨レーダーを見ると、和歌山上空で綺麗な渦巻きになっていた。スーパーセルと呼ぶには大きすぎ。もはや、ベータスケールの低気圧だ。これだけ渦巻いてたら、風も強かったろう、と、思ってアメダスを見ると、あれあれ、意外と穏やか。局地的に風が吹いたかもしれないけれども、上空の現象であった模様だ。但し、雨だけは土砂降りだったことだろう。これは凄い嵐になるぞ、と、思ったら、早々にエネルギーを使い果たして、小さくなってしまった。

10月16日、論文の手直しをする。文章をあまり書かない人は、局所的に何かを書こうとする傾向が高い。自分も、その仲間であるという事は十分に認識している。素人同士で文章を作り上げて行くにしても、他人の手が入った部分で「書いてある内容の順番がおかしいなー」と感じる感覚は重要だ。自覚症状は無くても、外から見るとわかるという、ある意味「かっこ悪さ」の粗探しだ。そういう箇所を一つ潰し、二つ潰し、ともかくどんどん潰して行くと、最後は「良い文章」となるはず (?) なのである。この「良い文章」が、読みたくなる文章かどうかは、別の話題なのであるが。

10月15日、ブログも SNS もあるのに、どうして毎日のように、細々と、自前サーバーに短文を掲載しているのかというと、その理由は超単純なのである。「他人にデータの扱いを預けるのかい?」だ。じゃあ、こうやって書き潰した文章の山が何かのやくに立つのかと問われると、全く何の役にも立たない。そもそも、昔、自分が何を書いたか覚えてもいないので、証人喚問にでも引っ張り出されて「あなたは、このように主張されていたではないですか」と問い正されれば、ハイ、その通りと答えるしかない。公開の場所に吊るされた、アルバム帳みたいなものだと考えている。結局、日記に過ぎないのである。今日も、何事もなく、一日が終わった。

10月14日、数学の、わかり易い解説とは何であるか、ちょっと思案する所なのである。たぶん、教えるべき内容の、学習者にとっては非自明な部分について、一部でも良いから具体的な例で引っ掛けて見せる、そしてそれが平易である、そんな構成が実現できた時に、非自明が自明へと変わる学習効果が高い教材となるのだろう。1+2+4+8+16+32+64+128 の値は?と聞かれて、これが等比級数であることを見抜いて、更に 2^8-1 の因数分解を使えば答えが 255 であることが、たちどころにわかる。そして、可能であれば、冗談のようなオチが付いているのが良い。もちろん、もっとも簡単な「正解」は 11111111_(2) である。... どうして、小学生や中学生や高校生は、答案に 10 進数を使わなければならないのだろうか??

10月13日、スケートのジャンプで、スピードを高さに変えるという表現がある。これは、正しい記述のようで、実はよーく考えて計算して見る必要があるのだ。まず、足が真っ直ぐな棒のように伸び縮みしないものであれば、それを立てているだけではジャンプできない。これを、棒高跳びのように使えば .... と、よく表現される。実は、真っ直ぐな棒を真っ直ぐなまま使えば、突いた瞬間に破壊的な力がかかって、棒、つまり骨が折れてしまう。足を曲げて、体全体でエッジから来る力を受け止め、飛ぶ方向へと変換しなければならないのだ。この時に、どれだけの力積を受け止められるかは、結局の所、ジャンプ力に「ほとんど」帰着できてしまう。ほとんど、と、断ってあるのは、垂直跳びとは少し違って、貯めの時間が長く、その間に上向きの力積を蓄積できるからである。よく目にする「伊藤みどりは速さを高さに変えるタイプの ...」という記述は、高い荷重に耐える晴らしい脚力と全身のバネがあって、初めて実現できる技であることを、ちゃんと書いておいて欲しいものだ。どっかに、記事にして転がしておこうかな。

10月12日、量子力学を習う準備として、解析力学を学ぶという触れ込みをよく耳にする。これは、意味のあることでもあるし、全く無意味でもある。量子力学と解析力学の両方を充分に習得していれば、両者の対比ができて、なるほど、それぞれ知っておくと相乗効果があることが容易に理解できる。しかし、量子力学を習うのに解析力学が必要かというと、いやいや、全く逆で、解析力学こそが量子力学から導かれるものなのである。量子場の理論を習う準備として、量子力学を学ぶという話、これも本当は論理的に逆なのだけれども、「場の理論のミニマルな意味ある学習」が難しいので、場の理論から全てを始めるという話は、あまり聞いたことがない。ただ、人類の知識は蓄積し続けるので、やがては学習の方法や順番も、移ろって行くことだろう。

10月11日、高校数学の中で、数Iには、今まであまり気をとめなかった。微分や積分など、目新しいものに乏しいというか、どちらかというと中学校で「制限付き」で教えられたものについて「限定解除する」という側面が大きいのではないか、と、思い込んでいたからだ。しかし、よーく見直してみると、代数という考え方が、この数Iで、だいぶん整理された形で与えられて行くことに気がついて、ちょっと、数Iを見る目が変わった。次の段階へと進む前に、まずは数学という体系をちゃんと頭に叩き込む、そういう意図がよく見えるし、おおよそ世の中で使われる日常的な計算であれば、数Iまでの理解で十分に活用が可能だ。もっともっと、重用されて良い科目かも。

10月10日、椿の実がたくさん成っている。そんなに実を付ければ樹勢が弱るとは思いつつも、元気になったらなったで茂るだけなので、放置してある。実の中の種から、椿油が取れるのだそうな。普通に抽出すると、一割取れればまあ良い方らしい。量だけを考えると、もっとたくさんの油を含んでいるものは、幾らでもある。椿油の特徴は、オリーブオイルなどと同じく、酸化されにくいことだろうか。木工をする時には、どちらかを持っておくと、都合が良い。チョイとこするだけで、木の表面が光って来る。こういう事は知っていても、椿の種から油を搾り取ったり、煮出したりするか?というと、その面倒臭さに撤退するのみなのだ。

10月 9 日、銀杏の下に、沢山のギンナンが落ちている。拾う人なし。沢山拾って来て、超臭い作業を行っても良いには良いのだけれども、ギンナンは一度に沢山食べられないから、ちょっと有り難みが少ないのだ。さて銀杏は松と同じ裸子植物。種が裸で成る、松ぼっくりと同じように、種が裸で ... じゃあ、あの臭い果肉は何じゃいな?と思って調べてみると、あれは果肉ではなくて、種の皮なのだそうな。何となく、ヘリクツ感があるのだけれども、まあ硬くても柔らかくても、皮は皮なんだろう。ギンナンを植えると、小さなイチョウの鉢植えになる。但し、気がつくと枯れてしまう気難しさは、やっぱり裸子植物だなーと感じる。

10月 8 日、松の剪定。どういう風に松を仕立てるか?によって、剪定の方法も変わって来る。洋風の庭園だと、松が「串の字」のように、十字ができるよう管理してあったり、一本だけ真上にスクッと立ち上がる棒みたいな仕立てにしてあったりと、ともかく自由奔放さがある。日本の庭園で松というと、もう、日本画の背景にある、あの松、盆栽の松である。曲がりくねって、荒々しい風情がある方が良い。さて、何年も剪定していない松に目を向けると、自由に生えているというものでは全くない、葉っぱの団子と化している。手を突っ込むのも大変だ。えい、もう、この際、バサバサと切ってくれよう。まあ、枯れない程度に。

10月 7 日、今日も、アフタースクールの説明会が、昨日とは別の場所で開催された。あれれれ、何だか集まる人が少ない。ここに、講師がやって来て英会話を行うという「高いコスト」の壁を見るのであった。実は時々、いや、しばしば、大学のここそこで、ボソボソと語る学生さんを見るのである。何をしているのかというと、パソコンで英会話。相手はフィリピンが多い。なるほど、よく考えたものだ。経済マジックとでも言おうか、労働単価の違いに目をつけたわけだ。(←これは以前書いたかも。)ともかく、講師がお出ましとなると、その分のコストがかかるのである。じゃあ、大学教員はどうなんじゃい?というと、やっぱり高いコストがかかるものだと思わざるを得ない。自分に向いた動画コンテンツ作成の道でも探ろうか?物理漫談その1、その2、とか。

10月 6 日、大学の教室で、夕方に英語を教えるアフタースクールの説明会をチラリと見に行く。どんなコースを用意しているのかなーと。ああ、なるほど、それぞれ特色あるコース設定しているわけだ。ビジネスに使うのか、全体的に底上げして行くのか、自然な表現を身につけることに重きを置くのか。大学生という、恐らく何もまだ進路が定まっていない内に、どれを選べと言われても困る所はあるのだけれども、直近の留学やら国際会議やら、それぞれの事情に応じてクラス選択するのだろう。もっと大きな影響を与えるのは、講師とのマッチングかもしれない。性格という意味において。どんな学問でも、教える技術がどうであれ、結局、ウマが合うというのは大切な要素だから。

10月 5 日、阪急電車に乗ると、ああ、関西に戻って来た、という気分になる。単に慣れの問題で、阪神に日々乗っている人は阪神だろうし、京阪なら京阪に関西を感じるのだろう。おおよそ、どこも日中の車両が空いていて、車内がスッキリしている。理由は明らかで、人が少なくて、日中の移動に使うというよりは、通学や出勤やお買い物に使う移動を目的とする人ばかり、四六時中人が動く 24 時間の街では有り得ないからだ。広告も、そんなに取れないから、車内がゴチャゴチャしていない。地下鉄御堂筋線の駅は、特に素晴らしく広い。いい所である、関西は。持ち上げ過ぎかも。

10月 4 日、電気屋さんで、ちょっとしたものを購入すると、アンケートを依頼された。スクラッチカードなのだそうな。自宅で使っているネット環境についての設問だ。擦ってみると、当たり。お菓子がもらえた。そこで係員が変わって、「光コラボに乗り換えませんか?」と。いやー、やって来ましたねー。大手通信会社が、光回線をプロバイダにも切り売りするという、この光コラボ、大流行りである。電気屋さんに係員を配置するだけの資金が、どこから捻出できるのか不思議なのだけれども、まあ、今の所は上手く回っているんだろう。商売の邪魔をする気は無いので、「今のまま、今の通信会社の契約を続行します」と告げて、お菓子だけもらって、サヨナラ。長話していた時間の人件費の方が大きかったかもね。

10月 3 日、今日の天気図を見ると、前線が三本も横たわっている。真夏の気団から、冬将軍までがサンドイッチされた、素晴らしい大気の絵画だ。本当に3本も見えるのかと、画像を見に行くと、ちゃんとジェット気流に対応する、速い雲が三筋に分かれて存在する。低層の雲は見分けづらいので、このように高層の雲を見るわけだ。さて今日の雨は、兵庫県では 15 時頃にチラリと降って、おしまい ... という予報であったが、ホンの紙一重のところで前線が居座り、降り続けている。これが天気予報の 難しい所。下層の雲は、なかなか把握しづらいものだ、と、繰り返しておこう。経済もまた同じ、何が富裕層じゃい、下々にこそ経済実態があるということを、スッカリ忘れておるな?!

10月 2 日、「ひとつずつ」の表現は、非常に要注意だということを体感した。レストランに二人連れで入り、二種類の料理を「ひとつずつお願いします」と頼んで、店員さんが「おひとつずつですね」と確認して、意思の疎通が図れていた、はずなのであるが …. 一皿目のサラダが、まず一皿。2皿目のパスタが、更に一皿。おしまい。あーっ、まさかのパターンであった。というか、この注文が通るとは思いもしなかった。そうか、一杯のかけそばのように、二人で一皿というのは受け付けられないけれども、二人で2皿なら良いわけか。身分相応に、貧乏に見えたということだから、それは、それで、有り難く思うのが良いのだろう。

10月 1 日、金沢で仕入れた味噌漬けの魚、実に味噌がたっぷり使ってあり、解凍する度に、十分な量の味噌煮込みが作れる。魚ではなくて、味噌を売っているのではないかと思うほどだ。手間から考えると、味噌というのは、熟成さえさせなければ、そんなに高価なものでは無いのだけれども、まあ、これだけタップリと付いている味噌に、金沢という地の豊かさを感じるのである。ええと、金沢は何県だったっけ、というのは冗談だとして、石川県に接している県は?と言われると、岐阜県という伏兵が潜んでいる。また、うっかり京都府と言いそうになってしまう。福井県の存在がスッポリ抜けているわけだ。北陸は、地理という学問の難所である。

9 月30日、英語教育はますます重視され ... のハズなのであるけれども、専門書の英文読解能力は、段々と落ちているのではないかと、ここ何年かに渡って、ずーっと感じているのである。英会話、英語表現に割く時間が長くなり、ひょっとすると、英文読解の学習時間がドンドン削られているのかもしれない。こと専門知識となると、長い文章を地道に読んで仕入れるものが非常に多いので、読解力が重要なのである。もっとも、これは英語を使う段階で問題になることだから、初学者を相手に教える中等教育の先生方を揶揄するわけには行かない。他山の石とするならば、我々が大学で教えている物理学というものも、たぶん、どこでも役に立たないものなのであろう。自信を持って「役に立ちません」と、公言できる。あ、他山の石ではなくて、単なる開き直りか ...

9 月29日、書類を何年保管するか?という期間を定める目安というものが、あるのだそうな。2年だとか、3年だとか、5年とか、10年とか。その次のカテゴリーとして「永久」というものがある。永久に保存しなさい、ということ。ええと、世の中で、永久に近い形で保存・保管されて来た文章というものは、古代の碑文のような叩いても壊れないし腐らないものか、価値ある文章として書き写され続けて来たもので、複数の写本があるものか、あるいは基本的な法律の文章か。そういう物であれば「永久」と言われても、まあ良いのではないかと思うけれども、「永久保存されるべき書類」というものは、大抵の場合、大多数の人々にとっては意味のないものである。そのうち、世の中、保管するべきものだらけになる?いや、きっと、ガサッとまとめて「データ供養」する日が、必ずやって来るぞ。

9 月28日、すだちを買って来て、瓶に入れて、氷砂糖を吹っかけて、焼酎を流し込んで、蓋をする。すだち酒の仕込み。どんなものが出来上がるのか、想像がつかないけれども、ともかく仕込んでみた。梅のように、実がシワシワになる訳ではないようなので、何ヶ月かしたら、実を取り出して絞る作業が必要かもしれない。この時は、上澄みと、絞った液は分けて保存しようと考えている。梅酒にしても何にしても、最後に膜を使ってノンアルコール化できれば素晴らしいのだけれども、民生機器としてアルコール分離できるものはないので、仕方なく、少しずつ消費することになるか。

9 月27日、一日中、大きなエクセルのテーブルとニラメッコする。ここ数日間の、定例の作業も、いよいよ佳境に差し掛かる。こういう、箱に積み木を入れてゆくような作業では、おおよそ片付いたと思った瞬間に「何だ、この新しいピースは?」という、考えもしなかったような条件に行き当たり、もう一度箱をひっくり返すようなことに遭遇するのである。なるべく、そうならないように、緻密に作業予定を組んで、保守的に、保守的に、ええと、やっぱりうまく行かないので、箱をひっくり返す。そうこうする内に、何とか片付くと期待しながら。

9 月26日、最近、よくパクパクと食べるのが、大西食品の、しょうゆまめ。ああ、平仮名で入力するの、大変だった。勝手に、醤油豆と漢字変換されてしまうからだ。醤油豆にしてしまうと、醤油の原料の豆のようでもあり、また、醤油に漬けただけの辛い豆のようでもある。いや、そうではない、甘辛い、讃岐のしょうゆまめなのである。発音も、しょうゆまめ、ではなくて、しょゆまめ、に近い。よーく煎った、乾燥そらまめを、あま〜いダシに漬けるのである。甘いのは、もちろん、白下糖から来る甘さなのだけれども、まあ、普通の砂糖でも問題ない。これを作るのには、結構時間がかかるので、面倒な時は大西食品をポチる訳である。さて、そろそろ、在庫が尽きたかな?

9 月25日、ぶどうの粒は、どんどん大きくなる。ピオーネは、特に粒が大きい。このまま、粒がどんどん大きくなれば、やがてはリンゴくらいの大きさになるのではないだろうか。ブドウという果物が、巨大な一粒の果物となる日がやって来るのである。ワッハッハー。そんなことを想像すると実に楽しいものである。冗談で笑っているけれども、大昔の人々が、現代の果物を見ると、きっと笑い出すだろう。デカイ、色が派手、甘すぎとか。ご先祖様にお供えする時期かな、そういえば。

9 月24日、詩集というのは、世の中に実に数多くあるものだ。最近はツイートという手段もあるので、加速的に詩が増えつつあるとも言える。その中で、詩集として冊子になったものを手にする機会は、かえって減りつつあるのではないだろうか。そこを、敢えて、紙に刷る、ISBN ナンバーを付ける、という行い、それだけの費用と労力をかけて冊子にまとめるという作業には、敬意を持って接したいものだ。中を見ると、ちゃんとその努力が現れている。それも、努力を感じさせない形で。いいなー、詩集は。中学校の先生が、「これ、あげる」と、ポッと手渡してくれた詩集、今も宝物だ。

9 月23日、エクセルの大きな一覧表に向かって、いろいろな資料と見比べること n 時間、作業を完了することなく今日も終了。この手の作業は、なかなか面倒なのである。まず、それぞれの資料に盤石の信頼を置いて良いかどうか、そこがまず不安なので、複数の資料から同じ情報が得られた時に、初めて信頼できるデータとして確認印を入れる。また、不要なデータというものも放置しておくと、勝手にどこかへ泳いで行くことがあるので、そうならないように、消去して行く。但し、できるだけデータを損なわないように、まずはバックアップを取ってから。中断があると、それだけ時間の無駄になるので、作業は集中して行いたいものだ。

9 月22日、大きな和牛の塊が、安く売られていた。どうしてそんなに安いのか?というと、ほとんど脂身だから。霜降り肉も、ここまで「降りすぎる」と、肉としては価値の低いものとなるわけだ。焼き肉を食べに行くと、そういう白い部分は「飾り付け」のように、赤い肉の間に点々と置いてあったりする。焼くと縮んで、無くなってしまうような肉なので、ちょっと思案して、煮ることにした。よーく煮れば油も程々に落ちて、冷やしてから切れば、それなりに美味しい惣菜になるはずだ。和牛の油を捨てるのは、ちともったいないけれども、食べるとコレステロールに直結するからなー。

9 月21日、出遅れた、とか、田舎ではダメだとか、その手の焦燥感は「あまり」足しにならない。研究は実に長丁場なので、集中力を真に発揮する瞬間のために、日々リラックスして腕を磨くことが大切だ。どんなに画期的な報告であれ、その突進力は時間とともに薄れ、やがて人々が同じスタートラインにつく事になる。まだまだ、間に合うのである、一瞬の加速力さえあれば。田舎は実に、そのような英気を養うことに適している。20世紀に発展した国々は、広大なる田舎を抱えているものだ。(←日本は、実は狭くない。)都会しかない、小さな国が「自分の力で」発展するのかというと、それは怪しい事なのである。田舎はいいぞ〜。

9 月20日、シュレディンガーの猫というと、実験装置を作らなければ「体験」できないものだと思ってる人は多いと思う。(←単に私の誤解かもしれない、大多数の人はシュレディンガーの猫なんか「気にもとめない」というのが正解。)さて、放射線がガンのリスクを高めるという事実がある。放射線による遺伝子損傷から、ガン細胞の増殖までの過程がどうなってるのかは、ともかくとして、最初に出た放射線がα線源であれば、まさにシュレディンガーの猫なのである。生命が誕生してから ... その前からかもしれない ... シュレディンガーの猫は数限りなく、世の中にイタズラし続けたのである。エヴェレット解釈によると、並行世界の地球が実に沢山あることになる。それも、いいかも。

9 月19日、物理学に、よく、正準形式と呼ばれる、一群の「物理の表し方」がある。カタカナ書きでは、カノニカルフォーム。まず、漢字の変換に苦労する。清純がトップに出て、次が清順とか正順だ。決して「正準」がトップに出たりしない。苦労して登録しても、OS のアップデートで消し飛んでしまうことも。某リンゴマークの裏切り者め! と、叫んでも仕方ない。必要なものは、登録しなおすだけだ。さて、何が正準なのか?ということについては諸説あって、正準形式が複数あったりするから、タチが悪い。世の中、何かが正統派であるなどと主張を始めた段階で、すでに終わっているのである。

9 月18日、時々、登場する、汁物の裏技というか、怠け技は、何でもいいから味噌汁など汁物として販売されているものに、トマトを丸ごとブッ込んで、加熱するだけ。これで、美味しいトマト汁になる。トマト自体に、幾分かの旨味があるので、特に何も足さなくても、味のバランスには問題ない。むしろ、市販の汁物は塩辛いので、水を多めに入れないと、からい汁になってしまうほどだ。ここにスパイスを足すと、段々と洋風にシフトして、オリーブオイルを振ると完全にアチラの国々の料理となる。そこまでは凝らないけど。

9 月17日、薄曇りをナメて、炎天下で半日突っ立ってると、真っ赤になってしまった。ありゃりゃ、これはまずい。冷やしてみたり、あおいでみたり。ともかく、こすらないこと、引っ掻かないこと、温めないこと。消炎剤がなかったから、同じ成分が入ってる風邪薬を少し飲む。ただし、風邪薬の成分には「効果のある内に光に当たるとマズイ」と噂されてるものもあるらしい。どのみち、しばらくは日光を避けるから、まあいいか。こう言う時に、とっておきの、ミントがたくさん入ったシャンプーを、優しく使うか。

9 月16日、金沢、ずいぶん遠くだと思っていたけれども、意外と近いのだということがわかった。神戸から列車だと、東京へ行くのと同じくらいの感覚。新幹線が通ったら、もっと近くになるのかーと、しみじみ。まあ気長に北陸新幹線の完成を待つ。特急サンダーバードは、すーっと大阪に到着する感じ。京都から新快速で大阪へ向かうと、なかなかこうは行かない。多分、高槻とか茨城市だとか、途中で止まるたびにポイント切り替えがあって、ガタガタと揺らされるからだろう。あ、大阪に着く直前は、例のガタゴトと付き合うことになる。まあ、それは仕方ない。

9 月15日、金沢のうまいモン、和食ばっかり宣伝されてるような気がするんだけど、洋食も普通にウマい。仕入れに苦労しないんだろうと思う。うまい、うまいと、食ってばかりだと、どんどん体重が増えるではないか、歩いて減らさなければ。しかしながら、金沢大学は歩いて行くには、遠すぎる場所に建っているのだ。というか、途中、車道だけみたいな所を通るので、自転車はともかく、徒歩では厳しい。ともかくも、色々とネタを仕入れるなり、人脈を作るなり、ゴソゴソと活動しなければ、回らないのが才能無き者の定め。頑張るぞ!

9 月14日、学会の本番。どのように、学生さんに計算してもらった結果を印象的に話そうか?と、一晩考えて、朝になって新聞紙を見てハタと思いついた。新聞紙に穴を空けて、それを見てもらえば良いのだと。北国新聞というのがある。きたぐに新聞か、いい名前だ。… 後で指摘されたことなのだけれども、実は「ほっごく?ホッコク?新聞」なのだそうな。印刷が美しいカラーで、大衆紙とは一線を画した、きめ細やかな地元の新聞だ。それで、その、新聞紙に穴を空けてみると、なんだか、そこから覗きたくなった。それならば、覗き穴も空けてみよう。どうせなら、頭の所は三角に折ろう。完成したのが、なんだか、どこかで見たような、悪人のマスク。うーん、印象的なのかなー、こんなの。

9 月13日、金沢、すごーい観光地なのだ、観光スポットはもとより、その辺りの路地まで、色々と楽しめる。古い民家が結構残っていて、水辺が多いのが良い。水があったらヤブ蚊の巣になりそうなものだけれども、なぜかあまり刺されない。東京からのアクセスも良くて、外国人が続々と。… と、一見さんが喜ぶだけの街でないことは確かだ。最も良いと感じることは、アレルギーの源が少ないこと。交通量が少ない、海風が適度に湿っている、食い物に添加物を加えなくても十分にうまい、あくせくした雰囲気がない。ついでに、関西弁が充分に通じること。

9 月12日、落ち葉を溜め込んで、植木鉢にでも入れておくと、やがて腐って腐葉土になる。すこーしだけ砂っぽい物を混ぜると、本当に土になってしまう。さて、その土は一体何者なのだろうか?乾かしてみると、すごく量が減ってしまう。そして焼くと、ごくわずかの灰と土砂の集合に戻ってしまうものだ。ほとんど、水と、セルロースか何かの繊維と、菌の集まりで形作られているのではないだろうか?と、邪推している。そんな土の上を毎日のように歩いて … と書こうとしたら、かれこれ何日間もの間、土の上には立っていないことに気づいた。現代生活にドップリと浸かっているなー。

9 月11日、検索のターゲットは、ハイゼンベルグが英語で書いた論文。Physical Review に、結構、核分裂に関する論文が投稿されている。当時は、ファインマンやべーテらもマンハッタン計画に参画していたように、キナ臭い時代だったことがよくわかる。いやいや、そんなものを探しているのではなくて、ハイゼンベルグが量子力学に対して見つけた事実を、自身の英語で文章に落としたものが無いかどうか、それが問題だ。シュレディンガーは、Physical Review に良くまとまった記事を 1926 年に投稿している。結局、語学の問題なのかなー。

9 月10日、電車に乗っていて感じることがある。最新鋭の電車は、軽量化がとても進んでいて、乗り心地がバスのようにフカフカしているということ。何となくというか、一抹のというか、不安感がある乗り物だ。これに対して、むかーしからの古い車両は、重厚感があって、何となく安心できる。これは、どちらが安全だとか、どちらが本当に振動が少ないという、量的なことを言っているのではなくて、あくまで感覚の問題、個人的な感想だ。もっと昔に遡ると、壁や床が木製だった電車があったなー、あれは吊り掛け式のガタガタと反動が伝わる電車だった、もう思い出そうとしても、半分、記憶が消えている。

9 月 9 日、火起こしの続き。割り箸と、カマボコ板で火起こしできるとある。ナイフを持っていればの話。板の窪みには、空気が通るようにカットか溝が入っていると良いのだそうな。また、コソコソと火を起こしている間に出てくる、コーヒーのような細かい粒子にまず火がつくので、それを乗せて囲って火が移るような、燃えやすい削り屑などを、準備しておくのだそうな。映画の 5th element に登場する、マッチのすりがらを使って火をつけるという話も、似たようなものだろうか。力技で行く場合には、二本の木の棒でも良いそうな。サバイバルになったら、まずは良く乾いた木の棒を探すことから始めるのだろうと、想像してしまった。苦労して点けた火は、ずーっと火種で持っておくようになるんだろう、多分。

9 月 8 日、木の棒と板と紐で、火を起こすという課題、某所でキコキコと音を立てながら頑張っていた。見ていて思ったことは、ええと、火が起きたらバーベキューを始められるという類の、必然性があれば、もちょっと必死に火を起こしていたであろう、ということ。火という「調理の道具」あるいは「灯りの源」そのものを目的にすると、意欲に限りがあるわけだ。これは数値計算でも同じで、何か課題を与えられて、それを達成するプログラムを書くだけというのでは、演習に過ぎなくて、なかなか意欲が湧いてこない。プログラムを書いたら、ゲームや製品になってドンドン売れるとか、お金にならなくても数多くの人々に使ってもらえるとか、そういう「計算機を使う目的」がハッキリしていれば、プログラムも良いものが、いや良くなくても、ともかくコーディングするものである、目の色を変えて。

9 月 7 日、台風13号が台風なのか?について、人々に聞いて回ると、かなーり意見が割れると思う。まず、アメダスのデータを見ると、低圧部が移動していて、その通過の前後で風向きが変わっていることがわかる。但し、こういう事は前線や、弱い熱帯低気圧でも起こり得る。次に風速が基準以上であるか?というと、どうやら海上で強めの風が吹いている箇所があるらしい。これは、アメダスのデータには引っかかっていない。ハリケーンセンターの報告に上がっているか?というと、実は上がっていない。衛星画像で下層渦が明瞭か?というと、尻尾らしきものがチラリと見えるだけ。ひょっとして、とは思うのだけれども、これはいわゆる、シミュレーションのモデルの中に存在する渦が、実際よりも強めに表現されたのではないだろうか?コンピューターが、こういう結果を出して来たから ... というデータに予報官が引っ張られつつあるのでは?というのが、今日感じた、ちょっとした危惧なのである。

9 月 6 日、ディラック方程式の原論文はどこに?と、検索して読んでみた話は以前に書いたけれども、その最後に、SUMMARY として、次のような短い文章が転がっていた。まあ、読んでみるといい、拍子抜けするというか、ディラックらしいというか、中身だけで十分だという自信の表れとも言えるし、要するに何でもやっちゃえる立場に立った自由自在さが現れてるとも解釈できる。こんな文章だ。→ The paper deals with the setting up of relativistic wave equations, linear in the energy operator, for particles of spin greater than half a quantum. It is found that this can be done quite simply when the rest-mass is zero, and somewhat less simply when the rest-mass is not zero.

9 月 5 日、リンゴは果物だ。--- という文は、動詞を含まない。何かが省略されているわけでもない。君はどちらがいい? --- という時の「いい」の品詞は何だろうか?と、考え始めると罠にかかり易いのだけれども、どう考えても動詞ではない。形だけの形容詞かなー。とても長い文章を書いている時に、節の中には動詞が含まれているけれども、文章の骨格自体には動詞がない、そんなことも時々ある。何か、動作や働きかけが具体的に生じた時、その時に動詞が表に顔を出すのが日本語の面白い所だ。ただ、その活用の概念が、英語やイタリア語とはエラーく違っている。どっちかというと「法」や「相」を区別するために活用しているように見える。ただ、これも、海の向こうから渡ってきた文法に毒された考え方なのだろう。ともかくも、学校文法は、一度、エイヤッと忘れてしまって、謙虚に考えてみようか。

9 月 4 日、大学院の入試、各大学ともあらかた終わって、やれやれ、という雰囲気の学生さん達が、久しぶりにノンビリとした風情で「つぶやいて」いる。さて、過去に出題された、各大学の大学院入試を見ると、特に物理分野の出題傾向は明らかだ。「そこで設定された物理的な状況が頭に浮かべさえすれば、必ず解ける」のである。計算が鬼のように面倒臭いとか、効率的に解かないと時間切れになるとか、引っかかり易いポイントがあるとか、コマゴマと場合分けしなければ解けないとか、そんな受験テクニックとは、全く無縁な出題なのである。暗記が必要ということも、あまりない。つまるところ、物理現象を「言葉で表す」という、よくよく考えると一筋縄では行かないバリアが最大の問題であって、そこを日々の学習によってクリアしているかどうか?という、ただそれだけのことが問われているのである。

9 月 3 日、さて、いま「進めてもらっている」計算は、どうやったら論文になるだろうか?と、思案する週末である。DMRG や TEBD を使った大規模計算を念頭に置いて計画を立て、進めている研究なのだけれども、まずは途中経過を取りまとめ、研究成果を形として世の中に提供する経験も「積んでもらわなければ」ならない。興味を持っていただければ、あらゆる所から批判が届くはずである。何のレスポンスも無いのが一番ダメなパターンだ。研究成果の発表にあたっては、世の中の関心事にも少しは労力を割いておかなければならない。その感覚をまずは「身につけてもらえる」よう、何とか論文まで持って行こう。最初は地味で良いのだ、研究の中身は。

9 月 2 日、毎日お米が食べられるのも、稲が苗から成長する時に、株分かれするから。イネ科の植物は、その辺りで見かけるものは、だいたい株分かれする。田植えした時には、ホンの二、三本なのに、夏になると太い束となって、秋に刈り取ると太い根元が残る。これがイネだと有難いのだけれども、雑草となると手を焼く。多年草で、根元が残るものは、土の表に茎が硬い塊となって密集していて、その全てを抜き去らないと、また春になると芽を出して株分かれして、元に戻ってしまう。その状態を素手でどうにかするのは無理なので、ペンチで引っこ抜くか、あるいは必殺技の除草剤を塗るか。耕してもいいのだけれども、他に抜きたくないものと一緒に生えている場合には、その手は使えない。地道に行くか。

9 月 1 日、ストレスチェック、なるものが、あるのだそうだ。(←というか、義務化されてるから、どこでも年に一回、実施される。)物理学を生業とする大学教員に実施してもなーと、思わないでもない。物理屋というのは、自然の仕組みの底辺に少しは理解があって、かつ、その理解には常に限界があることを日常的に念頭に置いて日々を過ごす、ある意味で超鈍感な人種だ。そして、その鈍感さを最も発揮する時期が、博士課程から後、実際に研究を進めて行く段階だろう。なにしろ、何を見つけても、見つけた瞬間に公知の事実となってしまい、その先に未知が広がって、結局は同業者と同じスタートラインに戻ってしまうのである。いつまで経っても「オレだけが知っている」なんて情報は、増えないのである。金だったら、見つけた人、拾った人の物になるんだけどなー。もっとも中には、キャベンディッシュのように、新発見を机の中にしまい込む人も居るのだが。

8 月31日、相対論的貧困論という新しい概念を、経済学に打ち立てよう。... と、相対的貧困をもじってみたいのだけれども、ローレンツ収縮の所で、早速詰まってしまった。どちらかというと、インフレーション宇宙論の方が意味的にもハマり易い。指数的なスケールが、経済学良く一致しているからだ。さてミクロ経済学という者は、良くわかりやすい経済学なのだけれども、貧困などを含めて社会全体の経済を論じるマクロ経済学と、スムーズには繋がらない部分がある。10円のアメと、5円の豆、どっちを買う?と問われた時の判断と、10億円のビルと5億円のお屋敷、どっちを買う?と問われた時の判断を、同じように考えるかどうか、前者や後者に同じように市場原理が働いているかどうか、考え始めると、経済学の奥深さに敵前逃亡するのである。ともかくも、相対論的貧困なのである、今日のテーマは。

8 月30日、冬場に、高い緯度で時々起きる気団の配置が、南西が冷たく乾いて、北東が暖かく湿っているという、南北逆転した温度分布。上空の風の向きも東から西へという、偏西風とは逆向きになる。こう言う時に、日本海の北の方で、台風のような形をした前線のない低気圧ができることがある。前線として描かれるものがなくても、東西に寝た前線のような雲ができる。コンマ雲などと呼ばれることもある。この、コンマの足の部分の角度は、様々なのだけれども。一応、寒気団の中での気象現象なので、天気図には前線として描かれないのだ。さて今日の天気をよーく見ると、同じような現象が、随分と南で起きていることがわかる。それも、スケールが何倍か大きい。なかなか、面白い気象現象を見せてもらった気分だ。

8 月29日、3より小さい自然数、という表現がある。これを、初等的な数学で用いることに、どうも釈然としないものを感じるのである。自然数という集合が、実数という集合に含まれているという事実を、証明も説明もヘッタクレもない状態でまず押し付けておいて、実数についての閉区間と開区間の概念を「逆の道をたどって」自然数に降ろして来るという、悪行を積んでいるからだ。実数のことを忘れてしまったら、自然数という離散的な集合に対しては「以上、以下」を使うのが妥当であって、「3より大きい」「3より小さい」などという表現を用いるのは、単純に引っ掛けでしかないからだ。プログラムを組む時にも、この点は重要で、うっかり間違えると、トンデモナイ事態が生じるのである。もっと、数学的に面白い所で勝負してほしいものだ。

8 月28日、何気なく検索三昧の果てに、「銀河魔女ギルザ」に到達する。ジャスピオンという特撮番組に登場する悪役なのだそうな。こう言うヒーローものは、歌舞伎と一緒で、どちらかというとストーリー展開よりも役者の演技を楽しむことが肝要だ。さてこの番組、ブラジルで人気となったそうで、あちらではギルザではなくて Kilza という名前で登場する。検索すると、短い動画がヒットして、その場面だけでも色々と見応えがある。殺陣になると、カメラも変幻自在に動いている。何の変哲もない空き地で、よくあんな映像が撮れるもんだと、感心しきりなのであった。ついでながら、Jaspion という綴りから文字を少し抜くと Japon になる。これが意図されたものかどうかは、よくわからない。

8 月27日、上空に速い気流が戻って来て、うろこ雲が出た。ええと、気流が速いだけではダメで、ある一定の高度で垂直方向に気流の速さの違いがあって、なおかつ空気の密度が高度とともに指数的に減衰して、と、色々と条件があった上で、あんな波のような雲が安定して出るらしい。うろこ雲の面白い所は、その流れる速さ。時として地上の雲を追い越してしまうほど速い。昔、このような気流の速さを報告した人は「そんなバカな」と、周囲から否定を持って迎えられたそうな。これがサイエンスでは大切なことで、周囲から「いい仕事だね」と言われた瞬間に、もう、終わっているのである。本質的に新しいものは、一般的に理解されないものので、まずは周囲から「無意味だ」という否定で迎えられるものだ。

8 月26日、機械工学を学んだことがないので、エンジンの出力は単純に回転数に比例するようなものだと思い込んでいた物理屋である。普通に自然吸気でも、そのようにはならなくて、タービンが付いていると更に事情が異なって来るわけか、なるほど。タービンついでに、ジェットエンジンの場合、タービンが超音速にならない限り、対気速度と共にドンドン出力が大きくなって行くとか。こう言う話を聞くと、熱力学や流体力学は「使う」学問なんだなーと思う。じゃあ統計力学はどうなんじゃ?というと、ちょっと心もとない。イジング・エンジンでも作ってみようかしら。タイヤで動く機械には貢献できそうにないけれども、プランクトンくらいのサイズのマイクロマシンには貢献できそうな気がする。

8 月25日、夕方とは言っても30度は軽く超え、夕日もギラギラと刺す中、結婚式場の前で「前撮り」が行われていた。ウェディングドレスとタキシード姿、そして日傘、周りをスタッフが取り囲む。親族も入れて、総勢 10 名ほど。そして、クライマックスが「青信号横断風景」の撮影。車道で撮影すると、確かに、見通しの良い写真が撮れるのである。一般人がゲリラ撮影したりするけれども、右折車がいつやって来るか見当もつかないので、ちゃんとスタッフが付いて、路上撮影許可を取って行わないと、誰かの命に関わる危険がある。プロは、涼しい顔で撮影してたなー、カメラマンはああじゃなくちゃ、と、見とれてしまった。一番偉いのはやっぱり新郎だろうか。中は汗だくなんだろうなー、顔は涼しく写っていたけれど。ともかくも、この暑い中に、路上撮影に出るというのが、なかなか素晴らしい。なお、早朝、朝日の下で撮影すると、通行人も少なくてスッキリ撮れる。スタッフが、朝早くから集まれれば、の、話なのだけれども。

8 月24日、トンボの羽。あのギザギザした羽は、薄く長い羽を得るために「空力を犠牲にして」強度を得ているのだ ... と、今の今まで信じていた。いや、ちゃんと風洞で調べた実験結果によると、ギザギザしている方が、あの大きさでは揚抗比が高いことが知られているそうなのだ。自然恐るべし。じゃあ、あの体の左右に2枚ずつ並んでいる羽の構造は?肉眼で見る限り、羽を並べてスイスイと飛んでいるようにしか見えないのだけれども、スロー撮影すると、あら不思議、滑空している時もあれば、前後の羽の位相をズラして羽ばたく時もあれば、揃えて一気に打ちおろす場合もある。全部で4枚揃って、初めて実現可能な飛び方だったのだ。そこで、ムラムラと実験してみたくなったのが、潜水用のヘリウム酸素混合気の中で、トンボ様に飛んでいただくこと。うまく飛べるだろうか?

8 月23日、ディラックがまとめた量子力学の教科書、あれの元ネタの一つが、Proc. Roy. Soc. に投稿された数々の論文であることを知った。量子力学の初期の段階で、どのような考察がなされたのか?ということを調べてみて、何かそこに「物理屋のウンチク」が転がっていたら、科学英語の資料として使えるんじゃないかという、そんな魂胆で調べたわけだ。意外なことに、当時の Proc. Roy. Soc. では「いきなり本題」という論文も OK で、今日のように前書きだとか、論文の意義の宣伝などは不要というか、ゴタゴタと宣伝しまくるような振る舞いは良くないとされたようだ。戦後は Phys. Rev. にも投稿している。少しばかし、ゴタクを並べるスタイルも見えて、興味深い。ディラックを追ってみようか? (Gibbs を追うという、困難な作業も面白いかもしれない。あの英語は、とても読み難いからだ。)

8 月22日、「生涯メール」と検索すると、大学で「所属の付いたメールアドレス」を使い始めるという実態が見えて来る。この流れが定着するのかどうかは、よくわからない。学生の頃のメールアドレスが、そのまま使えるというパターンや、新しくメールアドレスを与え直すパターンがある。長らく続いてきたメールのシステムが、このまま続くのかどうか、それも自明なことではないけれど、しばらくの間、惰性で「昔ながらのアドレス」を使い続けられることは良いことだ。SNS でさえ、個人の識別は電話番号やメールアドレスに頼っているのが実情だ。なんか、この辺りは、社会のバックボーンとしては、そろそろ時代遅れな気もするのだけれども。

8 月21日、オリンピックの最後近い開催種目、新体操の監督インタビュー、あら、この方はどこかで見たことがある。ゲオルギエバなど東欧勢全盛期に現役で頑張っていた山崎選手ではないか。でも、ちょっと待てよ、どうして、あれだけの有名人が、消えてしまったんだろう?と、不思議に思って調べてみて、まあ納得したような、しないような。あの頃は、大学の中でも、堂々とアンケートしてたよなーと、そんな思い出が。関連して、古い記憶がよみがえって来る。とある近畿の有名大学の学園祭で、宗教団体の演説会があったとか、当時通っていた学部の数年上の先輩がそこの幹部になったとか、あれや、これや。まことに、大学生から社会人へと至る時期は、様々な勧誘があって人生を左右され易いものだと思う。研究室のソファーで、ノンビリ昼寝をするのが、安全な大学院生活と思わないでもない。当座の間は。

8 月20日、こうべ海の盆踊り、の日で、人出の多い神戸周辺であった。夏祭りも、これで最後という風情だろう。が、しかし、浴衣を着て屋外を歩いたりするには、ちと酷暑なのである。それで更に群れようというのだから、よほどムレムレが好きなのである、日本人(?)は。付き合ってられないので、涼しい本屋で、最近の出版のトレンドなど情報収集する。本の表紙が、こちらに見えるように陳列されているもの、複数の在庫が用意されているもの、手に取れる目の前の段に置いてあるもの、それが売れ線である。自分の著書が、そこに置いてあったら、ちょっと嬉しい。嬉しさのあまり、自分で買ってしまうこともある。本は人々に何かを「まとめて」宣べ伝えるために書くのである。時を超えて残る本を目指したいものだ。

8 月19日、MacOS で、写真のプレビューを何回も繰り返すと、キャッシュ領域を使い切ってしまうようで、途中から画像が表示されなくなる。こうなった場合の対処法は?と、調べてみると、ファインダーを再起動すれば良いとある。試してみると、確かに、うまく表示されるようになった。仕事に使っている iMac は、2台目のディスプレーが cinema display で、そちらの方か解像度が低い。最近では、この低解像度 display を眺める度に、なんかボケてるなーと思うようになって来た。... とか、何とか言ってる場合じゃなくて、お盆ボケから早々に復帰しなければ。さあ書き込み書き込み。

8 月18日、今日、新たに学んだこと: マジックのネタとして、偏光板が使われているのだそうな。高校で学ぶ物理、恐るべし。大学の物理にはない「応用」の視点の一つだ。そういう視点で、何かエエことないかなーと、一生懸命考えて、エエと、中身が全くないけれども、札束が詰まっているように見えるホログラム財布なんて、心を温かくするのに良いのではないだろうか?など、無駄なことを考えて時間を潰す。どちらかというと「見せ金」の一つとして、詐欺に使える道具になるんじゃないかとも。不思議なことに、通帳に書いてある「単なる数字」の方が、目の前の現金よりも信用される世の中なのである。いやいや、そもそも、管理通貨というものに信頼を置くとロクな目に遭わないのである。教員をリタイアした後にも「毎日稼げる」ように、今のうちから芸を磨こう。

8 月17日、初等・中等教育における、英語の教員を「育てる」方法を考えよう。というのも、校務やらクラブ活動の顧問やらで夏も忙しくて、大学の教員のように「授業のない期間に海外出張して専門を鍛える」という機会に乏しいように見えるからだ。お盆休みの間に、ちょっと観光旅行するというのは全然ダメで、せいぜい交通機関や宿泊の手配のやり取りくらいしか会話しないノラリクラリとした日々を送るだけだ。語学教育について、とか、ナントカ語のナントカ方言についてとか、ともかく、それぞれ、専門意識を持って研鑽を積む、その過程で「道具としての英語の使い方」を会得する、そういう機会を十分に与えて、働きながらスキルも伸びて行く、そんな現場が実現できれば、もっと外国語教育も充実するだろうに ...

8 月16日、お盆休みも、今日でおしまい。休みとは言っても、休んでいるのか、休んでいないのか、よく分からない。海外からは、プレプリントが降って来るし、ついでにレフリーも回って来る。レフリーはというと、通すか落とすか、ハッキリしているものは、コメントし易い。雑誌社のスタンダードに比べて、少し内容のクォリティーが低いんじゃないかと思える場合に、難儀する。中身の評価というのは「言葉を添えれば、どうにでもなるもの」だからだ。相手に付き合う気があれば、延々とコメント返すけれども、何の見返りもないのに、そこまでエネルギーを注げるかどうか、というのは、ちょっと疑問を感じることもある。まあ、物理コミュニティーを保つためのボランティア活動としての意義は、大変に大きいのだけれども。さて、言い訳せずに、サッサとコメントを返そう。

8 月15日、うどんの、茹で時間、何分と書いてあるのを見てしまうのだけれども、これはあまりアテにならない。加熱の状況や、湯の量や、鍋の沸騰具合など諸条件で、麺の茹で上がり速度が異なるからだ。何となく麺に透明感が出てきて、でもまだ芯っぽさが残っている所で火を落とすと、あとは模様眺めしながら好みの硬さの所でザルに上げることができる。出来上がったうどんには、ダシを絡めて食べるのが良いけれども、甘口の醤油だけでも、まあ何もないよりも十分に美味しい食事となる。カルボナーラにしてしまう、そんな裏技もあるにはある。イタリアンっぽくなってしまうから、普段はやらないけれど。

8 月14日、高松祭りを、久しぶりに見る。あら、音楽が昔とは違う。… 違うというか、編曲されている。我々が知っている「一合まいた」は、既に何代目かの編曲で、元々の盆踊り曲よりも随分と速く、ある意味で演歌化されていたのだそうな。そこから更に、モダンに編曲し直したのが今の曲。「一合まいた」は、どちらかというと裏のサブメロディーとして、こだまするように響き渡る。表に出てるのは、完全にダンスミュージック。まあ何でも良い良い、うちわがあって、高松の市民がドッと「まち」に繰り出せば、それで高松祭りなのである。この、「まち」が唯一の場所であるというローカルさが、高松の実に良い所なのである。

8 月13日、雨乞いをしたくなるほどカラカラの天気である。雑草でさえ、水がないので伸びない。いや、枯れる一方だ。今、緑を保っているのは、地中深くに根を張った木々だけ。ここは、掘れば幾らでも水が出てくる扇状地なので、ひとたびたいぼくになってしまえば、水は幾らでも吸い出すことができる。大昔は、一面が林であった、そんな地なのだ。いつ頃から開けたのかは、あまりよく分からない。阪急電車が、山沿いを走った関係で、どんどん開けて行った、という説もある。つい何年か前までは「六甲の美味しい水」の源泉でもあった、そんなエリアの一角に建つ神戸大学もまた、森の中の大学なのかもしれない。

8 月12日、自転車スプリントの歴史的一場面、中野浩一 vs ゴードン・シングルトン、ふと思い出して動画を見る。この場面は、数多くのカメラで撮影されていて、ゴール側から判定のために撮影された映像もある。これを、日本側から編集したものと、カナダ(イギリス?)側から編集したものを見比べると、映像の編集意図というものが明らかとなる。アナウンサーのコメントについては、ことさらに言うまでもない。なお、勝負は勝負として、ゴードン・シングルトンはカナダでは「伝説の人」として自転車関係者の語り草になっているそうである。随分と、地元での自転車競技を底上げした一人者であることは間違いないらしい。そういう検索を経て、数々の中野浩一の競輪映像を見るに、やっぱり天才というのは群を抜く存在なのだと、改めて思った。

8 月11日、トマトを冷やして食べる、あるいはトマトスープにする、これだけでは飽きて来るので、今日はホットトマトにしてみた。焼きトマトという手もあるのだけれども、それはトマトスープと大差ない味わいになるので、焼けるよりも前、まだ酸味が十分に残っている状態、半生でいただく。畑で、とれたてのトマトの中身の甘い所だけを吸うような、そんな味わいとなる。当然ながら、ミートボールのような肉とも相性が良い。パスタを添えるには、そのままではパンチ不足。パスタ側に、先に味を乗せておくと、なかなか美味しい。ともかく、夏も峠を越えかけると、トマトが大量に出回って、ありがたいこと限りなし。トマトが赤くなると、医者が青くなるともいう ... あれはリンゴだったか。

8 月10日、今日は、日傘をよく見かける日だ。神戸大学では ... (でも?) ... あまり日傘を見かけることがない。日傘を差して歩く人々の行方を追うと、お隣りの大学に吸い込まれて行くことが多い。では今日、キャンパスの中で日傘を見掛けるのはなぜかというと、高校生が見学に来る日だから。オープンキャンパスの日だ。一応のところ、大学を見学していただいて、その雰囲気を肌で感じてもらうという目論見だ。「神戸大学を」というよりも「大学を」というのがポイントだろう。昼間から、何をしてるのか良くわからないオッチャンがウロウロしてる、そんなアカデミックな雰囲気は、どこの大学 (の理学部) にも共通するものだと思いたいものだ。ちなみに、鍛えられているのは受け入れ側なのかもしれない。お客様を多数お迎えする、という経験は、日常の教育研究では、稀なことだからだ。今日1日、いつものように、何事も平和な内に終わりますように。

8 月 9 日、ネットワーク設定でコケた。ルーターの設定を web ブラウザで行う、というマニュアル通りの作業を始めると、ユーザー名とパスワードを要求された。機器のパスワードは、直前に設定してあったので、それをコピーするだけ。問題は、ユーザー名。妙だ、そんなものは通知もなかったし、事前に決めもしなかった。いろいろ試してギブアップ、サポートに電話すると「その欄はデフォルトが user です」との返答が。認証する画面にユーザー名とデカデカと表示しておいて、そこにわざわざ user と入力せよ、という、実に有難い御指示であった。なるほど、こうやって「裏の裏をかく大胆さ」をもって、セキュリティを強化しているのだ、と、強引に納得して ... 納得できるモンかい! まあ、無益な問答は控えることにしよう。

8 月 8 日、トマトを「湯むき」する、という調理方法について。「皮をむくだけなんだから、包丁でむけばいいではないか」と、思ってしまうかもしれない。確かに、1個や2個のトマトをむく時、わざわざ湯に通すのは、手間がかかるばかりだ。でも、トマトを湯に通すと、表面の美味しい部分を完全に残すことができるし、その部分の酸味を抜いて、甘みを増す効果がある。特に、甘みの強い品種で、湯むきの効果が顕著だ。と、いうわけで、秋風が吹く頃までこれから先、甘いトマトがドンドン出てくる季節には、毎日のように湯を沸かすのである。疲れた時には、湯むきトマト。覚えておいて損はない。少し fat な食べ方になるけれども、塩とオリーブオイルをかけても美味しい。梅酒と合わせても良い。

8 月 7 日、沖縄の辺りに熱帯低気圧がある。周囲の海水温を見ると、発達するのに十分かと思われる温度になっているけれども、あまり低気圧が発達するセンスがない。寒冷低気圧直下に発生した熱帯低気圧は、なかなか発達しない、という言葉通りだ。高層天気図を見ると、発達した台風の場合、上層では暖気の印 W が中央に描かれていて、上層まで暖かい空気であることがわかる。また、風は吹き出しが主になる。今の沖縄の上空はというと、閉じた寒気の L マークだ。これでは、上にフタがあるようなもので、局所的に雷雨が発生しても、大きなスケールでの発達は望めないわけか。

8 月 6 日、フェルマーの大定理が証明された、という事について、実は、それは、少なくとも初等的な数学を学ぼうとする人々にとって、良くない出来事出会ったのではなかろうか?と、思う所がある。特定の次数について、a^n + b^n = c^n を満たす整数あるいは有理数解が存在しないという証明は、場合によっては容易にできて、それをフォローすれば、ちょっとした達成感の後に「他の n でもやってみよう」と、次の一歩を踏み出す原動力となる。その次、その次、そして「オレが証明してくれようか」という、最前線への挑戦意欲も高まるわけだ。... 高まっていたわけだ。それが、一般の n で証明された ... ということになると、何となく「もういいや」という風が吹かないとも限らない。少なくとも、アマチュアのレベルでは。いやいや、もっと簡単な別解が、どこかに転がっているはずなんだが ....

8 月 5 日、ひと夏の思い出、などという言葉がある。ええと、大学で働く身になってみると、だいたい人々が「夏」と言ってる頃には様々な行事が詰め込まれていて、ゆっくり休もうにも機会がない。では、いつ「夏休み」がやって来るのかと言うと、ええと、夏休み来ないなーと思っている間に秋風が吹き始めてしまうのだ。海にも山にも行ってないなー。あ、長野にはチョイ、出かけたか。ただし「山」というほど、山に登ったわけではない。海は、ええと、神戸は海辺の街だから、行かなくても、そこに海がある。じゃあ夏は何なのかというと、やっぱり食い物で楽しむことになる。そろそろ、メロンが終わって、モモもお盆まで。次はブドウや梨。そしてリンゴと続く。この間に、一瞬だけ、ネクタリンだとか、イチジクが出てくる。スイカも、日照が少なくなって来るお盆には、おしまい。ま、それでいいか、食い物に勝る季節の楽しみナシ。

8 月 4 日、非ユークリッド幾何学の中でも、曲率が負であるロバチェフスキー幾何学 (?) は、平面幾何で成立する定理の一部が「そのまま」の形で通用することがあって、面白い。ひとたび、そういう物の見方ができてしまうと、平面上の幾何学の演習問題などを目にした時に、「これは負曲率の曲面上でも成立することなのだろうか?」と、余分な考察をしてしまうのだ。角度を巻き込んだ形になる相似という考え方については、あまりうまく拡張できない場合が多い。こういう拡張について考え始めると、ついつい「量子幾何学って何やねん」と考察を広げてしまう。もちろん、Quantum Geometry という研究分野はあるんだけれども、そういう話ではなくて、単純に定規とコンパスを使う、ユークリッド幾何学の「量子化」なのである。量子円、量子直線、量子角。... なんやねん ?!

8 月 3 日、枝豆を茹でる時には塩のはいった湯を使う。せっかく湯があるんだから、他の野菜も茹でようと、ブロッコリーを投入してエラい目に遭った。ブロッコリーは、とても水を含みやすい野菜なので、湯の塩味が「そのまま」移ってしまうのだ。塩辛いブロッコリーの出来上がり。夏だから塩味もいいんじゃないか?と無理に理由をつけて食べてみたけれども、やっぱり、ただ塩辛いだけだった。水を含み易いだけでなくて、噛んだ時に、その塩味を直接的に感じてしまう所にも、この塩辛さがあるんじゃないかと思う。同じくらい塩を含んでいても、パスタやうどんの場合、そのまーま何も感じない内に胃袋に入ってしまう。これが、健康に良くないとされる、塩分の摂りすぎの一大原因ではあるのだけれども。

8 月 2 日、球の表面積と体積の関係は、円錐や角錐の底面積と体積の関係と密接な関係がある。これは、球を、その中心を頂点とする多数の角錐「もどき」に分解してみればわかる。これは、積分という考え方の入り口になっているのだけれども、初等教育では、もちろん取り扱わない。「もちろん」と書きはしたけれども、円の面積と三角形の面積の関係については、小学校の教科書にも「考え方」として示唆されている。さて、表面積と体積の関係は微妙なもので、体積は有限だけれども、表面積は無限大であるという実例を作ることができる。直感的には、シワシワの立体。では、体積が無限大で表面積が有限の立体は?これは、全空間から球を「くり抜いた残り」がそうだ。もっとも、そういうものを「立体」と呼ぶかどうか、その定義も問題になって来る。ここいらで、有限だとか無限だとか、面積や体積の定義が必要になって来て、「仕方がないから」測度を学ぶのである。物理学をやっている限りの話なのだけれども、その手の「仕方なさ」に遭遇した試しがない。

8 月 1 日、レンズを取り付けて遊ぶのに適当なカメラは?と、探している内に、レンジファインダーを持つ「一眼レフではない」フィルムカメラが面白そうだと思い始めた。フランジバックが小さい光学系なので、オールドレンズでも何でも来いだし、モノクロフィルムを入れると、レンズの性能そのままがフィルムに結果として残る。そんな面倒なもの、どうやって使うのか?というと、デジカメを持って行って、同じ F 値に絞って、iso 感度を設定して、シャッタースピードを「カンニング」す流のだ。こうすれば、フィルムカメラのシャッター速度も決定できてしまう。今まで、そんな事にイチイチ気を配らなかった。同じトレーニングは、デジカメを、わざわざ、フルマニュアルのMモードで使えば体験できるのであるが。

7 月31日、弾丸旅行の長野、これで盆前の予定は「おおよそ」終わり。帰りは道草して「そのままの現地時間」を楽しみたいものだと思っていたけれども、睡眠不足で「移動しつつ眠る」作戦に切り替え。長野土産は何にしようか、と、見て回ると、さなぎ、ハチの子、イナゴ、ザザムシ、昆虫の佃煮が目に入る。が、一人で食べるのなら興味深い食べ物なのだけれども、土産として歓迎されるかどうかは、このご時世、よくわからないのでパス。栗が比較的コモンなようだったので、栗のお菓子にした。野沢菜漬けも、申し訳程度は仕入れた。土産にしなくても、いつでもどこでも、スーパーで買えるからね。結局、名古屋で途中下車してウイロウを仕入れ、京都の駅中で八つ橋を仕入れ。最近は、改札を出なくても、何でも手に入るね。

7 月30日、昔は、関西から長野行きというと、名古屋からギシギシ、ガタガタと振れまくる振り子電車に乗って、ようやく到着という長旅であった。北陸新幹線が出来たので「お金さえ積めば」東京経由で、あるいは少し遅いけれども金沢経由で長野に入れるようになった。が、貧乏人に選択肢なし。さて、二十数年ぶりに名古屋から特急「しなの」に乗ってみると、あら随分と快適な車両に。それでも、長野電鉄に乗り継いで湯田中へ、そしてバスで志賀高原の蓮池・丸池まで到達する頃には、もうへとへとになっていたのであった。実は、神戸から「趣味で」ずーっと立ちっぱなしだったのだ。立っていると列車の状況がよくわかるのだ。そして翌日は、夏の学校で、予定していた3時間の講義。夜は、解放区と化したロッジで、かなーり遅くまで、どうでも良い活動に勤しむのであった。聞くところによると、皆さん、そのまま朝焼けを迎えたそうな。

7 月29日、3時間で「テンソルネットワーク」らしいものを垣間見てもらうには、どうすれば良いだろうか?という課題、しばらく考えてみて、結局のところ行列積状態からのアプローチは、3時間の板書では最終結果まで辿り着けないであろう事を悟る。強引に進めれば話は別なのだけれども、あくまで理解を求めたいのだ。従って、特異値分解が終わった所で、一気に Tensor Entanglement Renormalization Group (TERG) へと進める事にした。こうすれば、繰り込み群との関連も自然に入って来る。まあ、こうして計画していても、本番では意外な展開が待ち受けているものだけれども。

7 月28日、世の中、何でもネーミングは大切な事だと思う。売れているスナック菓子は、中身と価格のバランスが取れている事は当たり前として、その上でなおかつ名前やパッケージが印象的だ。さて量子情報の本を開くと、超高密度コーディングなる用語が目に入る。横文字で、スーパーデンス・コーディング。きっと、ものすごーく高密度なんだろうと、誰でも思ってしまう所が肝要だ。実の所は、1ビット送ると2ビット分の情報が送れてしまう、つまり2倍でしかない。それだったら、ちゃんと「倍密度コーディング」つまりダブルデンシィティーと断るべきなのである。が、世の中に広まったのは前述のスーパーデンス。そんなのアリかい?ちなみに、この「倍送れる」という準備のために、予め、もう1ビットを送信しておく必要については、後からコッソリと解説されるのである。そんなの、インチキだろう?! と、揶揄してはならない。世の中、タキオンだとか、誰も見たことも検出したことも、整合している論理を得たこともないグラビトンなど、「これを見て物理に興味を抱きました」と言わせるキーワードに満ちているからである。いやいや、控え目な物理の世界、控え目な理学の世界でこうなのだから、「それ以外の世の中」がどうなのかは、言うまでもないだろう。

7 月27日、枝豆が出てきた。時期的には、ちょっと早い気もするけれども、できる所ではできるんだろう。丁寧に扱うならば、まずフサの両端を切ってから、塩水で茹であげて、ザルに取って水切りする。そのまま、熱いうちにダシ汁か何かにつけ込むと味が移って、冷やしても美味しい。丁寧に扱うならば ... と、言ってられなければ、ともかく茹でればいい。塩味が足りなければ、後から振ればいいい。枝豆は気楽なおつまみだ。同じ枝豆でも、黒豆のものは、もうちょっと本腰を入れて長時間茹でなければならない。なお、枝豆のサヤは、アクが出やすいので、茹でる時にはアクとりのスプーンを用意しておくと、仕上がりが綺麗になる。いやいや、どうせ剥いて食べるのだから、仕上がりなんか気にせずに ... 乱筆の今日である。

7 月26日、雨ザーザー降ってきた、朝の世界は雨とも霧とも雲ともつかない中であった。日本の東側に寒冷渦が居座っていて、西からサブハイが押すと言う上空の気流が、こんな天気に対応している。梅雨時だったら、ジメジメ暑いなーという感想だったろうけれども、今となってみれば、日差しが一息ついて、ちょっと夏の中休みという感じ。さてカレンダーを見ると、もう夏の学校が迫って来ている。長野の夏はどうかなー。私が夏の学校を準備した年は、天候が悪くて、ずーっと霧の中だった。今はそれなりに旅費の補助も得やすい世の中だから、夏の学校も、都市部で開催するのが良いのかもしれない。あ、でも、そうしたら、夜は街に繰り出すことになってしまい、あの合宿のような雰囲気はなくなるか。一長一短だなー、何事も。

7 月25日、体重が、9年前の危険水準まで戻って来てしまった。世の中、美味しいものに満ち溢れているのである。少なくとも、何気なくカロリーの多いものばかりだ。いやいや、環境のせいにしてはならない。要するに、空腹を楽しむことを忘れてしまったのだ。空腹になるということは、健康のサインであるのだから、なるべく長時間、空腹を楽しむのである。ただ、9年前はストイック過ぎてクラリと来たので、今回は「少し楽しむ」のに止めておこう。ダイエットしつつ貧血を防ぐにはポパイの缶詰 ... いや、あれは種類によってはオイルだらけなんだった。グダグダと時間を潰さないで、寝食を忘れて働くことが一番なのである。

7 月24日、「理科に関する資料」でキーワード検索すると、中学・高校で習う理科の科目についての、検討資料がヒットする。昔、理科の教科書って、こんなにぶ厚かったか?という疑問に対して、どういう経緯で今日のように「カラフル教科書にキーワードが散りばめられている状態」へと至ったのか、その一端が見えて来る。細かい所は見なくてもいいだろう。重要なのは、最後の2ページくらい。学習の過程において「理科なら人並みにできるよ」という主観を持ち得るかどうか、その調査の数字が「高くない」のである。この現状が良いのか、良くないのか、即断はできないけれども、自信のないものには、意欲も湧きにくいものだ。素朴な理科に回帰する時代はやって来るのだろうか?

7 月23日、コンビニに、「写ルンです」が置いてあった。デジカメの時代に、フィルム写真なのかい?と思われるかもしれないけれども、写ルンですで撮った写真をデジタルスキャンすると「画質が落ちる」のである。正しく表現するならば、あの砂っぽい粒々の見えるテイストが、完全に塗り潰されてしまうのだ。これは、大きく引き伸ばしてみると良くわかる。銀塩写真だと、引き伸ばすと粒々が見えて来て、何処まででも「それっぽい」のだけれども、デジカメは伸ばすと最後は四角いドットのモザイクになる。しかも、JPEG を使っていたら、圧縮ノイズが見えてしまう。ついでながら「オヤジの世代」のカメラで撮ったフィルム写真の情報量はすごくて、ちゃんとスキャンし切るには一枚あたり 100 Mbyte くらいは優に必要となるのだ。いや、もっと細かく写っていることすらある。アナログ恐るべし。

7 月22日、夏至から1ヶ月経ち、あら、もう秋が迫っているのである。隣の建物のガラスからの反射光が、夕暮れ時に窓から差し込むのが、そのサインなのである。それはそうだ、あと2ヶ月で秋分となるのだ、夕暮れを優雅に楽しむのも、今の内の事と思うべし。しかしながら?、草の伸びは今が最盛期。まだ地面に梅雨の湿り気が残っていて、夏の日に照らされながら、ドンドン成長する。かくして、草ボウボウと化した花壇を眺めて、思案するのである。もちろん、根絶すなら、少し伸ばしてから、引っこ抜いて根こそぎ駆除。しかし、そこまで待つと、伸びすぎてグラウンドカバー用の植物を枯らしてしまう。そういうわけで、今日は、とりあえずの草刈りを断行する。あまり女装の足しにならない作業ではあるのだが ...

7 月21日、宇宙の放射性物質汚染、と書くと、いかにもヤバそうに聞こえるものだ。まあ、ちょっと、落ち着いて考えよう。そもそも、金銀が身の回りにあるのは ... いや、貧乏教員の家に金銀など無い ... 巨星がその最終段階で作った重い元素か、あるいは更に超新星爆発で中性子を吸い込んだ元素か宇宙に散らばっているからだ。そのような核反応を経て作られた物質は、できたてホヤホヤの頃は全く近寄り難い放射能を持っていて、とてもヤバいのである。しかし世の中、うまくできているもので、一億年も経つと半減期の短い放射性物質はおおよそ消え去り、残った半減期の長いものは「半減期が長いだけに」目立つ存在ではなくなり、我々の周囲のようなマイルドな環境が整うのである。こう考えると銀河系は至る所「核汚染」されていて、それが普通のことなのである。

7 月20日、森高千里の ALONE という、カラオケにはちょっと ... いや、だいぶん難しい曲がある。音域が、2オクターブと少し。声を打楽器的に使い、音が飛ぶ。もちろん、難曲であれ何であれ入ってるのがカラオケなので、ちゃんとタイトルを選ぶことができる。(←私はカラオケは聞いても、歌わない人なので、どのみち無縁。)さて、最近になって再収録されたバージョンも YouTube に転がってるので、聴き比べてみる。あれ、何だか雰囲気が違う。絶対音感の無い私は、しばらーく気づかなかったのだけれども、再収録版はキーを下げてあるのだ。しっとりしてて、これもいい感じ。1音の上げ下げで、これだけ曲想が違って来るわけか。ええと、編曲も伴奏もあれもこれも違っているという点は、まあ置いとこうか。... と、聞くばかりではいけない、いけない、さあ、溜まってる書き物を、片端から片付けて行かないと。

7 月19日、梅雨が明けて、日に三度、六甲の坂を登る。事前の予想では暑くて死ぬのではないかと思っていたけれども、意外とクールであった。湿度が低いのかもしれない。空は晴れてるし。神戸上空はともかくとして、昨日あたりから、地球の「こちら側の見えている範囲」の雲が、ものすごく少ないのである。太平洋も、南半球も。今日遅くになって、ようやくインド洋の雲が増えて来た。じゃあ水蒸気はどこへ行ったの?と不思議に思って、水蒸気画像を見てみると、全球真っ白。なるほど、ちゃんと帳尻が合っているわけだ。雨が降るのは、むしろ、乾いた空気が固まっている前面であるというのが、直感的には行かない気象の不思議な一面。今回はどうなんだろうか?

7 月18日、豆腐を買って来て、ダシで加熱する。豆腐の不思議は、加熱すると水分が抜けて縮んで行くこと。異方的に加圧しながら加熱すると、さらにドンドン水が抜けて行き、最後はチーズのように硬くなる。どうしてこうなるの?と検索して調べると、続々と情報がヒットする。人類の存亡がかかっている食べ物だけに、情報は豊富だ。豆腐を絞ったカスの、おから、昔はよーく、たくさん食べたものだけれども、今はオカズにちょっと乗っているかどうか。ほとんど、飼料か何かになっているのだろうか?これも検索。えーと、えーと、廃棄物扱いだったり燃料だったり、まあ、あまり実態が浮かんで来ないものだ。生産側ではない情報は、あまり出回らないものらしい。

7 月17日、昨日撮影した画像をしげしげと眺める。そして、選択する。これが難しい作業なのだ。一番の原因は、液晶画面の再現性。ノートパソコンは、一般的に、ここが弱いのだ。色や明るさの階調が潰れていて、どこまでが黒なのか、どこから灰色なのか、そしてまた、どこで白飛びしているのか、ヒストグラムでも見ないと判別がつかないのだ。最近の 4K, 5K の iMac は、この点は、まあまあクリアしてくれている。それでも、完全ということはないので、やっぱりヒストグラムからは目が離せない。この、再現性の悪さが「どっちの写真がいい?」という判断に微妙な影響を与えるのだ。ああ、めんどくさい、そして、ああ楽しい。

7 月16日、久しぶりに梅田へ行く。行き先は、ハービス大阪。ここが、あまり足を運ばない私のような人々には鬼門。地上からアプローチするのが、多分あまり外さない方法なのだろうけれども、日中の大阪の路上を歩く気には、なかなか。涼しい風に誘われて、地下に入ってしまう。さて、無事にハービスと書いてある看板が並ぶ地下道へ出たとしても、そこから先には平行する地下道という困難が待ち受けている。そして、長ーいハービス大阪のどこに、どんな店舗があるのか、確認しながら歩いて、ようやく目的地へ到達する。そんなの、スマホがあったら一発でしょ? ... 持ってない私は、やっぱり縄文時代の人間なんだろうか?

7 月15日、テンソルネットワークの会議は今日までなのだけれども、今日は神戸の職場で会議があるので戻って来た。神戸は薄曇りの晴れ。聞くところによると、千葉では土砂降りだったそうな。さて、しばらく大学の花壇を見ない内に、随分と草が茂ってしまっている。ここまで育ったら、もう、ペンチでも持って来て抜くしかない。特に、あのススキはどうしてくれようか。ちょっとでも手で抜こうとしたりすると、直ちに腕が傷だらけになってしまう。やはり、もう一度、ハサミの出番だろうか、手作業に移る前に。毎日少しずつやることにしよう。焦っても仕方ない。

7 月14日、夕方の東京は雷雨で土砂降り。稲妻の光景を久しぶりに目にした。こう言う中でも、街頭に立って働く人々は居る。お巡りさんだったり、警備員だったり。びっちりと雨具を着込んではいても、足もとはビショビショ。… というか、道路が川と化しているではないか。平らな地面に雨が降り注ぐと、こうなるという典型だ。これで、交通が乱れないことを祈ろう。東京はどうして、こんなに水が湧きでるんだろうか。いやいや、もっと不思議なことは、人が「湧き出る」ようにスペースをふさいでしまうことだ、ちょっとした雨やら雪やらで。

7 月13日、新潟から「同業者」がやって来て、ここ柏でたむろしている「連中」も含めて、幾つかのことについて次々と議論する。ああそうか、そうやって計算すれば、あの量が簡単に求められるのだ、と、暗号じみたことを書いておく。ちょっとした思いつきというものも、一人で悶々としていては浮かんで来ないものだ。discussion は、こうでなければならない。ただ、同業者が集まると、ダメ情報も同じように聞くことになる。やってみたけれども、うまく行かなかった、という類の情報。そういうのも、まあ、聞いて溜め込んでおこう。

7 月12日、夕方までセミナーを聞いていると、日常の仕事はついつい、深夜になってしまうものだ。私の性格上、難儀なものほど後回しにするので、最後は眠気がキョーレツに襲って来た頃に、あくび連発で書類の仕上げなど行うことになる。そうやって、苦労して作ったものも、翌朝よくよく見ると、全然ダメ。いや、見るまでもなくダメ。要するに、文書というのは刀と同じで、クリアな頭で執筆し、またその技量も常に磨いておかなければ、イザというときに役立たないのである。よし、今日からまた、何でもいいから1ページずつ書くぞ。文書書きは積み重ね、積み重ねなのである。

7 月11日、明るいカメラレンズで、随分と助かっていることを書いたばかりだけれども、レンズ付きフィルムでは、そういう好条件が期待できないにもかかわらず、バッチリと目的の写真が写ることがある。あの、何もかも違う外見の中に、どのような使い勝手が潜んでいるのだろうか。現像の工夫が凝らされているのか、それとも、元々のフィルムの感度が高いのか。特に、モノクロのものが秀逸。古びた写真に見えるからなのか、多少の焦点のボケなど気にならない。また、白黒ならではのコントラスト調整が後から結構自由にできて、完全にミスったような写真でも、面白さを発見できることがある。枚数が枚数だけに、いつでもシャッターを切るという訳には行かないのだけれども。

7 月10日、ガラス越しの夜景というものは、こちら側、室内側の照明が反射して、あまり綺麗に見えないものだ。写真に撮る時も、可能な限り窓に寄って、できれば覆いで室内からの光線を遮って …. と、工夫しなければならない、と、思い込んでいた。実は、室内からの光は短距離なので、F値の小さなレンズで撮影すると、画像が黒浮きするだけで、そんなに妙なことにはならない。また、この黒浮きは、後でだいぶん修正できる。修正のことまで真面目に考えると RAW 形式で撮影することになる … これは容量が増えてしまうので、ここぞ、というキメの時だけの作業なのだけれども。夜景の撮影が、より、色々な場所からできるかも。

7 月 9 日、気象庁のレーダーには「雨粒」しか映らない、ということを実感する一日であった。一歩外に出ると、そこは霧雨の世界。周囲から、まとわりつくような霧雨が肌に吸い付いてくる。しかし、気象レーダーには、全くエコーなし。何も降っていないはずなのである。どうして、こんなことになるのか?ということは、使われている電波の波長を考えると明らかだ。マイクロ波かミリ波しか使わないので、レイリー散乱で雨粒(の集合)を捉えるのである。もし、雨粒よりも波長の短い電波を使えば、直ちに視界が遮られてしまって、レーダーとしては使い物にならない。結果として、雨粒が小さければ、じっとり濡れるほど降っていても、エコーが出ないのである。まあ、仕方ないか、と、思うか、チャレンジすべきリモートセンシングの問題と思うか、それは人それぞれだろう。

7 月 8 日、乗り物は、色々な経路で乗ってみないと気が済まない性格なので、秋葉原まで行って浜松町からモノレールに乗れば楽な所を、わざわざ北千住から日比谷線に入って、人形町から都営浅草線で羽田までやって来た。空港快速に乗ってからは、スムーズであったけれども、もう一度トライするか?と言われると、ちと微妙だ。まだ羽田はマシな方かもしれない。国際会議参加者の一部は、成田空港から帰国する。柏から秋葉原へ行って、適当にその辺りで乗り換えて、成田エクスプレス。何だか虚しい乗り方だ。本当は、案外近い距離関係にあるのに。

7 月 7 日、久々に牛タンを食う。ショッピングモールの中に牛タンの店があったお陰だ。テールスープ、麦飯、牛タン焼き、漬物。相当の塩分を摂ったことになる。気にしないでおこう、美味しいものは、リラックスして美味しくいただくのが一番だ。麦飯のおかわりはいかがですか?、さすがに、入らないのであった。これが年齢というものか。いや、絶対に最初から盛りが大きかった。柏スタンダードの「盛りの大きさ」というものがあるんだろうか、都心から東へ向かうと、段々と飯の盛りが大きくなるような気がする。そういえば、仙台も食い物に関しては大盛りだったなーと。住んでる人々が、関西よりも、少しずつ体格がいいことも関係しているか。… ということは、最初の「年齢か」というコメントは撤回することになる。まだまだ、いけるぞ!

7 月 6 日、どこでも、3日住めば何とやらという言葉がある。柏の物性研の周囲の「いい所」も、じわじわと感じつつある。関東一円が東京の都心のように気ぜわしい場所なのではという先入観があったのだけれど、なんか、ノンビリしている。秋葉原まで電車で30分、大阪から神戸くらいの距離で、随分と違うものだ。空が広くて、要するにアクセスの良い田舎。もっと昔は、なーんにもなかったけれど、ショッピングモールができて、陸の孤島という感じは薄れた。夕日の日の入りも見える。どういうわけか警察の拠点がある。じゃあ、ここに住みたいのか?と、問われると、「絶対に神戸がいい」と、即答する。(←個人的感想です。)

7 月 5 日、西日本では蒸し暑さが渦巻いているだろうと思いつつ、実は肌寒い千葉の柏の天候に異国を感じるのである。もともと、あまり人が住んでいない場所なので、雰囲気としては神戸に浮かんでいるポートアイランドや六甲アイランドの南半分に似ている。夕暮れ時になると、人気 (ひとけ) がなくなる。ただし、大学や研究所に頑固に張り付いている人が夜通し居るのは、こういう場所のお約束のようなもの。それでも、実は、研究室で「夜遊びする人口」が減ったのではないかという気がする。昔は、ゲームするにしても何にしても、どこかに集まる必要があった。今は、ネットが使えるから、繋がってさえいれば、とりあえず一人ぼっちにはならない。結果として、徹夜組が減ったのかなーと。もちろん、徹夜組はまた、昼寝組でもあるのだけれども。

7 月 4 日、つくばエクスプレスに乗って柏の葉?までやって来る。この位置にある物性研にやって来るのは、実はこれで2回目だ。以前、六本木から移転したての頃に一度やって来て「不便で、何もなくて、懲りた」ので、それ以来、可能な限り訪れないようにして来た。東大の他の場所や、京大で研究会が開かれる機会もあるからだ。今回は、テンソルネットワークの研究会があるということで、久々に物性研へと足を運んでみた。まず、随分と交通の便が良くなった。秋葉原から電車で 30 分と、バス 10 分、駅からは徒歩でも良い。まあ都心から一時間もあれば到達するとは、隔世の感がある。他の研究所も次々と出来て、何だか ETH Zurich みたいになって来た。牛が居ないのが、ちと寂しい。建物がまっすぐに並んでいるのは、昔の「滑走路」の上に建物を建てたからだとか。

7 月 3 日、面と向かって話すこと、これには様々な要素があると思う。猿の飼育は、これが難しいんだそうな。一度、嫌いになられてしまったら、世話をしてもソッポを向かれるとか。では、学生と面と向かって話してますか?と問われると、これがまた難しいのである。セミナーなんか、やってる時には「目を見てはいけない」。目が、「私は理解しているんです光線」を出すのである。これに騙されるとロクなことがない。本当に理解しているかどうかは、問い詰めてみればわかるので、わざとソッポを向いて、言葉を空に出すのである。きっと、変人だと思われていることだろう。

7 月 2 日、文章を読むこと、これには様々な要素があると思う。文章とは、そのまま、書いた人の思考が現れるものである。もちろん、文章を思いのままに書くことには訓練が必要なので、「そのまま」というのは「書いた人の文書能力も含めて」そのままという意味である。読み手に届くかどうか、あまりわからないような書き方の場合も、その「わからなさ」の中に、周囲への配慮が現れていたり、現れていなかったりするわけだ。色々な情報を多角的に、できるだけ読み取る、その努力は教員の務めの一つだ。頑張るぞー、と、自分にカツを入れる。

7 月 1 日、何事にも点検は大切である。まっさかー、と、思っているような箇所に、誤りというものは混ざり込むのである。プログラムを組むにあたっては、まず自分を信じず、自分が組んだプログラムが正しく動いているかどうかを、幾重にも確かめる仕組みを仕込んでおく。セグメント違反が出るようなことはしない、というのは今日では笑い話か。現代では、いじれない変数はいじれないように宣言する、そもそも変数ではなくてオブジェクトと考えて、脈絡のない計算は排除する、そういうプログラミングの時代となった。どうやら、手書きの数式を見たら、それを計算してくれるソフトウェアというのも、簡単なものであれば実現できるようになって来た。数式ではなくて、自動会計・自動レジなんてのも。なんか怖いのは、生れ落ちた瞬間に「自動優良可判定」なんかされそうな時代が、そんなに遠くないような気がすることである。よし、時代を先回りして「プログラムを破壊するプログラム」を作ろう。コンピューター消滅党、なんか作ろうかな?!


2016
1 月と 2 月 (共形情報編) 3 月と 4 月 (朝型昼型編) 5 月と 6 月 (昼夜逆転編)

2015
7 月と 8 月 (机前執筆編) 9 月と10月 (講義ゼミ編) 11月と12月 (懐古探訪編)
1 月と 2 月 (赤筆修正編) 3 月と 4 月 (客人来神編) 5 月と 6 月 (地球半周編)

2014
7 月と 8 月 (離陸着陸編) 9 月と10月 (玉翠準備編) 11月と12月 (テンソル編)
1 月と 2 月 (雪面滑降編) 3 月と 4 月 (花粉飛散編) 5 月と 6 月 (東奔西飛編)

2013
7 月と 8 月 (大橋渡海編) 9 月と10月 (激変日常編) 11月と12月 (印度華麗編)
1 月と 2 月 (感冒養生編) 3 月と 4 月 (東西奔走編) 5 月と 6 月 (枯野夢旅編)

2012
7 月と 8 月 (高空気流編) 9 月と10月 (次々行事編) 11月と12月 (入国管理編)
1 月と 2 月 (厳冬感染編) 3 月と 4 月 (電圧発光編) 5 月と 6 月 (渡西来鴨編)

2011
7 月と 8 月 (飛行少年編) 9 月と10月 (鮮魚包丁編) 11月と12月 (場論執筆編)
1 月と 2 月 (鳥撮光学編) 3 月と 4 月 (日々激震編) 5 月と 6 月 (研屋鍵盤編)

2010
7 月と 8 月 (転地養生編) 9 月と10月 (研磨没頭編) 11月と12月 (涅槃煩悩編)
1 月と 2 月 (蛇行氷上編) 3 月と 4 月 (桜花観光編) 5 月と 6 月 (屈折望遠編)